「やる気が無いなら帰れ!目障りだ!」
ゲンドウの怒号がケージ内に響く。今はその声が、耳障りで仕方が無いが・・・言った所で解決にならない事くらいはシンジにも判っている。
「・・・」
確かにここの所、シンクロ率は上がっていない。マナと出会ってから・・・いや、そんな事を言っても何にもならないだろう。関連が有ろうが無かろうが、そんな事は言い訳にもならない。
だから、シンジは何も言い訳をしなかった。そもそも、やる気が有るのか無いのか。それさえもシンジにも判らない。積極的にエヴァに乗りたい訳では無いが、絶対にイヤだと言う訳でも無いのだから。
それにしても・・・まるで感情を感じさせない、異常に冷め切った目でシンジはゲンドウを見上げた。自分が何をやっている訳でも無いのに、良くもまぁここまで他人の事をあれこれ言えるもんだなぁ・・・。
目だけでは無い。自分の感情が、すうっと冷えて行くのをシンジは確かに感じていた。何も出来ないこいつに、何でこんな事を言われなきゃならないんだろう?そりゃあ、こいつがここの責任者だから・・・だろうけどさぁ・・・ん?
ここで、シンジはようやくある事に気が付いた。そうだよ。こいつ、碇ゲンドウは特務機関NERVの最高責任者なんだよ。
くるっとシンジはゲンドウに背を向けた。少し横でオロオロとするミサトの脇を通り過ぎ、すたすたと出口を目指す。
「あの・・・シンちゃん?」
「帰れって言うから、さっさと帰ります」
「・・・」
普段はひねくれてる癖に、どうしてこの子はこう言う事になると妙に素直になっちゃうのよぉ・・・泣きたくなる気持ちを隠しながら、それでもミサトは何とかシンジを止めようとする。
貴重なエヴァの適格者を、たかだか家庭不和如きで失う訳にはいかないと言う作戦部長としての思考もあった。だが今のミサトには、適格者を管理出来ない保護者と言うレッテルを張られる方が遙かに恐ろしい。
そんな事になれば・・・シンちゃんもアスカも私の所から出ていっちゃうわね・・・そしたら、折角付いてる扶養手当が無くなっちゃうじゃない!あの2人が居るから私の税金も安かったのに・・・それにあの髭親父の事だから、私の能力にケチつけて減給とかやって当然だし・・・そもそも、まぁだ味見もしてないシンちゃんを手放す訳にはいかないのよ!己の私利私欲のみで埋め尽くされた思考で、ミサトはどうにかシンジをなだめこの場を丸く収めようとする。
「ほらほら、どうせあれよ。シンちゃん、えーっと・・・そうそう、マナちゃんとか言う女の子と仲良くなったでしょ?それが口惜しいだけなのよぉ。自分があの手この手を尽くしても日照りまくってるもんだから、棚ぼたシンちゃんにインネン吹っ掛けてるだけ!やーねぇ、男のみっともないやきもちってぇ。そー言う腐った性根してるもんだから、あんなに髭が生えちゃったのよ。自分がモテるかどうかなんて、鏡見れば一発で判るだろうにねぇ。あんな便所束子みたいな顔じゃどうにもならないって、どうして気付かないのかしら?」
慌てて自分に駆け寄って、耳元で囁くミサトの説明を聞きシンジは怪訝な表情を浮かべた。棚ぼたは事実だから、シンジとしても異論を挟む気などない。文句を言えた義理では無い事くらいは、鈍いだ天然ボケだと評されるシンジも充分に承知している。
「・・・」
ただ、ゲンドウに聞こえない様に・・・とは言え。良くもこんなにアドリブで悪口を言えるなぁ・・・ミサトさんは父さんが、心の底から嫌いなんだな。そんな確信を抱いただけの事だ。
「だから、とっくにアガっちゃった死に損ないの言う事なんかに耳貸さないで。ねっ?ね?」
・・・けど、そんな事でじゃあない。そんな理由で帰るんじゃない。ミサトの勘違いだけは指摘しなければならないだろう。ゆっくりとかぶりを振って、ミサトの言葉を遮る様にシンジは口を開く。
「・・・ミサトさん。ボクは、別に気にしてなんかいませんよ・・・それに使徒が攻めて来たら・・・どうせ直ぐに泣きついて来るんでしょうから・・・」
