友よ

「申し上げます、ヘンリー様」
 ラインハット城内の一室で古代の哲学書『純粋理性批判』を読み耽っていた、ヘンリーと呼ばれた緑髪の青年が、顔を上げる。
「何用か」
「リュカ様御一家が、グランバニアに到着なされました」
 その言葉を聞いたヘンリーは、即座に本を放り出した。
「真か!」
「はい。奥方様も御一緒です」
 奥方、という言葉にヘンリーは思わず吐息を漏らした。彼の親友の愛妻は、夫と共に行方知れずになっていたのだ。
(取り戻したんだな、奴等から)
 そう思うと、自然とヘンリーは笑みを浮かべた。気がつくと、走り出していた。年来の友が待つ場所に。

 ラインハット王国は、嘗て『動乱国家』と呼ばれていた。建国より三代で内乱が勃発。六代目国王ハイドリッヒが内乱を鎮定し、暫くは安定して勢力を拡大。やがてその力はノルズム大陸の東半分にまで行き渡り、第十二代国王ライデンブストの代には西の大国マイラス王国に継嗣が無いという事で、エリック王の下に、五男で、当時嫡子の地位に居たバルトムートを養子に送り込むなど、絶頂期を迎えたかに見えた。

 しかし、そのライデンブスト王は好色であった。無計画に側室を増やし、子を増やした結果、彼が死んだ時に生存していた王子の数、実に二十六人。
しかも嫡子と定めていたバルトムートを、本人の要求とはいえ、養子にやってしまうなどの失策を犯した彼は、途方も無い争乱を巻き起こす結果となった。

 ラインハット暦312年、ライデンブストは第十二子グレイデンによって暗殺された。これをきっかけに、第二十二代国王、『嘉報王』イルシュームが398年に『三公の乱』を鎮定するまで、実に八十年の長きに渡って、大陸を巻き込む大争乱が勃発した。俗に言う『ノルズム八十年戦役』、又の名を『イルシューム戦役』と呼ばれる未曾有の戦乱である。この争乱で、ノルズム大陸の人口は五分の一が失われたと言われている。

 その戦乱も漸くに終結し、マイラス王イルシュームが両国を統合してノルズム大陸を統一した事により、平和が戻った。しかし、その平和も長くは続かなかった。
 
ラインハット暦466年。ヘンリー王子とデール王子のどちらを家督に据えるかという暗闘が繰り広げられていたラインハットで、一大事件が勃発した。ヘンリー王子の誘拐である。
その直後に、第二十六代国王ベルギスも倒れ、一年後には帰らぬ人となった。急遽、ベルギス死去の時当時五歳であったデールが国王に即位したのだが、その実権は、ヘンリー王子を誘拐させた張本人にして、太后であるペシュマレンドラが握る事になった。『暗黒の十年』の始まりである。

 太后が最初にやった事は、地方の一農村サンタローズの焼き討ちであった。
事もあろうに、ヘンリー誘拐の罪をこの村に滞在していた戦士パパスになすりつけ、その見せしめとして村を焼き討ちさせたのである。
当然、軍の多くはその非道な命令に反対したが、太后はいつの間にか形成していた自らの私兵で徹底的に反対者を粛清。焼き討ちを強行した。

 太后は徹底的な粛清を行い、反対派を悉く退けた。そして軍事力の増強に乗り出し、民に重税を課す様になったのである。街にはSA部隊(秘密警察)が放たれ、国民統制も強化された。当然の如く、ラインハットは鎖国状態となった。人々は希望を失い、国土は荒んだ。

 しかし、476年。奇跡が起こった。行方がわからなくなっていたヘンリー王子が帰還。志ある者数百を率いて城に入り、いつしか幽閉されていた国王デールと本当の太后ペシュマレンドラを救い出し、いつの間にか太后、国王にすりかわっていた魔物を暴き、死闘の末、彼等を討ち取るに到ったのである。

 それから、十四年が経過した。デールの再三の禅譲を拒否したヘンリーは、護国卿という位に就任し、臣下としてデールを補佐する事になった。また、人員粛正の結果空位になった宰相の位には、当代最高の大学者と言われていたダランデール・シュバイツァーが据えられ、権力構造が再編された。

