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m @ s t e r v i s i o n
TokyoFanta & TIFF 1999
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない


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ゴージャス(ヴィンセント・コク)

製作順に並べると「フー・アム・アイ?」→「ラッシュ・アワー」→「ゴージャス」となる、香港では1999年の旧正月映画として公開されたジャッキー・チェンの最新作。なんとロマンティック・コメディである。とは言ってもジャッキー映画にアクションがなかったら客席で暴動が起きるのは必至だから、ファン・サービスのコミカル・アクションや本格的格闘場面もちゃんと入っている。そのせいでラブコメとアクションのパートが互いに独立したまま最後までほとんど交わらない〈アクション・ラブコメ〉とでも呼ぶほかない奇妙な映画が出来あがった。てゆーか、別の言い方をすれば、監督が「008 皇帝ミッション」のヴィンセント・コク(谷徳昭)なので、チャウ・シンチーの映画にジャッキー・チェンがゲスト出演したみたいな変テコな、だけどキュートな代物と相成った。 ● で、そのキュートな部分を一心に背負うのがスー・チー。「台湾の漁村からやってきた田舎娘」という自分自身のような役でほとんど主役。そして、コメディ・パートを担当するのが、なんと一枚看板トニー・レオン。ゲイのスタイリストという「ブエノスアイレス」のセルフ・パロディのような「今さらそんな役しなくても…」という役を嬉々としてこなしている(香港人魂…) 肝心のジャッキー・チェンは大富豪の国際的ビジネスマンという、香港の映画館でならその設定だけで大爆笑必至の、イメージに似つかわしくない、けれどじつは実像に一番近いかもしれない役で、神妙にスー・チーとラブコメを演じる。もちろんチャウ・シンチー組には欠かせないロウ・ガーウィン(羅家英)は、今回も絶妙の爆笑リリーフ。そして、ここまで読まれた諸賢には察しがついておられるだろう、本作は香港映画史上に残る歴史的な共演が実現した映画でもある(!) ● 今回、ジャッキーは主演・武術指導のみ。おそらくチュウ・イェンピンの「炎の大捜査線」の時のような契約上の雇われ仕事なのだろうが、〈お正月映画〉に相応しい楽しくにぎやかな一篇ではある。 [TokyoFanta]

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風雲 ストームライダーズ(アンドリュー・ラウ)

「欲望の街(古惑仔)」シリーズで一躍ヒットメーカーとなったゴールデン・ハーベスト&アンドリュー・ラウ監督&イーキン・チェンが、新たにアーロン・コクを迎えて、ダブルヒーローで放つSFXアクション。…って、要するに「孔雀王 アシュラ伝説」である。つまり阿部寛+ユン・ピョウ+勝新太郎+グロリア・イップ(いまいずこ?)が、ここではイーキン・チェン+アーロン・コク+千葉真一+スー・チーになってる訳だ。香港のコミックスが原作だけあって静止画としてみればカッコイイのだが、SFXが克ちすぎて生身のアクションの興奮がカケラもない。リー・リンチェイの一連の武侠片などとはまったく別種の映画。[TokyoFanta]

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ハロウィンH20(スティーブ・マイナー)

ジェイミー・リー・カーティスが復帰しての20年ぶり、正統的な続編。ゴリゴリのストロング・スタイル・ホラー。ドナルド・プレザンスが還らぬ人となってしまったので、今回はジェイミー・リー・カーティスとマイケル・マイヤーズのタイマン勝負。文字どおり骨肉の争い。「ハロウィン」よりは「エイリアン2」に近いかも。 [TokyoFanta]


ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド[30周年記念版]
(ジョージ・A・ロメロ&ジョン・A・ルッソ)

「30周年記念版」と銘打って15分ほどの追加撮影が行われ、あらたなラストシーンが付け加えられている。驚くべきは、こうした改変がロメロ本人ではなく、そしてどうやらロメロ自身の意志とは関係なく、共同脚本のジョン・A・ルッソの手によって堂々と行われてしまったことだ。おれは元々「怖いのはモンスターではなく人間同士の争いの方である」というロメロのゾンビものが重すぎて/暗すぎて嫌いなんだが、それにしても、あの非情なラストに「狂信的な牧師がすべては悪魔が原因だったと決めつけてしまう」余計なシーンを付け足すのは、オリジナル版の志への冒涜でしかないだろう。 [TokyoFanta]

