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怒(いか)ると、シュトラウス。.... 渋谷塔一

(02/6/21-02/7/10)


7月10日

RIMSKY-KORSAKOV
Scheherazade
Valery Gergiev/
Kirov Orchestra
PHILIPS/470 840-2(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCP-1060(国内盤先行 7月24日発売予定)
たくましい骨格に浅黒い肌、まるで獲物を狙うかのような鋭い眼光、極めつけは薄くなりかけた頭頂部と無精髭。あたかも山奥の猟師のような外観のこの男が今をときめく「カリスマ指揮者」だなどと言われても、誰が信じることが出来るでしょう。指揮台にのぼった姿を見てさえも、あるいはまだその事実を受け入れることが出来ない人は多いかもしれません。かりそめにも指揮者だったら必ず持っているはずの指揮棒すら持たないで、素手でオーケストラの前に立っているのですから。おまけに、その動作といったらおよそ普通の「指揮者」らしくなく、きちんとビートを振り分けるでもなく、いたずらに両腕を空中に漂わせて陶酔感にふけるばかり、おまけに指先には小刻みな痙攣が走っているではありませんか。
しかし、ひとたびオーケストラが音を出し始めると、人々は間違いなくそこから聴こえてくる豊かな生命力に圧倒されてしまうことでしょう。その容姿や指揮ぶりからは想像できなかったような繊細かつダイナミックな音楽を作り出すこの男は、ワレリー・ゲルギエフ、今年49歳を迎えたロシアの指揮者です。
ゲルギエフといえば、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場(キーロフ歌劇場)の芸術監督兼首席指揮者、あるいは最近ではニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)の首席客演指揮者として、オペラ指揮者としての地位はゆるぎないものになっています。その一方で、コンサート指揮者としても、世界のメジャー・オーケストラとことごとく共演を果たしており、最近のCDでは、手兵キーロフ歌劇場管弦楽団との「春の祭典」の重量級の演奏や、ウィーン・フィルとの野性味あふれる「展覧会の絵」などで、シンフォニックなレパートリーでの手腕の冴えをまざまざと見せつけていました。
今回リリースされたのは、キーロフ歌劇場管弦楽団との共演で、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。この名曲をゲルギエフはいったいどのように聴かせてくれているのでしょうか。まず第1楽章冒頭のヴァイオリン・ソロは、その淡々とした語り口と、まるでアラブ地方の民族楽器のような素朴な音色で私達を瞬時にアラビアン・ナイトの世界へ導いてくれます。ソロ楽器の競演が楽しい第2楽章、テーマのアウフタクトからして思い入れたっぷりの第3楽章。しかし、何といっても白眉は第4楽章でしょう。鬼気迫るテンポによる一大スペクタクル、金管の血を吐くようなダブルタンギング、木管と弦の半音階による激しい嵐の描写に翻弄されるうちに、いつしかしっかりゲルギエフの魔法に搦られ、ほとんど放心状態となっている自分に気付くはずです。この魔法を体験したあとでは、嵐が終わって第1楽章の回想が戻ってきても、以前と同じままでいられるわけはありません。あれほど素朴だったヴァイオリン・ソロには、しっかり艶やかさが宿っていることを発見したときの驚き。これこそが、ゲルギエフが「カリスマ」と呼ばれる所以なのです。