 ヘンリーに嫡子コリンズが誕生すると、デールは婚姻しない事を宣言。将来、王位をコリンズに禅譲すると発表した。自分と兄を引き裂いたあの悪夢の再来を防いだのだ。また、王位継承問題で国内が動揺する事を避けるため、段階的に立憲象徴君主制を取り入れる事を決定した。

 ラインハットは鎖国状態を打開する為、ヘンリーを全権大使として積極外交に打って出た。最初に国交を回復したのは、グランバニア王国だった。グランバニア王デュムパポス(パパス)とベルギスが莫逆の友であり、ヘンリーとグランバニア王位を継承したリュカもまた無二の親友であった事、更にはグランバニア王国宰相にして哲学者、歴史学者でもあるフィオテルム・エル・ファウス・セヴァンテスとヘンリーが歴史書編纂会議で懇意の仲であった事が幸いした。

 その後諸国と国交を回復、または樹立して、交流が盛んになるに及び、漸くラインハットの経済は復興に向けて歩み出そうとしていた。ヘンリーは、その為に忙しく駆けずり回っていた。リュカ達が訪ねて来たのは、それが一段落した時であった。

 かくして、豪華な宴会が開かれた。ラインハットも、漸く経済が十四年前の水準に戻って、国庫が豊かになって来ていた。
だから、今日ぐらいはこんな贅沢も出来る様になったのだ。暗黒時代に不当に徴収された税金は国民に還元された為、最初の五年は恐ろしく貧乏な状態だった。税金還元、福祉対策、経済復興対策、積極外交、減税……。その煽りで、ラインハットの国庫は火の車であったのだが、今は対策が成就して、国庫は潤っている。

 心の籠った宴会は、夜遅くまで続いた。しかし、やがて子供達が眠り、奥方達も眠った。残ったのは、リュカとヘンリーだけだ。
 大騒ぎしていた宴会とは打って変わって、二人は静かに杯を交わすだけで、何も喋ろうとしない。これだけ親しい友にもなると、喋らずとも相手が傍に居ると思うだけで心が満たされる。彼等は、その心の静謐を楽しんでいたのだ。

「……八年間、僕はこの感覚を忘れていた」
 リュカがぽつりと呟いた。ヘンリーの顔が強張る。忘れる筈も無い。あの出来事を。

 十年前。グランバニア王国で一大事件が起こった。正体不明(魔物)の数十万の大軍団がグランバニアを襲ったのだ。
敵軍は宰相フィオテの巧みな迎撃やリュカの仲間達の奮戦で退けられたが、リュカの妻は誘拐されてしまった。リュカは彼女を取り戻す為に悪魔塔デモンズタワーに乗り込んだが、それを最後に行方がわからなくなった。

 彼は、父の仇の一人であるジャミと壮絶な死闘を繰り広げ、これを破ったのだが、死に際にジャミが放った不発気味のザラキーマにより、二人は石化してしまったのである。

 そして、リュカはある商人に売り飛ばされ、八年の長きに渡って石像として孤独と闘う事になったのだ。そこに、快い静寂は存在しなかった。何も出来ぬもどかしさ、絶望、何者にも構って貰えぬという寂しさ、疑心……。それと戦う日々であった。

「……俺も、本当は大々的に捜索したかったんだ」
 ヘンリーは眼を伏せて言った。
「……でも、それは拒否された……。知ってるよ。サンチョが、頑として応じなかったんだって……。叔父上や子供達、フィオテは助けを借りる事を主張したが、サンチョは絶対に退かぬと言い放った……」

 近衛卿サンチョは、感情としてはラインハットに対して最も敵愾心、憎悪に近い念を抱いていた。自分の主とその子供が危険な目に遭い、おまけにヘンリー王子誘拐の罪を主になすりつけられ、挙句の果てにサンタローズを焼き討ちさせられた。幾らそれが魔物の所業であったとしても、理性ではともかく感情では到底許す気になれなかったのである。

 特に、ヘンリー王子に対しては複雑な感情を抱いていた。国交回復の特使も、リュカ捜索援助提案の使者もヘンリーだったのだが、サンチョはその二度とも、一度たりともヘンリーと眼を合わせる事はしなかった。それだけでは無く、子供達にも逢わせようとしなかった。これは甥のフィオテに叱責されたが、彼の態度は変わらなかった。

