世界の現実に開かれた地域・陣地の形成に向けて
         「地域」「生産」「社会変革」をキーワードに@

 当研究所は設立以来、「地域・陣地」問題を独自企画・研究の一つの軸としてきました。「地域」「生産」「社会変革」をとりあえずのキーワードとして、関西での私たちの実践を総括し、その活動を再度、社会変革というところにどのように意識的に位置付けていくか、という問題意識からでした。まずは同じような志向性に基づいて活動を続けている全国各地のグループ・運動との交流から始めたのですが、去る2月1日(日)、約1年にわたる活動の「中間総括」として、報告・討論会を持ちました。今号より連載でその概要を紹介します。第1回は津田道夫さん(能勢農場)の「基調報告・問題提起@」。なお、事務局ではこの「中間総括」を更に深め発展させていくべく「紙上討論」を企画しています。読者の皆さんのご意見や感想、批判などを是非お寄せ下さい。

グローバリズムに対抗する根拠地 
 アソシ研の設立を準備する過程で、最初のときの論議として、僕等が能勢農場を中心にこの北摂でいろんなことをやってきたのと同じような気持ちや思いを持って、日本全国いろんな地域でいろんなことをやっている人たちが多分たくさんいるはずだ、という議論をしました。もちろん、そこの地域性だとか、中心的に担っている人の考え方だとか、歴史的な経過とかによって、いろいろ違いはたくさんあるだろうけれども、自分たちがずっと生活基盤を置いている、そこを中心に活動している地域に根を張っていろんな経済活動をやりながら、同時にその中で政治的な今の世の中の変革とか、より住みやすい世の中にしていこうという運動は、たぶん、全国にたくさんあるんじゃないかと考えたわけです。そういうところを、違いを強調するんじゃなくて、やっている人たちのいろんな考えとか歴史とかを、いろんなところへ訪ねて行って話を聞いて、自分たちがやってきたことももうちょっと相対化して、抽象化して、整理していくということをやろうじゃないかということで、去年1年、何人かがいろんなところに出かけて行っています。
 例えば、僕は山形の置賜に行きました。その後、北海道のグリーン・ピュア、新篠津村ですね。開拓で新しく耕地化された新篠津村。あと鈴木伸明さんが沖縄、それから九州、水俣とか。片岡さんが山形の置賜、置賜のもうひとつ違うグループのところとか、また島根県の弥栄村。そういうようなところをいろいろ歩いて、そこで活動している人たちに、現状、今どんなことを考えてるかみたいなことを、話を聞いて論議をしてきました。その個々の報告はアソシ研のニュースの中でぼちぼち出してきたと思います。
 それで、それを踏まえてどうするのかという論議をこの間してきて、やっぱりこっちが、もう少し自分たちがやってきたことを整理して、きちっと文字にして発表しないと、これから先の交流も前に進まないんではないかと考えました。ただ何となく集まって仲良くなりましょうというふうなことだけでは進まないんではないか、ということに論議がいって、自分たちがこの能勢農場を中心に北摂地域でいろいろやってきたことをもう少し整理してみたらどういうことが言えるのか、どういう点が自分たちがやってきたことの特徴なり考え方のポイントなのか、というようなことを一回整理してみようということで出したのが、そのレジュメです。
 「グローバル帝国主義内部の社会変革の可能性」ということで地域根拠地というのが考えられるのじゃないのか、ということでそう副題をつけました。これだけ世界が均質化されていく、いろんな技術の発展の中で世界が均質化されていく中で、それ総体をどう変えていくのかと考えたときに、逆に地域にもう一度こだわって、それと対抗するような考え方、生き方を、自分たちの影響力の及ぶ地域の中で物質化して、違うものをそこで生活している人たちに感じてもらう、見てもらうというやり方でしかなかなか世界も変革していけないんではないかということで、そういうことを考えたわけです。

