THE END OF “Lady And Sky”
by三只さん




















時に、西暦2022年は3月も半ばを過ぎた頃。
ここ第三新東京駅で、三人の男女が久方ぶりに顔を合わせていた。

「よっ、トウジ、委員長、久しぶり!」

そういって片手を上げたのは相田ケンスケ。

「もうッ! 委員長は止めて、相田くん…」

洞木ヒカリは照れ臭そうに苦言を呈し、

「おう、ケンスケも元気そうでなによりや」

鈴原トウジは朗らかに応じた。

「しっかし、トウジ、その格好は…」

「ん? なんか変か?」

ケンスケの指摘に、自分の姿を見下ろすトウジがいる。
今の彼は、パリッとして隙のないスーツ姿であった。

「いや、普通なところが逆に変というか…」

万年ジャージ姿の友人を見慣れ過ぎたケンスケとしては、そう苦笑するしかない。

「ワシも就職するんやさかい、ばちっとフォーマルな格好をせんとな」

破顔するトウジから、ケンスケは彼の隣のヒカリへと視線を転じる。

「やっぱり、嫁さんを持つと身嗜みから変わるもんかね?」

「ちょ…ッ!!」

一瞬で顔を真っ赤にしたヒカリは、すぐさまケンスケではなくトウジへ睨みつける。

「なんで相田くんが知っているの!? それはまだ内緒の話でしょ!?」

「い、いや、同棲しているのは教えたけど、まだ婚約したことはいうてへんって!」

「そんなのどっちも似たようなものじゃない!」

喧嘩というよりじゃれ始めるトウジとヒカリを、ケンスケは微笑ましいものでも見るように眺めた。
親友がヒカリと同棲するにあたり、彼女の両親に紋付き袴姿で許可を貰いに行った話は、ケンスケの人生に於いて屈指の爆笑エピソードである。

「全くもう…。婚約のことは今日のとっておきのサプライズだったのに…」

頬を染めたままブチブチいうヒカリ。
ぺこぺこと頭を下げ続けるトウジが不憫に思えたケンスケは、助け船を出すことにする。

「そういや綾波はまだか? 今日は来れるんだろ?」

「綾波さんだったら、飛行機の到着が遅れているんだって。空港から直接来るつもりだけど、とても間に合いそうにないから先に始めてって連絡が来たわ」

高校を卒業後、綾波レイは日本を出奔し世界中を巡っているらしい。
間もなくメンバーのほどんどが大学を卒業する。
社会人になる直前の最後のモラトリアム期間の今日、ごく狭い範囲での同窓会の開催は、彼女の帰国予定に合わせたものでもあった。

「ってなると、あとは惣流とシンジの二人か…」

トウジが呟く。
高校卒業と同時に、北の大地、北海道へと旅立った二人。
シンジ自身の調理師専門学校への進学という目標は、誰の目にも納得が行くものがあった。
しかし、あのアスカの進学先が農業大学ということに関しては、彼女を知るものは一様に首を捻らざるを得ない。
更により深くアスカのことを知る友人たちにとって、きっとシンジに付いていくための方便だろうと目されていた。そしてその予想は120%正しい。

「にしてもや。なんでシンジは戻ってこんかったんやろ?」

シンジの通う専門学校は三年制のはずである。
卒業したら第三新東京市に戻ってくると公言していたはずの彼であるが、四年目を迎えるというのに帰ってくる素振りも見せない。

「きっとアスカに付き合っているからじゃないかしら?」

ヒカリはそう予想しているが、本来のアスカは既にドイツの大学を卒業済みだ。
シンジに付いていくためだけの農業大学への進学であるならば、シンジが第三新東京市へ戻りたいと希望すれば、何のためらいもなく今の大学を辞めるだろう。

「とはいうものの、惣流のやつを大学が離してくれないんじゃないか?」

そう言ってケンスケが披露したのは、二年以上前の北海道のローカル新聞で読んだ情報。
ある農業大学の共同研究で、遺伝子改良をした新種の果物の開発に成功したとか。
未だ実験段階にあって詳細の発表を差し控えるとのインタビュー記事。その末尾に記載されたプロジェクト参加者の一覧の中に、アスカの名前があったという。
特徴的な彼女のフルネームは、まず見間違えることはない。

「へえ…そうだったんだ…」

感心するような声で応じるヒカリ。

「なんや、おまえが一番ぎょうさん惣流と顔を合わせていたんやろ? 知らなかったんかい?」

「そう言われても、ここ一年はアスカは帰ってきていないのよ?」

ヒカリの言明する通り、北海道へ居を移したアスカであったが、頻繁に第三新東京市へと戻ってきている。
秘密裡に行われるエヴァンゲリオンの起動実験などに関係することであって、ネルフと日本政府の便宜により、空の直通便が出されて日帰り出来るらしい。
なので実験などが早めに済むと、よく一緒に買い物をしたり美味しいものを食べておしゃべりしたものだ。

しかし、移住して二年目になる頃には、その頻度は減ったような気がする。
しかも連絡もなしに戻ってきてはそそくさと帰ってしまい、ほとんど顔を合わせる機会がなかったとか。
おまけにこちらからメールやメッセージアプリで連絡を入れても、返信が滞るか遅れるのがほとんどだったという。

三年目にしてようやく連絡が再開し、顔を合わせる時間が出来た。だが、やはりその回数はあからさまに減っている。
しかもその時のアスカがとても悲しそうで、同時にひどく疲れていたように思う。
疲労を隠すように化粧も濃く、おしゃべりの間も頻繁にスマホの画面を気にしていたのが印象に残っている。

