好きと言ったら負けるゲーム
B,誘惑と防御
「ちょっとおしゃべりしましょうよ」
夕食後、リビングでクッションにもたれて座っていたアスカがシンジを誘ったのは、ミサトの帰りが遅いある日のことだった。この家のペットのペンギンは、
食事が終わるとすぐに自分専用の冷蔵庫の中
に引っ込んでいたので、彼らは二人きりだった。
使い終わった二人分の食器が並ぶテーブルに視線をやり、シンジはごく慎重
な口調で言った。
「洗い物をしなくちゃいけないんだよ」
その日の食事当番はシンジだったので、当然片付けも彼の仕事だった。できればさっさと済ませてしまいたい。でなければ、自分の時間も作れないからだ。
しかし、これくらいでアスカが譲らないのは分かりきったことだった。
「ちょっとおしゃべりをする間くらい、お皿はあんたを待っててくれるわよ。どこかへ行ったりしやしないわ」
「でも」
「いいからここに来て座りなさいって。あたしの気は変わらないし、どうせ最後にはあんたもあたしの言うことを聞くことになるんだから、無駄な抵抗はやめな
さいよ。ほら、お皿のことは忘れて」
「でも、すぐ水に浸けて洗わないと汚れが落ちにくくなるんだよ」
「もうあんたって奴は!」
アスカは両手を振り回してわめいた。どうして男のくせにこう細かいことばかり気にするのだろう。これがシンジの悪いところだ、と彼女は考えていた。几帳
面なのは結構だが、融通がきかないのはいいことではない。彼女はシンジのそういうところをいくつか矯正してやるつもりでいた。なんといっても彼は世界を守
るエヴァのパイロットの一人なのだ。しかし、彼が神経質で内気な子どもであるせいで、その役目が充分に果たせないことだってあり得る。現にシンジはパイ
ロットであることを嫌がっているが、実際問題として彼に代わりなどいないのだ。彼にしかできないことなのにくよくよ思い悩むのは、意気地がないからだ。甘
えているからだ。彼が子どもだからだ。
シンジはもっと現実を直視する必要がある。
これがアスカの考えていることだった。
そして、さしあたってはシンジが直視しなければならない現実とは、アスカのことだった。彼は今まさに自らを待ち構えている、可愛らしい顔立ちをした、口
うるさくてかんしゃく持ちの赤毛の少女のそばに腰を下ろした。も
ちろん、夕飯の食器を流しで水に浸けてから。大急ぎで。お皿は確かに自分を待っていてくれるかもしれないが、アスカはお皿ほど我慢強くはないのだから。
「で、何を話すの?」
「そうね。今考えてるわ」
シンジが訊くと、アスカは首を少し傾げて視線を彼の上に置いた。彼女はシンプルなタンクトップと丈の短いパンツを着ていた。アスカの服装は、いくら同居
人とはいえ、同い年の男の子の前に出るには、いささか無防備すぎるようにシンジには思われた。タンクトップの薄い生地はアスカの身体を隠す最小限度の役目
も果たしていない気がしたし、脚にいたってはほとんどすべてさらけ出されていた。彼はできるだけそばにいる少女の肌を見ないよう努力していた。
「シンジはこの街に来るまでエヴァやネルフのことを何も知らなかったのよね」
アスカは自分から必死になって目を逸らしている少年の顔をじっと見つめたまま言った。
「そうだよ」
「それまでは普通の男の子だったのね。ねえ、どんな風だったの?」
「なにが?」
「ここに来る前のことよ。普通の男の子としてどんな風に過ごしてたの? あたしは四つのころから、エヴァのパイロットになると決められて生きてきたから、
普通がどんなものか知らないのよ」
シンジははっとしてアスカの顔を見た。今の言葉は間違いなく、これまでで一番彼女が素直な歩み寄りを見せたものだ。四歳のころから十年間もこんな非現実
な生活を続けなければならないのはどんな気持ちだろう、とシンジは思った。
「どんなものといっても、学校に通ったり遊んだり……、特別なことなんて何もないよ」
「いいのよ、それで。聞きたいわ」
「本当にこんなことに興味があるの?」
「ええ、とても興味あるわ」
答えてから、アスカはしまったと思った。これではまるで、自分がシンジにこだわっているみたいではないか。彼の過去や、人生や、彼という人間に。
顔が熱くなり、赤く染まるのが分かったが、幸いなことにシンジはまた目を逸らしていたので、気付かれずに済んだ。彼は過去を思い出そうとする人間特有の
顔つきで
宙のどこかを眺めながら、話し始めた。
「本当に特別なことはないんだよ。母さんが死んだ十年前からこの街へ来るまで、ずっと先生のところで暮らしていた。旧東京の端のほうにある小さな町だよ。
父さんが僕を先生に預けたんだ」
