Top           『日本随筆大成 第二期』         浮世絵文献資料館
   日本随筆大成 第二期          あ行                  ☆ あしくに あさやま 浅山 蘆洲    ◯『新増補浮世絵類考』(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「浅山蘆洲」⑪236   〝浅山蘆洲    浪花の人、青陽斎、狂画堂、蘭英斎等号せり〟
  ◇(京寺町通松原下ル町菊屋喜兵衛板)「絵手本并読本附録」の項 ⑪237   〝絵本手引糸 六冊  高井蘭山作、浅山蘆洲画〟    〈「国書基本DB」は『奇譚手引糸』とし文化十一年刊とする〉    ☆ あしくに せいようさい 青陽斎 蘆国    ◯『新増補浮世絵類考』⑪236(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)    〝青陽斎蘆国〟(名前のみ)     ☆ いいつ かつしか 葛飾 為一 (葛飾北斎参照)  ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「宮川氏系譜」の項 ⑪187「宮川長春系譜」   〝(勝川春章門人)勝川春朗 北斎 辰政 為一叢〟(門人系譜あり)〟
  ◇「葛飾為一」の項 ⑪214   〝葛飾為一    江戸本所の産にして、御用の鏡師の男なりといふ。幼名時太郎、後鉄次郎と改む。始め業を勝川春章の    門に入て、名を勝川春朗と書す。故有て破門せられ、後古俵屋宗理の跡を続て二代目菱川宗理となり、    画風をかへて一派をなせり。〔割註 叢春朗の頃は役者の錦絵を出せし也。堤等琳孫二の画風を慕へり。    宗理の頃狂歌摺物等多し〕亦門人宗二に宗理を譲り〔割註 三代目宗理〕、名を家元に帰せり。于時寛    政十年一派の画法を立て、北斎辰政雷斗と改む。〔割註 一説北辰妙見を信ず、故に北斎を云〕北斎流    と号し、明画の筆法を以て浮世絵をなす。古今唐画の筆意を以て、浮世絵を工夫せしは、此翁を以て祖    とす。〔割註 雷斗の名、聟重信に譲る〕爰において世上の画家、其家風を奇として、世俗に至る迄大    にもてはやせり。又戯作の草双紙多く、寛政の頃草双紙の画作を板刻す。作名を時太郎可候と云り。専    ら画狂人北斎と書す。〔割註 画狂人の号は門人北黄に譲る。板下書ず〕繍像読本多く画きて世に賞せ    られ、絵入読本此人よりひらけたり。〔割註 此頃絵入読本世に流行す、画法草双紙に似寄らぬを以て    貴しとす。読本とて別派とす。此時代北斎浅草に住〕京大坂より雷名を慕ひ門人多く来つて学ぶ者夥し    かりし。尾州名古屋を始として京浪花に必覿する者なし。板刻の密画を以て世に独歩す。数百部の刻本    枚挙すべからず。再名を門人を譲り、雷信錦袋舎戴斗と改めたり。前の北斎戴斗と書す。〔割註 二代    目北斎は本所の産なりしが、後吉原仲の町亀屋といふ茶屋になる。両国回向院にて大画布袋を画り。錦    袋舎名弘の会ありし大画は度々也。十六間四方、十八間四方等也。又名古屋にて出山釈迦を画けり〕為    一と改名す。〔割註 戴斗の名門人北泉にゆづれり〕門人に臨本を与ふるに遑あらずとて、是が為に画    手本を板刻し数十部を世に行しむ。常に曲画を善す。〔割註 升玉子徳利箱等すべて器財に墨を付て画    をなす。左筆も妙なり。下より上へ書上る逆画をかけり。中にも爪へ墨をすくひて画は筆に画たるごと    くすぐれて妙なり。画く処を見ざれば其意を知るべからす。又俳諧を好み川柳狂句能す〕自ら云、数年    諸流の画家に入、其骨法を得て一派の筆法を立、画道の業において筆をこゝろみゑとくせざる事なしと    云り。香具師の看板絵より芝居操の看板、油絵、蘭画に至迄、往々新規の工夫を画き、刻本の細密定規    引の奇巧類すべきものなし。紅毛よりも需に応じて二三年間数百枚を送りしかば、蘭人も大いに珍重す。    後是を禁ぜられたり。天保に至て錦絵多く出たり。又刻本の春画数編あり。肉筆の彩色殊に見事なり。    一号群馬亭といふ。〔割註 性居を転ずるの一癖あり、本所横網町浅草寺前其他数十ヶ所移住せり。一    二月にして居を移す事幾度といふを知らず〕生涯の面目は絵風公聴に達して、御成先に於て席画上覧度    々あり。稀代の画仙妙手と云べし。     往年御成先上覧の節、大きなる紙に刷毛にて藍を長く引、鶏の両足を画けり。朱にて鶏の足へつけ、     藍の上と所々押形付、髻の上竜田川の景色御座候と申上候よし、右写山翁の話也    板刻画手本     北斎漫画   自初編至十三編 戴斗画譜           櫛喜世留雛形  中形ノ横本三冊       地文雛形           北斎画鏡           画本独稽古   初編より四編中本     北斎画叢           画本早引   二冊      三躰画譜    一冊     為一画譜           写真画譜   折本一冊    画本魁     一冊     武蔵鐙      一冊    北斎画譜   三冊      富岳百景    三冊     画本女今川    一冊    同庭訓往来  三冊      浄瑠璃絶句   一冊     隅田川両岸一覧  二冊彩色狂歌入    読本目録     椿説弓張月    馬琴作   新累解脱物語 同       隅田川梅柳新書 同     南柯の夢     同     南柯後記   同       敵打裏見葛葉  同     標註園の雪    同     頼豪怪鼠伝  同       水滸画伝    同     標砥藤綱模稜安  同     皿々郷談   同       忠孝潮来節   焉馬作     仮名手本後日文章 同     玉落穂    小枝繁     東嫩の錦    同     松王物語     同     橋供養    同       小栗外伝    同     新田功臣録    同     怪談霜夜星  種彦作     阿波鳴門    同     勢田橋竜女本地 同殊に密画也 国字鵺物語  芍薬亭作    双蝶々白糸双紙 同     濡衣草紙     同     鈥◯妹背山  振鷺亭作    於珪幸助恋夢盤 楽々庵桃英作     飛騨匠物語    六樹園作  北越奇談   柳亭序文茂世作 百合雅埜居鷹  万亭叟馬作     山荘太夫     谷峨作   絵本三国志  漢楚軍談      此外中本草双紙の類殊に多ければこゝにしるさず。    嘉永二酉年四月十三日歿す。九十歳。浅草八軒町誓教寺に葬る。      法名 南惣院奇誉北斎信士      辞世 人またで行気さんしや夏の原〟
