反 戦

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(日本国憲法第二章第九条)


東京外語大・九条の会」講演2007.12.01.高田馬場・文流)

1.パルチザンの終焉
1.1.戦争の変貌

        Germaine Eblon:パルチザンの歌
まずなつかしい歌を聴いてみましょう。これはジェルミーン・エブロン作の「パルチザンの歌」をイーヴ・モンタンが70年代に歌ったものの録音ですが、第2節に注目してみましょう。「銃を、散弾を、手榴弾を準備しよう!故郷の土地に侵入した敵を殺し、打ち砕こう」とあります。侵入したナチス・ドイツ兵を一人一人打ち殺して血の代償をもとめようと呼びかけています。また第4節ではパルチザンの死と栄光が哀愁をこめて歌われてもいます。この節を聞いてキャパが残した戦死の写真(対フランコ国際 義勇軍のパルチザン)を思い出すのは私だけではないでしょう。私自身も50年ほど前には、むしろこのような死に方にさえ憧れたものでした。それは確かにはわずか半世紀前に見られた憧れの「正義の戦争」の姿でした。 しかし今、正義であれ、アフガンやイラクのように汚れきった戦争であれ、およそ近代兵器をとって戦われる戦争は憧れの対象にはなりません。緒方貞子さんが述懐しているように、戦争の性格が変貌したために、国家間の本格的な戦争だけでなく、国内紛争においてさえも大勢の人々の死と  甚だしい人権蹂躙が普通になりました。1991年から8年に及ん だバルカン紛争でも、アフリカ大湖地帯でも、またアメリカ軍が侵入する前のアフガン抗争においてさえ、まだ多分に手作業的ではあったとは言え、発達した兵器による非常に効率のよい殺戮が日常化するようになっていました。しかし現在では戦争の仕方がさらに発達して、アメリカ軍がアフガンとイラクに侵略して以来というもの、私達が日頃イラクなどからの報道で見るように、宇宙戦争じみたハイテク兵器によって殺戮の効率は非常に高くなりました。もし現代兵器の中でも一番プリミティヴなカラシニコフ銃を使った市街戦のような戦闘行為が実際に日本のような生活環境のなかで行われたら、多くの非戦闘員の命が瞬時に奪われるだけではすみません。電車は止まるし、地下鉄は使えないし、交通網の全てが破壊されるだけでなく、その他、市民生活のための基本的インフラストラクチュアがことごとく崩壊するでしょう。日常生活だけでなく生命の維持そのものが全く不可能になるに決まっています。ましてアメリカ軍がアフガで使っているさまざまな強力破壊兵器が導入されでもしたら、日本人の生命と生活は完全に破壊されることは確実で、いったんそのような事態が起こって、多くの日本人が難民になったとしても、人々が逃れられる土地はありません。「日本沈没」以上の惨劇がまっていることは間違いがありません。
 このように考えてみると、そこから出てくる結論は非常に単純です。このような戦争の方法の変貌の結果、日本の社会でパルチザン戦争を行うことは今でははどうみても成り立ちません。イーヴ・モンタンが歌いキャパが映した世界は遙かな過去のものになったと考えなければならないようです。
                                                                             キャパ:兵士の
1.2.非戦闘員の大量虐殺
 第二次世界大戦の末期には戦争の姿にもう一つ重要な変化が起こりました。それは兵隊ではない一般の市民が「女子供」を問わずに大量殺戮の憂き目に遭うという事態が世界の至る所で起こったことです。ハーグ陸戦条約(1907)以来いくつもの国際条約が結ばれたのにもかかわらず、それらは結局はかけ声だけに終わって、非戦闘員の市民が戦闘に巻き込まれただけではなく、実際に殺戮の直接的な対象になってきました。
                                     
     上海 1943       中国戦線では「危険分子」であるという名目で一般人の多くが斬り殺され、銃殺され、焼かれました。日本軍による残虐は、いわばまだ手動で、それだけに誰の目にもよく見えました。そのために、恨みは次の世代の心に深く残っています。中国の町を歩いていて、鋭い目に見つめられて、たじろくことがしばしばあるのですが、たまには許しの眼差しに出会ってかえって身の縮む思いをすることがあります。私の旧友の一人が知り合ってから20年後にして「老父はここで日本軍に刺し殺されたんだよ」とある岩場を指さして、しんみりとしかしあっさり教えてくれたことがありました。