「そうだったの。司令とはずっと会わなかったの?」
「いや、年に一度だけ会ってた。母さんのお墓参りで。でも、三、四年前に喧嘩をして、というより僕が一方的に怒ってたんだけど、それ以来は会うのをやめて
た。お墓参りは日にちをずらして続けたけどね。次に父さんに会ったのはネルフ本部の中だよ。いきなり手紙で呼び出されてさ、来てみれば『エヴァに乗って使
徒
と戦え』だもん。まいっちゃうよ」
「いかにもあの司令のやりそうなことよね。ああ、ごめんね。あんたのお父さんを悪く言うつもりはないのよ」
「構わないよ。事実だもん」
「それで、その先生というのは、どういう人?」
「父さんとの関係は知らないんだ。知り合いには違いないんだろうけど。先生はなんというか、変わった人だよ。いい人ではあるんだけど、変わってた。家には
先生と僕と飼い犬が一匹だけ。あまりしゃべらない人だったし、僕もこんなだから、笑いに溢れた生活だったとは、とてもいえないな」
シンジは少し自虐的な笑みを浮かべて言った。
「でも、今にして思えば、僕は先生が嫌いじゃなかったような気がする。静かだけど落ち着いてたあそこでの暮らしが結構気に入ってたんだ。この街に来て、
それが百八十度変わっちゃったけど」
「まあっ、それじゃ今一緒に暮らしてるあたしが落ち着きがないって言いたいのね?」
アスカが大袈裟に憤慨してみせると、シンジはかぶりを振って弁解した。
「そういう意味じゃないよ」
たっぷり五秒間ほどシンジはアスカから注がれる眼差しに耐えなければならなかった。といっても、彼女も本当に怒っているわけではなかったので、からかう
のはほどほどにして話の続きを催促した。
「いいわ。追求しないでおいてあげる。とりあえず今はね。飼ってた犬はなんていったの?」
「マチコ。死んだ奥さんの名前らしいよ。先生は自分のことをあまり話さなかったし、僕も訊かなかったから、先生が結婚してたころの話とか、どうして飼い犬
に奥さんの名前を付けたのかとか、詳しくは知らないけど。飼い主の先生とは違って、マチコは人懐こくて可愛い犬だった」
「それがあんたの家族だったってわけね」
「……そうだね。確かに家族といっていいのかな。あまりそう考えたことはなかったけど……」
「十年も一緒に暮らしてたんでしょ? 小さかったあんたを育ててくれたんでしょ? だったら家族よ」
アスカは自らの継母のことを思い起こしながら、シンジに言った。
「ねえ、もっと他の話も教えてちょうだい。友達のことと
か、学校とか、
暮らしてた町のこととか」
アスカの表情は明らかに、知りたいことをすべて聞き出すまではシンジを解放するつもりがないことを物語っていた。シンジはそのきらきらした眼差しに
ちょっとひるんだが、逃げ出してしまおうとまでは思わなかった。
彼は育ての親である先生がそうであったように、自分のことをぺらぺらとしゃべるタイプの人
間ではない。けれど、一度話し始めてしまうと、不思議とこの作業は苦にはならなかった。友達のことや学校のこと、暮らしていた町のことを話しているうち
に、自分でも忘れていた楽しかった思い出や気持ちを思いがけず発見して、いつのまにかシンジは夢中になって話をしていた。
そんな自分に対して、二つの青い眼差しが物静かに注がれていることにシンジが気付いたのは、しばらくあとのことだった。
なんとなく話が途切れて、そのまま二人は見つめあった。
「シンジ」
アスカがゆっくりと身体をすり寄せながら、彼の名前を呼んだ。彼女の声の響きはどこか謎めいていた。
「な、なに?」
シンジはどもりながら答えた。彼らは最初からすぐそばに隣り合って座っていたが、今は触れ合うほどに近づいていた。緊張のあまりシンジは喉を鳴らして唾
を飲み込んだ。
「あたしとキスしたい?」
真っ赤になったシンジはぶるぶる震え始めた。その間にも、アスカはシンジとの距離を詰めるのをやめなかった。薄すぎるタンクトップの下からアスカの柔ら
かな身体の形がシンジにははっきりと見て取れた。彼女の桜色のくちびるは誘うようにかすかな隙間を開けていた。なにより近づいたせいで今やはっきりと分か
る彼女の花のような素敵な香りに、シンジは心
奪われていた。
ついにアスカはシンジの両肩に腕を回し、首の後ろで軽く指を組み合わせて、彼の逃げ場を奪った。熟したりんごみたいな色に染まって固まってしまった彼の
顔を見つめながら、彼女はくちびるに愛らしいはにかみを浮かべた。
そのとき、玄関から鍵が外れドアが開く音がした。
ミサトが帰ってきたのだ。シンジにとってそれはまさに救いの手だった。
「シンちゃーん、アスカー。ただいまー」
