『日本書紀』の任那

2007.04.15

  この論考は先人の説にとらわれることなく、あくまで史料に基づくことを第一とする。この論考がどのような結果に向かうのか、今私自身にもわからない。任那について史料は何を語っているのか、史料そのままの内容をさらけ出すこと、それが今回の最大のテーマである。

中国史料における任那

 任那は中国史料では、次に挙げるように『宋書』・『南齊書』・『梁書』・『南史』・『翰苑』・『通典』にみえる。

  (『宋書』夷蛮倭国)

讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。

(元嘉)二十八年〔451 倭國王濟〕、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。

興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。

順帝昇明二年〔478〕、遣使上表曰、(中略)詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

  (『南齊書』東南夷倭国)

建元元年〔479〕、進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事、安東大將軍倭王。武號爲鎭東大將軍。

  (『梁書』東夷倭)

興死、立弟武。齊建元中〔479~481〕、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東將軍。

  (『南史』夷貊東夷倭)

讃死、弟珍立。遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。

二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故、并除所上二十三人職。

興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。

詔除武使持節、都督倭新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

齊建元中〔479~481〕、除武持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。梁武帝即位、進武號征東大将軍。

  (『翰苑』新羅)

括地志云、案宋書、元嘉中、倭王彌自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦慕韓六國諸軍事。此則新羅有國在晉宋之間、且晉宋齊梁、普普並無正傳、故其有國所由、靡得詳也、金水晉宋之也。

《地惣任那》齊書云、加羅國三韓種也。今訊新羅耆老云、加羅任那昔爲新羅所滅、其故今並在國南七八百里。此新羅有辰韓卞辰廿四國、及任那加羅慕韓之地也。

  (『通典』北宋版 邊防第一東夷 新羅)

其先附屬於百濟、後因百濟征高麗人、不堪戎役、相率歸之、遂致強盛、因襲加羅任那諸國滅之。【並三韓之地】

  は『宋書』のオリジナルと『宋書』を引継いだその後の史書の記録であり、『南齊書』の、『梁書』の、『南史』の⑪は『宋書』には記録のない、倭王武のその後に対する「鎭東大將軍」や「征東(大)將軍」授号の記録である。ここに出でくる任那は、倭王が自ら名乗り、また宋の皇帝が倭王に授号したものの中に含まれている国名の一つである。
  中国も任那を一つの国に数えていることからみても、また加羅と並んで書かれ、加羅も一国として数えられていることからしても、任那と加羅はそれぞれ独立した国であることを、これらの記録は示している。
  『翰苑』新羅の⑬は『南齊書』の「加羅國三韓種也」を引用し、さらに古老の話を付け加え、加羅任那は新羅に滅ぼされたが、今その地は新羅の南7、8百里にある、という。「其故今並在國南七八百里」の「並」が加羅と任那を指しているとすると、加羅と任那は地理的に近い関係にあったことになる。また「此新羅有辰韓卞辰廿四國、及任那加羅慕韓之地也」は、新羅には辰韓・弁辰の24国があり、さらにその支配は任那加羅慕韓にも及んだ(ここに、新羅は辰韓・卞辰24国及び任那・加羅・慕韓の地を有することになった)、と読める。そうすると、任那加羅慕韓は辰韓弁辰以外の地にあったことになり、また、任那加羅はすでに新羅に併合されているので、「在國南七八百里」は新羅全土の中の南方七八百里のところにあったということになる(2016.06.13)。
  の「襲加羅任那諸國滅之。【並三韓之地】」はの「加羅任那昔爲新羅所滅」のことを指している。ここで【並三韓之地】の「並」に注目すると、「加羅任那諸國」と「三韓之地」は並列に置かれており、加羅任那は「三韓之地」とは別の地にあったことがわかる。

朝鮮史料の中の任那

 それでは朝鮮史料の中では、任那はどのように書かれているのだろうか。ここでは20世紀の史書『桓檀古記』は除いて考えることにする。すると任那は次の三つだけになる。の記事は原文史料を入手できなかったので、田中俊明氏の口語訳とした。

  (高句麗広開土王碑)

(永樂)十年庚子〔400〕教遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵

  (『三国史記』列伝第六 強首)

及太宗大王即位〔654〕、唐使者至傳詔書。其中有難讀處。王召問之、在王前一見説釋無疑滯。王驚喜、恨相見之晩、問其姓名、對曰、臣本任那加良人、名字頭。

  (真鏡大師宝月凌空塔碑 924年)