「去年だって、せっかく会えても、いきなり『用事が出来たわ』ってすぐ帰っちゃたりすることが大半だったんだけどね…」

「なんやそれ、初耳なんやけど」

「当然じゃない。今日、初めて喋ったんだから」

ぐうの音もない正論に唇を噛むトウジだったが、ケンスケへ下目使いの視線を送っていた。

「なあ、ケンスケ、これってやっぱ…」

「ああ、俺も同じこと考えてるよ…」

男同士で青い顔を見合わせている。

「なによ、どうしたのよ、二人とも?」

ヒカリに詰め寄られ、トウジは不承不承口を開く。

「ひょっとして惣流のやつ、浮気してたんとちゃうか…?」

「ア、アスカに限ってそんなこと…!!」

ヒカリが悲鳴じみた高い声を出した。
だが、すぐにその声は尻つぼみになっていく。
声を張り上げたのは彼女なりに親友を弁護したい意思の表れ。
しかし、改めてトウジの指摘を踏まえてみれば、状況的に否定できないことばかり。

―――急に浮かべるようになった悲しそうな表情。
―――露骨に思えるほど目に見える疲労感。
―――濃い化粧に、頻繁にスマホを気にする様子。

これって、浮気中、それか浮気がバレて彼と喧嘩中の女性という見解が当て嵌まるんじゃ…?

一気に青ざめるヒカリに対し、トウジは決して彼女から聞いた情報だけで推理を組み立てたわけではない。彼自身にも思い当たる節があった。
高校卒業後もシンジと連絡を取り合っていたのはケンスケも一緒である。
しかし、結構マメマメしく連絡してくるはずのシンジから、一時期連絡が途切れたことがあった。
それは奇しくもヒカリが証言した、ちょうど移住してから二年も過ぎたあたりで―――。

「いや、ワシだって惣流のことは信じたいわ。蓼食う虫も好き好きっつーか、シンジにベタぼれだったからのう」

しみじみそう漏らしたトウジの声音には実感が籠っている。
彼らが第三新東京高校で最高のバカップルに認定されていたことを知らない在校生はいなかった。当人たちを除いて。

「…むしろ、シンジの方が誘惑されてひと悶着あったんじゃないか?」

ケンスケの発言も、なるほどと思わせる説得力がある。
地元である第三新東京市内においては、アスカはまるで漫画のように放射状の見えない察知能力というか威嚇能力(本人曰く乙女の第六感)を発揮。
綾波レイを除外して、シンジへ近づこうとする女子の影は皆無であった。

しかし、全く知らない土地へと移ればその能力も発揮しづらくなるのは必然。
結果としてシンジは向こうで知り合った女性といい関係になってしまう。
中学高校時代と同じクラスならいざ知らず、二人が通う新たな学び舎は別々の場所にある。さすがのアスカも目が行き届かないだろうから、大いに有りうる話だ。

「でででもッ! 今日、一緒に戻ってくるってことだから、縒りは戻したってことよね!?」

動揺も露わにするヒカリの肩を、ポンと叩くトウジがいる。

「まあ、それは今からはっきりするやろ。でもな、この場合、気づいても知らないフリをするのが友人としての優しさってヤツやで…?」

「…そ、そうね。うん、アナタの言う通りにするわ」」

そのまま見つめ合う友人カップルに、ご馳走様と心の中で両手を合わせ、ケンスケの内心は複雑である。
シンジはともかく、あの惣流が浮気するってんなら、どんな相手だよ?
かなり下世話な疑問になるが、かつて一度は惣流・アスカ・ラングレーという少女に憧れたケンスケである。
いや、転校してきたばかりの彼女に対し、同じ中学で憧れなかった男子はいなかったのではないか?
シンジと彼女の紐帯に目の当たりにして真っ先に身を引いた彼であったが、あの時の記憶は永遠の青春の1ページだ。
そんなケンスケが改札へ向かってくる乗客の群れからかつての憧れの少女を真っ先に見つけ出せたのは、思い出の補正効果のなせる業かも知れない。

「あ、惣流」

「ぬ!? ど、どこやどこどこ!?」

全力で目を皿にするトウジだったが、間もなく金髪の頭を発見。
遠目にも目立つその金髪の人物の方も、こちらの親友に気づいたらしい。

「あ、ヒッカリ~! 久しぶり~!」

片手に大きなキャリーバックを引きずり、もう片方にはいくつもの紙袋をぶら下げた惣流・アスカ・ラングレーだ。

「ひ、久しぶりね、元気だった?」

改札口を出てきたアスカを、ヒカリは表面上は明るく出迎えた。

「うん! どうにかね~。まあ、色々と忙しくて大変だったけれど!」

「それと、髪を伸ばしたんだ…?」

シンジに付いて行くに当たり、アスカはばっさりと自慢の髪を切っていた。
新天地へ赴くための生まれ変わりの儀式みたいなものよ! 文字通りのリフレッシュよ! とアスカは主張。
彼女のために、深夜でもやっている美容院を一緒に探したヒカリは、本当の事情を知っている。
生まれ変わるのは本当にしても、シンジに相応しい女になりたいの―――。

「あ、これはね。忙しくって美容院へ行く暇もないってゆーか」

以前と同じくらいまでに伸びた髪を梳きながら、あっけらかんと笑うアスカ。
そんな親友の変化に、ヒカリは判断に迷う。
髪を伸ばしたってことは、碇くんとの仲は修復されたということかしら?
それとも、もう心は碇くんを向いていないという現れ…?

