能勢農場の28年を振り返って
農場はもう皆さんも知っているように、そもそも創立の出発は経済活動をやろうというための場所というよりは、設立そのものが政治活動の一環だったという、そういうところから始まっています。モデルは中国の幹部学校だったし。そもそも、何か牛を飼ったり、野菜を作ったり、それを売ったりということをやるために作ったんじゃなくて、そこの場所で世の中を何とかしたいと思っている、政治活動にもうちょっと展望を見出したいと思っている人間がそこに集まって切磋琢磨するような場所として作ろうというふうに、最初からそういうふうにして作られたところだから、出発はある面、はっきりしていたわけです。
中心だったのは、戦後共産党の世代と、60年代後半から70年にかけての学生運動の僕等の世代。その世代間であった大きな考え方の違いとか、生き方の違いみたいなものを農場という場でお互いぶつけあって、そこで思想闘争をやる、そういうふうに位置付けられているし、僕等もそういうふうにいわれてきました。もう一つ、何でこういう場所を選んだのかというのは、農村でもう少し自分たちの政治活動を展開していく拠点を作ろうということだったと思います。だからいろんな側面から見て、政治活動そのものとしての設立が出発で、ただし、そういうことを非常に明確に目的意識として持っていたのは、やはり戦後共産党の世代の人たちで、僕等はどっちかいうと引きずられているというか、嫌やなあと思いながら、何でこんなことせんといかんのやろと思いながら、まあズルズルと引きずり込まれたというのが実態やったんではないかなと思うのです。
存続するための経済活動から
で、作り始めたら即、存続が大きな課題になってきます。存続できない状態で潰れたのでは意味がないからということで、存続をどうやって可能にしていくのかということで、いろんな経済活動がそこから始まるわけです。まず初めに、周辺農家から野菜を買い取ることを始めました。当時、農協がこういう都市近郊では、野菜の集荷業務から撤退していて、むしろ農村を基盤とした金融業に農協が大きく転換していく時期だから、能勢町農協なんかはもう僕等がきた頃から、だんだん野菜の集荷というのを放棄していく。持っていく先がないから、ちょっと作ったものをうちに持ってきたらもらうわ、という感じで野菜の集荷が始まる。野菜の集荷は経済活動だったんだけれども、同時に周辺農家に対する、まあ組織化というほどおこがましいことではなくて、あんまり孤立しないためのひとつの方法だったから、何でもかんでも買うようになっていた。今に至るまでそういう性格がずっと引き継がれていて、アグロスの橋本さんなんかからは「何でもかんでも買う能勢農場」といって、今でも馬鹿にされてるわけです。
まあ、そもそも出発がそういうもんだったわけで、周辺農家から野菜を買うことで、「過激派」扱いされていた農場が少しでも農家との関係というものを作ろうとしたわけです。でも、そのときでも絶対にうちに野菜を持ってこない農家はたくさんいたわけで、「左翼的なあんな農場に死んでも持っていくか」という農家もたくさんあって、そこは分かれていくわけです。そういうのをわりと気にせんと、まあ買うてくれるんやったら持っていったろかいや、という感じで近寄ってくる農家と、絶対に持っていかへんという農家と。農場周辺の集落なんかは非常にはっきり分かれていました。もうここ10年、そういうのはほぼなくなったけれども、僕が帰ってきたときでも、絶対うちには野菜を持ってこない農家がまだたくさんあったもんです。でも、持ってきてくれる農家もやっぱりあって、持ってくる農家をうちは大事にせなあかんということで、ホイホイ何でもかんでも買って、捨てるようなものでも「捨てるんやったら農場に持っていったら買ってくれるで」という、まあそういう集荷になっていた。
それから二つ目が、能勢町内の農家によつ葉牛乳を配達し始めた。「美味しい乳やで」と宣伝して農家に配達し始めて、それでいろんな人たちと知り合い、関係が広がっていく。それから三つ目が、よつ葉がだんだん都市の消費者を組織していくのに、よつ葉の畜産部門を担う生産農場という感じで、経済活動がだんだん広がる。だから、最初はほとんど存続を可能とするために、孤立しない、敵対して潰されないということから、ある意味、迎合といったらおかしいけど、非常にへりくだって何せ買わしていただきます、持っていかせてもらいますっていう感じの活動やったん違うかなと思います。
そんな中で、存続するために儲かることはする、というような側面があった。そういうのがその後いろんなところで問題になったりしてくるということだったん違うかなと思います。だから、そもそもの設立が決して経済活動を基盤として農場経営をしようというふうに作った農場じゃなかったから経済活動の領域では非常に幼稚で、ずぼらで、傲慢で無茶苦茶だった。それが悪いと言っているのではなくて、そういう存在だったと思います。そういう位置付けだったということだろうと思うのです。
政治目的と経済活動の統一
