2月初旬〜中旬にかけて訪印、反グローバリズムの活動家・思想家として著名なバンダナ・シバさんが主宰するNGO「ナブダーニャ」とその農場「ビジャ・ビディヤピース」を訪れ交流するとともに、シバさん本人にインタビューを行った。今号より連載で、インタビューとインタビュアー・谷口さんの印象記を紹介する。なお研究所では、今回のインタビュー及び補充・追加質問分、「ナブダーニャ」「ビジャ・ビディヤピース」の活動紹介を合わせてブックレットとして刊行する予定。乞ご期待!(つ)
〔バンダナ・シバ:環境問題、女性解放問題、国際問題に関する世界で最もエネルギッシュで挑発的な女性思想家のひとり。1993年、もうひとつのノーベル賞としても知られているライト・ライブリーフッド賞を受賞。『緑の革命とその暴力』『生きる歓び―イデオロギーとしての近代科学批判』他著書多数。〕
Q. 昨年春、来日された際に、あなたは「イラク戦争に反対する闘いも環境・自然を守る闘いも、同じ一つの闘いなのだ」とおっしゃいました。私たちは、その言葉に非常に感銘を受けました。「同じ一つの闘い」という意味について、改めてお話し下さい。
民主主義、平和、持続可能性
A. 私は反グローバリズム、戦争反対運動はどちらも民主主義、平和、持続可能性を推進するための運動だと考えています。私たちは、戦争をつくりだし、不正義をつくりだし、環境を破壊するある共通のものに対して抵抗しているのです。
WTOの下でグローバリゼーションをもたらし、イラク戦争を勃発させたのは、同じ勢力、同じ組織、同じ権力に属する人々です。異なる人々によってもたらされたのではありません。私の考えでは、彼らはWTOのルールを書き、経済上の戦争を引き起こします。同時に彼らは他国を爆撃し、戦争によって市場をつくりだそうとしています。一方で経済を戦争に変え、他方で戦争を経済に変えているのです。これはコインの表裏のような関係で、いつも同じ人々の手によって行われているのです。
従って、この勢力に抵抗する運動はすべて同じ運動だと考えなければなりません。私はグローバリゼーションを、形を変えた戦争だと呼んでいます。そして戦争は形を変えたグローバリゼーションです。私がグローバリゼーションというとき、ここにこうして私たちと共に過ごしたり、農場へ行ってもらう必要は必ずしもありません。私が国際的な連帯と呼ぶものは、同じ考えを持つ人々の集団ということで、その中でお互いに普遍的な理解の心や尊敬を持っているということです。グローバリゼーションは経済的な戦争のことで、それは資本や企業によって引き起こされます。人々が行う国際的な連帯に対する批判ではありません。
Q. あなたはグローバリゼーションに対抗するものとして生命系民主主義運動(Living Democracy Movement)を提唱されています。生命系民主主義運動についてお話し下さい。
「地球はひとつの家族」
A. 私の見方では、生命系民主主義運動はどこかで集約されることなく自律的に、しかし着実に、世界の非常に多くの地域で拡大してきている運動です。私としては、反グローバル運動そのものを生命系民主主義運動と呼びたいと考えています。
私たちはインドで運動の独自のスタイルを形作ってきました。私たちには、日頃から他団体やコミュニティー、農家などと一緒に活動してきた仲間がいるので、相互に意見交換し、運動を強化するための方策について頭をつき合わせて考える、ということができました。その結果、1999年になって、いくつかの農村と共に、自家採種や有機農業など個別の「活動」のレベルから脱皮して、新たな世界観を形成するということを始めたのです。新たな世界観というのは、資本主義や企業支配の経済に変わる代替的かつ有効な概念のことです。
生命系民主主義運動という名称は、ヒンズー語で「ワスンダヘーバ・クトゥンバカン(地球はひとつの家族)」を意味するある深い意味を持つ言葉を翻訳したものです。すべての木々や川、植物や牛もすべて1つの家族です。私はこれを生命系民主主義運動と呼びます。それは、私たちの運動が現在の代表的な民主主義とは異なるものであることを強調するためです。私たちが普段、民主主義と聞いて理解するような民主主義は、グローバリゼーションの中に取り込まれています。国は企業によってすっかり取り込まれてしまっています。国は企業の欲を満たすために働きます。従って、グローバリゼーション下にある民主主義は非民主主義的になってしまったのです。