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ファンタズムIV(ドン・コスカレリ)

銀玉一筋20年…まるでパチプロのような人生を送っているドン・コスカレリ、まだまだ続く「ファンタズムIV」である。もはやストーリーは消失し、シュールな禅問答のような映画と化している。 [TokyoFanta]

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ダリオ・アルジェント オペラ座の怪人(ダリオ・アルジェント)

さすがはマエストロ。アルジェントが作ると「オペラ座の怪人」もこうなってしまうのか。冒頭からいきなり「バットマン・リターンズ」である。そう、本篇の怪人は(ペンギンならぬ)ネズミに育てられたという設定なのだ。盟友セルジオ・スティバレッティによるアニマトロニクス・ネズミがまた、本気でやってんだか よく判らないってのがスゴい。音楽がもう1人のマエストロ、エンニオ・モリコーネだったりするのもスゴイ。怪人を演じるのが「ラビリンス 魔王の迷宮」のデビッド・ボウイのような、惣髪のジュリアン・サンズ。顔に傷跡も火傷もない美貌の怪人…というかファントム(幽霊)なのだ。「それでは隠れて生きねばならぬ理由がないじゃないか」などという無粋なツッコミはもちろん禁止。マエストロには世間の常識など通用しないのだ。ヒロインはもちろんアルジェントの愛娘アーシア。いきなり透け乳ランジェリーでファントムをノックアウトしてしまう。じつの娘を苛めたり裸に剥いたりして楽しいのか?…楽しいんだろうなあ。マエストロは因果な性(さが)をお持ちなのである。マエストロは徹底して自分の興味のあるものしか撮らない。だから「ファントムの指導でヒロインが歌を練習する」なんて場面は出てこない。代わりに描かれるのが、オペラ座の地下に広がる古代地下墓地…というよりは鍾乳洞のような別世界だったり、オペラ座専属のネズミ退治人が演じるグロテスクなコメディだったり、お約束のオペラ座の血の惨劇だったりする。まさに雀百まで。マエストロには脱帽するしかない。最後にひとつアルジェントの真情と思われる、劇中の台詞を引用しよう「誰の心にも闇はある。怖れることはない、それが人間なのだから」 [TokyoFanta]


ゲームならいいの?

東京国際ファンタスティック映画祭恒例のホラー・オールナイト。今年は「ゾンビ リベンジ」というドリキャス用のホラーゲームを発売するセガ・エンタープライゼズが冠スポンサーに付いた。おかげで聞きたくもない宣伝トークを聞かされるわけだが、ジャックス・カードに逃げられたファンタ事務局の懐が寂しかろうことは想像に難くないので、まあ目をつぶろう。 ● で、元ギャガだというセガの宣伝部(?)の人が出てきて「ゾンビ リベンジ」というホラーゲームの、あの描写は何々の映画の影響を受けているだの、このキャラクターは何々の映画の何々のキャラクターを基にしているだの、その辺りは何々の映画の流れを汲んでいるだのを、当該映画の映像を見せつつ得々として語っていた。一例を挙げるならば、武器アイテムとして「デスペラード」のギターケース型マシンガンが、そのまんま出てくるそうなのだが、「良いものは使わなきゃ」だと。それってパクッてるって事だろ? そんなに誇らしげに語るべき事かね? それともアレか。ゲーム業界ってのは世間一般とはまったく別の価値観で成立している処なのか? ● この他にも映画上映の幕間に、演芸やら寸劇やら「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の宣伝コーナーやらがあって、結局 終映は翌朝の7時50分・・・3時間後にはもう「未知との遭遇」の上映、という時間だぞ。いったいいつ寝りゃいいんだよ!>ファンタ事務局。 [TokyoFanta]

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未知との遭遇[ディレクターズ・カット 完全版]
(スティーブン・スピルバーグ)