「おお、惣流、久しぶりやのう! ところでシンジのやつはどないしたんや?」

トウジも挨拶。いきなり核心を突いたのは、彼なりに色々と我慢できなかったらしい。

「シンジだったらトイレよ。もうすぐ来るんじゃない?」

事も無げにそう言って、背後を振り返るアスカ。
間もなくシンジを見つけたらしく、声を張り上げ腕を大きく振り回している。

「あ、シンジ! こっちこっち」

キョロキョロと周囲を見回していた男性が、こちらに気づいて駆け寄ってくる。
それは見まごう事なき碇シンジその人だ。

しかし、彼の姿を認めるなり、鈴原トウジは目を丸くする。
洞木ヒカリも、相田ケンスケも同じく目を丸くしていた。

なぜなら、シンジの両腕には可愛らしい女の子が抱かれていたのだから。

「ア、アスカ、碇くん、その子はいったい…?」

ただひたすら呆気に取られていたヒカリが、ようやく声を絞り出す。
アスカはニッコリと答えた。

「え? あたしの娘だけど?」

「………っ」

顔を真っ赤にしてフリーズするヒカリを横に、トウジはシンジに対して質問。

「シンジ、おまえにとっても娘なんか?」

冷静に考えれば失礼極まりない質問なのだが、シンジは朗らかにスルー。

「うん、そうだよ。でも僕にはあんまり似てないかなあ?」

「い、いやいやいや! 黒目と黒髪なんかそっくりだぜ?」

友人の失言に、全力でフォローに動くケンスケだったが、本当に髪の色と目はシンジに似ているように思う。

「金髪碧眼なんて劣勢遺伝子だから、仕方ないわよね」

笑いながらアスカは娘の前髪を指先で弄っている。

「僕的にはもっとアスカに似て貰えれば嬉しいんだけどね。将来は絶対美人さんになるだろうし」

「~~ッ! もう、人前で何言ってんのよ、アンタは!」

パンパンとシンジの肩を叩くアスカの様子に、『浮気』とかいった後ろ暗い印象は微塵も感じられなかった。
それでもなお旧友たちの動きが三世代前のPCのように重いのは、一度に与えられた情報とそれに伴う疑問があまりにも多すぎるからだ。
そんな中で、どうにかヒカリが声を絞り出したのは流石としか言いようがない。

「た、立ち話もなんだから、場所を変えてゆっくりお話ししましょ…?」










駅前の居酒屋チェーン店が本日の同窓会の会場だった。
完全個室を確保してくれたケンスケに、心よりGJのサムズアップを送りつつ、トウジはヒカリと並んで腰を落ち着ける。
対面にはアスカとシンジ。二人の娘は、シンジの腕の中で指をくわえながらきょとんとした表情を浮かべていた。
荷物を駅のコインロッカーへと放り込んですっかり身軽になったアスカは、さっそくコートを脱いでいる。

「やっぱこっちの方は暖かいわね」

「北海道はまだ寒いのかしら?」

「もちろん。五月末、下手すれば梅雨が過ぎるまでストーブを使わなきゃならないくらいよ?」

屈託なく応じるアスカの横で、シンジは娘をあやしている。

「ところで、その子は幾つなんだ?」

適当に注文を終えたケンスケが口火を切った。

「このあいだ、二歳の誕生日を迎えたばかりね」

それ聞いたトウジは指を折り折り数えながら、

「…するってーと、おまえらハタチ前に子供を仕込んだんかい!?」

「逆算するなッ!」

トウジの顔面におしぼりを全力で命中させてアスカは吠える。その顔は真っ赤だ。
彼女が恥じらうのは当然としても、トウジらにも事情がある。
目前の第三新東京高校のバカップルを待つ間に、三人で浮気だなんだと勘ぐって騒いでしまったのは全然記憶に鮮やかだ。
その際に根拠にしていた彼らとの音信不通の期間は、アスカの妊娠出産の時期とピタリと符号しているのではないか?

「…以前、アスカがやたら濃い化粧をしていたのも、スマホを気にしていたのも、その子が原因ってことね?」

「あ、ははは。いやー、あの頃はお肌もボロボロで育児育児の毎日で余裕もなくってさー」

「だからって…! もうッ! そうじゃないわよ!」

ダンッ! とテーブルを叩いてアスカに詰めよるヒカリ。

「そもそもなんで子供を産んだことを教えてくれなかったのよ!?」

「あー、それはねー…」

「私たちは友達でしょ!? 親友でしょ!?」

「………ごめん、ヒカリ」

珍しく素直にアスカは謝った。
こと出産は人生における一大事。
そのことをわざと伏せていたことに、親友が怒りを爆発させたのは当然と受け止めている様子。

「ごめん、洞木さん。トウジもケンスケもごめん。それでも、このことは、アスカと僕が話し合って決めたことなんだ」

娘を抱えた腕を小刻みに揺らしながらシンジも謝ってくる。

「誰も知らない土地で心機一転したでしょ? だから、誰にも頼らないでやってみようって、アスカが…」

その台詞に、トウジたちは驚くより呆気に取られてしまう。
先ほど指摘した通り、子供が産まれた当時の二人は、まだ未成年。
そんな若い身空で、学校に通いながらの育児、出産はどれほどの苦労が伴うのものか。

