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音楽展望
吉田ヒレカツ

20021117日  東京オペラシティコンサートホール

2002/11/18記)

 新宿の西部にある新国立劇場というオペラハウスとともに、5年ほど前に開場した東京オペラシティというところに、初めて行ってきた。地下にある電車の駅を降りて、地上に出てみると、そこはオペラハウスの前であった。入り口の扉が木で出来ていたり、コンクリートではなく自然の石をふんだんに使ったりと、なんとも贅沢なつくりである。何でも、歩道に張ってある石材などに至るまで、それぞれどこから取り寄せたものか、ホールの資料には誇らしげに記されているということだ。オペラなどというものはたいそうお金のかかるもので、それを鑑賞するためにはこちらも王侯貴族のような心もちで臨む必要があるのであろうかしらん。しかし、目指すはオペラハウスではなく、お隣のオペラシティである。美しい水をたたえた人造池のほとりを歩いて、しばし新宿駅の方角へ戻らなければならない。と、にわかに眼前の展望が開けたかと思うと、そこは広大な丸天井に覆われた、石段になっていた。何でもガレリアとか言う、よく映画のロケーションなどに使われる場所のようだ。あちこちに旗のようなものや豆電球が吊るされて、誠に幻想的な雰囲気をかもし出している。こういうところには、ぜひとも若いお嬢さんなどと一緒に来てみたいものだ。会場のコンサートホールは3階にあるということ、石段の脇にはちゃんとエスカレーターも備え付けてあるから、私でも造作なくたどり着くことは出来た。

 「タケミツ・メモリアル」と称されたそのホールは、完成を待たずして夭折した作曲家のこだわりが見事に結実したすばらしいものであった。内部はシューボックスというのであろうか、ほとんど四角い箱、そう、ウィーンのムジーク・フェライン・ザールのような形をしている。あそこと同じように、床の傾斜がほんのわずかしかついていない、近頃の大ホールには珍しい設計は、眺めよりも音の響きを重視してのことなのだろう。内装は床材までも全て天然木を使っているというのも、あくまでよい音を聴かせたいというこだわりなのであろう。そして、このホールに入ったものが一様に驚くであろう物が、その特異な天井である。巨大なピラミッド状の四角錐が上に高く伸びており、三面は寄木細工のような凹凸がつけられ、ステージよりの面にはガラスが入っていて、外光が差し込むようになっている。この形状も、おそらく音響的な意味があるのであろう。
 開演を告げるものは、なにやら乾いた硬い木材を叩いているような音だった。録音したものか、はたまた実際に機械的に叩いているのかは定かではないが、このホールに実に溶け合う自然な響きには感じ入ってしまった。いまだに電気的なブザーの音がまかり通っている中で、この音は確かな安らぎを持って、その役割を全うしていたのではないかしらん。

 本日聴きに来たのは、バルト海に面した、かつてはソ連に属していたエストニア共和国からやってきた「エストニア・フィルハーモニック室内合唱団」である。創立者、トヌ・カリユステの指揮によって、世界的な名声を博してきたこの合唱団が、昨年からあの「ヒリヤード・アンサンブル」の創立者であったポール・ヒリアーを常任指揮者兼芸術監督に迎えたという。この、まさに夢のような組み合わせでの演奏会が、ついに日本でも聴かれるようになったということである。しかも、この合唱団が深い関係を築いてきたこの国の作曲家、アルヴォ・ペルトの、オーケストラが入った大規模な作品の日本初演も行われるということで、現代音楽ファンや合唱ファンにとっては、絶対に聴き逃せないものであろう。会場はほぼ満員の入り、しかし客層はオーソドックスなクラシックの演奏会とはいささか異なったように感じられたのは、おそらくそのあたりが原因なのであろう。