おれはべつにスピルバーグを天才とは思わないが、「未知との遭遇」と「ジュラシック・パーク」が1人の監督によって作られたというのは、やはり映画史上で特別なことだと思う。映画でUFOを見て感動したのは後にも先にもこれ1本だけだ。その想い出の傑作の、〈オリジナル版〉〈特別篇〉に続く〈ディレクターズ・カット 完全版〉 スピルバーグ本来の意図にもっとも忠実なバージョン(…って特別篇のときも言ってなかったか?)だそうである。もともと1997年に発売されたコレクターズLDのために製作されたもので、フィルムによる上映はこれが世界初という事だ(しかもパンテオンの巨大スクリーン!) ● 注目すべきは、特別篇で追加されたマザーシップ内部の映像が今回の版では再び削除された(らしい)事で、おれもやっぱり中身は見せないほうが良いと思う。 ※らしい…ってのは、前夜から一睡もしていない所為で肝心のラストシーンで寝てしまったのだ(大馬鹿者だな>おれ) [TokyoFanta]

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アルゴ探検隊の大冒険(ドン・チャフィー)

ストップ・モーションSFX:レイ・ハリーハウゼン
ま、はっきり言ってジェリー・ブラッカイマーのバカ映画に汚染されてしまったおれの目には、神話をベースにしたドラマもヴィジュアルも生ぬるく感じる。最後まで(ところどころ寝不足でうつらうつらしながら)飽きずに観られたのは、ひとえにハリーハウゼン師の巧みの技の冴えと、パンテオンの巨大スクリーンの迫力ゆえだ。 [TokyoFanta]

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13F(ジョセフ・ラスナック)

ソフトウェア会社のオーナー・エンジニアが、自ら開発した擬似現実空間にジャック・イン中、何者かに殺される。彼の片腕だった主人公は、かけられた嫌疑を晴らすため自分もソフトウェア空間へと身を投じる・・・という最近 流行りの仮想現実もの。じつに判り易い映画である。冒頭に掲げられるエピグラフがいきなりデカルトの「われ思う。ゆえにわれ在り」だ。ストーリーも一見、複雑そうだが、脚本家がどうやら「伏線」と思って書いているらしい部分が、すべて「次に起こることの予告」として機能してしまっているので、ドラマにもヴィジュアルにも驚かされることはまったく無い。フィルム・ノワールを観なれていればミステリー的な部分もすぐにネタが割れてしまうだろう。 ● 監督は「ゴジラ」では第2班監督を務めたドイツの新鋭ジョセフ・ラスナック。ローランド・エメリッヒのセントロポリス・フィルムが製作。製作総指揮には(カメラマンの)ミヒャエル・バルハウスの名も見える。1999年をブルートーンのフィルム・ノワール調で、仮想の1930年代をセピア調で撮影したのは、やはりドイツのウェディゴ・フォン・シュルツェンドーフ。ハリウッドのドイツ人脈を総動員して作られたようだ。主演は見なれないクレイグ・ビエルコ。謎の美女にグレッチェン・モル。殺されるオーナー・エンジニアにアーミン・ミューラー・ストール。過去と現代で別々のキャラで登場するキーパーソンにヴィンセント・ドナフリオ。 [TokyoFanta]

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地獄(中川信夫)

中川信夫の恐怖映画の名作というと「東海道四谷怪談」ということになるが、よりエログロで新東宝らしいのはこちらの方。こんな珍品がパンテオンの巨大スクリーン(しつこい?)で観られるとは! [TokyoFanta]

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ルート9(デビッド・マッケイ)

田舎町の保安官助手コンビが主人公の「シンプル・プラン」 人里はなれた農場で麻薬がらみのギャングの殺し合いがあって、保安官助手たちが現場を発見したときに残されていたのは、死体の山と150万ドルの現金。この金を着服しても目撃者はいない、足もつかない。それは、ごくシンプルなプランのはずだった…。 ● 「シンプル・プラン」で言えば、モラル・コードに縛られるビル・パクストンにあたるのがカイル・マクラクラン。いつものエキセントリックさを封印してのストレート演技。ヒロインにローラ・リニー似のエイミー・ロケイン。保安官にピーター・コヨーテ。監督は「レッサー・エヴィル」のデビッド・マッケイでこれが2作目。オーソドックスなクライム・サスペンスとして手堅くまとめている。 [TokyoFanta]

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ナン・ナーク ゴースト・イン・ラヴ
(ノンスィー・ニミブット)

「貞淑な妻は死んでも夫の帰りを待ちました」というタイの昔話。「雨月物語」+「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」か。撮影・照明は現代的だし特殊メイクまであるのだが、肝心の演出(語り口)がえらい原始的。エンタテインメントである前に仏教訓話であるという、これもお国柄ってやつか。 ● 映画祭の公式パンフレットに「タイで実際に起きた、今は伝説となっている話を映画化」とあるが、本当に本当だな?>映画祭事務局。 [Competition]