「でもさ、きっとアダムとイヴだって二人だけで子供を育てたわけだし?」

「なんか話を壮大にしているけど、そういうレベルのことじゃないだろ!?」

平然と言うアスカに、ケンスケのツッコミも中々に鋭い。

「あはは、さすがにちょーっとミサトたちには手伝って貰ったけどね…」

そう言葉を濁す親友に、ヒカリは再確認。

「でもやっぱり、大変だったんでしょ?」

「そりゃそうよ。生まれてしばらくは何かにつけて泣くし! のべつ暇なくおっぱいを要求されるし!」

「お、おっぱ…」

「おかげで夜はほとんど眠れなくて、睡眠不足でお肌は荒れるわ、情緒不安定にもなるわ…」

「だからあんなに悲しそうな顔してたのね?」

何かを納得した表情でヒカリが頷いていると、ちょうど部屋の扉が開き、注文した飲み物のジョッキと突き出しが届いた。

「しっかし、それでもここまで育てたんやから、二人とも大したもんやないか」

シンジの前に生ビールの入ったジョッキを配りながら、トウジが賞賛。

「どや? 後学のために、ちくっと子育てってヤツの仕方を教えてくれんか?」

「…子育の仕方って言われても」

苦笑するシンジに、アスカも準じる。

「あたしたちは自分の信念に沿って子育てをしたつもりよ。確かに大変だったけれど、それでも意外と勝手に育つものよ、子供ってのは」

「ちなみに、二人の信念って?」

こちらもグレープフルーツチューハイのジョッキを受け取ってヒカリは質問を重ねてきた。
アスカは少し照れ臭そうに頬に人差し指を押し当てる。

「そんな難しいことじゃないわ。あたしたちが子供の時に嫌だと思ったことは、絶対に自分たちの子供へはしないってだけ」

「へ~…」

それはなかなかに含蓄に富んだ言葉に思えた。その成果というわけではないが、シンジの腕の中で大人しくしている娘の姿が何よりの証拠に見える。

「ま、まあ、その話はまた後でじっくりするとして、取り合えず乾杯しようぜ?」

全員に注文した飲み物が行き渡り、ケンスケの提案に反対するものはいなかった。

「それじゃ、再会を祝して、かんぱーい!」

誰が決めたわけでもないのに、ごく自然なアスカの音頭で、空中で幾つものグラスが打ち鳴らされていく。





















『お邪魔するわ』
『寂しかったし?』
『せっかくだから』
『お腹空いた』
『あたしの勝手でしょ』
『なんとなくよ、なんとなく』
『明日は休みなんだからさ』
『今日はそんな気分なの』
『あんたが誘ってくれないから』
『仕方ないでしょ』
『知り合いなんてあたしとアンタしかいないんだから』
『…心配だったから?』
『遊びに来たのよ、遊びに!』
『今日、一緒に歩いていた女の人、誰?』
『あたしだって…』
『寒い寒い!』
『暑い暑いー!』
『ケーキ買ってきたわよー』
『お醤油切らしちゃってさー』
『…大丈夫?』
『おっめでとー』
『ふん、迷惑っていいたいワケ?』
『分かってるわよ! 皆までいうな!』
『うん、そんなの知っているから』
『たっだいま~』
『おっかえり~』
『黙って』
『そのままでいいから』
『泣いてなんかないわよッ!』
『お風呂が壊れたー!』
『エアコンが壊れたー!』
『灯油が切れたー!』
『で、出たのよ、Gがッ!』
『べ、別に心霊番組を見たからじゃないからねッ!』

以上、アスカがシンジの部屋を訪れる為に使用した言葉の、ほんの34例である。

シンジの進学先の近くにキャンバスを持つ農業大にアスカが潜り込めたのは、偶然が左右する部分が多い。
だけに住居に関しては、アスカは一切妥協しなかった。
駅から徒歩10分の築15年のワンルームマンション。
シンジの住む部屋の隣に自分の部屋を借りることに一切の遠慮もためらいもない。
なので、端的に言えば、二人の居住生活に関しては、第三新東京市でミサトのマンションで暮らしていた時と大差はなかった。
むしろあの頃より頻繁にアスカはシンジの元を訪れている。

…それでも、アレは不味ったわねえ。

のちになってアスカはしみじみと述懐する。

第三新東京市を発つ前に、二人はお互いの気持ちを確認し合っている。加えて、その日の夜に結ばれていた。
なので、ミサトという保護者の元を離れ、見知らぬ土地で暮らし始めた二人の逢瀬は、往々にして深くなりがち。
誰からも邪魔されることもない、正真正銘の恋人同士だ。その帰結として、当然のように肌を重ねる甘い日々。
それでも学生の身であるから細心の注意を払うことは忘れていなかった。
忘れていなかったのだが。

あれは、ほぼ三年近く前の記念すべき夜。

既にドイツの大学を修了しているアスカにとっても、農大の遺伝子工学という分野は文字通りの畑違いだ。
だが、生来の悪運というか勘の良さもあり、たまさか試してみたメソッドと実験がものの見事に図にハマり、予想以上の成果を達成。
これには指導していた助教授らも目を剥いて、農大のお偉いさんから直々に褒められ、その成果をローカルとはいえ地元の新聞で賞賛される始末。
そんなお祝いムードで帰宅したアスカに、その日はシンジもフードアナリスト検定の合否判定の日で、無事合格。
互いに普段より高いテンションのまま盛り上がり、盛大に羽目を外した結果―――三か月後にコウノトリがやってきた。

『…シンジ、どうしよう?』

今日もエヴァの実験で第三新東京市へ日帰りで行ってきたアスカ。
その際のバイタルチェックで、妊娠していることが発覚。
ミサトとリツコに驚かれたのはもちろんだが、アスカ自身が激しく狼狽している。
北海道へ戻る道すがら、機上で煩う後悔は重く深い。
子供が出来たのは、まったく二人の責任。
それでもシンジに素直に告げるか否か迷う。

この時点で、アスカに授かった命を消し去るという選択肢は存在しない。
けれど、シンジが子供はいらなって言ったらどうしよう?
既に大学を出ている自分は休学すればそれで済む。しかしシンジはまだ専門学校の過程を終えていないのだ。


そんな不安を抱きつつ、半ば泣きべそを浮かべてシンジの部屋を訪ねたアスカだったが、その心配は春先の淡雪のように溶け去る。

子供が出来たとの報告に、さすがに驚いた風のシンジだったけれど、すぐにそっとアスカを抱きしめてくれた。
優しい笑みに覚悟を滲ませ、彼がささやくように言った台詞はたった一言。

『アスカ、これからもずっと僕の傍にいて―――』










「いやあ、あんときは本当に大泣きしちゃったわよ~」

経緯を説明し終え、ノンアルコールカクテルのジョッキ片手に上機嫌のアスカがいる。
そして相対する彼女の旧友三人は、揃って微妙な表情を浮かべていた。

「そ、そう。良かったわね」

熱に当てられたのか、顔を赤くしてヒカリ。

「…こないな話を聞かせられたとき、どんな顔をすればいいんや?」

カルピスの原液を一気飲みしたような表情でトウジ。

「笑えばいいと思うよ、ハハッ」

ビールを飲んだわけでもないのに、ゲップを堪えるような表情でケンスケ。

グビリと自分のジョッキを一口飲み、アスカはそんな三人を睥睨。相変わらず形の良い眉根を寄せて、口をへの字に曲げる。

「なによ、説明しろって言うから事の成り行きを話してあげたのに。反応薄い、薄くない?」

「誰が派手に惚気ろって言ったんや、アホ!」

「誰がアホですってぇ!? アホって言うほうがアホに決まってんじゃないのッ!」

お互いにハタチを過ぎて、まるで小学生レベルの言い合いである。
ましてや片方は一児の母なのだ。春から市立小学校の教員として働くことになったヒカリが「教育に悪いわ」と止めに入ったのは当然の流れ。