 ヘンリー王子さえ居なければ、二人は……。
 その根強い思いが、サンチョをして援助を拒否させたのだ。ラインハットが関わると、碌な事が無い。あの争乱国家に、一体何を任せよというのだ。ヘンリーの居ない所で、そう言明した事さえあった。
 無論、理性ではそれが無益な事だとわかっている。しかし、感情がそれについて行く段階にはまだ到っていなかった。それ程、彼の傷は深かったと言える。

「……ごめん、ヘンリー。サンチョの事を、許してあげてくれ。直ぐにとはいかないだろうけど、いつかは、サンチョもわかってくれる筈だから……」
 ヘンリーは、無言で頷いた。彼は、怒っていない。リュカ達を不幸のどん底に沈めたのは、自分に責任があると考えていたからだ。
 二十四年前。ヘンリーは、何者かに誘拐された。リュカとその父パパスは、彼を助けに向かった。そこで待ち受けていたのは、魔の眷属。閻王(エビルプリースト)ジャコーシュによって創造改変させられた者、ゲマであった。
ゲマの凍てつく波動(またの名を不動金縛りの法術)によって一蹴されてしまったリュカは人質として利用され、ゲマの側近であるジャミ、ゴンズを蹴散らしていたパパスの足を止める事になった。

 パパスは、戦う事を放棄した。息子の為に、自ら死する事を選択したのである。ジャミ、ゴンズに一方的に攻撃を受けながらも、堂々たる態度で臨んでいたパパスの光景を、リュカとヘンリーは未だ鮮明に記憶している。
 ゲマのギガゾーマでパパスが焼き尽くされた時、リュカは声にならぬ絶叫を発し、ヘンリーは深い後悔の念に沈んだ。そして、彼等は奴隷として十年の月日を過ごす事になった……。

 沈黙が場を支配した。二人とも、あの時の事を思い出したのだ。本当ならば思い出したくも無い、しかし、決して忘れられぬ一生の傷。
「もう、二十年以上経ったんだな」
 ぽつりとヘンリーが呟いた。

 二十年。本人達にとって、それは自覚が無い程早い月日であった。リュカが石化した八年間は別だが、それでも概ねはあっという間に過ぎ去った。奴隷として過ごした十年。奴隷の時でこそ永遠の如く感じた月日だが、今ではあっという間の出来事に思える。人間にとって、人生とはそんなに儚いものなのだろうか。そう思案を巡らせながら、二人はしみじみと酒を酌み交わした。

「……行くんだってな、魔界に」
 ヘンリーの言葉に、リュカの顔色が引き締まった。
 それは、イブールを討ち、妻を救った後に起こった。この世のものとは思われぬ光がリュカ達を包み、聖女の如き優しく美しい声がリュカ達の脳髄に響いたのである。即ち、リュカの母、エルヘブンの大巫女マーサ。

 自分は今魔界に居る。しかし、決して魔界に来てはならない。魔界の総帥ジャコーシュ、そして彼が復活させようとしている闇の帝王は、自分が生命に換えてでも防ぎ止める。だから、魔界に来るのは止めて欲しい。マーサは、そうした意味の言葉を残した。
 リュカ達は三日間協議した。心では既に魔界に行くと決めていたが、今度ばかりは一存では決められなかったのだ。そして、国民やオジロン、宰相フィオテの承認を受けて、魔界に赴く事を決した。

 リュカ達がラインハットを訪れたのは、実はヘンリーに対してそれを伝えるという意味も含まれていたのだ。
もっと言えば、今生の別れをする為という意味も。

「……父の希いを叶える。僕は今まで、その一念で旅を続けて来た。でも、今では、父の希いは自分の希いになっているんだ。僕は、魔界に行かずにはいられない。例え、死ぬ事になったとしても……」
 リュカの瞳は、燃え上がっていた。そして据わっていた。頑として動かないという意志をこれでもかと放っている。
 勿論、ヘンリーにリュカを止める意思は無い。また、仮に止めようとしても断固たる決意で臨んでいる時は説得しても無駄である事を、彼は良く知っている。その思いが口に出た。
「……昔っからそうだったよな。一度これだと決めた事は、頑固に守ろうとした。絶対に勝てないような状況でも、理不尽な振る舞いに我慢出来ないで立ち向かった事だってあった。それはガキの頃から全然変わっちゃいない。お前は、昔から頑固で、勇敢だった。俺は、お前のその姿を見て、変わる事が出来たんだ」

