『地域・アソシエーション』 第9号(2004年9月1日)

地域作りというのは加算・良いとこ集めだと思う

講演「“レインボープラン”に見る地域作り」(菅野芳秀さん)(2)

◆「田舎は堂々たる田舎になるべき」

 大雑把に、どういう経過で「レインボープラン」が発案され、組み立てられ、そして完成していったのかということを述べたいと思います。
 まず1989年頃だったと思います。当時、コンサルタントに町作りの基本計画を依頼するのが流行ったんです。田舎の役場はみんな都会にお願いをして作ってもらうという、アホみたいな町作りが進んでいました。でも、私たちの市長は、自民党の市長でしたが、市民に自分たちの住みたくなる町を自由に構想してもらい、町作りの基本計画を作っていきたいと思ったんです。それで、広報で老若男女100名を募集したら97名が集まって、部会に分かれて2年ぐらい討論したんです。それで、町作り部会会議で提案書ができたんです。今でも時々見るんですけど、100人100通りの意見があって、その中から何か生まれるという雰囲気は全然なかったですね。
 で、これじゃしょうがないと市長も思われたんでしょうが、主要な意見を述べた者を15人集め直して、いい町デザイン研究所というのを作ったんです。そこに画期的なことですが私が―「過激派」の男だったんで呼ばれる男じゃなかったんですが―呼ばれて、それで「レインボープラン」につながって行く話を一生懸命したんです。それがみんなの提言書となって、市長に提出された。
 ところが市長は途中で選挙があって落ちちゃって、新しい市長だったんですね。その新しい市長が、「俺は関係ねーぞ、そんなもの」と断わられちゃったんですね。それで町作りデザイン研究所は解散となって、提案書はロッカーに入れられてほこりをかぶることになっちゃった。それで終わりというふうに、普通だったらなるというとこだったんですけど、それをならしちゃならねえっていうことで、市長に掛け合ってみたんですが。ちょっと取り付く島がなかったということになって、そこから始まったんです。多くの市民にズーッと呼びかけて行った。
 まず女性団体に呼びかけたんです。「レインボープラン」につながる趣旨を書いて、1年間この町でこのプロジェクトが可能かどうを検討してください、台所の知恵を町作りに是非活かしていただきたいということで、一生懸命訴えたりした。それで、婦人団体の三つの団体が参加してくれて、そこから商工会議所に行き、商工会議所の会頭に、今でも覚えてますが、「田舎は都会の植民地、パーツになろうとしている。でも田舎は田舎で全体であって、ここで暮らし、ここで命がついえる人にとっても、良いところでわしの人生は終わったと言える町を作って行こうじゃないか。それには農業と町を肯定的につなぐことだ。田舎は堂々たる田舎になることだ」という話をしました。それに凄く好感を寄せていただいて、副会頭、事務局長、婦人部長、青年部長を、スタッフとして送り込んでくれることになった。
 それから病院の内科部長に話を持って行き、その参加を得て、町を構成するキーパーソンにズーッとお集まりいただくことになった。そしてその上で、今度は市民、主婦、農家、農民レベルでのキーパーソンに声をかけ、多くの方々の参加を得た。32000人の町ですから、そんなにいっぱいキーパーソンがいるわけじゃないんですが、大概のキーパーソンが、1年間本気になってこれをやる、と言ってくれた。
 で、その趣旨と、やることになった方々の名前を持って、もう一度市長に掛け合った。市長は、プランとそれを実現できるかどうか検討する方々の名前を見て「これは断われないな」っておっしゃいました。市長の名誉のために言っとけば、市長は有機農業の展開と環境を守ることを公約に掲げていたんで、受け皿としては十分市長側にあったのだろうと思います。
 で、私たちは市長に50万の予算と農林課長、生活環境課長、それから係長を委員として出してほしい、ということを要請しました。で、事務局は市民がやる、行政はあくまでも一つのセクションの委員として来てくれればいいと。ということでお願いをして、分かったというふうに言っていただいた。それで農協に行き、農協からの参加を受けることとなり、町を構成する主要な団体、市井のキーパーソン、行政のネットワークができた。
 それで「レインボープラン調査委員会」を立ち上げて、私が委員長になって1年間やって、是非やるべきだという答申を得て、その都市の1991年11月に「レインボープラン推進委員会」というのができて、今度は行政の中にきちんとした「レインボープラン係」を作り、そこで行政を中心に検討を約5年間重ねて、1997年に堆肥センターが完成する。そういう歩みを辿っていったわけです。

