意富加羅国について

2008.05.20
題名変更
2016.06.09

  任那については、ノートの「『日本書紀』の任那1~6」で、かなり言及できたと思っている。しかし一つだけ、この一年間見落としていた記事があった。それは垂仁天皇二年の「一云」以下にある

天皇詔阿羅斯等曰、汝不迷道必速詣之、遇先皇而仕歟。是以、改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。故號其國謂彌摩那國、其是之縁也。

である。「ミマナ」が「任那」ではなく「彌摩那」と書かれていたためうっかり見過ごしてしまったのである。この記事は、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(またの名は于斯岐阿利叱智干岐)が国に帰るときに垂仁天皇が、阿羅斯等が道に迷わずにこの国に来ていれば先皇(崇神天皇)に仕えていたはずだから、阿羅斯等の国の名を先皇(崇神天皇)の名(御間城)にちなんだ名に改めるようにといったので、「意富加羅国」を「任那国」に改めたというもので、なぜ「任那」という国名ができたのかという、「任那」の国名の由来を書いたものとして有名である。
  これは有名な記事ではあるが、問題もいくつかある。一つは、「任那」は本当に「御間城天皇」の名にちなんだものなのか、ということであり、また一つは、「意富加羅」を「大加耶」のことだとして「加耶=加羅=駕洛=任那」とすることである。そこで今回は、この二点について考えてみることにした。

 「ミマナ」と「ミマキ」

  現在では、垂仁天皇二年の「一云」記事をそのまま信じている人はまずいないと思うが、その逆に、崇神天皇の「ミマキイリヒコ」という名は「ミマナ」から来たことを意味するものであり、崇神天皇が任那からヤマトに来て建国した、という見方は多くの人たちに受け入れられているようである。私はそもそも「征服王朝」的な見方はしていないので、崇神なる人物が「ミマナ」からやってきたとしても、それは「ミマナから来た」程度にしか考えていない。また、こういった『日本書紀』の記事とは逆の見方がされるということは、本当の「任那」の由来はほかにあるということを、ほとんどの人が認めているということでもある。
  李炳銑氏は『任那国と対馬』で、「任那」の「任」は“主”を意味するnima、[の左が下に長い発音記号]imaimanimiを表記したものであり、「那」は“地・壤”を意味するnaの表記ではないか、と言う。また崇神天皇のmimaki(御間城)という名は対馬のmimana(任那)に由来し、mimakikiは地名接尾辞だとする。つまり「任那」とは「主地・主邑」という意味になり、その名は崇神天皇の「御間城」に由来するのではなく、「御間城」が「任那」に由来する、と李炳銑氏はみている。「御間城」が「任那」に由来するというのは、江上波夫氏の騎馬民族征服説を負っているが、両説には任那を朝鮮半島内とみるか対馬とみるかの違いがある。
  中国史書や高句麗広開土王碑によれば、崇神天皇の時代(4世紀初め)は、日本列島の代表は九州の倭国であり、『日本書紀』のヤマトとは別の存在だったことがわかる。資料事実から公平に判断すれば、崇神天皇が任那問題と直接関ったとするのは大いに疑問が残るのである。ただ高句麗・新羅・百済・任那に直接関ったのがヤマトではなく倭国だったとしても、崇神天皇が任那から大和に移ってヤマトの王となったと考えることは可能である。しかしそうであったとしても、海外史料が示すところによれば、その王は、その後任那を支配したのではなく、ましてや自分の名にちなんで「意富加羅」を「任那」と改名させたなどということはありえないのである。
  多くの人が認めているように、「任那」という名は「御間城天皇」の名に由来するものではない、という見方は正当のようである。しかし、それでは「御間城天皇」の「御間城」は「任那」に由来するのかといわれると、今のところ私には「可能性はある」としか言いようがない。その場合でも、「御間城」という名は後世になってからつけられたものと考えた方がよいかもしれない。

