およそ三年ぶりの日本の空気はぬるくじっとりと湿っていて、肌に纏わりつくその感触にあたしはついに戻ってきたのだという実感を濃くした。二〇一九年の 二月七 日。セントバレンタインズデーの一週間前だ。二月初旬の今、雪に閉ざされていた冬の故郷を離れ、降り立ったこの懐かしい地の変わることのない熱気がいっそ 心 地よい。見上げる空はどこまでも高く遠く、青色に透き通っている。太陽はヨーロッパよりも暴力的で、はっとするほど色彩のコントラストが強い。永遠に夏の 国。それがこの場所だ。

 あたしが戻ってきたのには理由がある。

 エヴァンゲリオン元パイロットという肩書きにはもはやさしたる価値も見出されず、あたしは自らの人生を自らの力で切り開く努力を余儀なくされ、灰色の雲 に沈んだ故国をその場所に選んだ。頼ったのは十三歳の時に卒業した大学で指導を受けていた教授だ。まだ幼く思慮の足りなかったあたしを辛抱強く導いてくれ たその教授は、再びあたしが彼の研究室の戸を叩いた時も大らかな精神で引き受けてくれた。そのころまだEU政府から完全な自由を認められていなかったあた しが教授の指導下に入るためにはかなりきわどい折衝が必要となり、多大な迷惑をかけることになったことも含めて、彼に対する感謝の念にたえない。
 ところが、今あたしは教授のもとを飛び出して異国の地にいる。研究は中途で放り出してきた。曖昧な経歴を持つ十七歳の少女を信用して雇ってくれるお人好 しはそう多くはない。何しろ、ことあらば政府が難癖つけようと見張っているような不穏な経歴だ。だから、教授のもとで研究に従事することはあたしの将来に とって必要なことだった。そこでドクターコースを修めて、履歴書へ文句なしに綺麗なその経歴を書き込めば、初めてあたしはまっとうな欧州人と して認められるはずだったのだ。
 でも、あたしは我慢できなかった。抑えることができなかった。この夏の国での体験はあまりに強烈で、あたしは心に刻まれた深い爪あとを生々しく保ったま ま、故郷で何食わぬ顔をして生活することなんてできなかったのだ。
 両親は快くあたしを送り出してくれた。つまり、あたしの実の父親と義理の母親のことだが、彼らはあたしの気持ちを知ってむしろ嬉しそうな顔さえした。そ こで改めて、あたしはこの人たちの娘なのだと思い知らされた。
 昔から知力も体力も人並み以上で、学校を次々と飛び級していくかたわらで極めて機密性の高い 国際機関に所属して兵器のパイロットなどというおよそ少女には向かないものになり、家族にはまったく打ち解けようとしてこなかったこのあたしが、人並みの 感情を持っている。その事実が彼らにあのような表情をさせる。
 ああ、娘だと思われていたのだ。故国に帰ったあたしが身を寄せたのは当然両親のもとだったけ ど、優しく接してくれる彼らと日々過ごしてさえ、あたしは心のどこかで隔意を抱いていた。この人たちは本当にあたしを愛してくれるわけじゃない、と。で も、それはあたしの浅はかな思い違いだった。あたしは彼らから本当に愛されていて、家族として慈しまれていたのだ。
 しかし、それでもあたしは日本へ赴かずにはいられなかった。家族の愛に不満だったわけではない。むしろそれこそが長年あたしが求めてやまないものだった はずだ。でも、欲深なあたしは家族という囲いの中で優しく育まれる愛ではなく、あたし自身の手で荒々しく激しい愛を獲得したいという欲求に従うことにし た。正真正銘あたしだけの愛だ。
 その相手が元同僚の碇シンジだということについては、あたし自身だってどこか納得行かないものを感じているのだけど、胸に手を当てて導き出した答えに間 違いはない。彼のことは嫌いだった。憎んでいた。でも、好きだった。今でも好きだ。だから、仕方がない。好きになってしまったんだもの。その気持ちを我慢 しないと決めたんだもの。
 
 というわけで、あたしこと惣流・アスカ・ラングレーは今日本にいる。
 恋は再びあたしに海を越えさせた。





ハードボイルド・ラブ・オーケストラ


rinker






「それにしても本当に見違えたわぁ。背も伸びて大人っぽくなって。昔から可愛らしい子だったけど、まさかこんなに綺麗になるなんて」

 という具合に先ほどから同じことを何度も繰り返しているのは、運転席でハンドルを握る伊吹マヤだ。空港まで迎えに来てくれた彼女の車の助手席に今あたし は納まっている。背は確かに伸びた。百七十一センチだから、空港であたしと向かい合った背の低いマヤは呆気に取られたように頭ひとつ上にあるこちらの顔を 見上げた ものだ。でも、あたしからすれば、三年経っても長く伸ばされた髪型以外はまったく変わった様子が見られない運転席の人物のほうが驚異だ。もう二十代の半ば はとっくに過ぎ て後半に差し掛かっているはずなのに、甘い幼ささえ漂うマヤの微笑みはどこか妖しい。彼女に比べればあたしはまったくの子どもだ。そんな子どものあたしを 果たしてあいつは好きになってくれるのだろうか、というようなことを悶々と考えていて、あたしはマヤの言葉にほとんど生返事しか返していなかった。