生命系民主主義運動は3つの点で「生きている(「Living Democracy」の「Living」は「生きている」という意味)」のです。1つ目に、それは私たちすべてのために存在する、ということです。それは政治家や議員のためにあるのではありません。それはすべての市民のためというだけではありません。すべての市民のためであると同時に、すべての生命のためのものです。従ってそこでは、生態系が中心に据えられます。2つ目に、生命や死に関して関心を強く持つために「生きている」民主主義ともいえます。企業の利益ではなく、私たちが生きていくために不可欠な水や食料、農家が生きていくための適正な所得を第1に考えます。3つ目に、生命系民主主義運動はそれ自体「生きている」のです。従来の民主主義は民主主義として機能しておらず、死んだも同然です。
お互いの生命は補強し合う関係
これら3つの側面は、2つのことにつながっています。1つは文化的事項です。自然保護の倫理は森に住む人々の生活に見られます。私のエコロジー観は、ヒンズー教の神のひとりであるラーマーヤナの倫理に根ざしています。ラーマーヤナは14年間国外追放されていたのですが、そのころ生活したのがその森です。何百万もの人々がその森を訪れましたが、その森はまだ開発されることなく、木々は生き生きと育っています。河川も流れています。そこには自然保護の倫理が生きているのです。生命系民主主義運動では、樹木や河川を私たちの母であると考えます。そうすれば、その自然とどのように付き合っていくべきか、自ずとわかるはずです。材木を伐り出せば、水を売れば、どのようなことになるか、ということを考えることになります。生命系民主主義運動の考え方は、すべての人々や生命に関して、自然保護の倫理を広めることができます。それは利益ではなく、思考に光を当てるものです。
2つ目は「進化」を計る指標の変更です。私たちインド人は西洋文明とは異なる文化を持っています。私たちは際限ない消費や欲を「進化」の指標だとは考えてきませんでした。しかし、西洋社会の異なる考え方を私たちは受け入れてしまってきたのです。そこではより多く富を蓄積し、より多く他者から奪うことができれば、より「進化」したことになります。より多く自然を搾取し、より破壊的な機械をつくれば、より大きなダムをつくれば、それは「進化」の印だと賞賛されます。より毒性の強い農薬を開発することや、遺伝子組み換え技術も、「進化」の印だとされています。
生命系民主主義運動では、進化の指標とは、与え、協力し合うことでお互いの生命を維持することに資する能力のことです。ここでは、お互いの生命は補強し合う関係であると考えられます。「利益」の概念は、他者を否定することで私がより多くを得る、というものです。しかし、生命は他者に資することでより自分自身の生命を養うことができる、という関係のもとに成り立っています。母は子供の世話をすることで、より大きな生命力を得ることができます。資本家は身の安全、食料、水、仕事など、社会で人々が有するべき権利を否定することで、より利益を得ます。
森林は教師のような存在です。従って、私たちが農場につくった学校も「ビジャ・ビディヤピース(種は先生)」と名づけました。私たちは自然から学ばなければなりません。社会を変革しなければなりません。私たちはお互いに学び合う必要があります。しかし、私たちは他者からも学ばなければなりません。私たちは種が自分自身で再生を果たしていくことから学ばなければなりません。
私は現在人間は危機に直面していると感じています。人間は自分たちの力で「再生する力」を失ってきています。そのために多くの国で自殺が伝染病のように増えてきているのです。日本、インド、韓国など、あらゆる国で自殺が増えています。これは、私たち自身の生命を再生させるという能力が死んでいっている、ということです。私たちが住む社会や生態系を再生していれば、朝起きて世界と向き合い、一日がまた始まるということが楽しみになるのです。
私たちの後の世代、数世代後の子孫は、そのような能力を持てるようにすべきです。将来の世代は、自分たちの生命から逃げ出すようなことがあってはなりません。 (つづく)
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