Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ いさい かつしか 葛飾 為斎浮世絵師名一覧
〔文政4年(1821) ~ 明治13年(1880)6月・60歳〕
 別称 酔桜軒 酔桜楼 通称 清水宗次  ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』  ☆ 天保年間(1830~1843)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天保年間刊)    葛飾為斎画    『狂歌新撰六々画像集』一冊 葛飾為斎画 至清堂・千菊園編 山桜連    『新撰鴬花集』    三冊 葛飾為斎画 至清堂等撰    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永二年刊)   ◇絵本    葛飾為斎画『花鳥山水図式』初編 葛飾為斎画 金水道人序    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永二年刊)    葛飾為斎画『善知安方忠義伝』二編 葛飾為斎画 松亭金水作    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永二年刊)    葛飾為斎画『贈答百人一首』〔跡見1753〕    巻末「口画 葛飾為斎 肖像 一勇斎国芳 一猛斎芳虎 玉蘭斎貞秀       肖像 梅蝶楼国貞 一陽斎豊国」〈国貞は二代、豊国は三代〉    緑亭川柳序編・序「嘉永二癸丑新春」山口屋藤兵衛版 名主二印「衣笠・村田」    〈ずいぶん豪華な画工連を擁した百人一首本である。為斎が国芳や豊国らに伍して口絵を担当するとは大抜擢だと思う     が、北斎がまだ存命中であることを考慮すると、この起用は不自然なような気もする〉    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(嘉永三年刊)    葛飾為斎画『興歌当夢化廼花』一冊 葛飾為斎画 一閑斎・燕栗園等編 日光 山水連蔵板    ☆ 嘉永四年(1851)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永四年刊)    葛飾為斎画    『興歌手向花』一冊 葛飾為斎 桐園大鳥編 山水連蔵板    『新調風香集』一冊 為斎 判者北栄子 至清堂    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕(嘉永四年)    葛飾為斎画『扇合新調風香集』一巻 葛飾為斎画 北栄子至清堂板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永四年刊)    葛飾為斎画『本朝武芸百人一首』口絵・肖像〔跡見103 異種〕    見返し「東都 清水芳玉女画」口絵署名「為斎画」    序「辛亥仲春」松亭金水輯 米林堂板 奥付「嘉永四辛亥秋七月発行」    ☆ 嘉永五年(1852)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永五年刊)    葛飾為斎画    『畸人百人一首』一冊 葛飾為斎  一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 山口屋藤兵衛板               一雄斎国輝 一猛斎芳虎 一陽斎豊国 緑亭川柳編    『量地図説』  二冊 葛飾為斎 甲斐広永編 数学道場蔵板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永五年刊)    葛飾為斎画『畸人百人一首』口絵・肖像〔目録DB 同志社〕〔国会〕〔跡見107〕    見返し「嘉永五年新鐫 緑亭川柳著 諸名画集筆 東都書肆錦耕堂寿梓」    奥付「口画 葛飾為斎 肖像 一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 一雄斎国輝 一猛斎芳乕 一陽斎豊国」    錦耕堂山口屋藤兵衛板 嘉永五年刊  ☆ 嘉永六年(1853)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永六年刊)    葛飾為斎画    『本朝武芸百人一首』為斎画 東都清水芳玉女画 松亭金水編 米林堂板(初版は嘉永四年刊)    『贈答百人一首』一冊 葛飾為斎  一勇斎国芳 梅蝶楼国貞 緑亭川柳編 山口屋藤兵衛板               一陽斎豊国 玉蘭亭貞秀 一猛斎芳虎    『皇都三字経』 一冊 画工葛飾為斎 鶺鴒斎春水撰 英文蔵板    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永六年刊)    