ピコ通信/第138号
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化学物質過敏症
労災での救済を阻む「個別症例検討会」 内田正子(東京労働安全衛生センター 事務局) 2月半ば、新聞各紙で化学物質過敏症の後遺障害を認定(障害11級)した(神奈川・厚木労働基準監督署)事例が報じられ、注目を集めています。 その一方、2007年、厚生労働省が「化学物質に関する個別症例検討会」を設置して以来、化学物質過敏症での労災申請が相次いで不支給とされ続けています。実際の事例を見ながら、その問題点を考えていきます。 事例 1 事業所の塗装工事による異臭で複数の労働者が発症 大手自然食の宅配会社のAさん、Bさんは、2003年6月、本社からC事業所への異動を命じられました。C事業所は元々他社の物流倉庫として使用されていた建物で、一部社員の異動に伴い改修工事が行われていました。8月完成の予定で工事は途上でしたが、会社はC事業所へ社員の入居を敢行しました。Aさん、Bさんたちが勤務する同じフロア内はまだ一部工事中で、接着剤やシンナーのような臭いが漂っている状態。塗装工事も行われていましたが、社員には事前に周知されていませんでした。 そんな中で、シンナーのような異臭がフロア内に流れ込む騒ぎが起きたのです。その際、20名ほどの労働者が異臭のため具合が悪いと訴えています。AさんとBさんにも、立ち眩み、倦怠感、咽頭痛などが起こりました。慌てた会社は、本社への緊急避難措置を取りましたが、工事が完了すると、再び社員をC事業所に戻しました。 C事業所に戻って間もなく、Aさんは仕事中にめまいに襲われ救急搬送されました。Bさんも倦怠感、鼻血、のどが詰まるような感覚に苦しむようになりました。その後、二人は専門医療機関で「化学物質過敏症」と診断されました。そしてAさんとBさんは長い休業を余儀なくされることになったのです。 東京労働安全衛生センターは、2005年、池袋労働基準監督署に労災請求をした二人から相談を受け、サポートに入りました。 03年に起きたC事業所での異臭騒ぎの中で、同じ事業所で多数の労働者が同種の症状を訴えていた事実から、二人がなんらかの化学物質にばく露したのは明らかでした。これについては、後日、池袋労基署が依頼した東京労働局の労災協力医も「同時期に同じ職場環境下の複数の社員が体調不良を訴え医療機関を受診していることや、職場において症状の再発や増悪を繰り返したことは、職場環境と諸症状の因果関係を強く関連付けるものであると考える」との意見を述べています。 しかし、2006年11月、二つの事案は池袋労基署の手を離れ、厚生労働省へと委ねられます。「化学物質過敏症」を正式な疾病とは認めていない厚生労働省は、二つの事案を「新たな業務上疾病の認定事案」であるとし、本省協議事案として同省の職業病認定対策室へと回したのです。 そして、07年6月から開催されることになった「化学物質に関する個別症例検討会」で検討にかけられることになりました。個別症例検討会は、非公開で隔月開催というスローペース。結局、両事案が検討されたのは同年12月。池袋労基署がすべての調査を終了してから1年余りが経過していました。 そして2008年4月、池袋労基署から結論が出ました。Aさん、Bさんが03年に発症した傷病は、同一事業所の複数の労働者の自覚症状を呈したことから、ばく露直後の2ヶ月足らずの急性期は業務上と説明しながらも、「その後、症状が遷延化していることについては、未だ医学的知見が得られていない」とする個別症例検討会の意見書をそのまま引用し、Aさん、Bさんがその後も長年にわたり苦しんでいる症状については不支給としたのです。 Bさんは、この事故による疾病での休職中、表向きは契約期間の満了ということで解雇されそうになりました。公共の相談機関等を利用して、なんとか雇用は確保しましたが、会社は「責任は労災の結果で判断する」の一点張り。