 前半のステージは、全て無伴奏の曲だった。しかし、最初に演奏されたものが、リゲティの「ルクス・エテルナ」だったとは。黒いヴェルヴェットのドレスと燕尾服に身を固めた28人の合唱団員は横1列に並んでいた。まるで静寂からつながっているかのようにさりげなく出てきた声は、アタックもビブラートも全く付いていない、まるで太古に存在したであろう原初の音のようであった。その一つの音にいつの間にかにほのかに別の音がからまり、やがて生まれるクラスター。その音の塊が、時間とともに徐々に様相を変えていく様を、まさにすぐ目の前で味わっているというのは、人間が体験し得る数少ない至福の瞬間だったのかも知れない。そこには、確かに人の声を超越した稀有な音響空間が存在していた。
 次の曲からは、合唱団は2列となった。前列が女声で後列が男声だが、なぜか下手側、つまりソプラノの後ろにバスが並ぶという、一風変わった配置である。この並び方自体にはそれほど深い意味はないのかもしれないが、これは聴いていてなかなか面白いものではあった。というのも、この合唱団の音色には実に特異なものがあり、バスのパートに代表される深く焦点の定まった音が、どのパートからも聴くことができるのである。だから、ソプラノの音も、バスのすぐ前で歌われても全く違和感なく溶け合うのであろう。そして、全部のパートが集まった時、信じがたいほどの量感が現実のものとなってくる。ゴットヴァルトが編曲したマーラーからは力強さが、ブリテンの技巧的な曲からは軽妙さが、スケンプトンのロマンティックな曲(日本初演)からは爽やかさが、そして、ティペット編曲による黒人霊歌では、シニカルな一面さえも聴くことが出来た。

 後半は、東京フィルが加わって、お目当てのペルトの作品「リタニ」の日本初演である。オーケストラの編成は、弦楽器こそ少なめだが、トランペットまで入った2管編成、それにチューブラー・ベルやバスドラムなどの打楽器が入るかなり大規模なものになっている。いささか、聴きなれたペルトの音楽とはそぐわないような印象を持ってしまったが、音楽が始まると、それは杞憂に過ぎないことがすぐに判明することになる。最初のうちは、楽器の数も少なく、主にヴァイオリンによる控え目なクラスターがほとんど全てだったのだから。合唱の方は、団員によるソリストが4人前へ出てきていて、本体はその後ろに控えるという配置。ソリストは「O,Lord」で始まる英語の歌詞を、ペルト特有の限られた音しか用いない単純なメロディーで歌い、それの背後で、合唱が美しいハーモニーのヴォカリーズで取り囲むというシーンがしばらく続く。やがて、チューブラー・ベルやティンパニに導かれて、音楽は徐々に昂揚してゆく。しかし、いくらオーケストラが鳴り響こうが、合唱がフォルテシモで歌おうが、それは決して私達を奮い立たせることはなく、そこにあるのは常に平静さが感じられる、あくまでも見晴らしの良い音響という、不思議な世界が展開される。ヒリアーとエストニア・フィルハーモニック室内合唱団は、このペルトの作品の世界を、その誰にも真似の出来ないソノリテとハーモニー感で、見事に私達の前に広げて見せてくれていた。もしかしたら、ペルトはこの合唱団の特質に触発されて曲を作ったのではないかと思わせられるほどに。
 最後に、合唱団だけによりアンコールが演奏された。ブラームスの「森の夜」という、素朴なメロディの有節歌曲であるが、その単純な構成とは裏腹に、信じがたいほどの濃厚な音楽が内から湧き出ていたことを感じないわけにはいかなかった。しかも、それはブラームス自身が考えていたものより、はるかに渋い音色で、この素晴らしいホール一杯に響き渡ったのであった。

 まさに、世界最高の合唱を聴いたのだという思いを抱いて、味気ない満員電車で帰路につくのは、少々虚しいものがあった。このようなご馳走を味わった後には、夜景を見下ろすスカイレストランあたりで、美味なワインでも嗜みながら、優雅な食事を楽しみたいものだ、などと願うのは、ちょっと贅沢なことなのかしらん。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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