葛飾為斎画『贈答百人一首』口絵・肖像〔跡見1753〕〔目録DB〕     巻末「口画 葛飾為斎 肖像 一勇斎国芳 一猛斎芳虎 玉蘭斎貞秀        肖像 梅蝶楼国貞 一陽斎豊国」〈国貞は二代、豊国は三代〉     緑亭川柳序編・序「嘉永六癸丑新春」山口屋藤兵衛版 名主二印「衣笠・村田」    ◯「読本年表」〔目録DB〕(嘉永六年刊)    葛飾為斎画『高木廼実伝』初編 葛飾為斎画 松亭金水作    ☆ 安政二年(1855)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政二年刊)    葛飾為斎画『朝夷巡島記』七編 葛飾為斎画 松亭金水作    ☆ 安政四年(1857)    ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政四年刊)    葛飾為斎画『高木廼実伝』二編 葛飾為斎画 松亭金水作    ☆ 安政五年(1858)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政五年刊)    葛飾為斎画『日蓮上人一代図会』六冊 東都葛飾為斎画図 東都松亭中村経年撰    〈〔目録DB〕の分類は読本〉    ◯「読本年表」〔目録DB〕(安政五年刊)    葛飾為斎画『朝夷巡島記』八編 葛飾為斎画 松亭金水作    ☆ 文久元年(万延二年・1861)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久元年刊)    葛飾為斎画『花鳥山水図式』二編 葛飾為斎画 山々亭有人序    ☆ 文久二年(1862)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久二年刊)    葛飾為斎画『観音経略解図解』一冊 東都葛飾為斎画図 松亭中村経年撰 須原屋平兵衛板    ☆ 元治元年(文久四年・1864)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文久四年刊)    葛飾為斎画    『花鳥山水細画図式』三四編 葛飾清水為斎  柴屋文七梓    『為斎画式』    初二編 東都葛飾為斎図 大和屋喜兵衛板    ☆ 慶応二年(1866)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(慶応二年刊)    葛飾為斎画『花鳥山水細画図式』五編 葛飾為斎画 港崎酔翁序 山城屋佐兵衞板    ◯「【一時雷鳴/流行批判】活模様浮世雛形(だてもよううきよひながた)」   (番付・慶応二年二月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝落画 がくやばかりで 葛飾為斎    落語 ひつたちが   土橋亭竜馬〟〈二代目〉    〈評は「楽屋ばかりで引き立たない(魅力がない)」の意味だろうが、楽屋の喩えが分からない〉    ☆ 慶応三年(1867)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(慶応三年刊)    葛飾為斎画『早引漫画』初編 葛飾為斎筆 大島屋伝右衛門板            (二編以下、安達吟光画にて明治十四年刊也)    ☆ 没後資料    ☆ 明治十四年(1881)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明治十四年刊)    葛飾為斎画『早引漫画』二-四編 葛飾為斎遺稿 安達吟光編画 文永堂  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十四年刊)   ☆絵手本    葛飾為斎画    『花鳥山水図式』1-5 葛飾清水為斎 稲田佐兵衛 (7月)     2編末「歳辛酉孟夏日 葛飾為斎画」  〈辛酉は文久元年(1861)〉     3編末「歳癸亥初冬日 葛飾清水為斎」 〈癸亥は文久三年(1863)〉     4編末「元治甲子孟冬新鐫 葛飾為斎画」〈元治元年(1864)〉     5編末「歳在乙丑夏五月 葛飾為斎画」 〈乙丑は慶応元年(1865)〉     5編刊記(明治九年五月版権免許/同十四年六月再版届/同年七月出板)「画工 故葛飾為斎」     〈「日本古典藉総合データベース」によると初編は嘉永二(1849)年刊。為斎は明治十三年没〉    『山水花鳥早引漫画』3-4編 葛飾為斎遺稿 安達吟光編画 文永堂(14年刊)     3編刊記「明治十三年十一月届 編輯人  京橋区南鍋町一丁目七番地 安達平七」     4編刊記「明治十四年二月届 画工編輯人 京橋区南鍋町十七番地 安達平七」     〈1-2編未見。漆山又四郎の「絵本年表」は初編慶応3年刊,2-4編明治14年刊とする〉    ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝文化 葛飾為斎    北斎門人なり。