そんな折、この不支給処分を知った会社は、一切交渉を受け入れなくなり、雇用をつなぐことが難しい状況に陥ってしまいました。 現在、Bさんは個人加入の労働組合で再び雇用を確保して交渉を重ね、将来職場復帰をして生活の糧を得ることを目標にリハビリを行っています。しかし、事故を基点に続く症状を事故とは無関係とされた場合、職場復帰をあきらめなくてはならない事態も起こりうるのではという不安が常にあるそうです。 「労災保険がその制度上、一生を補償するものではないこと、症状固定という判断があることも十分わかっています。しかし、労働災害にあった者が、会社と交渉し職場復帰を行って自立して生活できるような環境を整えるといった意味でも、業務中に起きた事故を起因とし、その後も続く症状についても、きちんと労災で認めてほしいと思います」とBさんは訴えています。 事例 2 ネイルサロン店からの強烈な臭気で隣接する店舗職員がばく露 Dさん、Eさん、Fさんの3人は、都内のあるデパートのテナント店で自然化粧品を販売していました。 2004年10月、職場の隣にオープンしたネイルサロンから毎日強烈な臭いが漂うようになりました。2、3ヵ月が過ぎた頃からDさんは頭痛、吐き気、胃痛、めまい、目がチカチカするなど、ひどいときには起きることも出来なくなりました。内科を受診しましたが、原因不明とされ症状も一向に改善しません。Dさんは一緒に働くEさん、Fさん、通路を隔てた向かいの旅行代理店の人も同じ症状に悩んでいると知りました。ネイルサロンの匂いが強くなると、きつい症状に襲われるため、原因はネイルサロンからの刺激臭だと確信しました。 Dさん、Eさん、Fさんは06年7月、北里研究所病院を受診。3人とも「化学物質過敏症状態」との診断を受けました。ネイルアートの材料に含まれる多種類の化学物質が揮発して隣接する店舗に飛散し、隣の店で勤務するDさんたちが揮発性有機溶剤にばく露してしまったのです。ネイルサロンの店員はマスク(素材不明)を着用していました。 3人は会社と交渉の末、2007年7月、王子労働基準監督署に労災申請。また、デパートの管理会社を通じてネイルサロン会社に対策を要求しました。06年2月には作業環境測定の業者に依頼し、ネイルサロンの空気質の測定も行っています。しかし、測定がネイルサロンの開店直後の時間帯だったため、濃度は低く、Dさんは業者に抗議。再度、別の日に業者から検知管を借りて店舗内の空気を採取、分析してもらったのでした。 王子労基署は測定結果を「検出された化学物質の測定値からは、人体に害を及ぼす程の値は認められていない」と決めつけましたが、T-VOC(総揮発性有機化合物量)はネイルサロンで300ppm、自然化粧品店で200ppm。ネイルサロンに客のいない状態での測定でも室内濃度指針値である400ppmに迫る量の有機化合物が検出されたことになります。 ネイルサロン側は「うちで病気になった者はいない」とこの事態を否定しましたが、そもそも耐性のない人にネイルの仕事は続けられません。その後、ネイルサロンの店舗内には小さな排気装置が設置されましたが効果はなく、Dさんたちはその後も店に漂う匂いに苦しめられ続けました。 王子労基署が依頼した東京労働局の労災協力医は、「今回問題になっている状態は、一定期間ネイル接着剤やネイル剥離剤に含まれる有機溶剤に汚染された空気環境下にあったため中毒症状を呈し、それが慢性症状に移行した可能性が高いと考えられる。過敏となる病態を獲得する期間には個人差があるが、同様の環境下にある複数の同僚達が類似した症状を呈し、しかるべき診断を受けていることは見逃すことはできないと考える。さらに、複数回にわたる空気環境の改善の申し入れに対する積極的な対策の遅れが、今回の問題を更に大きくしていると懸念される」とし、3人の症状がネイルサロンから発散された有機溶剤に起因し、初期の中毒症状から慢性的な症状に移行したと認める意見を述べていました。 この意見を採用すれば、Dさんたち3人の「化学物質過敏症」は業務上と認定されて当然だったはずです。