Top              『大田南畝全集』            浮世絵文献資料館
   大田南畝全集               あ行                  ☆ あしくに? 芦州〔生没年未詳〕   ◯『壬申掌記』⑨576(文化九年八月記) 〝浪花戯場、三やく 嵐吉三郎 中納言行平 左甚五郎 孔雀三郎 おやま人形 金太郎作 葩洲補助  〈松島検校調べの歌詞あり、略〉    人形 芦州画 甚五郎 蘆ふね画〟    〈大坂絵師。蘆ふねと同文。前項参照。「おやま人形」を画いたか〉 ☆ あしふね 蘆ふね〔生没年未詳〕   ◯『壬申掌記』⑨576(文化九年八月記) 〝浪花戯場、三やく 嵐吉三郎 中納言行平 左甚五郎 孔雀三郎 おやま人形 金太郎作 葩洲補助  〈松島検校調べの歌詞あり、略〉    人形 芦州画 甚五郎 蘆ふね画〟    〈大坂絵師。嵐吉三郎扮する左甚五郎役の役者絵を画いたようである。おやま人形を作成したらしい金太     郎と葩洲は未詳〉    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 〔承応元年(1652)~享保九年(1724)〕   ◯『一話一言 巻四』⑫185(安永八年記)   (「英一蝶の発句」の項目)   〝北窓翁一蝶のかけるものとて人のうつし置しをみるに、      近曾螺舎其角とゝもに、深川なる芭蕉庵に遊ぶ夕にかへる途中の吟、     たが(箍)かけ(掛)のたが(誰)たが(箍)かけてかへるらん      螺舎此句にはづんで、     世(身)をうすの目と思ひきる世に      螢星うつりかはり、芭蕉もやぶれ螺舎もくだけたるに、われのみのこる深川の、今日思へばはから      ざる世や  北窓翁賛画     【欄外。一蝶ハ永代橋ノワキ深川長堀町ニ住セシト】〟    〈某氏所蔵の〝北窓翁賛画〟を書写。一蝶と其角が深川の芭蕉庵に遊んで帰る夕べに吟じた発句と付け句     の写し。南畝は詞書と句の書留を見て写したようで一蝶の原画を見ていないようだ。一蝶と蕉門との親     密な交遊を示す資料である〉   ◯『通詩選諺解』①498(天明七年一月刊)  (南畝の狂詩「永久夜泊」に詞書) 〝永久夜泊【永久橋は崩橋の北にあり】     鼻落声鳴篷掩身 饅頭下戸抜銭緡 味噌田楽寒冷酒 夜半小船酔客人    船饅頭は食類にあらず、船中の遊女をいふ。古ぼちや/\のおちよといへる高名の遊女ありしとかや    英一蝶朝妻舟賛 あだしあだなみよせてはかへる波枕といへるもこの類にしてひんのよき物なり〟    〈南畝の狂詩は『唐詩選』所収、張継の詩「楓橋夜泊」を踏まえて、箱崎町辺に出没する「船饅頭(娼婦)」     を賦したもの。その「船饅頭」を一蝶の画く「朝妻船」の遊女に見立て、「ひんのよき物」としたとこ     ろが狂詩たる所以。一蝶絵画の代表作である「朝妻船」と、〝あだしあだなみ~〟で知られた一蝶作の     小唄「朝妻船」、ともに江戸人にとってはごく身近な作品なのである〉   ◯『一話一言 巻十一』⑫456(天明八年八月記)   〝其角が墓は二本榎上行寺にあり。そのむかひ来(ママ)教寺に英一蝶が墓あり〟    〈其角と一蝶の墓は向かい合って建っている。二人の仲は生前ばかりでなく、死後に至るまで親しい間柄     だと、江戸人は連想したのである〉   ◯『瀬田問答』⑰380(寛政二年八月以前)   〝英一蝶はじめは多賀長湖と申候由、大嶋え被謫候年月いつ比に候哉。     一蝶が事書留メ無御座候。猶亦可相尋候。凡元禄、宝永、正徳時分之者と被存候。    