大師は諱は審希で、俗姓は新金氏である。その祖先は任那王族で、・・・わが国に投じた。遠祖の興武大王は・・・武略を携えて王室をたすけついに二敵(百済・高句麗)をたいらげた。(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』による)

 は同時代史料の金石文であり、政治目的があるとはいえ、その内容の信頼性はかなり高い。任那加羅は五十年後に倭王済が宋の皇帝から除授された号「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍」にあり、広開土王碑文にある「任那加羅」が「任那」と「加羅」であることを示している。
  それではの「任那加良人」はどうなのだろうか。「任那と加良人」では、一人の人間についてのことであるから意味が通らない。任那と加羅は『宋書』によれば、それぞれ一つの国として書かれている。しかし倭王珍の自称を除き、任那と加羅は常にセットであることも忘れてはならない。任那と加羅は地理的にも政治的にも非常に近い関係にあっただけではなく、同族だった可能性も含めて考えなければ「臣本任那加良人」は理解できない。任那と加羅は別の国であるが、非常に近い国、血縁関係にあった国と推測される。
  は[「任那」について]ですでに述べたとおりである。任那王族とは、始祖首露からの王族のことではなく、仇亥が新羅に投降した後にさらに投降した真鏡大師の先祖のことを指しているのであり、新金氏の先祖が任那王族だといっても、金海金氏も任那王族だったとはいえないのである。したがって田中俊明氏のように、任那を金官国だと言い切ることはできないのであり、この塔碑の碑文からは、任那は「任那」でしかないのである。
  朝鮮史料からいえることは、任那と加羅は別国であっても、血縁関係も考えられる、互いに非常に近い国であり、さらに任那が金官国だと決定づけるものはない、ということである。

『日本書紀』の任那

  『日本書紀』の「任那」は、私の調べでは220個ある。その内訳は次のとおりである。

崇神天皇   2
垂仁天皇   3
応神天皇   2
雄略天皇   6
顕宗天皇   4
継体天皇  16
宣化天皇   3
欽明天皇 133
敏達天皇   9
崇峻天皇   4
推古天皇  29
舒明天皇   1
皇極天皇   1
孝徳天皇   7

内訳を含めて、もし数値が間違っていたらご教示ください。
※垂仁天皇二年「一云」以下にある
「彌摩那」を見落としていたので、「ミマナ」は垂仁紀が3個となり、計220個になります。「彌摩那」については「意富加羅国について」(「任那加羅と対馬2」題名変更)を参照ください。2008.05.20

 この内訳をみてわかるように、欽明天皇の時代における任那は133個もあり、全体の約60%を占めている。意外なのは推古天皇時代である。任那はこの時代すでに滅んで存在していないはずなのに(正確には、滅んだのは任那の宮家)、その出現頻度は何と2番目である。
  これから、これら220個の「任那」のうち、多少なりとも任那の状況がわかるものについて、天皇ごとにみていこうと思う。

  崇神天皇

○六十五年秋七月、任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者去筑紫國、二千餘里、北阻海以在鷄林之西南。

 任那の位置を示す重要な記事の一つである。岩波文庫の『日本書紀』は「北阻海」を、「きたのかた、海をへだてて」と読み下すが、たとえ意訳して「はばまれ」と読んだとしても、その主語は変わることはなく、それは筑紫ではなく任那なのであり、「北阻海」の「北」は"任那の北"を意味する。
 「北阻海」の「北」を"筑紫國の北"としたいのなら、「任那者去筑紫國北阻海二千餘里 以在鷄林之西南」と、「北阻海」を「筑紫國」と「二千餘里」の間に入れなければならないだろう。
  「鷄林」は「しらぎ」であるが、ここでは新羅全体を表すものではなく、金氏王統の始祖金閼智が降臨した聖地鶏林を指しているとみなければならない。一方、の「其故今並在國南七八百里」は「今」のことであり、 「新羅有辰韓卞辰廿四國及任那加羅慕韓之地」とあるように、任那加羅は新羅全土の中で、「南七八百里」のところにある、ということを言っているのである六十五年秋七月条の任那は対馬のことのようにみえるが、この記事だけで、任那は対馬であるとするのは危険である。私はその危険を冒してしまったので、現在、この考えは白紙に戻している。2016.06.15

  垂仁天皇

○二年(中略)是歳、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于國。蓋先皇之世來朝未還歟。故敦賞蘇那曷叱智。仍齎赤絹一百匹、賜任那王。然新羅人遮之於道而奪焉。其二國之怨、始起於是時也。