目的意識がその後の展開を変える 
 その場合、全国のさっき言ったようないろんなところを歩いてみて、まず一番目に大きく思ったのは、何のためにそういう地域にこだわって今の現実的な、具体的な経済活動であれ、政治活動であれをやっているのかという、その目的意識のところが非常に大事になっていると感じました。地域をある程度意識して活動しているグループはたくさんあるわけですが、ただしその地域を意識しているということの一番中心に、その地域そのもの―行政から経済システムからあらゆるその地域で行われていること―を自分たちの目指すものにどう作り変えていくのかみたいなことまで含めて、はっきりした目的意識があるのかないのかというとこらへんで、その後の展開が変わってきてるんではないかなというのを思いました。
 レジュメに「共通利害」というふうに書いていますが、例えば非常に大きく経済システムが動いている中で、小さく地域で何か自前の物流であれ、生産であれを展開していくというのは、目先の共通利害の形成ということだけでも、対抗的な方向になり得るわけです。もっと俗な言い方をすれば、大きな資本と対抗するのに、小さく自分たちの地域でまとまっていろんなものを売ったり買ったり作ったりするというのは、それはそれでひとつの自前の商売として、自前の金儲けとして成り立つわけです。そういう範囲だけに終わるのか、それともそういうことをやりながら、それを基礎にしながら、それを手段にしながら、もう少しその先に、どういう世の中、どういう社会を考えるのかという点で目的意識があるのかないのかというとこらへんが、非常に大きな違いではないかと考えています。
 いろんなところへ行っても、どちらかと言うと、ある程度経済的に存続可能になったら、どうしてもそこで話は止まってしまう。経済活動としては非常にユニークなこと、非常に面白いことをやっているところはたくさんあって、地域的な生産と流通と消費の一体化みたいなことからイメージしていろんなことをやっているところはたくさんあるんだけれども、それで何とか飯を食っていく、あるいは雇用ができる、あるいは人間関係の日々の生活の基礎になるみたいなとこらへんだけで進められていて、もうちょっとそういうのを基礎にして、次、何か政治的な運動体をその中で意識的に作って、もっと言えば、地方自治の中に自分たちの意見を反映させるような議員も作って、地域でいろんな政治的な活動まで担っていこうというみたいなところに進んでいくかどうかというとこらへんが、やっぱり非常に難しくて、なかなかそういうのが見えてこない。あるけれどもなかなか明確に意識されてない、というのを感じました。
 だから、「地域根拠地形成という目的意識」ということが、僕等が能勢を中心に北摂でやってきた活動のひとつの特徴じゃないかな、と思うわけです。それが一番目です。

生産過程を内包することが必須 
 それからニ番目は、生産過程が必要じゃなくて必須と書いたんですが、それは必要というよりは必須なん違うかなと、僕は思っています。生協の活動とか、いわゆる都会での消費者を巻き込んだ市民運動的な運動というのは全国各地でたくさんあるけれども、生産過程というのを自分等の経済活動の中心、政治活動の中心にちゃんと位置付けているというのが、非常に大事なんと違うかなと思っています。 何で大事なんかという根拠をいろいろ考えたのですが、ひとつは自立性をきちっと確保するには、自分等で作るという現場を持たない限り、結局はどこかで生産されたものを動かすというふうにしか経済活動も成り立っていかない。自立性を確保するための物質的な条件みたいなものが、ずっと存続していく上で非常に大事なところだと思います。どこかに依存してとか、どこかに大きく括られてとか、どこかに依拠している経済活動や運動というのは、そこが変われば大きく影響を受けて変わらざるを得ない。だから、小さくてもいいから自前で物を作る過程を、現場を自分等で作って持っていくというのは、自立性の確保の根拠として非常に大事なんと違うかなというのがひとつですね。
 もうひとつは、もっと大きなと言うか、もっと根本的な意味で、今の世の中で人間性がゆがめられたり、喪失させられていることの現状を批判したり、そのゆがみに気付いていくきっかけ、プロセスとして、生産過程に関わるというのは非常に大きな要素になっているということがあります。特に農業とか畜産という、自然相手の生産過程というのがイメージされてるんですけれども、日々そういう現場に関わっていることで、今の現代社会、もしくはそこで生きている人間のある意味片寄った、ゆがんでいる関係というものが見えてくる。そのことを常に意識して活動していかないと、だんだんおかしくなってくる。そういう意味での生産過程の重要性というのはものすごくあるんと違うかな、というのが二つ目です。