覃後按、古今人物志、英一蝶、姓多賀、名信香、字暁雲、暁雲堂、称北窓翁、号一蝶、又称簑笠翁、又    号潮湖斎、摂州人、以石州侯命師-事狩野安信、意匠運筆巧妙、遂作一家、承応三甲午年、生於摂州、    有二子、長男長八(信勝)、二男源内、享保九年甲辰正月十三日病没、享年七十一、初居深川長堀町、葬    東武麻布二本榎常教寺内顕乗院      辞世、まぎらはす浮世のわざの色とりもありとや月のうす墨の空〟    〈『瀬田問答』は故実考証家・瀬名貞雄と南畝との問答書。題名は瀬名と大田の名字からとったもの。そ     の中で、一蝶の三宅島流罪時期を南畝(覃)が瀬名貞雄に質問している。貞雄の返事は〝一蝶が事書留     メ無御座候。猶亦可相尋候。凡元禄、宝永、正徳時分〟というもの。この流罪には将軍家の関わりも噂     されていたから、おそらく差し障りがあったのだろう、貞雄の返答は誠にそっけないものであった〉   ◯『半日閑話 巻四』⑪146(寛政三年頃記か?)   (「英一蝶辞世」の項) 〝英一蝶    多賀信賀(香)、暁雲堂、北窓翁、簔翠(ママ)翁、潮湖斎、摂州人、事狩野安信、后立一家、享保九年正    十三卒、七十一。      辞世 まぎらはすうき世のわざの色どりもありとて月のうす墨の空〟   ◯『半日閑話 巻三』⑪104(寛政五年三月十九日記)   (「尾州戸山屋敷」の項)   〝寛政五年癸丑三月十九日、見分に参申候。同廿三日御成有之    尾州戸山屋敷一見の事(以下「御茶屋飾付」記事あり、略)      和田戸明神神神主宅     掛物 壱幅      釣瓶に燕の画 一蝶筆〟    〈この記事は寛政五年三月一九日のものとあるが、これは南畝の実見記事ではない。書写したものである〉   ◯『一話一言 巻二十二」⑬353(寛政十一年記) (石野広通の英一蝶作「あさづまぶね」考証)   〝あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ふねのあさましや、あゝ又の日はたれに契をかはして色を、/\、    枕はづかし、偽がちなる我床の山、よしそれとても世の中。     此一蝶が小歌、絵の上の書てあさづま舟とて世に賞玩す。一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画    才絶倫一家をなす。こゝにをいて師家に擯出せらる。剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ。元    来好事のものなり。謫居のあひだつくれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪あさ妻舟のあさ    ましや云々 此絵白拍子やうの美女、水干ゑぼうしを着てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にう    かべる船に乗りたり。浪の上に月あり。【此月正筆にはなし、たゞし書たるもあり、数幅書たるにや】    (以下歌詞の考証あり、略)〟    〈一蝶の「朝妻船」は文字どおり自画自賛なのである〉   ◯『浮世絵考証』⑱444(寛政十二年五月以前記)  〝英一蝶四季絵跋   夫大和絵は、そのかみ土佐刑部大輔光信がすさみに、堂上のうや/\しきより田家のふつゝかなるさま、 岩木のたゝずまひ、やり水のめいぼく、これにはじまりて末/\にながれ、予が如きのつたなきまでこ れをもとゝす。近頃越前の産、岩佐の某となんいふもの、歌舞白拍子の時勢粧をおのづから写し得て、 世人うき世又平とあだ名す。久く世に翫ぶに、また房州の菱川師宣といふもの、江府に出て梓におこし、 こぞって風流の目をよろこばしむ。