しかし、王子労基署は最終段階であの厚生労働省「化学物質に関する個別症例検討会」に3つの事案をかけました。 その結果、王子労基署の担当官は、個別症例検討会の意見に基づき「請求人に発症したとする疾病の症状、化学物質を吸引し続け急性期の症状が慢性化したもの、あるいは、化学物質を吸引し続けたことによる遷延化した症状が発症したとする諸症状については、化学物質暴露と因果関係があるものとは判断できない」と結論づけ、不支給処分を下しました。 ■化学物質過敏症の労災認定を阻む個別検討会 実は、これまで化学物質過敏症が労災認定された事例は皆無ではありません。2008年2月、総務省の公害等調整委員会が発行した「化学物質過敏症に関する情報収集、解析調査」報告書には、化学物質過敏症等による労災認定の主な事例が報告されています。 情報源はマスメディアに掲載された記事によるものですが、この中で、1998年12月、東京都立川市の航空機厨房等製造工場で燃焼試験でのガスを吸引した2名が化学物質過敏症を発症して認定を受けています。また、2004年6月、愛媛県でも職場で塗料に含まれる化学物質(トルエンとキシレン)を吸引した労働者1名が化学物質過敏症を発症し認定されています。05年3月には、神奈川県の地球環境戦略研究機関で発生した建物内のホルムアルデヒドによるシックハウス症候群も認定されています。しかし厚生労働省が07年6月に「化学物質に関する個別症例検討会」を設置して以降、化学物質過敏症による労災は認められなくなりました。 個別症例検討会は、化学物質過敏症を「化学物質を吸引し続け急性期の症状が慢性化したもの、あるいは、化学物質を吸引し続けたことによる遷延化した症状」であるとする一方で、遷延化した症状については「未だ医学的な合意が得られていない」という理由で化学物質ばく露との因果関係を認めないという意見を出し、化学物質過敏症の労災をことごとく却下し続けています。 情報の開示請求をしても、個別症例検討会の意見書の肝心な「業務起因性に関する意見」の箇所は全部不開示で真っ黒です。主治医や東京労働局の労災専門医の意見を全く無視し、個別症例検討会の意見書だけを根拠に業務外としているにもかかわらず、決め手になった意見書は請求人に開示されません。まるで隠された証拠を基に判決を出すようなもので、到底許されるものではありません。 2009年10月、電子カルテシステムや電子化診療報酬明細(レセプト)で使われる病名リストに「化学物質過敏症(CS)」が新たに登録されました。厚生労働省はこれまで「医学的に合意が得られていない」ことを理由に、化学物質過敏症を健康保険適用の傷病名として認めていませんでしたが、今回の病名リスト改訂により、化学物質過敏症での健保請求が可能となりました。化学物質過敏症の被災者はたいへん苦しい生活を強いられています。化学物質過敏症の病名リストへの登載は、患者さんや支援団体のねばり強い取り組みの成果であり、大きな前進と言えましょう。 労災保険診療は、健康保険準拠を原則としています。個別症例検討会が化学物質過敏症を認めようとしないのは、診療請求対象を病名リストに登録した厚労省自らの決定に反するものです。化学物質過敏症を労災として認めさせるためには、まず現行の「化学物質に関する個別症例検討会」を廃止させ、労基署段階での決定を迫っていかなければなりません。 編集注: 「化学物質に関する個別症例検討会」: 委員名(08/8/19現在):相澤好治(北里大学医学部・衛生学)、秋山一男(国立相模原病院臨床研究センター長・アレルギー)、岸 玲子(北海道大学大学院医学研究科・公衆衛生学)、西中川秀太(東京労災病院消化器内科)。 委員には、化学物質過敏症の専門家は一人も入っていないことがわかります。個人情報保護を盾に、審議非公開、議事録も概要だけ、資料も非公開とまったくの密室審議です。 以下ウェブサイト参照ください。 http://www.mhlw.go.jp/shingi/other.html#roudou |