  任那と新羅が怨み合うようになった原因を記したもの。蘇那曷叱智が任那に帰る途中、新羅人が道を遮り天皇からの賜物を奪ったからとあるが、ここからは任那と新羅の地理的関係を知ることはできない。

 応神天皇

○七年〔396〕秋九月、高麗人・百濟人・任那人・新羅人、並來朝。時命武内宿禰、領諸韓人等作池。因以、名池號韓人池。

○廿五年(414年のことになるが直支王が亡くなったのは420年である)、百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。王年幼。木滿致執國政。與王母相婬、多行無禮。天皇聞而召之。【百濟記云、木滿致者、是木羅斤資、討新羅時、娶其國婦、而所生也。以其父功、專於任那。來入我國、往還貴國。承制天朝、執我國政。權重當世。然天朝聞其暴召之。】

  『百済記』には、木満致は百済人と新羅人の混血で任那にいたが、百済に来て日本(やまと)と行き来し、日本の命をうけ百済の政治を行った、しかし横暴だったので日本が召還した、とある。百済・新羅・任那・日本が互いに近い距離になければ、こういった状況にはならない。

  雄略天皇

○七年〔463〕(中略)是歳、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰、天下麗人、莫若吾婦。(中略)天皇、傾耳遙聽、而心悦焉。便欲自求稚媛爲女御。拜田狭、爲任那國司。俄而、天皇幸稚媛。田狹臣娶稚媛、而生兄君・弟君。(中略)弟君自思路遠、不伐而還。集聚百濟所貢今來才伎於大嶋中、託稱候風、淹留數月。任那國司田狹臣、乃喜弟君不伐而還、密使人於百濟、戒弟君曰、汝之領項、有何窂錮、而伐人乎。(中略)吾兒汝者、跨據百濟、勿使通於日本。吾者據有任那、亦勿通於日本。

○八年〔464〕春二月、遣身狹村主青・檜隈民使博德使於呉國。自天皇卽位、至于是歳、新羅國背誕、苞苴不入、於今八年。(中略)高麗王即發軍兵、屯聚築足流城。【或本云、都久斯岐城。】遂歌儛興樂。於是、新羅王、夜聞高麗軍四面歌儛、知賊盡入新羅地。乃使人於任那王曰、高麗王征伐我國。當此之時、若綴旒然。國之危殆、過於累卵。命之脩短、太所不計。伏請救於日本府行軍元帥等。由是、任那王勸膳臣斑鳩【斑鳩、此云伊柯屢餓。】・吉備臣小梨・難波吉士赤目子、往救新羅。膳臣等、未至營止。高麗諸將、未與膳臣等相戰皆怖。(中略)悉軍來追。乃縱奇兵、歩騎夾攻、大破之。二國之怨、自此而生。【言二國者、高麗新羅也。】膳臣等謂新羅曰、汝以至弱、當至強。官軍不救、必爲所乘。將成人地、殆於此役。自今以後、豈背天朝也。

 高麗にだまされたと知った新羅が任那王に日本府の救援を請い、任那王が膳臣斑鳩等に新羅救援を勧めたという記事である。
 ここでいう任那とは後でわかってくるが、加羅のことで、加羅が新羅の求め(救援)を日本府に取り次いだものと理解できる。(欽明天皇2年〔541〕七月条とそれ以前の記述によれば、任那日本府は当初加羅にあったが、541年7月には安羅に移っていたと思われる。2014.11.04 

○廿一年〔477〕春三月、天皇聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。時人皆云、百濟國、雖屬既亡、聚憂倉下、實賴於天皇、更造其國。【汶洲王蓋鹵王母弟也。日本舊記云、以久麻那利、賜末多王。蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。】

 「久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也」が問題となる。「久麻那利」というところは任那の下哆呼唎県の別邑だという。これによれば、任那には少なくとも「久麻那利」と「下哆呼唎」というところがあったことになる。

 顕宗天皇

○三年〔486〕春二月丁巳朔、阿閉臣事代銜命、出使于任那。於是、月神著人謂之曰、我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功。宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶。事代由是、還京具奏。奉以歌荒樔田。【歌荒樔田著、在山背國葛野郡也。】壹伎縣主先押見宿禰侍祠。

○(三年〔486〕)是歳、紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗。將西王三韓、整脩宮府、自稱神聖。用任那左魯・那奇他甲背等計、殺百濟適莫爾解於爾林。【爾林高麗地也。】築帶山城、距守東道。斷運粮津、令軍飢困。百濟王大怒、遣領軍古爾解・内頭莫古解等、率衆趣于帶山攻。於是、生磐宿禰、進軍逆擊。膽氣益壯、所向皆破。以一當百。俄而兵盡力竭。知事不濟、自任那歸。由是、百濟國殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人。