私の町が空襲にあったとき、アメリカ空軍はまずB29を使って町中に灯油の詰まったドラム缶を大量にばらまきます。そこへ次の編隊がやって来て町内に一個の割合で焼夷弾を落とします。都市はあっという間に火の海になったのですが、それではすみませんでした。最後に戦闘機が飛来して、逃げまどう人に機銃掃射を浴びせたものでした。3月の東京大空襲もそうだったでしょうし、地方の小都市も同じ手口で焼き払われたのでしょう。その最後の仕上げが広島と長崎に対する核攻撃であったのだと思います。 このような惨劇は日本に限りませんでした。ドレスデンの空爆でも古い町が一つそっくり無くなりました。多くの報告が事      東京 1945   実を伝えていますが、事実は、ボネガットの『スローターハウス5』(ハヤカワ文庫)が描くとおりであったでしょう。
私は65年前には忠君愛国に燃えた少国民でした。アメリカ兵が上陸してきたら、竹槍でやっつけてやると意気込んでいたものです。幸いにしてその機会に恵まれないままに玉音放送を聞く羽目になったのですが、思えば危ない話です。嘘で塗り固められた攻撃的ナショナリズムが子供達の心をねじ曲げることに成功したときには、内に向かっては狂気が、外に向かっては生身の凶器が完成するものなのでしょうか。もし当時の私のような小学校の坊やを含めて、非戦闘員がこのような凶器だったとするならば、それを「排除」することが戦闘行為として十分に合理化されるという恐ろしいことになるでしょう。そしていま腰に爆弾の束を巻いて自爆するイスラムの青年達や少女達の心にもあの狂気が宿っているのだとしたら、あの頃の自分の体験にてらしても、その方法は正しくないと訴えたいのです。

1.3.通常兵器の「進歩」

 今アメリカ帝国軍がアフガンとイラクで使っている兵器は30年前にベトナムで使ったものに比べても著しく進歩しています。これらハイテク兵器によって有効に殺された人々の数はイラクだけで少なくとも10万人に上ると計算されています。その多くは戦闘員ではなく、とりわけイラクでの一般市民の死者は米兵の死者の30倍にも及びます。しかしアメリカ軍は劣化ウラン兵器を除くと、小型核兵器をまだ本格的には使っていないというのにこの有様です。また高性能の運搬手段に運ばれたピンポイント爆弾が大量に使われたのもイラク侵略戦争の際だった特徴でした。このような兵器の「進歩」も今日の戦争様式の変貌をよく表しています。
 日本を水際で守るための戦略としてイージス艦がすでに4艘配備されています。かりにそれが有効に作動するとして、テポドン級のミサイルにはある程度の精度で対抗できる可能性はあるでしょう。しかし、もしアメリカ軍のもつような高性能のハイテクミサイルによって攻撃を受けたときに、いま海上自衛隊がもっているような艦船でそれに対して有効に対処できるかどうかはどう見ても疑わしい。兵器は急速に進歩しますし、専守防衛のための兵器も攻撃用兵器の進歩に追いついていかなければなりません。このイタチごっこの隙をつくのもまた防衛戦術の要です。その過程でアメリカの空想的な宇宙戦争映画のような世界が繰り広げられて、国の防衛論争のなかに狂気を持ち込むことは間違いありません。そこでは、かねてから指弾されてきたような軍産政共同体の堕落が避けがたいでしょう。最近問題になった防衛省の醜聞も、アメリカ帝国の何分の一にも満たないほどに小規模だとは
    日本のイージス巡洋艦        言え、やはり日本の防衛体制に巣くう軍産政共同体の醜さを暴露したのだと見ていいでしょう。