◆市民の中の変革への熱に驚き

 その中でいくつかの教訓を得ることができました。今思うと、やっぱり涙腺が緩むような話が随分多かったように思います。苦労と言えば、先行きが見えない不安っていうのはむちゃくちゃありました。初めてなわけです。そういう循環っていうのは。いつも思い浮かべるのは…
 「お父ちゃん、あれ何?」
 「あれはな、堆肥センターって言って,昔あれを使って生ゴミを堆肥化しようとしたらしいよ。でもできた堆肥を農家が見たら、使えない。それに農家はもう平均年齢60を超えて、堆肥なんか扱えない。生ゴミの山はなくなったけど、堆肥の山ができて、それで破綻したんだよ。口車に乗ってホイホイと動くもんじゃないっていう教訓として残してあるんだよ。ほらほら、あそこを通るあの子のじいちゃんが市民を騙した男だよ」
 定住者の社会、お墓のある先祖代々の社会ですから、私たちの社会は。ズーッと言われ続ける。俺の失敗はまあ良いとしても、子々孫々までその失敗のつけを負わされるということは、俺には偲びがたいから、夜逃げしなきゃなんないかなぁということをふっと思ったりするほどの緊張状態が続きました。破綻するかもしれないという緊張は今も続いています。本当は。
 でも、一旦でき上がったという観点から見ると、いくつかの教訓があった。まず一つは、市民の中に社会とか暮らしを変えたいという熱がこれほどあるのかということに驚かされたということです。俺は三里塚の被告でパトカーが止まる家だというのは、みんな知ってるんです。それでも、自民党から共産党まで、俺をドンドンドンドン引っ張ってくれて、押し上げてくれた。押してくれたんです。それは何故かというと、私たちは地域を変える具体的な取り組みやすいプランを持って働きかけていったからだと思ってるんです。
 それまではどうだったのかというと、それまでの地域政治家というのは、地域政策というものをそもそも自分たちで立案できるなんて、思ってもみなかったんです。政策などというのは、国とか県とかが出してくれるもんで、それを下請け的にやってりゃ良いみたいな感覚でした。農業政策だって、近代化資金の貸付事業とか、減田の割り当て事業、補助金確保とか。長井の自然環境に見合う新しい農業の振興をどう組み立て、どう進めていくのかということを、農家と膝を突き合わせて、それを政策にして系統的に努力を積み重ねていくなんて政治家は、誰もいなかったです。
 だから、市民が環境を変えたい、暮らしを変えたい、もっと未来を犠牲にしないで暮らしたいという気持ちは持っていても、苛々するばかり。何にも変わらない。それでおそらくかなりの高みになった、変えたいという要求が。そこへ僕たちが、このようにしたらどうだろうかっていう形で一生懸命訴えた。それがダーッと広がり、町を構成する主要なリーダーたちまでが寄って来てくれた。地域が動き、地域が変わって今日に至るというのは、市民の中の変革を求めるエネルギーの存在抜きに、俺はやっぱり語れないと思いますね。

◆希望作りは加算がエネルギーに

 もう一つは、地域作りっていうのは良いとこ集めだっていうことなんだと思います。38色のクレパスがあって。あれ、38色だから面白い絵が描けるんですよね。緑ばっかりのクレパスだったら、絵なんて描けないです。今までは、38色あるのに全部緑にしようという運動ばかりやってきたという気がします。そうすると、反緑ができちゃう、どうしてもね。緑と反緑で格闘して、地域社会が疲弊して、もう嫌になる。そういうことを繰り返してきたという気がします。様々な生き方を、様々な宗派を、様々な政治思想を、様々な価値観を持った人たちが、お互いを尊敬し合って、認め合って仲良く生きていけるという、そういう社会。つまり、38色のクレパスを全体として高めていくことが循環型社会だということでしょ? そしたら従来型の運動を、発想を変えなきゃならないと思うんです。
 地域を変えるには新しい運動展開が求められるということは、早くに気付いていたんです。それはどういうことで可能なのかっていうことを、いつも考えてはいたんだけれども。それへの歩みというのは、僕はパトカーが止まる家から出発したから、そうならざるを得なかったというラッキーさはあると思うんですが、良いとこ集めなんですね。良いとこ集めっていうのが、あなたにはこういう長所がある、この団体にはこういうことができる、このグループはこういう素晴らしさを持っている、という。嫌なところはやっぱりありますよ。行政にも、農協にも、婦人団体にも嫌なこといっぱいあるけど、その良いところを見てつないでいくっていうことなんですね。そういうことが地域作りのど真ん中にないと、地域ってのは変わらないですね。仲間が拡大していかない。
 肯定されれていくと、みんながプラスアルファの力を発揮して「こうしたらどうだろうか」とか「これは俺、できるぞ」ということが加算されてくるんです。希望作りというのは加算がエネルギーとなってくるんですよね。否定じゃなくて肯定。それが地域を変えて行く原動力になって行くんですよ。それが私たちの中に、どのように育むことができるか。それが地域を変えることができるかどうかの分岐点なんだろうな、というふうに思います。
 小さい町だから可能だなんて、絶対思わないでね。小さい町には小さい町なりの難しさってあるよ。例えば、5年3組のクラスの中で、学級委員長になるために努力をするっていうのは、かなり難しいですよ。小さいなりに、その子の欠点も全部知ってるから。大きいとこには大きいとこなりの難しさも、もちろんありますけど、また一方で変えやすさもあるんですよ。そういう意味では、本当に小さいから変えられたんだな、というふうに思わないでいただきたいと思います。

◆地域を変えるプラスの連鎖は女性から

 教訓の三つ目は、女性でしたね。ドミノ倒しってありますよね。パタパタ倒れていくやつ。地域社会っていうのは定住者の社会ですから、もし先に農協へ行ったら、農協は断わったと思う。その断わった話はすぐ行政にいく、きっと。次に行政に行くと、行政は「農協が断わったのにできるわけねえじゃねいか」って。行政なんて本当に腰が重いからね。行政と農協が断わったのに、私たちはできないよっていうふうに他の団体もなって行って、最終的にできないで終わるんです。
 で、ドミノ倒し。どこか1箇所、一番感受性が豊かで、一番先に飛びついてくるのは、力を貸そうと言ってくれるのはどこなのか、を見極めるのが大事ですね。それはやっぱり女性だった。男じゃなかった。男は今でも思うけどね、どうしても産業効率とかね、金が儲かるとかね、どうしてもそっちの方に行っちゃってですよ、命とか環境みたいなことを、それ自体として考えることがなかなか難しいですね。女性はそちらの方は非常に軽やかで、フットワークが軽く、その意見にスーッと同調してくれました。だから俺、プラスの連鎖って言ってるんですけど、地域を変えるプラスの連鎖は女性たちからだろう、というふうに思いました。(つづく)