Top              『随筆百花園』             浮世絵文献資料館
   随筆百花園               あ行                  ☆ いっく じっぺんしゃ 十返舎 一九     ◯『椎の実筆』⑪317(蜂屋椎園著・天保十二年序)   (「一九の墓并英泉の墓」の項)   〝一返舎一九の墓ハ、下谷どぶ店善立寺【日蓮宗】にあり。     心月院一九日光信士【天保二卯年八月七日】    辞世 此世をばどりやおいとまにせん香とともにきえては灰さようなら 十返舎一九〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶     ◯『思ひ出草』⑦204(池田定常著・天保三年序)   (「宝井其角之事」の項)  〝新吉原の茶屋何某、新に壁を張り英一蝶に桜花の山に満てる図を画かしめ珍賞しけるを、酔客の酒に酔ひ、    硯を求め、其画のあきたる所に小便無用と書きける。主人甚怒りけれど客の事なれば、兎角に忍びたれど    も、張たて壁と云ひ、一蝶が画といひ、朝夕悔みけるが、其角来りたる時、是見給へ、かくのごとく狼藉    如何ともしがたしと言ひしかば、其角硯を求め、用の字の下に花の山と三字を題しけり。かしらよりよみ    て見れば、      此所に小便無用花の山    といふ発句になり画賛には殊に面白しとて、いよい珍賞せりとなん〟
 ◯『思ひ出草 続編』⑦304(池田定常著・天保三年序)   (「英一蝶の事」の項)   〝英一蝶は画工多賀長湖と称せしもの。罪ありて遠島せられ、姓名を更め、帰島の後英一蝶とて大に名は発    したり。其放自恣いふべきもあらねど、画は一代を圧し、其丹青之妙、杜工部が引なきこそ恨なるべし。    はじめは狩野安信が門人なりしが、狩野氏の家法を守らざるにより門を逐われ、遂に一風を画きいだせし    あさづま船といふ図は、此一蝶はじめてかきたるとぞ。その遠流せられしは、当世百美人といへる帖をも    のし、是を梓行せし嫌疑にかゝりたるかたもありたるにより、罪には処せられし。今画をよくする人のい    へらく、一蝶画法をも破りたれど、その実は画家の英雄ともいふべく、尋常の迹を履み株を守る器にはあ    らず。その画くものをみるに、一として古図に拠りたるはなく、皆新図にして彼の方寸より、山水、人物、    鳥獣、草木を生じたるなりとなん。張旭、懐素も素より古によりたるはなく、我が猩々房、探幽斎も、古    にもとづきたりといふにてもなければ、ひとり一蝶を罪すべからず。唯その才思にまかせ、縦横自在をき    はめ、あたりに画家なきの見解なれば、人またその縄墨の外に出たるを謗るもあんなれ。余が住か近く深    川海辺町といふに宜雲寺といへる禅刹あり。こゝに一蝶寓居して、壁障子にゑがきし所今に存せり。因て    世に一蝶寺といへり。今は取去る輩のために半あまりうせぬといへり。一蝶寺とはその墓地にやといふも    のあれど、彼墓所は伊皿子の承教寺といへる日蓮宗の寺にあり。先のとし百回忌の時、その門葉のものど    も打寄て法会をなし、人群集せりとなん〟
 ◯『椎の実筆』⑪402(蜂屋椎園著・天保十二年序)   〝宗達、光琳が草花、松花堂布袋、英一蝶が人物、平安の四竹、大雅堂、謝春生山水、応挙幽霊、森祖猿、    祇園南海梅、柳里恭竹〟    ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉     ◯『椎の実筆』⑪317(蜂屋椎園著)   (「一九の墓并英泉の墓」の項)   〝麹町十三丁目福寿院に、画工渓斎英泉の墓あり、     渓斎英泉 俗名善次郎義信    嘉永元申七月十三日、としるし、辞世の歌あり。     色どれる五色の雲に法の道心にかゝるくまどりもなし 一筆庵     春 帰る雁花を見すてゝ名残かな     夏 蚊屋ごしにうき世の月をみはてけり     秋 世の業も秋を限りや気草臥     冬 石塔の下や今年の冬ごもり〟    〈馬琴の「嘉永元年戊申日記」には七月二十二日の死亡とあり〉    ☆ おうきょ まるやま 円山 応挙     ◯『壬子作遊日記』〔百花苑〕④16(頼春水記・寛政四年三月二十九日記)   〝黄葉村舎     君啓、應挙、楠亭、白桃、狙仙ノ畫ヲミル〟    〈頼春水(山陽の父)が、福山藩神辺の菅茶山の塾・黄葉村舎にて一見したもの。