当研究所では設立以来、我々自身の立脚点を振り返ることも含め、「地域」や「陣地」の問題に焦点を当て、各地で取り組みを行なっている人々や運動体に関して、訪問や交流を継続してきました。今回、グラムシの陣地戦論について、こういう学習会をしようと思ったのは、そうした交流・調査にあたって、理論的な軸が必要だと考えたからです。また、研究所では今年、研究チームを作って自前の研究活動に取り組むという方針をたてたので、これを機に、グラムシの陣地戦論に関する研究チームの方向付けを決めるという意味もありました。田畑さんには数年前から、アソシエーション革命を中心にさまざまな問題提起を受けてきましたが、その流れを引きながら、グラムシの陣地戦論、ヘゲモニー論などと合わせて、整理をお願いしました。
今日はグラムシの陣地戦というテーマで、現代の社会変革の可能性に絡めて考えてみたいと思います。どういう意味で社会変革を語り得るのか、また、マルクスをはじめとする従来の変革思想の流れをどのように整理するのか――。こうした問題について論点を整理しながら、グラムシ陣地戦論の読み方を紹介させていただきたい。
●陣地戦論の系譜
現代の陣地戦論を考える場合、グラムシの『獄中ノート』が中心テキストだというのは、多くが認めるところですが、実は、陣地戦論にはかなりの歴史があります。
(1)エンゲルスの遺言
出発点としては、マルクスが1850年に書いた『フランスにおける階級闘争』の1895年版へのエンゲルスの序文ですね。これはエンゲルスの遺言とも言われるものです。内容としては、いわゆる永続革命論に対するエンゲルスの自己批判です。ここでエンゲルスは「一陣地から一陣地へ徐々に前進しなければならない」という有名な言葉を語っています(大月版マルクス、エンゲルス全集第22巻511頁)。
(2)レーニンと陣地戦への転換
それから、広い意味での「レーニン最後の闘い」(1918〜24年)ですね。24年というのはレーニンの没年ですが、1918年は「ブレスト・リトフスク講和」です。つまり、屈辱的な講和条件を受け入れ、ソヴィエト権力を守ることを選択しました。これは、「ロシア革命→ヨーロッパ革命→世界革命」という永続革命型の見通しから陣地戦に移行したものと見ることができる。トロツキーはこれに対して、先進国プロレタリアートと連携して屈辱講和は避けるべきだという立場でした。レーニンは一時期孤立しました。それから21年にはネップ(NEP=New Economic Plan)、新たな市場経済の導入に転換します。彼はそれを「強襲」から「幾多の後退を伴う長期の攻囲」への転換と特徴付けております(大月版レーニン全集第33巻82頁)。また、レーニンが積極的にコミットしたコミンテルン第3回大会も21年です。レーニンはここで一連のメッセージを出し、各国がそれぞれ固有の条件から出発するという、いわゆる統一戦線方式を提起する、「左翼小児病」批判を行なったわけです。
グラムシは実は、そうした一連の過程を、いわば機動戦の時代から陣地戦の時代への移行を記すものとして、自らの陣地戦論のベースに置いているのです。その意味では、これらの過程に関する革命史的および思想史的な勉強も重要だと思います。
(3)グラムシ『獄中ノート』での考察
さらに、グラムシの『獄中ノート』。グラムシはヨーロッパ革命の敗北以後、逮捕され投獄されるわけですが、『獄中ノート』というのはこの敗北の総括なんですね。敗北の総括として陣地戦論を出してきた。
(4)中国革命における陣地戦
また、中国革命の場合は、陣地戦的な部分と機動戦的な部分の組み合わせからなっているわけですから、グラムシの陣地戦に通じる部分もあるし、そうでない部分もあると思われる。私自身は、中国革命については白紙状態なので、今後研究の必要ありと思っています。
(5)ニューレフトと「制度の中の長征」
最後に、学生反乱の時期に出てきた「制度の中の長征」(ドゥチュケ)という発想。これも陣地戦的な構成を取っていたようです。これは大藪龍介さんなどが紹介しておられます(田畑稔ほか編著『アソシエーション革命へ』社会評論社、2003年、139頁)。
したがって、陣地戦論そのものの流れで言えばグラムシに限定されませんが、しかし、何といってもグラムシの陣地戦論は、ヘゲモニー、市民社会、受動革命、知的モラル的改革といった、今日なお有効な一連の基本概念と連接しており、その意味で集中的に検討する必要があると考えられます。