 実感だった。幼い時、強がってばかりだった、それでいて臆病だった自分。その臆病な自分を隠す為に使った『傲慢さ』という名の殻。それを打ち破ったのは、他でもないリュカだった。リュカは臆する事無く自分と接して、間違っていると思ったら遠慮会釈無く自分に接した。そう、あの時も。
救出された時、自分は殻に閉じこもった発言ばかりして、帰る事を承諾しなかった。そのやりとりを続けている内に、リュカは自分を殴ったのである。殴られた経験が無かった事もあり、それは衝撃的な事だった。普通、王子という目上の人間を殴るという事は、自国民は言うまでも無く、関わりの無い他人だってやらない事だ。例えその者の所業が間違っていたとしても。しかし、リュカは臆面する所も無く殴った。
「自分の境遇に甘えるな!!」
 リュカはそういう意味の言葉を自分に叩きつけた。そんな事を言われたのは、初めてだった。だから当然自分は反発して口を利こうとはしなかった。だが、今から思えば、それが自分を変えるきっかけに繋がったのだろうとヘンリーは思っている。
「ヘンリー」
 不意に話し掛けられ、ヘンリーは一瞬ぎょっとした。しかし、すぐに元に戻る。
「……魔界に行く前に、一つ大切な事を言いたいんだ。聞いてくれる?」
 リュカの眼はひどく真剣だった。重大な話なのであろう。ヘンリーも表情を引き締めて、リュカの言葉を待った。
「……天空城を浮かせようとしていた時の事だ」
 嘗ては天空神マスタードラゴンの威徳の下、天空に君臨していた天空城であったが、マスタードラゴンが竜体を休ませる為に自らの力をドラゴンオーブに封印、一人間として下界に降り立って暫くした後、墜落した。原因は、ゴールドオーブが無くなった為。

神鋼(クリスタルメタル)で創られ、竜力(ドラゴニックエナジー)を注ぎ込まれ、妖精の破邪の呪文を施された鉄壁のゴールドオーブは、落ちた後リュカの手に渡り、ゲマに奪われ、最終的には閻王ジャコーシュの極大消滅呪文メドローアで消滅してしまった。それをもう一度創って貰う為、リュカ達は、リュカが嘗て訪れた妖精の国に向かった。

「そこで、僕はポワン……妖精族の女王に言われた。『ゴールドオーブを再び創る事は現状では不可能』と……。何とかならないのか、と僕は尋ねた。すると、彼女は悲しい顔をして言った。『たった一つだけ方法がある』と。しかし、それを達成する為には、どんな欲求にも屈しない覚悟が必要である、と言われた。一も二も無く承諾した自分は、光るオーブを渡され、ある場所に飛ばされた。そこは……」
 リュカは一瞬、息を呑んだ。呼吸が乱れる。身体が震えていた。ヘンリーは、彼が何処に飛ばされたのかを理解した。
「……二十四年前のサンタローズ」
 沈黙が辺りを支配した。痛い沈黙だ。

「……そこに居たのは、まだ何もかも失う前のサンタローズだったよ。そう、全てを失う前の……凄く、苦しかった」
 また身体が震えている。ヘンリーは無言で外套をリュカに渡した。しかし、リュカは大丈夫だと、小さく首を振った。

「……ヘンリー。僕は、君に謝らなければならない。……僕はその時、『君さえ居なければ』と一瞬にせよ、思ってしまったんだ」
 リュカは泣きそうな顔でうつむいた。ヘンリーは何も言わないで頷いた。
「……何もかもを失う前のサンタローズ。僕はそこで村人達に逢い、サンチョに逢い、父に逢い、そして……幼き日の自分に逢った。何も知らない、何も失っていない、純真無垢な少年の時の僕に。……辛かった。本当に、辛かったんだ」
 いつしか、リュカの瞳から滴が流れていた。

「僕は、父さんに逢って言った。『ラインハットに行かないで下さい!向こうでは災いが待っています。それは、貴方の生命を奪い、また、御子の将来をも奪ってしまう事になる。それ程の災いです。どうか、どうか行かれません様に……』と。勿論、父さんは拒否した。『仮に君の言っている事が全て真実だったとしても、私の行動も考えも変えるつもりは無い。死ぬ運命であってもな。私は、運命から逃げる事だけはしたくない。どんなに都合の悪い運命であってもだ。だから、君の忠告を聞く事は出来ない』と……。わかっていたのに、言ってしまったんだ。ラインハットに行かない様にと。つまり、君のせいで、僕の父さんが死んだのだと思ってしまったんだ!!」

