吸盤ごっこ。.... 渋谷塔一

(04/2/12-04/3/4)


3月4日

MIYOSHI Three Images
TAKEMITSU Family Tree
岩城宏之/
オーケストラ・アンサンブル金沢
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11722
今、手元にあるCDは「重い」ものばかりです。もちろん1枚が10Kgあるとかの重さではなく、内容的にいろいろ考えずにはいられないという意味ですが。その中の1枚、オーケストラ・アンサンブル金沢の1000円シリーズの最新盤の一つです。曲目は三善晃の「三つのイメージ」と武満徹の「系図」。どちらも谷川俊太郎の詩をモティーフにした作品で、各々、痛いほどのメッセージを放射してきます。
三善の作品は、2002年9月のオーケストラ・アンサンブル金沢第126回定期で世界初演。童声、混声合唱とオーケストラのために書かれた曲で、16分ほどの短い時間に多くの音と言葉が詰め込まれ、それらが激しくぶつかり合う様には、思わず息を飲んでしまいます。そして詩の言葉。火と水、そして人間の矛盾。美しい日本語で歌われる(語られる)ことにより、その言葉自体がはっきりした意味を持ち、耳から洪水のように入ってくるのです。そして聞き手を翻弄し、ねじ伏せるかのように駆け抜けて行きます。
もう一つの「系図」。こちらは武満の晩年の作品で御存知の方も多いでしょう。ヨレヨレのコートを着てましたね(それは「刑事」コロンボ)。彼がなぜ、このような「先祖返り」した音楽を書いたのかには、いろいろな説がありますが、ドビュッシーとシェーンベルクとR・シュトラウスを混ぜたような音は、聴き手を陶然とさせるようです。(友人のホルン吹きも「冒頭にめちゃめちゃ美しいソロがあるんだ」と語ってます)今回の演奏は、指揮者岩城宏之自身が室内オーケストラ版に編曲。原曲の複雑な響きを一切損なうことなく、より透明度の高い音楽に練り上げているところがさすがです。この曲の冒頭を聴くと、いつも生暖かい海の中を彷徨っているような気がします。周りの水は生暖かく、そして少し重苦しい。これはもしかしたら胎内回帰なのでしょうか。いつまでもじっとしていたい・・・そんな気分になったところに、たっぷり「にがり」を含んだような吉行和子さんの朗読が滑り込んできます。この朗読は、原作に揃えて少女が担うことが多いのですが、(日本語であったり、英語であったり、フランス語も聴いたことあるなぁ)こうして大人の声、(それも表情豊かな)で聴くとまた違った凄みがあります。そして日本語で聴くと、この曲がどれほど恐ろしい曲なのかがよくわかるのです。一番、恐かったのが「おとうさん」と「おかあさん」でした。「おとうさん」に描かれた、ごく普通の日常生活。ご飯の湯気で眼鏡が曇ったり、口の奥で金歯が見えたり。でも、おとうさんは別のことを考えていて、少女が「おとうさん。ずっと生きていて」と叫ぶまでの心の動きがとても恐い・・・・。壊れかけた「おかあさん」も恐い。この詩が全て平仮名で書かれていることも、とても恐い・・・。
最初感じた美しさは、もしかしたら全て「虚」であるのかも。静かな音楽であるだけに、じわじわ来る感じが、なんとも空恐ろしい気がします。