「シンジくんも驚くわよね、きっと。こんな素敵な子と僕は同居していたのかぁってさ。昔のうちに付き合っちゃえばよかったとか思うかもよ」

「ああ、そうね。……えっ?」

 あたしは思わずぎょっとして声を上げた。マヤはあたしの本当の目的を知らないはずなのに、どうしてシンジのことが出てくるのかしら。

「と、突然何を言い出すの、マヤ」

「あら。それが目的で来たんでしょ?」

 額に浮き出した汗をぎこちない仕草で拭いながら、あたしは胸をどきどきさせていた。二月初旬という厳寒の故郷から猛暑の日本にやって来たということだけ が額 の汗の理由ではない。これくらいのことで動揺するだなんて、あたしともあろう者が情けないったらないわ。
 あたしは表向きは赤木リツコ博士のところへ研究者として招請されて来日したという体裁をとっている。まだドクターではなくただの研究生に過ぎないあたし にそんなことができるわけはないのだけど、あくまで体裁としてそうなっている。本当の目的を知る者はわずかだ。そのわずかのうち誰 かが漏らしたとしか考えられないが、もはや犯人探しをしても仕方がないとあたしは諦めのため息を吐き出した。来日早々世話になっているマヤに隠し通したと ころで礼儀に反するだろう。子どものわがまま、と馬鹿にされるのは屈辱だけど、事実はそれに限りなく近いのだから反論もできない。

「呆れてる?」

 あたしが訊ねると、マヤは「うーん」と考える素振りを見せた。

「そうでもないかな。価値なんて人それぞれだし、正しいか間違っているかの判断は常に一定ではないわ。歳を取ったら、人は若いうちなら何でもできたって言 い訳みたいに思うけど、実際にはそうじゃないのよね。大事なのはきっかけを自分のものにするかどうかで、それは恋だって例外じゃないと思うの。今、あなた が決断しなければ、きっとこの恋は二度とできなかった。何と引き換えにその決断をしたのか、それが分かってるなら、いいんじゃないの?」

 恋、恋と連発されては気恥ずかしいのだけど、隠し立てしないとさきほど心に決めたばかりのあたしは、頬に恋の色を乗せて彼女に答えた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 車は一路旧ネルフ本部を目指して走る。あたしはもうネルフとは縁の切れた人間だけど、またここの世話になることがあるとは思っていなかった。
 すべての使徒を倒し、ゼーレとかいう陰からネルフを操ってサードインパクトを画策していた組織も瓦解させた結果、ネルフは国際先進技術研究機構 (IATRO)と名を変 え、晴れて国連の正式な 一組織とし て周知されることになった。一般には単に科学技術研究機関と認知されがちだけど、扱うのは一般にいう科学よりも数歩飛び出したところにあるものだ。長は これまでと同じく碇ゲンドウ。シンジの父親だ。謎の組織の陰謀などではなく、きちんとした手続きを経て国連から任命されている。
 シンジとはその後上手く 行っ ているのかしら。あたしは恋する少年のために、少しそんなことを考えた。彼らの間 に横たわる問題は、あたしと両親の場合よりもずっと深刻で難しいものだろう。上手く行っていればいいのだけど。だって、 家族って温かいもの。

「よく来たな、惣流・アスカ・ラングレー」

「はい。お久しぶりです、碇長官」

 平和になって肩書きが司令から長官に変わっても、威圧感は相変わらず。ジオフロント内に建てられた新しい本部ビルの明るい執務室で、髭を生やした強面の 男と向かい合ったあたしは少し緊張 していた。
 わだかまりはある。陰謀を巡らせて いたのはゼーレも碇ゲンドウも同じことで、彼のためにあたしは使い捨てられて再起不能寸前まで行った。実力が伴っていなかったからだといわれればそれまで かも しれないけど、そんな相手を再び前にして何も感じずにいることはできない。それは憎しみとはいえず、怒りというのでもない。だから、わだかまりだ。解消で きるほどにはあたしは自らが恋する少年の父のことを知らない。つまりはそういうことなのだろう。

「この度はあたしのわがままを聞き届けてくださってありがとうございました。突然日本を訪れたいだなんて。しかも……」

「問題はない。別に業務に差しさわりが出るわけでもないからな。来日中の滞在先は心配しなくてもいい。こちらのほうで女子寮の空室を用意できるし、赤木リ ツコが自分の家を提供してもいいとも言っている。寮の部屋はひととおり生活に必要なものは揃っている。当然、ホテルがよければそのように手配しよう。君の 好きなように選びたまえ」

 あたしの言葉を遮ってそう言った長官は、芝居がかった仕草で眼鏡のブリッジを押さえた。そういえば昔はサングラスだったのに、今は普通の眼鏡になってい る。それに気付いたあたしはこれでも少しは丸くなったのかと多少肩の力が抜けた。