此道予が学ぶ所にあらずといへども、若かりし時、あだしあだ波の よるべにまよひ、時雨朝帰りのまばゆきをいとはざるころほひ、岩佐、菱川が上にたゝん事をおもひて、 はしなきうき名のねざしのこりて、はづかしのもりのしげきことぐさともなれり。さるが中にあたりて 謫居さすらへし事十とせにあまり、廿とせに近きを、ありがたき御恵のめでたきもとの都にかへり来る。 あるひとむかしの筆の四時のたわぶれ絵をふたゝび予に見す。其頃は心たくましく眼すゞろに、髪筋を 千すぢにわくる事くさもことたらざりけらし。しかし今の世のありさまにくらぶれば、髪のつとゑりを こへず、ふり袖大路をすらず、たゞあまざかる田舎おうなの絵姿とも思ふべからん。蛍星うつりかわり てこの一巻を見る事、浦嶼が七世のむま子に逢へるためしにひきて、かつはよろこびをそふるの心にす。 これがために跋書。 英一蝶 按ずるに、一蝶はもと多賀朝湖と云絵師也 姓は藤原名は信香 字は暁雲、翠簔翁、暁雲堂とも云。 表徳は和央。呉服町壱丁目新道に住せし頃罪ありて元禄十一寅年十二月、三宅島に流さる。時に歳四 十六也。宝永六年丑九月御赦免、江戸深川に住す。これ謫居よりかへりての文なり。 享保九辰年正月十三日没。 湯原氏記に云、元禄七年四月二日従桂昌院様六角越前守御使被遣之、  金屏風一双【芳野竜田】多賀朝湖筆  本願寺え  同 一双 大和耕作 同人筆   新門え〟    〈岩佐~菱川~英一蝶という南畝の浮世絵系譜は、一蝶の「四季絵」の跋に拠っているのではあるまいか。     なお「湯原氏日記」にある桂昌院(三代家光の側室)から〝新門え〟贈られた品については記述がない〉   ◯「序跋等拾遺」⑱629(文化三年記)  〝一蝶画浅妻船に寄せて中車に送る扇面〟〝酔沙鴎一潮書〟    〈中車は役者市川八百蔵か。酔沙鴎一潮は南畝の仮号であろう。扇面に一蝶の自筆画があったわけではあるまい〉   ◯『一話一言 巻二十五』⑬464(文化四年十月上旬記)  (「英一蝶系図」の項)   〝【初 藤原信香多賀長湖 後 翠簑翁和央】 二代実子   弟子    弟子    弟子     英一蝶───────────────┬── 一蝶 ── 一舟 ── 一川 ── 一圭                      │   弟子    子                       ├── 一峰 ── 一蜒   │   弟子    弟子   └── 嵩之 ── 嵩谷    ◯『一話一言 補遺参考編三』⑯435 (文化七年記) (「南畝が買いもらした奇書」の項)   〝予【南畝】生涯奇書をたしむ事甚し。家に蔵る処の奇書残本畸冊の類、書攤に得るもの多し。故にその    値を購ずる事ならずして、買失ひしもの胸臆の中に往来して、時々忘るゝ事あたはず。戯に其一二を書    つく〟   〝英一蝶が藤原信香の(一字欠)大神楽の画〟    〈南畝個人の好みか、江戸人共通の趣味か、一蝶画の人気は高い〉    ◯「書簡 212」⑲266(文化九年十一月十六日明記) (この日、芭蕉以下蕉門の書画を夥しく所蔵する深川の〝こいや伊兵衛〟宅に一蝶画を見る。鯉屋は芭蕉 の門人杉風の子孫) 〝朝湖〈一蝶〉之朝顔之画に翁〈芭蕉〉之色紙などは奇々妙々〟    ◯『一話一言 補遺参考一』⑯84(文化九年十一月記)    〈前項参照。深川鯉屋にて、芭蕉の〝朝顔にわれは食(メシ)くふおとこ哉〟の発句に、一蝶の朝顔画(紙地・立軸)を一見〉    ◯『壬申掌記』⑨566(文化九年十二月上旬記) 〝薛球、字君授といふものヽ彫し印を、英一蝶所持せし也。今三河町三文字屋に蔵す〟    ◯『南畝集 十八』⑤281(文化十年四月上旬賦)(漢詩番号3768)    〈かつて一蝶が仮寓したという宜雲寺(一蝶寺とも称す)に、南畝、友人中井董堂と訪れ賦詩。