循環型社会をめざした街ぐるみのレインボープラン
--山形県置賜地方での取り組み(1)--

 7月に山形県置賜地方の長井市とその隣の高畠町を訪ねてきた。長井市では、都市部の生ごみを100%回収し、それを堆肥に変えて地元の田畑に返し、有機米や有機野菜をつくり、それを地元で消費するという取り組み(レインボープラン)を行っている。高畠町は有機農業の先進地域である。そして今回、レインボープランの中心的推進役を担ってこられた菅野芳秀さんと、高畠町で日本の有機農業のさきがけとなってこられた星寛治さんのお話を聞くことができた。今回は、レインボープラン関係のお話と菅野さんのお話を中心に報告し、星さんの高畠町での取り組みは次回に報告したい。

■女性の力が大きかった

 長井市は人口約3万2000人のまち。豊かな農村地帯であるにもかかわらず、新鮮な地元産の農産物はほとんど大消費地へと流れ、92年の実態調査では、地場農産物の自給率はわずか8%だったとのこと。これはどこか変だということで、地産地消と安全な食の提供をテーマに取り組み始める。これがレインボープランの始まるきっかけである。
 88年に、市がまちづくりのための案を市民から募る「まちづくりデザイン会議」が設立され、89年に組織改編し18名の委員からなる「いいまちデザイン研究所」が立ち上げられた。当時の市長から推薦される形で菅野さんも新委員としてこれに参加。菅野さんはここで、生ごみのリサイクルによる有機肥料の地域自給システムを提案。91年、市が調査委託する形で、菅野さんをはじめ3名の方を中心にレインボープラン調査委員会が設立され、市民や行政の理解を得るため奔走されることになる。
 菅野さんの話では、女性の力が大きかったという。家族の健康や食べもののことをいつも心配している女性が一番の理解者だと考え、女性の協力が欠かせないと考えた。そして3つの女性団体に話をする機会が与えられ、プランへの協力を訴えた。どの団体も、とても反応がよかったとのこと。その他、商工会議所の会長さんや、市立病院の院長さん、農協、市の職員などにプランへの理解と協力を訴えていった。オルタナティブを提起する者にとって、一般的には保守的と思われる人たちの中にも協力者を募っていく、こうした発想はとても大切なことのように思う。

■成功の秘訣は市民の主体的参加

 4年間のモデル事業のなかで実験を重ね、96年に堆肥作りの施設コンポストセンターが完成した。97年に稼動を始め、現在6年目である。生ごみと牛糞、もみ殻を合わせて、コンポストセンターで約80日間かけて堆肥にしていく。年間で、家庭から回収する生ごみ1500トンと、牛糞500トン、もみ殻500トンから、堆肥が500トン生産されている。コンポストセンターの処理能力の関係で、現在は全市約9000世帯のうち中央地区(都市部)の約5000世帯のみが生ゴミ回収の対象である。生ごみの堆肥化を始めて、中央地区のごみの量は37%減量した。
 当初75%の実施率を想定していたが、実際には100%の実施率を実現。また、いい堆肥を作るためには、生ごみの分別を丁寧に行うこと、水切りを十分に行うことなどの市民の協力が欠かせない。事業が非常にうまく軌道に乗った理由は、行政の上からの押し付けではなく、市民の理解を得るために多くの時間を費やし、市民の参加を得たことである。そのおかげで、回収に中身の見えやすいバケツ方式(女性が袋方式ではなくバケツ方式を主張して決まった)を選択し、生ごみを回収し始めた当初は、市民が自主的に回収場所に立って分別状況をチェックし合ったとのこと。
 今、長井市の農産物自給率は約15%、これを50%にまで上げるのが当面の目標。レインボープランでできた堆肥を使ってできた有機農産物の量はまだ十分ではなく、地元での消費が原則。学校給食の米食への供給は100%できるようになった。レインボープラン独自の農産物認証制度をつくり、登録農家は専業農家約140世帯のうち70世帯弱になっている。
 今では、年間5000人近い視察者が訪れているとのことで、行政だけでは対応しきれず、NPOが協力して視察を受け入れる体制ができているが、この日説明に当たってくださった市民ガイドの方は、「このプランが成功した秘訣は、市民が主体になって計画を進めたからだ」と話しておられた。

