「で、ほんまのところはどないやねん」

「どないもこないもあらへんがな」

 体育の授業中にトウジが問いかけてきたんだけど、一体何の話なのか分からなかったので、とりあえずボケてみた。すると乱暴に脚蹴りを食らわされた。何で やねん。

「痛いなぁ。どないって何が?」

「あほ。霧島のことに決まっとるやろ」

 僕たちは体育館の半分を使ってマット運動の授業をしていた。梅雨の時期は雨が多いので、必然的に体育は屋内授業となる。マット運動というのは、楽だけど 結構退屈な授業だ。順番待ちの間は座って待つだけなので、僕たちは喋るかあるいは眺めのいいほうへ目を向ける か、それくらいしかすることはない。つまり、僕たちが体育館のもう半分のスペースを使ってバスケットボールをしている女子のほうをぼけーっと眺めているこ とは、まったく責められるようなことじゃないんだ。いやぁ、バスケって楽しいよね。
 ネットで仕切られた反対側のコートでは今、霧島さんがボールを弾ませながら水を得た魚のように動き回っていた。誰一人として彼女に触れることすらできな いでいた。三チームに分かれた女子のうち、現在試合をしている二チームに霧島さん以外のバスケ部員がいないというのも理由だろうけど、相手方チームにいる アスカでさえ彼女にはとても敵わないようだった。アスカは頭もいいけど、運動のほうだって陸上部員より速いタイムで百メートルを走ると言われるくらい得意 なんだ。もちろん球技もね。だから、いつもならスターの座はアスカのもの。でも、そのアスカの脇を軽々とドリブルですり抜けて綺麗にシュートを決めてみせ る霧島さんは、間違いなく今この場で一番目立っていた。
 しばらく霧島さんの活躍に見惚れていると、またトウジに足を蹴られて先ほどの答えを促された。どうでもいいけど蹴るなよ。お前の体育館シューズは汚いん だぞ。

「センセはもてもてでよろしゅおますなぁ」

「はぁ? 何だよそれ」

「好かれて悪い気はせえへんのやろ」

 トウジの言った言葉に僕はどきっとしたけど、あくまで平静を装ってとぼけてみせた。

「そんなの他人が勝手に思い込んでるだけだろ。本人から何か言われたわけじゃないしさ。興味ないよ、別に」

「自分、すごいこと言うなぁ。世の中の十四歳に喧嘩売っとるで、それ」

「言ってろよ、もう」

 僕はこれみよがしのため息を吐いてみせて、この話題にはうんざりしてるんだぞ、とトウジに示した。
 実際問題としてこれまでのところ、霧島さんには少なくとも表面上変わったところはなかった。時折女子たちに取り巻かれて何やらきゃいきゃい喋っているの を目にすること はあったけど、だからといって別にそれが特別珍しい光景というわけではないし、僕と話す時もいたって普通だった。もちろん告白してくるなんてこともあるは ずがない。周囲の期待を僕たちは見事に裏切り続けていた。

「わしやったら」

 とトウジは言った。

「霧島のほうがええなあ」

「ほうがって、誰と比べてるんだよ」

 僕が訊くと、トウジは変な顔をしてこちらを凝視してきた。

「誰ってお前、惣流に決まっとるやん」

「はぁ? アスカ?」

 どうしてアスカが出てくるんだ? まさかトウジ、いやいや、ちょっと待ってよ。

「まさかトウジ、アスカのこと好きだったとか……」

「んなわけあるかい! ほんまセンセはいらん時にボケかましよって。今はわしやなくてセンセの相手の話しとるんやろ。ほんま、何でそうなるねん」

 ああ、何だ。トウジじゃなくて僕のことだから、それでアスカか。そうかそうか。……ん?

「せやからシンジならどっちがええねん。性格やったら間違いなく霧島やで?」

「いや、だから何でアスカと霧島さんの二者択一なの?」

 どう答えていいか困ってしまった僕だけど、幸い救いの手は他のクラスメイトによってもたらされた。トウジの背中にタックルしてきたそのクラスメイトは 言った。

「何だよ、鈴原。女子のほうばっか見て、霧島の話して。お前、実は霧島のことが好きなんじゃないのかぁ?」

「あほか! ちゃうわい!」

 そうやってぎゃあぎゃあ騒ぎ始めたトウジたちは、先生に止められるまでみんなの注目を集めていた。女子たちもこちらを見ていたから、たぶん聞こえていた んだろう。霧島さんは手の中でくるくるとボールを転がしながら、他の女子に何か声をかけられると苦笑のようなものを浮かべて答えていた。アスカは同じコー トの上で腕組みをして騒ぎを睨んで、一度僕と目が合ったような気もしたけど、ちょっと遠かったから確かなことは分からない。それから今休んでいる三チーム 目のメンバーらしい委員長が体育座りした膝に顔を埋めているみたいだけど、お腹でも痛いのか、それとも馬鹿騒ぎするクラスの問題児に頭痛でもするのかな?
 騒ぎも収まってしばらく経ち、たまにマットの上をころころ転がったりしながら、僕たちは今度はケンスケも加えて一緒に話し始めた。

「お前なら、クラスの女子の中では誰がええねん。言うてみ。ちょい言うてみ」

 トウジがケンスケの肩を組んでくどい感じで質問すると、ケンスケは眼鏡を押し上げながらちょっと怪しく口元を歪ませて答えた。

「クラスの女子になんか興味はないよ。俺が好きなのは綾波レイちゃんだけだ」

 綾波レイというのは、僕たちと同い年の国民的美少女モデルだ。十一歳の時に不思議の国のアリスを翻案した冬月コウゾウ監督の映画『ワンダーランド』で衝 撃デビューを果たし、以来神秘的美少女として絶大な人気を誇っている。
 そういえばこの前霧島さんに見せてもらった雑誌にも、やっぱり綾波レイは載っていた。それで鼻息が荒かったのか、ケンスケ。まあ、僕も結構好きだけど ね。可愛いから。でもケンスケのはちょっと度を越しているというか、僕たちとは一線を画しているって感じ。あ、この表現ちょっと格好いい。ザ・一線を画 す。何といってもケンスケは綾波レイのファンクラブ会員番号四番だからね。好きなのはレイちゃんだけ、だってさ。ひゅー。

「言い切るなぁ」

「当然だよ。クラスの女子どもなんてレイちゃんとは比較にもならないね」

 自分のことでもないのに得意げにケンスケは話す。

「せやけどケンスケ、お前が生のレイちゃんと話できることなんてないんやで。向こうはお前の存在なんて知りもせんのやで」

「あー、すぐそういうこと言う奴いるんだよな、まったく」

「彼氏もいてるに決まっとるで。周りにはイケメンがいくらでもおんねんから」

「分かってないな、トウジ。そんなことは問題じゃないんだよ。あの綾波レイを見て、好きにならないほうがどうかしてるんだ」

 そう言って意気揚々とケンスケはマットへ向かった。
 好きにならないほうがどうかしている、か。聞き覚えのある言葉に、僕はまたネットで区切られた体育館の向こう側に視線をやった。アスカたちのチームは今 は休みらしく、端のほうで座って試合を見物している。
 アスカは俳優の加持リョウジが好きらしい。でも、好きにならないほうがどうかしていると彼女がケンスケと同じ台詞を言ったあとに、テレビで加持リョウジ が電撃入籍したと報道されているのを見た。幼馴染で昔付き合っていた元恋人と八年越しの愛を実らせてうんたらこーたらとキャスターが伝えるのに母さんがぺ ら ぺら好き勝手に論評を加えている横で、僕はアスカのことを考えていた。やっぱりショック受けるのかなぁって。
 テレビキャスターと母さんによれば、加持リョウジは結構女性関係の派手な人だったらしい。三十歳にしてこれまでに話題に上った相手だけでもその数は両手 では足りないとか。同じ男としては、実にけしからんというか、ぽかんとしちゃうっていうか。世の中にはそういうことに不自由しない人間もいるんだなぁって 感じ。でも、かといってすべてに不真面目な人かというとそうでもないようだ。俳優としては高い評価を受けているし、 慈善活動も積極的に行っていて、海外で表彰されたこともあるんだって。
 それで、そんな加持リョウジが結婚することにしたのは幼馴染で八年前に別れた元恋人。名前や顔は分からないけど、職業は何と教師だって。普通の人だよ ね。
 実際に学校で顔を合わせてみると、アスカはショックだと言いつつもわりと平気そうな顔をしていた。好きとはいっても、やっぱり手の届く範囲のことでなけ れば割り切って考え るものなんだと思う。ケンスケの場合はどうだか知らないけどさ。