3月1日

Classic Meets Cuba
Klazz Brothers & Cuba Percussion
SONY/SK 93090
(輸入盤)
ソニーミュージック
/SICP-569(国内盤)
先日、ベルリン・フィルの大晦日のコンサート「ジルヴェスター・コンサート」をテレビで見ていました。最近のこのコンサートは、指揮者ラトルの趣味なのでしょうが、積極的にクラシック以外のカテゴリーのものを取り入れています。この日も、ダイアン・リーヴスという世界的なジャズシンガーを迎えて、ガーシュインの曲をノリノリに演奏してくれていました。圧巻はアンコールで、そこでは、何とトゥッティのヴィオラ奏者が立ち上がって、延々とアドリブ・ソロを繰り広げていたのです。それは、もはや「趣味」の領域ではなく、まっとうなジャズ・ミュージシャンとしても十分やっていけるほどの、レベルの高いプレイでした。それも、もはや本場アメリカでは聴くことの出来ないような、しっかりとしたソロだったのには、さらに驚いてしまいました。ドイツ人というのは、あるいはジャズに関しては、アメリカ人より深いところで共感を持っているものがあるのかもしれません。
今回のCD、やはりクラシックのミュージシャンとしてドレスデン・フィルで首席奏者を務めている、コントラバスのキリアン・フォルスターという人が中心になったジャズ・トリオ、「クラズ・ブラザーズ」が、キューバの2人のラテン・パーカッショニストと共演したものです。取り上げているのがクラシックの名曲、自分たちのルーツ音楽を、ラテン・テイストあふれるジャズに仕上げたお手並みを、拝見することにしましょう。
いきなり「ウーッ!」という、ペレス・プラードばりの掛け声で始まったのは、マンボ仕立てのモーツァルトのト短調交響曲「Manbozart」です。ここでは何とヴォーカルまで入って、原曲の「疾走する悲しみ」とは無縁の陽気な世界が広がっています。そう、このアルバムにあふれているのは、そんな屈託のない楽しさ、「ジャズが・・・」とか「ラテンが・・・」といったゴタクは全く必要のない心地よさなのです。
バッハの「無伴奏チェロ組曲」では、キリアンがコンガだけのバックで、コントラバスソロを聴かせてくれますが、彼の絶妙なテクニックは、アルバムに花を添えるもの、なにしろ、リムスキー・コルサコフの「クマバチ」までも、まるでゲイリー・カーのようにやすやすと弾き切っているのですから。
圧巻は、そのタイトルも「マンボ・ナンバー5」にちなんだ「サルサ・ナンバー5」という、ベートーヴェンのハ短調交響曲(もっとも、ペレス・プラードが「運命」をパクったのですから、これは2重のパクリになりますね)と、変拍子(7拍子)で仕上げたビゼーのハバネラ「Carmen Cubana」でしょうか。そういえば、「ハバネラ」というのはキューバCubaの首都「ハバナ」に由来した音楽ですよね。念のため、キューバの音楽(キューバン・ミュージックCuban Music)は、蛸の吸盤とは何の関係もありません。

2月28日

反音楽史
さらば、ベートーヴェン
石井宏著
新潮社刊
(ISBN4-10-390303-1)
一昨年の今頃、やはり新潮社から「誰がヴァイオリンを殺したか」というショッキングな本を発表した石井さんが、またまた快哉を叫びたくなるような物を書いてくれました。コシマキにあるコピーが「ドイツ人がでっち上げた虚構をあばく!」という過激なもの、事実、これだけ「偏向」した音楽史というのには、おそらくなかなかお目にかかることは出来ないことでしょう。ここで言う「偏向」とは、もちろん教科書検定の時に使われる単語と同じで、「真実の」という意味です。高校生の売春でもありません(それは「援交」)。
検定を無事通過する教科書に相当するものは、それこそ学校の教科書に載っているような音楽史、バッハ(音楽の父)、ヘンデル(音楽の母)に始まって、「古典派」→「ロマン派」と続き、「12音音楽」の創設者シェーンベルクへと至る一筋のドイツ音楽の流れです。その中では、フランスの「印象派」は極めて特殊なものとして扱われ、「民族主義」は、1ランク低いものとして、軽い軽蔑の対象にすらなっています。「バロック」などは、完全に無視されています。もちろん、今ここを訪れているような確かな耳を持ったリスナーたちには、こんな音楽史が全く実情に即していないというのは分かり切ったことには違いありませんが、確かに、このような不思議な史観は、音楽の教育現場では、いまだに厳然とした地位を誇っているのです。
著者がここで目指したものは、そのような「間違った」音楽史への果敢なる挑戦でした。特に、このような教育を受けた人が信じて疑わない、「ドイツ音楽の絶対的な優位性」というものに対する反証には、数多くの文献を駆使しての、説得力のある論駁が展開され、その迫力には圧倒されてしまいます。そもそも、音楽用語にイタリア語が使われているのでも分かるとおり、バッハやモーツァルトが活躍した時代の音楽の主流はドイツではなくイタリアであったことは明白なこと。そんな単純なことに気付かずに、お仕着せの音楽史を学んできた人にとっては、これはまさに目から鱗が落ちる思いに違いありません。このような史観はすでに当然のものと受け止めていた私でさえ、モーツァルトのミドルネームは、元々の洗礼名「テオフィルTheophil(Theo=神、phil=)」を、彼自身がイタリア風に「アマデオAmadeo(Ama=愛、deo=)」といっていたものを、ドイツの出版社が、そんなイタリア風の名前は不都合だと、ラテン語風に「アマデウス」にしたのだという指摘には、思わず「へぇ」とボタンを押してしまったくらいですから。
著者のもう一つの目論見は、そのような音楽史がなぜ出来上がってしまったかという検証です。しかし、これに関しては、それまで述べられていた論調の割には、やや材料不足の感は否めません。コシマキの志を貫くためには、ぜひもう一押し、なぜシェーンベルクは「12音」などという「譜面上のお遊び」に手を染めなければならなかったかまでを、きちんと語って欲しかったという思いは残ります。
もう1点、イタリア・オペラの流れを高く評価している著者が、ワーグナーに関してどのような態度で接するのかは、ぜひ知りたいところです。