 意富加羅の読み方

 岩波文庫『日本書紀』の注20は「意富加羅」について、『三国遺事』の五伽耶の一つに大伽耶(高霊加耶)があり、同書駕洛国記に「大駕洛」「加耶」がある、と書き、加耶=駕洛=加羅とし、ゆえに「意富」は「大」の訓であり、金海の加羅に比定される、と書く。金海の加羅とは金官を意味している。しかしここにはすでに矛盾がある。加耶は駕洛と大伽耶(高霊加耶)の両国について使われた名であるが、駕洛はすぐに金官と呼ばれるようになり、加耶といえば大伽耶(高霊加耶)のことを指すようになった。そして加耶はまた加羅とも呼ばれたのである。すなわち、加耶=大伽耶(高霊加耶)=加羅であるが、金官≠大伽耶(高霊加耶)、金官≠加羅であり、『三国史記』『三国遺事』によれば「加耶=駕洛=加羅」とはならないのである。ところが『日本書紀』の注20は「加耶=駕洛=加羅」とし、これから「大加耶=大駕洛=大加羅」としたのである。しかも大伽耶は高霊加耶のことでありながら、最終的には大駕洛、すなわち金官のことにされてしまっている。任那問題についてはこういう理論体系を持っている人が多いのでいまさら特に驚かないが、もう少し科学的に史料を読んでもらいたいものだとは思う。
  李炳銑氏は「意富加羅」を「おほから」とは読まずに「ibugara」と読み、ibunima(任)の異形態imaまたはimu(任)のに交替された語形だと言う。そしてkaraは“城”または“邑里”を意味し、nimunanaimugaragara(邑里)に対当するもので、意富加羅は任那を意味する、任那の別名だと言う。
  『日本書紀』注20の説明については当然承服するわけにはいかないが、李炳銑氏の「ibugara」説にもどうも気が進まない。意富加羅は『日本書紀』の中の国名であり、「ibugara」と読むには抵抗を感じるのである。『出雲国風土記』には「意宇郡」があり、「意」は「オ」と読んでいる。『日本書紀』の「意」も「オ」でよいのではないか。李炳銑氏の読みは少し考え過ぎのような気がするのである。
  それでは「意富」を「オホ」と読んだ場合、『日本書紀』注20の説明には承服できないのなら、「意富加羅」はどのように解釈すればよいのだろうか。

  大加羅について

 「意富加羅」は「大加羅」でよい、と私は思っている。しかし私は「意富加羅」を「大加羅」とする『日本書紀』注20の説明を否定した。その理由も簡単に述べたが、ノート「『日本書紀』の任那6」を参照していただければ、その理由もより深く理解していただけるものと思う。
  さてそれでは「大加羅」とは何なのだろうか。「任那」という名のいわれはともかくとして、「意富加羅」は「任那」と改名する前の国名であると垂仁紀は記している。つまり「意富加羅」とは「任那」のことであり、『日本書紀』では初めから三加羅(新羅・高麗・百済)と任那が登場するから(『桓檀古記』のように任那と三加羅の関係は書かれていない)、任那はすでに、欽明天皇23年〔562〕春正月条の「一本」にいう“十国の総称”として存在していたことになる。つまり「意富加羅=大加羅」は「任那十国の総称」を意味しているのである。
  それではなぜ「加羅」という名が使われたのだろうか。この「加羅」も三加羅と同じ意味を持つのだろうか。それは「否」である。任那は三加羅を除いた地域にある十国の総称であるから、当然三加羅ではないのである。そうすると「加羅」は任那十国に関係している名であると考えざるを得なくなるが、その任那十国とは、前掲の欽明天皇23年〔562〕春正月条の「一本」によれば、加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔禮国の十国のことである。ここに「意富加羅」の「加羅」と同じ「加羅」が登場する。
  それではこの任那十国の中の「加羅」とはどういった国なのだろうか。『日本書紀』は「加羅」を次のように描いている。

(神功皇后摂政)

○卌九年〔369〕春三月(中略)平定比自[火本]・南加羅・[口彔]國・安羅・多羅・卓淳・加羅、七國。(以下略)
○六十二年[382]、新羅不朝。卽年、遣襲津彦擊新羅。【百濟記云、壬午年、新羅不奉貴國。々々遣沙至比跪令討之。新羅人莊飾美女二人、迎誘於津。沙至比跪、受其美女、反伐加羅國、加羅國王己本旱岐、及兒百久至・阿首至・國沙利・伊羅麻酒・爾汶至等、將其人民、來奔百濟。百濟厚遇之。加羅國王妹既殿至、向大倭啓云、天皇遣沙至比跪、以討新羅。而納新羅美女、捨而不討。反滅我國。兄弟人民、皆爲流沈。不任憂思。故、以來啓。天皇大怒、卽遣木羅斤資、領兵衆來集加羅、復其社稷。】

