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音楽展望
吉田ヒレカツ

200824日  イズミティ21大ホール

2008/2/5記)

 得体の知れないかつての東欧諸国のオーケストラが来ることはあっても、名の通った外国のオーケストラが訪れることなど絶えて久しくなかったこの東北の小都市に、久しぶりに立派なオーケストラがやって来ることになった。しかも、それはノリントンという一風変わった芸風の持ち主の指揮者の元で、今や大きな注目を集めるようになったあのシュトゥットガルト放送交響楽団というのであるから、これは何を置いても聴きに行くべきものであろう。評価は分かれるであろうが、それはなんと言っても現在のクラシック音楽の世界では、間違いなく最先端を行っている指揮者とオーケストラの組み合わせであるのだから。
 しかし、そんな注目すべき演奏会であるのだから、さぞや多くのクラシック・ファンが押し寄せて、満員まちがいないのではないかと思い、少し早めに会場に行ってみたのだが、そこではなんと当日券まで販売しているではないか。客席に入ってみても、空席が目立っており、それらは開演までに埋まることはなかったのである。この会場は1階だけに1500人ほどが収容されるというだだっ広いものであるが、私がこのようなものを聴くときに、全体の音が混じり合って聞こえるために好んで選ぶ後ろ寄りの席に座ったところ、最も上手寄りの区画であったためか、中央通路までの間の私の前の席には、誰一人として座っているものはいなかったのであるから、いかに聴衆が少なかったかが分かるであろう。どうやら、この土地に立派なオーケストラが来ないようになってしまったのは、このような著しい民意の低さのせいなのではないかしらん。もし仮に、本格的な音楽専用ホールを造るようなことがあったとしても、この程度の聴衆の質が改善されない限り、それはあまり意味のあるものにはならないのかもしれない。

 それはともかく、そのような寒々としたホールの中では、今夜演奏されるピアノ協奏曲のためにグランドピアノの調律が行われていた。序曲が演奏される間に置いておく舞台の片隅でその作業は続けられているのだが、なぜかそのピアノからは、蓋が取り払われていた。調律の間、中の弦の調子でも見るために邪魔な蓋を外しておいてあったのであろうか。それは、なにか異様な光景であった。
 そういえば、まだ楽員は入場してはいないが、オーケストラの楽器の配置も、あまり見慣れないもののようである。木管楽器が乗るべき山台が、なぜか異様に高く設定してあり、その最上段にはコントラバスが横一列に並んでいるようである。もっとも、これはCDの写真などである程度分かっていたことであるから、それほどの驚きはない。

 楽員の入場の時に気を付けていると、フルートの首席奏者であるルーラントは楽器を2本持ってきているように見える。曲の途中で持ち帰るのであろうか。そして、チューニングも終わり、中国風のドレスに身を包んだノリントンが登場した。なかなか立派な体格といえば聞こえはよいが、そのドレスのせいであろう、腹部が異様にふくらんでいるのが遠目にもはっきり分かってしまうという、いささかみっともない体型にはやや感興がそがれる思いである。そんな肥満のせいでもないのであろうが、その指揮ぶりは若い指揮者によく見られるような細かく忙しげに指示を出すというものではなく、ほんの少しだけのきっかけを示すというような、いとも切りつめられた動きに終始しているものだった。

 最初の曲はサリヴァンの「近衛騎兵隊」序曲という、私も初めて聴く珍しい曲だった。打楽器や金管楽器が活躍する華やかな曲調であるために、最初は弦楽器が殆ど聞こえてはこなかったが、やがて次第にこのオーケストラがこの指揮者の元で演奏する際の最大の特徴であるノンビブラートの様子が分かってくるようになる。確かに、弦楽器奏者は全くビブラートを付けておらず、非常に素っ気ない風に聞こえてくる。しかし、そんなストイックな中に強い主張が込められているのが、通常のビブラートを付けての演奏の場合よりも強く感じられるのはなぜであろう。
 フルートのルーラントは、結局金の楽器だけで演奏を終わったようである。この木管セクションは、若いルーラントの隣の首席オーボエが、白髪のかなり年配の奏者なのであるが、この二人がとても楽しそうに演奏しているのが見て取れる。途中でフルートとオーボエがユニゾンになったときに、オーボエ奏者がちょっとしたミスを犯したのだが、そのあとで二人揃ってニコニコ笑い合っているなどという、なんともほほえましいところも披露してくれていた。

