Top           『日本随筆大成 第一期』         浮世絵文献資料館
   日本随筆大成 第一期          あ行                  ☆ あんど かいげつどう 懐月堂 安度    ◯『花街漫録』⑨317(西村貘庵編・文政八年序)   「奥州之図 日本戯画懐月堂安度図之 花明園蔵」(模写あり)   〝このうつし絵は寛文の頃茗荷や奥州といへる遊女のすがたにて、懐月堂【元和中浅草に住ひしける人に    て御府内浮世画師のはじめ也】といふ人の筆也。(以下略)〟    〈「御府内」とはいわゆる「朱引き内」と呼ばれるもので江戸市域をいう。『花街漫録正誤』は〝元和中の人にて御府     内浮世絵師の始とは何を以ていふぞ、滅法界と云も程のあるもの也。この人は奥村正信らと同時にて、享保の末に行     はれたり〟としている。「花明園」は未詳〉    ☆ いいつ 為一 (葛飾北斎参照)    ◯『還魂紙料』(柳亭種彦編・文政九年刊)   ◇「千年飴」の考証 ⑫210    「中村吉兵衛千年飴七兵衛に打扮肖像〔割註〕享保年間の一枚絵なり。丹黄しるの類にて色どれり」     (飴売七兵衛に扮した中村吉兵衛の模写に)   〝ぶしゆうとしまのこおり、えどこびき町、せんねんじゆめうとう、いとびんせんねんなりけり 中村吉    兵衛〟署名〝為一縮図〟〝いがや〟の版元印あり。    〝中村吉兵衛は異名を二朱判吉兵衛とて、世にしられたるかぶきの道化方なり。木挽き町とあれば森田座    なるべけれど、何といひし狂言か未考〟    〈原画は、飴売七兵衛(元禄宝永の頃実在)に扮装した中村吉兵衛をうつしたもの。絵師は不明。それを為一が模写し     たものだが、これは柳亭種彦の依頼であろうか〉     ◇「若衆人偶」の考証 ⑫221   〝むかし若衆人形といふ物あり。これは婦人の雛とは製作(ツクリザマのルビ)異にして小児の玩弄(テアソビ)にも    あらず。却て大人の愛興ぜしものなりとぞ。むかしの人情おもひやるべし〟   (『案内者』寛文二年板。『野郎虫』明暦板・『西鶴二代男』貞享板・『吉原つねつね草』貞享板の諸本    を引いて考証。この若衆人形は浮世人形とも呼ばれ、細工師として京都の細工山田外記の名があがる。    人形の模写図に〝歌城蔵〟〝為一寫〟とあり)    〈歌城は国学者小林歌城か。幕臣。通称田兵衛、初名元雄、字子駿号髠岳堂、雲衣堂、晩年剃髪して歌城とよぶ。幕府     大番頭。この歌城所蔵の若衆人形を北斎が模写したのであろう〉   ◇「七夕踊り 小町踊り かけ踊り」の項 ⑫264  〝正保のころの画巻に載たる七夕踊りの図、小町踊といふ則是なり〟    (「七夕踊り」模写あり。〝松羅館蔵〟〝為一摸〟とあり)    〈松羅館は西原梭江。山崎美成・谷文晁らと共に古書画・古器物の珍品奇物の品評会である「耽奇会」の会員である。     西原梭江の「耽奇会」の参加は文政七年五月十五日の発会から文政八年三月十三日の第十二回まで。(『耽奇漫録』     参照。平成六年刊、吉川弘文館)ともあれ、柳亭種彦の依頼と思われるが、北斎為一はこうした考証資料の作成のた     め、松羅館等好事家達の所蔵する珍物奇物の模写を行っていたのであろう。これがまた北斎の画業領域拡大につなが     っていったに違いないのである〉     ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶     ◯『骨董集』⑮375(山東京伝著・文化十年序)   (「耳の垢取」の考証)   〝英氏画譜にも耳の垢取の図あれども草画にて微細ならず、おもむきは此図(「耳垢取古図」)に異なる    ことなし〟    〈「英氏画譜」は鈴木鄰松摸写の『一蝶画譜』(明和七年刊)をいうか〉    ◯『花街漫録』(西村貘庵編・文政八年序)   ◇「安聰袖裡一蝶画文山之讃【絹地竪八寸二分横二尺六分】」(模写あり)⑨325~331     (梅の図に)〝香遠裳〟〝北窗翁一蝶画(篆字印あり不詳)〟    「同袖裡【竪八寸壹分横壱尺二寸】」     (牛牽く童子の図)〝若紫出重(一字不明)那良者引仁安加寸(「文山」印の讃)〟              〝北窗翁一蝶画(篆字印あり不詳)〟