「ありがとうございます。できれば赤木博士のところでお世話になりたいと思います」

「いいだろう。他に要望はあるかね」

「自動車を一台お借りできませんか? 運転は自分でします」

「承知した。明日の朝一番に赤木博士の家に届けさせよう。あとはないかね」

「はい。充分です」

「ふん。私の息子のことについては、赤木博士から聞くといいだろう。他にも知りたいことや要望があれば、すべて彼女を通せばいい」

 私の息子、か。

「何から何までありがとうございます」

 あたしは丁寧に頭を下げて碇長官に礼を述べた。正直なところ、ここまで至れり尽くせりにしてくれるとは考えもしなかった。日本滞在に際して他に頼る先も なかったから駄目で元々と考えていたけれど、どうやら大正解だったらしい。
 それにしても、とあたしは少し口元が緩むのを感じた。この強面の男がふと漏らした言葉にあたしは胸が温まるような気がした。私の息子、と確かに彼は 言った。そう認めているのだ。どうやらこの父子にも雪解けは訪れつつあるみたい。詳しい話はぜひシンジから聞かなくちゃ。そして、ぐずぐずしているよう だったら、このあたしがお尻を蹴っ飛ばす……のはちょっと気の毒だから、かるーく叩いてあげる。右と左を一回ずつね。

「それではあとは自由にしなさい。すぐに赤木博士の家に向かいたいのならそうしてもいいし、少し施設内を見て回るのも構わない。伊吹くんが手配してくれ る」

「はい。分かりました。ところで、長官」

 さてと、かしこまっているばかりがこのアスカさんじゃないわよね。いよいよ日本へ来て明日には行動開始となるわけだし、ギアを上げていくとしますか。多 分、今の長官なら怒らないと思うし。

「長官の今日のスケジュールに多少の融通は利きますか?」

 あたしの質問の意図を計りかねて碇長官は怪訝な顔をしたけど、すぐにこう答えた。

「多少ならば可能だが、何かあるのか」

「あたし、ドイツから直行便でこの第3新東京市まで来て、休みなしで伊吹さんの車に乗ってここへやって来たんです」

「つまり?」

 鈍いわよね、この人も。シンジもそうだったけど、やっぱり親子ってことなのかしら。

「少し休憩したいなぁって思うんですけど。案内を見たんですけど、カフェテラスがありますよね。ご一緒にいかがですか?」

「む。いや、私は……」

「息子さんのお話を聞きたいんです」

 ここで少し俯いて、それから上目遣い。「息子さん」を強調するのも忘れない。

「だから、それなら赤木博士に」

「三年近くも離れていたから、すごく不安なんです。だから、彼のお父さんである長官から直接お話を聞きたくて……駄目ですか?」

 目を伏せて、最後は消え入るように。

「む、む、む、……まあ、いいだろう。だが、そんなに時間は取れない。それでいいなら、ちょっと外で待っていたまえ」

 長官はいくらか唸ってからため息を吐き出し、観念したかのように言った。
 掛かった掛かった。上出来ね、あたし。でも、長官みたいなオヤジがこんな美少女とお茶できるんだから、もう少しは嬉しそうな素振りを見せてもらいたいも のだわ。

「はい。ありがとうございます。それじゃ、待ってますね」

 心の中にガッツポーズを隠しながら、あたしは執務室を出て、扉の前で碇長官が出てくるのを待った。しばらくして出てきた彼はあたしの顔を見ると、少し呆 れたように言った。

「十七からそれでは先が思いやられる」

「え?」

「君のちゃちな演技にほだされたわけではないということだ。行くぞ」

「わっ、ちょっと待ってください」

 あたしよりも十センチ以上背の高い長官が大股ですたすた歩き出すものだから、コンパスの差を埋めるためにあたしは早足でついて行かなくてはならなかっ た。
 それにしても、やっぱりあんな演技じゃ通用しなかったか。ちぇっ。





 シンジが通っている高校は市内ではそこそこレベルの高い私立校だった。場所は郊外に位置し、鉄筋コンクリートと一部は赤煉瓦を用いられた校舎が趣のある 学校だ。きっとそれなりの伝統があるところなのだろう。碇長官改めシンジのお父さんから聞きだしたところによれば、元は男子校だったのだけど、市街地の半 分が 瓦礫となった影響で学校数も生徒数もともに減ってしまったので、三年前から共学を始めたのだそうだ。シンジは結構頑張ってこの学校に入ったらしい。感心感 心。
 とはいえ、この学校が共学であるということは、当然シンジは女の子を身近にしながら日々生活をしているということであって、これはあたしにとっては ちょっとした問題だ。いくらあの馬鹿がにぶちんでのんびり屋だったとしても、周囲に女の子がいればそれなりに思うところはあるだろうし、まかり間違って付 き合ってほしいなどと言われた日には、ついうっかり交際を承諾してしまいかねない。いや、「ついうっかり」ではなく「喜び勇んで」のほうが正しいだろう か。何しろあいつだって十七歳の男子だ。ただでさえ下半身は常に捌け口を求めている上に、周りにいるのは物事を恋とそれ以外とでしか判断できない年頃の女 の子たちだ。危険極まりない。
 と、まあ、ここであたしがあいつのおちんちん事情を考えていても仕方がないのだけど、ある意味では仕方がなくはないというか ものすごく大事なことなので、やっぱり考えてしまう。一緒に暮らしているシンジのお父さんによれば「あいつが誰かと付き合っているかどうかまでは知らない が、そんな話は聞いた ことがない」ということだった。
 仮に誰かと付き合っていても奪い取るけどね。そうでなけりゃ誰がわざわざ世界の反対側から飛んできますかっての。
 ところで、あたしが今何をしているのかというと、シンジの学校を道路を挟んだところへ駐車した車の中から双眼鏡で観察しているところだ。運がよければシ ンジが見つけるかもと思っているのだけど、今のところその幸運は訪れない。授業中だから仕方がないけど。あたしはため息を吐き出して双眼鏡を外し、缶コー ヒーに口をつけた。
 そのうちにチャイムの鳴る音が聞こえてきて、再び双眼鏡を構えたら、教室の扉が開いて生徒たちがわらわらと廊下へ出てきた。シンジの教室がどの位置にあ るのかはリツコのもとで確認済みだ。