2月25日

GAUBERT
Complete Works for Flute 1
Fenwick Smith(Fl)
Sally Pinkas(Pf)
NAXOS/8.557305
フィリップ・ゴーベールという人は、20世紀前半のパリでフルーティスト、指揮者、そして作曲家として大活躍をしていました。さらには、パリ音楽院の教授として、あのマルセル・モイーズを育てたという、言ってみれば現在のフルーティストに大きな影響を与えている「フランス楽派」の源流のような人でもあります。彼の先生のポール・タファネルとともに編んだ「日課練習」は、全てのフルーティストの必須アイテムとなっています。ちなみに、彼はチーズが好きだったとか(それはカマンベール)。
作曲家としては、オペラや交響曲なども作っていますが、なんと言っても重要なのは彼の楽器、フルートのために作られた作品たちです。フルートとピアノのための独奏曲は14曲、そして、他の楽器が入ったアンサンブル曲は6曲あります。独奏曲についてはすでにスーザン・ミラン(CHANDOS)あたりが全曲録音していましたが、ここでNAXOSからリリースが始まった「全集」は、アンサンブル曲も含めた全てのフルート曲が収録された、文字通り「全作品集」となるはずのものです。名刺代わりに、と言うわけでもないのでしょうが、この第1巻は、世界初録音も含む、全てのアンサンブル曲が入った、画期的なものになりました。
演奏しているフェンウィック・スミスは、長くボストン交響楽団の2番奏者を務めているフルーティスト。ただ、経歴としてユニークなのは、そのポストに着く前に有名な「パウエル」というフルートメーカーでフルート製造の仕事に携わっていたと言うことです。もちろん、彼が使っているのは自分で作った楽器であるのは、言うまでもありません。フルートを現在の形に改良したテオバルト・ベームがそうであったように、彼も楽器職人と演奏家という2つのカテゴリーで卓越した才能を発揮させているのです。
彼は「2番」とは言っても、実力的には十分首席奏者が務まるものを持っています。事実、「ボストン・ポップス」名義で彼のオーケストラが演奏する時には、素晴らしいソロを披露してくれています。そんな彼が演奏したゴーベール、最初のソロ、「マドリガル」を聴けば、これが今までにあった数々の名演に肩を並べるものであることが分かることでしょう。フォーレをベースにラヴェルを一匙、仕上げにドビュッシーを振りかけたようなゴーベールの音楽に、スミスのフルートは見事な輝きを与えているのです。絶妙な歌いまわしと、そしてその音!。そこには、フランス的なエスプリすらも感じられる瞬間が。
このアルバムによって初めて聴くことの出来る珠玉のアンサンブル曲も、したがって、資料としての価値をはるかに超えた魅力を持って迫ってきています。録音当時の首席フルート奏者だったジャック・ゾーン(彼が退団したため、現在このポストは空席になっています)との共演による「ギリシャ風ディヴェルティメント」は、2本のフルート(ここで聴く限り、スミスの音はゾーンよりはるかに存在感があります)とハープによるとてもチャーミングな曲。おそらくジャケ写のイメージでしょうが、コンサートマスターのマルコム・ロウとの「古風なメダル」という官能的な曲も、楽しめました。
ソナタなどが収録されるはずの第2巻、第3巻にも、いやが上にも期待が高まろうというものです。