1.4.「チキン・ゲーム」の終わり
 「チキン・ゲーム」、弱虫遊びとでも訳される推論ゲームがあります。命知らずの若者二人に全速力で車を真っ向から走らせると想像して、もし、二人ともチキン、つまり弱虫でないときには、正面衝突して双方が即死。逆に二人とも「やーめた」と言ってコースから外れると、共に弱虫の汚名を着るけれども、まずは死なないですむ。一方どちらか一方が脱落する場合には さまざまなヴァリエーションがあります。一方が重装備のダンプカーで、他方が軽自動車のときは抑止力が働きます。軽自動車はゲームを降りる気になります。抑止力と抑止力への誤った信仰については、それだけで長い物語ができるほどです。しかし今はその論議を避けて、別の可能性について考えてみましょう。問題なのは、一方が怖がって脱落する場合です。もし待避路がなく、脱落しても一本のコースに止まったままでじっとしているとしましょう。そのときは相手の慈悲にすがるしかありません。相手が慈悲深かったり、結構男気があったりして、踏みつぶすのを潔よしとしないならば、有り難いことに生き延びます。しかしカメのように手足を甲の中に引っ込めてじっとしていても、容赦なく踏からみつぶさ
か、ぐさっと一突きという具合になるかも知れません。もし待避路があれば、弱虫の汚名はともかく、命あっての物種とばかりに、逃げます。もし相手がそれでも追ってきてひと太刀あびせるなら、やはりそれで終わりです。弱虫の末路は哀れということになるのでしょうか。

 さて、日本は戦争を仕掛けないことに決めています。チキン・ゲームになぞらえるならば、始めから脱落者の途を選択しました。自衛隊は抑止力にはなりません。せいぜい緩衝材の役割を果たせるかどうかです。とすると、日本がチキン・ゲームのルートに乗ってしまった場合、日本が生き残る途はただ一つ、端から負けて、後は相手の慈悲に縋るしかないことになります。
 しかしもうたとえ話はやめましょう。日本がいま何らかの軍事的抗争に巻き込まれた場合、日本は海外派兵をしませんから、日本の国土が戦場となります。そのとき日本の自衛隊はかなりの装備をもっていますから、ある程度の抵抗はできるでしょう。しかし熾烈な防衛戦争の過程で少なくとも主な都市は灰燼に帰すでしょうし、市民の犠牲も相当な数に上るでしょう。被害はおそらく関東大震災をはるかに上回るに違いありません。そしてその国内戦の結果、軍事的かつ政治的に敗北して降伏するでしょう。その結果、日本全土が占領され、おそらく日本国と名付けられた政治組織は無くなるでしょう。しかしそれでも元日本国民は大多数生き残ることができるでしょう。それならば、それでいいではないですか!国土占領という状況は米軍基地が存続している今とたいして変わりありませんし、日本国という政治組織がなくなったとしても、世の中がわるくなるとは限らないかもしれないじゃないですか。しかし、どうせ占領され、属国化され、それでも人々が生き残れるならば、なんでいったい多大の犠牲をはらってまで防衛戦争をする必要があるのですか?それならはじめから侵略を受け入れて、下手な防衛戦争なんか止めた方がずっと犠牲が少なくてすみます。少なくともチキン・ゲームの比喩はそう教えています。防衛戦争を諦めて、国なんか捨てて、負け犬として生きる道を選んだらどうでしょうか?国?国体?そんなもの人間の命 とどっちが大切なのですか?

平山郁夫:広島生変図



1.5.「戦争=地獄」の現実化

 戦争は地獄だというのは昔から語られてきた実感でした。それはヒロシマだけのことではありません。ベトナムでもバグダッドでもアフガニスタンでも、規模の大小を問わず、それは地獄です。しかも人の所業なのですから、神も沈黙できないはずですし、菩薩もまた怒ります。もしこの国土で防衛戦が再び起こったならば、かつての沖縄を越える地獄が現出することは間違いありません。たとえ小規模のパルチザン戦であっても兵器の「進歩」の結果として全国土の至る所で地獄が現れるでしょう。チキンゲーム的な選択肢を用いれば、戦争の危険が迫ったときには即時無条件降伏をして、生き残る途しかないと思います。「国」の存亡の危機にあって、「国」は決して国民を守らないでしょうから、国民が国を捨てて生き延びるほかはありません。これが地獄を回避する唯一の方法でしょう。パルチザンどころではないのです。以上が私の今日の話の結論の第一です。
参考:長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』、特に第7章。2004 ちくま新書
   『紛争と難民−緒方貞子の回想』2006 集英社