7月8日

BRAHMS
Double Concerto, Violin Concerto
Gil Shaham(Vn)
Jian Wang(Vc)
Claudio Abbado/
Berliner Philharmoniker
DG/469 529-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1112(国内盤 7月24日発売予定)
ブラームスと聞いてすぐ連想される形容詞は、「渋い」、「暗い」、「重い」あたりでしょうか。なにしろ、年上の女性への淡い恋心を大切にした挙句、生涯を独身で過ごしたという、「ウブ」で「ネクラ」な人のことですから、間違ってもその作品が「開放感あふれる」とか「軽妙洒脱な」と言われることはないはずです。この「ドッペル・コンチェルト」にしても、ヴァイオリンとチェロという、それぞれ立派に協奏曲を仕切ることができる独奏楽器ががっぷり四つに組むわけですから、ちょっとうっとうしい(「重厚」とも言う)曲のはず。ところが、今回リリースされたギル・シャハム、ジャン・ワンという今まさに旬たけなわの若い演奏家の共演によるCDを聴くと、そんなブラームスがもっと軽いフットワークの作曲家に見えてくるから不思議です。それは、この二つの独奏楽器が、まるでピアノの右手と左手のように、あたかも一つの楽器であるかのように聴こえてくるからなのかもしれません。シャハムもワンも室内楽の経験が豊富なプレーヤーですから、お互いのパートをよく聴きあって演奏するのはお手のもの。ヴァイオリンからチェロ、そしてまたヴァイオリンへと受け継がれていくような長いパッセージは、どこで楽器が変わったか分からないほど滑らかに聴こえますし、同じテーマを別な楽器で繰り返す時でも、そのニュアンスをきっちりコピーしていますから、違和感なんかぜんぜん感じられません。特に、ワンの全く深刻ぶらないチェロは魅力的です。思い切り抜いた薄い音でも、しっかりとした生命感が宿っているのは特筆すべきこと。
オーケストラの音色も、フルートがとことん明るく軽め。それもそのはずで、これはあのエマニュエル・パユの音(録音は200112月なのでパユは退団していましたが、このセッションにはエキストラとして参加していたという確実な情報が得られました)。そこへもってきて、指揮者のアバドはこのソリストたちにぴったり寄り添って、小気味良い合いの手を入れてきますから、全体がとても風通しが良く爽やかに聴こえてくるというわけです。
カップリング曲である、シャハンのソロによるヴァイオリン協奏曲も、同様にすっきりとした肌触りの仕上がりとなっています。オーケストラの序奏に続いて入ってくるヴァイオリンの上向スケール、普通はいかにも仰々しく弾かれるものなのですが、彼の場合はちょっと物足りないほどあっさりしたもの。そんな、言わば聴きやすい反面、主張が乏しく感じられてしまう音楽が2楽章まで続くと思っていると、第3楽章になってうって変わった熱いものが現われるのには驚かされてしまいます。ここでもアバドのバッキングは見事としか言いようがなく、ソリストと完全に一体化した表現には圧倒させられます。

7月5日

CHOPIN
Mazurkas
Valery Afanassiev(Pf)
DENON/COCQ-83595
今回は、私の大好きなアファナシエフです。
さて、個人的なことで恐縮ですが、私は食事をするということがどうも苦手なのです。今でこそ、忙しい仕事の合間を縫って牛丼屋に行き、5分でかきこんで帰って来て、何事もなかったかのように仕事に戻るなんて荒業も可能になりましたが、小さい頃は、とにかく苦痛以外の何物でもありませんでした。食が細い上に嫌いな物も多く、それでも何とか口にしたもののなかなか咀嚼することができず、いつまでももぐもぐしているところに、母親のデリカシーのない一言。「いつまでも口にいれていると、口のなかで×××になっちゃうよ!」(お食事中の方、ごめんなさい)
今回のアファナシエフを聴いた時、まず思い出したのがこのやりとりでした。口の中で咀嚼され尽くして消化されてしまったショパンの音楽、それは全く原型をとどめることなく、この上なく愛おしく、甘美な食感。すでに自らの体の一部に取り入れられた栄養分・・・そんな感じでしょうか。それを再度味わうのは、まるで親鳥から口移しでえさを与えられる雛鳥にでもなったステキな気分でもあります。
これは極端な話ですが、とにかく彼の演奏の特色は、極めて完成度の高い作品でも、まず自らがとことんまで壊してみて、それを再構築するところから始まっているのです。もちろん再構築する際には、いろいろ付け加えることを忘れてはいけません。あたかもニワトリを解剖して、それを料理して、試食してお腹を壊す・・・そんな新聞ネタに登場する「アホなシェフ」にも似た作業に例えるのも良いでしょう。
アファナシエフのショパンについて語るとき、ここまで書いてみたくなるのも、とにかくこの演奏がすごいからに他なりません。1枚のCDにたった13曲のマズルカが収録されているだけ。殆どが短調の作品というところにも、拘りを感じます。もちろん各々の曲の解釈も彼ならではのもの。例えばその昔、FMの「大作曲家の時間」でショパンが取り上げられた時、番組のオープニングでも使われた「変ロ短調 作品24の4」の冒頭の半音階進行(ここは殆ど無調!)の響きは、まさに地獄からの音楽のように響きます。聴きなれたマズルカが、なぜここまで変貌してしまうのでしょう?このショパンはおぞましい・・・。悪夢としかいいようがありません。
すでに舞曲からは完全に離脱した「もしかしたらマズルカのようなもの」が13曲。これを全部聴きとおすのには、とても強靭な精神力を必要としますが、一度はまると抜けられない危険性を帯びた危ない世界であることは間違いありません。