2月23日

LISZT
Dante Symphony
Leon Botstein/
London Symphony Orchestra
TELARC/CD-80613
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCT-2039(国内盤)
生涯、愛に生きた男として有名なフランツ・リスト。彼の生涯はさまざまな女性に彩られていました。なかでも、とりわけ大きな影響を与えたのが、御存知マリー・ダグー伯爵夫人でしょう。結婚こそしませんでしたが(なんたって、タブー伯爵夫人)、この2人の結びつきからは、後世の人々にとって、限りなく大きな実りがもたらされたのです(後のワーグナー夫人となるコジマもこの2人の娘です)。有り余るお金と豊かな教養を兼ね備えたマリー・ダグー、中世イタリアの詩人、ダンテの「神曲」をリストに読むように勧めたのも彼女でした。それを読んだリストは、まずピアノ曲「ダンテを読んで」の初稿を起こし、それから管弦楽作品を作ろうと試みたといいます。
生来のアイデアマンであったリストのこと、こういう描写音楽は得意中の得意。その時の案が実行に移されていたら、かなり面白い作品が出来上がったものと想像されます。結局実現に至ったのは、構想から16年(もちろんその頃には違う人と付き合っていましたが)、1855年のことでした。地獄、煉獄、天国の3楽章形式にするつもりだったリストですが、「いかなる人声をもってしても、天国の歓喜は表現できない」とワーグナーに忠告され、結局煉獄でのたうつ魂が、天上から響く歌声を聴くという構成に落ち着いたというものです。
さあ、この演奏です。ボッツスタインの演奏は、今までにもいくつか聴いています。いつぞやのR・シュトラウスもそうでしたが、常に、オケの響きを存分に活かした煌びやかな演奏です。まさに今回のような表題音楽にはうってつけといえましょう。期待通り、冒頭から良い感じです。地獄の門が開く際に奏される重々しいファンファーレ。そしてぞっとするほど荒々しい恐怖の音楽。中間部の美しいフレーズ。(これは苦難の中に敢えて幸せだった頃を思い出すというマゾ気質の賜物)これらがメリハリのある演奏で、耳を楽しませます。そして第2部の煉獄。こちらはマーラーの描く煉獄とはかなり違う世界。内省的で静謐。あくまでも自分自身と向き合う場所として書かれているのが印象的です。そして、最後に置かれた感動的な天の声。ここをボッツスタインは少年合唱に歌わせました。ああ。何と美しい響きでしょう。"Hosanna! Hallelujah!"この賛美の言葉の応酬を聞いて涙しない人がいるでしょうか。リストの宗教的な曲はなんとなく胡散臭いと思われているようですが、こういう演奏を聴くと、私にはこれこそリストの真骨頂だと思えてしまいます。