口元を歪め、薄い笑みを浮かべるシンジを見て。ミサトは何故か、己の上司の事を思い出していた。口の歪め具合と言い、相手を見下す冷ややかな目と言い・・・その表情は、まさにゲンドウそのものだ。もしかしたら碇一族の遺伝情報に、あの表情が刻み込まれているのかしら・・・そうミサトに思わせる程、シンジの浮かべた表情はゲンドウのそれと似ている。
「どれだけ偉そうな事を言ったって・・・所詮あいつに、エヴァは動かせないんですよ・・・でも。あいつが身の程を知って泣きついて来る迄、ここには来ませんから・・・」
「・・・シンちゃん・・・」
「・・・それまでたっぷりと、思い知ればいい・・・イヤって言う程、自分の無力さを・・・言われて口惜しいんだったら、自分でエヴァを動かせばいいんですよ・・・」
シンジとゲンドウの間に、それなりの溝がある事はミサトも承知していた。しかし、ここまで暗く深い溝であるとは、流石にミサトも想像していない。こんなんどうすりゃ良いのよ・・・サジを投げる以外に何の手段も見つけられないミサトは、暗澹たる気分に包まれている。
「ふぅっ・・・」
ため息を漏らしながら、シンジは顔を上げた。何気なく初号機の頭部を視野に捉え、ぽつりと呟く。
「・・・母さんも大変だよね・・・」
「・・・え?」
初号機を見上げながら口にしたシンジの独り言に、ミサトは自分の耳を疑っていた。確かに初号機には、彼の母。碇ユイが取り込まれている。しかし、問題はそんな事では無い。
初号機に碇ユイが取り込まれたと言うのは、最重要機密事項である。MAGIには無論の事、書類にすら記述されていない。極めて一部の関係者の、頭の中にしか入っていない事である。
無論適格者には、完全に秘されていた。とてもでは無いが、教えられる事では無いからだ。実験中の事故で死んだ事になっている母親が、実は乗機に取り込まれたのだ・・・等とは。
もしかして、私・・・酔った勢いで喋っちゃったのかしら・・・背中に冷たいものが伝わる感覚を確かに感じながら、ミサトは真っ青な顔でシンジを見つめている。ついつい飲み過ぎて、意識が遠くなるのは何時もの事なんだけど・・・その拍子で、まさか・・・まさか!?
元々口が軽い方では無い事くらい、ミサトは自覚している。それがアルコールの力を借りて・・・言っていないと、断言するだけの勇気はミサトには無かった。
しかも言うに事欠いて最も口にしてはならない事を・・・減給程度じゃ済まないわね・・・減給?いやいや、左遷・・・下手すりゃ拘禁だってあり得るわっ!ついうっかりと口走ってしまったのかも知れない過ちに、ミサトははっきりと戦慄を覚えていた。
「あんな奴を好きになってさ・・・本当に、何の因果か・・・」
シンジの物言いは、無論ゲンドウには聞こえている。自分の子供が発した、哀れみを込めた物言いも全て。
っ・・・この、クソガキが・・・。
普段よりも強く握られた拳が、みしみしと音を立てている。今迄一度も味わった事が無い屈辱と怒りに、身体を震るわせていた。
「でも、本当に愛情ってあったのかなぁ・・・ボクにしたって、単に出来ちゃっただけなんじゃないの?」
しかし。そんなゲンドウの心境など知った事では無い。別に声を張り上げるでも無く。淡々と、シンジは初号機に向けて素朴な疑問を投げ続けている。
「あの・・・シンちゃん?」
とんでも無い事をさらっと口にする適格者に、ミサトにはかける言葉が見つからなかった。確かに愚痴っぽいとは今迄も思っていた事だが、今日のシンジはミサトが知るシンジとは決定的に何かが違う。秘められた本性がついに爆発したとでも言うのだろうか。無論、そんな事がミサトに判る訳が無かった。
「可哀想に・・・母さんが初号機に取り込まれたとほぼ同時に、父さんはNERVの職員を喰い放題だもんなぁ・・・」
シンジとしても、別に返事を期待している訳では無い。いや、返事など出来ない事を承知の上で言っているだけだ。
「・・・」
ここでゲンドウが父親の威厳を見せる為には、有無を言わさずシンジを殴り飛ばすしかない。だがそれをやってしまえば、確実にシンジはNERVから離れる。別にシンジは、責任感からエヴァに乗っている訳では無いのだ。ゲンドウも、その事ははっきりと判っている。シンジらしく、単に状況に流されてエヴァに乗っているだけの事でしか無かった。