「ほら、アスカ、子供の前でそんな幼稚な喧嘩をしないで」

割って入ったヒカリであったが、そこでふと気づく。

「あれ? そういえば、子供の名前はなんて―――」

彼女の声に、ハッと顔を上げたトウジとケンスケの視線も、シンジの膝の上にちょこんと抱えられた幼子に集中する。
そんな三人が揃って浮かべた表情の名は唖然。
子連れで現れた二人のインパクトと驚きが先に来過ぎて、肝腎の子供の名前を尋ねていなかったではないか!

「ねえ、碇くん」

ヒカリが慌てて訊ねようとしたとき。
シンジの膝から、子供が床へと降り立つ。

「ん? どうしたんだい、マリ? 退屈しちゃったのかな?」

「…その子、マリちゃんっていうんだ?」

「うん、そうだよ」

シンジはにこやかに首肯。
ヒカリが何かしらのコメントを続けるより早く、肩に腕を回された。
酔っ払ったように上機嫌なままのアスカだった。

「そ。あたしたちの可愛い可愛い一人目の娘よ~」

「一人目ってことは、まだ作る予定があるんかいな?」

「そうね。あとは男の子が二人くらい欲しいかな? 一姫二太郎っていうしね♪」

「………」

ど真ん中の直球で返され、さすがのトウジも閉口した模様。
皮肉られたことなどつゆ知らず、アスカの機嫌は更にスロットルを開けていく。

「本当はマリアが良かったんだけどね。惣流・マリアってね、カッコいいでしょ? でも、碇マリアだとちょっと間延びしちゃうから、碇マリちゃんってワケ。韻も踏んでるしね」

「誰もそこまで訊いてないっての…」

「なんかいった?」

「イイエ、ナンニモ」

ケンスケをひと睨みで沈黙させておいて、アスカはなお親友へと絡みまくる。

「ね? いい名前でしょ? ヒカリもそう思うでしょ?」

「え、ええ。本当、いい名前だと思うわ」

どうにか気を取り直して嘘偽りのない賛辞を口にするヒカリは、誓って善性の人である。
対して、そんな彼女にしなだれかかるアスカの顔に浮かんだ笑みは、どう見ても悪魔、下手をすれば大魔王の親戚にも似ていた。

「ところでぇ…」

アスカはチェシャ猫のように口元を歪めて、

「ヒカリは、いつ鈴原と結婚するわけ?」

「な…ッ!」

顔面を瞬間沸騰させるヒカリに、口に含んでいたビールを毒霧よろしく噴き出すトウジ。
たちまち涙目になってキッ! と睨んでくるヒカリに、トウジは思い切り狼狽する。

「い、いや、誓って惣流にもシンジにも教えてへんって!」

アスカたちの娘の登場という衝撃に一時的に忘れかけていたが、自分たちの婚約発表は今日の最大のサプライズのつもり。

「ふふーん、そんなの見てりゃバレバレよ。駅からずっと二人でべったりだわ、部屋の席にはすごく当たり前に並んで座っているしぃ?」

悪戯っぽい表情でこちらを見てくるアスカに、ヒカリは羞恥を通り越して懐かしい感情を抱く。

そうよ、そういえばアスカはいつもこうよ。
碇くん絡みだと途端に視野狭窄を起こすくせに、他人を観察することの機微に長けている。
まあ、誰でも他人のことはよく見えるってことなんでしょうけど…。

国語教師らしくヒカリがそんな風に頭でまとめていると、渦中の碇マリ嬢は大人の思惑なぞ知ったこっちゃないとばかりに確かな足取りで部屋の隅へ。
そこに置いてあるキッチュな子供用ナップザックから何かを引っ張り出すと、シンジの元へと戻ってくる。
それからマリは、手に持ったものを父親に差し出しながらこう言った。

「ワンコ! ワンコくん!」

「…惣流。おまえさん、シンジのことを「お父さん」じゃなく「ワンコ」なんて呼ばせてるんかい!?」

いくらよそ様の家庭の事情とはいえ、そんな呼び方はあんまりではないか。
トウジが義憤に駆られ声を上げるも、アスカは微動だにしない。

「ああ、それね。この子ったら、あの絵本がことのほかお気に入りでね…」

言われて大人たちが見直せば、紅葉のように小さなマリ嬢の手に持たれているのは子供用の絵本。表紙には、かなりデフォルメされた犬のイラスト。

「ああ、はいはい。読んであげようね」

絵本ごと娘を膝の上に抱き上げるシンジを見やるアスカの眼差しは優しい。

「パパ、ワンコの本を読んで! って訴えが省略されてワンコになっちゃったみたいなの」

「…なるほどね」

幸せそうに本を読んでやる父親の姿に一同は納得の声を上げるも、不意にアスカの方を向いたマリが口にした台詞には、一同はジト目になる。
小さな小さな娘は、アスカに向けてはっきりとこう言ったのだ。

「ひめ! ひめひめ!」

「あ、ははははは、この子ってば、お姫様の出てくる絵本もことのほかお気に入りで…」

「…ホンマかいな?」










碇家の家庭事情に多くの疑義が抱かれつつも、久方ぶりの再会で同窓会である。
現在進行形の子供の話題から、過去の話題、特に学生時代のものへとシフトしていく。
メインの話題はもっぱら高校時代となったのは、中学時代のアスカが来日した当初はともかく、その末期に起きたサードインパクトに至るまでの二人の軋轢を、友人たちも察していたからだろう。
世界は一度崩壊し同じくらいの速度で再生したと言われるサードインパクトも、推論だけで誰もが実感に乏しい。
ただ、その事件が起こった時期の前後を区別するように、それ以降の年代を新世紀と呼ぶ。
もっとも多くの人類の反応は「はあ、そうですか」といったような淡泊なもの。
唯一目に見える変化となるのは、地球の地軸がセカンドインパクト以前のものに緩やかに修正されつつある昨今、様々な地域で気候に変動が見られるぐらいだろうか。