ただし詩      は一蝶と無関係なので省略〉    ◯『万紅千紫』①269(文化十一年頃の詠か?)  〝英一蝶がゑがける太神楽の賛   から獅子の舞はぬ先から里の子が   手の舞足のふむを覚えず〟    〈この〝太神楽〟の画は、前出『一話一言 補遺参考三』⑯四三五にある「南畝の買いもらした奇書」のことであろうか〉     ◯『半日閑話 次五』⑱205(文政二年十月記) (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録)   〝松竹梅の間 同 抱一筆    袋戸、松竹梅、同筆。釘隠、鶴亀松竹。床掛物、一蝶、飛獅子〟    〈これは南畝の実見記事ではないようだ。杉本茂十郎とはこの年冥加金不正で役職剥奪された人。庵は元  料亭を贅を凝らして改装したもので、大雅堂、応挙、嵩谷、酒井抱一、谷文晁らの絵画で飾られていた〉    ◯『仮名世説』⑩529(文政八年一月刊)  〝英一蝶、晩年に及び手がふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ひたるが、それしもこゝろのまゝ    にもあらざりければ、     おのづからいざよふ月のぶんまはし〟    〈これは南畝が絵師高崇谷から聞いた挿話。しかし初代一蝶は享保九年(1724)七十三才没、一方、崇谷     の生年は享保十五年(1730)とされる。したがって二人に面識のあろうはずもない。崇谷にとってもこ     れは伝聞なのである。なおこの挿話が二代一蝶のことだとすると、二代目は元文二年(1737)四十七才     の没(「江都墓所一覧」は元文一年没)であるから、崇谷は当時六~七才。相識の可能性もないではな     いが、「仮名世説」に取り上げられた他の人物の知名度や、発句の引用などを考慮すると、この挿話は     やはり初代一蝶のものと見なしてよいのだろう〉    ◯『一話一言 補遺参考編三』⑯493(年月日なし)    〈南畝、「川岡氏筆記」より英一蝶関係の記事を書写。記事は、一蝶流罪の原因が、将軍綱吉と寵愛のお     伝の方を画いたとされる「百人女臈」の絵にあるのではなく、一蝶の無益な殺生にあるとするもの。が、     真相は謎のようだ。「瀬田問答」にもあるように、流罪の穿鑿は南畝の関心事で有り続けたようだ〉    ◯『麓の塵 巻三』⑲510(年月日なし)  〝短夜の早歌 北窗翁一蝶事 和央作〟  〝一蝶の小歌 右は一蝶の花の歌なりと井上蟻雄の物がたり也〟    〈一蝶の和央名で詠んだ歌詞二点、南畝書写。井上蟻雄は南畝の友人であろうが未詳〉    ◯『麓の塵 巻五』⑲517(年月日なし)  〝四季絵跋 英一蝶〟    〈『浮世絵考証』参照。全文書写あり〉    ◯『続三十輻 巻九」』⑲554(年月日なし)  〝朝清水記 英一蝶〟    〈『続三十輻』は南畝の和文関係の写本叢書。元禄十五年(1702)刊の「朝清水記」もこの叢書に所収。     南畝は一蝶を音曲の作詞家としても高く評価しているようだ〉    ◯「杏花園叢書目」⑲497(年月日なし)  〝続三十輻 二集 朝清水記 英一蝶〟    〈「杏花園叢書目」は南畝の蔵書目録。前項と同じものである〉  〈南畝の個人的興味なのか、それとも江戸人共通の関心なのか、流人画家・英一蝶に関する書留は多い。   絵はもとよりその生き方まで注目された絵師というのも珍しいのではないか。蛇足ながら言えば、天明四   年刊、四方山人(南畝)作の黄表紙に「此奴和日本」という作品がある。挿絵は北尾政美が担当した。そ   の中に一蝶の掛け軸「女達磨」の絵が床の間に掛かっている場面がある。