 ◇(京寺町通松原下ル町菊屋喜兵衛板)「絵手本并読本附録」の項 ⑪237   〝絵手本水滸伝 一冊  北斎為一翁筆〟    〈「国書基本DB」は『絵本水滸伝』とし文政十二年刊とする〉      ☆ いっけい はなぶさ 英 一桂    ◯『新増補浮世絵類考』⑪228(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「歌川豊国 三代」の項)   〝(編者注、三代豊国)天保四年より、英一桂〔割註 英一桂は柳しま住、九十六歳にして卒す。辞世に    百迄はなんでもないと思ひしに九十六ではあまり早死〕門に入て英一蹛と号す〟    ☆ いっしゅう はなぶさ 英 一舟    △『古今諸家人物志』p47(奥村意語編・明和七年刊)   (「英画」の項)  〝英一蝶【英北窗翁/名信賀字暁雲/長八嗣維跡】── 一蝶【長男長八楼後号一蝶】── 男一舟    姓英 名信種 字(空欄) 号一舟 又号潮窓    東都人。画を以て行る。一蝶先生の維跡を嗣ぐ。義子と為る。元禄十二年己卯に生る。明和五年戊子正    月二十三日病没す。寿七十一。墓は東都二本榎常教寺寺中顕乗院に在り〟    ◯『近世奇跡考』⑪356(山東京伝著・文化元年刊) (「英一蝶の伝」)  〝英一蝶 ──┬── 門人養子師家を続く 一舟【名信種、号東窓翁、俗称弥三郎。明和五年正月廿七     ┌────┘       日歿】 ├─ 男二世 一蝶【名信勝、俗称長八】     └─ 次男  一蜩【俗称百松、又源内、一説ニ号孤雲】〟   ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(英一蝶)養子 一舟    【始メ門人、後師家ヲ継グ。名信種、号東窓翁、俗称弥三郎、明和五年正月廿三日歿ス。二本榎承教寺    中顕乗院ニ葬ス】〟    ☆ いっしょう 一笑   ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝二男    【名可主信俊、或ハ養子ナリト云フ。後英一笑ト改ム。始嵩深】〟    ☆ いっせい 一蜻   ◯『新増補浮世絵類考』⑪183(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝 二男現存 一蜻    【名信光、幼名民之助、後町奉行組同心ナリ。大村清吉郎ト改ム】〟    ☆ いっせん はなぶさ 英 一川    △『古今諸家人物志』p47(奥村意語編・明和七年刊)   (「英画」の項)  〝男 一川男    姓英 名(空欄) 字(空欄) 号一川    東都人。画を以て行る。居東都本町一丁目〟
◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(英一舟)男 一川    名宗沢、号松庵〟    ☆ いちぜん はなぶさ 英 一蝉   ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(高嵩谷初代の門人)一蝉〟    ☆ いったい はなぶさ 英 一蹛    ◯『新増補浮世絵類考』⑪228(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「歌川豊国 三代」の項)   〝(編者注、三代豊国)天保四年より、英一桂の〔割註 英一桂は柳しま住、九十六歳にして卒す。辞世    に、百迄はなんでもないと思ひしに九十六ではあまり早死〕門に入て英一蹛と号す〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 初代    ◯『本朝世事談綺』⑫522(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝一蝶流 英一蝶は、一流を書て頃年の達人也。始調古と云。狩野永真の弟子也〟
 ◯『八十翁疇昔話』④130(財津種ソウ(艸冠+爽)著・寛延年間記・天保八年刊)   〝獅子髪洗ひの図     英一蝶筆 徳田慶壽写〟
 △『古今諸家人物志』p46(奥村意語編・明和七年刊)    (「英画」の項)   〝英一蝶     暁雲堂、称北窗翁     姓多賀、名信賀、字暁雲、号一蝶      英氏、又称簑翠翁 又号潮湖斎     摂州の人、石川侯の命を以て、狩野安信に師として事ふ。意匠運筆巧妙にして、遂に一家の作る。更に    先生画温良、而して細密滋潤に、曽て妙処を竆き。承応三甲午年に、摂州に於いて生る。二子在り、長    男長八、次男源内。遂に先生病没す。時に享保九年甲辰正月十三日、享年七十一歳。居東武、初め深川    長掘町。墓は東武麻布二本榎常教寺寺内顕乗院に葬る。明和六年迄四十五年に成る。      辞世曰    まぎらわす浮世のわざのいろどりもありとや月のうす墨の空〟    ◯『近世奇跡考』(山東京伝著・文化元年刊)   ◇「六尺袖」の考証 ⑥271   〝一蝶が四季絵跋に、髪のつとゑりをこえず、えり袖大路をすらずと書しも、延宝、天和の頃と、享保の    頃と大に風俗のかはりたることをいへるなりかし〟
  ◇「一蝶宗珉に贈る文」の項 ⑥338    (書簡に蝙蝠の図と文あり。文面未詳)   〝右書中かはほりの図は、ほりものゝ下絵なり。横谷宗珉、曾て一蝶が下絵をもつてほりものとしたる事、    人の知る所なり。一蝶が手紙、世におほしといへども、是等はことに珍とすべし。もとより嵩谷翁の鑑    定をへて、正筆のものなり〟    〈一蝶の書簡と称するものに偽物も多いのだろう。高崇谷の鑑定を仰いだのもそのためか〉     ◇「英一蝶大津絵讃 縮図」⑥350   〝此絵は一蝶が筆にあらず。常の大津絵に一蝶賛辞をのみかきつけたる也     (模写あり)山東軒所蔵    右絵の上に左の如く賛辞あり     大津絵に負なん老の流足        英一蝶讃(花押)〟