2月20日

SHOSTAKOVICH
Symphonies 5 & 9
Valery Gergiev/
Kirov Orchestra
PHILIPS/475 065-2
(輸入盤 発売日未定)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1083(国内盤 3月4日先行発売予定)
1979年に発表されたソロモン・ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」は、いまだにその真偽を巡って議論が絶えることはないという問題の文献です。特に、交響曲第5番のフィナーレに関する次のような言及は、まさにショッキングなものとして発表当時の音楽界に大きな波紋を投げかけたものでした。とても呑気に買い物などは出来なかったことでしょう(それはショッピング)。
あるとき、私の音楽の最大の解釈者を自負していた指揮者ムラヴィンスキーが私の音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第5番と第7番で私が歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそ私の思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、私が歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのも分からないのだ。いったい、あそこにどんな歓喜があるというのか。第5交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、と私は思う。あれは「ボリス・ゴドゥノフ」の場面と同様、強制された歓喜なのだ。それは、鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがお前たちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして鞭打たれたものは立ち上がり、ふらつく足で行進をはじめ、「さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ」という。(水野忠夫訳:中央公論社)
これが果たしてショスタコーヴィチの真意なのか、発表されて20年以上経った今でも、それは明らかにはなっていません。しかし、今回ゲルギエフが「8番」、「7番」に続いて録音したこの「5番」の演奏を聴くと、彼の中ではこの作曲家の言葉はかなりの真実味を持って迎えられていることを感じないわけにはいきません。その最も象徴的な部分は、件の第4楽章の真ん中あたり、このCDではトラック4の6分53秒、スコアの練習番号119から始まる第1ヴァイオリンのテーマです。もし、作曲家が本心で「強制された歓喜」を描きたかったのであれば、この部分はまさにその伏線として位置づけられる、民衆の心からの思いに違いない、と私は密かに思っているのですが、そのとても内向的な、しかし何か強い意志を感じるこのテーマを、ゲルギエフはいとも大切に歌い上げているのです。最初のフレーズから次のフレーズへ移る時のためらうような空白、一貫して抑え気味の、しかし、恐ろしいまでの緊張を含んだその表現は、背筋が寒くなるほどの説得力を持って迫ってきます。これがあれば、続く盛り上がりがいかに空虚なものであるかが、自ずと分かろうというものです。
この部分、ためしにムラヴンスキーを聴いてみましたが、彼は信じられないほどの無表情さで押し通しています。ゲルギエフと対極にあるこの表現は、意図して表情を殺さない限りなしえないもの、こういうものを聴いてしまうと、作曲家の誹謗は的を射ている感じが強くしてしまいます。ひいては、「証言」自体の信憑性も、確かな手応えとなって伝わってきます。
カップリングの「9番」は、この曲のアイロニーを、よけいな作為を廃して曲そのものに語らせたとてつもない演奏です。第3楽章の息をのむ名人芸の背後から見えてくるものは、作曲家の引きつった不敵な笑い顔なのかもしれません。
実は、このCD、あした発売ということで、早いところでは今日店頭に並んだのですが、なぜかメーカーから全品回収の通達があったため、もはや入手することは出来ません。2週間後には良品が準備出来るそうですが、その辺の事情は、マスターの日記で分かるかも。