それが徐々に、三番目の「政治目的と経済活動の統一」の時代に広がっていく。これは農場の経済活動の都市側の受け手になったよつ葉が、大衆的な基盤を拡大して会員を増やして、経済活動として一定の基盤を作り始めたから、逆に能勢農場の役割というものが大きな変化を迫られる。それは、どういうところから始まるかというと、農村の現状とか、当時の落ちこぼれ、学校でのいじめ、教育現場でのいろんな荒廃から落ちこぼれてくる子供らが、こういう農場にどんどんいろんなツテをたどってやってくる。そういう子らと関わることで、教育の現状ということにいろいろと接点ができてくる。それから、精神病院だとか、病院関係との付き合いの中で、リハビリだとか社会復帰の場所として、そういう患者だとか元患者を受け入れて、そういうところの付き合いから医療面での現状といろいろ関わりができてくる。もちろん有機農業運動も、その頃から徐々に日本の中で一定の影響を持ってきて、有機農業運動との関わりの中で、農村の問題とか、農業のあり方みたいなことにもいろいろぶつかってくるようになってきて、そういうことをもう放っとけないようにだんだんなってきたわけです。
単に存続のために適当にやっている経済活動から、もう少しその経済活動を通じて、そこに関わっているいろんな人との政治的な関係を考えていかざるを得ないような段階に入っていった。これはたぶん74、5年くらい設立で、84、5年くらいからそういう時代に農場の活動としては入っていったんと違うかなと思っています。農場が北合同という労働組合の活動への弾圧にかこつけて家宅捜索を受け弾圧されたんが81年だから、その時に相当孤立して大変だったけれども、それを乗り切って徐々によつ葉がそこから広がっていった時代に、能勢農場の役割が少し変わらざるを得なくなってきたんと違うかな、というふうに思います。
そういうことで、いろんなことがちょっとずつ迫られてくる。農薬ぶっかけてもええやないかみたいな農業経営では、なかなかよつ葉の会員との整合性というのはとれない。だから、そういうのをやらないという方向へいかないと仕方ないようになるし、何でもかんでも買うわといっていたのでは、よつ葉の方が怒るから、「やっぱり作り方もこういう作り方をして」と農家にもいわなくちゃいけないようになる。それ以前、米なんかは「何でもいいから米を集めろ」いうて、それをよつ葉に売っていたけれども。そんなやり方じゃ「言ってることとやってることがちがうやないか」という話も出てくる。その中でいろんな批判もされて、能勢農場みたいなええ加減なやつは有機農業の風上にもおけないと批判されたこともあるし、そういうことを巡ってよつ葉が分裂するようなこともあった。そこらへんがきっかけで徐々に、経済活動の中でいったい僕等はどういう考え方を貫いていくのかということを、もっと意識して、それを周りに働きかけていくような必要性がいろんなところで大きくなって、だんだん変わっていったし、変えていかざるを得なかった。
生き方を闘わせる場所として
そこから、その次が、むしろ経済活動がだんだん中心になって、政治的な目標、目的がむしろ曖昧になってくる時代が、90年代ではないかと思います。経済活動の基盤を作るといっていろいろやり始めたのが、それぞれ全部独立した会社に発展させていかざるを得なくなって、牛乳配達は能勢産直センターになるし、食肉加工は能勢食肉センターになるし、農業経営は農業生産法人北摂協同農場になるし、という感じで、会社を作ってそれぞれが経済的な活動を分社化して広げていく。そこで今までのように、農場に寝泊りをして、もしくは政治的に目的意識を持って、ここで労働もする、活動もするっていう人たちばっかりではなくて、まあいったら勤め先として募集して、給料もらうためにここに働きにくるっていう人たちが徐々に増えてくる。
それまでは賃金は年齢、経験いっさい関わりなく9万円(その当時は5万円)という同一賃金をずっと一貫して維持していたのが、やっぱりそれじゃあ分社化してやっていけないから、食肉センターは通常の賃金体系を取るし、能勢産直センターも通常の賃金体系を取るしという感じで、雇用形態もいろいろ多様化していく。経済活動自身が抱えてる問題というのが非常に重くなって、そういうことに対応することが日々の活動の中心にならざるを得なくなって、逆に何を目指してこういうことをやろうとしているのかというのが―「不在」と書いてるけど、「不在」はちょっと言い過ぎやな、不鮮明化くらい―だんだん不鮮明になってきているというのが現状なのではないかな、と思います。
最後に、そういう現状の中で今、自分等がこの地域・根拠地ということが今の世界を変えていく上で非常に大事なポイントを担っているという位置付けから、能勢農場というのがどういうふうに変わっていかざるを得ないのか、いくのかということを、もう一度考えて、みんなで議論して方針を出していく時期になってるんじゃないかなと思うわけです。もうひとつは、そこで思想的にお互いの考え方を闘わす、バトルする場所として位置付けて始まった能勢農場が、僕等の世代と次の世代の人たちとも同じように、そういう考え方なり生き方なりを闘わせる場所になっていかないと、責任世代の交代というのも実現しないのではないかなと思います。
そういうことが、30年前と同じような繰り返しではなく、一体どういうふうなやり方で、どういうふうに具体的にやれていけるのかというのが、これからの能勢農場の活動にとっては非常に大事になってるんじゃないかな、と思います。最後の方は、あんまり具体的に「こうや」ということを言えない、まだまだ模索中という状況なのであまり書けていませんけれども、一応これで。
(終・津田 道夫)
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