「あっ!」

 目を凝らしていたあたしはある生徒の顔を見て叫び声を上げた。
 シンジだ。見つけた。

「やだ、ほんとに見つけちゃったわ。シンジだ。ああ、あんまり変わってない。でも、ちょっと男らしい顔になったかしら。あっ、笑ってる。うわっ、何よあの 顔。えーっ、ちょっともう」

 この三年間、夢にまで見たシンジがあたしの視線の先にいる。あたしは興奮して馬鹿みたいに一人騒いでいた。

「あーん、シンジが何か喋ってる。声も聞こえたらいいのに。あっ、あっ、今あいつ女の子のほう見て笑った。あーっ! あの女シンジに触った! 誰よ、あの チビ! わっ、ちょっと待って。そっち行かないで。そっち行ったら見えなくなる。あー、やだやだ、もうちょっと待って。お願い待って待ってって、あーあ。 見 えなくなっちゃった」

 シンジは廊下の端まで行くと、そこを曲がってL字形になっている校舎の向こう側に行ってしまったようだ。シンジだけでなく同じクラスの生徒が大勢で手に 教材を持って移動しているところを見ると、次の授業は教室を移動するのだろう。時間は午前十一時を回るところだから、四時間目だ。

「はあ。あいつ、元気そうだったな」

 先ほど双眼鏡から覗いたシンジの姿を反芻しながら、あたしはエンジンを掛けて車を出した。いい加減にしないと不審者扱いされて通報でもされたら困るから だ。
 楽しげにしていたシンジの様子に後ろ髪を引かれながら、あたしは高校を離れて国道を南に流した。とりあえず街をぐるっと一回りしたら早めのお昼にでもし ようかな。





 ここで日本滞在に当たって住居を提供してくれている赤木リツコのことを少し語ろう。
 彼女は旧ネルフ時代から科学者、技術者たちのトップにいた。国際先進技術研究機構と名を変えてからもそれは同様だ。今世紀最高の科学者の一人である彼女 ならば 当然のことだろう。使徒との戦いにおいて、あたしやシンジが乗っていた決戦兵器エヴァンゲリオンや人格移植OS搭載スーパーコンピュータ・マギシステムに もっとも精通 した彼女の果たした功績は計り知れない。
 科学者の中ではリツコは一種の生きた伝説だ。ネルフ時代には数点のセンセーショナルな論文が発表されたのみで、ほとんど謎の人物とされていた。明らかな のは人格移植OSを開発したあの天才赤木ナオコの実子だということだけ。IATROに移行してからは露出が増え、予想外の美貌と予想以上の天才に学会は驚 愕することになったのだけど、それでも巷の研究者が交わることはなかなか難しい。そもそもIATROはネルフのような超法規組織ではないにしても、研究内 容の多 くがネルフ時代から引き継いで派生させた、いわばオーバーテクノロジーであるために、機密の塊という意味でどうしても閉鎖的な面は否めない。ところで、国 際先進技術研究機構の頭文字を並べたIATROは単語としてもいくつか意味が成立し、そのうちのひとつがあまりにもぴったり嵌まっていたので、しばしば揶 揄 に用いられる。IATRO(イアトロ)はギリシア語で単に医学の意だが、ルネサンス期の有名な医師・錬金術師のパラケルススを祖として不老長寿を目指して いたイアトロ化学派という一派が存在したらしい。ホムンクルスを製造しただの賢者の石を持っていただの、その手の伝説には事欠かない錬金術師パラケルスス とイ アトロ化学派を初めに連想したのが誰だったかは定かではないけど、こうして国際先進技術研究機構は内部で何をしているのか正体の知れない怪しい組織、眉唾 も のの研究に巨費を投じる錬金術師の集団だ、と一部で陰口を叩かれることになった。そして、その頂点に燦然たる頭脳で君臨する謎めいた赤木リツコ。二十一世 紀に現れた天才錬金術師。在野 の科学者たちにとっては雲の上の人というわけだ。
 そんなリツコの自宅に図々しくもお邪魔し、稀代の科学者の私生活を赤裸々に観察できる立場に今あたしはいるわけだけど、どうしてこんなことになったのか といえば、これにも少し説明が要る。
 すでに故郷で一民間人として生活していたあたしは当然リツコに連絡など取れるわけもなく、そもそも旧ネルフに所属していた人たちの個人的な連絡先など ひとつとして知らなかったのだ。かといって、まさかIATROの事務局に直接電話を掛けるわけにも行かない。元エヴァンゲリオンパイロットの身分を明かせ ばあるいは上のほうに取り次いでもらえたかもしれないが、実のところあたしはあまり旧ネルフの人たちの力を借りたくはなかった。係わりを持ちたくなかっ た、といってもいいだろう。恥ずかしい話だけど、パイロット時代のあたしはお世辞にも功績を上げたとはいえないし、特に戦いの終盤ではあたしと彼らとの間 はかなりぎくしゃくしていた。それでも仕事だからと互いに割り切っていたのだけど、縁を切ってしまった今となってはそれも難しいだろう。厚かましいお願い をして彼らに嫌な顔をされたくはなかった。
 しかし、他に頼れる知人が日本にいるわけではなし、せめて保護者役を務めていた葛城ミサトへ個人的に連絡が取れないかと方々手を回していたところ、恩師 のつてのつてのそのまたつて、くらいの人物からリツコのメールアドレスを教えてもらうことができた。学会のネットワーク網も伊達ではない。その人物は以前 ヘルシンキで 開かれたカンファレンスで自身の研究テーマに関してリツコと意見交換する機会があった縁で連絡先を知っていたようだ。
あたしからのメールに返事をくれたリツコは、個人としてではなくIATROを巻き込んで協力しようと提案してきた。もちろ ん、好 意は嬉しかったけ ど、すでに部外者のあたしがそんな厚かましいことはしたくないと遠慮していたのを、彼女がほとんど強引に話を進めて今回の来日に漕ぎつけたというわけだ。
 実際に日本へ来てみれば、旧ネルフ陣からのまったく予想外の厚遇には驚いたというより呆気に取られた。けれど、それ以上に驚いたのがリツコのことだ。何 と彼 女、仕事をやめるという。正確にはこう言った。

