星恂太郎という人

 星恂太郎。諱(いみな)は忠狂(ただのり)。字(あざな)は士狷、無外または楽斎と号する。
 天保十一年十月四日(1840)に仙台東照宮宮司(六供)、星道栄の子として生まれる。その容姿、人となりは「身幹短小、白面巨眼一見女子の如きも、怒る時は満面朱の如く熱汗額に湧き眼光爛々たりき、性豪爽、縄墨(規則)に拘はらず、酔へば則ち詩を吟ず、音吐晴朗、聞くもの感嘆せり」と伝えられている。幼い頃から武芸を好み、家業を継がせることが難しいと思われた。そのような次第で、長男ながら藩の台所人小島知冶の養子となった。しかし包丁を握る仕事を嫌い、実家に戻ってきてしまう。その後、武芸を修めたという。
 恂太郎は幼少の頃から、人を驚かせるような言動が多かったようだ。そんな彼を人々は狂人と呼んだが、本人はもっともなことだと言い忠狂と名乗るようになったという。

 恂太郎は始め攘夷論を唱えていた。彼は開国論を唱える者は奸賊であり、斬るべきであると考えた。そこで金成善左衛門、男沢珍平、菊地虎太郎と共に、儒学者の大槻磐渓を切ろうとしたが失敗に終わった。次に当時執政であった但木土佐や、松倉良輔の殺害を企てた。登城する土佐を狙って斬ろうとしたが通りかからなかったので、善左衛門と共に土佐の屋敷へ向かい対面した。しかし反対に恂太郎たちは、彼らがいかに世界の情勢を知らないかを土佐に諭されてしまう。その後恂太郎以下、善左衛門、片山幾之助で磐渓のもとを訪れた。恂太郎は磐渓の話しを聞き、己の無知を恥て元治元年(1864)に脱藩し江戸へと逃亡する。海外事情を知るために、大條季治や一條十二郎などと共に渡米しようとしたが失敗してしまう。藩の探索から逃げようにも先立つものが無く、困り果てているところを仙台藩の富田鉄之助に救われる。鉄之助は土佐に、恂太郎は見込みのある人物なのでこれを救うよう求め、大金を送らせている。
 その後恂太郎は、幕臣の川勝広道や下曽根信行などの西洋砲術家に銃隊編成調練などを学んだ。彼には素質があったのか、進歩にはめざましいものがあったようだ。また彼は各藩の兵備を調べて歩き、さらに横浜に赴てアメリカ人のヴァン・リードに付いて昼はリードの武器店を手伝い、夜は兵学砲術を学んだ。その後江戸に戻り、各藩の藩士に西洋兵学を教えていた。しかし上野で戦争が起こると、戦火をさけるために横浜に居を移した。そこで仙台藩松倉良輔に見出され、仙台に戻ることになる。
 帰藩した恂太郎は、慶応四年(1868)閏四月十五日に西洋流銃術指南として大番士に取り立てれ、洋式銃隊額兵隊を調練する事になる。

 藩の恭順が決まった後は、二百五十人の額兵隊士や仙台に逗留していた榎本軍共に箱舘に渡った。箱舘では陸軍の第三列士満(レジマンと読み、連隊のことを言う)の第二大隊長に任ぜられ、箱舘戦争終結まで戦った。箱舘戦争では戦功はあったものの、五稜郭は明治二年(1869)五月十八日陥落し弘前に送られて五ヶ月間謹慎となる。そして十月二十五日に箱舘の弁天台場に謹慎となり、翌年の五月十五日に丸一年の謹慎生活を終えたのである。

 謹慎生活は終わり仙台藩に引き取られた彼らだが、国に帰ることはなく仙台藩の開拓地である日高国沙流郡平取(現在の沙流郡平取町紫雲古津周辺)に送られ開拓を行うことになった。しかし開拓団は、一ヶ月で解散することになる。その後恂太郎は明治四年(1871)三月七日開拓使に十五等出仕して、北海道の岩内郡堀株の製塩場経営に着手し、同年の五月五日に父親の道栄が死去すると家族を北海道に呼び寄せる。(恂太郎の妻ツルは、金成善左衛門の妹で恂太郎が蝦夷に渡る前の明治元年九月二十八日に結婚している。結婚当時は十七歳。恂太郎との間に娘二人をもうけているが、一人は榎本武揚の媒酌で蝦夷共和国の会計奉行だった榎本対馬の息子のもとに嫁いでいる)恂太郎は明治五年(1872)一月に小主典になり、四月には権大主典、役職名改正により八月には中主典と役職は上がっていったが、製塩所の業績は芳しくなく十一月九日には遂に閉鎖になってしまう。同時に開拓使も辞することとなる。恂太郎は製塩所閉鎖後、北海道の上国で商業を興そうとしたが叶わず、故郷の仙台に戻ってゆく。
 その後恂太郎は病に倒れ、明治九年(1876)七月二十七日に三十七歳と言う若さで故郷の仙台で没する。墓所は仙台市青葉区宮町五丁目清浄光院(万日堂)にあり、現在は無縁の墓となっているが、恂太郎の碑と共に寺が星家の墓を管理している。戒名は英名有功信士。


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