民間企業的経営を目指す規制緩和による学校再編
 --中教審中間報告のめざすものA--

 前号で中間報告のキーワードの一つを「競争」と捉えた。ソ連の崩壊とグローバリズムの席巻の中で、いまや自由競争こそが社会を発展させ、規制緩和・民間活力の利用こそが今日の停滞を克服する原動力だというイデオロギーが支配的である。私は、教育、医療福祉、農業、環境の問題は市場原理を軸に考えることはできないと考えているが、その波は、学校現場にも既におりてきている。

90年代に変化した学校内の力関係

 1989年に公務員労働者が「連合」に再編されていくまでは教師の大部分は日教組に組織されており、学校現場は直接生徒に接している教師が職員会議で論議して方向を出していくというように運営されていた。もちろん、各都道府県によって状況はかなり異なっていたが、少なくとも組合が反撃力をもっている都道府県ではそうであった。
 80年代後半から世間全体が脱政治化していく中で、教師も例外ではなく、それと日教組が「連合」に合流する過程で分裂が起こったことも重なり、90年代に組合の組織率が一気に落ちていく。2002年10月現在の組織率は50.8%(日教組31%)まで落ち込んでいる。学校現場の困難な状況に対して、個々の教師のがんばりはあっても、組合として教師全体に影響力をもった方針が出せなくなってくる。そういった中で、むしろ教師の側が現状維持派で、否応なく対応を迫られる行政の側が革新的である(常に教師に対する管理強化を伴いながらであるが)ということも起こってくる。
 そして、1992年の学習指導要領改訂で「日の丸・君が代」の強制実施を謳い、1999年に国旗・国歌法を制定し、処分を多発しながら一気に「日の丸・君が代」完全実施に近い状態までもっていく。その過程で最終的に闘う教師は弾圧され、無気力が職場を覆っていくことになる。職員会議でいくら論議して決定しても、校長がそれを無視する、あるいは職務命令を出すということで、論議そのものを嫌悪する重い雰囲気が職場に漂っていく。いったんそういう状況を作れば後は早いもので、文部省や各都道府県教育委員会の思うままで、矢継ぎ早に「改革」案が示され、教師は有効な反撃をできずに、今まででは決して考えられないような新しい学校に変わっていこうとしている。

民間的経営手法の学校への導入

 文部省や各教委の基本的な方向は、学校長の強力なリーダーシップ(文部省から各教委、校長までの系列化は既に出来上がっている)の下で民間企業並みの学校運営を行い、学校間を競争させて活性化を図ろうということである。学校長の権限を強化するために職員会議を「最高決定機関」から「学校長の諮問機関」として法的に位置付け直し、「指導力不足教員」キャンペーンを張り、「勤務評価制度」を導入し、まず人事面から学校を縦の命令系統で動く組織に変えようとしている。教頭、主任とは別に、新たな中間管理職を導入する動きもある。学校を縦社会に変えることにより、「改革」案を命令としておろせるので効率よくできるということと、勤務評価が給与にも反映されるようにすることによって教師のやる気も出させようということである。
 もちろん、こうした人事面からの教員の支配ということは、学校長のリーダーシップのもとに学校を劇的に変えるために必要ということとは別に、ナショナリズム的な教育を推し進めるために、中央集権的な教育統制を行いたいという保守派の戦後一貫した要求でもある。
 もっとも先頭を切っているのが石原慎太郎知事の東京都である。2000年度に勤務評価制度を導入し、特別昇給や人事異動の資料にし始めた。それに先立って、「指導力不足教員」キャンペーンを張り、どこの世界にでもあるごく少数の不適応者を浮き立たせ排除していった(一部では政治的反対者を排除することにも利用されている)。01年度からは「進学指導重点校」を設け、教師に進学塾の研修を受けさせたりしている。これまででは決して考えらなかったことが起こっているのである。区によっては、小学校まで学区を廃止し、親に学校を選ばせ、小学校同士を競わせている。来年度からは、教頭、主任とは別に「主幹」(職務命令権を持つ)という中間管理職を導入することを決定している。
 広島県や大阪府などが、前後して同じような制度を導入していっている。解放教育がもっとも盛んで、「日の丸・君が代」に最後まで抵抗していた都道府県が、「日の丸・君が代」完全実施の過程で徹底的に弾圧され、一足飛びに「改革」の露払役を担わされようとしている。
 大阪府教委は、民間企業から高校の学校長を登用(今のところ公募ではない)、採用基準も曖昧なまま02年度から2名配置した。こうした規制緩和は今後も進んでいくであろう。進学塾との提携なども可能性がある。横須賀市や広島県では、米国式の公設民営のチャータースクールが調査、検討されている。規制緩和が、現場教師の主体性を認め、本当に制約を排除して様々な新しい試みを援助していくことになるなら興味のあるところだが、教員管理や教科書採択などの根幹のところでは統制が強化される方向にある。
 規制緩和の方向は、雇用形態の面でも、様々な形態の不安定雇用労働者を学校の中に増やす可能性がある。基本的には教育費削減の方向で多様化に対応するために、民間の合理化と同じようなことが起こってくる。職場の中で労働者がますます団結しにくくなり、校長に直轄管理されていくことになる。

「成果主義」だけでは捉えられない教育

 初等・中等教育から大学教育までが市場原理=競争に基づく成果主義で評価され、教師は国家−各教委−校長に統制されつつ、その部分的な能力をできるだけ高く買ってもらう存在になっていく。次の世代にどういった価値を伝えていくのか、を考える主体ではなくなっていく。その部分は、国家が一手に引き受けるということである。
 確かに、一部の勝ち組を生み出す可能性はあり、成功例がいくつか出てくる可能性はある。しかし、その「成功」が、東大合格者を輩出する高校がAという私立高校からBという公立学校に変わることだけに終わるとしたら、まったく意味はない。落ちこぼれをなくし、全員に最低限の学力を確実に保証すること、歴史の教訓や、平和、平等、環境といった価値を伝えること、これらは非常に難しい作業である。成果の出にくい領域であり、成果の測定しにくい領域である。何十年という時間経過の中で意味を持ってくることもあるのである(個人の中でも、そのときは意味がわからなかったが、人生のずっと後で意味がわかってくるということもある)。それを短期で成果をあげようとすると、一番分かりやすい、テストの点数や進学率という数字崇拝に行き着くのは目に見えている。
 非効率になることもあるという弊害をいったん引き受けて、下からの民主主義に依拠した改革こそ教育現場には必要だと思う。  (K)

[←back]