2月18日

MUSSORGSKY/STOKOWSKI
Pictures at an Exhibition
Oliver Knussen/
The Cleveland Orchestra
DG/457 646-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1188(国内盤)
ストコフスキーといえば、すぐ思い出されるのがディズニー・アニメの「ファンタジア」です。関西の人にこういわれたらヘコみますね(「あんた、痔や」)。それはともかく、この、まさにアニメにおける金字塔とも言える作品は、もちろんディズニー・スタジオのアニメーターたちの創造的な仕事こそ、称賛に値するものですが、そのサウンドトラックを担当したストコフスキーの個性的な演奏があったからこそ、これほど印象的な仕上がりになったというのも紛れもない事実です。ただ、もちろん昔の録音ですから、音質的に鑑賞に堪えないものがあったのは致し方ありません。それでも現在では、高度のデジタル・リマスタリングによって、まるで見違えるような音に修復されたものを聴くことが出来るようになっています。しかし、そのような技術がまだ開発されない頃、この作品のサウンド部分だけを、そっくり当時の最新のデジタル録音で録音し直したものに差し替えようという試みが、実際にあったのです。アーウィン・コスタルの指揮するスタジオ・ミュージシャンによる演奏が録音され、そのCDまで発売されたのですが、なぜか、少なくとも日本では、このコスタル版のサントラが使われた映画が公開されることはありませんでした。コスタルは、録音に当たってはヘッドフォンでストコフスキーの演奏を聴きながら、忠実にその表現をコピーしたと言っていますが、出来上がったものからはオリジナルのアクの強さは全く消え去り、いたずらに解像度の良いハイ・ファイ音が虚しく響いているだけでした(このCDをビデオとシンクロさせて再生しても、必ず最後で尺が余ってしまうのも、不思議です)。
今回、ナッセンの指揮するストコフスキー版「展覧会」を聴いた時の印象は、まさにこの時と同じものでした。ストコフスキーの編曲からは、かのラヴェル版に見られる緻密な職人芸、言ってみれば奥ゆかしい「裏技」のようなものは殆ど聴き取ることは出来ません。そこにあるのは、こけおどしに近い、ひたすら派手な演奏効果を追求したものです。これをストコフスキー自身が演奏した時には、その自由自在(やりすぎ、とも言う)なアゴーギグと相まって、極めて振幅の大きい、壮大な世界が現れることになるのです。ナッセンも確かに努力はしています。フレーズに思いっきりメリハリを付けてみたり、テンポを自由に動かしてみたり・・・。しかし、それらの挙動は、悲しいかな全て(コスタルがそうであったように)ストコフスキーの亜流にしか聞こえないのです。何とか自己のアイデンティティを主張しようとして、楽譜を改変したことについてライナーで述べられていますが、彼が「ミスプリントだから直した」と言っているその「カタコンブ」の、ラヴェル版では4小節目にあたる金管のE#の音は、ストコフスキー自身の録音(DECCA)ではそのまま聞こえてくるのですから、何の意味も持ちません。
ただ、このCDには、ストコフスキーがムソルグスキーに寄せた愛情を感じ取るには十分なものが存在していることは、紛れもない事実です。長大なオペラ「ボリス・ゴドノフ」を22分のコンパクトな組曲として味わったり、リムスキー・コルサコフによって小綺麗な小品と化してしまった「はげ山の一夜」から、本来持っていたであろう粗野な側面を強調したオーケストレーションを聴けるのは、なによりの収穫でしょう。

2月16日

REICH
Music for 18 Musicians
Amadinda & Musicians
HUNGAROTON/HCD 32208
1967年、「ピアノ・フェイズ」という作品で、同じリズムパターンの位相を少しずつずらすことによって得られるモアレ効果を音楽の世界に取り入れた時、スティーヴ・ライヒはそれまでのクラシック音楽の世界には存在しなかった、全く新しい作曲技法を確立した作曲家として、音楽史に名を残すことが約束されたのです。その技法による音楽は、似たようなアイディアを持つ他の人たちと一緒くたにされて、「ミニマル・ミュージック」と呼ばれ、その影響は当時の大作曲家にも多大な影響を与えたことは、今ではよく知られています。ライヒ自身、この技法を単なる音の遊びに終わらせないために、新しい作品ごとにより修練の積まれた、複雑な内容を持つものを作るようになっていきます。楽器の編成も、当初は同じ楽器同士とか打楽器中心のモノクローム的なテイストだったものが、1973年の「マレット楽器、声、オルガンのための音楽」あたりになってくると、音色的にも豊かなものとなります。
1976年に完成した「18人のミュージシャンのための音楽」は、彼のそれまでの「ミニマル」の技法の、いわば集大成のような意味を持つ作品と位置づけられるでしょう。前作で用いられた人の声は、ここではリリカルな側面すら持ち始め、弦楽器やクラリネットといった温かい音色の楽器の使用と相まって、彼の音楽はそれまでのある種無機的なものから、より音楽として完成度の高いものへと変貌を遂げたのです。
この曲の録音、今までに「ライヒと仲間たち」によるものと「アンサンブル・モデルン」によるものがありましたが、今回まったくノーマークのハンガリーのレーベルからライブ盤がリリースされました(録音は1990年で、最新のものではありません)。「Amadinda」という、ハンガリーの4人組の打楽器アンサンブルが中心になって演奏されているこのアルバム、この曲の「温かい」キャラクターが存分に生かされた仕上がりとなっています。ライブ録音ということもあるのでしょうが、確かに、ライヒの作品には不可欠とされる、機械のように正確なパルスの打ち込みは、時として破綻をきたしていることもあります。しかし、逆にそこから生まれる「人間っぽさ」は、とことん精度を追求したライヒたちのスタジオ録音には見られないものです。ヴィブラフォンのきっかけで楽器の組み合わせが瞬時に変わる箇所がいくつか用意されていますが、そこでの場面転換の鮮やさには、思わず引き込まれるものがあります。単純なパターンが成長していく過程で、何かドラマティックなものを感じてしまうのも、新鮮な驚きです。本来デジタルな指向のこの作品に、あえてアナログっぽいアプローチを試みた(実際、これはアナログ録音!)、そんな肌合いでしょうか。
これ以後のライヒには、大編成のオーケストラの使用や、映像とのコラボレーションなど、外面的な変化は著しいものがあり、ファン層もクラシックに留まらないヒップ・ホップあたりまでも巻き込んだ広範なものになっているのはなかなかのものなのですが、肝心の音楽的な面で、この作品の次元から一歩も進まない、見方によっては明らかに衰退の方向へ向かっていると思えてしまうのは、なぜなのでしょう。ひとつには、この頃にパートナーとなったベリル・コロットの影響が考えられはしないでしょうか。まるで、ジョン・レノンをころっと丸め込んだオノ・ヨーコのような、オトコの才能を食いつぶしてしまう力が、もしかしたらこの映像作家には備わっているのかもしれません。

