駅弁とビールを買って,午後1時半発の特急「ビューさざなみ」15号に乗った。実際には後の快速でも接続は同じなのだが,まだ乗ってなかったビューさざなみに乗ってみたかったのと,弁当をゆったり広げたかったので特急にした。
本当なら,せめて地上に出てから食事にしたいところだが,乗車時間はたった30分なので,発車の少し前からビールに手をつける。ひじ掛けの中から出すテーブルは,食事にはちょっと小さいが,出入りしやすいように隅が斜めに切ってあってあるなど,苦心の跡が見える。外は薄曇り,平日の午後はさすがにすいていて,穏やかな雰囲気である。
小湊鉄道のホームは山側にある。跨線橋の上から見ていたら,3編成並んで待機している列車のうちのひとつが動きだし,ホームへ向かうところだった。背広を着て封筒をかかえた人が数人線路をうろうろしているのは,監査か何かだろうか。
2時37分ごろ入線し,2両の列車にかなりの人が乗りこむ。2時52分の発車の時には,ざっと60人乗っていた。線路は最初のうちほぼ平坦で,列車は淡々と走る。工場地帯を走る内房線よりはもちろん緑が豊かだが,宅地化も進んでいるようだ。乗客にあまり大きな動きはない。
大きな変動があったのは上総牛久で,大部分の人が降り,代わりに10人ぐらい乗ってきた。しだいに山が迫る。田植えがすっかり終わった田に山が映り,緑のハーモニーをなしている。里見を過ぎると勾配がだいぶきつくなり,田は少なくなる。
月崎−上総大久保にやや長いトンネルがあった。断面が卵を長細くして下をカットしたような形で,曲線が美しい。出るときによく見ると,れんが形の石を積んで作ってあった。この後,養老渓谷の先にも同じ形のトンネルが2つあった。
上総大久保の先で養老川にかかる鉄橋を渡る。両側に手すりもなにもなく,実際以上に高く見える。養老渓谷で,数人の乗客が降り,最後まで残ったのは私のほかは高校生一人だった。路線図を見ると,このあたりのいちばん標高の高いところでも120mほどなのだが,雰囲気は立派に深山幽谷である。
なお,小湊鉄道は,五井から養老渓谷まで,すべて市原市内を走っている。市域の長さが40km近くあるというのも関東では珍しいことだろう。終着の上総中野だけが夷隅郡大多喜町である。
終点到着前に車掌さんが切符の回収にやってきた。サミットを越えて下りになり,4時,上総中野着。山中の終着駅ということで,廃止になった野上電鉄の登山口駅を思い出した。そういえば,車両の色も似ている。ただし,大きく違うのは,別の線に連絡していることである。
小湊鉄道のホームの駅名標には,両隣の駅として「ようろうけいこく」と「にしはた」が,何の注釈もなく示してある。これに対して,いずみ鉄道のホームの駅名標には,次の駅としては「にしはた」しか書いてない。片想い状態である。両方のホームの間には,線路がはがされた跡がある。
小湊鉄道といすみ鉄道の間は線路がつながっていないと聞いていたが,ホームのないところを走る連絡線でかろうじてつながっていた。もちろん,何年も車両が走ったことはなさそうな感じだった。
4時17分,いすみ鉄道の菜の花色のワンマンカーで出発,乗客は私のほかは女子高生とその少し先輩らしい女性の二人だけだった。もうサミットは越えているので,すぐに人家が多くなる。山を下る一方だが,名前は上り列車である。少しずつ乗客が増えていく。この線に前に私が乗ったのはもう19年前のことで,当然,旧国鉄の木原線だった。このときは大原から下りに乗り,上総中野からバスで養老渓谷へ行って付近を散歩した。
4時41分,大多喜着,大部分が降りてしまう。運転士さんが「22分停車です」と声をかけてくれたので,外へ出る。駅に隣接して,車庫といすみ鉄道本社があった。城を中心にした町のようで,駅舎も城のイメージで作ってある。列車に戻ったら,中学生が大勢乗っていた。
国吉で下りと交換する。かなり広い平野になって,海が近いことを感じさせる。
しかし実際には,小湊鉄道は最後に東へ向きを変え,上総中野で木原線と接続することにより,まさに「曲がりなり」の房総半島横断ルートとなった。
5時半,大原着。
横須賀線直通の快速が間もなく出るところだったが,何となく見送って町を少し歩く。駅近くの魚屋さんが居酒屋を「併設」しているのを見つけ,入ってみたら,期待通りつまみは安くておいしかった。飲みながら,大原駅の「旅もよう」のパンフレットを読んだ。6ページある豪華版で,鉄道建設の歴史も書いてあった。
6時21分の「ビューわかしお」に乗る。日が長い季節なので,外はまだ明るくて,複線化工事が進んでいるのがわかる。左側に線路が見えるというのもおもしろい体験だった。
帰りの車内では,司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの最後の作品となった『三浦半島記』の続きを読んだ。そこでは,頼朝の挙兵にあたって,実り豊かな房総半島とその武士団の果たした役割が大きいことが強調されていた。
私の故郷の周辺を扱った『三浦半島記』は,昨年週刊誌で連載され,11月に完結した。司馬遼太郎の突然の訃報を聞いたとき,不謹慎にも,『三浦半島記』が完結していてよかったと思わずにはいられなかった。
三浦半島と房総半島を結ぶ海路は,ヤマトタケルとオトタチバナヒメの物語にもあるように,古代から重要なルートだった。上総が下総より南にあるのはこのルートに沿ってのことである(旧国名の「上」「下」は京都から近い順につけられる)。
上総,下総をたちまちに過ぎ,7時32分,出発点の東京駅京葉線ホーム着。蒸し暑い夜だった。