前号で長井市のレインボープランの取り組みと、それを中心的に進めてこられた菅野さんのお話について報告した。今号では、長井市の隣に位置し、有機農業運動の先進地域である高畠町で日本の有機農業のさきがけとなってこられた星寛治さんのお話について報告する。
日本有機農業研究会が立ち上がったのが1971年。その直後73年には、高畠町でも高畠町有機農業研究会が立ち上がった。その中心になったのが星寛治さんである。
当時は、71年に旧農業基本法が制定されて、農業の集約化・大規模化が推奨された時代である。農業の機械化が進められ、土地基盤整備が行われ、ライスセンターなどが整備されていった時代である。そして、農薬や化学肥料の消費がピークになった時代でもある。生産性は上がっていったが、一方でさまざまな問題が顕在化してくる時代でもあった。
星さんが有機農業を始めようと思うようになったきっかけは、まず第一に、農薬の影響によって農民自身に健康障害が現れはじめたということである。吐き気やめまいを催し、慢性の肝臓障害を患い、農薬ホリドールによって死んだ人もいた。第二に、環境問題である。どじょう・ふな・たにしなどの水生生物がいなくなり、抗生物質入りのえさによって仔豚に畸形が増えていった。すでに1963年に、レイチェル・カーソンは『沈黙の春』でそのことを告発しており、少し時代が前後するが日本では1975年に有吉佐和子の『複合汚染』が出版され話題を呼んだ。第三に、自給ということを考えるようになったということ。減反政策が導入され、農家の収入も減る中で、都市型の消費生活を見直そうということ。第四に、農薬や化学肥料まみれの農産物を生産して消費者に届けるということは、農民は自分自身が被害者であると同時に加害者ではないかと気づいたこと。
前号でも触れたが、置賜地方は生活綴り方運動が強かった地域で、その伝統が残っており、青年団運動が盛んだった。高畠町で当時、青年団員は500人くらいいたそうであるが、その青年団が単に遊びだけでなく、学習活動をきちんとやっていた。町の誘致企業が公害をもたらしているというので、公害について学習し、行政を追及し、企業撤退運動に取り組んだ。そして、公害をもたらす工業を批判するだけでなく、足元の農業を見直し、自分たちも加害者ではないかと捉え直していく中で、有機農業に取り組んでいくようになる。日本有機農研のオルグに何度も来てもらって学習を積んでいった。そして、38人の青年団員やOBで高畠町有機農業研究会を立ち上げ、有機農業を実践していくことになる。これ以降、高畠町が日本の有機農業運動の中心地となっていく。現在では、農家約2000世帯のうち約1000世帯が有機農業に取り組んでいるとのこと。
若い者が「さあ有機農業を始めよう」といっても、親の田圃なので親の理解が得られないとなかなか始められない。星さんはやっとのことで2、3反だけ親に許してもらって有機農業を始めた。1反当たりに牛糞や豚糞を1年寝かせた堆肥を2トンだけ撒いて、あとは何も使わなかった。その年の収穫は4割減。普通、1反当たり10俵とれるところが4俵しかとれなかった。堆肥の量を変えたりしたが、次の年もだめだった。そして3年目の76年、その年は盆を過ぎても炬燵が必要なほどの冷夏であった。1反当たり3トンの堆肥を撒いて、数種類の有機物を追肥として与え、結果を待った。軒並み全滅していく中で有機農研の会員の稲だけが実り、1反当たり10俵のコメがとれた。このときの実践レポートと有吉佐和子さんたちとの対談が、『複合汚染その後』に収録されている。
その後80年代の前半に、4年連続で冷害が起こったが、会員の稲は大丈夫だった。この間に、堆肥が発酵して土が生きているために、土壌温度が普通より3℃高いことが確認できた。後に京大の先生に説明を聞いたところによると、17℃以下だと減数分裂が起こらないので実が入らないとのことで、3℃の差が決定的だったのである。
76年頃から消費者運動と出会い始める。「玉子の会」などと出会い、有機堆肥で育った野菜や果物を供給し始めた。コメはまだ食管制度があったため難しかったが、それも自主流通米が認められるようになって供給するようになっていった。地元でも有機農業が認知され始めて、高畠農協や高畠経済連と連携できるようになっていった。農協からは、展望があるということで、若い職員を高畠町有機農研の事務局に送り出してくるようにもなった。
82年に日本有機農研第8回全国大会を高畠町で開くことになった。このとき高畠町有機農研のメンバーは当初の38人から26人になっていたが、既に地元で認知されていたので、町の全面的な協力の下、800人の参加で大会は成功した。このときの大会テーマが「地域に根を張る有機農業」。先駆者だけでは地域全体を変えていけないという問題意識で、これがテーマになった。
星さんは、それからの10年が新しい村づくりの10年だったという。大小10くらいの環境・農業団体が立ち上がって、環境や福祉、教育の問題に取り組み始めた。主婦の中から、地元の食生活の再発見をテーマとする村起こしの動きも出てきている。有機農業運動はそれだけに終わらない。「有機の価値観」という言葉を星さんは使われたが、今の利益追求中心の社会から有機農業運動の中に内包されている価値観で新しい社会を地域から作っていきたい、という思いが伝わってきた。
この10年くらいの間に、「大地」などさまざまな消費者運動グループとの取引・交流も増えていき、生産を安定させる基盤も整っていく。
星さんは、3年前まで高畠町の教育委員長も8期16年間務めてこられた。教育委員長というと、保守的な地域ボスが居座っているという貧困なイメージしかもてない私にとって、新鮮であった。地域から社会変革を展望するとき、環境や福祉や教育の問題を本気で考える人間がそういったポストを占めていくことも、大切なことのように思う。
高畠町有機農研を始めて15年目くらいから、大学生がフィールドワークで高畠に来始めた。90年に「共生塾」というのをつくって、1週間の農業体験塾の受け入れをしている。星さんは、農業には人間を変える教育力があるという。1週間農業を経験すれば、帰るときにはかなり成長している若い人もいるという。60人くらい、Iターンで農業をするために都会から移住してきた人もいるそうである。その中の1割くらいは、百姓として生きていくのではないか、という。
アソシ研のいう地域陣地戦では、自治体選挙への関わりのように直接的な政治への関わりも含めて、地域からの変革を目指すということだと思うので、必ずしも100%問題意識が重なるわけではないと思うが、地域に根ざして生産活動を共同しながら、新しい地域づくりに取り組むという視点から見ると、星さんの30年にわたる高畠町での取り組みは、大いに参考になるところがあった。
星さんが育てている田圃も見せていただき、温厚にとつとつと思いを語られる姿に、農民文化人の真髄を見た思いで、非常に感銘を受けた。 (片岡) |