その意味では、シンジは確かにゲンドウの息子である。そもそもゲンドウも、人類の為にどうこうと言う立派な理由でNERVに居る訳では無い。単に初号機に取り込まれた妻であるユイと再び出会う為だけに、地位を利用すると決めているだけだ。
だから、ゲンドウにはNERV責任者としてシンジに言うべき言葉が見つからない。しかもこの場には、葛城ミサトと言う碇家とは直接関係無い者もいる。わざわざ他人の前で、家庭の恥を晒す必要など無い。ここはひたすらに沈黙を守り、たかが子供の戯れ言に心を乱さない大人と言う威厳を守る事に終始すべきだ。ゲンドウは、そう計算していた。
しかし。
「そう言えば、その為に女性職員の採用を増やしたって聞いたけど・・・本当?」
「・・・」
シンジの辛辣な問いに、ゲンドウは言葉を返す事が出来なかった。確かに職場に華をとか言って採用比率に手心を加えたのは事実だが、それは全女性職員を我がモノとする為では無い。無論何人かはその毒牙にかけてはいるが、それは役得・・・もしくは某博士を喰った後の口直しと、ゲンドウは一方的に決め付けている。
かと言って、違うと断言するのも妙な気がしてならない。と言うより、そんな事を何故不肖の息子如きに言われねばならないのか?ゲンドウにはシンジの問われた内容よりも、問われた事自体が腹立たしかった。
所詮こんな出来損ないのガキに、言った所で理解など得られぬ。であれば、言う事など何も無い。それにしても・・・私とユイの血を引いていると言うのに、どうしてこんなのが出来てしまったのだろう・・・劣性遺伝か?
端から見ればその親にしてこの子有りとしか言われぬ事を棚に上げ、ゲンドウはシンジをサングラス越しに睨め付けていた。口など必要無い。眼力で圧倒する。怯えた哀れな小動物の様な性根しか持ち得ぬガキには、これで充分に格の違いを教えられるだろう。
「ふぅん・・・答えられないんだ・・・」
だが、シンジは見事にゲンドウの威を受け流していた。単に、持ち前の鈍さで気付かなかっただけかも知れないが・・・ともかく、少しも臆する事無く。ミサトの方を向き、新たな火の手を上げる。
「そう言えば、ミサトさんは未だらしいですけど・・・気を付けて下さいね。狙ってるそうですから」
「っ・・・ほほ本当に?」
そう言われて、何を?と問い直す程ミサトは愚かでは無い。動揺を隠そうともせずに、シンジに問い直す。
「ええ・・・ほら、この間・・・僕だけ司令室に呼ばれたじゃないですか・・・あの時そんな事を言ってましたよ、減給と差し替えに脅すって。その為にボクに協力しろとか言ってたんです。食事にクスリを混ぜろとか、寝室にカメラやマイクを仕掛けろとか・・・」
「ししし司令!?本当に、そんな事言っていたんですか!」
シンジの話を横で聞いていたミサトの顔色が変わった。リツコが己の身体を代償に今の立場をゲンドウから得た事を、風の噂でミサトも聞いている。だから、冗談だと聞き捨てる事など出来ない。やっていてもおかしくは無い・・・いいえ、こいつだったらやっていて当たり前よっ!!
「っ・・・そんな事を、言う訳が無かろう・・・!」
ミサトの剣幕に狼狽えながらも、必死になって部下の誤解をゲンドウは解こうする。冗談では無かった。ゲンドウも加持からミサトの性癖は聞いている。そんな化け物を相手にするのは不可能だ。頼まれても逃げねばなるまい。そう、密かに誓う程だったのだから。間違ってもゲンドウが、ミサトをその標的とする事は無い。ゲンドウにだって選ぶ権利は一応あるのだ。余りにもリアリティが有り過ぎるデッチ上げをしたシンジを、ゲンドウは血走った目で睨み付けていた。
しかし、現実がどうであろうとも。もう、ミサトに耳を貸す気は無い。
やる、こいつなら間違い無く獣が如く私を襲う。そう決め付け、まるで親の敵を見る様な目で仮にも上司を睨め付けていた。あえてはっきり言うが、上司に向かってやる真似では無い。
っ減棒が何よ!んなモンよか、私の操の方がよっぽど大事に決まってるでしょ!こんな変態面した便所束子の慰みモンになる位だったら、NERVも父さんの敵討ちもとっとと辞めてやるわよっ!