この「女達磨」は吉原・中近江   屋遊女半太夫をモデルにして一蝶が画いたとされ、彼の代表作「朝妻船」に匹敵する人気の高い絵柄であ   った。これをさりげなく黄表紙の挿絵に登場させたアイディアは、はたして南畝のものなのか、政美のも   のなのかよく分からないが、いずれにせよ、一蝶が江戸人の脳裏から離れることのない存在であったこと   は確かなようである〉   ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿 ◎〔宝暦三年(1753) ?~文化三年(1806)〕    □「判取帳」(天明三年頃成)  (屏風の版画貼込図あり) 〝口演 此度画工哥麿義と申すり物にて 去ぬる天明二のとし秋忍が岡にて 戯作者の会行いたし候より    作者とさく者の中よく 今はみなみな親身のごとく成候も 偏に縁をむすぶの神 人々うた麿大明神    と尊契し 御うやまひ可被下候以上 四方作者どもへ うた麿大明神〟    〈南畝の注には〝画工哥麿〟とあり。南畝と歌麿との交渉は天明二年秋には始まっていた。歌麿が縁結び     の神となったらしいこの会の参加者は、「判取帳」の翻刻者・浜田義一郎氏によると〝屏風の版画貼込〟     の中にある名前の人々がそうであるらしく、次の顔ぶれとのこと。四方赤良・朱楽菅江・市場通笑・芝     全交・里舟・岸田杜芳・恋川春町・朋誠堂喜三二・森羅万象・南陀加紫蘭(窪俊満)・山の手馬鹿人・     烏亭焉馬・志水燕十・伊庭可笑・雲楽斎・田螺金魚・風車、以上が戯作者。そして絵師の出席者として     は、北尾、勝川、清長の名ありとする。この「北尾、勝川」は重政と春章であろうか〉    ◯『源平総勘定』(黄表紙) ⑦501 (天明三年刊)  〝四方山人著、うた麿画〟(蔦屋板)    ◯「序跋等拾遺」⑳52(天明四年刊)  〝天明四年『古湊道中記』跋(【小本一冊、房州誕生寺案内記。天明四年四月十三日山谷不可勝序。喜多    川歌麿筆。蔦屋板。(跋文、略)〟    〈南畝が跋を認めたのは大田家自身日蓮宗だからであろう〉    ◯『二度の賭』(黄表紙) ⑦296(天明四年刊)    〈「源平総勘定」の再版〉    ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前記) 〝喜多川歌麿 俗称勇助 はじめは鳥山石燕門人にして狩野家の画を学ぶ。後男女の風俗を画がきて絵草紙屋蔦屋重三郎方に寓居    す。今弁慶橋に住す。錦絵多し〟    ◯『半日閑話 巻八』⑪245(文化一年五月十六日明記)   (「絵本太閤記絶板仰付らる」の項) 〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き    出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、    絵草子屋への申渡書付有之〟    〈歌麿、豊国が連座した「絵本太閤記」事件の処分を書き留めたもの。南畝と歌麿との交遊は天明期だけのようである〉   ☆ うんぽう おおおか 大岡 雲峰 ◎ 〔明和二年(1765)~嘉永元年(1848)〕   ◯「寸紙不遺」⑯口絵(文化八年三月二十日明記)    〈「寸紙不遺」は南畝の貼込帳。文化八年三月二十日、村田雲渓主催の書画会(於池之端蓬莱亭)を報知  する引札。山本北山の書と雲峯の花鳥画が刷り込まれている。出品者は書家として北山・桂園・詩仏  (大窪)・米菴(市川)・牛山(筧田)・東洲(佐藤)、そして南畝。画家は翠雲(山本?)・金陵(金  子)・曲阿(清水)・閑林(岡田?)・痴斎(谷文一)・董烈(井戸?)