「好きって、難しいよね」

 ふぅっ。ため息が出ちゃうよ。

「何気取っとんねん。次お前の番やで。はよ行けや、ため息王子」

 王子じゃないやい。





 僕は今とても困っていた。でも助けてくれる人はどこにもいない。この場にいるのは僕と霧島さんだけで、そしてその霧島さんこそ僕を困らせている 張本人だったからだ。
 放課後になってトウジと一緒に帰ろうとすると、体操服姿の霧島さんに呼び止められた。これから部活に行くんだろうと思っていると、ちょっとお願いがある から来て欲しいと霧島さんは言った。トウジは先に帰るからとさっさといなくなってしまうし、お願いって何だろうと気になりながら、体操服の裾を引っ張った りしている霧島さんに頷いてみせると、ついて来てと彼女は言った。そうして、ショートパンツを穿いた彼女のお尻を見ながら引っ張られて行った先は、 ひと気のない体育用具倉庫の裏手だった。

「ごめんね。こんなところで」

「うん。あの、それでお願いって……」

 僕が訊くと、霧島さんは顔をくしゃっと笑わせてこちらを見た。

「本当にニブイのか、わざととぼけてるのか、いつも分からないんだよね」

 一体どういうことだろう? 僕の困った顔がおかしかったのか、霧島さんは小さく笑い声を立てた。

「お願いっていうか、本当はちょっと話があったんだ。だから嘘をついたの。鈴原にはすぐ分かったみたいだけど」

 そこまで言うと、霧島さんは大きく息を吸い込んだ。彼女はまっすぐに僕の目を見つめて逸らさなかった。彼女の首筋から目の下、耳まで真っ赤に染まってい く のが見て取れた。何だか僕までどきどきして、息苦しくなるようだった。

「シンジくん!」

「はっ、はい!」

 霧島さんが突然大きな声を上げたので、僕の背筋がぴんと伸びた。

「あー、う〜、そのぅ……」

 伸びた背筋がまた丸くなった。霧島さんももじもじして丸くなった。

「ごめん。やっぱりちょっとむこう向いててくれない? 反対側」

 赤くなった頬や額を手で押さえながら、こんなに恥ずかしいとは思わなかったとか何とか独り言のように呟く霧島さんを見て、僕はわけが分からないまま言わ れた通りに回れ右をした。
 植え込みの木に止まったセミの声や、グラウンドで練習を始めた野球部や陸上部のかけ声。校舎のほうからは吹奏楽部が音合わせをしているのが聞こえてく る。雨は降り出していないけどはっきりしない薄曇りで、立っているだけで額に汗が浮かんでくるくらいに蒸し暑い。

「シンジくんが好き」

 シャツの裾を引っ張られる感触とともに、それと同じくらいかすかで、けれど確かな声が聞こえてきた。うるさかった周囲の音が一気に弾けて消えた。
 僕、今、告白された?

「好き……」

「あ、あ、あ、あの……」

 喘いでも言葉が出てこなかった。火の中に突っ込まれたみたいに顔が熱い。心臓は暴走してパンクしそうだ。僕は霧島さんの言葉を正確に理解していた。だか ら何か言わなくちゃ。答えなくちゃ。でも僕の言葉は一体どこにあるんだ?
 霧島さんは僕の答えを待たなかった。裾を掴んでいた手がわき腹を通って前へ差し出され、僕の胸元でしっかりと交差された。それとともに僕の背中に彼女は ぴったり寄り添い、うなじをくすぐるように熱い息を吐いた。

「ぼ、ぼ、僕……」

 霧島さんの密着した身体は柔らかく、甘いような苦いような女の子の匂いと少しの汗の匂いが混じり合って、僕をますます混乱させた。くらくらして、めまい がしそうだった。

「あ、ありがとう。……でも、ご、ごめん」

 ようやくのことで言葉を吐き出した途端に、僕を掴まえた霧島さんの腕がぎゅっと強張った。

「私のこと、嫌い?」

 僕の皮膚に直接語りかけるみたいに霧島さんは言った。

「嫌いじゃないよ」

 嫌いなんかじゃない。むしろ好きだ。でも、違うんだ。

「好きだけど。好きだけど、僕の好きはその好きじゃなくて、えっと、だから」

 気持ちを言葉にするのがこんなに難しいだなんて思わなかった。どういう風に言えば僕の気持ちをそのまま伝えられるんだろう?
 僕が言葉に詰まっているうちに、胸元で交差する腕がふっと緩んだ。

「私とは付き合えない?」

「……うん。ごめん」

 そして霧島さんの身体はゆっくり離れていった。風が背中の熱をあっという間に吹き散らしていくのが分かった。僕たちはそのままの状態でお互いに何も言い 出さなかった。しばらくして僕が振り返ろうとすると、肩をぐっと押さえられて、駄目と言われた。

「こっち向いちゃ駄目」

 僕の肩を押さえる彼女の腕はひどく頑固で、僕は言われた通りに振り返るのをやめて地面に視線を落とした。草むしりをサボっているのか、ちょろちょろと生 えた雑草の間をバッタみたいな虫がもぞもぞ動いていた。その脇の地面に色の薄い僕の影が化け物のように張りつき、少し離れて霧島さんの影が映っていた。顔 に向かっ て折れ曲がった腕が小さく動いているのがかろうじて分かった。

「霧島さん」

「いいの。いいの。だってしょうがないもん。そういう好きじゃないんなら。だから謝らないで。謝るなんて、そんなの」

 ずず、と鼻を啜る音をさせて、それからつっかえたように霧島さんは笑った。

「あーあ、フラれちゃった。えへへ、ほんとはちょっと自信あったんだけどな」

 じんじんする頭で僕は霧島さんの言葉を聞いていた。言葉を間違えていたかどうか、いつもみたいに考えることさえ億劫だった。それくらい僕は衝撃を受けて いたし、考えたとしてももう元通りにはできない、ということがすごくよく分かっていた。

「シンジくんは付き合いたいと思ってるような好きな人がいるの?」

「え、いや、別にいない、と思う。分からないよ」

「アスカは違うの?」

 またアスカだ。僕は四年前に外国から来た友達の女の子の顔を思い浮かべようと空を見上げた。でもそこにはただ薄灰色の雲があるだけで、まるで絨毯の裏側 を眺めているみたいだった。

「だってアスカ、シンジくんのこと好きなんだよ」

 え?

「アスカとならお似合いかなって思ってはいたけどね。まあでも、うん。そっか。私、駄目だったんだ。フラれたんだ」

「う、うん」

 思わず僕が返事をすると、霧島さんはちょっと笑った。

「うん、だって。肯定しないでよ。冷たいなぁ。でもそういうとこも、好き」

 言葉を切った彼女が柔らかい胸を震わせて深呼吸するのが、僕には分かった。その音はさざなみのように、身体の脇に垂らした僕の腕の指先をかすめた。

「あー、やだなぁ。何だこれ。まじ泣ける」

 そうして、今まで聞いたこともない、とても繊細な何かが決壊するみたいな細い声を霧島さんは出した。まるで壊れたヴァイオリンみたいな声だった。あ、と 僕は思ったけど、声は出な かった。いつもあんなに明るいのが嘘のように、霧島さんは泣きじゃくり始めた。
 うるさかった周囲の音が再び戻ってきた。相変わらず空ははっきりしない灰色で、僕の背中は少し汗ばんで、そこを時折風が撫でた。
 僕は今とても困っていた。それでも、僕の影は地面に縫い付けられたようにそこを動くことはなかった。