「少し仕事を離れようと思うの。すぐというわけじゃないけど」

「やめるの? なぜ?」

 当然あたしは訊ねた。やめる動機がまったく分からなかったし、天性の科学者である彼女が研究をやめた姿というのが想像できなかったからだ。
 ところが、あたしの質問にリツコはごく飾らない風に何気なく答えた。

「妊娠したの。復帰については考えてないから分からないわね」

「ああ、そう、妊娠。へえ」

 ええーっ!?
 あまりにも大きな驚愕は少し遅れてやってきた。妊娠したということは赤ちゃんができたということで、つまり相手のアレがソレでナニしてこーなって受精卵 が着床して、お腹膨らんで赤ちゃんホギャーだから、つまりようするにえーっとぉ?
 ひどく混乱してあたしはもう少しで倒れてしまうところだった。それくらい驚いていた。

「お、おめでとう。本当に。でもその……」

「誰の子を妊娠したのか、でしょ?」

 訊きにくい質問に迷っていると、リツコが先回りした。無理に聞き出すほど悪趣味ではないけど、あたしは曖昧に頷いて肯定した。
 少し悪戯っぽい笑みを浮かべると、彼女は言った。

「姓は碇」

 いかり! ま、ままままさか、シンジッ?
 さーッ、と血の気が引く音が聞こえた。目の前が暗くなる。
 ああ、やっぱり三年も目を離しているんじゃなかった。常にあの馬鹿のそばに付いていなくてはいけなかったんだ。そんなことは分かっていたはずなのに。あ いつがちょっと優しくされればすぐになびいてしまう性格だってことは。でも、あたしに協力してくれるということはリツコは身を引くつもりなのだろうか。身 を引かなくたってあたしは戦って勝つけれど、それでリツコとあいつとの関係がなかったことになるわけじゃない。ああ、けれど、赤ちゃんに罪はないわ。赤 ちゃんには罪はない。じゃあ、グーでぶん殴るのはやめるべきかしら。どうしよう。どうしたらいいの?
 と、一瞬の間にこのような思考があたしの頭蓋骨の中を錯綜していた。もはや爆弾発言をしたリツコがどんな表情をしているかなど目に入っていない。
 だから、次の言葉も危うく聞き逃すところだった。

「姓は碇。名前はゲンドウよ」

「ゲンドウ……ゲンドウ? シンジじゃなくて?」

「泣くほど安心した?」

「な、泣いてないわよっ」

 急いで目元をごしごしして、あたしはきっとリツコを睨みつけた。でも彼女はあたしなんてまったく怖くないという風に、にやりと唇の端を上げた。完全に担 がれてしまったのだ。考えてみれば当然だ。リツコのような魅力的な大人の女性が、シンジみたいなガキを相手にするわけがない。いや、こんなことだろうとは 思っていたけどね。騙されたふりをしていただけで。