ともあれ、高校に進学したヒカリ、トウジ、ケンスケらのクラスに、ひょっこりとシンジ、アスカ、レイが編入してきたのは、おそらく何者かの作為が働いた結果に違いない。
だがそれは、決して悪意に拠るものではなかったとヒカリは思う。
再会した親友は相変わらず良い性格をしていたけれど、シンジに対する好意を明確にしていた。
本人は完璧に隠しているつもりだったろうけど、少なくとも周囲にはバレバレだった。
ゆえに、二人にまつわるエピソードは、微笑ましいやらじれったいやら。(トウジ曰く、犬も食わん)

「一時期、アスカが子犬を拾ったことがあったでしょ?」

先ほどの意趣返しとばかりにヒカリが持ち出した懐かしい話題。
自分で拾ったくせにシンジに世話を押しつけるあたりは非常にアスカらしいが、世話をしてあげているのにアスカにばかり懐く子犬にシンジが嫉妬心を抱くという、傍目には甘酸っぱいシチュエーション。
されど、シンジの妬心を看破したアスカの悪魔的台詞の方が、全員の記憶に鮮烈に焼き付いていた。
今なお第三新東京高校に語り継がれてるという、伝説のアスカ版カースト制度。
すなわち『士農工商犬シンジ』である。

「あ、あれは若気の至りというか…ッ!」

「あの頃から碇くんは自分のものッ! って主張していたんだもんねッ」

「うう、思い出させないでよぉ…!」

完全に酔っ払ったヒカリ相手では、さすがのアスカも分が悪い。ワタワタと狼狽えるアスカをケラケラと眺めるヒカリとで、先ほどまでの立場が完全に逆転している。

「まあ、シンジも犬以下からワンコへ昇格出来たってことかね?」

ケンスケも若干酔っ払っているようで、口調のガラが悪くなっていた。
もっともこの程度の嫌味を気にするようなシンジではない。むしろ彼はクスリと笑う。

「本当アスカは昔から全然変わってないよね」

「…おい? それはどういう意味だ?」

思わず詰め寄ったケンスケに、シンジの膝の上のマリ嬢が嬉しそうな声を上げる。

「メガネ! メガネメガネッ!」

「あん? メガネが欲しいのかい? ほら、マリちゃん、眼鏡だよ~」

ケンスケは自分の眼鏡を取ってマリへとかけてやる。
もちろんサイズが合わなくてぶらぶらするメガネだったが、マリはかけてもらってご満悦。

「な? こう見えてもガキの扱いは上手いんやでケンスケは」

シンジの隣に座り込んでトウジが酒臭い息を吐く。

「大学のボランティア活動の一環で、ボーイスカウトの指導をしとってな。そこで確か中学生の女子から告白されたってゆーってなかったか?」

「トウジ、それは言うなって!」

「別に構わんやろ。あと二年もすれば十分に許容範囲やないか」

「あの頃の年齢のガキってのは、年上に無条件に憧れるもんなの! しかも人を『ケンケン』とか呼びやがって。絶対こっちをからかっているんだ…」

ブツブツ言いながらも、その実ケンスケの表情も満更ではなかったりする。
そんな旧友二人を眺めて、シンジは何とも嬉しそう。

「二人とも、大学生活は楽しかったみたいで安心したよ」

二人は虚を突かれた感じになる。

「あ、ああ、そやな。割と充実した四年間やったと思うで?」

「色々あったけど、楽しくなかったと言えばウソになるかな…」

なおニコニコと良かった良かったと笑顔を浮かべ続けるシンジに、トウジはふと疑問を抱く。

「なあ、シンジ。おまえこそ…」

トウジがその疑問を舌先に乗せようとしたその時だった。
パタパタと足音がして、がらりと個室のドアが開く。
そこから顔を出したのは、摺り切れたジーンズに、Tシャツにベストを着ただけという何ともワイルドなコーディネートの女性。
彼女は相変わらず抑揚の少ない声で謝罪を口にした。