 紀生磐宿禰が任那を拠りどころとして高麗と交通し三韓の王になろうとした、というものであるが、ここに気になる箇所が二つある。一つは高麗と交通するのになぜ任那を拠りどころとしたのか、ということ。二つに、百済の適莫爾解を殺したのがなぜ高麗の爾林なのか、ということである。朝鮮半島内の事件だとすると地理的に不自然である、ということをここでは指摘しておきたい。

  継体天皇

○三年〔509〕春二月、遣使于百濟。【百濟本記云、久羅麻致支彌、從日本來。未詳也。】括出在任那日本縣邑、百濟百姓、浮逃絶貫、三四世者、並遷百濟附貫也。

  任那日本縣邑は、任那に日本という県邑があったことを示している。ただし日本という字はまだなかったから、それは「倭」だったのではないかと考えられる。そのまま受け止めれば、任那の中に倭という県の邑があったということである。

○六年〔512〕(中略)冬十二月、百濟遣使貢調。別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰、此四縣、近連百濟、遠隔日本。旦暮易通、鷄犬難別。今賜百濟、合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危。況爲異場、幾年能守。(中略)物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客。其妻固要曰、夫住吉大神、初以海表金銀之國、高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故太后息長足姫尊、與大臣武内宿禰、毎國初置官家、爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉。縱削賜他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。大連報曰、敎示合理、恐背天勅。其妻切諫云、稱疾莫宣。大連依諫。由是、改使而宣勅。付賜物并制旨、依表賜任那四縣。

 有名な四県割譲記事である。任那には百済の近くに上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁という県があり、哆唎には国守穗積臣押山がいた。国守自ら、任那から百済への領地替えを進言したことになる。

○廿一年〔527〕夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲住任那、爲復興建新羅所破南加羅・[口彔]己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、内遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前、遂戰而不受。

  近江毛野臣が任那に行き、新羅に破られた南加羅・[口彔]己呑を復興し任那に併せようとした。このとき、新羅が筑紫国造磐井に賄賂を贈り、磐井に毛野臣を遮らせたというものである。南加羅・[口彔]己呑はもと任那領だったようにもみえるし、またそうではなかったようにもみえる。

○廿三年〔529〕(中略)夏四月壬午朔戊子、任那王己能末多干岐來朝。【言己能末多者、蓋阿利斯等也。】啓大伴大連金村曰、夫海表諸蕃、自胎中天皇、置内官家、不棄本土、因封其地、良有以也。今新羅、違元所賜封限、數越境以來侵。請、奏天皇、救助臣國。大伴大連、依乞奏聽。

○(廿三年〔529〕夏四月)是月、遣使送己能末多干岐。并詔在任那近江毛野臣、推問所奏、和解相疑。於是、毛野臣、次于熊川、【一本云、次于任那久斯牟羅。】召集新羅・百濟、二國之王。新羅王佐利遲遣久遲布禮、【一本云、久禮爾師知于奈師磨里。】百濟遣恩率彌騰利、赴集毛野臣所、而二王不自來參。毛野臣大怒、責問二國使云、以小事大、天之道也。(中略)由是、新羅改遣其上臣伊叱夫禮智干岐、【新羅、以大臣爲上臣。一本云、伊叱夫禮智奈末。】率衆三千、來請聽勅。毛野臣、遙見兵仗圍繞、衆數千人、自熊川、入任那己叱己利城。伊叱夫禮智干岐、次于多々羅原、不敬歸待三月。頻請聞勅。終不肯宣。(中略)乃以所見、具述上臣。上臣抄掠四村、【金官・背伐・安多・委陀、是爲四村。一本云、多々羅・須那羅・和多・費智爲四村也。】盡將人物、入其本國。或曰、多々羅等四村之所掠者、毛野臣之過也。

  佐利遲という新羅王は『三国史記』をみても存在しない。己叱己利城は己叱己利という地名によったもの思われるから、任那には久斯牟羅・己叱己利・多々羅原というところがあり、さらに金官・背伐・安多・委陀あるいは多々羅・須那羅・和多・費智というところもあったことになる。