・(大岡)雲峯〉   ◯『あやめ草』②93(文政四年十一月詠)  〝雲峯のゑがける雲に郭公  ほととぎすなくてふ夏の雲の峰たてたる筆のひとはしり書〟    〈南畝はこの雲峰を大岡雲峰と明記しているわけではないのだが〉    ☆ えいし ちょうぶんさい 鳥文斎 栄之 ◎〔宝暦六年(1756)~文政十二年(1829)〕    ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前記)  〝栄こく(ママ) 細田氏。弟子 栄理 栄昌   遊女の姿絵をうつす事妙なり。錦画多し〟    ◯『南畝集 十四』④341(文化一年十月上旬賦)(漢詩番号2545)  〝戯題栄之娼妓図 脱却華袿羅帯垂 画屏風外歩遅々 双眸斂鬢掻頭正 応是紅閨進寝時〟    〈遊女、髪・簪を正して閨に入る図である〉    ◯『放歌集』②162(文化八年七月詠)  〝鳥文斎栄之三幅対の画の表具に書ちらせり    左 つとにしたる赤貝より傾城のすがたを吹出したる表具に、大尽舞のうたをかきて一文字に 花さかば御げんといひしあか貝のしほひの留守に使は来たり 中 蛤貝より青楼の屋根の形と土手を四ツ手駕籠の通ふるかた吹出したる絵書きたる表具に、まことはう その皮、うそは誠のほね、のことば書とたはれ歌をかきて一文字に   遊君五町廓 苦海十年流 二十七明夢 嗚呼蜃気楼 右 苞にしたる蜆貝よりかぶろ二人ふきいだしたるに、表具には、河東節の禿万歳の文句をかきさして しヾみ貝つとめせぬ間にさく梅の雪だまされし風情なり平〟    〈貝から蜃気楼が立ち上るように、遊女・日本堤・二人禿が吹き出された図柄の三幅対である〉   ◯『千紅万紫』①241(文化八年七月詠)    〈前項「放歌集」②一六二に同じ〉    ◯「一話一言 補遺参考編一」⑯一一二 (文化十年三月七日明記)    〈安田躬弦の「やよひばかりすみだ川にあそぶ記」によると、この日桂雲院主催の遊山があった。藤堂良     道、躬弦、南畝等が参加。この時、栄之は南畝の勧めで三囲稲荷から白髭社の傍ら西蔵院まで合流する。     同院では栄之が注連を張った黒い大石を畳紙に写している。南畝はその絵に和歌と狂歌を寄せたようだ。     栄之は南畝の口利きでこの一行に合流したのだから、二人はよほど親しい仲であった〉   □『蜀山人の研究』P176(文化十一年一月二十九日明記) (大田南畝の肖像画。栄之画に自賛)    〝元日の翁わたし、二日の茶屋の亥の日の約束はさらなり、 大つもごりの装束榎の狐を見んと (中略)    これや吉書はじめといふなるべし、文の化たる十一のとし、むつきはつかあまり、こゝのか、貧乏神の    御逮夜にしるす  六十六翁蜀山人〟    〈この狂文は『半日閑話 巻十八』⑪五四四「吉書初」と同文。ただし『半日閑話』にある“年もはやす     でに日本の国の数猶万国の図をやひらかん〟の狂歌はこの肖像画にはない。また『四方の留糟』②一九     六「吉書初」と『巴人集拾遺』①四七九「甲戌の春」にも同様の文があるが、いずれも“元日の翁わた     し、~ 約束はさらなり〟の冒頭を欠く〉  □ 同上 p729(文化十一年明記)    〝鏡にて見しりこしなるこの親父お目にかゝるも久ふりなり     天明の比の四方赤良享和已来の蜀山人六十六歳書                        鳥文斎栄之筆〟    ◯『大田南畝全集』巻一・口絵(文化十一年秋明記)   (大田南畝の肖像画・画賛) 〝   〝天明の四方赤良、文化の蜀山人     鏡にて見しりごしなる此親父おめにかゝるも久ぶりなり     年もはやすでに日本の国の数なを万国の図をやひらかむ〟       庚戌秋日書于緇林楼中                  鳥文斎栄之筆〟    〈文化十一年、南畝は六十六才。