●陣地戦の意味
陣地戦は一般に、機動戦と対になって用いられます。機動戦とは、動きながら突破を重ねて行くという戦い方です。ドイツ語の表現を直訳すれば「運動戦」となります。それに対して、陣地戦とは、ポジション、定位置で相手と向かい合いながらの戦いです。もちろん戦争では、この両者は不可分です。ある局面では陣地戦になり、次の局面では機動戦に転換する、そうしたサイクル型(循環型)の展開になります。大まかに言って、過去に遡れば遡るほど、戦闘過程を主導するのは機動戦でしたが、近代になるにつれて、主導性は陣地戦に移り、機動戦はむしろ副次的戦術的なものになりました。
グラムシの場合、国家をめぐる政治闘争のアナロジーとして、こうした軍事的な表現を使っているわけですが、そこでもやはり、近代の国家構造が成熟するに連れて、陣地戦が主たるものになって行くと捉えています。したがって、グラムシは陣地戦というものを、単なる交替局面の一つとしてでなく構造的な意味で使っています。もちろん周辺部では機動戦が有効性を持つ場合もありますが、中心部に位置する近代国家では、陣地戦が構造的に提起される。そうして、機動戦はますます戦術的な意味しか持たなくなる。これが決定的となる画期が1917年のロシア革命です。ロシア革命は機動戦として戦われ、勝利したにもかかわらず、レーニンは機動戦から陣地戦へと転換していく。その際、レーニンが日和見主義になったとか、現実主義者になってしまったと批判された。しかし、何とか説得して、最晩年ですが、陣地戦へ移行を主導していく。グラムシはさらにそれを普遍化し、ヨーロッパを中心とした、成熟した近代国家における革命の戦略として、構造的に陣地戦というものを抽出するという流れになります。
(6)能動革命=機動戦と受動革命=陣地戦
ここで、以下のようなグラムシの図式を確認しておきます。
能動革命 機動戦 フランス革命
受動革命 長期の陣地戦 自由主義
能動革命 機動戦 ロシア革命
受動革命 陣地戦 ファシズム
1789年にフランス革命が起きる。これは機動戦で戦われたわけですね。その後、ジャコバン独裁、ナポレオン戦争による革命の輸出という経過をたどる。この大激動に対して周辺国はどうしたか。グラムシはここで「受動革命」という概念を提起します。つまり、権力を握る側、王制派が先手を打って、上からフランス革命の断片的要素を受容し、総体としては換骨奪胎したわけです。それによって権力を温存する。これが「受動革命」です。
機動戦型の大爆発がボンと起きると、周辺部に受動革命が生じる。これで基本的には近代の自由主義国家、或いは産業資本主義といったものができあがってくる。グラムシはこれを長期の陣地戦と見ているのです。
ところが、1917年にロシア革命が起きます。これは世界戦争の副産物とも言えますが、しかし、権力を握って、コミンテルンも編成され、ナポレオン革命とは違う形の世界革命へ展開していくわけですね。ロシア革命もまさに機動戦として戦われましたが、この機動戦は再び受動革命でもってブロックされるという経過をたどる。例えば、ロシア革命の翌年、1918年にはヨーロッパ全土にロシア革命の影響力が広がっていくけれども、結果としては軒並み負けてしまいます。
先ほど触れたように、グラムシはこの敗北の総括として『獄中ノート』でさまざまな考察を行ないます。その際、フランス革命(機動戦)→自由主義(陣地戦)という転換過程を踏まえて、ロシア革命の後、再び長期の陣地戦になるのではないか、フランス革命後の自由主義に相当するものとしてロシア革命後にはファシズムが陣地戦になると見ている。
ファシズムというのは、アメリカ型の新しい産業資本主義、そしてロシア革命に対応する、イタリアにおける受動革命と捉えることができる。権力を握った人たちが上から私的な武装勢力を利用し、コーポラティズムつまり職能団体的な規制を行いながら、中間的な経済編成を実行する。これを一種の受動革命として位置付け、ファシズムも一種の陣地戦ではないかという見方を、グラムシはしています。
