写譜

昭和29年度卒 相澤 英紀

 


  私が入学したのは昭和26年、当時一般教養部は城内の旧兵舎を改造した粗末な校舎だった。ここで1年半から2年間全学部の学生が一般教養を受講します。
 学制変更があった後3年目ですから、三回生は旧制第四高等学校から編入してこられた方もあり、教授陣も旧制高校時代から引き接いてこられた先生も多く、旧制高校の雰囲気のただよう講義だったと思います。特に語学では、後に東大教授になられた西義之先生は新進気鋭の独語の助教授で、難解な哲学論文をテキストにされたのには閉口しました。


 さて、オーケストラとの関わりですが、私は横山町に下宿していた関係で通学はもっばら石川門から学内に入っていました。守衛室の前を通り真直ぐに行くと汚い学生会館があり、その道をはさんだ向かい側に今にも崩れそうな掘っ立て小屋がありました。これこそ金大フィルハーモニーオーケストラの誕生した馬小屋なのです。この小屋はニ部屋に分かれ、その片方は演劇部(らくだの会といった)が使用していました。昼食時に食堂へ行くと、その小屋の中から妙なるとは言い難いホルンの音がしていました。これぞ金大フィルの生みの親「棚倉御大」の発する、音楽を愛する仲間を呼び集める咆哮だったのであります。そして、この咆哮に呼び寄せられた一人が私だったのであります。当時金沢大学管弦楽団と称していましたが、26年に入団したのは私と工学部の高君の二人だけだったと思います。

 もっとも高君はすでに金沢では名を知られたピアニストで、高校三年の時棚倉御大からベートーベンの第四協奏曲をやるからと入部を命ぜられ、そのために入学したという経緯もあった由で、事実、入学2ケ月後の第2回演奏会で第四協奏曲を弾いています。私にとってもピアノ協奏曲を初めて体験することになったのです。


 コントラバスを運ぶために呼んだ寝台車が大学病院へ行ってしまったりしたハプニング等色々エピソードはありますが、私のような文系学部の学生にとっての想い出は写譜だったと思います。オーケストラ活動をするにあたって無くてはならないもの、それはパート譜です。管楽器奏者は自分で写譜するのですが、弦五部に関しては必要なブルト数に合わせて作成する必要があります。当時は複写機といった便利な機械も、ボールペンといった筆記用具もなく、ペンまたは万年筆でインキ瓶相手に全くの手書きによる写譜しか方法がありません。莫大な労力と時間が必要でした。理系学部の団員は製図、実験となかなか忙しく、こういった作業は暇な?文系学部の団員の担当となるのです。ところが文系学部の団員は理系に比べて少ないといったこともあり、結局は講義に出る暇があったら写譜を、といった仕儀になる訳です。大教室のうしろの片隅で内職したり、講義をさぼって写譜ということが数多くあり低空飛行を続けたのも、オーケストラ学部所属と称していた位ですから無理からぬことです。写譜をすれば当然間違いもあり、一行そっくり抜けたり、何小節か脱落したり、余分にあったりで合奏してみて初めてその誤りに気付くのです。現在では簡単にコピーするか、パート譜を購入すればすむことなのですが、当時はこうした苦労を経て初めて演奏ができる訳ですから、その努力の過程の中で音楽に対する情熱も一層燃えたのではないかと思います。当時情熱的にかつエネルギッシュに写譜をしておられた棚倉先輩の姿が今でも眼に浮かぴます。当時の学生オケの演奏水準ではまず不可能であったベートーベンの第九シンフォニーについても、いつの日にかの演奏を夢見て、棚倉先輩の未完成(表紙と冒頭の部分)が私の手元に残っています。

 27年以降は団員も増え、金沢大学フィルハーモニー管弦楽団と名称も変え、曲がりなりにもこ2管編成の規模で第3回定期演奏会を開催するようになりました。また、山中温泉や富山県の中学校、石川療養所などの演奏旅行で楽しかったこと、楽器不足や団員不足(特定の楽器ファゴット、オーボエ)でエキストラを確保したり、資金不足の苦労など、色々ありましたが、今となれば楽しい想い出です。
 私は今になって思えば、オーケストラの楽しみを知ったことは人生を生きて行くために非常にプラスになったと考えています。

 学校卒業後の20余年は音楽を楽しむような社会環境ではなく、ただひたすら働くといった時代でした。私もその間音楽を聴くことはあっても自ら演奏するといったことは全くありませんでしたが、51年頃でしたか、金沢でOB会の演奏会があった時、高君から誘われて参加したのがキッカケとなり、52年から再びオケに復帰しました。現在は大阪にあるアマチュアオケでビオラを弾いています。金大オケ出身者は私以外に、野(Vc)、得能(Hr)君がいます。中之島公会堂を練習場にし、ザ・シンフォニーホールを演奏会場として、年2回の定期演奏会を含め3〜4回演奏活動を行っています。私はあと15年くらいはオケの現役でビオラを弾き続けたいと考えていますが、いつまで続けられますか?

