☆ 享和二年(1802)
◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①256(森山孝盛著・享和二年(1802)序)
〝こま廻しの玄水は、今に浅草に居て、若君様始て浅草辺へ被為成時は一番に御覧に入るなり、冥加なる
渡世なり〟
☆ 天保十四年(1843)
◯『浪華百事談』〔新燕石〕②228(著者未詳・明治二十五~八年頃記)
(天保十四年(1843)頃の記事)
〝江戸竹沢藤次、曲ごま、是は天保十年の頃より、大坂にて難波新地に於て興行、其度ごとに大入せり、
此処にては、忰万治と共に興行して、大に流行〟
〈この見世物は天保十四年頃の大坂西横堀下流新築地で興行されたもの〉
☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥301(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)
(天保十五年・1844)
〝二月ヨリ於両国山下の独楽廻し竹沢藤次、父が年回として曲独楽と名附、からくりを交へ奇々妙々なる
独楽の芸をつくし、評判大にして群集おびたゝしく、桟舗前日より買入ねば其日は客留に至る、三月雑
司谷へ、右大将様御成之節大塚護国寺において上覧〟
◯『藤岡屋日記 第二巻』p417(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844))
〝三月朔日
此節両国にて竹沢藤治が駒の曲、大入大評判にて、錦絵・手拭迄出る也〟
◯『増訂武江年表』2p103(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(弘化元年(天保十五年)・1844)
〝春より夏に至り、両国橋西広小路に大なる仮屋を構へ、こま廻し竹沢藤治(下谷の住)こまに手妻(テヅ
マ)の曲とゼンマイからくりを交へて見せ物とす。見物山の如し(これに続いて浅草に住める奥山伝次と
いへるこま廻し、竹沢の趣向を習ひこまに手妻を交へ、道具建にからくりをなして、浅草寺奥山にて見
せものとしけるがさして行はれず。其の後人形師竹田縫殿介、同所にてもみけし人形の見せ物を出した
り)。
筠庭云ふ、小屋壊れて怪我ありしは、三人兄弟とて物まね上手にて、其の頃流行(ハヤリ)しなり。又前
後は覚えず、此の頃竹沢のこま未だ出ぬ時、其処に囲ひもせで、軽業をしたる虎吉とかいへる童は、
小さき台共つみ重ねたる高き上にのぼり、下には抜き身の刃を立てたり。上にふせたる小樽のひらき
て壊れて落ち、刃に貫かれて死したり
曲ごま、二月中旬より八月まで、両国にて行はれ、夫より九月は芝神明に出づ。
其の後は仕掛したる種々のこまを、細工人浅草御蔵前にて大路にて売物とす〟
☆ 弘化二年(1845)
◯『藤岡屋日記 第二巻』p522(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記)
〝五月二日、右大将様、橋場筋御成也
浅草観音にて、松井源水こま上覧也〟
〈「右大将様」とは徳川十二代将軍家慶〉
☆ 弘化四年(1847)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)
◇浅草観音開帳・奥山の見世物
〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し
奥山見世もの
(中略)
一 こま廻し 奥山伝司
至て評判あしきに付、落首
奥山にしかと伝じも請もせず
㒵に紅葉をちらす曲ごま〟
☆ 嘉永二年(1849)
◯『増訂武江年表』2p117(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永二年・1849)
〝三月六日より、独楽(コマ)廻し竹沢藤治改め梅升、其の子万次郎改め藤次とゝもに、両国橋西詰に大なる
仮家をしつらい、独楽に幻戯の曲を交へ、先年に倍したる奇巧をして看せ物とす。見物の諸人群集をな
し、九月末に至りて停む〟
◯『藤岡屋日記 第三巻』p(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)
◇於竹大日如来開帳・見世物
〝三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於て開帳
(中略)
回向院境内見せ物之分
操人形芝居、伊賀越道中双六・和田合戦
壱人分百八文、桟敷二百八文、高土間百七十二文、土間百五十六文
太夫(豊竹此母太夫はじめ六人の名あり、略)
