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音楽展望
吉田ヒレカツ

2000/10/25

 すっかり秋めいたうえに、細かい雨がしとしとと降っていて、かなり肌寒い仙台の町で、インバル指揮のフランクフルト放送交響楽団を聴くことになった。きのうとおとといは東京でも演奏会をやっていたのだが、あえてそれらを避けて仙台まで足を伸ばしたのには訳がある。この指揮者の演奏は今までに幾度となく聴いてきたが、同じプログラムの場合、なぜか1日目よりも2日目のほうが良いのである。今回の日本での演奏旅行の演目はマーラーの第1交響曲と第5交響曲だが、私のお目当ては第5交響曲の方。したがって、その2日目を聴くには、仙台まで来るしかないのである。

 会場はこれまでたびたび訪れている宮城県民会館、そこの3階の下手寄りが今回の私の席であった。私ほどの高名な音楽評論家ともあろうものが、なぜ、そのようなランクの落ちる席を選んだのか、不審がる向きもあろうが、私には招待券を頂いてその演奏会の批評をするのを潔しとしないという、確固たる信念があるのである。となれば、自腹を切る以上、できるだけ安価な席を選ぶというのは、自明の理であろう。
 会場についてみると、なにやら張り紙がしてある。近くによって見ると、「本日の演奏会には休憩がありません」と書いてあった。そういえば、今日のプログラムはワーグナーの「マイスタージンガー」前奏曲と交響曲の2曲だけであった。通常のものであれば、この他に協奏曲か小さな交響曲が加わるのであろうが、これはいささか淡白すぎる内容ではないのかな。

 最初に「マイスタージンガー」が始まってみると、この曲目で構成した意味が明らかになったような気がしたものだ。とてもゆったりとしたテンポで堂々とした演奏、おそらくこれは、続く交響曲でもこのようなたっぷりとした音楽を提供するつもりであるという、いわば伏線のようなものなのであろう。さらに、偶然とはいえ、この3階席という、いわばすべての楽器を見下ろすことができる位置を得たことの利点も、次第に明らかになってきた。とにもかくにも、いろいろな楽器の音が極めて明瞭に聴こえてくるのである。下手に配置されたホルンなどは、聴こえすぎて五月蝿いほどである。そのようなわけで、悠々とした流れの中からすべての声部を克明に聞き取れるという稀有な体験をさせてもらった結果、今まで気付かなかったこの曲の仕掛けを新たに発見することが出来た。一見お祭騒ぎのような曲の中に、ワーグナーは実に豊かなひらめきを数限りなくちりばめていたという事実を、実際に音として体験できたのはこれが初めてではなかったかしら。

 続く第5交響曲、冒頭のトランペットの陰影に富んだ音色は出色のものであった。そして、やはり先ほどの序曲は、いわば予告編のようなものであったのだ。第1楽章のゆったりしていること。弦楽器の最初のテーマから、1音1音が重大な意味を持って奏でられる。聞く側としても、すべての音、フレーズの端端にまで意味を見出すことが出来るから、1瞬1瞬が新しい発見の連続、とても集中して聴いていられる。しかし、まるで偏執狂のように、これでもか、これでもかと迫ってこられるのには、いささか辟易とさせられる面もないとはいえない。
 ところが、切れ目なくつながる第2楽章に入った途端、様相は一変する。今までの重苦しい流れを断ち切るかのような、ほとんど軽快といっても差し支えないほどの変わり身の早さ。考えてみれば、このように極端から極端への突然の変化といったものが、マーラーの音楽の本質だったのではないだろうか。しかし、このような振幅の大きい音楽に付きあわされるというのは、心が昂揚する反面、いささか疲労を覚えることも否めない。2楽章が終わったときは、会場全体にほっとした空気が流れたものである。
 3楽章のスケルツォも、とても濃い内容。なかでも、思いっきりの弱音から始まったモチーフが徐々に成長し、ついにはまるでウィンナワルツのように開花する瞬間は、まるで魔法のように思えたものである。さらに、この楽章でのホルンの見事さといったら。
 有名な第4楽章のアダージェットに入ったら、それまでの流れから予想されたものとは大きく異なっていたのには、正直言って面食らってしまった。あまりにも素直に音楽が流れていくのだ。もちろんこれは歓迎すべきこと。この楽章まで必要以上にベタベタやられてしまったのでは、とても身が持たない。この辺がインバルのバランス感覚というものなのであろう。
 弦楽器とハープだけのこの楽章が最後に近づくにつれて、管楽器奏者たちの動きがあわただしくなっていくのが、この席から良く見える。特に、最初に音を出すホルン奏者の緊張はいかばかりのものだろう。その瞬間は刻一刻近づいている。そしてついに訪れたその時、先ほどから私たちを魅了しつづけていたこのホルン奏者は、この夜最高の音を出したのである。それに続くファゴット、オーボエ、クラリネットも、余裕たっぷりの完璧な演奏。あとは、最後のクライマックスへ向かって突き進むだけだ。

 なだれ込むように最後の和音が鳴り終わったあと、会場が興奮の坩堝と化したのは、至極当然のことであろう。演奏時間は正味1時間半、アンコールは1曲もなかったが、これだけ濃厚な演奏を味わったあとには、そのような余分なものは必要なかった。演奏会が始まる前に感じた曲目の少なさに対する不満も、もちろんすっかり解消してしまっていたのは、言うまでもないことであろう。
 会場の外へ出てみると、雨はすっかりやんでいて、このとびきり熱い演奏を体験した身には寒さなど感じるのは不可能なことであった。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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