非常事態下の韓国政治の底流に存在する地域間対立

 
韓国政治は今、大統領不在の非常事態下にあります。3月12日、韓国国会はノ・ムヒョン大統領に対する弾劾決議を可決、憲法裁判所は180日以内に弾劾の可否を決定しますが、この間、コ・ケン首相が代行することになりました。韓国政治の特徴は、国会における公開の討論を通して対立を解決するのでなく、その中途で両者が熱くなり過ぎ、抜き差しならない状態になってしまう、ということです。
 この非常事態の背景にあるのは、韓国内の伝統的な地域間(全羅道対慶尚道)対立です。主に慶尚道出身者で構成されていた軍事独裁政権の時代、独裁政権と激しく対立した民主化運動グループの中心は全羅道出身者で構成されていました。韓国の民主化運動も一皮剥いて見ると、地域間対立という要素を含んでいて、全国的な広がりに欠けていました。これは、現代韓国に固有な現象ではありません。2000年も前からそうでした。
 618年、中国全土を制覇した唐は、領土を朝鮮に広げるため、この地域間対立を利用して、新羅(慶尚道)を味方につけ百済(全羅道)を滅ぼしましたが、その余勢を駆って唐の軍勢は、百済へ軍隊を送って支援した日本の北九州王朝の支配地域にまで攻め込み、吉野ヶ里遺跡の辺りまで占領しています。朝鮮から日本への渡来が盛んになったのは3世紀頃からですが、既に南から島伝いに渡ってきた先住民や、シベリアから日本へ渡来していた先住民を尻目に、朝鮮からの渡来人同士が日本の王権をかけて、血みどろの戦いを演じています。
 645年、大化の改新まで、大和王朝の王権は百済(全羅道)系と新羅(慶尚道)系の交代が続いていました。彼らの当時の日本における抗争の様子は、古事記や日本書記では分かりませんが、韓国で万葉集を古代韓国語で読むという研究が進み、その様相が明らかになりました。私たちが今使っている日本語にも、その影が色濃く残っています。百済とは韓国語で「ペクチェ」と言いますが、「クダラ」とは新羅の人たちが百済の人たちを指して軽蔑の感情をこめて言う「ペクチェ野郎」との意味であり、蔑称です。これは新羅についても同じで、新羅は韓国語で「シルラ」と発音しますが、「シラギ」とは百済の人たちが新羅の人たちを指して軽蔑の感情をこめて言う「シルラ野郎」との意味であり、蔑称です。

渡来人が対立を克服できた理由は?
 この渡来人による政権交代劇も、日本では「大化の改新」以降、消滅します。朝鮮に対する唐のやり方を見て、日本国内で抗争を今後も続けていれば、日本も唐の領土に組み込まれることを、「大化の改新」の首謀者・中臣鎌足らは恐れたのでしょう。
 彼自身も新羅系渡来人でした。「大化の改新」の敗者、蘇我氏は百済系の渡来人で、その意味で「大化の改新」は、古代日本で最後の渡来人間抗争との面があります。「大化の改新」以降、新政権は渡来人の宗教である仏教と、日本土着の宗教である神道とを媒介に、両者の融和を図る試みを、意識的に推し進めました。各県・郡役所の東隣には各地元氏族の氏神様を祭った神社、西隣には氏寺が建てられるのが常でした。こうして、「大化の改新」以降、新政権によって先住民と渡来人、渡来人間の融和が政治主導で、意識的に推し進められました。
 では、朝鮮で地域間対立が克服できなかったのに、日本へ渡来してきた彼らは何故ここで、それを克服できたのでしょうか。それは、日本の土地生産力が朝鮮よりも高かったからだ、と私は考えています。日本には海辺から耕作可能な原野が山すそにかけて広がっており、高温多湿のうえ、水利施設の建設も容易でした。
 先進的な水利・土木技術を持って朝鮮から日本へ渡ってきた彼らは、その技術を生かして大阪、京都などの原野を、次々に田圃と町に変えていきました。京都を開拓したのは百済からの渡来人・加茂氏ですが、太秦にある彼らの氏寺には、流麗・簡素な百済観音が祀られています。朝鮮は地形、土質、気候などから、なかなか日本のようにいきません。彼らの祖国で先進的な技術を持っていながら、彼らは十分それを生かすことができませんでした。それが日本で花開いたのです。
 今、日本人は自らの固有の価値=アイデンティティーをつかめず、自信喪失状況に陥っています。イラク派兵、改憲、皆そうです。こんな時、大切なことは、それぞれ日本人が元々自分の中に持っている固有の価値を見つめ直し、それに自信を持てるかどうかです。日本人がこれまでたどってきた道を振り返ってみることも、その一つです。    (渡辺)

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