  ◇「英一蝶の伝」⑥356   〝諸書にのする所誤すくなからず。且もらせる事おほし。案るに、一蝶、承応元年摂州に生る。父を多賀    伯菴と云。某侯の侍医なり。一蝶、寛文六年十五歳の時江戸に下り、狩野安信を師とす。姓は藤原、多    賀氏、名は信香、一に安雄、幼名を猪三郎と云。後に次右衛門といひけるよし、〔望海毎談〕に見ゆ。    或云、助之進、剃髪して朝湖と称す。翠蓑翁、牛丸、暁雲堂、旧草堂、一蜂閑人〔割註 後門人にゆづ    る〕、一閑散人、隣樵菴、鄰濤菴、北窓翁等の諸号あり。書を佐玄竜に学びて、後一家の風をかきて書    名あり。俳諧を芭蕉に学び、其角、嵐雪等と交りふかし。俳号を暁雲、又和央〔洞房語園〕と云。元禄    十一年十二月〔割註 元禄八年トスルハ非ナリ〕呉服町一丁目新道に住し時故ありて謫せらる。時に年    四十七。謫所にある事十二年。宝永六年九月〔割註 宝永四年トスルハ非也〕帰郷して後英一蝶と称し、    北窓翁と号し、深川長堀町に住ぬ。〔人物志〕享保九年甲辰正月十三日病て歿せり。享年七十三。二本    榎承教寺〔日蓮宗〕塔中顕乗院に葬る。法名英受院一蝶日意。    辞世  まぎらかすうき世の業の色どりもありとや月の薄墨の空                英一蝶 ──┬── 門人養子師家を続く 一舟【名信種、号東窓翁、俗称弥三郎。明和五年正月廿      ┌────┘                七日歿】     ├─ 男二世 一蝶【名信勝、俗称長八】      └─ 次男  一蜩【俗称百松、又源内、一説ニ号孤雲】          嵐雪〔その袋〕花に来てあはせばおりの盛哉   暁雲     同      朝寐して桜にとまれ四日の雛   同     〔温故集〕 戸塚にて 此みぎりひだり鎌倉すぢ堅魚(カツヲ) 同     此余画讃の文或は句あまたあり。記しつくすべからず。     深川霊巌寺の後、海辺新田に、宜雲寺といふ禅院あり。一蝶帰郷して後、しばらく此寺に住みけるよ     し、寺中の絵障子のたぐひ、すべて一蝶が筆なり。ゆゑに、世人一蝶寺と云。其絵、ちかごろの回禄     にほろびしとぞ。一蝶の母剃髪して妙寿と云。一蝶謫居にある間、友人横谷宗珉の家にやしなふ。一     蝶帰郷して後、六年をへて、正徳四年三月晦日歿せり〟    〈随筆『望海毎男』を「国書基本DB」は著者・成立年とも記載なし。『洞房語園』は庄司道恕斎著、元文三年序のも     のか。「人物志」は明和六年刊『古今諸家人物志』。不審なのは、京伝は「人物志」を引きながら七十三歳没として     いるが、同書は七十一歳とあること。嵐雪編『その袋』は元禄三年の自序。蓮谷編の『温故集』は延享五年刊〉     ◇「朝妻船の讃の考」⑥357~360    〝朝妻船讃 隆達がやぶれ菅笠、しめ緒のかつらながく伝りぬ。是から見ればあふみのや。      あだしあだ波、よせてはかへる浪、朝妻船の浅ましや。嗚呼またの日は、たれに契りをかはして、      色を、枕はづかし、偽がちなる我とこの山、よし夫とても世の中  北窓翁一蝶画讃     〔割註 右の文、世にうつし伝ふる所、あやまりおほし。今柳塘館所蔵の正筆を以てうつし出す〕      (以下、讃と小唄の詞の典拠を考証している。本稿では一蝶の絵に関する記述のみ挙げておく)    〝其角が句に       柳には鼓もうたず歌もなし     〔五元集〕にあり。おもふに、是も一蝶が絵に讃なるべし。(中略)かの朝妻舟の絵につきては、あ     らぬことゞもを云ひ伝ふるといへども、もとよりのそら言なり。人に見知りたる、船のうちに、くゞ     つ女の烏帽子水干着たるかたをば、一蝶晩年にかきたり。始は只、小舟のうちに烏帽子つゞみなどと     りちらしたるさまをかきけるとぞ。〔割註 以上、一蝶がながれをくむ、某の翁、其の師某のかたり     つたへたることゝて、みづから筆記せる説なり。(以下略)〕〟    〝〔焦尾琴〕に、あさづま船に鼓を入て月を見侍る女の、水干に扇かざしたる絵にもかきて、       おもふ事なげふしはたれ月見船   其角     〔割註 これらの一蝶が絵の賛なるべし〕〟    〈「朝妻船」の図像も年齢とともに変化したという話をした「某」と「某の師某」とは誰のことであろうか。「柳塘館」     は大田南畝と親密な交渉をもった幕臣の蔵書家・竹垣庄蔵(柳塘)のことか。其角の句集『五元集』は延享四年刊、     『焦尾琴』は元禄十五年刊〉    ◯『楓軒偶記』⑲57(小宮山楓軒著・文化四年~七年成立)   〝画家英一蝶初ハ多賀東湖ト称ス。遠島ニ処セラレ、島ニテ生シ子ヲ島一蝶ト云フ。弟子ニ一蜂アリ。    〔割註 東湖万宝全書、作長湖、岡野行従曰、捃印補正、英一蝶、名信香、字暁、号簑翠翁、一号潮湖    斎、印ニ朝湖トアリ〕〟    〈「東湖」を「長湖」としている『万宝全書』はどの年代のものであろうか。「岡野行従」は岡野蓬原だが出典未詳〉    ◯『三養雑記』〔大成Ⅱ〕⑥77(山崎美成著・天保十年序)   〝英一蝶女達磨の画    画工の英一蝶は、世に名高き人にて、その事跡は書に記したるも、人口に伝ふるも、多くは附会の説あ    り。罪をかふふりしことの由は、竜渓小説附録にしるすところ、やゝ実説に近し。さて世にあまねく、    画がきつたふる女達磨といふは、一蝶がかきはじめたりとぞ。そのかみ、新吉原中近江屋の抱に、半太    夫といふ遊女ありしが、後に大伝馬町の商人へ縁づきたり。その家に人々あつまりて、何くれとなくも    のがたりの序に、達磨の九年面壁のはなしをしいだしけるに、かの半太夫きゝて、九年面壁の坐禅は、    何ほどのことかはある。うかれ女の身のうへこそ、紋日もの日の心づかひに、昼夜見せをはること、面    壁にかはることなし。達磨は九年、われ/\は苦界十年なれば、達磨よりも悟道したりとて笑ひけると    ぞ。このはなしを、英一蝶がきゝて、やがて半身の達磨を、傾城の顔に絵きたるが、世上にはやりて、    扇、うちは、多葉粉入、はしらかくしなどのかきて、女達磨といひけるとかや。市川栢筵が、その画の    讃に、そもさんか是こなさんは誰と詞書して      九年母も粋よりいでしあまみかな    といふ句をしけるとぞ。俳人素外が手引艸に      九年何苦界十年はなごろも    といふ祇空が句あり〟  ◯『筠庭雑考』(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「頭巾」の考証 ⑧144   〝竈婦女 英一蝶筆 大図を縮写す〟
  ◇「笠」の考証 ⑧146   〝同頃(編者注、貞享元禄)信香筆 一蝶也〟
  ◇「巾着」の考証 ⑧160   〝多賀朝湖筆 図は島原のやり手なり〟
  ◇「煙管」の考証 ⑧162   〝信香筆 賤小手巻懐中きせる〟
  ◇「煙草盆」の考証 ⑧164   〝信香筆〟
  ◇「看板類」の考証 ⑧174   〝信香図    酒ばやし麪類看板〟
  ◇「灯火」の考証 ⑧178   〝(行灯二図)此行燈二つ共に信香の筆也。上なるは島原出口の茶屋の処にみゆ〟〝是は難波新町揚屋の    傍にあり〟
    〝(提灯図)英一蝶 此提灯元禄頃迄今の箱提灯の如く用ひたり。絵双紙に多し〟