7月3日

THE DEBUT
Salvatore Licitra(Ten)
SONY/SK 89023
以前から何とはなしに気になっていた若手テノール、サルバトーレ・リチートラのソロデビューアルバムです。デビューとはいうものの、すでにオペラ全曲のCDもいくつかあり、また、昨年は「耳に残るは君の歌声」のサントラでも美しい歌声を披露していたので、名前を知っている人もかなりいるのではないでしょうか。しかし、彼が本格的に注目されたのは、なんと言っても例の200012月、ムーティ指揮、スカラ座の「トロヴァトーレ」でしょう。いろいろ物議を醸したこの公演ですが、結局CDで発売された時には、レオノーレ役のフリットリと指揮のムーティばかりが話題になって、肝心のマンリーコ役であるリチートラには、あまり良い評価が下されなかったように思います。(もともとソプラノ好きの私も、フリットリばかりを贔屓しましたっけ。)
あの公演を見た限りでは、彼って確かに声は良いのだけど、音程が不安定であったり、ムーティの意向で例のハイC("Di quella pira"の最高音)を出させてもらえなかったりであまりいいとこはありません。何より、ちょっとぽっちゃりした体形(はっきり言えばDEBU)がマイナス点でした。一昔前ならいざ知らず、今は映像もセットで語られる時代です。そこらへんが一番の敗因だったかもしれません。こういうわけで、このトロヴァトーレを聴いた限りでは、なぜ彼がそんなに高く評価されているのかがどうしてもわからなかったのです。その前のトスカでも、あまり印象に残っていないくらい、私には馴染めないテノールでした。
さて、それを踏まえた上で今回のソロアルバムを聴いてみます。まず「星も光りぬ」。この歌い出し"E lucevan le stelle..."を聴いて、やっと彼が高く評価されているのもわかるような気がしました。たった1節なのに、何て細やかなニュアンスをつけて歌うのでしょう。絶望感、愛する人と別れる悲しさ、これらが手にとるようにわかるのです。このアルバムはプッチーニとヴェルディの有名なアリアが収録されていますが、どちらかというと英雄的な声を必要とするヴェルディよりも感情の細やかさで勝負するプッチーニの方があっているように思います。
しかしながらも、前作のトロヴァトーレでの不完全燃焼をそのままにしておくようなリチートラではありませんでした。曲の最後を飾るのは、あの"Di quella pira!"最初のフレーズではハイCは出してくれません。2度目の繰り返しでも出してくれません。どきどきしてしまいますね。「もしかしたら本当にこのまま曲が終わってしまうかも」と思わせておいて、最後で歌ってくれました。やったね。
聴き手も、多分歌い手も大満足の1枚です。