「……本当にシンジとは何もないのよね? ね?」

 一応、念のためにあたしが訊くと、リツコはしばらく肩を震わせて笑い続けていた。さすがに腹が立ったので、リツコが笑い転げている隙に彼女のコーヒーに 山ほど砂糖を流し込んでやった。ちなみに彼女は砂糖入りコーヒーを飲むくらいならヒマシ油でも飲んだほうがましだと考えているらしい。
 それはともかく、シンジのお父さんがリツコの子どもの父親。予想もしていなかったといえばそうだし、妙に腑に落ちたといえばそうでもある。いずれにせ よ、あたした ちにはどうやらお かしな繋がりがあるようだった。

「結婚、するの?」

 あたしは恐る恐る訊いた。あの鬼瓦みたいな碇長官と、結婚という言葉の幸せなイメージとのギャップに苦しむよりもまず先に、あたしはリツコの胎内に息衝 いている子どものためにそれを心配した。
 でも、リツコの答えは極めてそっけなかった。

「さあ。考えてないけど、しないんじゃないかしら」

「ど、どうしてっ?」

 あたしはほとんど悲鳴を上げた。

「長官がそう言ってるの?」

 もしもそうだとしたら、何ていうひどい人なんだろう。たとえシンジのお父さんでも絶対に許せない。

「知らないのよ。あの人は私が妊娠したことを」

「そんな。でも、男には責任ってものがあるでしょ?」

「女にだって責任はあるわ。だから、私は私の責任でこの子を産むの」

 強がっているのだろうかとあたしは考え、リツコの表情を注意深く観察した。でも、そこにはひと欠片の悲壮感も見当たらず、ただ胎に宿した生命への慈愛と 誇りに満ち溢れていた。それを見ると、もうあたしはとやかく言えなくなってしまった。
 みんなそれぞれに自分の問題を抱えているのだ。時に周囲の手を借りることがあっても、結局は決断するのも行動するのも自分自身しかいない。暗にリツコは そう言っているようだった。
 では、あたしはどうなのだろう?

「ただいま。アスカ、今日一日はどうしてたの。シンジくんには会ってきた?」

 リツコの家は4LDKのマンションだ。日本での標準的な住宅より多少面積が広く、セキュリティがしっかりしているということを考えても、リツコが得てい るはずの収入からすれば質素とさえいえた。彼女がここを選んだ理由は実に簡潔明瞭。ずばり、猫が飼えるから、である。彼女いわく、一人では広すぎるけど ペット可で手ごろな場所がほかになかったのだという。復興真っ只中の第3新東京市にはまだバリエーション豊かな高級マンションを乱立させる余裕などない。 選択肢は自ずと限られていたというわけだ。
 家具にもそれほどのこだわりは感じられない。どれも落ち着いたデザインで趣味のよさを感じられないこともないけど、どちらかというと科学者的な合理主義 の成果ではないかとあたしには思えた。唯一機械に関しては選び抜かれたと分かるものが揃っていたけれど、いずれにせよ三匹の猫が主人然として自由に闊歩す るこの家に高級家具はそぐわないだろう。ようはリツコにとって見栄えより猫との生活優先なのだ。品質、デザイン、ブランドすべて最高のソファの背で猫が爪 とぎしているところに遭遇して金切り声を上げる心配もない。実に合理的だ。
 三匹の飼い猫の名前をいちいち紹介すれば、ミー、マービン、エイダとなる。ミーが一番若いメスの三毛猫。マービンとエイダは大人のオスとメス で、白地に身体の背面だけ黒茶の縞模様のあるトラ猫と全身綺麗な黒猫だ。他の二匹はともかく、ミーというのは三毛猫だからとリツコは言ったけど、あたしは 英語の「me」ではないかと疑っている。エイダ、マービンはともにコンピュータ史に意義ある位置を占める人物の名だ。「エイダ、マービン、そして私」とい うところがいかにもリツコの自らが専門とする分野への自信が感じられるよう だ。
 そんな猫たちとリツコとの暮らしぶりは、エキセントリックな天才科学者という印象とは異なり、ごく平凡とさえいえた。彼女は家事なら何でもこなすし、天 才 に付き物の奇癖や偏執的なところは少なくとも数日間の滞在ではまったく見られなかった。リタイヤへの準備という意味合いもあるのか、特に妊娠してからは仕 事を減らして早く帰宅するようになったので、いつもスーパーへ寄って帰り、ちゃんと自分で夕食を作って食べているそうだ。実際のところ、彼女の料理の腕前 はなかなかのものだ。
 あたしがシンジの学校へ覗き見に行った日の夜も、リツコはスーパーのポリ袋を手に提げて帰宅した。そしてリビングまでやって来てあたしを見るなり開口一 番に言った言葉が、「シンジに会ってきたのか」だった。
 その質問に、リビングで三匹の猫たちと戯れていたあたしは今日一日の自分の行動を思い返して、ちょっと口ごもってから答えた。