  ◇「雛の絵櫃」の考証 ⑧185   〝(雛の行器(ほかゐのルビ)の図)その図師宣がかけるもあり。又英一蝶がかきたるも見ゆ〟
  ◇「出茶屋」の考証 ⑧196   〝信香が絵に、伊勢の明星の茶屋にて、長き柄のひさくに茶碗をのせて客に出す処をかけり〟
  ◇「永代島茶屋」の考証 ⑧199   〝藤信香筆 深川八幡社頭図〟
 ◯『筠庭雑録』(喜多村筠庭・成立年未詳)   ◇「英一蝶 仏工民部」の項 ⑦120   〝宝永八年辛卯三月十六日暮より、樽屋新右衛門へ振舞に参候。武内徳庵、民部、一蝶、お留都出会。八    半頃帰宅とあり。(略)一蝶はそのかみ多賀朝湖と称せし頃、仏師民部、村田半兵衛、三人ひとしく故    ありて、元禄八年遠島に謫せらる。〔割註 この故さだかならず。江戸真砂の説も信じがたく、又竜渓    小説などいへるは殊に妄誕也。大田南畝の話に、不受不施法華の故也といへり。さもあるにや〕宝永四    年御赦によりて帰郷せり。〔割註 一説に、元禄十一年より宝永六年迄、十二年の間謫居せりといへれ    ど、予が家の日記宝永五年子三月十二日の処、民部が名見へたり。御赦にあへるは三人同時なるべし〕    朝湖は姓名を変て、英一蝶といひしが、民部などはなほもとの名にて有しと見ゆ。〔割註 半兵衛も同    じきにや。詳ならず〕これらの輩、わかきほどは遊里に戯れ、大家の幇間ともなりしかど、さすらへの    事の後は、昔の如き事あるべくもあらねど、そのかみより知己の家などの酒宴に招れて、やみがたきあ    たりには出会せしなるべし。(略)一蝶もと、呉服町、一丁目新道に住ひしが、配所より帰りては、し    ばしが程深川長掘町に居れり。其後また旧宅のあたりに帰住せしにや。(以下「一蝶が四季の絵の跋」    省略。全文は「大田南畝全集」十八巻「英一蝶」の項「英一蝶四季絵跋」参照)    〔割註 此文(一蝶が四季の絵の跋)によれば、さすらへの間久かりしとみゆ。又世にいふ所の百人女    﨟に似たる事の咎めも有しにや〕一蝶が謫居の間、母妙寿尼〔割註 一蝶は多賀伯庵といひし医師の子    也〕は、友人横谷宗珉が家にやしなはる。一蝶帰りし後、正徳四年に身まかれり。宗珉が許に給仕せし    女(〔割註〕あり。略)の物語に、常に一蝶来りて三四日程止宿せし。大なる法師にて顔にもがさの跡    ありし也。また宗珉は痩がたちにてよき男なりといへり。一蝶は享保九年正月歿す。享年七十三といふ。    〔割註 二本榎なる承教寺の内顕乗院に葬る。日蓮宗也。墓所一覧に、字は君愛とあるは、法名の英受    をまがへたる歟(以下、略)〕     一蝶ハ近江産ナルベシ。按ルニ、江州ニ多賀氏アリ。朝湖ノ名モ、近江ノ人ナル故トシラル。浅妻舟     ノ作モヨシアル也。竜渓小説云、民部半兵衛ハ八丈島ニ流サル。南島雑話三宅島ノ条、富賀明神本地     薬師堂、十二神像一蝶ガ筆也。一蝶ハ此島ヘ流罪ニヨリテ、此外ニモ筆跡多シトイヘリ。又同書八丈     島ノ条ニ、宗福寺ノ薬師如来、大日如来ハ、法橋民部ノ作トアレバ、コレ又民部コヽニアリシ時作リ     シナルベシ。元禄四年日記、谷中感応寺、碑文谷法華寺、小湊誕生寺、悲田宗ト唱ヘ、御法度ノ不受     不施ノ類ナルニ依テ、御咎ヲ蒙ル事見エタリ     (以下、紀逸の雑話抄を引き、朝妻舟の画賛に言う近江の朝妻の江に関する記事あり。略)〟    〈「江戸真砂」は『江戸真砂六十帖』(「燕石十種」第一巻所収)。「百人女臈」の出版が原因で伊豆大島に流罪とす     る。「竜渓小説」は未調査。横谷宗珉は彫金師〉     ◇「横谷宗珉」の項 ⑦125   〝朝妻舟の小柄は、すべて銀の四分一がねにて、表は人に知りたる柳の蔭に船ありて遊女が乗りたる図。    裏は四分一銀に、金と銀と二筋斜に入りたる上に、彼歌を毛彫にしたり、常に一蝶が絵を以て彫ものゝ    下絵とす。昔後藤光乗は、狩野元信が絵を用ひて彫鐫せしと一般也。宗珉が子孫のもたりし、一蝶がか    ける蝙蝠の下絵は、美濃紙一枚にかはほり五つばかりあり。是も奇跡考に出たると異なり〟    〈「奇跡考」は山東京伝の考証『近世奇跡考』(文化元年刊)。本稿参照〉    ◯『赤穂義士随筆』24-55(山崎美成著・嘉永七年序)   (「大石良雄肖像」記事)   〝この肖像は、何人か涙襟集を彫刻するの時、東雅と云人の、藤原興礼に縮摸せしめて、かの書の首めに    加へたるなり。画は法橋光琳が筆、賛は俳師去来がみづから句をしるしたるにて、世にめでたきものな    り。この二子は、その頃同じ時の人なり。     興礼云、曾て世に伝ふる所の良雄と老僕との自画像。英一蝶画、妓楼の良雄遊宴図の外、未だ写真の     像有るを見ず。更に模範と為すべきもの無し。是を以て逡巡して日を経る。偶々一友の画軸を携へ草     盧を訪ふ者有り。展観すれば則ち此図なり。予雀躍に堪へず。即刻筆を採り之を縮写す。(以下、略)〟    〈「涙襟集」は『赤穂義士人の鑑』(桜東雄著・嘉永四年自序)の別名。「東雅」は「東雄」の誤りか。藤原興礼は未     詳。大石良雄の肖像は英一蝶の「妓楼の良雄遊宴図」にあるものと光琳の肖像図と二点あるという記事である。なお    「興礼云」以下、原文は漢文〉     ◯『柳庵随筆』⑰210(栗原柳庵著・成立年未詳)   〝一蝶 江戸真砂〔割註 和泉屋某作、宝暦の頃の書〕云、本石町三丁目村田半兵衛、絵師和応、仏師式    部とて、此三人は其頃の至り牽頭なり、其節六角越前とて新地一万石賜はり、屋敷小川町にあり。此越    前殿は桂昌院様甥のよし(姪婿なり)、京都より下り俄大名なり。(編者注、桂昌院の姪、六角越前守    の室の系図あり。略)金銀は不足なし。吉原へ右三人めしつれて通ひ賜ふ。大かた浅草伝法院へ入、裏    道より田甫にぬけ通りける。或時田甫に町人切殺して縮緬羽織から袖ちぎりしや落てかたはらにあり。    紋鶴の丸なり。大かた六角殿と知人申合ぬ。是によつて伝法院御吟味の上遠慮して引籠る。六角殿も申    訳立がたく知行めし上られ、外の大名へ遠く御預に被成し。其頃百人女﨟といふ書物一冊、本屋摺出し    ぬ。是は大名がたの御本妻の器量善悪をはじめ、食物の好不好、其品々を明白に仕たり、上より御咎あ    りて本屋牢舎になりて、何者の作り出せるとの詮議になり、村田半兵衛、絵師の和央、仏師の式部の作    なりと訴る。右三人めし捕れ、牢舎して伊豆の大島に流罪、十七八年めに帰参して、和央は英一蝶と名    を替へて暫く暮しぬ、半兵衛も式部も程なく病死す。〔割註 珍説反故文庫第四にも此説あり。文体全    く同じ。反故文庫は享保元文の作なり〕二本榎承教寺過去帳云う、英一蝶名信香、字君受、号北窓翁。    