7月1日

KÁLMÁN
Die Csárdásfürstin
Rudolf Bibl/
Festival Orchestra Mörbisch
ARTE NOVA/74321 93588 2
毎年、今の時期になると発売されるのが、このARTE NOVAオペレッタハイライトシリーズでして、今年はお待ちかね、カールマンの“チャールダッシュの女王”です。豆や貝が入っていて、おいしいですね(それはクラムチャウダー・・・あまり似てない)。これは、知る人ぞ知るメルビッシュ湖上音楽祭の2002年の演目で、発売を心待ちにしているファンも多い、そんなアイテムですね。
そのメルビッシュ湖上音楽祭ですが、衛星放送などで何度か紹介されてはいますが、日本ではまだそれほど知られていません。かくいう私もメルビッシュの場所さえわからず、人に聞かれて「スイスじゃないですか?」などと答えていた有様。ええ、どうせ地理に疎いんで。本当はウィーンから南に60km、ハンガリーよりの片田舎の町で、毎年7月、湖上に舞台を作りオペレッタを演奏するのですが、一緒にワイン祭りも催されたりと、とても楽しげ。夏のヨーロッパでは、こういう楽しい催しが星の数ほどあるのですね。(メルビッシュで検索したら、昨年の演目「ほほえみの国」に出演した日本人歌手のサイトに行き当たり、その模様が詳しく書かれていたのには感激!でした)
で、このCD。実はその音楽祭のライヴ・・・ではなくて、音楽祭の即売用としてあらかじめ今年の3月にスタジオ録音されたものなのです。しかし、これは良いアイデアですよね。確かに会場で売っていればついつい買ってしまいますから。6000人収容の会場で何度も公演すれば相当売れますよ。このところ、オペラの新譜といえば殆どがライヴ録音(DYNAMICレーベルやBON GIOVANNIレーベルなどが、その最たる物です)であることを考えると、これは貴重なスタジオ録音でもあるわけですね。もっとも、これはブロードウェイ・ミュージカルなどでは昔から行われていたこと。やっとオペラでも商売を考えるようになってきたということでしょうか。
で、ハイライトとは言え音楽は全て収録されてますから、聴き応えは充分です。日本では無名の歌手ばかりですが、例の如くみんな芸達者。指揮はお馴染みルドルフ・ビーブル。日本にも幾度となく訪れてオペレッタの楽しさを伝えている大家です。ちょっと俗っぽいメロディを実に楽しげに演奏しています。カールマン特有の猥雑な雰囲気がしっかり伝わってくる名演といえましょう。
これを聴いて「おお。メルビッシュに行って生を聴いてみたい!」と飛行機に乗ってしまうのも可。お金と暇があったら私だって・・・・。なお、湖上の野外ステージですので、蚊取り線香の携帯はお忘れなく。だそうです。

6月29日

MUSIC FOR MY LITTLE FRIENDS
James Galway(Fl)
Phillip Moll(Pf)
London Mozart Players
RCA/09026-63725-2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-35116(国内盤)
フルート界のスーパースター、ジェームズ・ゴールウェイの最新アルバムです。しかし、価格はミド・プライス、曲目も「ダニー・ボーイ」、「精霊の踊り」・・・など有名な小品ばかり並んでいますから、おそらく今まで出ていたこの手のアルバムを再編集したコンピ物でしょう。たしかに、ゴールウェイの珠玉のような小品集は現在ではほとんど廃盤状態ですから、こんな企画もありがたいもの。と思って、よく見てみると、イベールの「白い小さな馬」、ゴーベールの「マドリガル」、はて、こんな曲、今まで録音していたっけ?改めてデータを見てみると、なんと録音は1999年!れっきとした新録ではありませんか。
実は、このアルバムはきちんとしたコンセプトのもとに制作されたものでして、「フルートワイズ」という、子供のためにフルート音楽を提供する慈善組織とのタイアップなのです。だから、値段も安く設定したということなのだそうです。曲目も、小さな子供でもチャレンジできるようなものばかり、ゴールウェイの演奏を手がかりに、より音楽的なアプローチをして欲しいとの願いが込められています。
ゴールウェイの魅力をひとことで語り尽くすことは不可能ですが、誰でもすぐ気がつくのは音自体の魅力です。すべての音にいきいきとした生命力を込めるというマルセル・モイーズあたりの教えが、見事に結実した輝かしいフルートの響き。最近では、一見知的なようでいて実は人に訴える力のまるでない音がもてはやされていますが、ゴールウェイの音を聴けば、改めてその存在価値を確認することができるでしょう。特に、3オクターブ目の高音のセクシーな味は、おそらく誰にも真似のできないものに違いありません。
この高音の魅力をたっぷり味わえるのが、サン・サーンスの「白鳥」です。もちろん、原曲はチェロ独奏ですからもともと1オクターブ高く演奏しているのですが、2コーラス目ではさらに1オクターブ上げて、派手な仕上げとなっています。最高音の「H」をこれほど表情豊かに聴かせられるとは。
この「白鳥」もそうですが、このアルバムにはコンサートではしばしば演奏していても、今までレコーディングされてなかった曲が、たくさん収録されています。ゴーベールの「マドリガル」も、そんな、録音が待望されていた曲のひとつ。ふんわりとしたお菓子(それは「マドレーヌ」)ではなくて、ほんの5分足らずの愛らしい小品です。技術的にはそんなに難しいものではありませんが、いわば演奏家のセンスがそのまま問われてしまうという、逆の意味で難しい曲、ここでゴールウェイはとことん自分を出した濃厚な音楽を聴かせてくれました。単純な譜面づらからは想像できないような、豊かな表情は、まさにゴールウェイの独壇場です。人によってはここまでいじくりまわさなくても、と感じるかも知れません。それはそれで良いのです。音楽には「毒」がなければ面白くもなんともありません。それだけ、その演奏を好ましく思えない人が出てきて当然です。ただ、だからと言って人畜無害の優等生的な演奏が人を感動させることは稀です。そういう人は、ラテン系のジャズマンとお遊びでセッションを楽しんでいればいいのですから。