師の画風を守つて人物花鳥を善くす〟  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『葛飾北斎伝』p330(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年刊)   (葛飾北斎の門人)   〝葛飾為斎 江戸の人。清水氏。俗称宗次。酔桜軒と号す。北斎翁晩年の門人なるべし。向島に住し、    又浅草蔵前に住せり。明治の初年、錦画を画く〟    ◯『浮世絵師便覧』p220(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝為斎(サイ) 清水氏、醉桜楼と号す、俗称宗次〟  ☆ 明治三十年(1894)  ◯「浮世絵師追考(一)」如来記(『読売新聞』明治30年1月25日記事)   〝葛飾為斎(かつしかゐさい)    葛飾為斎の事は飯島虚心が葛飾北斎伝に少しく之を記せるのみ、其他は浮世絵類考増補をはじめ、関場    某が浮世絵編年史にも之を載せず。    為斎は北斎晩年の門人也、文政四年を以て江戸本所生れ、明治十三年を以て横浜に死す、享年六十、北    斎伝に曰く     為斎、清水氏、俗称宗次、酔桜軒と号す。向島に従し、又浅草蔵前に住せり、明治の初年錦絵を画く、     云々    其浅草蔵前に在るや、赤貧洗ふが如く、自ら扇面短冊などに画きて、之を鬻(ひさ)ぎ、僅かに糊口を凌    ぎけり。されども其画気韻生動、能く師の骨髄を学び得て、運筆着色等亦少(いさ)さかも異ならず。若    し北斎の画と為斎の画きしものを対照せんには、其何れか師の手に成りて、何れか為斎の筆になりしや    を甄別(けんべつ)する能はざる程なり。実に為斎の北斎に於けるは、猶源漪の応挙に於けるが如く、其    筆は優に師の塁(るい)を摩(ま)せんとするの勢いなりき。    〈「甄別」は明確に見分けること。「累を摩す」は肩をならべるの意味〉    然るに横浜開港の当時、一商賈あり。偶(たまた)ま為斎をして得意の画を画かしめて、之を外人に鬻ぎ    しに大いに喝采を博せしかば、遂に為斎を傭聘して、専ら之に従はしめ、扇面に短冊に愈(いよ/\)海    外輸出の販路を開きたり。是れ実に我国浮世絵の海外に輸出されし嚆矢にして、序いで北斎漫画など続    々彼の地に渡りて、茲に益(ます/\)我が浮世絵に対する外人観賞の眼(まなこ)を高めしめたり。而し    て其画の北斎と似たりしがため、外人には全く北斎のと誤られし事もあるべく、その内国に拡まらずし    て、海外にのみ渡りしがため、世人には少かも賞せられずして空しく終りしと雖も、其の功は実に今に    没すべからざるものといふべし。其死せし時、彼の商賈は莫大の利潤を得て豪華の身となりしも、皆為    斎のためなりとて、葬式万端凡て厚く之を弔ひけり。板本に絵本花鳥細画式といへるあり。当時最も世    に行はる。煙草入の金物、根付、蒔絵印籠などの細画の参考には極めて適切のものたり〟  ◯『古今名家印譜古今美術家鑑書画名家一覧』番付 京都   (木村重三郎著・清水幾之助出版 明治三十年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝近代国画名家〈故人と現存とを分けている〉    ※Ⅰ~Ⅳは字が大きさの順。(絵師名)は同一グループ内の別格絵師。    〈故人の部は字の大きさでⅠ~Ⅳに分類。(絵師名)はそのグループ内の別格絵師〉    Ⅰ(狩野探幽・土佐光起・円山応挙)酒井抱一 渡辺崋山  伊藤若沖    Ⅱ(谷文晁 ・英一蝶 ・葛飾北斎)田中訥言 長谷川雪旦    Ⅲ(尾形光琳・菊池容斎・曽我蕭白)岡田玉山 司馬江漢  浮田一蕙 月岡雪鼎 高嵩谷      蔀関月    Ⅳ 大石真虎 河辺暁斎 上田公長 柴田是真 長山孔寅 英一蜻  英一蜂 佐脇嵩之      高田敬甫 西川祐信 橘守国  嵩渓宣信 英一舟  葛飾為斎〟    〈江戸時代を代表する絵師としての格付けである〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(82/103コマ)   〝葛飾為斎【万延一年間 1860】    清水氏、通称宗次、酔桜軒と号す、文政四年、江戸本所に生れ、葛飾為一の門に入りて画を学ぶ、向島    に住み、また浅草蔵前に移りて糊口の為めに、扇面、短冊に画きてこれを鬻ぐ、其の画孰れも気韻生動    して、能く師の骨髄を得たり、横浜開港の時、一商売ありて、為斎に得意の絵を描かしめ、之を外国人    に鬻ぎたるに大に喝采を博せしかば、遂に為斎を傭聘して、専らこれに従事せしめ、愈海外輸出の販路    を開きたり、是れ本邦浮世絵の輸出されし嚆矢なりと云ふ、明治十三年、横浜に没す、享年六十歳〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『浮世画人伝』p121(関根黙庵著・明治三十二年刊)   (「葛飾北斎系譜」より)   〝為斎 葛飾ト号ス、外神田ニ住シ、後ニ本所小梅村ニ移リテ卒ス、姓ハ神尾氏ニテ、文政六年四月廿二    日、於西丸、松平外記ノ為、軽傷ヲ負タル神尾五郎三郎ガ子ナリ〟    〈諸書は清水氏。本書は何に拠ったものか神尾氏とする〉