享保九年正月十三日歿。〔割註 顕乗院也。七十三歳〕或書云、呉服町一丁目新道勘右衛門店の者多賀    潮湖(四十二歳)。元禄六年酉八月十五日入〔割註 北条安房守掛り〕。御詮議之儀有之に付安房守宅    より揚り屋へ入。元禄十一年寅十二月二日三宅島え流罪、御船手逸見八左衛門方え渡ス。本石町四丁目    茂左衛門店仏師民部(編者注、「上立式」の添書あり)、本銀町三丁目次郎左衛門之者村田半兵衛、元禄    六年酉八月十五日入〔割註 是者朝湖一巻之者にて、御詮議有之間、安房守方より揚り屋へ入。右之者    共元禄十一年寅十二月二日八丈島え流罪、御船手逸見八左衛門方え渡ス。宝永六年九月大赦之節御免に    て参上〕秋興図奥書、元禄己巳正月吉祥日、狩林散人潮湖参藤原信香謹書(「潮湖」印)(「多賀氏」    印)深川宜雲寺伝説、宜雲寺開山卓禅和尚に参禅して島より帰りてのちは、当時裏門脇の小庵に住居せ    しなり。客殿の障子の裏に書たる松は、島にて常に見馴し松なりしとなり〟    〈「江戸真砂」は『江戸真砂六十帖』で『燕石十種』に所収。「村田半兵衛牽頭之事」の項参照〉     ◯『新増補浮世絵類考』⑪183(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
  ◇「英氏系譜」「英一蝶系譜」     ◇「英一蝶」の項   〝英一蝶    姓藤原、多賀氏、名は信香、一に安雄、俗称助之進、或は次右衛門、幼名猪三郎といふ。承応元年摂州    大坂に生る。父を多賀伯菴と云。某侯の侍医也。寛文六年十五歳の時江戸に下り、狩野安信〔割注 安    信は狩野孝信の三男、名永真、称源四郎、号牧心斎、右京之進と称す。入道して法眼に叙す。貞享二年    九月四日卒、七十三才〕の門人となる。剃髪して朝潮と称す。翠蓑翁、牛丸、暁雲、旧草堂、一蜂閑人、    隣樵菴、鄰濤菴、北窓翁、和央、和応等数号あり。性親に孝心ふかし。書を佐玄竜に学びて、後一家の    風をかきて書名あり。俳諧を芭蕉に学び、其角、嵐雪を交り深し。元禄十一年十二月〔割注 八年とす    るは非なり〕、呉服町一丁目新道に住し時故ありて謫せらる。時に歳四十七歳。一蝶に老母あり、剃髪    して妙寿といふ。一蝶、八丈島〔割注 一説に三宅島と云〕に流せられて後、横谷宗珉が家にやしなは    る。〔割注 宗珉俗称弥次兵衛、桧物町に住す。正徳三巳年三月晦日に歿す〕一説に、一蝶配流せられ    老母を養ふ親族なし。官舎へ此事を願ひ、謫居より画を売事を免ぜられてより、謫居の図をこまかに画    て、ひさぐべき画の中へ入て母の元へ送り越したりしが、宗珉の家に残りしを後に、三谷某の蔵になり    しと云。一蝶謫居に在事十二年、宝永六年九月〔割注 四年と為は非なり〕、帰郷して後、英〔割注     一説に花房とす。母の姓也と云〕一蝶と称し、北窓翁と号す。深川長掘町に住ぬ。其母一蝶帰郷の後、    正徳四年三月晦日歿せり。深川霊岸寺の後ろ海辺新田宜雲寺といふ禅院あり。一蝶帰郷して後、したし    く此寺に住ける由、寺中の絵障子のたぐひすべて一蝶の筆なり。ゆゑに世人一蝶寺といふ。其絵近頃の    回禄に亡しとぞ。享保九年甲辰正月十三日病て歿せり。享年七十三歳。二本榎承教寺塔中(日蓮宗)顕    乗院に葬す。      法名 英受院一蝶日意  辞世        まぎらかす浮世の業の色どりもありてや月に薄墨の空
       「英一蝶四季之絵跋」      湯原氏記に云、元禄七年四月二日、従桂昌院様、六角越前守御使被遣し金屏風一双(吉野、立田)多賀    朝潮筆本願寺也。同一双(大和耕作)同人筆新門也〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 二代    △『古今諸家人物志』p47(奥村意語編・明和七年刊)    (「英画」「英一蝶」の項)   〝長男 多賀長八郎    姓英 名信勝 字(空欄)号一蝶    先生の画を嗣ぐ 居東都中橋〟
 ◯『近世奇跡考』⑪356(山東京伝著・文化元年刊) (「英一蝶の伝」の項)   〝英一蝶 ──┬── 門人養子師家を続く 一舟【名信種、号東窓翁、俗称弥三郎。明和五年正月廿七     ┌────┘      日歿】   ├─ 男二世 一蝶【名信勝、俗称長八】     └─ 次男  一蜩【俗称百松、又源内、一説ニ号孤雲】〟
 ◯『新増補浮世絵類考』⑪183(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(英一蝶の)男 一蝶    【名信勝、号栗余、俗称長八、世ニ長八一蝶ト云。元文元年閏十一月十一日歿す。深川寺町陽岳寺ニ葬     ス。法名機外道輪居士】〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蜩    △『古今諸家人物志』p47(奥村意語編・明和七年刊)   (「英画」「英一蝶の項)   〝二男 多賀源内    姓英 名(空欄) 字(空欄) 号一蝶(ママ)    東都産 宝暦十年頃病卒 居東都〟
 ◯『近世奇跡考』⑪356(山東京伝著・文化元年刊) (「英一蝶の伝」)   〝英一蝶 ──┬── 門人養子師家を続く 一舟【名信種、号東窓翁、俗称弥三郎。明和五年正月廿七     ┌────┘      日歿】   ├─ 男二世 一蝶【名信勝、俗称長八】     └─ 次男  一蜩【俗称百松、又源内、一説ニ号孤雲】〟
   ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」  〝(英一蝶)二男    【名信祐、号湖窓翁、又孤雲、又名百松、俗称源内、後一舟ト改ム】〟    ☆ いってい はなぶさ 英 一艇 (英一蜂二代参照)     △『古今諸家人物志』p47(奥村意語編・明和七年刊)   (「英画」「英一蝶」の項)   〝男 一蜂男     姓英 名(空欄) 字(空欄) 号一廷    東都人。画を以て行る。居東武北鞘町〟
  ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)   〝(英一蝶)門人二代 一蜂    【始メ一艇ト云フ。天明八年六月十二日卒。西本願寺中真光院ニ葬ス】〟    ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 初代   △『古今諸家人物志』p47(奥村意語編・明和七年刊)   (「英画」の項)   〝英一蝶【名信賀/字暁雲】── 男一蝶【多賀源内】── 一烽(ママ)      姓英 名(空欄) 字(空欄) 号一烽 又号春窻翁    東都人。初め古先生に画を学び、而して後に古先生二男多賀源内の維跡を嗣ぎ、画を以て行る。元禄四    年辛未に生れ、遂に宝暦十庚辰年四月二十八日病没す。寿七十歳。墓は東都築地本願寺寺中真光寺に葬    る。居東武北鞘町。    一、絵本図編 三  一、同画編 三  一、両兎林 三〟    〈「国書基本DB」は『画本図編』宝暦二年刊、『両兎林』宝暦八年刊とする。「絵本画編」は未詳〉      ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(英一蝶)門人 一蜂    【号春窓翁、宝暦十年四月廿八日卒、深川法禅寺中南竜院ニ葬ス】〟    ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 二代   ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(「英一蝶)門人二代 一蜂    【始メ一艇ト云フ。天明八年六月十二日卒。西本願寺中真光院ニ葬ス】〟    ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿    ◯『新増補浮世絵類考』⑪209(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「鳥山氏系譜」の項 ⑪186 「鳥山石燕系譜」      ◇「喜多川歌麿」の項   〝喜多川歌麿    号紫屋、俗称勇助と云。江戸の産。居神田久右衛門馬喰町三丁目に住す。始狩野家の画を学び、後石燕    の門に入て一家をなす。男女の時世風俗を写す事上手にして、近世錦絵の花美を極めたり。生涯役者絵    をかゝずして、自らいふ、劇場繁昌なる故老若男女贔屓の役者あり。是を画いて名を弘るは拙き業なり。    何ぞ俳優の余光を仮んや。浮世絵一派をもて世に名を興すべしと云し也。其意に違わず。其名海内に聞    えたり。長崎渡来の清朝の商船より歌麿が名を尋ねて多く錦絵を求めたり。殊に春画に妙を得たり。文    化年間奥州岩城より来れる者あり。此人浮世絵を好むの一癖あり。元江戸の産なりしが、業を旅中にの    みす。南部出羽加賀能登に往来す。其頃一陽斎豊国の役者絵専ら行る。此人云、遠国他郷に行ては江戸    絵の名人は歌麿とのみ云て、豊国の名を知る人稀にもなかりしと云ふ。市川八百蔵一世一代おはん長右    衛門の狂言をせし時、桂川の似顔評判して求めざる人なかりし。歌麿は美人画にて長右衛門の道行の画    を出し、是が讃に、近頃の浮世絵かき蟻の如くに這出、むらがれる趣を悉く嘲哢して書たり。門人多く    浮世絵のみにあらず。花鳥虫魚の写真等精功綿密の彩色摺絵本多し。歿後の前草双紙問屋云合せ、歌麿    必此度は病死すべしとて、各錦絵板下を頼み、夥しき書物なりしとぞ。其外に画者なきが如く用ひられ    し人也。始通油町蔦屋重三郎と云絵双紙問屋に寓居せしと云ふ。後年絵本太閤記の図を出して御咎を受    たり。其後尚また御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく病て死す。画く所の画本は枚挙すべから    ずといへども一二を揚ぐ     吉原年中行事  十返舎一九彩色摺 二冊   絵本百千鳥  極彩色狂歌入     同 虫選    極彩色狂歌入        同 駿河舞  江戸名所狂歌入    吉原年中行事は大ひに流行す。作者一九云、吉原の事を委しく書し文章故行れしと云ければ、歌麿は絵    組ゆへ行れしと互に争ひ大に取合し事有しとぞ。是を以て察するに大にほこりし人と見ゆ〟    ☆ うたまる 歌麿 二代    ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「鳥山氏系譜」の項)「鳥山石燕系譜」   〝二代目 歌麿    【馬喰町ニ住ス。二世恋川春町ト云人也。書ヲ能ス。故歌麿ノ妻ニ入夫セシ也。錦絵アレドモ拙キ方、    文化ヨリ天保ノ頃ノ人、俗称北川鉄五郎】〟    ☆ うんこう せい 清 雲高   ◯『新増補浮世絵類考』⑪183(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)〝   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(高嵩谷二代門人)清雲高〟    ☆ えい 栄女    ◯『新増補浮世絵類考』⑪187(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「宮川氏系譜」の項)「宮川長春系譜」   〝(北斎)女子    始南沢ニ嫁シテ離別ス。父ニ学ンデ画ヲ能ス。栄女〟      ☆ えいいち 英一   ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」の項)「菊川英山系譜」   〝(渓斎英泉門人)英一    静斎ト号ス〟    ☆ えいざん 栄山    ◯『新増補浮世絵類考』⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「堤氏系譜」の項)「堤等琳系譜」   〝月岡氏、浅草山谷ニ住ス〟    ☆ えいざん きくかわ 菊川 英山    ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「菊川氏系譜」の項 ⑪186 「菊川英山系譜」   ◇「菊川英山」の項 ⑪206   〝菊川英山    名俊信、号重九斎、俗称万五郎、市ヶ谷の産、麹町に住す。父栄二に業を学びたり。〔割註 英二は狩    野流の門人東舎と云人の門人なり。板刻の画はかゝず。菊川一家の浮世絵師なり。造り花を業として近    江屋といふ〕北渓は幼年よりの友なりしかば、其画風を慕ひ、北斎流の画をかけり。故歌麿歿してより    歌麿が画風に似せて、板刻の美人画を出し行れたり。其頃豊国春扇ともに行れたり。始は役者も画り。    文化三四年頃、堀江町の団扇問屋故有て悉く豊国の新板画を不出、一年英山の役者絵の団扇計り出せし    事有。英山、豊国の両人交り深く、豊国の役者絵の上表紙へ一陽斎の画像を英山画き、英山の画に豊国    の寄合書等あり。諸侯方へも二人づゝ席画に出しとぞ。読本は不画、草双紙四五部あり。