 リュカの瞳には涙が溜まっていた。時折大粒の涙が落ちる。今や全身が震え、拳でぐっと衣服を鷲掴みにしていた。
「それは、幼い僕に逢った時も同じだった。『この子供をさらって隠してしまえば、父さんはラインハットに行かずに済むのでは?』とか、『あの出来事さえ無ければ、この子はもっと幸福な人生を歩めただろうに』と思ったんだ。……情けないよね。どうにもならなかった事なのに、人のせいにするなんて」
 リュカはぱっとヘンリーの眼を見た。ヘンリーが一瞬息を詰めた程の迫力だった。

「……すまない、ヘンリー!!僕は……僕は、最低の事を考えてしまったんだ。『君さえ居なければ』『あの出来事が無かったならば』などという考えを、抱いてしまった……!わかっていたのに。僕だけが辛いんじゃないって事を。君だって苦しんで来た事を。それなのに、僕は……僕は……!!」
 目の前で泣きじゃくりながら頭を下げる親友に、ヘンリーは慌てて頭を上げさせた。

「……リュカ、良いんだよ。謝らなくても。思わない方がどうかしてるんだ。いくらお前だって、一度や二度は恨みたくなる時だってあるさ。気にするなよ」
「……でも、君は!君は何も悪くないのに……っ!!」
「……おい、落ち着けよ。そんなに泣く事無いだろ?な、落ち着けって」
 ヘンリーはリュカを抱きしめた。そうしなければ、この繊細な青年、いや、少年は崩れ落ちてしまいそうだったから。
「……ッ!!」
 ヘンリーの胸に沈んだ瞬間、リュカは堰を切った様に涙を流した。ヘンリーは無言でリュカの背中をさすってやった。
(お前は、優しすぎるんだよ。リュカ……)
 ヘンリーは思った。この少年は、今までの全てを自分の中に溜め込んでいたのだろう。悲しみも、自分の人生への呪詛も、何もかも……思えばヘンリーは、リュカが立ち直った時以来、一度もリュカが涙を流す姿を見た事が無い。恐らく、悲しみの感情を殺していたのだろう。他人に気を遣って。今、その殺していた分の感情、殺していた分の涙が一片に溢れ出たのである。

「……リュカ。感情を殺さなくても、良いんだ。悲しい時は泣けば良いんだ。憤激した時は怒れば良いんだ。感情を殺す必要なんか、何処にも無い。感情をぶつけあうのが人間だろ?お前、今まで悲しい時に泣かなかったんだな。泣けば良かったのに。誰も、お前の事を弱虫だなんて思わないよ。仮にそう思う奴が居たら、俺がぶん殴ってやる」
 リュカは、三十分近く泣き続けた。その間、ヘンリーは黙って彼の背中を撫でた。彼の肉体は普段は華奢ながらも全身筋肉という感じで、引き締まったたくましいものなのだが、この時の彼の身体は、心なしか頼りなげに思えた。この小さい身体に、背負い切れない程のものを抱えていたのだろう。

「……ごめん、ヘンリー」
 やがて、落ち着いたリュカがヘンリーから離れた。それを見て、ヘンリーが安堵の笑みを浮かべる。しかし、次にリュカが言った言葉は、ヘンリーにとって思いもよらぬものだった。
「ヘンリー。僕を殴ってくれないか」
 一瞬、ヘンリーは呆気に取られて物も言えなかった。まじまじとリュカを見つめる。

「……何を、言ってるんだ?」
 事態が飲み込めていない様子のヘンリーに、リュカは真剣な眼差しで言った。
「……君が許すとしても、僕は、自分が許せない。君に対して無意識でもそんな感情を抱いてしまった自分が、許せないんだ。そのままで、本来君の抱擁を受けるべきでは無かった。君との友誼を、信頼を心情だけとはいえ裏切ってしまったのだから……。頼む、ヘンリー。僕の事を、殴って欲しい」
 暫く、リュカを凝視しながら黙りこくっていたヘンリーだったが、やがて拳を握った。
 高らかな音が、周囲に響き渡った。僅かに遅れて、人が倒れ込む音がした。
 リュカは無言で立ち上がった。未だ悲痛な表情ではあったが、僅かに晴れやかになった様にも見える。
「……これで、全てが終わったよ」
 リュカが静かに言う。しかし、ヘンリーは無言で首を振った。次いで、頬を叩いた。
「……まだ終わっていないよ。今度はお前が殴る番だ」
 今度はリュカが呆気に取られた。ヘンリーは言った。