「あー、それが会ってはないのよね」

 目を逸らすあたしを怪訝そうに見て、リツコは暑いだろうに几帳面に閉じられたブラウスの襟元を緩めながら言った。

「その『会ってはない』ってのは何?」

「姿は見たわよ。元気そうだった」

 教室から出てきたところをばっちり目撃したわ。不審者扱いされるのが怖くてそのあとすぐに立ち去ったけど。

「はあ? あなたねぇ」

 キッチンへ向かうリツコのあとを、あたしにまとわりついていた三匹がにーにー鳴きながらついていく。さすがは飼い主、まるで猫の女王ね。と考えつつあた しも首を縮めてこそこそと彼女のあとを追いかけた。

「うわっ。何よ、この大きな箱」

 リツコが驚いた物はシンクの足元に置かれている。振り向いた彼女に愛想笑いを返しながら、あたしはしゃがんで発泡スチロール製の大きな箱の蓋を開い た。ぷんときつい匂いが広がる。

「魚じゃない。しかもこんなにたくさん!」

 リツコはさきほどよりもずっと驚いた声を出して、箱いっぱいに詰め込まれた魚を凝視した。アジにメジナ、イカにキンメダイまである。蓋を 開けた途端、濃厚な香りに反応した猫たちが獲物に手に入れようと魚箱の周りをわらわらと取り囲んだ。

「わっ、駄目よ、あんたたち。直接手を出さないで」

 あたしが箱をぐっと抱え上げて避難させると、猫たちはにゃーにゃーとうるさく抗議を始めた。あとであんたたちにもあげるから、あたしの ジーンズに爪を立ててよじ登らないでよぉ。

「説明してちょうだい。一体どこの市場で買ってきたわけ?」

「ちゃんと話すからこの子たちをどうにかしてぇ。いてて、痛いってば、あんたたち」

「うにゃー! なーお!」

「あー、重い! 落としそう! リツコ、見てないで助けなさいよう!」

 しばらくしてようやく食い意地の張った猫たちから解放されたあたしが説明したのはこういうことだ。
 シンジの学校をあとにしたあたしは、ふと思い立って海まで行くことにした。別に潮騒に包まれてセンチメンタルな気分を味わおうと思った わけではない。昔、シンジと一緒に二体に分裂する使徒と戦った場所をもう一度見てみたくなったのだ。あたしはもともと内陸育ちで、海にはあまり縁がない。 パイロットとして来日した時には船旅だったけど、空母なんてものはどうしたって楽しい気分になれるような環境ではなかったし、せっかくの沖縄への修学旅行 もキャンセルになってしまった遺恨がある。
 そんなわけであたしは車を飛ばして伊豆の海岸線を目指した。当時と同じ場所は正確には分からなかったのだけど、 海岸線に沿って車を走らせ、やがて小さな港町に入ると、物珍しさも手伝って何となく漁港に立ち寄ってみる気になった。港には小型の漁船がまばらに停泊して いた。残りはまだ漁 から帰ってきていないのだろう。あたしは停泊しているうちの一隻で作業をしている漁師を見つけると、近づいていって話しかけてみた。その中年の漁師は若い 外国人の娘などいかにも見慣れないという風情だったけど、いくらか言葉を交わすうちに打ち解けて、よく日に焼けて深いしわの刻まれた顔に照れ臭そうな笑み を浮 かべ始めるころにはあたしたちはすっかり仲良くなっていた。

「あなたはシンジくんに会いもせず、何を純朴なおっさんをもてあそんでるのよ」

 リツコの辛辣な言葉にめげず、あたしはさらに説明を続けた。

「違うってば。失礼ね。ただちょっと人恋しかったっていうか、話を聞いてくれる人が欲しかっただけじゃない。だから、日本語の怪しい外国人留学生のふりし て」

「ほら、騙したんじゃない」

「そんなつもりはなかったのよ。ただ、そのほうが油断するかなと思って」

「あなた、悪女の相が出てるわよ」

「うそぉっ?」

 とにかく、あたしの恋愛相談でおっさん大盛り上がりだ。そのうちに近くにいたほかの漁師や港に隣接する加工工場のおばちゃんたちまで一緒になって、獲れ たての魚や 野菜と味噌を一緒にぶっこんで火にかけた鉄鍋を囲むにわか宴会が始まってしまった。当然、車を運転していてその上未成年のあたしは丁重にアルコールをお断 り し、代わりにお茶やジュースだ。ほろ酔いでいい気分になった赤ら顔のおっさんたちのどぎついセクハラ発言に引きつり笑いし、そんな困ったおっさんたちを容 赦なく罵倒して震え上がらせるおばちゃんたちの迫力に涙を浮かべて笑い、時々なんちゃって留学生の口調を忘れつつ、にわか恋愛相談セミナーと化した宴会を あたしは大いに楽しんでいた。