 先生が僕の演奏を途中で止めたのはこれで三度目だった。僕は弓を弦から離して床に視線を落とした。先生は気遣わ しげな表情であごを触りながら、僕に言っ た。

「どうも今日は集中できていないようですね」

「はい。すみません」

 自分が集中できていないことは分かっていた。その原因もだ。僕は恥じ入るような気持ちで先生の言葉に答えた。

「ふむ。まあ、そういう日もあるでしょう。少し気分転換をしましょうか」

 先生は座っていた椅子から立ち上がって扉のほうへ向かいかけ、一度僕を振り返って言った。

「片付けたらテラスへ来なさい。実はケーキがあるんです。飲み物はコーヒーで大丈夫でしたね?」

「あ、はい。えっと……」

「そう、砂糖をみっつにミルクをたっぷりでした。用意しておきましょう」

 僕が先生のもとでチェロを習い始めたのは四歳のころだった。以来十年間もお世話になっている。他人としてはもっとも長い付き合いをしている人 物だ。
 先生は現在六十過ぎで、一人暮らしをしている。十年の間に先生の髪は少し後退して、顔のしわも増えたけど、痩せぎすで背が高く、身なりのきちんとし ているところは少しも変わらなかった。物腰の丁寧さも同様だ。
 若いころ、先生はプロのチェリストを目指したのだそうだ。そしてその夢を叶え、十年ほどの間、演奏の腕だけで食べていく生活をした。でも、ある日先生を 不運が襲った。手の末端が痺れる奇病を患ったのだ。それは生命を奪うようなものではなく、痛みを伴うほどのものでもなかった。痺れも常に先生を襲うわけ ではなかった。けれど、それは先生からプロとしての演奏の腕を奪った。ほんのわずかの違和感。でも聴く者が聴けば分かってしまう、決定的な音の乱れ。痺れ は常に先生を襲うわけではなかったけれど、演奏を始めてしばらくすると必ずそれは発現した。演奏という作業が強いる精神的、肉体的な負担が痺れの発生に影 響するらしかった。
 先生はオーケストラを辞め、郷里にほど近かった新興住宅地に家を建て、そこでこじんまりとした個人のチェロ教室を始めた。生徒数は決して多くはなかった けど、 先生の巧みなレッスンは評判を呼んだ。先生に師事してのちにプロとなって活動している著名なチェリストも何人かいる。そして僕もまた、腕前のほうは自慢す る気に もなれないけど、先生に師事する一人ということになる。そんな先生のことを僕は尊敬していた。
 練習用のチェロや楽譜、譜面台などを全部片付けてから、先生宅の一階の裏手側にあるテラスへ出ると、まだそこに先生はいなかった。庭から一段高くなった ところに母屋からひと続きになっていて張り出し屋根のあるテラスにはテーブルなどが置かれている。一時期はヨーロッパに住んでいたという先生 は欧風なのが趣味で、一人だから手入れが大変だけど、レッスン以外の時間は暇だから何とかなっているといつだったか笑って話していた。テラスから臨む庭も 綺麗にガーデニングが施されていて、そこには季節ごとの花がいつも咲いている。緑が多いせいか空気が澄んでいるように感じられて、蒸し暑い梅雨の午後にも 午後にも涼しさを 感じるくらいだ。
 僕はこの場所がお気に入りだった。もちろんいつもいつも先生がお茶をご馳走してくれるわけではなく、勝手に家の中をうろちょろできるほど気安くもないけ ど、たまにこの場所で庭を眺めながら先生がしてくれる話は、いつも僕にとって楽しいものだったし、時には助けられさえした。落ち込んだり悩みがあったりす ると、決まって先生はこの場所に誘ってくれるのだ。現在プロとして活動している人たちも、やはり印象深い思い出の場所としてこのテラスを挙げていた。先生 には僕たちの気持ちがチェロの音を通して分かるらしかった。
 僕が待っていると、トレイを手に乗せて先生が現れた。

「シンジくん、そんなところに立ってないでお座りなさい」

 てきぱきと用意をする先生を手伝ってから、僕は椅子に座った。

「すみません、先生」

 謝ると、先生は何食わぬ顔で言った。

「こういう時はありがとうと言えばそれでいいんです。いただきます、でもいいですけどね」

「いただきます」

 僕が笑ったのを見て、先生も顔をほころばせた。
 ポットから先生が注いでくれたコーヒーに角砂糖をみっつ落としてたっぷりのミルクを入れてスプーンで混ぜると、香ばしいコーヒーの湯気がふわっと甘く変 化して顔に当たった。コーヒーのことはよく分からないけど、僕はここで飲むより美味しいものを知らない。ゆっくりと口をつけ、いつもながらにそう思った。

「このモンブランは新作らしいですよ。あまり熱心に勧められるのでつい買ってしまいました。うむ、しかし、これは美味しい」

 僕も食べてみると、ぽろっと頬っぺたが落ちた。それくらいにモンブランは夢のように美味しかった。そういえば、と外側の薄茶色のくるくるをフォークの先 でつつきなが ら、僕は思った。アスカもモ ンブランが大好きだったな。

「ここなら屋根があるので濡れませんが、雨が多くて嫌になりますね。梅雨なので仕方がないといえばそうですが、やはり空は晴れていたほうがいい」

 先生の言葉に僕は顔を上げた。雨は昨夜からずっと降り続いて、まるで大きな蓋みたいに黒雲は僕たちの頭の上を塞いでしまっていた。先生の言う通り、空は 晴れていたほうがいい。こんな天気では気分だって塞いでしまう。

「梅雨が終わればいよいよ夏。シンジくんは期末試験の時期ではないのですか?」

「はい。あと十日くらいで」

「頑張らなければなりませんね」

「はい」

 僕が頷くと、先生は庭に咲いている星型で紫色の花に目をやって、カップに口をつけた。

「懐かしいですねぇ。十年前、君が初めて私のところに来たのもちょうど今頃の季節でした。随分と人見知りする子で、お父さんの脚の陰に隠れている君を見な がら、果たしてレッスンを続けられるだろうかと心配だったものです」

「あんまり憶えてないです」

 憶えてはいないけど、当時の僕がどんな様子だったか、どんなことをしでかしたのかについては主として母さんから伝え聞いているので、一体先生は何を言い だすつもりだろうと僕はどきどきした。
 先生は水底を覗き込むように目を細めて、柔らかい口振りで言った。

「おもらしをされた時にはさすがに参りましたよ。いつもレッスンを見学されていたお母さんがその日はいらっしゃらなかったので、トイレに行きたくなったの を言い出せなかったんですね。シンジくんは真っ赤な顔をして泣き出してしまうし、とにかく宥めすかして汚れた服を脱がせて身体を綺麗にしましたが、今度は 着替えがない。掃除もしなくてはならない。電話してお母さんが来られるまでの間、頭を抱えていましたね。今となってはいい思い出話ですが、とにかく 私にはそんなことをした経験がなかったものですから」

 これはチェロ教室での僕の武勇伝の中でも三本指に入る話だ。つまり、三本指に入るくらいに恥ずかしいということだ。やれやれ、そう来たか。僕はモンブラ ンに熱中しているふりをして努めて平静を装った。ふんだ。おしっこ漏らしたくらいで何さ。

「その君がもう十四歳なんですね。月日が過ぎるのは早いものです。あんなに小さかったというのに。もう恋だって一人前にするような歳です」

「恋だなんて、そんな」

 そんなもの、僕にはよく分からない。

「そんなもの、と思いますか? でも恋というのは、しようと思ってするものではなくて、否応なしに投げ込まれるものなのです。嵐の中に放り出されるよう に、止めようと思ったとしてもどうにもならない。それは前触れもなくこちらの都合もお構いなしにやって来ます。誰にでも」

 そう言って先生はこちらを見て少し微笑んだ。初めて会った日よりしわの増えたその顔を見て、僕はこの人でも恋をしたことがあるのだろうかと不思議に思っ た。

「先生」

「はい、何でしょう」

「人を好きになるって、どういう気持ちですか?」

「誰かを好きになりましたか?」

 逆に問い返してきた先生に、僕はかぶりを振った。

「好きだって言われたんです」

 思い切って霧島さんとのことを説明すると、先生は少し面白がるような素振りを見せながら僕の話を聞いた。あれがつい昨日の出来事だなんて、とても信じら れないような気がした。どうしても僕には現実離れした出来事だったように思えてしまうのだ。でも、霧島さんの泣き声だけはよく憶えていた。耳について離れ なくて、それが僕をひどく悩ませていた。こんなこと父さんや母さんには死んだって相談す る気にはなれないけ ど、先生になら、という気持ちで僕は答えを待った。

「その好きとこの好きは違う。なるほど。その女の子は少し気の毒なような気もしますが、仕方がありませんね。だけど、違うということが分かっていても、あ るいは好きかどうか分からなくても、とりあえず付き合ってみるという選択肢だってあるんです。そういう感情は常に変わらないとは限りませんからね。しか し、それをしなかったというところがまた、シンジくんらしいといいますか。まあ別に悪いことではありませんが、十四歳の男の子にしてはちょっと堅すぎるか なという気はしますね。それとも、ひょっとしたら君の中で何かが引っ掛かっていたということかもしれません。無意識にそれが分かっていたから、その女の子 の告白を受けなかったのかも」