「……実はな。俺も、そうした思いを抱いた事がある。サンチョに邪険にされた時、『何故俺がこんな思いをしなければならないんだ?』という考えをたった一度だけではあるが、思い浮かべた。……お前が裏切り者だっていうのなら、俺だって裏切り者だ。……殴れ。気が済むまで、殴れ。それで、お前の気持ちが万分の一でも晴れるのならば、俺は喜んでお前に殴られよう」

 リュカは躊躇いの表情を浮かべた。しかし、ヘンリーの表情は頑なだ。
「……何を気兼ねする必要がある?言っただろう?感情を殺す必要は無い、と。それに、俺だってお前の友情を裏切って自己中心的な考えを奥底で抱いていたんだ。お前を殴って、俺はそのままなんて理屈は通らないし、通したくも無い。……殴れ。思いっきり。自分の感情を爆発させるんだ」
 尚もリュカは躊躇った。しかし、ヘンリーの断固たる態度を見、自分が今まで抱いて来た思いが湧き上がって来るに及び、遂にリュカは覚悟を決めた。
「……ごめん、ヘンリー……今だけは……っ!!」
 次の瞬間、ヘンリーは思いっきり、吹っ飛ばされた。一瞬、息が詰まる程の威力、衝撃だった。その傍で、リュカが激しく息をつきながら茫然としている。今、この瞬間、リュカは二十年来の友に対する潜在的な思いの全てを、彼に対してぶつけたのだ。

 我に返ったリュカは、慌ててヘンリーに近寄った。顔を押さえて呻いている。
「ごめん、ヘンリー!大丈夫!?」
 リュカが近寄ると、ヘンリーは安堵させる為に笑みを浮かべた。
「……ああ、痛てて。全く。いざ殴る段になると全然手加減無しだな!」
 大袈裟に言ってのけた後、彼は真顔になった。
「……ありがとう。殴ってくれて。お前の気持ちを、示してくれて。やっと、胸のつかえが取れた」
 そう言うと、ヘンリーはリュカに頭を下げた……。
 二人はいつしか、星空を眺めていた。心なしか、その星空が普段より美しく見える。心の中に鬱積していた全てを吐き出した為であろうか。
「……こうして星空を眺めるのは、久し振りだ。もう、二十四年も経ったんだな……。あの出来事から……」
 リュカが、黙って頷く。
「……死ぬな。生きて、戻って来いよ」
 一瞬、リュカの表情が強張った。ヘンリーの声に、悲しみの響きがあったからだ。
「……それは、親分の命令かい?」
 リュカは精一杯明るい声で冗談を言った。しかし、ヘンリーの表情は真剣だ。
「違う。頼んでいるんだ。……友達として」
 リュカは笑みを消した。
「……俺には、友達が居なかった。生意気で傲慢だったから、当然と言えば当然だがな。誰かに逢う度に『子分になれ!』と言っていた。……友達というものを信じていなかった俺は、何でもかんでも従わせなけりゃ気が済まなかったんだな……。そんな時に、お前と出逢った。初対面で、生意気な態度を取ったのに、お前は生命懸けで俺を助けに来てくれたよな……。その時、俺は本当に嬉しかった。嬉しかったんだ」
 ヘンリーの声が震えていた。
「……だから、頼む。生きて、戻ってくれ。お前は、俺にとってたった一人の、かけがえの無い友達なんだ。子分なんかじゃない。……お願いだ」
 ヘンリーの切々たる願いに、リュカは笑みを浮かべた。
「……わかってるよ。僕は、死にに行くつもりなんかない。母を助けて、連れて帰る。それに、君に逢った事で迷いも無くなった。大丈夫。必ず、生きて戻るよ」
 リュカの力強い言葉に、ヘンリーは漸く心からの笑みを浮かべた。
「……信じてるぜ、親友」
 二人は、固く手を握った。月が穏やかに光る夜だった。