人形(西川伊三郎はじめ九人の名あり、略)
三味線(鶴沢勇造はじめ四人の名あり、略)
但し人形大当り、大入也
伊勢両宮御迁宮之図 吹矢 女角力 犬の子見せ物 大碇梅吉の力持見世物 榊山こまの曲〟
◯『藤岡屋日記 第三巻』p457(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849))
〝酉年三月
両国二代目竹沢藤次曲こま、又々大評判之次第
此度竹沢藤次義、梅松と改名仕、忰と(に)二代目竹沢藤次の名前を相譲り、又々新曲新工夫仕、十二
ヶ月曲独楽、雷の曲こま、三曲遊び大こま、西両国東詰米沢町の際へ、川ニ向ひて大形ニ小屋を懸、看
板も立派ニ致し、御成之節ニ小屋の取崩し計ニも金十五両も相懸り候程の大仕懸故に、大評判ニて、木
戸銭廿四文、桟敷見物二百五十文ニて、ゑいとう/\とて客留にて、跡札を買て川辺の茶屋ニ待合せ候
者大勢故ニ、是が故ニ此事を聞こし召され、三月六日ニハ藤次が独楽を御覧可有との事ニて、尾州御用
との札を立置候処ニ、間もなく御疱瘡ニて御大病故ニ、先ハ御見物もながれに相成けり、右評判故ニ、
錦絵も凡三十番も出るなり、是ハ一向うれず大はづれ也。曲独楽拳の図も出ルなり。
おまへあんまの名で徳一さん、木琴がお好でかんころりん、琴ハまことにてうしよく、てん/\廻つ
て一拳しよう。
七月十五日、所々湯屋・髪結床へ張出し候番付を見るニ、一枚ハ曲ごまの図、一枚ニ口上書有之、竹
沢藤次、
当春中より十二ヶ月并三曲遊び大独楽等、未熟の芸等御覧ニ入候処、御ひいき御評判ニ預り、いか計
りか難有仕合ニ奉存候、右御礼として何がな御覧ニ入度奉存候処、此度新工夫仕、龍宮城の大仕懸ヶで
姫浦島の新曲、水中ニての龍の早替り御覧ニ入候間、何卒/\御見物様方、栄ひとう/\と大入繁盛仕
候様、御賑々敷御光栄之程、偏ニ奉希候、以上。
竹沢 梅松
竹沢 藤次〟
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥160(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)
(嘉永二年・1849)
〝〈四月〉回向院にてお竹が大日如来開帳、両国広小路にて先年はやりたる竹沢伝次曲狛出て又はやる〟
☆ 嘉永三年(1850)
◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)
◇竹沢藤治 p87
〝二月廿四日夜、新吉原揚屋町寄せ こま廻し 竹沢藤治 興行
右寄場大入にて、弐階落候に付、即死三人、怪我人数多有之候よし。
よせ/\と言のに多く揚屋町弐階が落てとうじ迷惑〟
☆ 嘉永六年(1853)
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」④303
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝江戸にては、浅草観音の境内に、松井玄水(玄水宅はかじ橋外なり。浅草は稀に出張することあるのみ)
と云ふ歯抜き店、妙手なり。将軍浅草御成(オナリ)の日、上覧ありし以後、御成先御用の符を拝領す。
また永井兵助(永井兵助は居合ぬきなり。こまは用ひず)、竹沢東次も妙手なり。嘉永の初め、江戸両
国橋西および京坂にても、小屋を作り、銭を募りて見物を集む。道具立て、種々の意匠あり、大いに行
はる。両国には、その後再び出たり。去年のことなり。これに倣ひて、種々の機関(カラクリ)ある独楽をう
る。小独楽に提灯を仕込み、あるひは二重製にて、これを握りて坐に置くに、なほ止らず回転するなど
なり。
また江戸親父橋西詰の床見世(トコミセ)にて、金蔵と云ふ者、独楽を製しうる。名工にて名高く、古くより
あるなり。金蔵独楽と世に称す。
また江戸、童の二人これを廻し、相当て勝負を専らとするは、嘉永二、三年以来のことなり〟
☆ 文久二年(1862)
◯『増訂武江年表』2p187(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(文久二年・1862)
〝三月、浅草寺奥山(艮隅)に仮屋を建て、早竹虎吉再び出る(独楽廻し、軽業、手妻あり)〟
〝八月より、市谷谷町安養寺境内に、早竹虎吉軽蹻(カルワザ)幻技(テヅマ)独楽廻しの芝居興行〟
☆ 慶応二年(1866)
◯『増訂武江年表』2p203(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(慶応二年・1866)