もっとも、グラムシ自身は獄中に囚われ、また1937年には死んでしまうため、ファシズムをめぐる長期の趨勢を目の当たりにしたわけではありません。その後の歴史経過を知る我々からすれば、ファシズムは危機局面を表現しており、むしろケインズ主義、成長経済、再分配などからなる「福祉国家」というものが受動革命の実質になるのではないかと思われますが、ともあれ以上のような、機動戦と陣地戦の交代という大きな過程が存在し、それが能動革命と受動革命の交代と連動している――。こういう図式を下敷きにして、グラムシのテキストを見ていく必要があると思います。
●「アソシエーション革命の歴史的諸条件
ところで、では、我々はなぜ陣地戦に注目するかと言えば、私の理解では次のようになります。
私の認識では、現在、社会変革を語り得る出発点として、さまざまな「アソシエーションの波」という現実があり、現実そのものが社会変革の萌芽を孕んでいると考えられます。
たとえば、現在、新自由主義的な国家リストラ策が隆盛ですね。これはある意味で、ヨーロッパ流社会民主主義の限界が露呈し、端的には国家財政が破綻していくという中で、市場原理の活力で回復せよ、という主張です。これに対して、市場原理に対抗する一つの路線として、非営利や協同原理の拡大、いわゆるアソシエーティブ・デモクラシーの構想があります。現在の日本も含めて、実際には必ずしも新自由主義で市場原理ばかりで進んでいるとは言えません。アソシエーション型の組織が成長していく必然性も存在しています。
また、フォーディズム以降の事態を見てみても、かなり両極化が進んでいる。強い競争力を持った資本の国際的な再編成が進むと同時に、他方で地域密着型のフェイス・ツー・フェイスのサービスを提供する部門に対するニーズが非常に多くなってきている。その領域では、必ずしも資本主義的な事業が有利とは言えず、協同労働の部分が健闘している面がかなりあると思います。それに関連して、「コミュニティー・ビジネス」という、地域の人々が地域で食べていけるような職種をつくるビジネスに対する関心も高まっています。地方の場合はとくに、市場原理だけを基準にしてしまえば、打開の道が閉ざされている。従って、新しい第3の経済といったものが模索されざるをえないわけです。
さらに、経営権力について言うと、ステーク・ホルダー・ビジネス倫理というような形で、経営権力の周りに利害当事者(従業員、消費者、地域住民、未来世代など)がアソシエーションをつくり、説明責任とかディスクロージャー(公開)、交渉などを求めていく。いわゆるコミュニケーション型の権力コントロールですね。株式に基づく「一票」ではなく「交渉」。こういうものを通した権力コントロールという方向が、一方で出てきております。
こうした流れは経済の側面だけではありません。たとえば外交領域、国境を越えた領域で言えば、従来は中央政府の外交部門が独占してきたわけですが、この間は必ずしもそうでなくなってきている。NGOという、いわば世界市民的な団体がそれぞれ知的ストックを持ち、資金も調達していくつかの実績をあげ始めている。実際、国連などでも、そうしたNGOを無視しては事態は進展しないという状況が形成されている。
あるいは、日常生活世界の領域。今日、生活世界の空洞化には、かなり深刻なものがありますが、家族の再建とか父性の復権という伝統的なアプローチでは如何ともしがたい状況になっている。伝統的な組織の枠組みを超えて、セルフヘルプグループや子育てネットといった生活アソシエーションを突出させなければ、展望が語れない。そういう現実が生じている。
さらに、社会主義の領域でも、国家集権型の社会主義が歴史的限界を露呈し、破綻をきたした反省から、下から連帯を構築し直していく、そのための模索が問われています。日本の社会主義を政治的に代表している社民党とか共産党は、社会運動のレベルでの再生産が行き詰まってしまい、そのため議会で何とかしようという形になってしまっているわけですが、社会主義はもともと社会運動として出発したという原点に戻って、社会運動から再構築してかない限り、再生はあり得ないのではないかという気がします。
以上、いくつか論点を出しましたが、もちろん、これ自体が変革の動きだと言うのではなく、あくまで変革の構想が語られうるベースがあるということの確認であり、そのための一つの事実として挙げているわけです。いずれにせよ、変革運動の状況が厳しいからと言って社会変革の必要性がなくなるわけではありません。むしろ、何らかの社会変革を語り得る条件は、常に認めることができると思います。(つづく)