齢、六十余州の日本の国数を越えて、なお心を広く開こういう決意であ     る。この画は現在東京国立博物館蔵。以上、文化十一年、栄之によって描かれた大田南畝の肖像画は三     点ある。しかし絵柄は全く同一である。相違するのは揮毫の時期、正月、秋などとある。なぜ三種類の     賛を持つ栄之の南畝肖像画が存在するのであろうか。不審である〉   ◯『六々集』②221(文化十二年一月賦)  〝題栄之画    一入大門口 栽桜花若人 中町多茶屋 七軒七福神〟    〈吉原を描いたものに、南畝の狂詩〉    ◯「書簡 225」⑲278(文化十二年三月二十六日付)    〈長崎の知人宛書簡。当時、南畝が交遊する江戸在住の〟名人〟として、酒井抱一らとともに栄之の名も     あり。以下のように紹介している〉  〝栄之 細田弥三郎、画人、狩野栄川院門人、浮世絵名人〟     ◯『七々集』②269(文化十二年十月上旬詠)  〝栄之がゑがける柳に白ふの鷹に   右にすえ左にすゆるひともとの山気はみどり鷹はましらふ  同く紅梅に鷹  くれなゐの梅咲匂軒ばうちとまれるはたが屋かた尾の鷹〟  ◯『七々集』②270(文化十二年十月二十二日詠明記)   (「白木や夷講 十月廿二日」)   〝白木屋にて栄之のかける黄金の竜の富士の山こす絵に  としヾヽにこがねの竜ののぼり行ふじの高ねの雪のしろきや〟    〈日本橋・白木屋の〟売子〟(手代?)重兵衛という人が狂歌を詠むらしく、南畝と交渉があった。夷講     に招かれたのはその縁なのだろう。ところで夷講は十月二十日が一般、それが白木屋では二十二日、何     か特別な事情でもあるのだろうか〉    ◯『万紫千紅』①293(文化十二年十月二十二日詠明記)  (「白木屋夷講 日本橋白木屋」)
  〈以下前項「七々集」②270に同じ〉
   ◯『七々集』②275(文化十二年十一月中旬詠)   〝栄之のゑに瀬戸物町のおのぶと駿河町のおかつをかけるをみて  われものヽ瀬戸物町もさだ過ぬ島田も丸くするが町より〟    〈「おのぶ」も「おかつ」も当時高名の芸者。特に「おかつ」は〝詩は五山役者は杜若傾はかの芸者はお     かつ料理八百善〟(蜀山人作)と狂歌に詠まれるほどの売れっ子芸者。南畝はよほど気に入ったとみえ、     数多くの狂歌・狂詩・漢詩を作ってその美貌と芸を称えている。なおこの狂歌に詠みこまれているその     他の人々は、詩の菊池五山、役者の岩井半四郎、遊女かの(吉原若菜楼抱え・私衣(なれきぬ)、そし     て料亭の八百善である〉    ◯『七々集』②290(文化十二年十二月記?)  (南畝の序「豆男画巻序」) 〝(上略)豆右衛門のむかしがたりを、鳥文斎の筆まめにゑがヽれし一巻に、わが口まめの序をそえよと    (以下略)〟    ◯『万紫千紅』①293(文化十二年十二月記か?)    〈「豆男画巻序」前項『七々集』②二九〇に同じ〉     ◯『南畝莠言 巻上』⑩397(文化十四年十月刊)    〈「(七十五)戻摺石并図」という挿絵に〝鳥文斎写〟とあり〉    ◯『南畝集 二十』⑤492(文政二年九月中旬賦)(漢詩番号4503~4)  〝題鳥文斎細田栄之画山水   陳琳一檄粲成章 曹瞞頭風起臥床 瞥見栄之山水賦 当治愈疾与膏肓〟 〝其二  貴戚王侯何不明 紛々画院費経営 一時名手避三舎 養朴探幽疑再生〟    〈狩野養朴、探幽の再生かと、南畝は栄之の山水画を高く評価している〉    ◯『紅梅集』②383(文政三年一月中旬詠)  〝吉原桜 栄之画。