 翌朝。グランバニア王家一行を見送るヘンリー一家の姿があった。親友二人は、心の底から笑い合って、笑顔で手を振った。しかし、彼等が赴く場所は、修羅場だ。

「……これで、良かったんですか。リュカさまと言えど、今度ばかりは……」
 妻のマリアが、その不安を吐露した。本心から言えば、マリアはリュカ達が魔界に赴くのには賛成出来なかった。必要な事である事は知っている。だが、今度こそ死ぬかも知れない修羅場に自ら赴く事で、彼等の生命が消えてしまうのでは無いかと思うと、どうしても不安でならなかった。

「……大丈夫さ。あいつなら。俺は、あいつを信じている。きっと、お袋さんを連れて戻って来るさ!」
 ヘンリーの声は場違いなまでに明るかった。しかし、マリアの不安は消えない。
「……何故、そう言えるのです?確かに、ティミー君は伝説の勇者ですし、仲間の魔物さん達……特にピエールさんとマーリンさんは、精強ですし、リュカさま自身歴戦の戦士です。でも……でも、相手は恐ろしい大魔王です。ヘンリー様は、不安では無いのですか?」

「不安だよ、そりゃあ。でもな。俺は、あいつを信じる事にしたんだ。一番の親友である俺が信じなくて、一体誰があいつを信じるんだ?あいつは、俺に約束した。『必ず生きて戻って来る』ってな。だから、俺はあいつを信じるんだ。……きっと、あいつも俺がリュカの事を信じていると信じてくれているだろう。俺は、その信頼を裏切る真似はしたくない」

 ヘンリーの眼が遠くなる。
「……俺は、あいつに何も報いてやれなかった。今度も、直接あいつに報いる事は出来ない。だから、せめてあいつの事を信じて、祈ろうと思うんだ。あいつが希いを叶えられる様にってな。俺はお前と違って、神を……。リュカ達の言うマスタードラゴンの事をそれほど信じていない。……だが、今度だけは信じたい。神には厚かましい奴だと思われるかも知れないが、そんなのはどうだって良い。俺は神にどう思われても、どんな仕打ちを受けても構わない。だから、あいつには希いを成就して欲しいんだ。そして、生きて戻って来て欲しいんだ。その為だったら、神にだって祈る。それが、俺にしてやれる唯一の事だからな……。マリア、お前もリュカ達を信じて、彼等の為に祈ってはくれないか」

 ヘンリーの真摯な眼差しに、躊躇っていたマリアは息を呑み、やがて静かに頷いた。
「……わかりました。私も、祈ります。今まで、『光の教団』の犠牲になっていた人達に対して祈りを捧げていましたが……。今度はリュカさまの事を、お祈りします。『光の教団』を利用して地上を席巻しようとしたのが大魔王……。それを討ったならば、少しは死んだ人々も浮かばれるかも知れません……。私達の為に犠牲になった兄も……」

 その言葉に、ヘンリーは一瞬辛い顔をした。彼女の兄ヨシュア……。リュカとヘンリー、マリアをあの地獄から解き放ってくれた男は、大神殿で無残に死んでいた。三人とも、彼が罪を問われて死んだものとは思っていたが、それでも本当に死んだとなれば、衝撃は大きかった。ヘンリーは、マリアが人知れず涙を流していたのを知っていたが、何も言えなかった。一体、どんな慰みを言う事が出来よう?
「……そうだな。祈ろう、共に」
 ヘンリーは短く答えた。そうすると、二人は静かに眼を閉じ、手を合わせる。ヘンリーは神に祈った後、嘗て自分達を庇って死んだ、リュカの父パパスに祈りを捧げた。

(……パパス。聞こえるか。今、貴方の御子が、貴方の遺志を継ぐ為に、魔界に乗り込もうとしている。俺のせいで、貴方の希いは到頭果たされずに終わってしまったが、その遺志を、貴方の子、そして孫がしっかり受け継いでいる。俺なんかに貴方に頼み事をする資格は無いだろうが、どうか願わせて欲しい。どうか、彼等の事を見守ってやってくれ。あいつは常々言ってた。貴方は、あいつにとって、永遠の目標であり、誇りだ、と……。きっと、貴方にとっても、あいつは誇りだったよな?俺にとっても、あいつは俺には過ぎた、誇れる親友だ。どうか、リュカを護ってくれ。俺の事は、許さなくて良い。また、貴方に許される資格は無いと思ってる。でも……でも、どうか、今度だけは俺の希いを聞き届けてくれ。あいつを、見守っていてくれ……!)