「ごめんなさい、遅れちゃった…」

綾波レイの風貌は変わっていた。
長く伸びた髪は軽くウェーブを帯びて腰あたりまでに達している。
白い顔は日に焼けていたが、赤い特徴的な目だけは変わらない。

「あら、お久しぶり、ファースト」

アスカの出迎えの第一声に、ちらりとそちらへ目線だけを向けるレイ。

「おう! 遅かったやないか、綾波ィ!」

「ごめんなさい、綾波さん。先に始めちゃっていたわ」

「綾波も良く来たな」

他の面子も見渡して、彼女の視線はシンジの上で停止。

「あ、綾波。久しぶりだね」

ゆっくりとレイの口元が綻び、それから彼女はようやく挨拶を口にした。

「みんなもお久しぶり。碇くんも元気そうで安心した……わ?」

直後、レイの口がポーカンと丸くなる。彼女の赤い瞳に映るのは、シンジの膝の上に座りパタパタと足を動かす幼女。

「ああ、綾波、紹介するよ。この子は「あたしとシンジの子供よッ! 可愛いでしょー?」

シンジの返答に、アスカが全力で声を被せてくる。

「………」

結果、綾波レイの表情は変わらない。少なくとも表面上は、動揺した様子は見られなかった。

「…そう。とても可愛いわね」

そう口にした直後、彼女は全力で後方に昏倒した。












同窓会がお開きになったあと。
アスカとシンジは肩を並べて久しぶりの第三新東京市を歩く。

「…いやー、ファーストの飲みっぷりは凄まじかったわね~」

眠ってしまった娘を抱えながら、アスカは何だか苦笑い。

「うん、僕もあそこまで綾波がへべれけになったのは初めてみたよ…」

荷物を一手に運びながら、シンジもしみじみと同意を示す。

「ここしばらく会ってなかったから分からないけれど、普段からあんな風に飲むのかな、綾波は?」

「いやまあ、今日は偶々でしょ」

―――きっとあたしたちの子供を目の当たりにしたからでしょうね。
そっとアスカは心の中で付足す。

「ふーん。なんかつらいことでもあったのかなあ…」

そう首を捻るシンジを、アスカは心底驚いた表情で見てしまう。

「シンジ、アンタもしかして、気づいてないの…?」

「え? 何を?」

素の反応が返ってきて、アスカは慌てて口を閉ざす。

高校時代、シンジに対してアスカとレイは鎬を削りあってきた。
にも関わらずこの発言の示すところは、シンジは全くレイを恋愛対象として意識してなかったということなのだろうか。
ともあれにっくき恋敵が想い人と子供まで作ってしまったとなれば、レイが昏倒し、蘇生した直後から盛大に泥酔したのも深く頷ける話である。
ここに至り、さすがのアスカも彼女に憐憫の情が沸いてきたり。

ごめん、悪いわね、ファースト。だけどこればっかりは譲れないのよ…!!

「綾波もしばらく日本で暮らすっていうし、これでまたみんなと一緒に会える機会が増えるね」

嬉しそうにシンジが言う通り、アスカたちも本格的に第三新東京市へと帰ってくることを決めていた。
今回の帰郷は同窓会への参加だけが目的ではない。 住む場所探しや事務手続きの先触れみたいなもので、あちらの片づけにもう一度北海道へ戻らなければならないが、四月からは完全に住所も移す予定である。

「そうね。でも、それはそれで色々と忙しくなりそうよ? アンタの就職先への挨拶はもちろん、あたしも仕事探して。就職出来たらマリの保育園も申請しなきゃいけないし、そのうちヒカリも結婚するだろうし…」

次々と予定を上げていくアスカも、実に楽しそうだ。
親子三人で北海道での暮らしも楽しかったが、戻ってくる第三新東京市は彼女たちにとってのホームになる。
懐かしい場所や、むかし通ったお気に入りのお店、そして知り合いたちの顔を思い浮かべ、今から胸のワクワクが止まらない。

「それに…、ママにもこの子を見せてあげなきゃ」

腕の中の娘に視線を落とし、アスカは呟く。
ネルフ本部内で再建されたエヴァ弐号機。
もはやアスカは、弐号機を起動させることは出来なくなっていた。

そもそものエヴァンゲリオンは、子供を宿す母というモチーフで起動する。
いわばエントリープラグは子宮であり、胎内の子を守るためなら母は文字通りの鬼神と化す。
しかし、アスカが妊娠した頃より、そのシンクロ率は大幅に低下。
起動ラインにすら覚束ない数値は、アスカの出産を経てピクリともしないフラットを示す。
それはそうだろう。本来守られるべきはずの子供も親になり、いわばエヴァと同じ存在となったのだから。

アスカがヒカリに泣いていたことを指摘されたのは、実は育児疲れからではない。
エヴァとシンクロできず、母親の存在と交流できなくなったことをアスカは嘆き、涙を流していたのだ…。

「親離れ子離れって言えば聞こえはいいかもしれないけどね」

世間でいうところの一般論を口にして、一抹の寂しさがあるのは否めない。
きっと、エヴァの中にいるであろう母も同じ気持ちだとアスカは思う。

この件を経て、シンジもアスカもチルドレンとしての指定を解除されている。
ネルフも日本政府も、二人に関して特例的な便宜を図る必要はなくなっていた。
しかし新たな問題が一つ。二人の子供のマリである。

仮にシンジとアスカそれぞれ一般人の相手と結ばれ、子供を作ったとすれば、特に配慮はなかっただろう。
だがチルドレン同士の子供という存在は実に未知数だ。
彼女を保護対象と見做すか否かは、アスカの妊娠期より政府内でも紛糾しており、多分に政治的なゴタゴタもあって、二人が友人たちに子供が出来たことを伏せたことに繋がっている。 その結果、一応の認定をされたマリの保護育成に対し、ネルフは政府より秘密裡の協力要請を受けることになる。
具体的に言えば、シンジとアスカのマンションの警備から始まり、二人がどうしても不在、もしくは疲弊した際の育児の手伝いまで。
なので、アスカがミサトたちの力を借りたのは決して嘘ではなかった。
ただ、アスカの用いた「ちょーっと」という表現がいかに過少であるかは、次の葛城ミサト氏の嘆きから察して欲しい。

『なーんで未婚のわたしがオムツ交換だけ上手にならにゃならんのよ!?』

まあ、北海道への出張の打診を受け、観光気分で承諾した彼女にも責任がないとは言えないだろうが…。
そんなミサトもマリのおっぱい離れが済んだ頃に、ようやく第三新東京市の自宅へと戻っていた。今頃、以前のような独身貴族の生活を謳歌していることだろう。

「…ところで、本当に今晩はミサトさんの所へ泊るわけ?」

「そうよ。ホテル代も勿体ないでしょー」

「けれど、何の連絡もしてないよね?」

「ネルフ本部のシフトは確認して、自宅にいることは把握しているわ。ミサトだって、あたしたちが戻ってきていることは知っているはずだし」

「でも…」

「それに、産みの親より育ての親っていうじゃない♪」

朗らかに言ってのけるアスカに、その慣用句の使い方ってあっているのかなあ? と首を捻るシンジ。
もっとも彼なりにミサトから育児を手伝って貰ったことには、本当に感謝していた。
なので、手に持ったお土産の袋の数々は、今日の旧友たちに配った分を除いた上で、ほとんどがミサトあての珍味やら何やらの詰め合わせ。

「ミサトさん、喜んでくれるといいんだけど」

「大丈夫よ、きっと」

完全無欠の無責任な断言をしつつ、娘を抱え直してアスカは空を見上げる。

「わあ、星が綺麗ね…」

元の地名が箱根である第三新東京市は標高が高い。
巨大なビルの隙間から望める星空は、北海道の広大な空とはまた違った趣きが存在した。

「…そうだね」

同意を示しつつ、シンジの目に映る空はどんどん高くなっていく。
耳に、潮騒が蘇る。











忘れもしない赤い海。
砂浜に残された二人。
延々と響き続ける潮騒だけが、世界に残された生きている音。

傍らに横たわり、死んだ魚のような目で虚空を見上げる君。
そんな彼女の首を僕は―――。











罪は、許されたのだろうか?