「……分からないです」

 僕は俯いてカップを両手で押さえた。先生の温かい眼差しが向けられているのが感じられた。僕よりも数回りも年上のこの人は辛抱強い口調で続けた。

「シンジくんのチェロの音色はまっすぐで正直です。まるでシンジくん自身のように、時に愚直だと思われるほど。分からないことは悪いことではありません。 分からないなら考えて答えを探せばいいし、分からないまま進んでみることだってできるんです。何もかもすべてが分かっているなら、人間は何ひとつしようと は思わないでしょう。音楽だって生まれてはこなかった。音の変化、その組み合わせの妙を楽しもうという心。楽器から奏でられる音を組み上げて一個の音楽を 生み出そうという探究心。初めてチェロという楽器を手にした人間の気持ちを想像したことがありますか? どこをどう触ればどんな音が鳴るのかひとつひとつ 確認し、もっとも美しい音色を引き出す奏法を研究し、時にチェロ自体の形も変えながら、チェロのための旋律を無数の音の中から組み立て、実際にチェロでそ れを演奏する。彼は分からなかった から、そして知りたかったからこそ、それをしたのです。そうして、今シンジくんが学んでいるような数々の楽曲や奏法、技巧が生み出されたのです」

 先生は一度言葉を切って、カップに口をつけた。そしてソーサーに戻す時、取っ手をつまむ先生の指が震えてカップを取り落としかけ、かちゃんと磁器同士が ぶつかる音がテラスに響いた。
 僕は息を呑んでその瞬間を見つめていた。鼓膜を叩くのは降り続く雨の音だけだった。それがひどく長く感じられた。先生はカップを離すと、苦笑のようなも のをかすかに表情に浮かべて、一度だけ確かめるようにゆっくりと手を握っ て開いた。

「難しいことはしなくたっていいんです。毎日の生活でシンジくんが何を感じ、何を思うのか。何を見て、何を聞き、何を味わい、何の匂いを嗅ぎ、何を触るの か。そういったことにほんの少し注意深くなればいい。そうすれば分かることは色々とあるはずです。君が本当に好きな人のこと。それは実は告白をしてくれた 女の子かもしれないし、別の子かもしれません。あるいは本当に今はいないことだってありえます。また将来のことも見えてくるでしょう。未来の君が何をして いるのか。そのために今の君に何が必要なのか。他にもたくさんのことが分かってくるはずです。まだ十四歳なのですから、それでいいんですよ」

「はい」

「今この時に敏感になること。それが明日に繋がるのです。何でもそう。この先チェロの音色も変わってくるでしょうね」

「僕のチェロがですか?」

「ええ。私はそれを本当に楽しみにしているのですよ」

 飲み干したカップの底には茶まだらのかすが残った。それが完全に乾く前に僕はチェロケースを肩に担いで先生のもとを辞去した。傘を差しても雨粒は僕の肩 や裾を濡らしていった。





 霧島さんに倉庫裏に連れて行かれた時、何の予感もしなかったのかといえば、実はそうじゃない。ひょっとしてという気持ちはあった。さすがに僕だってそこ まで鈍いわけじゃないんだ。でも、まさかと思った。まさか僕が女の子から好かれるなんてありえない。あるはずがない。だって僕だよ? 加持リョウジ並とは 行かないけど、僕より格好いい男子なんてクラスにもいくらもいるんだ。そういうのを押し退けて、あんなに可愛い霧島さんが好きになった男子として僕が選ば れるというのは、どう考えたって不合理だ。そうは思わない?

「シンジ。シンジくん。こら、シンちゃーん」

 ひらひらと目の前で振られる手のひらの影に僕はようやく我に返って今が夕食の最中だということを思い出した。先ほどから何度も僕を呼んでいたらしい母さ んは怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。

「どうしたの。ぼーっとしちゃって」

「あ、いや。何でも、ない」

「気持ち悪くなったのならトイレに行け」

 父さんが(いつものことだけど)どこか投げ遣りな口調で言った。心配されているんだか邪険にされているんだか、他人が聞いたら分からないだろう。あまり 感情を出さない人なんだよね。でもこんな父さんでも恋をしたことがあるんだ。だって少なくとも母さんと結婚したんだもの。あとは中学時代のごにょごにょっ てのも。僕は内容知らないけどさ。

「あなたも私も何ともないわよね。別にご飯が悪いわけじゃなさそうだけど、本当に気分が悪いんじゃないの?」

「大丈夫だよ。ただちょっと考えごと」

「考えごと?」

「そう」

 嘘はついていない。だからそんな目で僕を見ないでよ。お願いだよ、母さん。

「ま、いいわ。何ともないんなら早く食べちゃいなさい。父さんも母さんももう食べ終わるわよ?」

 どうにか母さんの追及をかわして僕はほっと安堵のため息をついた。この人は何だか知らないけど異様に鋭いことがあるんだよな。わが母ながら恐ろしい。今 はまだ特に勘付いてはいないようだけど、ボロは出さないようにしておこう。詮索されでもすると厄介だからね。それにしても父さんはよくこんな母さんと結婚 する気になったもんだ。これも恋の力ってこと? 実は弱みでも握られているんじゃあないだろうね。

「なあに、さっきから母さんたちのことをちらちら見て」

「んーん、何でもない」

 おっとっと、危ない危ない。
 夕飯を食べ終わったあと、居間のソファでお気に入りのテレビ番組を観てそのままごろごろしていたら、洗い物をしていた母さんがやって来て僕の名前を呼ん だ。

「ねえ、シンジ」

 まずい、と僕は思った。この声のトーンは小言を言う時の母さんだ。

「あんた、さっきからテレビ観てごろごろしてるけど、もうすぐ期末試験なんじゃないの? 勉強のほうは大丈夫なんでしょうね」

 案の定腰に手を当てて仁王立ちした母さんは、寝転がった僕をしかめ面で見下ろしながらうるさいことを言い始めた。あーあ。

「分かってるよ」

「分かってるなら部屋へ行って勉強を始めたら?」

「これから始めるところだったんだよ」

「あらそう。随分余裕みたいだけど、中間試験では理系の点数悪かったわよね。またあんな点取ったら、母さん考えますからね」

 考えるって何をだよ、と訊きたいところだけど、どうせ訊いたところで僕にとっては面白くない答えしか返ってこないことは明白なので、乱暴に立ち上がると むくれた表情を隠しもせずに僕はずんずん足音を立てて居間を出て行った。その立ち去り際に父さんをちらっと見ると、ひげ親父はちょっとにやけた顔でぼそっ と言った。

「ふん。怒られたな」

 ムッ、ムカツクなぁっ! 言い返す代わりに僕は突き刺すような視線で父さんを睨んでやったけど、向こうは平気な顔でへらへらしていた。でも、そのあと大 きなおならをしたせいで、いらいらが収まっていない母さんに怒鳴られていた。ざまあみろ。へへん。
 母さんの言う通り、前回の中間試験では理系の点数があまり芳しくなかった。ああいう小言を言われるといらっとして反発したくなっちゃうんだけど、さすが に僕だって母さんたちの言葉が間違っていないことくらいは分かっている。勉強はしなくちゃね。先生も言っていた。漫然と時間を無駄にしてはいけない。やる ときは集中してやるんだって。
 というわけで部屋に戻って大人しく勉強を始めた僕なんだけども、教科書を開いて十分としないうちに早くも気が逸れ始めてしまった。僕の集中力を奪ってい るのは、もちろんここ最近の霧島さんとのことだ。
 霧島さんに悪いことをしてしまった、という思いが僕を苦しめていた。でも、どうしても僕は彼女と付き合うことについて首を縦に振れなかった。自分でもど うしてだか分からない。あの時はかなり混乱していたし、咄嗟に言ってしまった感がないわけではない。でも、嘘を言ったわけでもないんだ。
 本当にあれで正しかったのかどうか、僕には自信がなかった。心の準備が万全ならば少しは違っただろうか。でもたとえそうでも、違う結果になったのかとい えば、それはまた別の話だ。やはり結局は、僕は霧島さんの告白を断っていたかもしれない。
 先生は言っていた。何を感じ、何を思うのか、注意深くなれって。それは難しいことではないと先生は言うけど、僕にはとても難しく感じられる。それでも、 もし僕がそうできていたなら、もっと霧島さんの気持ちを普段から推し量ることができていたなら、と後悔してしまう。彼女がどんな表情をし、仕草をし、何を 言っていたのか。僕は見聞きしていたはずだったのに。それなのに結局何も分かってはいなかった。僕の手を握る彼女の柔らかい手の感触からも、何ひとつ思い を掬い上げることなんてしなかった。
 教科書を開きペンを握ったまま、それらに目を通すでもノートを取るでもなしに考えごとに没頭していた僕は、突然のノックの音で我に返った。慌てて返事を する と、開いたドアから母さんが顔を覗かせて言った。