「証拠は何も無いから、所詮水掛け論にしかならないけど・・・これじゃ、母さんが可哀想だよ・・・」
シンジの口から言葉が漏れる度に、拘束具の軋む音がケージに響く。それが何の音か判らない程、シンジもゲンドウもミサトも愚かでは無かった。
・・・初号機が動こうとしている・・・?その場にある3人が、同一の結論に達した直後。
轟音と共に、初号機の右肩を固定していた拘束具が呆気無く弾け飛んだ。絶対にエヴァが動けない様に設計された金属の塊が、まるでペーパークラフトの様に。
シンジもミサトも、あえて係わろうとはしない。ただ逃げる事だけを考えていた。巻き込まれて死ぬのは御免被るし、たかが夫婦喧嘩のとばっちりで死ぬなど余りにも馬鹿馬鹿しい。死ぬんだったらゲンドウが1人で勝手に死ねば良いだけの事だ。付き合って死なねばならぬ理由など何処にも無い。
「・・・」
予想もしていなかった展開に、ゲンドウは言葉を失っていた。
拘束具は、そもそもエヴァが動けない様にする為の道具である。メンテナンス用の機能も付加させてはいるが、基本的には身動きをさせない為の金具なのだ。だから拘束具は、どれも必要以上に丈夫で重かった。更に、エヴァは力を込め難い姿勢で拘束具に固定されている。暴走しがちな初号機と言う事も考慮に入れ、万全を期していた。
それが今、ゲンドウの目の前で。卵の殻よりも容易に砕け、見る間に無数の残骸と化している。目の前で起きている事でありながらも、とても信じられる光景では無かった。いや、信じろと言う方が無茶な話だろう。
「・・・」
その巨体を動かし、何かを探す様に首を巡らせる初号機がついにゲンドウを捉えた。尋常ならざる、狂気に満ちた光を目に湛え。許される事の無い裏切りを働いた者へ向けた、殺意を隠そうともせず爛々と不気味な眼光を放ちながら。
「・・・ユ・・・ユイ・・・」
当然ゲンドウには、その光が意味するモノが何か判っている。シンジの言い分を真に受けた。それ以外には有り得ないだろう。
「ち・・・違うんだ、あぁ・・・あれは・・・」
震える声で、あたふたとゲンドウは言い訳を始めていた。聞き入れて貰えれば未だ、許して貰えるかも知れない。そんな期待を胸に。元々は夫婦だったのだからと言う、淡く甘い希望を顔に出して。
しかし。彼女には、ゲンドウを信じる気は無かった。所詮は夫である。戸籍上の絆などよりは、血の繋がった息子の方が遥かに愛おしく重要で貴重な存在だった。だから、母として・・・彼女は選んだ。碇シンジの言った事を信じると言う道を。
ぎしっと音を立てて、初号機は身体を捻った。左肩をゲンドウの方へ突き出し、右肩を引き沈めている。その姿勢が何を意味しているのか、ゲンドウにはイヤと言う程わかっていた。だが、動けない。金縛りに遭ったかの様に、少しも身体が言う事を聞かなかった。
自分の身長を遙かに超える、巨大な拳がもの凄い勢いで迫って来る。ごうっと音を立てて、拳の勢いに押し潰された空気の塊がゲンドウの身体にぶち当たった。堪えようとゲンドウは踏ん張ってみたが、自分の考えの馬鹿馬鹿しさに口元を歪める。
これに耐えた所で、次はどうにもならない。堪えた所で何にもなるまい。反射的にそう動いてしまったが、余りにも愚かしい真似だった・・・。
その次の刹那。初号機の右正拳が、ゲンドウが立っていた場所を通り過ぎた。何かを潰す、ささやかな音を残して。