■世代をつなぎ地域から変わる確信

 レインボープランを中心的に推進してこられた菅野さん。沖縄の石油備蓄基地反対闘争支援で沖縄に行き、そこで援農のかたわら、沖縄の青年たちといろいろ話をした。沖縄の青年たちは、闘いと共に沖縄が自立していけるように村づくりをめざしていた。自分の世代だけでなく、世代をつないで村や沖縄をよくしていこうとしていた。「生き方をつなぐ」ということを学んだという。そして、地元にかえる決心を。
 地元に帰ってみると、植林や開墾地など、昔の人はあたりまえのように次の世代のために村づくりに励んでいたことが見えてきて、頭ではなく体で自分の生まれた所が好きになったという。
 11年間毎週土曜日、公民館を借りて「夜学校」を続けた。一緒に遊んだり、勉強をみてやったり。学生運動あがりの都会からUターンしてきた青年を、初め大人たちはなかなか受け入れてくれなかったが、子どもたちはそんなことは関係なく受け入れてくれた。子どもたちを通じて自然に大人たちからも認められていったのではないかという。
 一方、減反反対闘争の過程で、地元の青年たちと出会い、78年に置賜地方の3市5町にまたがる「置賜百姓交流会」を一緒に組織。単なる仲間づくりに終わらず、教育、芸能、百姓塾やフィリピン農民との交流などに取り組む。置賜地方は、もともと青年団の運動が伝統的に強い地域とのことである。青年団があたりまえのようにいろんな学習をし、国際交流などもしていたという。高畠町の星寛治さんも同じことをいわれた。置賜地方は北方教育運動、生活綴り方運動がもっとも強かった地域で、その伝統が若い世代に引き継がれていたとのこと。有名な『やまびこ学校』発祥の地である。
 89年に北から南まで日本列島を縦断して住民運動・市民運動の交流として行われたピープルズ・プラン21の一環として、「百姓国際交流会」を開催。その準備過程で市からの協力も得られるようになり、2500名の参加で成功を収め、菅野さんたちの活動も認めてもらえるようになったとのことである。これ以降、レインボープランに関わることになる。
 菅野さんはレインボープランを進める上で大切にしようと思ったこととして、@地域循環社会A多様性の共生B地域の自立と自給C民主主義D国際交流−などをあげた。地域を好きになり、地域から社会が変わるということに確信をもっている。オルタナティブを提起し、その具体的実践に多くの人が関わる中で、循環・共生・地域の自立等といった価値が無理なく多くの人に共有される筋道を示しているように思う。時間が許せば置賜百姓交流会についてもう少しお聞きし、面としての広がりについて菅野さんの考えをお聞きしたかったところである。 (片岡)


○過渡期的側面もあるものの、トータルに進めたプランに脱帽でした

 5年程前、川西の柴生市長が突然発表した1市3町の大型ゴミ処理施設計画。いろんな形での反対運動を行ってきましたが、来週から計画白紙撤回の署名を募ります…白紙にしてからどうするかという案を作れないのに、と思いつつ。
 そんな折、生ゴミを堆肥にしている山形県長井市の見学ツアーを耳にし、急遽参加を決めました。レインボープラン。しっかり分別された生ゴミが回収され、コンポストセンターで80日間かけて土壌改良剤にされる。それで土作りした結果、独自の認証制度での有機野菜作り。その野菜が地元で売られ、給食に上り、加工食品になる。8年の準備と6年の実績。良いことづくめの話に「この目で見てこなくては!」。
 過渡期的側面も見つけましたが、やはりこれだけトータルに進めたプランに脱帽でした。夜にその推進者、菅野芳秀さんのお話を聞きましたが、他者・他団体を巻き込み進めるエネルギーはすごいもので、理想の実現に仲間を増やしていくことに精進されたことがよく伝わりました。タイの国までレインボープランが広まっているのも感動。ゴミ減量とか有機農業運動から入ったのでなく、地域循環という切り口は新鮮な世界観でした。(Iさん)


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