文政の末より    多く板下を不画〟    ☆ えいざん はるかわ 春川 栄山    ◯『新増補浮世絵類考』⑪205(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝春川栄山〟(名前のみ)    ☆ えいし 英之    ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」の項)「菊川英山系譜」   〝(渓斎英泉門人)英之    俗称 源三郎、麹町ニ住ス。読本多シ。木挽町〟    ☆ えいし はなぶさ 英之   ◯『新増補浮世絵類考』⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「英氏系譜」の項)「英一蝶系譜」   〝(嵩之)女 英之    【寛政三年六月三日卒ス。同寺ニ葬ス。早世】〟    ☆ えいし ほそだ 細田 栄之    ◯『新増補浮世絵類考』⑪205(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝細田栄之    姓藤原、名冨、治部卿と称す。号鳥文斎、始浜町又本所割下水に住す。天明より寛政の間浮世絵の風俗    を写して、錦絵に傾城美人画等多く専ら世に行る。もと狩野栄川の弟子にてありしが、浮世絵を画きし。    後、文竜斎に学び鳥居風の浮世絵をもしたひしかば、鳥居の鳥と文竜斎の字をとりて鳥文斎と号す。又    葛飾北斎が風をまねて、遊女を多く画きたれど甚だ拙かりし。門人栄理、栄昌、栄笑、其外多し。後故    在て姑く筆を止む〟    ☆ えいじゅ 英寿   ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」の項)「菊川英山系譜」   〝(渓斎英泉門人)英寿    俗称伊三郎、号英斎、浪花ニ住ス。錦絵読本多シ〟      ☆ えいしゅん 英春   ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」の項)「菊川英山系譜」   〝(渓斎英泉門人)英春    大木氏小石川ニ住ス。錦絵多シ〟    ☆ えいしゅん 英春   ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」の項) 「菊川英山系譜」   〝(渓斎英泉門人)英春    大木氏小石川ニ住ス。錦絵多シ〟    ☆ えいしょう 英章    ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」英山門人、名前のみ) 「菊川英山系譜」    ☆ えいしょう こういつ 光一 英章    ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」英山門人、名前のみ) 「菊川英山系譜」    ☆ えいしん 英信    ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」英山門人、名前のみ) 「菊川英山系譜」    ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉    ◯『【銀鶏一睡】南柯廼夢』⑳358(平亭主人(畑銀鶏)著・天保六年刊)   (「連月廿五日於平亭書画会諸先生入来之図」毎月廿五日、畑銀鶏主催の書画会に参加した人々の図)   〝岩井紫若・市川白猿・文雪先醒・可中先醒・歌川国直・歌川国平・梅月先醒・令裁先醒・立兆先醒・松    嵐先醒・花笠魯助・鐵鶏・轍外先醒・雲渓先生・豊明先醒・抱儀先生・稼堂先醒・焉馬先醒・雲山先生    ・鶏雨先醒〟
  〝会主銀鶏・梅翁先醒・万年橋先生・折違親玉・琴台先生・山鳥先醒・竹谷先生・樸々先生・英泉大人〟
  〝政徳先生・江山先生・櫟斎先醒・五山先生・四妍先生・大内先醒・薫烈先生・北峰先生・南溟先生・   (一字不明)斎先醒・方外先醒・杏所先生・城南先醒・常行軒先生・研斎先醒・五車亭大人・楽水先醒・    緑陰先生・文雄先醒・雪麿大人・梅子先醒〟
     ◯『新増補浮世絵類考』(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「菊川氏系譜」⑪185 「菊川英山系譜」
  ◇「渓斎英泉」の項 ⑪206   〝渓斎英泉    姓藤原、本姓池田氏、名義信、一に茂義、俗称善次郎、後里介、江戸の産、父母存在の中は遠不出。    〔割注 父は池田義晴、環山不言菴門人にて書を能す。読書を好み、俳諧茶事を好めり〕幼年の時狩野    白珪斎の門人となる。〔割注 白珪斎は赤坂某侯といへり。狩野栄川法師の高弟なり〕母は英泉六歳の    時歿す。父并継母に仕へて孝あり。其家まづしかりし。文化の始め、父母一年内に歿す。幼き妹三人を    養ひ、青雲の志ありて士官せしが、讒者の舌頭にかゝり、壮年にして流浪す。故に志を廃して浮世絵師    となれり。又戯場狂言作者初代篠田金治(後並木五瓶)の門に入り、千代田才市の名を継て作者となり    しが、再び画工菊川英二が家に寓居す。土佐の門に入てより、近国を遍歴する事三四年にして京都に帰    り、又宋明の画を好み、書を読むの癖ありて通宵眠る事を忘る。又戯作を楽みとして草双紙の作多く有。    〔割註 渓斎英泉と同名の人、下総にありしが、又上州にもありしと告来るものありしと。渓斎と云人、    江戸にも在、画風同じく板下をかゝず〕当時流行に傚て美人絵多く画り。又北斎翁の画風をも取り一家    となす。〔割註 其頃英山世に行れて、諸侯の召に応じ彩色画多くありしが、肥州侯に命ぜられ、門人    残らずの画を望たまふ。其列に入て英泉と画名を記し出せしより是を名とす。英山門人といふ始也〕是    一筆菴無名翁、国春楼北亭といふ。一筆菴は戯作の名なり。居を替るの癖ありて、始め番町後根岸新田    村根津池の端坂本一丁目、其外江戸数ヶ所に転宅して在所定まらず。吉原遊女の姿を写すに、悉く其家    々の風俗、襖姿を画くに役者の狂言振に似せず。今時世の形もあらたに画きしは此人なり。近頃国貞も    傾城画は英泉の写真に似せて書きしなり。又春画も有り。〔割註 団扇絵も多し。藍摺の山水は此人の    工夫なり。京大坂の読本をも江戸に在て画けり〕もとより名を好まず。凧を画き、羽子板幟の画に彩り、    需に従て辞する事なし。〔割註 職分筆の達者二人分をなす〕板刻の画本をかきかけて行所を知らず。    板元迷惑して所在を尋しに、娼門に酔て死るが如し。漸々にして其跡を画て是を与ふ。花金杉の浜に碇    屋六兵衛と云し魚問屋あり。〔割註 後に巴屋仁兵衛といふ板元なり〕従来錦絵其外の板元を業とする    事を好むが故に、泉を携て家に養ふ。泉衣類を借着して出て帰らず。主人漸々行所を知て尋しに、其衣    類を酒に換て酔て本性なし。