Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ひしかわは 菱川派浮世絵事典
 ◯『明治十年内国勧業博覧会出品解説』(山本五郎纂輯 内国勧業博覧会事務局 明治十一年(1878)六月刊)   (「明治前期産業発達史資料」第七集)   〝菱川吉兵衛、名ハ師宣、削髪シテ友竹ト号ス。房州平郡保田町ノ人。幼ニシテ東京ニ徙住ス、常ニ岩    佐又兵衛ガ画風ヲ慕ヒ、屡其筆意ヲ写シ、終ニ一家ヲ為ス。子、吉兵衛【初メ吉左衛門ト称ス】師房、    半途ニシテ業ヲ転ジ、染工ト為ル。冲之丞【一ニ作之丞又酒造之丞ニ作ル】師永、最着色ノ術ニ長ス    門人正信・友房・師重、皆能ク乃師ノ筆意ニ擬スト雖ドモ、友房ノ如キハ、伎倆甚下レリ。師重ノ門    人師政ニ至テ全ク菱川ノ画風ヲ失フ〟  ◯『諸画家系普鑑及年代図形高評品』東京(吉田竹次郎編 前羽商店 明治二十九年(1896)十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (浮世絵之部 菱川師宣ノ系)   〝菱川師宣      岩佐又兵衛ノ画風ヲ慕ヒ、当時ノ風俗ヲ写ス。江戸絵ノ元祖ナリ。通称吉兵衛、後友竹ト改ム、房州    ノ人江戸ニ住ス。元禄     師房   吉左衛門、師宣長子 元禄     師喜   同二男、正之丞 元禄     門人師重 古山太郎兵衛  元禄     師永   作之丞左酒造ト号ス 元禄     師平   政信守郷 元禄     師政   文志 享保     友房   元禄     師重   元禄     清重     清忠〟  ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇菱川派 上(21/110コマ)   〝自ら大和絵師と名宣りを挙げて、旗幟堂々安房から江戸に打つて出た菱川師宣こそ、真に浮世絵の開祖    というてよからう。師宣は土佐・狩野・両派の画風を学び、先達又兵衛の手法にも傚つたものと見えて、    山水・花鳥など純狩野派の筆意あるものがある。又人物の面貌形態が素朴で、腮の長い処などは、又兵    衛の趣きがあり、賦色の豊麗な処は、土佐派の彩法と家業の経験とから来たものだらう。師宣の子師房    は世に著はれず、漸く門人古山師重によつて、師宣の画系を継紹して来たのであるが、師重の門人師政    となると、菱川の画風は全くなくなつて、鳥居風となつてしまつた〟   ◇菱川派 上(51/110コマ)   〝師宣の子に師房・師永・師喜などある中に、師房はよく父の筆意を受けて居るが、運筆繊弱の謗りがあ    る。然し構図彩色の技は優つて、肉筆の遺品は比較的多いのに、絵本の版画は極めて少いのは、利を得    るに敏なる商人等が、師房の画を父師宣の作として出版したから、師房署名のものは少いのであると    『板画考』に見えて居る。それから『師宣画譜』の編者は、師房は始め吉左衛門と称したが、後ち吉兵    衛と改めたから、父師宣の俗称と同じになつて、菱川吉兵衛とのみ署名したものは、父子混同する基と    なつたのであらうといひ、又従来師宣筆といはれて居つた次の版本どもの挿画を師房と断言して居る。     身延鑑 福ざつ書 光広卿道の記 浮世絵尽 絵本大和墨 姿見百人一首     津保のいし文 和国百女    他の二人の師永・師喜は、世に著はれる程の絵師ではなかつたし、子孫には画工がなかつたから、師宣    の画系は門人古山師重・友房などあつて、漸く続いたやうなものであるが、師重の門人師政となると、    当時一新機軸を出して、盛んに世にもてはやされて居た鳥居清信の感化を受けて、菱川風の画風は全く    見ることが出来なくなつてしまつた〟
   菱川派系図(『浮世絵の諸派』上 所収)  ◯『浮世絵』第十五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「偽の菱川氏」宮武外骨   〝(前略)正保の頃に菱川孫兵衛といふ画工のあつたと云ふ事は、先づ疑問として置いて、我浮世絵版画    の祖と称すべきは菱川師宣である。此の師宣の系統を引いて正真の菱川氏と見るべきは、菱川葉(ゑふ)    師重といつた古山師重を始め     菱川師房(もろふさ)  菱川師永(もろなが)  菱川師平(もろひら)  菱川師喜(もろよし)     菱川師秀(もろひで)  菱川師盛(もろもり)  菱川師寿(もろひさ)  菱川師興(もろおき)     菱川政信(もろのぶ)  菱川新平(しんぺい)  菱川和翁(わをう)   菱川さは     菱川友宣(とものぶ)  菱川友房(ともふさ)  菱川友章(ともあき)    此十五名である。  △『増訂浮世絵』p30(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝菱川師房と師宣の末流    師宣の風一世を傾倒して、菱川の流は江戸に大きな流となつたけれども、後継者に傑出したものが乏    しかつた。師宣の長子は師札と云ひ、相当の伎倆があつたけれども、父の名に被はれて、世間には大    にもてるといふ程ではなかつた。また版本も多く作つたらしいが、後世師宣の作として誤り伝へられ    たのが少くないやうである。肉筆でも無款のものは勿論、名のあつたものでも、奸商の手にかゝつて    師宣の筆とされたものも大分あらう。大家の後継者は誰でも、非常な不幸の位置に立つものである。    なほ兄弟に師永、師喜があつたが、余り上手ではなく、師房の子は遂に画家とならずに、紺屋に復業    したのである〟