太田姫いなり奉納   よし原もよし野の花の白雲をみるやまがきのもとの人丸〟    〈太田姫稲荷は駿河台淡路坂上にある太田道灌が勧請したという社〉  ◯「南畝文庫蔵書目」⑲418(年月日なし)   (「巻軸」の項に栄之画二点所蔵) 〝吉原八景 一巻 鳥文斎栄之〟  〝吉原漏刻(ドケのルビ) 一巻  同上〟  (「巻軸書画」の項に一点所蔵) 〝雪天遊覧 一巻 鳥文斎 栄之画〟    〈作品の成立時期および南畝の所蔵時期は不明。また「巻軸」と「巻軸書画」との相違も未詳〉     ◯「かくれ里の記」①318(年月日未詳)    〈四方赤良の狂文「かくれ里の記」は天明一年三月の成立。それを花笠文京が天保七年(1836)〝鳥文斎     栄之翁古図〟に拠ったとする〝香蝶楼国貞〟の挿絵を添えて出版したもの。栄之がいつ画いたか未詳。     天明一年当時でないことは確かだが〉    ◯「書簡 327」⑲340惠(年月日未詳)   (「甘左衛門宛」蜀山人名の返書)  〝栄之巻物よろしく出来候由大慶仕候。京城四時楽は栄之へ遣候節取出し、例の地獄箱へ入置候間、早々    見出し上可申候〟    〈宛名の甘左衛門は未詳。栄之と南畝の交渉は文化八年以降のようだ。「京城四時楽」も「地獄箱」もと     もに未詳〉
 〈南畝と栄之の交渉は、山東京伝や北尾政美(鍬形惠斎)そして窪俊満は別として、他の浮世絵師に比べる   とより親密である。栄之の名は文化八年頃から南畝の書留に登場してくるが、文化十一年から十二年にか   けて頻出する。なかには栄之の席画に蜀山人の即吟・席書きということも結構あったのではないか〉
  ☆ えいしょう 栄昌 〔生没年未詳〕     ◯『浮世絵考証』⑱445(寛政十二年五月以前記)  〝栄こく(ママ) 細田氏  弟子 栄理 栄昌〟    ☆ えいり 栄理 〔生没年未詳〕     ◯「浮世絵考証」⑱445(寛政十二年五月以前記)  〝栄こく(ママ) 細田氏  弟子 栄理 栄昌〟   ☆ えんじゅ 燕寿 〔生没年未詳〕     ◯『月露草』⑱9(安永八年八月十七日明記)    〈安永八年八月十三日から十七日にかけて、南畝の呼びかけによって、高田馬場五夜連続月見の宴が行わ  れた。『月露草』はその折、参加者が作った歌・連歌・俳諧・狂歌・狂詩・狂文を集めたもの。燕寿は     石燕等とともに「新長庵ばろく」と「米汁」の句へ挿絵を二葉。燕寿は石燕門人と思われる〉   ☆ えんじゅう しみず 志水燕十 ◎ 〔生没年未詳〕    ◯「序跋等拾遺」⑱528(天明三年一月刊)    〈燕十作洒落本「滸都洒美選」(蔦屋板)に〝四方山人〟の署名で南畝の序あり〉    ◯「杏園稗史目録」⑲463(天明三年一月刊)    〈「滸都洒美選」南畝所蔵〉    □「判取帳」(天明三年六月十九日明記)  〝入置申判取帳 (中略)  天明三年卯年六月十九日 志水燕十〟    〈赤良の注として「鈴木庄之助住根津」とあり。南畝に絵師燕十としての記事は見当たらない〉   ☆ おうきょ まるやま 丸山 応挙 〔享保十八年(1733)~寛政七年(1795)〕    ◯『南畝集 二十』⑤485(文政二年五月下旬賦)  〝題応挙画鶴   聯翩何処鶴 鑑影立汀洲 一片葦間雪 漣漪清不幽〟    〈どこで一見したものか記述がない〉    ◯『半日閑話 次五』⑱205(文政二年十月記)   (杉本茂十郎旧宅、恵比須庵の書画目録)   〝二階 襖、ばせを布、銀押。素川□(ママ)山水墨画。      床、応挙の竜。袋戸、素川四季の花〟    〈英一蝶の項参照〉    ☆ おくむらは 奥村派    ◯『放歌集』②174(文化八年十二月賦)  〝題古一枚絵     北廓大門肩上開 奥村筆力鳥居才 風流紅彩色姿絵 五町遊君各一枚〟    〈奥村派、鳥居派の全盛時代は紅摺の一枚絵であった。この絵は吉原の遊女〉