○廿四年〔530〕(中略)秋九月、任那使奏云、毛野臣、遂於久斯牟羅、起造舎宅、淹留二歳、【一本云、三歳者、連去來歳數也。】懶聽政焉。爰以日本人與任那人、頻以兒息、諍訟難決、元無能判。毛野臣樂置誓湯曰、實者不爛。虚者必爛。(中略)於是、阿利斯等、知其細碎爲事、不務所期、頻勸歸朝、尚不聽還。由是、悉知行迹、心生飜背。乃遣久禮斯己母、使于新羅請兵。奴須久利、使于百濟請兵。毛野臣聞百濟兵來、迎討背評。【背評地名。亦名能備己富里也。】傷死者半。百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁、而共新羅圍城。責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。毛野臣、嬰城自固。勢不可擒。於是、二國圖度便地、淹留弦晦。築城而還。號曰久禮牟羅城。還時觸路、拔騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳、五城。

  阿利斯等が新羅・百済に出兵を求めたのに、百済が使者を捕らえ阿利斯等を責め罵ったというのは理解できないが、それは別として、久禮牟羅、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳は任那の地名だと思われる。

○(廿四年〔530〕)冬十月、調吉士至自任那、奏言、毛野臣爲人傲佷、不閑治體。竟無和解、擾亂加羅。倜儻任意、而思不防患。故遣目頰子、徴召。【目頰子未詳也。】

  毛野臣は任那を治めず、かえって争乱を起こしたのであるが、調吉士は加羅の地に騒乱を起こしたと報告している。調吉士は「任那=加羅」とみていることになる。

○(廿四年〔530〕)是歳、毛野臣、被召到于對馬、逢疾而死。送葬尋河、而入近江。其妻歌曰、比攞哿駄喩、輔曳輔枳能朋樓、阿符美能野、愷那能倭倶吾伊、輔曳符枳能朋樓、目頰子、初到任那時、在彼郷家等、贈歌曰、柯羅屨儞鳴、以柯儞輔居等所、梅豆羅古枳駄樓、武哿左屨樓、以祇能和駄唎鳴、梅豆羅古枳駄樓。

 「武哿左屨樓、以祇能和駄唎鳴、梅豆羅古枳駄樓」は「むかさくる 壱岐のわたりを めづらこきたる」(岩波文庫『日本書紀』)で「向うに離れた 壱岐の海峡を メズラコが来た」(山田宗睦『日本書紀』(中))という意味になる。この歌の前には「目頰子、初到任那時」とあり、「目頰子は壱岐の海峡を通って任那に来た」ということがわかる。もし任那が朝鮮半島の南端にあったのなら、「壱岐のわたり」ではなく「対馬のわたり」となるはずである。

※私は以前、これを、任那は対馬である、とする根拠の一つに挙げていたが、「任那者去筑紫國二千餘里」と同様、『日本書紀』にはこのように記載する何らかの理由があったものと思われる。今のところ、『対州編年略』の「山家要略記」にある「對馬嶋者高麗國之牧也」が関係しているのではないかと考えている。2016.06.13

 宣化天皇

○二年〔537〕冬十月壬辰朔、天皇、以新羅寇於任那、詔大伴金村大連、遣其子磐與狹手彦、以助任那。是時、磐留筑紫、執其國政、以備三韓。狹手彦往鎭任那、加救百濟。

  新羅が任那に冦したので、磐と狹手彦を遣り任那を助けた。磐は筑紫に留まり三韓に備え、狹手彦は行って任那を鎮め、加えて百済を救った。これは『三国史記』「新羅本紀」の

(新羅・法興王)十九年〔532〕、金官國主金仇亥、與妃及三子、長曰奴宗、仲曰武德、季曰武力、以國帑寶物來降、王禮待之、授位上等、以本國爲食邑。子武力仕至角干。

と比較されるようであるが、その内容はまったく異なっている。「新羅本紀」は金官国が国庫の宝物を持って来降したと書くが、『日本書紀』は新羅が任那に冦したと書く。「新羅寇於任那」が532年のことだったとしても、狹手彦が任那に行ったのはその5年後のことであり、それではあまりにも遅すぎる。この二つの記事は、「金官国≠任那」を示しているものといえる。


※雄略天皇8年条の説明を訂正した。2007.04.19 
※ 同条の当初説明を削除し訂正後のみの文とした。
2007.06.02
※「十年庚子」を401年としてしまったが、「庚子」は400年であるので、これを訂正した。2008.02.07
※崇神天皇65年秋7月条の「任那者去筑紫國二千餘里北阻海以在鷄林之西南」の解釈説明について、他のノート関係論考と照合し一部文言を訂正した。ただし、その意図するところに変更はない。2012.12.24
※任那は朝鮮半島内にはなかった、とする見方は現在していないので、誤解を招かないよう、その部分の削除・訂正・修正を行った。2016.06.13

つづく


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