 序曲が終わったところで、次のピアノ協奏曲のための楽器の移動が行われた。弦楽器の奏者がいったん退場して、その椅子をどかしたところにピアノを運ぶのであるが、結局蓋は外されたままだった。しかも、そのピアノは、なんと木管楽器の正面に、鍵盤を客席に向けて設置されたのである。よく指揮者自身がピアノを演奏しながら指揮をするという場面に用いられる、あの楽器配置である。それならば蓋を外していた意味も理解できる。ところが、そのような場合でもヴァイオリン(書き忘れたが、ここでは当然第1ヴァイオリンが下手、第2ヴァイオリンが上手という配置になっている)は舞台の縁に平行に並んでいるものなのだが、なぜかピアノを中心に放射状に、つまり、ヴァイオリン奏者が客席に殆ど背を向けるような形で椅子が並んでいるではないか。指揮台も、舞台の片隅に片づけられてしまっているが、そうなってくると、いったい指揮者はどこに立つことになるのであろう。あるいは、指揮者は登場しないで、ピアニストの指揮で演奏するのであろうか。徹底的にノリントンに鍛えられたこのオーケストラでは、それも不可能ではないとは思えるが、しかしそれはあまりにも突飛な発想には違いない。
 ピアニストに続いて、ノリントンも入場してきたので、ひとまずそのような意外な展開は免れることとなった。どうやら指揮者は、ピアノの脇に立って指揮をするようである。ベートーヴェンの第4番のピアノ協奏曲は、ピアノの独奏で始まる曲であるが、その最初の和音が、なんとアコードではなくアルペジオで演奏されただけでも、これがかなり特異な解釈によるものであることが分かることであろう。そして、最初にオーケストラが入った瞬間に分かるノンビブラートの透明な響き。もっとも、このときには出だしの音程が完璧には決まらなかったため、最初の瞬間からそれを堪能するというわけにはいかなかったが、次第に音程が合って来るにしたがって、その純粋な響きには引き込まれてしまうようになってくる。さらに、ビブラートのない分、フレージングなどがとことん濃厚なものになり、それぞれの楽句の持つ深い意味までもが、まるで初めて聴くものであるかのような強い印象を持って伝わってくるのである。他の楽器を見てみると、フルートはいつの間にか木製の楽器に替わっていたし、ホルンも楽器自体は通常のものであるようだが、特殊な奏法を用いているのであろうか、かなり刺激的な音が時折聞こえてくるのが、耳に心地よいものだった。終楽章で出てくるトランペットは、昔ながらのまっすぐな楽器、これもとても粗野な響きを提供していた。
 しかし、オーケストラにここまでやられてしまうと、ピアノ独奏はなんとも分が悪くなってしまう。最初のアルペジオで驚かされた以外には、なんとも平凡な演奏に終始していたものだった。このオーケストラが作り上げようとしている世界とは全く無縁の、それは覇気に乏しいものであった。終楽章などは、指揮者の遅すぎるテンポに業を煮やしたのか、いかにも技巧のひけらかしのような速いテンポを試みるのであるが、それは完璧に徒労に終わっていた。このピアニストがこのオーケストラの日本での演奏旅行で共演するのは、この日が初めてものだとのことだが、最後の川崎での公演の頃には、少しはこの演奏の意味が理解できるようになっていて欲しいものである。
 指揮者の立っている位置からは当然のことになるが、ノリントンは殆どピアニストと、そして客席の方を向いて指揮をするということになっていた。指揮者とピアニストの相対的な位置は通常のものと変わりはないが、普段は背を向けている指揮者に常に顔を向けられているというのは、ピアニストにとってはあまり心地よいものではないのかもしれない。しかし、このように独奏ピアノまでも含めたすべての楽器が指揮者を中心にしてまるで室内楽のような緊密なアンサンブルを繰り広げているのを見るのは、なんとも興奮をそそられるものであった。

 最後の曲目は、ブラームスの交響曲第1番。このときには、弦楽器もそれまでの12型から16型に増強され、木管もそれぞれ2人ずつという倍管編成になっていた。しかし、トランペットは通常のロータリー管であるから、時代様式はベートーヴェンとは明らかに異なるものと捉えられているのであろう。さらに、先ほどの協奏曲では内に向かって集約するような音楽であったものが、ここでは外へ向かって高らかにその存在を誇示するようなものとして用意されていたのではなかったかしらん。それは、第1楽章の序奏のとてつもない速いテンポの中で繰り広げられていた圧倒的に豊かな表現の中に見いだすことが出来ることであろう。
倍管の木管楽器の威力はとてつもないものであった。フルートなどでは、一人で吹くのはごく限られたソロの部分のみ、おおかたのパートはまず2本で重ねられていた。なにしろ第4楽章のホルンのソロに続くソロの部分でさえ「4人」で吹いていたのであるから。
 曲が終わったときにはビブラートの付けられていない弦楽器が集まることによって、これほどの滑らかな響きと、多様な表現が可能になることを見せつけられ、半ば放心状態に陥ったほどである。彼らが目指している「ピュア・トーン」の世界、確かに見届けることが出来た。もちろん、それがすべてのオーケストラ音楽に通用するものであるとは思わないが、少なくともこの夜に体験した音世界の中には、確実にそれまでに存在していなかったはずの新鮮な息吹が宿っていた。それは、あるいはノリントンという指揮者の音楽を心から愉しんでいる様子を目の当たりにしたことによってより一層強く感じられたものなのかもしれない。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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