「はぁー、そうなの。その男の子のことが忘れられなくて、日本に戻ってきたの。あらぁー、大変」

 おばちゃんの一人が片頬に手を当てて、しきりと感心するように頷いていた。もちろん、エヴァやネルフの詳しい事情は伏せたまま適当な状況をでっち 上げて話してある。おおまかには十四歳のころ留学でホームステイした家の男の子のことが忘れられなくて、学校を休学してまた会いにやって来たという設定 だ。初めはお互いに反発しあっていたんだけど段々と気になり始めて、でもささいな仲違いから確執が生まれたまま故国に帰らざるを得なかったこと。ところ が、故国での生活を送る中でも彼の顔が脳裏にちらつき、仲違いしたまま別れたことをとても後悔していること。そしてついに気持ちを抑えきれなくなり、一念 発起して貯金をはたいて再び日本を訪れ、留学当時の知人からその男の子の現在の居場所を聞いたものの、遠目から姿を見るのが精一杯でとても直接会う勇気が ないこと。あたしも場の雰囲気に酔っていたのだろう。どこからどう見ても完璧に恋する可憐な乙女という風情で普段からは考えられないようなことまでぽろぽ ろ話し、一座の心をがっちりと鷲掴みにしていた。実際にあたしがどんな娘か知ったら、彼らはさぞかし衝撃を受けただろうけど。

「おねえちゃんはあれだな、舞姫のエリスみたいだな」

「エリス? エリスとは誰ですか?」

 漁師の一人が言った言葉にあたしが訊ね返した。

「知らんか。森鴎外が書いた舞姫っていう古い小説に出てくる登場人物だよ」

「お前、その面で森鴎外なんか読んだことあんのかよ」

「ばっか、おめぇ、これでも昔はブンガク少年だったんだぜ」

「よっく言うよ、このおっさんは。今は文学のブの字もありゃしない。あんたに読めんのはせいぜい競馬新聞くらいじゃないかい」

「そ、そりゃあないぜ、母ちゃん」

 夫婦らしい二人が漫才じみたやり取りをすると、みんなどっと笑った。

「そのエリスは何をする人なんですか?」

「エリスは若くて貧乏な劇場の踊り子で、日本から来たエリートの留学生と恋中になってね。子どもまで身ごもるんだけど、男のほうはそんなエリスを残して日 本に帰ろうとするの」

「ふんふん、それで?」

「エリスは男の裏切りに狂っちゃって、愛情ではなくて栄誉を選んだ男は深い苦悩を抱えて帰国するというのが結末だけど、実はこれにはまだ裏話があるのよ」

 おばちゃんの説明してくれた実在したエリスのモデルが取った行動にあたしはとても感銘を受けた。結局は説得されてドイツへ帰らざるを得なかったようだけ ど、十九世紀末という時代を考えるに並々ならぬ行動だったに違いない。それにひきかえ、あたしは一体何をやっているのか。シンジの住む家も通う学校も分 かっているのに、遠目に姿を見て一人はしゃぐだけで会いに行く勇気もない。改めてそれを考えると、気分が落ち込んでいくのが分かった。

「それにしてもおじょうちゃんの話を聞くと、どうも立場が逆だよねぇ。この場合、エリスは彼氏のほうなんじゃないのかしら。留学してきたのはおじょうちゃ んのほうなんだからさ」

「そんじゃあ、こっちが豊太郎か。確かに頭よさそうだもんなぁ。ほんの中学生くらいで留学なんて。日本語だって上手いしよ」

「ありがとうございマス」

 あたしはこの考え方がとても気に入って、落ち込んだ気分を少し持ち直した。でも、やっぱり好きになったのはあたしのほう。だから、追いかけるのもあたし だ。
 帰り際にみんながお土産にとたくさんの獲れたての魚を持たせてくれた。漁師のおじさんたちが一杯に詰めた発泡スチロール製の大きな魚箱をトランクに積ん でくれている間、おばちゃんたちはみんなあたしの手をぎゅっと握ったり抱き締めたりして、口々に応援や励ましを送ってくれた。エンジンを掛け、開けた窓か らお別れと再会の約 束を何度も繰り返し、彼らに見送られたあたしは再びこの街へと戻ってきたというわけだ。

「それで今、ここに魚の山があるってわけね」

 リツコは蓋を閉じた箱に手を置いて、ややくたびれた口調で言った。こんなに素敵な話を聞かせてあげたのに、何で疲れてるのかしらね。 

「みんな、すっごくいい人たちだったわよ」

「そうみたいね。ところでアスカ、魚は捌けるの?」

「それはすごくいい質問よ、リツコ」

「……できないくせにこんなにもらってきたのね」

「お願いリツコさま。あなただけが頼りなの。もうあたし、お腹ぺこぺこで死んじゃいそう」

「私にもできないとは考えなかったの?」

「信じてるわ」

 だって、猫の女王だし。
 合掌して拝むあたしを、リツコは冷ややかな眼差しでじっと見つめていた。気詰まりな時間をあたしは懸命に耐えた。お腹が鳴るのにも耐えた。
 しばらくして、リツコは大きなため息を吐き、立ち上がって言った。

「仕方がないわ。今日買ってきたお肉は冷凍しときましょ。あなたにも手伝ってもらうわよ」

「ありがとう、リツコ。もちろん、何でも手伝うわ」

 ぐうぅー。
 一緒になってあたしも立ち上がった拍子に腹の虫が大きな音を立てた。とっさに腕でお腹を庇うけど、そんなことをしてもどうしようもない。
 リツコはにっと笑って言った。

「期待していいわよ。お魚料理は得意なの」

 きゅー。



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