2.非戦・不戦・反戦
2.1.非戦
 「戦争より大なる悪事はなんでありますか」と問うて絶対的非戦主義を確守した人に内村鑑三(1861-1930)がいました。優れた先達です。しかし当時、内村の絶対平和主義のなかには、反戦平和のさまざまな局面が未分化に混在していました。第一に、彼の非戦主義には他国を攻めないという不攻の立場が最も強く表明されています。しかし当時すでに日本は日清戦争に勝利するほどの陸海軍の軍備を持っていました。内村は天皇を統帥者とかかげた憲法のもとで日本帝国の軍備に反対する立場を鮮明に打ち出すわけにはいかなかったのでしょう。不攻の立場を表明することはできても、非武装+不攻の立場は時代的に無理だったようです。第二に、内村の非戦主義では、他国の攻撃に対する対応が問題にさえていませんでした。防衛戦争をするのか、それとも無条件降伏して、唯々諾々と植民地化されるのかが問われずに済まされていました。表明すると戦争一般に反対するという反戦の思想が一体になっていました。つまり防衛戦争、レジスタンス、非抵抗、降伏などの被攻の場合の対応が論議されていませんでした。第三に、集団的安全保障という考え方が時代的にまだ不可能でした。何分古典的な帝国主義的な世界分割がまだ終わっていなかったのですから、内村鑑三に集団的安全保障や国際機関の共同行動に関する対応を考慮するように言うことは、だだの無い物ねだりの類でしょう。テキスト ボックス: 日本国憲法 第二章第九条
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」


 非戦主義が本気で公の議論になったのは第二次大戦後になってからのことです。おそらく「平和問題懇談会」の「三たび平和について」1950.10が先鞭をつけたのでしょうが、いま特に一言付け足したいのは坂本義和:「中立日本の防衛構想」『世界』1959.08、の論文です。これは60年安保「改正」直前の論議で、それだけに論議は大変熱いのですが、彼は日本を防衛しうる具体策として次の三点をあげています:(1)政治的な(非軍事的な)積極的中立主義、(2)軍事基地の廃止、(3)国連警察軍の常駐。しかし48年を経て、これらの提言は三つとも実現されていません。

 確かに私達はこの間冷戦の終結後も日本国民の非戦宣言をなんとか守ってきました。日本国憲法 第二章第九条です。この日本国民の非戦宣言は、成立の経緯はどうあれ、世界に誇るべき思想です。政治的中立主義の思想的基盤を成しています。でもそれは口先だけのペテンでしかないと言えます。何故なら、日本は現実に国際紛争を解決する手段、むしろ国際紛争を作り出す手段としての武力としての非常に攻撃的な陸海空その他の戦力だけでなく、その司令部までを保持しているからです。日本国内に存在する米軍がそれです。日本国の自衛隊は、少なくとも独自の海外派兵をしない限りで、防衛的であり、九条第一項には抵触しないという解釈も可能です。しかし米軍の存在は違います。それは日本国憲法の非戦宣言と明白に矛盾しています。確かに日本国憲法の非戦宣言は米軍の初期占領政策とセットになっていました。その後の国際政治の変質過程、つまり朝鮮戦争から自衛隊の創設、米ソ核抑止戦争、そしてソ連の崩壊とアメリカの一国世界覇権へという変化を経験して、私達は現在やはりこの非戦宣言と日米同盟の事実上の矛盾を解消する途を選択する時期に立っていると思います。

2.2.不戦
 日本国憲法のような非戦宣言は一方的な意思表明です。その意思が政治的に実現されるためには双務的な不戦協定が必要です。そのような国際的な取り決めを信用しない人々も少なくありません。しかし周恩来・ネルーによって1954年に提言された平和五原則(「領土・主権の相互尊重」「相互不可侵」「相互内政不干渉」「平等互恵」「平和共存」の五項目)は少なくともこの両国の間では破られていません。それどころか2007年11月21日に署名されたASEAN憲章の原則(1)各国の独立、領土保全の尊重、2)侵略、武力による威圧の放棄、3)内政の不干渉)にそのまま生かされるにいたっています。
 ヨーロッパ共同体EUは地域統合の成功した事例ですが、そこではEU内部での不戦協定は明文化されっていません。むしろ自明の全提とされているようです(第6項安全:Everyone has the right to liberty and security of person.)。そして外的には、NATOと併存したEU軍+各国軍(コソボ紛争ではNATO軍、アフガンでは各国軍、イラクも各国軍)があっても、EU構成国間の戦争は想定外と見なされているようです。 双務的不戦協定は安全保障のひとつの有効な形だと思われます。それは多国間の地域連合のなかで結ばれたならばより安定的に生きると期待できます。現在の日本が陥っている被占領状態の継続という形の安全保障ではなく、新しい集団的不戦協定による安全保障が将来の姿であると考えます。