     「葛飾北斎系譜」    ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)    (国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」所収)   〝為斎 葛飾氏、清水宗次、酔桜楼と号す、大阪に僑居し、後江戸に帰り住す、明治十三年横浜に没す。    六十歳なり、北斎晩年の門人〟    ☆ 昭和年間  ◯『浮世絵師伝』p3(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝爲斎    【生】文政四年(1821)  【歿】明治十三年(1880)-六十    【画系】北斎門人     【作画期】嘉永~明治初    葛飾を称す、清水氏、俗称宗次、酔桜軒・酔桜楼と号す。彼が浅草藏前に住せし頃(又、向島にも住す)    は、赤貧洗ふが如し、自から扇面、短册等に画きて之を鬻ぎ、僅かに糊口を凌ぎたりき、然れども、其    の画よく師風を伝へ、款を覆つて之を見れば、殆ど北斎と混同されむかと思はる。『爲斎画式』・『山    水図式』其他雑書の挿画などあり。曾て横浜開港の当時、一商賈彼をして画を作らしめ、之れを外人に    鬻ぎしに殊の外に好評を博せしかば、後ち専ら彼れに依嘱し、浮世絵輸出の端を開きしと云ふ〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文政四年 辛巳」(1821)p195   〝清水為斎生る。(北斎の門人なり。明治十三年歿す。行年六十歳)〟
  ◇「嘉永四年 辛亥」(1851)p230   〝八月、葛飾為斎の画ける『興歌手向花』出版〟
  ◇「嘉永六年 癸丑」(1853)p232   〝正月、葛飾為斎、初代国貞(此の時一陽斎豊国と号す)、二代国貞(梅蝶楼と号す)、一勇斎国芳・玉    蘭斎貞秀・一猛斎芳虎の画ける『贈答百人一首』出版〟
  ◇「安政五年 戊午」(1858)p237   〝九月、葛飾為斎の画に成る『日蓮上人一代図会』出版。松亭金水の著述なり。此の書明治二十一年に至    りて画工の為斎の為の字を削り北の字を填板して葛飾北斎の画として売り出だせり。此書為斎の傑作に    して北斎に劣らぬ程の名画なるに、世俗北斎のみを崇拝して為斎を顧みざるをもて為斎の名を埋没せし    めたるは己の利を計りて他の名を永久に葬りたる悪みても余りあり。此書は東京の御徒町の金兵衛なる    者なるが、名古屋の書肆文助なる者が、北渓の画ける傑作『狂歌東関駅路鈴』を『北斎道中画譜』と改    題して販売せると一対の奸策なり〟
  ◇「文久元年(二月二十八日改元)辛酉」(1861)p240   〝四月、葛飾為斎の『花鳥山水図式』二編出版〟
  ◇「元治元年(三月朔日改元)甲子」(1864)p241   〝七月、清水為斎の『為斎画式』出版〟
  ◇「慶応三年 丁卯」(1867)p243   〝十月、葛飾為斎の画ける『山水花鳥早引漫画』出版〟    △『増訂浮世絵』p241(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝葛飾為斎    氏は清水、俗称を宗次と云ふ。江戸の人。向島又浅草蔵前に住し、醉桜軒と号す。文政四年生れ、北斎    晩年の弟子。横浜開港の後、輸出画を作る。明治十三年横浜に没す。歳六十〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p86(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝為斎(いさい)    清水宗次、酔桜軒、酔桜楼と号した。北斎の門人、横浜開講後は、輸出向き浮世絵執筆の端を開いたと    いう。文政四年(1821)生れ、明治十三年(1880)、六十才で没した〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔葛飾為斎画版本〕    作品数:12点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:葛飾為斎    分 類:絵本1・絵画2・読本4・和歌(百人一首)1・狂歌3・仏教1    成立年:天保年間    (1点)        嘉永2~6年  (6点)        安政2・4~5年(3点)        文久1~2年  (2点)        元治1年    (2点)        慶応1・3年  (2点)