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メンデルスゾーンによる 「マタイ受難曲」の復活

(97/7/15掲載)

交響曲第5番の「第1稿」(PDF)


 今年はシューベルト(生誕200年)、ブラームス(没後100年)とならんで、今度の定期演奏会で取り上げる序曲「フィンガルの洞窟」の作曲者ヤーコプ・ルートヴィッヒ・フェリックス・メンデルスゾーン=バーソルディも、没後150年の年忌あたりになっています。
 メンデルスゾーンといえば、その数々の名曲が、今日の演奏会のレパートリーに重要な位置を占めているのはもちろんですが、なによりも「マタイ受難曲」を上演することによって、それまで忘れ去られていたヨハン・セバスティアン・バッハを再発見させてくれたという功績を忘れることはできません。

復活上演とその影響
 
自筆稿
 1823年、メンデルスゾーンが14才の時のお祖母さんからのクリスマスプレゼントは、「マタイ受難曲」の自筆稿の写本でした。(上の写真)彼とこの曲との関わりは、この時に始まります。この自筆稿は、彼の先生であったベルリンのジングアカデミーの会長、カール・フリードリッヒ・ツェルターが所有していたものです。彼は、ジングアカデミーの図書室に、バッハの自筆稿を収集していたのです。
 
1829311日、ジングアカデミーで行われた歴史的な復活上演は、前売り券が数時間のうちに売り切れてしまうという人気のなかで、大成功をおさめました。
 この演奏会が引き金となって、この後ドイツ各地で別の団体による「マタイ受難曲」の演奏が続きます。同じ年にはフランクフルト、翌年はブレスラウ、
1831年にはシュテティーン、1832年にはケーニヒスベルクとカッセル、1833にはドレスデンといった具合です。メンデルスゾーン自身は、1841年に、この曲がバッハによって初演された場所であるライプツィッヒの聖トマス教会で再上演を行います。

演奏に使われた楽譜
 ベルリンとライプツィッヒでメンデルスゾーンが使った楽譜は、現在は、イギリスのオクスフォードにあるボドレイアン図書館に所蔵されています。ベルリンでの上演の際には先述の自筆稿のコピーにメンデルスゾーンが鉛筆で書き込みをした指揮者用のスコアと、コンサートマスターを務めたヴァイオリニスト、ユリウス・リーツらによって作成された合唱、オーケストラのパート譜が、そのまま残されているのです。
 
1830年には、この曲の印刷譜がベルリンのシュレジンガー社から出版されています。出版に先立って予約を申込んだ人の目録というのが後述のゲックの文献の中に収められていますが、メンデルスゾーンやツェルターの名前がそこに見られるのは当然のことです。したがって、ライプツィッヒの上演の際には、この印刷譜に書き込みをして使いました。

メンデルスゾーン版のCD 
クリストフ・シュペリング指揮
ダス・ノイエ・オルヒェスター/コルス・ムジクス
Opus111 OPS30-72/73924月録音)
 1841年のライプツィッヒでの上演の際に使われたスコア、パート譜を使って実際にレコーディングを行ったのが、このCDです。これを聴けば、メンデルスゾーンがどんな形で「マタイ」を上演したかがよく分かります。
                                                            

メンデルスゾーンの改訂の実態
 CDをもとに、実際のカットや変更の詳細を次のページの表にまとめてみました。
カット
約3分の1のアリアをカットしました。残されたアリアも、ダ・カーポを省略して短くしたものがあります。レチタティーヴォ・セッコも、特に第2部では大幅にカットされています。
楽器の変更
原曲には、オーボエ・ダモーレとかオーボエ・ダ・カッチャといったオーボエ族の低音楽器が頻繁に使われています。しかし、メンデルスゾーンの時代には、もはやこれらの楽器はオーケストラで使われることはなくなっていたために、そのパートをクラリネットで代用しています。しかし、原曲の響きを知ってしまった我々には、この変更はとても奇異に感じられます。おそらくメンデルスゾーンもこのことは承知していたのでしょう。2本のオーボエ・ダ・カッチャがオブリガートをつとめるアリア"Sehet, Jesus hat die Hand"(No.60) は見事にカットされています。
表情記号
原曲にはない速度記号、クレッシェンド、ディミヌエンドなどが付けられています。
音の変更
多くのエヴァンゲリスト(福音史家)のレチタティーヴォ・セッコで、音をオクターブ下げたり、音形を変えたりしています。これは、ある特定のフレーズを強調するために、意識的にその直前の部分を低い音にして対比を強調しているのです。この例として、有名な「ペテロの否認」(No.38)のくだりを見てみましょう。

譜例

"weinete bitterlich"(はげしく泣いた)を強調するために、その前をオクターブ下げています。最後のfis-Mollのコードもfis-Dur に直しました。Adagioという書き込みにもご注目。

改訂の評価
 「マタイ受難曲」の復活上演にあたってのメンデルスゾーンの姿勢は、このレチタティーヴォの改変の例でも明らかなように、劇的な対比や情熱的な感情表出を強調するという、典型的なロマン派のスタイルです。そのほかにも、例えば「パッション・コラール」の最後の曲であるNo.62のコラールをア・カペラにするなどというとっても効果的なことも行っています。
 これは、現代の私たちが「原典版」を使い、「歴史的な演奏習慣」を知った上で、出来るだけ作品の真の姿に近いものを再現しようと目指す姿勢とは全く異なったものであることは明白です。しかし、彼は実際的な音楽家として、バッハの音楽を同時代の人々のために生き返らせようと必死だったのです。やがて、彼によって切られたバッハ復興の口火によって、
1850年には「バッハ協会」が設立され、「旧バッハ全集」が続々と刊行されることになるのですが、残念なことに、彼はその時にはもはやこの世にはいませんでした。

参考文献

リンク
メンデルスゾーンの部屋 日吉薫子さん(早稲田大学人間科学部卒)の卒論


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