2.3.反戦
 反戦というとき、私は戦わないという非戦とお互いに戦わないようにしようという不戦協定などの範囲を超えて、第三者を含めて戦争を止めよう、それは絶対悪だからという平和主義の立場を指します。それは平和主義という思想の中で一番広い立場です。アメリカ帝国のイラク侵略に反対して何らかの行動を起こすとき、それは反戦の行動であり、アフガンのタリバン軍を攻撃するアメリカなどの戦闘行為に荷担しないことも反戦行動です。市民的自由が制限されている社会では反戦は命がけの行動です。好戦的国家意志とまっこうから衝突するからです。
 以上で見たように、非戦・不戦・反戦は平和主義の基本的な側面です。非戦は主体的な反戦の意思表示ですし、不戦・不攻は相手のある話で、双務的な協定という形で生きます。一方で反戦は平和主義という思想を客観的な立場で敷衍して具体化した行動原理であると考えます。私達はすでに日本国憲法第九条という形で非戦宣言をしています。しかしどの国とも正式の双務的不戦協定は結んでいません。日米安全保障条約においても然りです。アメリカが日本の安全に責任を持つ、それに対して日本は地位協定に従って金とサービスを提供する。しかしそこには、国連憲章の武力不行使に言及するだけで、アメリカと日本との可能な軍事的関係についてはどこにも書いてありません。これは不戦協定ではないのです。日本にとっては日本国憲法に非戦宣言に見合った不戦協定が必要で、そのためには反戦平和主義に基づいた地域安全保障体制を構築しなければなりません。
参考:小林正弥『非戦の哲学』ちくま新書2003.03                 

3.安保
960.6.18                           
3.1.安保体制
私達が一敗地にまみれた60年安保はやはり日本の大きな曲がり角でした。前にあげた坂本1959の提言でさえも何一つ実現されることなく、むしろ安保体制は強化されてきました。ここで安保体制というのは、坂本1988が的確に整理しているように、主に三つの要素から成ります
   安保体制={安保条約
1951/1960/1970、安保政策、安保構造}
まず日米の国際協定として、日米安全保障条約があって、それをめぐって両国の軍事・外交政策が立案・施行されます。これらによって両国のなかで軍事的・政治的・経済的・技術的な仕組みが出来上がってきました。これを一括して安保構造と名付けておきます。安保政策は変えられます。変えなければなりません。その結果、安保構造に変化を及ぼすことも可能です。安      保条約を変更・廃棄することはそのような変化の結果として必然的となることでしょう。ここでは今この可能な過程を描くことは棚上げします。ただ安保体制は、例えば、米軍への給油を止めるという行動などの、安保政策の変更によって少しづつでも変えなければならない、そしてそれは可能であるということを認識しておきましょう。
 参考:坂本義和:『新版軍縮の政治学』岩波新書1988

3.2.非武装中立論
 60年安保の時代に日本の再軍備論争をめぐって非武装中立が熱く論議されました。しかしその後の世辞過程で坂本1959などが主張した国連警察軍」の導入と「非対称的(=扁面的)防衛体制」の維持という非現実的な想定はあえなく破綻しました。むしろそれに替わって米軍駐留の恒常化と日米同盟の強化とが進展して、日本の自衛隊はハイテク兵器で武装した非常につよい軍隊に成長しました。日本国憲法第九条第二項が面目を失っています。しかしいまこの「専守防衛」が違憲ではないという条項解釈を当面は承認しておいて、後に東アジアで集団的安全保障体制を構築するときまでこれ以上の論議を棚上げしておくことにしましょう。そうすると、現在の日本の基本的な軍事外交的な目標は不攻非同盟、つまり専守防衛中立の立場ということになるのではないでしょうか。
 参考:坂本義和:「中立日本の防衛構想」『世界』1959.08(『世界主要論文撰』所収)、坂本1988