京都の市川君啓、円山応挙、西村楠     亭・森狙仙。白桃は未詳〉    ◯『壬子東下日程暦』④62(頼春水記・寛政四年)   (頼春水、江戸に下る途中、寛政四年八月二十四日、草津宿、藤屋與左衛門宅にて)   〝與左(編者注、藤屋與左衛門)所ニ圓山ガ朝ノ一幅ヲヲサム。此画ニ来由アリ。胡屋某ハ圓山ガ妻ノ    縁アル者ニテ、恩義ヲ謝スルコトアリテ朝ヲ画キテ贈レリ。ソノカミ圓山ニ仙洞御所ヨリ御用アリシ    時、禁裏ヨリ御下ノ絵具ノ餘ヲモツテ朝ヲ画ケリ。ソノ胡屋ナルモノニ難アリテ京ヲ出シ時、與左コ    レヲ救フコトアリ。是ヲ謝スルトテ此画ヲ贈レリ。圓山自ラ云フハ、画ハ長進上達ノ日モアルベシ。如    此絵具ハマタ得ベカラズ。彼朝ヲカヘシタランニハ二幅対三幅対ハ望ニ任スベシト云ト〟    〈春水は翌年、帰省途中の九月二十四日、この地に再び一見している〉    ◯『癸丑掌録』④89(頼春水記・寛政五年)   (頼春水、江戸滞在中、正月記事)   〝方氏墨譜ニ南山玄霧ニアル豹ヲ寫シテ、圓山應挙ガ虎トシテ畫タル、備後神邊ノ良平宅ニアリ。作者用    意ヲ見ルベシ。同上千歳苓ト云ニアル松ヲ、五井ノ深みどりニ寫シタリトミユ〟    〈『方氏墨譜』は明人の墨匠・方于魯の「墨譜」〉    ◯『無可有郷』⑦381(詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保期成立)   (「浮世絵評」の項)   〝浮世画の名人は、よく其時の風俗を写すをよしとす。然れども画の名ありてより此かた、筆意といふこ    とを言ふ故に、蘭画のごときものは品を下して画に齢せず。是におゐて祖僲、応挙の輩写生より筆意を    加へて両全の謀をなす〟    ◯『在阪漫録』⑭333(久須美祐雋著・安政六年七月)   〝今年己未の七月、尼崎又右衛門より払物のよしにて、丸山応挙が筆の幽霊の図を慰にさし越せしにより、    四五日留置、壁上へ展置て熟覧せしに、美しき幽霊にて其齢ひ十七八にもなるべき女の容貌なり、表具    も画きし物にて、幽霊は素り腰より末はなし。表具も是に效ひて岱表具をうし浅黄に彩り、幽霊と共に    下の方は淡く消て彩りなく、八角なる水晶の軸を附たり。此画き方思ひ付の様なれども、我等が目にて    見る時は面白からず。且何ゆへにかく表具迄も下の方は消し様に画きし事に哉、其意解し難し。是にて    は全く懸ものに画し幽霊が懸ものともに幻出せし訳にて、真の幽霊とは思はれざる事にて、更に風致な    く面白からざる趣向也。これに比れば、画工は劣るとも、先年先君の御好みにて、表装を脱し出し体に    表具の上の方へ幽霊の頭抽て出し如くに御注文ありて、其通りに出来せし所蔵の一軸の方、万々風致あ    りて面白き事也。此応挙の幽霊、眼中之様子に正筆に相違もあるまじく思はるれども、是と感心する程    のものにあらず。素々応挙が画は写生の妙手にて、花鳥人物とも飛動の勢ひありて工手精筆には相違な    けれども、風韵高到の見処は更になく、夫故予は此画風は強て好まざるゆへにや、偶其真筆出来よろし    きものを借得て展覧するに、両三日も熟覧する時は自然あき厭ふ心ありて、永く愛観には堪ず。帰る処    は工手なれども、其筆力の及ぶ限りにて、筆外の風致余韵あらさるゆへなるべし。曽我蕭白が画を乞ふ    ものあれば答ていふに、足下は真の画を珍るにや、絵図を所望せらるゝにや、多分絵図かく事は丸山応    挙が名人なり、同人に請ひ給へ、我は真の画のみにて絵図は不得手なりと云しも、誣言にはあらざる也〟    ◯『椎の実筆』⑪402(蜂屋椎園著・天保十二年序)   〝宗達、光琳が草花、松花堂布袋、英一蝶が人物、平安の四竹、大雅堂、謝春生山水、応挙幽霊、森祖猿、    祇園南海梅、柳里恭竹〟