  〝元禄の頃安聰といへる豪富の商家あり。紀文一蝶其角文山などゝ友たり。常にこの里に遊びて京町壱丁    め三浦屋孫三郎か抱遊女若紫に深くむつびにけり。ある時きぬ/\のあした、いとさむかりしを、若紫    がせつなる心にや、是をとておのが小袖をいだしたるを其侭きて帰りけるに、袖のせばさに白きかひね    りを袂にはきて、安聰下着とはなしたると也。其頃揚屋町海老屋次右衛門が宅にて、一蝶かの下着の袂    に戯に墨画をゑかきしかば、とりあへず文山讃をぞなしたりける。こは古今集とものりの歌に君ならで    誰にか見せん梅の花色をもかをもしる人ぞしるといへるを含みて香遠裳とかきたるなるべし。また片袖    に遊女若紫の葉をたちいれたる戯の詞なるか。是より漢語めきたるさまにものせるなるべし。これらは    風とおもひつきたる事なれともなみならぬぞかし〟    〈豪商・紀文(紀伊国屋文左衛門)、幇間にして絵師・英一蝶、江戸の俳諧師・宝井其角、書家・佐々木文山。元禄の     吉原はさながら、文化サロンである。遊女の着物に即興の揮毫、よく行われた趣向のひとつなのであろう〉
  ◇「竹村菓子箱絵」(「もなかの月」「まきせんべい」の図の模写あり)⑨349   〝(吉原江戸町二丁目、菓子屋竹村伊勢大掾の菓子箱絵の解説文に)此うつし絵をみかし入の箱折などに    はりつけもて印とはなしけり。こは狩野氏の画けるにて、ひとひらは英一蝶のものせる也〟    〈「最中の月」「巻煎餅」ともに、喜多川守貞著『近世風俗志』(嘉永六年成立)第二十編娼家下にいう「吉原名物」     の七品に入る。但し、「最中の月」の製造元は竹村伊勢ではなく、松屋忠次郎になっている。進物用でもあるらしく     〝正月遊客得意の家に往くに年玉の進物皆必らず之を用ゐ他品を贈ること之無し〟とある〉    ◯『柳亭筆記』④308(柳亭種彦著・成立年未詳)  (「角兵衛獅子」の考証)   〝(菱川師宣画の角兵衛獅子記事に続き)〔割註〕又一蝶にも画あり〟    ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂    ◯『用捨箱』⑬128(柳亭種彦著・天保十二年刊)   「折りかけ燈籠」(模写あり)   〝此半葉は画も発句も『父の恩』に見えたるなり。此草紙享保十五年刊行人の知り給ふ如く才牛斎三舛著。    沉詳の句は小島平七といふかぶきの追善なり  敦守の御臺の役にて世を去て二十余年 沉詳    折かけて扇のみかは魂燈篭    (笹に折かけ燈籠、藁つとの絵)英一蜂画〟    〈『父の恩』は二世市川団十郎編 英一蜂・小川破笠画。初世団十郎二十七回忌追善句集。享保期の代表的な「絵俳書」〉    ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉    ◯『鳴呼矣草』⑲274~283(大坂書林、河内屋茂兵衛出版目録・年代未詳)  ◇「大阪書林 河内屋茂兵衛梓」の広告 ⑲275   〝渓斎英泉画/画本錦之嚢/全一冊    葛飾戴斗画/万職図考/【初篇 二篇 三篇 四篇 五篇】全五冊    此絵本は金銀銅鐵、象眼、居物彫物師、堂塔宮殿の彫物、根付、櫛、笄、釵、諸金具、飾師、陶器錦絵、    沈金蒔絵、あるひは煙管張、花布(サラサ)糊置、上絵、染物形、幟画その外諸職にあつかふ図絵、山水、人    物、花鳥、虫獣等もつはら職巧の写真をもとむる。