3.3.安保構造の変質と非戦平和主義
アメリカ帝国の侵略的覇権主義が非常に危険な事態を各地にもたらしてきました。日米同盟に基づく追従外交がこのまま続けば、アメリカの国際的国家テロ戦略に要請されて今後もさまざまな形の軍事協力が要請されてきます。国内米軍基地存在が日本の安全を脅かす事態も想定されます。すでに日本の国土の全域がテロ集団の攻撃対象となっています。日米同盟が非戦平和主義に真っ向から抵触する事態になりました。
非戦平和主義には三原則と言われるものがあります。それは(1)非侵略、(2)非核、(3)非軍国主義の三つであると言われています。それぞれの原則についてはいくつもの論議があります。第一に、国連決議に基づいた非軍事組織の派遣という条件付きでPKOのよう場合を非侵略と見なしてはどうかという意見があります。第二の非核三原則はいまのところ安泰です。しかし第三の非軍国主義の原則には注意する必要があります。最近特に内向きのナショナリズムが狂気に転化する契機が頻繁に現れているからです。歴史教科書や国語論にまで目配りする必要があります。 このような事態の変化の結果、日米同盟が日本の防衛の益するという時代は過去のものになった、むしろアメリカ帝国の配下にあることが自らの存在にとって危険になったと考えていいでしょう。ここから日本の対米政策は、安保政策を改変して、日本の社会構造に根強く巣くっている安保構造を順次あらためて、ゆっくり着実に、日米同盟を解消する途を進む以外にないことになります。そしてこのような外交的条件のもとで日本の安全保障を維持するとすれば、アメリカ抜きの不戦同盟を求め、それを創設して、集団的安全保障を実現することが焦眉の急の事態です。
                                         

4.東アジアの安全保障
4.1.「人間の安全保障」                    
  アウンサン・スーチーさん
 現在の世界では国家間の紛争だけでなく、国内の紛争やその結果としておこる難民問題や極貧困状態が大変に悲惨な状況を作り出しています。国連が2000年に創設した「人間の安全保障委員会」はその状況に国際的に対応するための有用な組織として機能して、国連難民高等弁務官事務所UNCHCRなどと共にすでにそれなり成果を収めています。この「人間の安全保障」という思想を基盤として国家を越え安全保障を作っていくてという観点が大切だとおもいます。               
 参考:緒方貞子・アマルティア・セン『安全保障の今日的課題(人間の安全保障委員会報告書』朝日新聞社 2003.                 

4.2.「北東アジア共同の家」構想
 「北東アジア共同の家」という地域連合が提案されたことがあります。姜尚中氏が衆議院国憲法調査会で参考意見を述べたこともあったので、一時期注目を浴びました。確かに北東アジア、或いは東北アジアにおける安全保障は朝鮮半島情勢を焦点としています。それだけに日朝国交正常化と朝鮮統一とがこの地域の平和構築の鍵であるという認識は正しい。そしてロシアのバイカル湖以東の地域での生存条件の整備、とりわけ先住諸民族の安全保障は重要な論点です。しかしこの考え方はやはりゴルバチョフの提唱した「東西ヨーロッパ共同の家」の二番煎じにしか見えません。というのも条件の設定に無理があるだけでなく、ASEANや中国との関係を捉えるのに難点があります。ただロシア極東部に住む少数民族は脱ロシア後の政治的生活を設計するために、何らかの形での東北アジア地域共同機構を望んでいることが分かっています。私達が彼らに助力する場がここにもあります。
 参考:姜尚中『北東アジア共同の家をめざして』2001 平凡社
    和田春樹:『北東アジア共同の家』2003 平凡社
    金子亨「ニヴフ−北の隣人」2007 HP, p.137