2月14日

CREDO
Hélène Grimaud(Pf)
Esa-Pekka Salonen/
Sweden Radio Symphony Orchestra & Choir
DG/471 769-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1184(国内盤 3月24日発売予定)
「クレド」というこのアルバムのタイトル、ともに、今ではクラシックに見切りを付けたレーベル、TELDEC(WARNER)SONYをリストラされたグリモーやサロネンが、とらば〜ゆ先のDGでの初仕事を「ぜひ聴いてくれど」という思いで付けたわけでは、もちろんありません(そもそも「credo」ってラテン語ですし)。これは、グリモーの綿密なコンセプトに基づくアルバム、収録されているのは、ジョン・コリリアーノの「オスティナートによる幻想曲」とベートーヴェンの「テンペスト」ソナタというピアノソロ、そして、オーケストラと合唱を伴った、同じくベートーヴェンの「合唱幻想曲」と、アルバムタイトルともなっている、アルヴォ・ペルトの「クレド」の4曲です。グリモー自身のライナーや、併載されているインタビューによって、その「コンセプト」は知ることが出来ますが、あえてそのような意図を先入観として持つよりは、素直に最初から聴いていったほうが良いのかも知れません。グリモーの語る「精神的な関連性」は、言葉で理解するよりも、音楽そのもので感じた方が、より実のある体験となるはずです。
最初のソロ2曲は、最近グリモーがパリや東京のリサイタルで良く取り上げている組み合わせです。コリリアーノの曲の「オスティナート」というのは、ベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章のテーマ。同じ音を執拗に繰り返すパターンは、最後になって元の形がきちんと呈示されて、正体が分かるようになっていますが、出来れば(もう無理ですが)そんなことは知らないで聴いてみたいものです。「タンタタタンタ」というリズムが途切れ途切れに出てくるところに、何の脈絡もない不規則なパルスが打ち込まれるのは、なかなかスリリング、中間部で少し盛り上がったものが、最後には元の静寂に戻ります。パリでの聴衆が書いていたものを呼んだことがありますが、リサイタルでは、そのまま「テンペスト」が続けて演奏されるので、このソナタの導入部のラルゴが、まるでコリリアーノの曲の最後のような錯覚に陥ってしまったということです。確かに、この流れで聴いていくと、ベートーヴェンはあたかもパロディのように感じられてしまうのは事実です。グリモーの演奏も、拍を曖昧にしないきっちりしたビートが常に感じられるものですから、決してロマンチックには陥らない毅然としたテイストに支配されています。
後半、オーケストラとの共演は、ライブ演奏そのものです。彼女は「合唱幻想曲」を中心に据えてこのアルバムを構成したそうですが、そのカップリングとして他のピアノ協奏曲というベタな選曲ではなくもっと違う何かと言うことで探していたら、偶然ペルトから「クレド」のスコアを見せられ、瞬時に「これだ!」とひらめいたそうなのです。1968年という、ペルトとしてはまだ今のようなスタイルには至ってはいなかった時期の作品ですが、バッハの平均率の第1番、つまり、グノーの「アヴェ・マリア」の元ネタの大胆な引用が、耳をひきます。そのあたりが、グリモーに「精神的な関連性」を感じさせたのでしょうが、それと同時に、この時期のペルトに、今の彼とは全く違った語法を発見出来るのも、一興です。「偶然性」や「不確定性」が大手を振って席巻していた60年代、ペルトはこういうことをやっていたのです。

