◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元~四年)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
〝三馬按、三芝居看板ヲ受継タル順当ハ
元祖 庄兵衛清信 四代 清長 清満門人也
二代 清倍 清信男也 五代 清峯 清満孫也、今清満ト改ム。清長門人也。
三代 清満 清倍男也
三代清満ノ実子ハ、浮世絵ヲ学バズシテ縫箔屋ヲ業トシ、和泉町ニ住ス。仍之清長姑ク看板絵
ヲ相続セリ。其縫箔屋ニ忰アリテ、清長門人トナリ清峯トナル。今二代目清満ト改テ三芝居番
附絵、看板ヲ画ク。是即三代清満ガ為ニハ実ノ孫ナリ〟
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③291(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
「鳥居清信系譜」〝 (鳥居清長の項)清長門人〟
〝五代目 清峰【後至天保今、清満と改む、清長門人也、寛政より、享和、文化、文政、今至天保住居和
泉町】三代目清満の実子は浮世画を不画して、縫箔屋を業として、和泉町に住す、仍之、姑く看板画を
相続せり、其縫箔屋の悴有、清長門人となり、画を学び、清峰と名のる。
今二代目清満と改て、三芝居番附画、看板を画く、是則三代目清満が為には、実の孫なり〟
〝清峰は、文化の始より文政の始め迄、凡八九年の間、錦絵草双紙【合巻と云、絵表紙の三十丁物、文化
三四年比より専ら流行す】の類、浮世美人絵等多く板刻して、世に知る処也、歌川豊国の画風に傚へり、
清長歿故して、芝居の看板、番附画を継受てより、清満と改む、板下画は悉く止たり〟
〈清峰の清満襲名に関して、「至天保今、清満と改む」とある一方「清長没故して、芝居の看板、番付画を継受てより
清満と改」ともある。襲名は天保期なのか、文化十二年の清長の没後なのか。この点に関しては、関根只誠の『名人
忌辰録』(明治二十七年刊(1894))を始めとして、明治中期以降、一致して文化十二年の襲名とする〉
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
「鳥居清信系譜」〝(鳥居清信の項)鳥居四代目清長門人〟
〝五代目 清満孫
清峰 後至天保に至て清満と改む、清長門人也。
寛政より天保に至る 住居和泉町
三代目清満の実子は浮世画を不画して、縫箔屋を業として、和泉町に住す。仍て姑く看板画を相続せり。
其縫箔屋の忰あり、清長門人となり画を学ぶ、清峰と名のる。今二代目清満と改めて、三芝居番附絵看
板を画く、是則三代目清満が為には実の孫なり
清峰は、文化の始より文政の始めまで、凡八九年の間、錦絵、草双紙(合巻ト云、絵表紙ノ三十丁物、
文化三四年頃ヨリ専流行ス)の類、浮世美人絵等多く板刻して、世に知るところなり。歌川豊国の画風
に傚、清長歿故して、芝居の看板番附画を継受てより、清満と改板下画は悉く止たり〟
〈上記資料は鳥居清峰が鳥居家五代目を継いだとする〉
◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」p中1380(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)
「鳥居清信系譜」〝五代目 清信 【俗名四郎、芳町三味線所、後三絃引ニナル】〟
〈鳥居家五代目は後に三味線弾きになったというのだが、上記資料の清峰説と全く異なる系譜の根拠は何であろうか〉