この国に棲む生きとし生けるものを視野に
入れた農政を総合的に検討するべきトキ

平成15年11月15日〜16日、千里阪急ホテルで「米政策大綱」を考える講演会とシンポジウムがよつば連絡会主催で開催された。“よつ葉”がこういう取り組みをしたのは初めてであることに加えて、全国的に過去の農政の転換時期に於ける各種の動きに比べ低調な状況での開催に意義があったものと考える。
講演は農林水産省の太田豊彦氏により、戦後農政(米を中心とする)の概略と今回の「米政策大綱」に至る政策の推移とその目指すところが話された。その後、多種な立場にあるパネラーによるシンポジウムを行い、100人以上の一般参加者からの意見も多数提起された。翌日は“よつ葉”の関係者による前日討議されたことの具体化を目指す討論会が半日催され、総括して解散した。
 この試みの中で気づいたことをまとめて報告とする。

戦後農政史と「米政策大綱」
 戦後の農政史の流れは農地解放に始まり戦後復興の一翼としての増産運動、その後、米余りから減反政策、水田活性化対策―その効果が充分現れないために今回の「米政策大綱」へと流れてきた。これを「近代化」あるいは「経済合理主義」から見れば、しかるべき変遷とも受け止められる。
 「モノ栄えて人心荒む」社会なり、所謂「環境問題」から見た地球の有限性と汚染、そしてその未来を考えるとき、この政策は未来を支えるものとは思われない。「効率」のみで農業を切っていく、あるいは低開発国を前提とした国際社会と貿易を勘定に入れれば、こういう政策となるのであろう。
 しかし、老練なEU諸国・アメリカを中心とする先進国は食糧自給率100%以上が多いことを見れば、非常に底の浅い政策と言わねばならないであろう。また、日本の風土を無視して「効率」「経済合理主義」を基調に政策を作ればかようなこととなると思われる。多分「机上の政策」なのではないか。体に服を合わせるのではなく服に体を合わせろと言っているようにしか聞こえない。

「米政策大綱」についての反応
 この講演会・シンポジウムに限らず、全般に「米政策大綱」〜農政の転換〜に対して全国民的に意識が薄いことが気になった。
1.消費者にとって
 飽食の時代の中で、食糧は「安全性」しか問題にならないのかも知れない。
 食糧確保についての楽観論と国際社会への無防備な信頼。食糧の後に国際戦略、環境と風景、田舎と町(故郷の存続)問題、青少年の情操、いのちと自然の倫理等、総じて日本の全体が横たわっているのに「輸入可能な 商品・モノ」としてしか見えていないような印象にある。
2.生産者にとって
 日本国の米の大半は非経営的な自給的な(二種兼業)農家によって生産されている現実からして、政策の変更が一気に農家を破壊したりしないこと。長期にわたって真綿で首を絞めるように政策が効いてくる仕掛けがあるため急速な反応が出にくいのか、意識もぼやけて政策変更に対する反応が鈍いように思われる。実際的な担い手が高齢のため「時代」と諦めておられる向きも感ぜられる。

行政に対する先験的な不信感
戦後民主主義50年を超えても、残念ながら僕の中にも不信感はある。罵詈罵倒に快感を覚えるには年をとりすぎた。どうしたらええのやという具体策が欲しい。経営としてはっきりした形の農家も、暮らしとしてというか自給を旨とする農家も、立場の違いを持ちながら何処をどういじったら農業が国の中でチャンとした意義を持ち、日本という国の中で位置を占められ、協同の一角となりうるのか?日本の食糧の一つの生産機構としてのみ日本の農業・農村が位置づけされる傾向の農政がある限り、行政不信は抜けない。選挙の投票率を見ると、不思議に納得してしまう。「投票に行きましょう」では解決できないように思える。そこ一番、行政は単純に金をばらまくだけじゃない。この国に棲む生きとし生けるものを視野に入れた農政を総合的に検討するべきトキが来ていると思われる。
 このような考えの下、よつ葉の農産物の取り組みは不如意な政策下ではあるが、たくさんの可能性とヒントを秘めていると思われる。色々やっていきましょう!!       (よつば農産役員・橋本昭)

 

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