4.3.東アジア地域連合

 東アジア地域連合という構想が生まれて、すでに半世紀が経ちます。
それはヨーロッパ共同体が生まれて以来、現実的な具体性を伴って着実な歩みを進めています。そして2015年には経済共同体を創設すべく具体的な準備が着々進められているところです。しかしここではこの歴史的な事態の経済的な側面については棚上げして、その安全
保障上の可能性に関してわずかにコメントするに止めます。
 東アジア共同体は10カ国の小国連合であるASEANによって牽引されています。この組織の共同の目的としては、第一に「地域に平和と安定の維持、非武装」があげられています。そして参加国共通の政治体制については「民主主義を遵守し、人権と基本的自由を擁護」することを共通の認識の基盤としていますが、ここにも問題はあります。今年11月の首脳会議でもビルマ(ミャンマー)の国内情勢に関して  ASEAN+3, 2007.11.20     緊迫した状況が見られました。それにこの地域も貧困と社会的格差の大変大きい国々が集まっています。そしてこれらの国の経済が進むについて自然環境の悪化は避けられません。国連の気候変動枠組み条約締結国会議COP13がこの地域のなかのバリ島で行われたことはそれだけの意味があります。ASEANもまた持続可能な発展と自然環境の保護のための国際行動において重要な役割を果たす立場にあります。そしてこの組織はもともとEUのように高い競争力をもつ単一市場を作ることを目的としていたのですが、その過程ではまず第一に諸国間の平和と安全を地域統合の第一の原則としなければならないことを認識しました。その原則は周恩来・ネルーによって立てられた平和五原則(1955)の精神を再生させたもので、次ぎの項目を含みます:
1)各国の独立・主権・領土保全の尊重
2)侵略・武力による威圧の放棄
3)内政への不干渉
 これらの原則の遵守を監督し実現するための外交的組織としてASEANは二つの機構をもっています。一つはTAKと略称される東南アジア友好協力条約。これには2003年に日本と中国も調印しています。東アジア地域統合のための外交的安全保障原理というべきものです。もう一つはASEAN地域フォーラムでARFと略称されています。この機構はすでに1976年から活動していて、それが主催するアジア太平洋地域安全保障問題閣僚会議には日本も参加してきました。

4.4.ASEAN+3(2003〜)
 ASEANに2003年以降中国と韓国が加わって、日本を含めたASEAN+3が出来上がったことで、ASEANを母体にした地域共同体が実質的に将来的な姿を現したと考えていいでしょう。それは地域単一市場としての役割を果たしながら、とりわけ地域的不戦共同体として機能するでしょうし、そのように構築しなければなりません。それはちょうどヨーロッパ共同体がシューマン・プラン(1951)を基盤として、不戦共同体としての機能をもつにいたったのと似ています。
 しかしASEAN+3にはいくつもの高い困難な障壁があります。そのいくつかをあげてみましょう。第一は「北」の問題です。和田春樹・姜尚中らの「北東アジア共同の家」提案が正当に指摘しているように、東アジア機構の鍵は南北朝鮮民族の統一にあります。そのロードマップはまだよく見えません。しかし実質的な行動は金大中大統領の努力につづいて着々と続けられてきました。このために日本のできることもはっきりしています。それは小泉元首相がちょっと手を触れただけですぐに投げ出してしまった外交的努力を継続することでしょう。
 困難な障壁の第二は、不可能な参加者の問題です。中曽根元首相などが、東アジア共同体にはオーストラリアとニュージーランド、それに少なくとも暫定的にはアメリカ(グアム、ハワイは地域内)が加入するべきだという主張を繰り返しています。 しかしいま歴史の教訓から学びましょう。ヨーロッパ共同体の構築にとってソ連とその継承国家に対する防衛という動因が存在していたのです。そして今、東アジア共同体にとって、外交軍事的には帝国アメリカの覇権主義が地域的不戦共同体の動因になっています。それに劣らない重要な動因は多国籍企業活動の世界的活動を推進するグロバリぜーション戦略です。アジアの諸国が忘れないのはついこの前の金融攻撃です。アメリカが変わり、帝国的覇権主義を捨てるまで、その国に不戦共同体的な統一市場に参加する資格はありません。こ認識はASEAN+3の共通の認識だと思います。もっとも日本の旧指導者達には事態を認識できない者が多いことは事実ですが。
 アメリカとカナダは北米通商協定を結んでいます。アメリカと南米諸国との関係もかつては市場的に結ばれていました。しかし最近の南米における先住民族の新しい波は、やはりアメリカ帝国の衰退を示しているようです。アメリカが弱くなって「普通の国?」になることをアメリカ国民の知的な人々も真剣に望んでいるのです。その時期を待とうではありませんか。
 ロシアもまた問題です。これからもエネルギー利権で脅しをかけ続けて、東アジア市場を混乱させるでしょうが、東アジアとの地域的接触はロシア帝国末期とソ連時代の黒い遺産にすぎません。ここで問題はバイカル湖以東の地域に住む先住諸民族が自立的な意志でどのような選択をするかにかかっています。チェチェンのような事態を上手に避けて独立を果たすことができることを望みます。
 最後に、そして最も重要なことで、日本の役割についてほんの一言します。それは一言です。日本のイニシィアティヴ は決してあってはならない!東アジアの人々は「大東亜共栄圏」を代々語り継いで、決して忘れてはいません。私達はあくまで「靖国の子孫」なのです。そう認識し続けましょう。ちょうどドイツの若い有為の人々が自分が「アイヒマンの息子達」であると認識しようとしているようにです。
 日本のできることは、アメリカ帝国のinterventions(介入)を巧みに回避するという点で東アジアの人々に役立つこと、そして日米同盟をどこかの時点で上手に越えることではないでしょうか。
 参考: 進藤栄一『東アジア共同体をどうつくるか』ちくま新書2007
      谷口 誠『東アジア共同体』岩波新書2004/2007
     チョムスキー、ノーム『お節介なアメリカ』(原題:Interventions) ちくま新書2007]