「シンちゃん、コーヒー淹れたけど飲む?」

「うん」

「じゃあ持ってくるわ」

「あ、砂糖とミルクもお願い」

「はいはい。甘いのが好きなんでしょ」

 どうやらいらいらは収まったらしかった。すぐにコーヒーの入ったマグカップを持ってきてくれた母さんはそれを僕の机に置いて、教科書を覗き込んだ。

「ちゃんと真面目にやってる?」

「やってるよ」

 ごめんなさい。考えごとをしていて全然進んでいません。

「頑張ってね。分かんないとこあったら、父さんに訊きなさい。教えてくれるから」

「ん、分かった。コーヒーありがと」

 母さんは特に疑うでもなく、僕の頭をくしゃっとやるとすぐに部屋を出て行った。
 一口飲んだコーヒーは僕好みの甘さだった。父さんに言わせるとゲロ甘ってことなんだけど。まあ頭を使うには糖分を摂るといいっていうしね。さってと、そ んじゃ気持ちを切り替えて、本気で勉強頑張りますか。





 学校の授業もそろそろ期末試験を意識したものになってきて、みんな試験範囲の確認をしたりとさすがにのんきに構えてばかりはいられないようだ。かくいう 僕も、真面目に授業を受けて、先生がふとした拍子に漏らす試験に関する情報を聞き逃さないようにしている。せっかくの夏休みの前に嫌な思いはしたくないか ら、それなりにみんな必死だ。しかも万が一赤点の教科があると、休み中に補習授業を受けなくちゃいけなくなるんだもの。うちの中学校は結構教育熱心なん だ。一年生の時に国語の補習を受けたト ウジが言うには、あれはきついらしい。嫌だよね、そんなの。
 通称三馬鹿トリオと呼ばれる僕とトウジ、ケンスケだけど、三人の中で一番勉強が苦手なのはトウジで、四時間目の国語の授業が終わって一緒に弁当を食べよ うと僕とケンスケが一緒にいると、階段三百段うさぎ跳びしてきたみたいにへろへろの三馬鹿トリオ最後の一人が近づいてきて言った。

「ケンスケ〜、センセ〜。わしを助けたって」

「何だよ、泣きそうな声出して、トウジ」

 あまりに打ちのめされたトウジの様子にケンスケが驚いて訊ねると、トウジは椅子に座って机に置いた弁当箱の上に顔を伏せた。

「あかんねん。テスト勉強、間に合わへん」

「間に合わへんって、まだあと一週間あるじゃない」

 僕が言うと、トウジは顔を傾けて目だけこちらに向けてきた。

「一週間で他の教科もせなやのに、国語の古文が全然分からへんねん。このままやとまた補習授業や。嫌や、もうあれは。何で夏休みにガッコ来て勉強せなあか ん ねん。受ける奴少ないねんで。教室にぽつーん、ぽつーんて座って。行き帰りも暑うて嫌やけど、あれがいっとう嫌やねん」

 大きなため息とともにトウジは弁当箱に額をごりごり押し付けた。それを見かねたのかケンスケが言った。

「しょうがないなぁ。食いながら教えてやるから教科書持って来いよ」

「ほんまかっ。おおきにケンスケ〜」

「いいから持って来いって」

 ケンスケの言葉で復活したトウジはばたばたと自分の席に戻って古文の教科書を取ってきた。ケンスケも自分の教科書を取り出し、こうして弁当を食べながら のにわか勉強会が始まった。
 写真馬鹿でおたくだと思われている三馬鹿トリオメンバーのケンスケは、実は結構頭がいい。いつも成績はクラスの上位集団に食い込んでいる。これまでもト ウジはこの成績のいい親友にかなりお世話になっているんだ。それこそ小学校の頃からね。一方の僕も成績が悪いということはなく、中の上から上の下といった ところだ。若干理数系が苦手なので、前回の中間試験では点数が振るわなかったけど、総合的にはそこそこできているほうだと思う。でも、他人に教えるのはあ まり得意じゃない。
 トウジとケンスケは古文の教科書を睨みつけながら喧々ごうごうとやり合っていた。

「せやから何でそこがそんな意味になるねん!」

「そういう風に決まってるんだよ! 昔の人はこういう表現をしてたんだ。それで納得しろ」

「納得いかへんわ。ちょー、わしの説を聞いてくれ」

「お前の説なんか知るか! いいか、トウジ。古文なんか暗記だ。文法といくつかの言葉の意味を覚えてりゃ楽勝で点が取れるんだ。教科書丸暗記するくら いの つもりでやれ。話の内容も全部覚えちまえ。引っ掛かるところがあっても、そういうもんだと受け入れるんだよ!」

 僕が思うに、トウジは勉強の内容に余計な疑問を抱かなければもっと成績が上がるはずだ。何というか、頭の使いどころがズレてるんだよね。それにしても、 こんな風に教えることなんて、僕にはとてもできないよ。

「大体昔の貴族ゆうたら関西人やろ。何で関西弁やないねん」

「お前は馬鹿だ。馬鹿だろ? 馬鹿なんだな?」

「喧嘩売っとんのかこら! から揚げ取ってまうで!」

「うるせぇ!」

 こんな風に丁々発止のやり取りを繰り広げながら、ケンスケとトウジの勉強会は続けられた。何しろ弁当を食べながらだったので、気がつけば昼休憩の時間も かなり経過して、クラスメイトたちはとっくに昼食を食べ終わって、半分以上がどこかへ出払っているようだった。いくら試験前とはいえまだ一週間もあるのだ から、休憩時間にまで勉強しようという生徒はさすがにあまりいない。そう考えてみると、トウジなど根はかなり真面目なのかもしれない。こうして苦手なのを 頑張っているのだから。

「じゃあ動詞の活用を言ってみろ。四段活用から。さあ」

「あ? あー、四段活用からやな。えーっと、あ、い、う、う、え、え」

 ところで僕は一体この勉強会で何をしているのかというと、教師役はケンスケが一人で完璧にこなしていたので、実は何もしていない。二人のやり取りに茶々 を入れるくらいのものだ。弁当も一人だけ食べ終わってしまった。トウジもケンスケも表面上はそう聞こえないかもしれないやり取りだけど真面目にやっている ので邪魔もできないし、何となく暇に飽かせて僕は教室内のクラスメイトたちの様子を観察したりしていた。
 不思議と僕の視線を引き寄せたのは、廊下側の席のところで話している霧島さんと他の女子だった。僕たちはケンスケの席がある窓際の列にいて、霧島さんた ちは反対の廊下側の列だ。しかも前から数えて二番目にあるケンスケの席に対して、霧島さんの席は後ろから三番目で、ほとんど対角線上にあるといっていい。 つまり、結構遠いんだ。僕は椅子に横から座って窓際の壁に背中をもたせかけ、親友たちのやり取りに時々参加しながら、僕の人生にここ最近では一番でかい隕 石を落としてくれた霧島さんの姿をぼんやりと眺めていた。
 どうも二人は額を寄せ合って内緒話をしているみたいだった。楽しそうに笑みを浮かべたり、悲しそうに眉を曇らせたり、忙しい様子だ。会話の内容までは当 然聞こえてはこない。ひょっとして僕のことを話しているのかと想像したら、心臓が少し嫌な跳ね方をした。

「せー、しー、すー、する、すれ、せ・せよ。なー、にー、ぬー、ぬる、ぬれ、ね?」

「よしよし。合ってるぞ、トウジ」

「うはは。当然やな。次はラ行や。らー! りー! るー!」

「違う」

「……ちゃうねん。ちょー、言い間違え。な?」

 トウジはものすごい真顔でケンスケに言った。でもケンスケは何もかもお見通しだという目でその視線を跳ね返していた。僕は一人で笑っていた。
 そんな時、突然頭上から別の声が割り込んできた。