2月12日

Puccini Discoveries
Riccardo Chailly/
Orchestra Sinfonica di Milano Giuseppe Verdi
DECCA/475 320-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1112(国内盤)
初稿版や、珍しい曲好きの指揮者といえば、一時期はケント・ナガノがその筆頭でしたが、最近は、シャイーがその位置に取って代わろうとしています。一連の「ディスカヴァリー・シリーズ」で、まずロッシーニの知られざる作品に光を当てた彼、次にヴェルディを踏破。この2人の才能はオペラのみではないことを存分に知らしめた功績は大きなものです。そして、今回はついにプッチーニ。プッチーニの作品も、普通に知られているのは殆どがオペラです。他はグローリア・ミサと弦楽四重奏曲「菊」くらいしか、普通に聴くものはありません。そんなプッチーニにも、やはり知られざる作品がいろいろあるものです。で、今回の1枚は前半に、そういった小さな曲を収録。そして後半、これが今回の本当の目玉なのですが、最近話題の「トゥーランドット」第3幕フィナーレ、ルチアーノ・ベリオ補筆版が収録されています。こういう作品については、解説をしっかり読みたかったりするのでいつもならば国内盤を待つのですが、(出ますよね)今回はそのベリオ版をどうしても聴きたくて、ついつい購入してしまったのです。
実はこのベリオ版、一足先にDVDで販売。すでに聴く事は出来るのですね。一昨年のザルツブルク音楽祭のライブで指揮はゲルギエフ。行き着けのお店でも大々的にストアプレイしていて気にはなっていたのですが、画面の方に気をとられてしまい、その上まだ購入に至ってないので、とにかく先に音だけを聴いてみたかったのです。
まず、先にプッチーニ自身の作品です。これはこれでなかなか面白く、初期の作品「スケルツォ」などはまるでシューベルト風。バンダのみで奏されるマーチや、「マノン・レスコー」の素材を使った同じくマーチなどは、ヴェルディ風だったり。さすが、声楽を伴う作品は壮麗で、あたかも「トスカ」の礼拝堂の場面を思い起こさせる音楽だったり、でとても楽しめました。ただ、曲の成立についてなどを深く知るためにはやはり国内盤を待つしかありません。
さて、最後に置かれた問題の「トゥーランドット」です。姫を歌うのはチェコのソプラノ、ウルバノーヴァ。「この役には彼女のような少々重めの声があうのだな」と思ったのも束の間、音楽は、どんどん知らない世界に入り込んでいきます。これはアルファーノの書いた、エキゾチックで煌びやかな世界とは全く異質です。お馴染みのメロディーが切れ切れに流れる中、その隙間を満たす新しい響き。それは、ある時は無調に近かったり、ある時はコルンゴルトの映画音楽のように耳にけばけばしく映るものだったり。しかし、その響きが複雑さを極めれば極めるほど無常感が募ります。そして、登場人物の孤独さが際立ってくるように感じたのがとても不思議でした。最後、消え入るように静かな終りを迎えたとき、「私は今プッチーニを聴いていたんだっけ」と、アルファーノ版のCDをひっぱり出して聴いてみて、やっと我に帰ったというくらい思考が混乱する音楽。こんなのを聴いたのは久し振りでした。

おとといのおやぢに会える、か。


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