(応神天皇)

○十四年〔403〕(中略)是歳、弓月君自百濟來歸。因以奏之曰、臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。爰遣葛城襲津彦、而召弓月之人夫於加羅。然經三年、而襲津彦不來焉。
○十六年〔405〕(中略)八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅。(以下略)

(継体天皇)

○廿三年〔529〕春三月、百濟王謂下哆唎國守穗積押山臣曰、夫朝貢使者、恆避嶋曲、【謂海中嶋曲崎岸也。俗云美佐祁。】毎苦風波。因玆、濕所齎、全壊无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。是以、押山臣爲請聞奏。(中略)是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百濟王。於是、加羅王謂勅使云、此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。別遣録史、果賜扶餘。由是、加羅結儻新羅、生怨日本。加羅王娶新羅王女、遂有兒息。新羅初送女時、并遣百人、爲女從。受而散置諸縣、令着新羅衣冠。阿利斯等、嗔其變服、遣使徴還。新羅大羞、飜欲還女曰、前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。加羅己富利知伽【未詳。】報云、配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。遂於所經、拔刀伽・古跛・布那牟羅、三城。亦拔北境五城。
○廿四年〔530〕(中略)冬十月、調吉士至自任那、奏言、毛野臣爲人傲佷、不閑治體。竟無和解、擾亂加羅。倜儻任意、而思不防患。故遣目頰子、徴召。【目頰子未詳也。】

(欽明天皇)

○二年〔541〕(中略)夏四月、安羅次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利、加羅上首位古殿奚、卒麻旱岐、散半奚旱岐兒、多羅下旱岐夷他、斯二岐旱岐兒、子他旱岐等、與任那日本府吉備臣、【闕名字。】往赴百濟、倶聽詔書。(中略)聖明王曰、昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通、厚結親好。以爲子弟、冀可恆隆。而今被誑新羅、使天皇忿怒、而任那憤恨、寡人之過也。我深懲悔、而遣下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴等、赴加羅、會于任那日本府相盟。以後、繫念相續、圖建任那、旦夕無忘。(中略)其[口彔]己呑、居加羅與新羅境際、而被連年攻敗。任那無能救援。由是見亡。(以下略)
○五年〔544〕(中略)三月(中略)臣嘗聞、新羅毎春秋、多聚兵甲、欲襲安羅與荷山。或聞、當襲加羅。(中略)夫[口彔]國之滅、匪由他也。[口彔]國之函跛旱岐、貳心加羅國、而内應新羅、加羅自外合戰。由是滅焉。(以下略)
○五年〔544〕(中略)十一月、百濟遣使、召日本府臣・任那執事曰、遣朝天皇、奈率得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非等、還自日本。今日本府臣及任那國執事、宜來聽勅、同議任那。日本吉備臣、安羅下旱岐大不孫・久取柔利、加羅上首位古殿奚・卒麻君・斯二岐君・散半奚君兒、多羅二首位訖乾智、子他旱岐、久嗟旱岐、仍赴百濟。(中略)今願、歸以敬諮日本大臣【謂在任那日本府之大臣也。】安羅王・加羅王、倶遣使同奏天皇。此誠千載一會之期、可不深思而熟計歟。
○十三年〔552〕(中略)五月戊辰朔乙亥、百濟・加羅・安羅、遣中部德率木刕今敦・河内部阿斯比多等奏曰、高麗與新羅、通和并勢、謀滅臣國與任那。故謹求請救兵、先攻不意。軍之多少、隨天皇勅。詔曰、今百濟王・安羅王・加羅王、與日本府臣等、倶遣使奏状聞訖。亦宜共任那、并心一力。猶尚若玆、必蒙上天擁護之福、亦賴可畏天皇之靈也。

※南加羅は下韓のことであり、また欽明天皇二年〔541〕に[口彔]己呑、卓淳とともに出てくる加羅は南加羅(下韓、南韓)のことを指したものと考えられるので、ここでは除いた。