6月27日

HAYDN
Piano Sonatas
Emanuel Ax(Pf)
ソニー・レコード/SICC-74
中堅ピアニスト、エマニュエル・アックスの弾くハイドンのピアノ・ソナタです。名前のように、牛みたいに大きな人で(それはオックス)、室内楽や伴奏ピアニストとして、どちらかというと渋めの活動をしていた人ですが、近年は活動の幅を広げたのか、ショパンの協奏曲(これはオリジナル楽器使用)やはたまたピアソラアルバムなど、「次は何を弾くのだろう?」と常に期待を抱かせる活動をしている人としても認知されつつありますね。良く来日もして、先日はN響とブラームスの2番を演奏したのですが、生憎都合がつかず聞き逃してしまったのが口惜しくてたまらない私です。さて、そんなカレの最新アルバムは、これまた渋いハイドンのピアノ・ソナタ集です。ベートーヴェンやモーツァルトに比べ、ハイドンのピアノ・ソナタは極端に録音の数も少なく、(手がける人が少ないって事でしょうか?)演奏会でもあまりプログラムに載らない曲であります。これは「楽譜の不首尾のせい」とか、「演奏する楽器を選ぶせい」などいろいろな理由を聞きますが、本当のところはどうなのでしょうね。ハイドンの音楽は、形式だけ並べてみればモーツァルトやベートーヴェンとさして変わらないのですが、自然な音楽が迸るため時として即興性が先んじるモーツァルト、極めて固くメロディの美しさよりも構造を重んじるベートーヴェン、とは全く違った音楽なのでしょう。そういえば以前、ラルキブデッリの後期弦楽四重奏曲のアルバムを聞いた時も感じましたが、「あまりにも工夫が凝らされているところが却って作為的で、もしかしたら、ハイドンが敬遠されるのってこんなところに理由があるのかも。」と一人で納得した次第でした。
もちろん演奏するには、全く違った難しさがありまして、初心者向けのアルバムに含まれている曲でさえ、理想的に演奏するのは至難の業。(なんでもそうなんですけどね!)今回アックスは5曲のソナタを演奏していますが、どれもが新鮮で、聴き手の耳を楽しませてくれることは間違いなしです。
例えば31番(原典版の番号)の終楽章プレスト。美しい綴れ織りのような音の絡みが心地良く耳を駆け抜けていきます。通り過ぎた一瞬を慈しむかの如く、もう1度楽譜を見ながら聴いてみると、この右手のせわしない音形を支える左手の動きが絶妙なのですね。他のどの曲も、形式は単純なのですが、そこに盛り込まれているアイデアや、メロディの多様さは、「即興性」とは全く違う、極めて考え抜かれた上での遊び心なのではないでしょうか。アックスの演奏は、そこらへんをくっきりと表現してくれます。

