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読書記録2002年5月


『ツチケンモモコラーゲン』
さくらももこ×土屋賢二(集英社)

「ちびまる子ちゃん」でおなじみのさくらももこさんと、お茶の水女子大の哲学者、土屋賢二さんのユーモア対談集。土屋さんのエッセイ集は新刊の『紅茶を注文する方法』以外全部読んでいる。さくらさんのは一冊も読んだことがない。

そのさくらさんの言葉、いくつか引用。

「今、私には家族がいてスタッフがいて仕事も楽しくやっていて、充実しているんですよ。…p23」

「私、何で作家をやっているのかというと、書いてるときだけがエクスタシーなんです。…誰かをライバルだと思ったこともないですし、ベストセラーに入るとか入らないとかよりも、その本を書いているときに自分が楽しかったかどうかが重要なんです。…p53」

「大みそかの夕方…20世紀に対して非常に深く感謝したんです。…ありがとうありがとうって。…三日ぐらい過ぎて、気がついてみるとやけに自分の気持ちの中になんの陰りもないんですよ。ものすごく楽天て感じ。…それがいつまで経っても変わらないんです。…p59-60」

「仕事場で仕事をしていたら、真剣に仕事をしますし、家族と過ごす時間も真剣に過ごしてます。…(具体例…真剣にx12)…毎日充実してますね。…p123-124」

「…失敗をしたらその都度それによって何を学習したのかということをつくづく考え、その失敗がもたらした自分への意味というものをさらに考えることが大事だと思います。そして、必要ならばその失敗に対する対策や改善の見直しをはかるべきですね。…何かよくわかんなかったって悩みながら死ぬより、ああ面白かったって死ねることを私は望んでいるんで、生きている段階で明るい方向性の考え方を常に選択していますね。 …p134-p135」

上記のような言葉を聞くと以前は元気が出たものだが、最近全然。土屋さんも漏らしているが、お説教されている気分になってくる。そうですか、いいですね〜、くらいにしか思えない。天分と運にも恵まれた立派な人だ、と感嘆するほかない。さくらさんの人生観、生きる指針は、一言に要約すると「輝いた"今"を真剣に楽しく生きるべし、結果は自ずとついてくる」ということになりそうだが、勝ち組の言葉だな〜となにやらルサンチマンが頭をもたげてくる。特に「さくらさんの仕事場」を読むと、なんだかんだテキトーなフリして実はすげえやり手じゃねぇか、そりゃ自信持ってこういうこと言えるわな、なんて。

土屋さんはこう言う。
「…奇妙なことに、不幸だとか苦しみだとか悩みだとか、そういうものが全くなくなってしまうのをむしろ恐れているような生き方をしているんじゃないかと思うことがあります。…p-135」

とことん自堕落な生活していてもイイ思いをしている人もいるし、粉骨砕身努力しても報われない人もいる。世界や人生は不条理で、簡単に割り切れるものではない。さくらさんの幸福論は他者や外部を排除して成り立っている、これが私には致命的に考えが足りないように感じる。不満だ。

また、不幸、苦痛、悩みを嘆きつつ、しかしそれを覗き込むのもまた快楽、というのは語弊があるかもしれないが、私にはそういった不条理、理不尽に目を瞑り耳を塞いで、自分に都合のイイ解釈だけで「毎日楽しい、幸福だ」と思い込むのは、「これで良かったのだ」という生き方を実践するのは、ゴマカシ、欺瞞に思えてしまう部分があるのだ。悩んで苦しんでときには喜びや楽しいこともあって、最終的には良いも悪いも無い、そうした人生をそのまんま受け入れるほかないような気がする。なぜ私はこのように思うかと考えると、それは「真剣」に取り組めるものが何一つとして見出せないことに原因があるのかもしれない。

「前向きな明るい生き方」というのは、さくらさんのような方が語ればカッコイイし「ほんとう」かもしれないけれども、私が真似して語ってみたところでそれは空疎な言葉になってしまい、軽侮の眼差しと憐憫の情が向けられるだけだ。照れちゃうけどまぁたまにはそういうのもあり、といったところか。

これを読んで、彼女のエッセイも読んでみたいという強い気持ちは起こらなかった。それより土屋さんの新刊『紅茶を注文する方法』を読んで笑いたい。

この本での土屋さんのエッセイは「さくらさんの家に行った」「さくらさんとわたし(とまわりのうじ虫たち」「さくらさんの仕事場」の三編。対談は面白く感じられなかったが、これは楽しめた。無難にまとめられた感じで爆発力はなかったけど。

ところで共著、対談の類はそれに臨む双方の著作紹介があって当然のような気がする。「集英社刊さくらももこ作品リスト」で彼女の著作紹介はあるが、土屋さんのはゼロ。対談の中でも一切話題に上らない。他出版社でも載せないかフツー。集英社は…まぁどうでもいいけど。そんなことが気にかかると、著者には年長者を先に持ってくるものではないか、などとさらにどうでもいいくだらないことまで気になってしまった。