 神功皇后摂政49年〔369〕3月、比自[火本]・南加羅・[口彔]国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定した、と『日本書紀』は記すが、新羅を討ち平定したのであるから、この七国はそのときまでは新羅領だったことになる。このうち南加羅・[口彔]国・卓淳の三国は、継体天皇のとき再び新羅に奪われるが(欽明紀はこれら新羅に奪われた任那諸国を復興することがテーマとなっている)、欽明天皇23年〔562〕正月条「一本」の「總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國・古嵯國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國、合十國」にみるように、加羅・安羅・多羅はそれ以後も任那を構成する国として存続した。
  欽明天皇2年〔541〕4月条からは、加羅には任那日本府があったことがわかる。一方同年7月条には「安羅日本府」が登場するから、任那日本府は欽明天皇2年〔541〕4月から7月の間に、加羅から安羅に移ったことがわかる。加羅の多沙津は継体天皇23年〔529〕3月、百済に下賜されてしまうが、これはヤマト(実体は九州倭国か)が加羅よりも百済を重視するようになったことを意味するのかもしれない。欽明天皇2年〔541〕、任那日本府が加羅から安羅に移ったことは、このことを裏付けているように思える。しかし、加羅に任那日本府があったことは、加羅が古くから任那を代表する国であったことを十分に示すものといえる。
  任那十国の中には「加羅」がある。そしてその加羅は任那のはじめから存在し、さらにそこには官家、任那日本府があった。つまり任那十国の中の加羅は、安羅にその地位を譲るまでは、任那の代表国として存在していたのである。
  ヤマトは、そのはじまりは「山東」であり、「倭人の国山東」から「倭の山東」、そして「倭=山東」「倭=やまと」となったと私は考えている。「倭=やまと」は畿内諸国の中心的存在になると、それら畿内諸国全体の統率者として「大」を付け「大倭」と書かれるようになり、さらに社会的変動により国際的国家になると、「大倭」「倭」を改め、読み方は同じでも「大倭」「倭」とはまったく異なった「日本」という字を使用したのである。地域の名として使われたもう一つの「大倭」は「大和」となり現在に残った。
 意富加羅と任那の関係にもこれと似た状況を想定することができる。
加羅は任那諸国の一国であったが、当初から力のある国で任那諸国を統率していた。しかしまだ任那諸国全体をまとめて呼ぶ名はなかったので、加羅に「大」を付け「大加羅」とし、その読み方の仮名漢字として「意富」を使用し、任那諸国全体を呼ぶときの名とした。「意富加羅」は任那の中の一国の名でもあり、任那全体を表す名でもあった。ヤマトの「倭→大倭→日本」と比較して考えると、任那の中の一国である加羅が「加羅→意富(大)加羅→任那」となった可能性は大きいように思う。しかし大加羅となった加羅はやがて安羅にその座を奪われ、任那の名は引継がれたものの「大加羅」の名は失われ、『日本書紀』では任那構成国の一国である「加羅」としてのみ記録された、ということではないだろうか。
  朝鮮半島の加羅は大伽耶(高霊加耶)のことであり、加耶は金官あるいは大伽耶(高霊加耶)のことである。大伽耶は加羅のことであるが、大伽耶を大加羅と書いた記録は『三国史記』や『三国遺事』には存在しない。これが資料事実である。史料による限り、大加羅を大伽耶(高霊加耶)とすることも、金官とすることもできない。また任那は、『桓檀古記』を除くと、朝鮮史料においては三箇所にしか現われないが、任那と加耶はちゃんと書き分けられているという事実がそこにはある。このことは、任那は加耶でも加羅でもない、すなわち金官でも高霊加耶でもないことを示している。

  このように、朝鮮史料からは「大加羅」が朝鮮半島にあった大伽耶(高霊加耶)あるいは金官(駕洛)ではないことがわかり、『日本書紀』からは「意富加羅」が任那十国の中の「加羅」である可能性が高いことがわかる。そして「意富加羅」が三加羅(新羅、高麗、百済)ではない任那であることを考えると、それは任那十国の中の「加羅」でしかありえないのである。
  これらのことから私は、「意富加羅」とは「任那」という総称が生まれる前の、任那諸国を代表する国・加羅に対してつけられた呼び名(「意富(大)」は尊称)だったのではないか、と考えるのである。


※「加羅の多沙津には官家が置かれていた」としたは私の誤読だったので、関連部分を削除・訂正した。2014.03.18
※ 「任那加羅と対馬2」から題名変更。不確実な『桓檀古記』による説明部分を削除。2016.06.09  


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