6月25日

SCHUMANN
Das Paradies und die Peri
Joshart Daus/
EuropaChorAkademie
Südwestdeutsches Kammerorchester Pforzheim
ARTE NOVA 74321 87817 2
シューマンの大作「楽園とペリ」です。ペルシア神話を題材にした、「罪ある妖精ペリ」の救済の物語です(もちろん「妖怪人間ベム」とは違います)。彼の中期の傑作ですが、あまり聴く機会はありません。
以前、ガーディナーがこの曲を録音した際、曲の成立などをちょっと調べたのですが、(仕事絡みでして)オラトリオとは言え、宗教色はあまりなく極めて個人的な救済の物語。何しろ、シューマン=救済というイメージがどうしても結びつかず、「一体どんな大言壮語な音楽をきかされるのだろう?」と勝手に想像してひいてしまったのが実情です。その時は結局音楽を耳にすることはありませんでした。
そんな食わず嫌いをしていた曲ですが、私の好きなARTE NOVAレーベルで、その上ダウスが指揮をしているのなら期待できそう、聴いてみてもいいかな。何といっても1190円ですし。
静かなヴァイオリンの序奏に導かれ、アルトが「朝の光のなかでぺリは楽園の門の前に佇む」と歌い出します。そして、ペリの独白「私は幸せを求めてさまよう。私は天に帰りたい」が続くのですが、この2曲を聴いただけで、すっかり曲の持つ美しさ、深さに引き込まれたのでした。ここで演奏している歌手は、例の如く日本では全く無名の人たちばかりですが、その水準は計り知れないほど高いのもいつもの通り。ペリ役のソプラノ、ケルメスは少し音程が不安定な部分もありますが、硬質で美しい声の持ち主で、「性別不明、魅惑的」な妖精の姿を遺憾なく伝えてくれるのです。
楽園を追放されたペリが、再び楽園に戻るために、「天の心にかなう捧げ物」を探すと言うのが、この物語です。第1の捧げ物、これは革命で命を落とした若者の血のしずく。この若者を賛美する合唱の書法の素晴らしさは特筆に価します。劇的で壮大なフーガは、当時のシューマンが絶頂期にあったことを物語ります。しかし、天の門が開くことはありません。「もっと尊い捧げ物」を探し、ペリはペストが蔓延するナイル川を彷徨います。そこで見つけた乙女の自己犠牲。しかし彼女の純愛を持ってしても、天の門は開かないのです。ペリは嘆きの淵に沈むのですが、気を取り直し、第3の捧げ物を探しに行くのです。この描写も美しく、例えようもなくドラマチックです。やはりシューマンは憧れを音楽にするのが上手いな。と感じた一瞬でした。
最終的にはペリは救済されるのですが、天の心にかなう捧げ物は何だったのでしょう?必ずしも納得できる答えとは言えないかもしれませんが、それは「悔い改める心」でした。
最後に収録された拍手を聴いて、この録音がライヴであったことに改めて驚きました。良い物を聴いた。その気持ちで一杯です。

6月23日

MUSICA TRISTE
Estonian Flute Concertos
Maarika Järvi(Fl)
Kristjan Järvi/
Tallinn Chamber Orchestra
FINLANDIA/0927-42991-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11601(国内盤)
以前もご紹介したこともある、ヤルヴィ姉弟のフルート協奏曲集。曲は、これも前と同じ、エストニアの作曲家の作品です。ジャケ裏のアー写を見て、初めてマーリカ・ヤルヴィの素顔が分かりましたが、お兄さんのネーメそっくり!おでこが広いところまで似ていて、さすが、血は争えないものです。で、クリスチァン君のほうは、お父さん似。
さて、ここで取り上げられている4人の作曲家、それほどなじみのある名前ではありません。アルバムタイトルにもなっている「Musica Triste」という1楽章の曲を作ったエイノ・タンベルグは、私には、この中ではもっともすんなり聴くことができる作風でした。エストニアといえば必ず引き合いに出されるアルヴォ・ペルトに通じるような、呪文のような息の長いフレーズが魅力的です。バックのオケも極力薄く、ソロをユニゾンでカバーするなどひたすら平静に音楽が流れてゆきます。時として、弦楽器のクラスターの中で、フルートだけが淡々と動きの少ないアリアを奏でているさまは、まさに至福のひと時といえるでしょう。最後に曲想が変わってチャーミングなテーマが出てくるのもうれしいものです。
クルダル・シンクの協奏曲は、1960年、作曲者の18歳のときの作品。いかにも力の入った両端楽章は、明らかに当時の音楽の主流だった、中央ヨーロッパに目が向いた作風になっています。ちょっと聴いていて辛くなりますが、真ん中の「Andante tranquillo」はそれとは全く対照的な魅力的なもので、救われます。ソロ・フルートにチェレスタがからむ、まるで子守歌のような響きが素敵です。
ヘイノ・ユリサルの協奏曲は、ピアノが大活躍する技巧的な曲です。ちょっとニールセンのようなテイストで、もっともエストニア的な(それがいったいどういうものかと聞かれても困りますが)ものが感じられます。
エドゥアルド・トゥビンの曲は、もっともオーソドックスなもの。甘いメロディーが随所にちりばめられていますが、それが曲全体としての魅力につながっていないのは、多少平板な構成のせいでしょうか。あるいは、演奏者の表現の幅のせいでしょうか。
このように、マーリカのフルートには、テクニックでも音色でも、これといった不満は感じられませんが、表現が一本調子なため、彼女自身の個性といったものが余り前面に出てきていない歯がゆさがあります。タンベルグの作品のようなある種瞑想的な曲の場合は、それが良いほうに作用していますが、もっとアグレッシブな作風の曲を演奏した時には、どうしてもこじんまりとしたものになってしまうのは避けられないようです。クラシックの場合はどうなのか、そのあたりも見守ってやるび