『現代日本人の恋愛と欲望をめぐって−「対論」幻想論対欲望論』
岸田秀×竹田青嗣(ベストセラーズ)

心理学者で唯幻論を唱える岸田秀さんと、哲学者でエロス論を唱える竹田青嗣さんとの、現代日本人をテーマにした対談。

一章、二章では恋愛や男女の欲望の非対称性、それにまつわる話題、三章は自我と社会について、四章は家族、エディプス三角形やマザーコンプレックスなど、五章は唯幻論と欲望論の方法論の違いや、竹田さんから岸田さんへの理論の突っ込み。現代人の個人と社会の関わりが論じられる。

まずタイトルにもなっている、現代における恋愛と欲望についての大枠の議論の共通点を要約。

1980年代において日本人の恋愛についての観念が変化した。その変化は、戦後の貧乏な時期から高度経済成長によって変化した社会的な価値観と重なっており、また、普遍的な社会的道徳的な価値を目指した意識の挫折とも深く関連している。それ以前は「世の中を良くするために自分はどう生きるべきか」という命題が根っこにあったが、現代では「ルールを侵さなければ、だれも自由に自分のエロスや欲望を追求してよい」というモラルに変化した。

社会的な価値、意味の相対化が恋愛の絶対性、意味も相対化しつつある、いわば「プラトニズム喪失のあと露出したエロスの自己中心性の危機」というべき事態が起こっている。恋愛小説の描かれ方のパターンは、それまでの「社会的あるいは世間の規範がもたらす困難を乗り越えて、個人と個人が結び付く情熱を描く」から「恋愛を拘束するものがなくなったことによって、恋愛の情熱そのものが危うくなってきている」というように、モチーフが変化している。

障壁を持った熱烈な恋愛は生の意味を支えるが、それが取り払われた自由なエロス的恋愛はその絶対感情を失い、恋愛そのものの意味も根拠も希薄になり、プラトニックな感情は内的に挫折してしまう。自由な恋愛が肯定される、まさにそのことによって、恋愛そのものの意味が何にも支えられないで中吊り状態になる、という困難が生じている。

恋愛は一対一であるべきだ、という規範の根拠はもう崩れた。障壁が相対的なものとなったため、恋愛に絶対感情を持てなくなった。以後はその相対的な情熱の中で恋愛するしかない。

さてそれで、女性にとって自分の体は「愛する人にだけ与える大事なもの」であり、体を許すことによって求める見返りは、「男に自分に対する愛の忠誠を誓わせる」という、こういった「愛のルール」を女性は持っている、と竹田さんは語る。それが女性にとって「好きだという内心の根拠」となっていたが、エロスへの抑圧が解けてきた時代になると、このルールが拘束になっているという感じが出てきた。

このルールをなくすと普通女性の性の価値が下がり、女性自身にとって不都合なのだが、男性の側でもプラトニックなもの(普遍的な正義だとか理想)に対する挫折があるために、愛のルールを持たず、自由にエロスを通い合わせる女性でも軽く扱わないという傾向が出てきている。

今でも女性は一応愛のルールを持っているけれども、ほんとうはエロス性を規制する根拠はどこにもないということを、無意識裡には多くの人が"知っている"。竹田さんのこの指摘は、若者の恋愛観をとても適切に言い当てている。

「よいもの」「美しいもの」だが禁止されているものに対する欲望、エロティシズムをめぐって、二人の意見は微妙にすれ違っている。

男女のエロス的な関係においてその対象は女性の体であり、男性は美として見立てたより多くの女性を犯し辱めることを目指し、女性は「愛のルール」によって自分の認めたただ一人だけに犯され辱められることを求める。

この男女の欲望と快感の非対称性を竹田さんは強調するのだが、岸田さんはその構造を認めつつも、女性蔑視、差別の危険を孕むと指摘する。

ここでの議論のすれ違いは、竹田さんはエロティシズムの構造は中立的、ニュートラルかつ転換可能なものという立場をとるが、岸田さんはインポ説(本能が壊れたため、男が犯すという攻撃性を喚起するパターンを作らなくては性行為が成り立たず、人類は滅亡したという説)から男が女をというその構造は動かしがたい、という立場に立つためだ。

この後の議論でも、二人の持論のぶつかり合いが、興味深く面白い。

意識の発生起源について、生命の本質を、生命維持、種の存続と捉えると唯幻論(人間は動物としての本能が壊れた、それによって絶滅しないために意識が発生した)、世界からエロスをくみ取ることと捉えると欲望論(生命の中にエロスを深めようとする本性から、突然変異的に人間の意識が発生した)。