虎蝮を生れながら鰈共々煮て是を喰ひ、猪を好て食し羽織を着し下駄をは    き、近辺に出しと思へば夜船に乗じて上総木更津に至る。〔割註 木更津より五里程入り周准郡より池    田氏の旧家あれば成べし〕かゝる放蕩無頼の人といへども是を悪まず。居を宗十郎町に定めてより、食    客を集て夜中門戸に錠を用ひず。家主後難を恐れ迷惑す。如此行状なれども、親類他人に金銭を借らず。    己れが業により価を得て捨るが如く遣ふのみ。後妻を迎へ子無きが故に一女子を養ふ。是より後人に帰    りて、板刻の絵に精を抽て昼夜寐ずして画り。天保の頃より筆を止め云、盛りあれば衰ふ。人に哢られ    んより哢るにしかじと、需るに不応して根岸時雨里に隠れ、根津花街等に娼家をせし事もあり。又根津    門前なる木村長右衛門が判を盗んで押し事あらはれんとしたる故亡命せしとぞ。壮年の行状すべてかく    の如し。嘉永申秋歿せり。     浮世画譜 自初編至十編 尾張永楽屋  錦袋画叢    大坂河内屋  武勇魁図会 二冊永楽屋     容艶画史       美人画の則也  絵本初心画譜  西村屋与八  画本錦之嚢   河内屋     通俗排悶録 十二冊     六樹園  松風村雨物語 十冊文東陳人  絵本応仁記   蘭山作     金鈴橘草紙  五冊      全亭  嫩髪蛇物語  五冊  全亭  水滸太平記   岳亭作     好文士伝         為永春本  総猿潜語    瀬川如皐作  開巻驚奇侠客伝 馬琴作    此外多くあり。枚挙に遑あらず〟    ☆ えいちょう 英蝶   ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「菊川氏系譜」(英山門人、名前のみ) 「菊川英山系譜」     ◇「菊川氏系譜」(渓斎英泉門人)   〝英蝶 初春川五七門人也。京師ノ人。江戸ニ歿ス。錦絵草双紙アリ〟    ☆ えいり 英里    ◯『新増補浮世絵類考』⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   (「菊川氏系譜」英山門人、名前のみ) 「菊川英山系譜」    ☆ えんきょう かぶきどう 歌舞伎堂 艶鏡    ◯『新増補浮世絵類考』⑪204(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝寛政中の人、役者似顔絵のみ画たれども、拙ければ半年計りにして行れず〟    ☆ おうきょ まるやま 丸山 応挙    ◯『北窻瑣談』⑮331(橘春暉著・寛政年間記・文政十二年刊)   〝応挙出て画風又一変し、近来唐画家も、和画家も皆、其風味を自然にまじゆる様に成りたり〟    △『続諸家人物志』p180(青柳文蔵編・天保三年)   〝円山応挙    名ハ応挙、字ハ仲選、儃斎ト号シ、主水ト称ス。京ノ人。始ハ石田幽亭ニ学ブ、後ニ南北ノ宋画ヲシテ、    我邦探幽以来ノ名筆ヲ一変シテ、新意ヲ出シ務テ前脩ト趣ヲ異ニシ、コレヲ以テ一家ヲナス。寛政七年    歳六十三ニニテ歿ス〟
 ◯『三養雑記』⑥131(山崎美成著・天保十年序)   (「虎の画法 画家の用意」の項)   〝ある画家の鯉魚をゑがけるを、魚商の見て、この鯉魚は死鯉なりといへり、そは眼中の黒眼、中央にあ    り。生けるときは傍らによりてありといへるとかや。これらのこと、画家には意を用ゆべきことぞかし。    たれもしりたる応挙が臥猪を画くと、同日の談なり〟    ☆ おうさい うめのもとの 梅の本 鴬斎    ◯『積翠閑話』⑩296(中村経年著・安政五年刊)   〝梅の本鴬斎画〟    ☆ おくむら 奥村    ◯『牟芸古雅志』(狂言堂如皐(二世瀬川如皐)編・文政九年跋)   ◇(外題)④220   〝宮古路豊後 宮古路豊太夫 同文字太夫/とをり塩町(瓢箪に篆字で「奥村」)はんもと    睦月の玉椿 かなむらやおさん 村上常五郎 名古屋心中 下之壱 はりましばゐにて仕候〟
  ◇「附考」④238   〝宮古路豊後掾稽古本の外題、名古屋心中は、はりま芝居にてとあれば、前に出せし操座の内、天下一播    磨とある芝居なりしや。豊後掾、文字太夫共に、元禄より寛保頃の者也。此頃は歌舞伎役者も操座勤め    しや。村上常五郎と云者、若(モシのルビ)人形遣ひにや。不知〟    〈斎藤月岑編『声曲類簒』「宮古路豊後掾橘盛村」の項に〝享保の末江戸へ下り、宮古路豊後掾とあらため【役者五雑     俎には享保十五年江戸へ下るとあり】葺屋町河岸播磨といへる小芝居を勤む。【此時睦月の玉椿心中といへるに、か     なむらやおさん村上常五郎、畳屋伊八に沢村喜十郎勤め、大当りをなせり。都て豊後が節所作によく合ふ節なれば、     分てこれを賞しけるとや】とあり、また、烏亭焉馬編『江戸芝居年代記』(「未刊随筆百種」十一巻)享保二十年、中     村座の項に「睦月連理玉椿」〝かな村やおさん姉川千代さん、畳や伊八 中村新五郎、おさん母 沢村宗十郎、しう     たん大当り、豊後ぶし上るり、珍しき大入り、大当也〟とある〉     <インターネット上「木村さんちの四方八方ばなし」のサイト「闇(くらがり)の森八幡社と名古屋常磐津」の項に〝豊    後掾は、この新作浄瑠璃(編者注、享保十八年十一月、闇の森八幡社境内で起こった心中未遂事件をもとにしたもの)    を巷の興奮覚めやらぬ、翌享保十九年正月、黄金薬師(現中区錦三丁目浄土宗円輪寺)で上演しました。外題を「睦月連    理椿(むつまじきれんりのたまつばき)」といいます。    椿は下に心が付く特殊な字です。」「豊後掾は、この大当たりに自信を得て、同享保十九年江戸へ下り、九月に葦屋町    河岸の播磨という小芝居で「睦月連理椿」を語りました。この興業も大当たりでした。この上で、享保二十年七月江戸    中村座で上演。「国太夫節の浄るりの文句いれての当たり」(役者福若志)、「豊後ぶしにてめずらしく、大入大当なり」    (歌舞伎年代記)という成功を納め、以後、豊後節は爆発的な大流行をし、一世を風靡しました〟とまとめてある>    ◯『筠庭雑考』⑧148(喜多村筠庭著・天保十四年序)   (「頭巾」の考証)    〝享保十九年 奥村 同時桜鐘「花盛りそれかあらぬか袖頭巾」〟
 ◯『続飛鳥川』⑩25(作者未詳・成立年未詳)   〝寛延、宝暦の頃、文化の頃までの売物    元日に番付売、初狂言正月二日始る。番附代六文、    一枚絵草紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり鳥居清信筆、其外奥村石川〟