〝今年、独楽廻し軽趫(カルワザ)技幻(テズマ)等の芸術をもて亜墨利加人に傭はれ、彼の国へ赴きしもの姓名
左の如し。是れは当春横浜に於いて銘々其の技芸を施しけるが、亜米利加のベンクツといふ者の懇望に
より、当九月より来辰年十月迄二年の間を約し傭はれけるよし也。
独楽廻し 浅草田原町三丁目 松井源水、妻はな、娘みつ、同さき、忰国太郎七歳
幻戯(テズマ) 北本所荒井町 柳川蝶十郎、神田相生町 隅田川浪五郎、妻小まん
軽趫(カルワザ)縄亘(ツナワタリ) 右浪五郎忰登和吉、三味線右浪五郎妹とら
手妻 同居浪七
こま廻し 浅草龍宝寺前 松井菊二郎娘つね八歳(世に云ふ角兵衛獅子の曲なり)
同居人梅吉、同松十、
曲持足芸 吉原京町二丁目 浜碇事定吉、右上乗 養子長吉、同居梅吉、後見 小石川白壁町市太郎、
上乗 龍之助、南伝馬町一丁目 吉兵衛忰兼吉、笛吹 小石川上富坂町 林蔵、
太鼓打 妻恋町 繁松等なり。
独楽の分 △大ごま一ッ(一尺八寸、目方五貫五百目) △麻の紐一本(目方一貫七百目) △一尺ご
ま一ッ(目方二十八匁) △一尺四方箱四(黒ぬり蒔絵) △万度(マンド)(四方開き中より牡丹の造物
出る。竪二尺横一尺五寸) △羽子板曲ごま △石橋渡り(階子丈四尺二尺四方) △大ごま(二ッに
割れ内より娘つね出て踊る。但し三尺五寸) △天神宮(但しあてもの) △浦島木偶(但し珊瑚樹亘
り、竪五尺横四尺) △諫鼓鶏(カンコドリ)(四方開き長さ七尺横五寸四方) △籠抜ごま(横四間半竪一
尺) △時計(一丈七尺横八尺五寸) △富突木偶(ぜんまい仕掛) △ごだんごま五(六寸五分)
△挑灯ごま一(一尺小田原ちやうちんに成り火を点す) △数のこま(三十五) △刀(こまの刃わた
り)〟
◯『藤岡屋日記 第十四巻』p208(藤岡屋由蔵・慶応二年(1866)記)
◇独楽廻し・松井菊次郎
〝慶応二丙寅年九月
亜墨利加国持渡之道具芸名
松井菊次郎、独楽番組
一 大独楽一ッ 但、一尺八寸、目方五〆五百目
一 麻之紐 但、目方一〆七百目
一 羽子板曲独楽 天満宮当物独楽
一 万灯四方開之之中より(鶴牡丹)罷出申候 但、竪二尺、横一尺五寸
一 石橋渡り階子 但、丈四尺二寸四方
一 富突入形独楽 但、ぜんまい仕懸、丈七尺、横三尺四方
一 大独楽 此独楽二ッニ割候へば、此内より壱尺五寸娘つね罷出、所作仕候、此度新工夫
一 浦嶋太郎人形独楽 但、丈ノ(ママ)五尺、横四尺
一 閑子鳥四方ひらき 但、丈七尺、横巾二尺五寸四方
一 駕籠抜独楽 横四間半、竪一尺
一 時計独楽 丈七尺、横二尺五寸
一 刀刃渡之独楽・提灯独楽壱尺
一 後段独楽五ッ 大サ六寸五分
右芸名荒増之分、如此五坐候〟
〈次項に松井の給金が出ている〉
〝独楽廻し、浅草龍宝寺門前、茂兵衛店 松井菊次郎 三十才 七百両(一年)〟
☆ 明治初年(1868~)
◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊
◇「曲独楽の竹沢藤治 芝居がかりで得意の早業」p167
〝曲独楽で鳴らした竹沢藤治、芝居がかりの大仕掛けで大した人気。初代は両国の定小屋で錦絵にまで出
た大当り、その親譲りの二代目藤治が明治初年に浅草奥山を始め、猿若町の芝居小屋などで華々しく興
行、本芸の独楽のはか、早変り、宙乗り、水芸等のケレソで大受け、十五、六年頃を全盛に満都の絶讃。
当時は四十五、六の男盛り、若太夫の頃から美少年で知られた男前、太い髷に結ってきりっとした顔立
ち、華やかな裃(カミシモ)姿で押出しの立派さ、ちよっと先代片岡我童の面影。舞台はすべて芝居がかりで
粗末ながら大道具は金襖や夜桜などの書割、幕が明くと口上につれて太夫お目通り、お定まりの衣紋流
し、扇子止め、羽子板の曲、大小の独楽の扱いは多年の手練、一尺八寸の大独楽を手先で回し、中から
十数個の独楽を取り出し、舞台に置くとそのまま回る手先の早業、これらは前芸。
一尺の提灯独楽、心棒を引き上げると二尺余りの長提灯になったり、正面に四方開きの花万灯、独楽が
欄干づたいにその中へことりと消える。万灯はパッと開いて真白な鶏に変ったり、まずこの種の華やか
な芸当、その問にちょいちょい得意の早変り、水芸には女の弟子が二人左右に並んで、独楽を使いなが
ら扇子の先や独楽の心棒から盛んに噴水、私は見ないが水中飛込みの早変りも藤治の十八番。
大切りには宙乗り所作事、奴凧や雷公が呼び物、もちろん本衣裳で振りも確か、奴凧の狂いなどはらは
らさせた。それが花道上から舞台上の幕霞へ消えたと思うとたちまち変る裃姿、大独楽を手にして舞台
に立つその速さ、さすがに早変りの名人といわれただけに超高速度、当時の見物は全く堪能した〟