遺伝子エゴイズム説では、岸田さんは肯定的であるのに対し、竹田さんはその説は生きている人間を励まさない、確証不能の超越論的説明にすぎない、と真っ向から否定。

上記みっつのすれ違い、個人的にはどちらかといえばエロス論の方が納得いく。

三章で興味深かった記述を要約しながら所感を。

ある価値を求めていれば、その価値の実現のために気分を害されることも耐えられる。なんの価値も求めていないと気分を害されるのを極端に嫌う、癪に障ったら、その不愉快さは絶対的なものとなる。辛抱という道徳がなくなったというより、辛抱することの価値がなくなった。善悪、正義不正義が相対的になってしまった、残ったのは快・不快。自分が不快な思いをしたくないから相手にも不快なことをしない、現代ではこれが最大公約数のモラルとなっている。

さてこういう状況になると、接触を持って対立が起こったときそれを解決する共通のルールがないから、接触を持たない方がいいと感じ、それぞれ閉じこもる傾向が進行してしまう、と岸田さんは語るが、他人と関係を取るとき、自分も不快なことは嫌だから、相手の不快も認めつつ調整するというのは、何らかの規範で解決を図るより、ある意味プラスの面がある、と竹田さんが切り返す。

こんな規範なき社会の行く先は、社会が機能していくための最低限のルールとそれを保証する最低限の権力の存在という形になる、と竹田さんが語るが、とすると生き方の目標、価値、理想をどうやって根拠付けるのか非常に難しい問題だ、岸田さんが指摘。

それに竹田さんはこう答える。内的なモラルの根拠、どういうふうに生きれば自分の生を肯定できるかという根拠、両方ともに超越的なものを想定してそれに頼ることはできない、欲望の自己中心性を本性とする生活原理それ自体の中から取り出さなくてはならない。人生を「エロスゲーム」と捉え、ただの快・不快は人生に「意味」を与えない、他人から承認されたいという自我の欲望の本性や、死という「上がり」に到達するにあたって、善悪美醜という価値基準は不可欠に求められるもののはずだ、と。

詳細については『自分を生きるための思想入門−人生は欲望ゲームの舞台である』『エロスの世界像』など他いくつかの著作で読んではいるが、これは私自身の問題としては答えが出ない。生きる意味や心の拠り所、内面の倫理的規範の根拠はどうなるのか、ということが、どうしても最終的に「問題だ」で終わってしまう。「意味」だとか、喜びの「質」「深さ」といってみたところで、理屈ではどうにでも相対化できるからだ。

エロスゲームというと基本的に快・不快に還元されてしまうのではないか、そういう喜びというのは結局全部瞬間といえば瞬間ではないか、その喜びの数の多い生き方に価値があるのか、岸田さんはそう疑問を投げかける。

個々人がいつでも新しいエロスを作り出せる、人間の実存可能性にとってなるべく良い一般的、社会的条件の整備、その中で絶えず新しいエロスに出遭えるかが問題、ということを語って竹田さんはかわす。が、私がどうにか解決したいのはそういうことではなく、フラフラしっぱなしの不安定な、貧弱な、私自身の根拠、基準、生きる意味や心の拠り所なのだが、やはりそれは自分自身でどうにかしなければいけない問題なのか。私の場合、今までの生の過程を全然肯定できていないというところに問題がある。自分の「感受性」に自信がない。なんの「意味」も見出せない。

五章の唯幻論対欲望論、精神分析は因果論的要素があったり、「治療」に際して一種の圧迫があるのではないか、欲望論的な自己了解の方が自分を捉え直す方法としては有効ではないか、などという発言には、竹田さん言うなぁ、と。史的唯幻論への異議、個人心理と集団心理を重ね合わせるという理論は、留保を要するひとつの物語ではないか、日本はビョーキと断定するのはどうなのか、など。それに対して岸田さんは、欲望論はメリット主義、と反撃。これはそれぞれの「納得」の問題だ。

岸田唯幻論には既成の世界像を全て相対化するような力があるが、人間の生に救いがないという考えが残って空しい、という竹田さんの指摘、私が始めて読んだ岸田さんの著作は『ものぐさ精神分析』だが、そのときやはり猛烈に空しくなって、ウツっぽくなってしまった(笑)。

たとえ意識的に相対化しても、無意識のレベルでより美を感じるとか、より善を感じるとかやはりあるのだから、そう空しくなることもないでしょう、と岸田さん。確かにそうなんだがどうも居心地悪いというか。

あとがきの竹田さんの言葉、「この対談が、恋愛やエロチシズムについての単なる談義ではなく、二つの方法の意味と違いをはっきりと照らし出すようなものになっていれば幸いだ」とある。この言葉どおり、非常に興味深く楽しませてもらえた対論だった。両者の著作を読んでいれば興奮するくらい楽しめるのではないか。


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