シンジは無意識でぶるると首を震わせた。
意思に反して、唇から声がこぼれ落ちる。

「…アスカは、今、幸せ?」

何かを察せさせてしまったのだろうか。青い瞳がキュッと細くなる。

「そういうシンジはどうなのよ?」

逆に問い返される。
やや鋭さのある声音に、虎の尾を踏みかけていることに気づきシンジは焦る。

「そ、そりゃあ幸せに決まっているよ! 君と結婚出来たんだからさ!」

時にして、何の衒いもない真っすぐな一撃が、極大の戦果を挙げることがある。
一瞬長い睫毛をパチクリとさせ、アスカは顔を伏せてしまった。その頬は赤い。

「アスカは、今、幸せ?」

シンジはもう一度尋ねる。

「ま、まあ、アンタはこのあたしをキズモノにしたんだからね。そりゃあ一生責任を取ってもらわないと…」

相変わらずのアスカの素直でない物言いは、本人が意図しないダブルミーイング。
赤い浜辺でのことと、初めての夜と。

「それは、もちろんだよ!」

意気込んで答えてくるシンジに、アスカは娘の黒髪に顔を埋めて恥ずかし気に呟く。

「だいたい好きな相手じゃなきゃ子供だって産まないってーの…」

「え? いま何て言ったの?」

「…子供まで産ませておいて、今更グダグダ言うなっていったのよッ!」

素直に本心を口に出せず、悪態へ変換されてしまうこの悪癖は、実は一番アスカが辟易していた。
もっともシンジも彼女のクセは知り尽くしている。
彼女の欠点を、呆れるどころか愛おしくすら思っていた。

そんな大真面目に頷き返してくるシンジに対し、アスカの胸に込み上げてくるものがある。
もう、本当にコイツは、どこまで優しくてお人良しなのよ…!

溢れ出てくる愛しさは、眠る娘を抱いていなければ全力でハグしていたところ。
今のシンジは両手に荷物を抱えていて、手を繋ぐこともままならない。
なので、意を決してアスカは顔を上げる。
必死で蕩けそうになる表情を抑え込み、シンジに顔を向けて目を閉じた。
そのまま、うにゅにゅと唇を突き出そうとして―――腕の中から見上げてくる視線に気づく。

ハッと目を開ければ、マリがチェシャ猫のような表情を浮かべ、興味津々で両親を見ていた。

「…子供にはまだ早い!」

娘の黒髪に手を置いて、くしゃくしゃと髪をかき回すアスカ。
この照れ隠しにマリはキャッキャッと嬉しそうな声を上げて、シンジはシンジで、「うん、今のマリの表情、居酒屋のアスカにそっくりだったよ?」と暢気なコメント。

「そりゃ親子なんだから似ているに決まっているでしょッ!」

恥ずかし気に叫ぶアスカの腕の中で娘が身動ぎした。

「ん? 何? どうしたの? …降りたいの? 降りて歩くの?」

ふんすッ! とばかりに鼻息も荒く地面に降り立つマリ。
それから小さな手を伸ばしたのは、両親に手を繋いでとのリクエスト。
結果、アスカがお土産の入った袋を、シンジがキャリーバックをそれぞれ持つ。
空いた片手でマリの両手を掴み、親子三人並んで歩く格好に。

まだ二歳になったばかりの娘に合わせる歩みは遅々としたものだ。逆に、それこそが親子であり家族の証。
古来より子は鎹【かすがい】という。
鎹とは、材木と材木とをつなぎとめるために打ち込む両端の曲がった大釘のことで、転じて人と人とを繋ぎ止める意味があった。

子供は自分とアスカにとって本当に鎹だとシンジは思う。

確かに自分はアスカに告白した。アスカも告白を受け入れてくれた。
それを掛け替えのない絆に昇華出来たかと考えたとき、生来の自信のない臆病な自分が顔を出す。
アスカが北海道まで追いかけて来てくれたことを嬉しく思う反面、いつか彼女は自分の元から去るのではないか? という心配が全く無くなったとは言えない。
そこにきてアスカから子供が出来たとの告白は、シンジの胸の内を暖かく満たし、臆病な疑念を完全に晴らしてくれた。
互いの血を分けた自分たちの分身。
これ以上、二人の確実な絆を象徴するものはないのだから。




…それにね、アスカ。君は知っているかい?
『アスカ、これからもずっと僕の傍にいて―――』ってあの台詞。
臆病な僕はお願いしちゃったんだけれど、本当はね『もう僕は決して君を離さない』って言いたかったんだよ。




「…どうしたのシンジ?」

アスカの声で我に返る。

見返せば、アスカのきょとんとした顔。
視線を下げれば、同じくきょとんとしたマリの顔。

二人の表情はとても似ていて、思わずシンジは笑みこぼれる。

「なんでもないよ。ああ、本当に綺麗な空だ」

シンジは空を見上げる。
少し心配そうな素振りを見せ、それでもアスカも一緒に空を見上げた。
直接手を繋いでいるわけじゃない。間に子供を挟んでいても、心が、想いが伝わってくる。



二人に見えているのは、第三新東京市の空ではない。
あの赤い浜辺の夜空でもなかった。

二人だけでも前を向いて生きて行こう。
そう決意した途端に晴れ渡った、どこまでも青く澄んだ高い空だ。















fin