玄関からミサトが呼びかける声が聞こえてくる。シンジはそちらへ顔を向け、それからアスカのほうへ顔を戻した。彼女は少し面白がっているような顔でシン
ジを見つめていた。どうして彼女がこんなに冷静でいられるのか、シンジには信じられなかった。
この姿をミサトに見られる前にアスカから離れようと、シンジは急いで立ちあがろうとした。まるで二度と外れない鎖のように感じられていた少女の細い両腕
は、意外なことに大した抵抗もなくほどけ、シンジを解放してくれた。
ミサトがリビングに姿を現したのは、ちょうどシンジが立ち上がってアスカから離れたときだった。
「お、おかえりなさい、ミサトさん」
「ただいま。はー、今日も疲れた」
シンジたちの保護者は、先ほどまでの子どもたちの様子にはまったく気付いていないようだった。
「おかえり、ミサト」
シンジに逃げられたアスカも、保護者を見上げて言った。彼女の少し赤い顔には、いたずらっぽい微笑みが浮かんでいた。
「ただいま、アスカ。二人とも仲良くしてた?」
「もちろんよ。ねえ、シンジ?」
質問に答えたアスカがシンジへ流し目を送ると、目に見えて彼は狼狽した。
「う、うん」
「ごめんねー、いつも帰りが遅くて。わたしも二人と一緒にごはんが食べたいんだけどさ」
「いいのよ。ミサトは忙しいんだから。仕方がないわ」
「ま。ものわかりがよくてお姉さんは嬉しいわ。さてと、着替えてきましょうかね。シンちゃん、覗いちゃやぁよ」
「の、覗きませんよっ」
うろたえる少年の反応に気をよくしたミサトは、笑いながら自分の部屋へ姿を消した。
それを見送ったシンジは、ほっと胸を撫で下ろしていた。彼にはアスカの行動が理解できなかったが、もしもあそこで誘惑に負けてなんらかの決断を下してい
たら、うかつに誘いに乗った自分を手酷くからかうつもりだったに違いない、とシンジは思った。アスカは確かに美しい花かもしれないが、びっしりと棘を生や
していることも彼には分かっていたし、彼の想像したことはいかにも彼女がやりそうなことだった。
少し、いやかなり惜しい気もしたが、これでよかったのだ。ミサトに見つかってさらに面倒なことに巻き込まれるのも防げたことだし。
「シンジ」
危機を無事に回避したことに安堵していたシンジは、だから急にアスカが呼びかけてきたとき、びっくりして床から数センチ飛び上がった。
「な、な、なに?」
今度は一体なんなんだ。カーペットに座ったままこちらを見上げている少女に対してシンジは恐怖の眼差しを向け、おそるおそる訊ねた。
「洗い物したら?」
先ほどまでの大胆な行動などまったく忘れてしまったかのようなアスカの言葉は、そっけなくさえあった。過剰に身構えていたシンジはなんだか拍子抜けし、
肩透かしを食らわされたことに腹を立ててむくれた。びくびくと怯えていた自分も馬鹿みたいだった。
とはいえ、洗い物はこの日の当番であるシンジの仕事であることは疑いようのない事実だ。結局、シンジは言い返すこともできず、大人しく洗い物に取りか
かった。
くつろいだ格好に着替えてリビングに戻ってきたミサトが、クッションに身体を預けているアスカを見て言った。
「アスカ、何がおかしいの?」
頬を染め、少し得意げな笑みを浮かべていたアスカは、洗い物をしているシンジの背中に一瞬だけ視線を送り、質問をはぐらかした。
「別に」
なかがき
皆様。怪作様。お付き合い下さり、ありがとうございます。
分量的にはもともと何てことのない短編のお話なのですが、分割したほうがお読みになりやす以下略でございます。
いつもの繰り返しでございます。飽き飽きさせて申
し訳ありません。
今回は本当に一つ一つが短いのですが、実際にはこれくらいがよいのかもしれません。あるいはもっと短いほうがよいのでしょうか。
ようするに、いつも平均的にこういうのが六つから八つくらい繋がって、一つのお話としてテーブルにどかんと出されているのです。さながら、たんとおあが
りとか言いながらアホみたいに飯をてんこ盛りにするおばちゃんのごとく。
美味しい料理ならそれでもぺろりかもしれませんが、まあ、私のお話なのでたかは知れているというものです。
実際、お読み飛ばしになられる方も結構いらっしゃるでしょう。私もそういうことをしますから、悪いとはまったく思いません。
ただ、短いほうが楽なのは確かでしょう。
会話文が少ないので、短いといっても実は文字はみっちり詰まってますけど。
嫌なむちむち感ですよね。何言ってるんでしょうね、私。
残りはCとDです。たぶん。
Cはもうできてますし、Dも量的に大したことありませんから、すぐできると思います。保証はしませんけど。
皆様。ありがとうございました。
rinker/リンカ