 最後に私がオケに在籍した4年間に知り合った先輩、友人諸兄に心からお礼を申し上げたい。「オーケストラの楽しさを教えて頂いて本当に有り難う、私は本当に幸せ者です」と。








金大フィル創立四十周年を祝して

昭和29年度卒 川北 篤

 


 金沢大学フィルハーモニー管弦楽団、この名を引き継ぎ活躍される後輩諸君に心から創立四十周年のお慶びと御礼を申し上げます。

 第二次世界大戦の終戦後、昭和24年に学制改革により金沢大学が誕生し、当時の旧制金沢医科大学(現金沢大学医学部)洋楽部こあった小オーケストラとの合同でこのオーケストラが発足し、その後教育学部の佐々木宣男先生のご指導にて独自の金沢大学フィルハーモニー管弦楽団として定期演奏会を持つようになってから40年、金大フィルという愛称で親しまれ、名実共に北陸アマチュアオーケストラ界のリーダーシップをとる管弦楽団に成長できました事は、我々OBといたしましても大変喜ばしく思う次第であります。第50回記念定期演奏会のメイン曲として、マーラーの交響曲第5番が演奏されるとの事ですが、我々の創設期においては、考えることもできないほどの大曲であり、技術的にも難曲であり、この40年でこれだけの進歩があった事について唯々敬意の念を表す次第であります。


 しかし創設期においては音楽に対する愛着の面では、今の団員諸君に勝るとも劣らないものがあったと思います。中でも棚倉昭美君はこの金大フィルの生みの親とも言える人物であり、創設期のマネージメント、写譜、指揮、その他を一手に引き受けて立派に成し遂げたのであります。勿論その周囲には彼を助ける、鈴木浩二、故本江由春、神田進、植田茂夫、川崎直由、前田弘一、田中克等の諸君がおり、昭和26、27年には高泰夫君をはじめ、鈴木博、坂下隆義、鈴森進、青木敏哉、宮岡羊三、太田道夫などの諸君が入団して、一層充実したものとなったのであります。
 そして第1回の演奏会ともいうべき音楽会にはハイドンの「驚愕」第2楽章を演奏し、第2回は旧制金沢医科大学洋学部と合同で、飯森又郎先生(現在白山病院院長)の指揮でシューベルトのロサムンデ序曲を演奏したものであります。第3回には金大フィルがシンフォニーとしてははじめての、シューベルト作曲交響曲第8番口短調「未完成」を佐々木宣男先生の指揮で演奏したのであります。又、創設期は毎回協奏曲的な曲を一曲づつプログラムに加えておりました。第1回は神田進君のフルート独奏でバッハの管弦楽組曲第2番を、第2回は高秦夫君のピアノ独奏でベートーベンのピアノ協奏曲第4番を、第3回は金大フィル部長の難波得三教授の奥様(元東京音楽学校教授)のピアノ独奏でウェーバーのコンチェルト・スティックを、第4回は川口恒子先生のピアノ独奏でシューマンのピアノ協奏曲イ短調を、第5回はNHK交響楽団の斎藤裕氏のバイオリン独奏でベートーペンのバイオリン協奏曲を……そのほか当時学生ピアニスト ナンバーワンだった高泰夫君とのベートーベンのピアノ協奏曲「皇帝」の共演、平井康三郎作曲の筝協奏曲第1番卜短調を釣谷雅楽房さんの琴独奏で北陸初演したこと等々想い出はつきません。
 昭和49年には、創立25周年を記念して、当時の団長上野巌君や、多くのOBの努力で金大フィルOB会が誕生いたし、昭和54年の創立30周年記念にも伊代田誠ニ君等の努力によって立派に記念事業が行われました。この度の創立40周年においても実行委員長の遠藤浩二君、佐藤司君や沢田豊伸団長、森島敏明君等が中心となって各分担責任者等が記念演奏会の他、記念誌の発行等いくつかの記念事業を着々と行っておられますので、恐らくすばらしい記念事業として後世に残るものが実現できると信じております。