万家大に益ある絵手本なり〟    〈「国書基本DB」によると、英泉の『画本錦之嚢』は文政十一年刊。葛飾戴斗(これは二代目)の『万職図考』は初~     三篇は天保六年刊、四~五編は嘉永三年の序〉    ◇「浪華書肆 河内屋茂兵衛蔵板」の広告 ⑲283   〝六樹園大人訳 前篇六冊/通俗排悶録/渓斎英泉画 後篇六冊    此の書はもろこしの公事明断奇だんをあつめし誠に珍説といふ書なり〟    〈「国書基本DB」『通俗排悶録』文政十一~十二年の刊行とする〉     ☆ おうきょ まるやま 円山 応挙    ◯『著作堂一夕話』(曲亭馬琴著・享和三年序)   (曲亭馬琴の京・大坂遊学は享和二年七月三日~八月五日まで。『著作堂一夕話』はその折の見聞記)   ◇「富士の農男并浅間の弁」の項 ⑩307    〝近時俳諧師芭蕉生涯富士の発句なく、円山応挙富士を画ずといふ。ばせをは佳句の得がたきを嘆じ、応    挙は富士を見ざるをはづ。視て句のなきと、見ずして画(グワ)せざるとうらみそれ何(イヅレ)かふかき。    共に道に心を用る人といふべし〟    〈「写生」の応挙にふさわしい挿話ではある〉     ◇「烟花城書画展覧の目録」の項 ⑩343    (〝寛政十二年九月廿五日、東山双林寺において展覧する所の烟花書画の目録〟)   〝画軸 翠雲楼図【円山応挙画紫山□卿賛】柳巷菱屋所蔵〟
    ◇「烟花城書画展覧の目録」の項 ⑩346    (寛政十二年九月廿五日、東山双林寺において行われた烟花書画の〝本日席に掲げざる品物【十二種】”)  〝円山応挙画吉野像 田中氏所蔵〟     〈この目録は、曲亭馬琴がこの展覧会を直接観て書き記したリストではない。〝京師の友人より借抄す〟とある〉     ◇「応挙が臥猪并野馬の話」項 ⑩349    (嘯風亭の話として、応挙、己の写生画「猪」を見て「病猪」と指摘した老翁の言を容れ、再び「臥猪」     を描きしこと。また西定雅の話として、応挙若かりし時、自ら描いた「馬」画を「盲馬」なりと指摘し     た老翁の言を容れて健常の「野馬」を描きしこと)    〈嘯風亭は未詳。西定雅は俳諧の西村定雅〉    ◯『春波楼筆記』②31(司馬江漢著・文化八年成立)   〝京師に応挙と云ひ画人あり。生は丹波の笹山の者なり。京に出でゝ一風の画を描出す。唐画にもあらず。    和風にもあらず。自己の工夫にて、新意を出だしければ、京中之を妙手として、皆真似をして、甚だ流    行せり。今に至りては、夫の見あきてすたりぬ。又江戸は奥州の方へ属して、気質も京人のやうにはな    し。唐画にも、和画にも似ぬ風は、呑みこまぬ事にて、吾が自身工夫したりと云ひては、夫は法がない    と云ひて、請け取らず。然れども、画は其物の形を見て、其形に似るをよしとす。法手本とする処は、    即其物なりと心得たる者も無きにもあらず(以下略)〟    〈「唐画にあらず。和風にもあらず」というる応挙の画は江戸ではあまり評判よくないようだが、司馬江漢自身は、西     洋画法にも通じた人らしく「画は其物の形を見て、其形に似るをよしとす」として、肯定的である〉    ◯『雲錦随筆』③278(暁鐘成著・文久元年序)   (赤穂義士関係の記事)   〝或家の蔵に忠臣蔵の始終を写せし画巻物あり、其中に刃傷の図に同朋の箒持たる形成(アリサマ)あり目新ら    しきを以てこゝに模写す〟(模写図あり)   〝世に圓山應挙の画なりといひつたふ、左も有べき歟、実に名画なり〟