 ヘンリーは、眼を見開いた。もう、友の姿は無い。ヘンリーは思わず叫んだ。

「リュカぁーっ!!必ず戻って来いよーっ!俺は、お前の事を信じてる。いつまでも、待ってるからなぁーッ!!」

 彼の声は、いつまでも響き渡った。
遥か遠くに居る友まで、その声を届かせようとばかりに……。





後書き

 この小説を書こうと思い立ち、大まかなプロットを頭の中で組み立てるに及び、ふと、太宰治の『走れメロス』が思い浮かんで来ました。この二人の関係はさしずめ、『走れメロス』に出て来るメロスとその親友セリヌンティウスの関係に酷似しているのでは無かろうか、と。
 従来、『走れメロス』と言えば、友情の大切さ、約束を守る事の大切さを強調しているとして、『友情美談』というイメージがあります。しかし、実際は違うそうです。とある太宰研究家は、この小説で太宰が訴えたかったのは、『裏切りの伴わない無垢の信頼などありえない』というものだったとしています。

作中で、メロスは一瞬、親友であるセリヌンティウスを見捨て、助かろうかと考えました。セリヌンティウスは、三日捕らえられた中で一度だけ、メロスは戻って来ないんじゃないかと疑いました。それが、『裏切り』です。そして、これは主人公とヘンリーの関係にも言えるのでは無いかと思います。

二人は、親友です。しかし、それぞれが暗い過去を背負っています。その中で、私がこの小説で記した様な感情を、二人は抱いていたのでは無いだろうか、と考えました。二人は確かに強い絆で結ばれているでしょう。ですが、ああした形の『葛藤』は抱いていたのではないでしょうか?主人公にしてみれば、一度は『父が死に、サンタローズが焼き討ちされ、自分が十年間奴隷としてその間の時間を台無しにされたのは、ヘンリーのせいだ』という無意識の感覚を感じていたでしょう。
そこまで行かずとも、私がこれで記した通り、『もしもヘンリーが居なかったら、平和な生活は破られなかったのでは?』という思いは抱いていたものと思います。
それはある意味で、親友ヘンリーに対する『裏切り』と言えるでしょう。そしてヘンリーもまた、グランバニアで、特にサンチョに常々『貴方さえ、ラインハットさえ無かったら……』といった態度を取られるに及び、一度はその自分の立場を呪ったでしょう。

『何故、俺がこんな事を言われなければならないんだ。俺だって、被害者なんだ』と。人間とは弱い存在である。天空シリーズであるIV、Vの一つのテーマでもあるそれが、二人にもまた圧し掛かっていたのでしょう。

二人もまた、人間です。前述した感情は、きっと持っていたでしょう。そして、そんな自分が許せなかったでしょう。だからもし、彼等が互いにその思いを吐露したら、最後に互いの裏切りを告白し、互いに殴りあったメロス、セリヌンティウスと同じ態度を取るのでは無いだろうかと思ったのです。

それで、最終的な方向性が決まりました。彼等に共通する事は、『友情の葛藤である裏切りを乗り越えて、お互いを更に信頼した』という事だと思います。

太宰自身、『走れメロス』について、『青春は友情の葛藤だ』と言い、その上で人は友情に純粋性を求め、最悪の場合はそれが破綻し、『半狂乱の純粋ごっこに陥る事もある』としました。それが、『信頼』が崩壊する、相手を信用しなくなる、という事なのでしょう。しかし、彼等は『裏切り』を乗り越える事により、太宰が言う『純粋ごっこ』から逃れる事が出来た、と私は思います。
私の拙文なんかでは、二人の思いを描き切る事は難しいものがありましたし、後書きでも思いを伝え切れないのですが、これで何かを感じて下さったなら、これに過ぎたるは無い、と思います。

蒼龍



■蒼龍くんから頂きました。
丁度読んだ日、過去のサンタローズへと行ってきてたんですよね・・・。なのでもう、号泣でした。いいですね〜・・・。殴り合う二人が素敵です。
挿絵は、色々考えて、握手の瞬間を選びました。頬を腫らした二人が描きたかったんです。
素敵な友情小説、ありがとうございますヽ(*´▽`*)ノ