「あれだけ自信たっぷりに大声出して、言い間違えなわけないでしょ」

 声の持ち主は委員長だった。一体いつの間に僕たちのそばに立っていたのか分からないけど、何だって彼女は僕たちにいちいち絡んでくるのだろう。特にトウ ジとは水と油みたいに合わないのに。そもそも僕たちを三馬鹿トリオと命名したのは委員長で、理由も分からず僕たちは目の敵にされているのだ。それにして も、どうでもいいけど彼女、委員長なんてやっているわりにひどいこと言うよね。三馬鹿って、そりゃないよ。
 太陽を背に空から襲来した爆撃機を見つけたように目を細めてトウジは彼女を振り仰いだ。珍しく彼は何だか悔しそうな表情をしているみたいだった。

「うっさいのう。いいんちょには関係あれへんやろ」

 いつもならば威勢よく言い返すのに、今日のトウジは元気がないみたいだった。ケンスケのスパルタで疲れているのかもしれない。

「大体鈴原、あんたノートはちゃんと取ってるの?」

 委員長はトウジの言葉を完全に無視して言った。関係ないかどうかの決定権はどうもトウジの側にはないらしい。こういう時に口を挟むと厄介なので、僕は 黙って二人のやり取りを聞いていた。腕組みして背もたれにもたれかかったケンスケも、どうやら傍観を決め込んでいるようだった。

「取っとるけど、あんまよう分からへんねん」

「ちょっと見せてみなさいよ」

「ん。これ」

 驚くほど従順にトウジは素直に自分のノートを委員長に差し出した。委員長はぱらぱらとページをめくると、私は頭痛がしますというポーズを取って言った。

「全然駄目じゃない……」

「板書の途中で知らん間に寝てまうねん」

 委員長の手からトウジへ返されたノートを横からさらって、僕とケンスケは開いてみた。そこにはトウジ流の大きな字で板書されていたけど、ある場所から突 然、死にかけのミミズがのたうったみたいな跡がページを横断して、文字が途絶えてしまっていた。確かめてみると、ほぼ毎授業、トウジは睡魔に負けているよ うだった。これじゃ駄目なはずだよ。

「だから赤点なんか取るのよ」

 委員長は相変わらず手加減という言葉を知らなかった。

「放っといてんか。どうせいいんちょがノート貸してくれるわけでもないんやろ」

 拗ねたみたいにトウジは委員長から視線を逸らした。どうもこんな調子ではトウジがいじめられているみたいだ。そろそろ止めたほうがいいか、と心配になっ て僕はケンスケと目配せし合っていた。だから危うく委員長の次の言葉を聞き損なうところだった。

「別にそれくらい貸してもいいけど」

 それを聞いたトウジの寝返りの打ちようといったらなかった。一週間水だけで生きてきたところにフライドチキンを投げ与えられた柴犬みたいに顔を輝かせ て、 彼は何故かそっぽ向いている委員長に叫んだ。

「ほんまか! うわっ、助かるわぁ!」

 尻尾をぶるぶる振りまくるトウジに、委員長は手で顔を押さえて言った。

「コピーさせてあげるだけよ。私だってノートいるんだから」

「かめへん、かめへん! それだけで充分や」

「今日貸してあげるからコピーして明日には絶対持ってきて返してね。もし忘れたらあんたの家まで回収しに行くわよ」

「うわー、ほんま、えらいおおきに。絶対返すから。ちゅうか帰りに一緒にコンビニ行って、コピーしたらそのまま返してもええで?」

「あ、うん、えっと、いいのよ。今日は使わないから、明日必ず持ってきてくれれば」

 このやり取りを僕とケンスケは蚊帳の外からぽかんとしながら眺めていた。一体これは何なんだろう? 古文のノートをきっかけに犬猿の二人についに雪解け が訪れたとでもいうの? そして二人の第二章が始まるとでも? なんちゃって。

「なあ、シンジ」

「うん?」

 ケンスケは委員長たちには聞こえないようなひそひそ声で僕に言った。

「なーんか、いやーんな感じしないか」

「え? あー。あー……」

 委員長の顔は段々赤らんでいくようだった。自分の席に戻って取ってきたノートをトウジに押し付けて、絶対汚すな折るな落書きするなと、うるさく注文をつ けている。トウジはそれを馬鹿みたいな顔をして嬉しげに聞きながら、宝物みたいに委員長のノートを押し頂いていた。やれやれ。

「委員長って」

 僕が委員長たちにも聞こえるくらいの大きさで言うと、おかしな二人は一斉にこちらに振り返った。

「優しいんだね」

「なっ、勘違いしないで! これは委員長としてクラスから赤点を出さないように……」

 いやーん。





 学校の帰りにトウジと一緒にコンビニに寄って、委員長から借りたノートのコピーを取ると、いつもの場所で僕たちは別れた。トウジは終始ご機嫌で、浮かれ ているといってもよかった。ただでさえ今日は暑いっていうのに、おめでたい奴だよ、ほんと。
 ケンスケの言ういやーんな感じが仮に事実だとしても、トウジはどこまで自分で気付いているんだろう。こう見えて他人の気持ちに鋭い奴だから、案外色々と 分かっているのかもしれない。その上でこんな風に感情が表に出てしまっているのなら、単純というか何というか。単にテストをどうにか切り抜けられそうで喜 んで いるだけかもしれないけどね。
 それにしても委員長は意外の一言だった。絶対にトウジのことを嫌っているとばかり思っていたのに、まさかその逆だなんて。やたらと突っかかってきていた のも気になっていたからなのか。あるいは突っかかっているうちに気になり始めたのだろうか。
 もちろんすべてはまだ推測の域を出ないのだけど、もし本当にそうなら僕は全面的に応援するつもりだ。といっても具体的に何をすればいいのか分からないか ら、とりあえずはこれまで通りだけどね。
 いずれにせよ、トウジ本人が喜んでいるのだからそれに越したことはない。彼と別れてほかほかした気持ちになりながら、ここから家まで一人の道中を音楽を 聴きながら歩くために僕はイヤホンを引っ張り出した。そしてもつれたコードを解いている最中に、突然大声で名前を呼ばれて僕は飛び上がった。文字通りに地 面からちょっと浮いた。

「だってシンジくん、びっくりしすぎなんだもん」

 お腹を押さえて、こらえようにもこらえられないという風に表情を歪めた霧島さんの前で、僕は拗ねていた。どうせ僕はビビリだよ。心臓が小さいよ。 笑いたけりゃ笑うがいい。

「ごめんごめん。まさかあんなに驚くと思わなくて」

「で、どうしたの。また何か用なの?」

 僕が訊くと、霧島さんはちょっと自嘲めいた表情を浮かべて言った。

「うん。特に用ってほどでもないんだけど、ちょっと話したくて」

 デジャヴュだよ。最近の僕、こんなのばかりだな。

「歩きながら話す?」

「できればどこかで座って話したいな。ごめんね」

 俯き加減で霧島さんは謝った。どうもしおらしい霧島さんというのは慣れなくて調子が狂う。まず間違いなく僕が原因なんだろうけど。

「いいよ。でもこの近くには入れるようなお店がないんだ。公園で構わない?」

「うん」

 その公園は僕の家から程近いところにあって、外縁を囲むようにアカシアが植わっていて芝の地面には所々敷き詰めたようにシロツメクサが咲いていた。公園 には僕たちの他に一、二歳くらいの子どもを遊ばせている若い母親の姿があった。
 ベンチに並んで座ると、僕たちはしばらく公園の風景を黙って眺めていた。一体どんなことを切り出されるのだろうと僕は一生懸命想像してみたけど、どう考 えても三日前の彼女の告白に関係があることは間違いなさそうだ。

「いいとこだね」

 初めてここへ来たらしい霧島さんは言った。

「うん。今日が雨じゃなくてよかった」

 隣に座る霧島さんの顔が見られなくて、僕は彼女の揃えられた膝小僧に視線を注いでいた。不安でどきどきして汗が出てくるのが分かった。

「それで、話っていうのは……やっぱりこの間のこと?」

 こうしていても始まらない、と僕は勇気を出して訊いてみた。でも、霧島さんはしばらく返事をしてくれなかった。一秒ごとに僕は後悔していった。たった三 日前に振ったばかりの女の子に対して、あまりにも無神経だったのではないか。身体中の毛穴からは嫌な汗が噴き出してきて、心臓はにわかに騒ぎ立て始めた。 頭の中では緊急の反省会が絶賛開催中だ。ああ言うべきだったか、それともこうかときりもない考えに囚われてしまう。
 もう駄目だ、という気分になり始めた頃、ようやく霧島さんは答えてくれた。