「目先主義」を批判する根拠として
 
 それから三つ目は、ある程度生活を維持していくための経済活動が基礎にはあるわけで、そういうのをやっていると、目先の成果というものがどうしても大きく見えてくる。そういうことにだんだん取り込まれていくというのが必然みたいなところがあって、目先の成果におぼれて、走ってしまう。そういうのを批判していく根拠をどこで持つのかというと、それはこういう生産過程、特に農業とか畜産という現場と離れないことだと思います。
 人間がなんぼ意識して努力して10倍働いても、その結果としてそれが10倍になって跳ね返ってくるっていう現場ではないわけですね。「おれが一生懸命やったら何でもできるんや」みたいなそういう現場ではないわけです。一生懸命やってまあそこそこで、ちょっとさぼったらボロボロ。自然とか動物相手の生産過程に関わるというのは、1日24時間とか、1週間とか、1ヵ月という時間の尺度ではなくて、もうちょっと長い時間の尺度で自分たちのやろうとしていること、やっていることを評価したり、捉えたりできる根拠になってるん違うかなと思います。
 やっぱり、金を媒介にして物をやり取りするということだけでは見えてこない思想のスケールを身につけていく大切な根拠になっている。そこらが、僕等が目指す地域の根拠地作りの中で生産過程が必須だということの、非常に重要な意味になっているんではないかなと思います。それが三つ目ですね。

「共通利害の形成」からの飛躍
 ただし、そういうことを続けていくためには、いろんな人との関わりがだんだん広がっていく中で、その人たちとまずは共通利害を形成して、自分たちとやっていくことでその人たちの利益にもかなうような、そういう共通利害形成というところから広がっていくわけです。それを「何のためにそういうことやってるねん」というところに関係を飛躍させていく可能性というのは、どういうところにあるのかというのが、もう一つ大事なところではないかと思います。
 もともとの出発で言えば、世の中を変えたいとか、僕等の学生のときだったら革命とかということが目的にあってやり始めて、でも、そこから徐々にいろんな人との関係が広がっていく。広がっていく中でそれを大きく括っていく。まずは共通利害の形成というのが前提となるわけだけれども、そういう括りだけで済んでいたら、そこから社会変革の本当の意味での主体だとか、力というのは出てこないわけで、それをもう少し考え方のところで飛躍させていく根拠というのは何処にあるのかな、というのが三番目です。ここは今、僕等が一番問われているところではないかな、と思います。
 なかなかはっきりした答というのは、まだあんまり見えてないけれども、ひとつには、中心になって主導していく人間の考え方がもう一度問われると思います。
 それから単に今、自分たちが直接、具体的に関わっているような領域の問題だけではなくて、今の社会がもっと広く普遍的に抱えてるような問題に、もっと言えば世界で起こっているいろんな現実にいつも注目して、関心を持って、そういうところから自分等の今やってること、日々の活動であったり、経済活動であったりを見ていくみたいなことが、非常に大事なんではないか。何か共通利害で括られると非常に閉鎖的というか、そこの中だけで閉じてしまう。そこの中である程度、何でも了解して済んでしまうというふうになって行きがちで、それでは、むしろそれを維持することが目的になって、本来何のためにそういうことを目指したのかというところが、だんだん分からなくなってきてしまう。そんなふうにならないためには、やっぱり、世界で起こっていること、世界でいろいろ課題になっていること、世界の現実みたいなことに常に開いている、そこからのいろんな問題が飛び込んでくる、そういう視点というか、姿勢というか、そういうのは非常に大事なんと違うかなと思います。
 そして、そういうことを日々具体化していくには、政治的な結集軸、つまりそのひとつの地域の根拠地を目指している中心的な人たちがきちっと政治目標を明確にして、一定の結集軸としての組織をどこかで作っていかないと、そういうことって進んでいかないのではないかなと思います。全国でいろいろ見ていても、そういう面では今はしんどい状況と言うか、以前ならもうちょっとそういことがわりといろいろ見えてたんだけど、今はむしろあんまり公然とそういうことを語ると何か対立の原因になったり、政治組織というのを非常に毛嫌いしたりするような傾向の中で、あんまりそういうのを出さないでやっていくというふうな傾向が強いんだけれども、でもやっぱりどこかでは、全国的な政治組織というものをちゃんと立てていかないとあかんのじゃないかなと、僕は考えています。
 その三つくらいが、共通利害の形成というひとつの経済活動を発展させながら、何のためにそういうことをやっているのかというところにその運動が発展していくための、飛躍していくための重要なポイントと違うかなと思います。                        (つづく・津田 道夫)

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