 結論として次のことが言えると思います:
(1)私達は、パルチザンの終焉の時代に生きていることを認識して、国を超えて生きる道を探さなければなりません。
(2)日本国憲法第二章九条全体の非戦(=不攻)宣言を基礎にして、東アジア相互安全保障を目指しましょう。
(3)安保体制を改変して、ゆっくり着実に、アメリカ抜きの不戦同盟に向けて日米同盟を解消すべく努力しましょう。
(4)ASEAN主導の東アジア共同体をもって日米同盟に換わる安全保障体制として、この東アジアの広域
   集団安全保障体制にASEAN+3の立場で控えめに参画しましょう。

2007.12.01(文流)の話を文字にしました。いくつかの文言を改めて何行かを付け加えました。ご批判をいただきたく
 思います。またこの文を私のHPKaneko TohruGoogle検索)に乗せることをお許しください。


書評


1)映画「日本国憲法」(ジャン・ユンカーマン作品)2006

 ○日本国憲法が国際的に注目されてきた国際的な約束事であることがさまざまな角度から何人ものヒトによって語られています。
  日本国家と日本軍が侵略し支配しようとした地域の人々に対して行った残虐と悪行の
  数々を、われわれはこの憲法によって謝罪したのだ教えられました。               
  日本国憲法第二章第九条は、いかなる賠償よりも重い歴史的な枷であると同時に、誇る
  に足る人類史的な旗印でもあります。

 ○日本国憲法制定の経緯にかんする日高六郎先生(実際に習いました)の話を興味深く
  聞きました。日本国憲法が占領軍によって押しつけられたということがらの真相はあまり
  にも解りやすいものでした。それは当時の日本国のすぐれた人々に起草された方のヴァ
  ーションであったというのです。そうであったと思います。

 ○日本国憲法第二章九条が60年にわたる日本国民の国際的な約束事であることを了解
  しました。それを反古にすることはできません。反古にすれば、潜在的な宣戦布告と受け
  取られても抗弁の余地はありません。
  
 ○以上のことは憲法解釈にとっても有意味です。日本国憲法は日本国家の行動規範とし  
  て日本国民が日本国家に付託したものと解釈すべきものとなります。不戦という国際的   
  な約束事もその付託事項の重要なひとつです。それがあるから、僕は肩をすぼめながら
  でも何とか中国の街を歩けるのだと感じます。時にわれわれに殺されかかったのだろうご
  老人のまなざしに目を伏せながらも。



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