「この前はごめんね。突然あんなこと言われて驚いたよね。変なこともしちゃったし。ほんとにごめん」

 変なことっていうのは抱きついてきたことか。びっくりはしたけど、何も謝らなくたっていいのに。ああ、でも、そうさせているのは僕なのか。
 指先でベンチの腰掛板の表面をかりかりと引っ掻きながら、僕は言った。

「確かにびっくりはしたけど、全然嫌なんかじゃなかったよ。変なことだなんて、そんな。むしろ嬉しかった、かも」

 霧島さんが真横にある僕の顔をまっすぐに見つめているのが分かった。でも、僕はその視線をまともに受け止めることができなくて、シロツメクサの絨毯の上 を舞う蝶とそれを追いかける幼児の姿を目で追っていた。

「……すけべ」

「えっ、いやっ、違うよ! そういう意味じゃなくて!」

 確かにそういう意味もあるんだけど、それが全部じゃなくて、決してそういうことばかり考えていたわけではなくて。
 僕は顔が真っ赤になるのを意識しながら必死に弁解しようと試みた。そんな僕を見て、霧島さんはけらけら笑った。

「うそうそ、冗談。慌てすぎだぞ?」

 ううう、この小悪魔さんめ。

「でも安心して。もうあんなことしたりしないから」

 つま先で地面を削りながら霧島さんは言った。先ほどからアスカとは別の意味で僕のペースを乱してくれる彼女も、実は大変な努力をして今この場にいるので は ないだろうか。執拗に掘り起こされる彼女の足元を見ていて僕はそれに気付いた。
 そうだ。平気なはずないじゃないか。

「あの時は私も緊張してわけ分かんなくなっちゃっててさ。ほんとにごめん」

「霧島さん、謝らないで。霧島さんは何も悪くないし、むしろ謝らなくちゃいけないのは僕のほうなのに」

 僕が言うと、霧島さんはつま先で地面を削るのをやめて、きちんと揃えて地面に下ろした。僕の言葉に彼女はどんな表情をしているんだろう。それを確かめる のが怖くて、顔を上げられずに学校指定シューズを履いた霧島さんの足を 見つめていると、彼女が言ってくれた。

「ありがとう」

 はっとして顔を上げると、三十センチと離れていない至近距離に彼女の笑顔があった。彼女の表情はとても可愛らしくて、どうして僕はこの人に『そういう好 き』を抱けないんだろうと不思議に思った。

「でも、シンジくんだって別に悪いことをしたわけじゃないよね。ただ私とは気持ちが重ならなかっただけ。それからシンジくんは自分の気持ちに嘘がつけな かっただけだもんね」

「う、うん」

 そういうことになるのかな?

「だから、そっちも謝るの禁止」

「禁止?」

「そ、禁止。約束しよ」

 そう言って霧島さんは小指だけを立ててこちらに差し出してきた。彼女が求めているものを理解した僕も同じようにして、彼女とそっと絡めた。小さく、細 く、柔らかくて、しっとりした霧島さんの小指。
 繋がれた小指を何度か揺すると、僕たちは顔を見合わせて笑いあった。何もかも元通りというわけには行かないけれど、これで僕たちの間のわだかまりが少し は解消したかな、とほっとしていた。だから、突然彼女の笑顔の上を滑り落ちた涙の雫に、心底ぎょっとさせられてしまった。

「えっ、わっ、わっ、ごめん!」

「こらっ! 約束したばっかでいきなり破るな!」

「だだだ、だって」

 両手で意味不明の図形を描きながら僕がおろおろしていたら、霧島さんは指の腹や手の甲で乱暴に目元を擦って、すんと鼻を啜ってから言った。

「これはそういうんじゃないの。もう、やだな。どうして出てきちゃうんだろ。言っとくけど、私、いつもはこんなに泣くわけじゃないんだからね」

「あ、そ、そうなんだ」

 そうなんだ、じゃないだろ碇シンジの馬鹿馬鹿、と自分につっこみを入れつつも、他に言葉も見つからず、僕はただうろたえるしかなかった。女の子が泣いて いるのって心臓に悪いよ。
 涙を無理矢理拭き取ってから、霧島さんは少し赤くなった目で僕を見て、にかっと笑った。

「シンジくんって女の子に弱そうだよね。慌てすぎなんだもん」

 それは男としてどうなんでしょう。駄目なんじゃないかな。

「だって、慣れてないんだ、こんなの」

「こういうのに慣れちゃったシンジくんってのも想像できないな。今のままでいいよ。だって、可愛い」

 ……いや、それはどうかと思うよ。可愛いって。

「そういうとこもね、すごく好き。きっとアスカも同じように思ってるんじゃないかな」

「ねえ、そのことなんだけど」

 僕は前々から思っていた疑問を口にした。

「どうしていつもアスカが出てくるの。アスカは本当に僕のことが好きなの?」

 僕の顔をしばらく霧島さんは泣いて少し腫れぼったくなった目で見つめていた。そして何か考えているようだった。見つめ合いが続いて、そろそろ居た堪れな くなって僕の目玉が勝手に余所を向き始めた頃、ようやく彼女は口を開いた。

「あのさ、ひとつお願いがあるんだけど」

「あ、うん」

 お願いって何だろう。というかアスカのことはどうなったの?

「一度でいいからね、私のこと、名前で呼び捨てにして欲しいの。名字じゃなくて」

「えっと、それは」

 それは一体何の意味があるの?

「私の下の名前、マナっていうんだけど」

 知ってるよ、それは。一応。

「ね、マナって呼んでみて。駄目かな」

 いや駄目だ、名前で呼ぶことは断る! とここで言い切ってしまえるほど僕は意地悪でもなければ、そういう度胸もない。断る理由もないしね。それにそんな ことを言った日には、三十分後には後悔で自殺するための拳銃を探し始めるだろう。照れ臭いというのはあるけど、そこはぐっと我慢だ。霧島さんの涙に比べれ ばこれくらいのこと。よし!

「マナ」

「えっ、うわっ、ちょっと待って。まだ心の準備ができてなかった。いきなりなんだもん。ね、もう一回言って?」

 一度でいいんじゃなかったの?
 と思ったことはおくびにも出さず、僕はもう一度彼女の名前を呼ぶために口を開きかけた。でも、彼女がそれを制止して言った。

「待って待って。今心の準備してるから。……よし、いいよ」

「いい?」

「うん。いつでも」

「じゃあ……、マナ」

「……もう一回」

「マナ」

「うん……」

 三度目は少し語尾を上げて、問いかけるように僕は彼女を呼んだ。このままリズムをつけて音楽みたいにするのも面白いかもしれない、と僕は少し暢気なこと を考えて始めていた。
 でも、四度目の機会はなかった。三度目の呼びかけで霧島さんは何かに納得したような表情を浮かべると、僕から視線を外してまっすぐに正面を向いた。

「ありがと。わがまま聞いてくれて」

 言葉に反して霧島さんの横顔はどこか寂しそうだった。僕はまた彼女を傷つけてしまったのかもしれない。でもどうしてだか分からなかった。

「いつもね、羨ましいと思ってたんだ。シンジくんがアスカのこと呼ぶのを聞いてて。私もああやって呼ばれたいって」

 彼女はこちらを見ないまま話し始めた。無言でそれに耳を傾けていた僕は、額から眉まで落ちてきた汗を思い出したように拭った。今日は晴れているけどひど く蒸し暑い。

「シンジくんだけなんだよね。あの子のこと、名前で呼び捨てにする男子って。初めはそれで気になったのかもしれないな。アスカってほら、すごく目立つ子で しょ。それに女子には結構優しいけど、男子にはあの通りきつい性格だから。不思議だな、どうしてかなって」