 今静かに過去を振り返ってみて最も残念に思うのは、学生時代に共に金大フィルの創成期に同じ舞台にならんでチェロパートを弾いた本江由春君が病に倒れ有銘世界を異にした事と、昭和48年理学部卒(フルート及び指揮)の藤島秀敏君が、結婚式後(私も参列したのですが)新婚旅行中グァムで客死したことが悔いてたまりません。二人ともきっと40周年記念演奏会を草葉の陰で喜んで聴いているに違いありません。(故藤島君の御母上は50回記念演奏会に船橋市より御来聴の予定です。)皆様と共に心より御冥福を祈る次第であります。現在金大フィルOB会は、八幡真一、宮崎努、柴和弘等の諸君が、一生懸命盛り上げて行くように努力しておりますのでどうぞ皆様お忙しいでしょうが会合の時には是非出席され青春にかえって語り合いたいものです。


 又、関東地区でも以前から活動しておられますが、できれば金沢地区での総会等に合わせて米沢して頂き、楽しい行事をしたいものとお待ちしています。金沢在住の会員は、出来得る限りOB会が発展するように努力するつもりでおりますので、日本中にちらばったOB議君もよろしく今後ともご協力の程をお顔い申し上げ、40周年にあたり金大フィル及び金大フィルOB会が、末永く発展する事を願う次第であります。









想い出

 昭和30年度卒 高橋 正一

 

 
 ビオラを弾いていました。当時のプログラムを出してきては色々と思い出しています。
 就職すると仕事が優先になり、金沢の近くにおりながら楽器を抱えて出掛けることが困難になります。そうしてオーケストラと縁が切れたようになってしまいました。
 自分が受け持ったクラスに「非行少年」がいました。警察や家庭裁判所へ何回も行き来をしました。殴りつけても根本的な解決にはならないし、どうしたら良いだろうかと警察や町の教育委員会に相談をした結果、青少年の非行化防止に町ぐるみで取り組むことになりました。


 その運動の一つとして、スポーツ少年団を結成して剣道教室を開催することになりました。この運動の関係者の一人として私も剣道をするはめになってしまいました。
 社会教育活動のなかで子供たちとともに剣道を学びながら非行化防止に頑張っていっの間にか25年が過ぎてしまいました。
 途中には色々ありましたが、今では剣道連士六段になり、剣道教員の検定試験(文部省)にも合格しました。
 心機一転で今年退職をして、私立の高等学校の剣道講師を務め剣道七段の受験を日指して頑張っています。
 音楽からは大変かけはなれた道を歩んでしまいました。たまにはカルテットをやっている夢を見ますが悔いはありません。
いちど学生服を看てOBの演奏会をやってみたいですね。

 
 




想い出


昭和33年度卒 座主 利夫

 

 毎回招待状を戴き感謝しています。演奏曲目を眺めながら、当時を懐かしく思い出しています。
 我々の時代と比ベメンバーも増え、レベルも格段に向上しているようでご同慶にたえません。私も当時(昭和34年)マネージャーをしており運営にはいろいろ苦労しました。

 当時は、コピー機など全くなく今の皆さんは想像もできないでしょうが、メンバー不足でOBや客員に出演を依頼するときは楽譜を渡さねばならず、団員が手分けして授業時間中に一生懸命写譜したこともたいへん懐かしい思い出です。
 あの時、現在のようなコピー機があれば、もっと本業の成績も良かったでしょうし、バイオリンの腕もさらに上がったのにと残念です。また、前々任のマネージャー(A氏)が演奏会当日収入金を持ち逃げし(退学)、財政は極端な赤字状態で引き継ぎ、正常化するのに当時の役員全員で大変苦労したこともありました。


 兄(晴二)もティンパニーで活躍しており、兄弟そろって演奏できたことも懐かしい思い出です。
 毎年12月の合唱団との合同演奏(ハレルヤ、天地創造等)など、今でも鮮明に記憶に残っています。
 昭和32年12月、日・ソ通商条約が締結され、記念式典が盛大に行われましたが、その時両国の国歌演奏を当金大フィルに要請され、私がオーケストラの指揮をしました。私にとってこれが最初で最後のオーケストラの指揮者経験です。
 当時のメンバー諸氏も今では50数歳、夫々各方面で活躍されている由、とても嬉しいことです。
 私も昭和34年に卒業、大変就職難の時代でしたが、何とか三井銀行に就職、転勤13回、転居17回、更に昭和58年に現在の東京相和銀行に転勤して転勤5回と随分変化の多い半生(?)を送り現在に至っております。


 金大フィルも創団40周年を迎えられ心からお祝いを申し上げますと共に、今後の益々のご発展を大いに期待しております。