6月21日

R.STRAUSS
Capriccio
Felicity Lott(Sop)
Thomas Allen(Bar)
Georges Prêtre/
SWR Radio-Sinfonieorchester Stuttgart
FORLANE/268052
シュトラウスの「カプリッチョ」の最新録音です。これは旅芸人の物語(それは「パリアッチ」)ではなく、ご存知の通り、シュトラウス最後のオペラで、彼自身「私の最良の作品であり、自らの締めくくり」と位置付けていた思い入れのある曲なのです。「音楽と言葉、どちらが重要か?」という普遍的な命題を、「思慮深い女性が、音楽家と詩人、どちらを選択するか」という極めてわかりやすい形に置き換えて、聴き手に付き付けた、いかにもシュトラウスらしい作品といえるでしょう。今までにもあまり録音が多くないとは言え、ベーム、サヴァリッシュ、ラニクルズなど、どれもが名盤と呼べる完成度の高さ。これは、心からシュトラウスを愛した人のみがこの曲を音にしているからこそに他なりません。
さて、今回の録音で、伯爵夫人を歌っているのは、シュトラウスを得意とするフェリシティ・ロットです。と、いってもオペラの録音はあまりありません。(クライバーのひどく音質の悪いライヴ盤で「ばらの騎士」の伯爵夫人が聴ける程度。映像もあったのですが、今も入手できるのでしょうか?)オーケストラ伴奏付き歌曲集が素晴らしいのです。このオペラでも、揺れ動く心、情景、それらがまるで目の前に浮かぶようなデリケートな歌い口は、重厚なオケの響きと相俟って、聴く者を夢幻の境地に誘います。
この「カプリッチョ」という作品は、粗筋も、音楽もひたすら平穏で常にあいまいな印象を残すため、シュトラウスらしいドラマティックな音楽を聴きたい人には物足りないかもしれません。しかし、書かれている音楽はとても手が込んでいるし、高度なアンサンブルも必要で、聞き込むほど味がでる作品といえましょう。
指揮はジョルジュ・プレートル。実は私はこの人のファンで、(誰も賛同してくれませんが)幻想交響曲はプレートルの演奏が一番!なのです。ふっと気を抜くと、手の中からほろほろと崩れてしまいそうなとても危うげな一面と、逞しくぐいぐい引っ張る男性的な一面が程よく交じり合い、これも聴けば聴くほど「なるほどな」と思ってしまうのです。他の出演者は、ベテラン、トーマス・アレン、イリス・ヴァーミリオンを始め、新鋭、シュテファン・ゲンツなどこれもスゴイ人たちばかり。これらの歌手たちの織り成す会話劇と、充実した音楽を聴いていると、雑多な思いも全て浄化されるような、幸せな気分になります。
幕切れ、伯爵夫人は、音楽家と詩人の2人共に同じ時間で待ち合わせの約束をします。伯爵夫人は音楽家と詩人のどちらを選んだのでしょうか。この答えは明かされることはありません。彼女が思い巡らす場面で奏される「月光の曲」。これを聴きながら私も考えることにしましょう。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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