 僕がアスカのことをファーストネームで呼び捨てにするのは、初めて彼女と出会った時からのことだ。それは小学校でクラスのみんなが彼女と出会うよりも 前。 僕の家でのことだった。
 きっとアスカは、日本ではよほど親しくなければ名字で呼び合うことのほうが多いということを知らなくて、小学校に行ってみんなから惣流さん、惣流さんと 呼ばれるようになってから、初めて気付いたのだと思う。そしてその時にはもう、僕たちは当然のようにシンジ、アスカと下の名前で呼び合っていた。
 もちろん、当然のように思っていたのはアスカだけで、日本で生まれ育った僕は照れ臭いのを我慢して慣れる必要があった。そういうことも、アスカはきっと 知らないんだろう。初めて出会って自己紹介をした時に、どうしてアスカと呼んでくれないのかと不思議そうな顔をしていたもの。よく憶えている。
 だから、こんな些細なきっかけから始まったことを羨ましがることなんてまったくないんだ。

「私はそれまでより二人のことをよく見るようになった。暇だったんだね。いつも目で追ってさ。アスカの気持ちにはすぐに気付いた。シンジくんの気持ちにも ね。でも、その頃にはもう、私はもうひとつのことに気付いていたの。あ、私、恋してるんだ、って。
 あっという間に夢中になった。この気持ちはもう止められないと思ったし、止めるつもりもまるでなかった。毎朝ね、学校でシンジくんの顔を見るたびに私は ほっとしてたの。どうしてか分かる? こう思ってたの。ああ、今日もまだアスカに盗られてない、ってね。ひどいでしょ? あの子を出し抜くために色んなこ と考えたりして。必死だったなぁ。でも、そうやって頑張ってる自分が、結構気に入ってた」

 霧島さんはベンチの上に持ち上げた脚を折り畳んで、太ももの下から通した両腕でスカートの裾を押さえながら、膝の上にあごを乗せた。

「私はシンジくんのことを独り占めにしたかったの。アスカを呼ぶあの声も、私だけのものにしたかった。無人島で二人きりにって話、あったでしょ? 本当に そうできるなら、何をしたっていいって思ったな。シンジくんのためなら何だってできる。そのために私は生きてるんだって、そんなことさえ考えたりしてね。
 でも、失敗。シンジくんが好きなのは私じゃなくて、そんなことはずっと前から分かってたけど、私の中の好きって気持ちだけじゃそれを動かすことができな かった。本当にこう思ってたの。シンジくんを好きな気持ちが誰よりも大きければ、アスカにだって勝てるって。だからきっと大丈夫って。あの子よりも私のほ うが絶対シンジくんのことを好きだって自信があったもん。今だってあるよ。絶対にアスカの気持ちに負けたりはしない。でも、そういうことじゃなかったんだ よね。だから、私はシンジくんに謝ってなんて欲しくないし、私のほうが謝るのも違うんだよね。
 言っとくけど、別に同情を引きたくてこんな話をしてるんじゃないよ。何ていうか……、何だろ。きっと私、思ってることを吐き出して整理したかったのか な。鈴原と一緒に歩いてるシンジくんを追いかけてる時は絶対どうしても伝えなくちゃって思い詰めてたけど、今になって、どうして自分がこんな話してるのか よく分かんなくなってきちゃった」

 ちょっと自嘲気味に霧島さんは笑って、膝に頬を乗せて僕のほうへ顔を向けた。もの問いたげな目が細められてこちらを見つめていた。

「アスカのこと、好き?」

「分からない……」

 本当に分からない。好きといえば好きだ。それは否定しない。でも、それが『そういう好き』なのかどうなのか、僕はこれまで考えたこともなかった。

「ふふ。私はシンジくんのこと、好きだよ」

「えっと……、ありがとう」

「どういたしまして」

 遊んでいた子どもと若い母親はどうやら帰り始めたようだった。短い脚を振るってふらふらと歩く子どもから目を離さず、あとをついて回りながら、母親は子 どもを出口のほうへと誘導していく。そっちへ行かないで、と時に呼びかけ、手を叩いたりしながら、遠目にも分かる優しい微笑みを浮かべた母親は、やがて子 どもの小さな手を捉えると、並んでゆっくりと遠ざかっていった。

「もうちょっとだけ、好きでいさせてね」

 僕が霧島さんの顔を見ると、彼女はこちらから隠すように膝に顔を埋めた。
 いつの間にか空には雨雲が迫ってきていた。ひどく蒸し暑い空気が湿った雨の匂いをさせ始めているのに僕は気付いていた。





 その夜は激しい土砂降りになった。母さんと二人での夕食後しばらくするとスーツの裾を濡らした父さんが悪態を吐きながら帰ってきた。せっかく今日は午後 まで晴れてい たのに、と母さんはまた明日からの洗濯物の心配をして困ったように頬を押さえていた。天気予報によれば雨はしばらく降り続くらしい。
 風呂で身体を洗って湯船に浸かると、外からはまるで轟音のように雨音が響いてきた。雫を垂らす髪の毛を掻き上げて、僕は天井を見あげて長い息を吐き出し た。大雨、大嵐。まるで僕の気分みたいだ。
 霧島さんは最後まで僕を責めたりはしなかった。謝ってなんか欲しくない、という彼女の言葉が僕の心を捉えていた。考えてみれば、彼女に悪いことをしてし まったなんていう気持ちは、とても独り善がりなものなんだ。そんなもので勝手に苦しんでいる僕は、ひどく滑稽だ。この苦しみは自己満足でしかなく、彼女を 傷つけたといいつつ、僕は自分が傷ついたことを気にしているだけなんだ。彼女のおかげで僕はそれに気付くことができた。
 それでは、アスカのことはどうなんだろう。僕は本当はどう思っているんだろう。
 確かにアスカのことは友達だと思っているし、そういう意味では好きだ。弱音を吐かないところなんて格好いいと思うし、努力家なところは尊敬している。気 分屋なのが玉に瑕だけど、あの明るくてはっきりした性格は優柔不断で大人しい僕を振り回しつつ引き上げてくれて、一緒にいると楽しい気持ちにさせてくれ る。
 女子の中で一番仲がいいというのはきっと間違いがない。でも、一方で学校の外でまで一緒に遊んだりはしない。小学校の頃は親に連れられて僕の家に来た り、逆にこちらが訪ねたりしたことが何度かあったけど、最近はそういうこともないし、今の僕たちの関係は昔ちょっとした縁があったというだけのただのクラ スメイトだ。そういう風に、僕は思っていた。
 でもアスカはそうではないのだと、霧島さんは言う。トウジもそうだ。ひょっとしたら他の人たちもそう思っているのかもしれない。アスカはお前のことが好 きなんだ、お前だってそうなんだろ? こんな具合にね。
 そして、そういう風に指摘されると嫌でも気になってしまうのが人情というもので、僕は湯船の中でアスカのことを色々と考えていた。本当に色々とね。考え ているうちにぼーっとしてきて、ふわふわした気分になってきた。ひょっとしてこれが恋?
 ところが、そんな馬鹿な勘違いをする前に浴室のドアを開けて押し入ってきた 父さんの大声で、僕は長湯のせいですっかりのぼせてしまった自分に気付いた。父さんは迂闊な僕にかなりおかんむりだった。呆れたことに腰が立たなくて父さ んに支えられて風呂から上がらなくちゃいけなかったんだ。ここ三年のうちでは一番の失態だった。毛が生えてからは素っ裸を見られたことはなかったっていう のに。母さんにまで見られちゃったよ。
 一体お前は何をしてたんだという質問に、別にただの考えごとと胡乱な答えを返したら、私たちの息子は本当にどうかしてしまったのではないだろうかという ような表情を父さんたちはした。どうも本気で心配しているらしく、そんな父さんたちを必死になって宥めて安心させなくてはならなかった。それでも部屋に戻 ろうとすると母さんが 一緒についてきそうな気配だったけど、勉強をするから大丈夫だと説き伏せて、どうにか僕は自分の部屋で一人になることができた。
 勉強をするからというのは嘘じゃない。実際に試験が近づいてきているので、さすがの僕ものほほんと考えごとばかりしているわけには行かないからね。そん なわけで、寝る直前まで真面目に試験勉強をした。父さんたちもその姿を見て多少は安心したらしかった。何のかんのと理由をつけて五度は様子を見に部屋に やって来たからね。安心してもらわなくちゃこちらが困るよ、まったく過保護なんだから。
 そしていよいよ就寝の時間だ。僕は電気を消してベッドに横たわった。目を閉じて深呼吸をして、眠りの中に落ちていく。そのはずだったんだけど。
 眠れなくなってしまった。
 どうしよう。





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