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めまい[完全復元版](アルフレッド・ヒッチコック)

いまさら何の説明が必要だろう。ヒッチコックの、フェティシズムを完璧に描ききった、異常なるラブストーリーの傑作である。それにつけてもキム・ノヴァクの輝くばかりの美しさよ!あのブロンド!あのノーブラ巨乳! 真にパンテオンの巨大スクリーンに大写しにする価値のある被写体である。 ● なお、「完全復元版」てのは「リストア版」という意味で、シーン構成&編集に変更はない。 [TokyoFanta]

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深海からの物体X(アル・パッセリ)

いや、ひさびさの苦行であった。かつてヘラルド・ベストアクション・シリーズやジョイパック・ベストアクション・シリーズで精神修養していた日々を思い出した。話としてはC級…いやZ級の「ザ・グリード」。目覚めていながらうなされるという体験をお望みの方にお勧めする。 [TokyoFanta]

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親指スター・ウォーズ(スティーブ・オーデカーク)
THUMB WARS

すべて親指によって演じられる「スター・ウォーズ(エピソード4)」のパロディ。…といって想像するほどチープな代物ではなく、優に日本映画1本分の製作費をついやして本格的なミニチュア&オプチカル合成を行い、親指の腹には表情豊かな目と口がCG合成される。デス・スターならぬサム・スター(THUMB STAR)とか、Xウィングならぬサム・ウィングなどのミニチュア・モデルも(それこそ今となっては「エピソード4」と比肩しうるレベルで)造りこまれている。28分という上映時間も適切で、ちょうど笑い疲れた頃にエンドマーク。 ● 監督・脚本は「ジム・キャリーの エースにおまかせ!」のスティーブ・オーデカーク。1999年5月19日に「エピソード1」の前夜祭としてケーブルテレビで放映された。これに味をしめて同趣向でデッチあげた「親指タイタニック(THUMBTANIC)」なる代物が、続いて“世界プレミア上映”されたが、さすがに2本目は飽きた。てゆーか、基になる物語の強さが違うって事だろ。 [TokyoFanta]

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大地と水(パノス・カルカネヴァトス)

母なる河に抱かれたギリシャの田舎町。山羊飼いの若者と高校生の娘が恋をする。だが、娘の妊娠/堕胎によって仲を引き裂かれ、若者は都会の澱みへ。やがて娘も高卒でブティックの見習い店員に。2人は都会の片隅で再びめぐり逢うのだが、かつて緑の草原で抱き合った2人のままでいられるはずもない・・・都会で〈大地と水〉を失い、干上がってしまった田舎者の恋人たちの悲劇。いかにも倉本聰とか中島丈博が書きそうな話である(巧さにおいては比ぶるべくもないが) ここでもタランティーノ流の時制トリックがあるのだが、演出の未熟ゆえ それが現在なのか回想なのかが判然としないため、ただ訳の判らん映画になっている。[Competition]

東京ファンタ・デジタルナイト[オールナイト企画]

11月2日のオールナイト企画では、米国テキサス・インストルメンツ社のDLPシステムを、渋谷パンテオンの1階客席最後列に設置して巨大スクリーンに作品を映写して見せた。今年の夏にアメリカでの「スター・ウォーズ1」と「ターザン」デジタル上映の際に使用されたものとほぼ同等の、よーするにビデオ・プロジェクターの性能の良いやつである(DLPはデジタル・ライト・プロセッシングの略) ● 1本目の「D」(岡部 哉)★ ★ は「仮面ライダー」スタイルのスーツ特撮+CGモンスターの実写もの。特撮だけがウリで演出・脚本・演技のレベルは学生の自主映画に毛の生えた程度。画質的には(デジカム撮影→デジタル・ベータカム上映なのでデジタルデータ直の「SW1」と単純比較はできないが)黒の締まりの無さ、白の抜けの悪さ、鉛色の人肌など、現行のプロジェクターの欠点をそのまま引きずっている。これでは「大画面でも従来のプロジェクター並には写せる」というメリットしかない。 ● 次の「永久家族」(森本晃司)★ ★ は(たぶん)インフォスフィアのCMとして製作された25秒のアニメーションを53話 繋げたもの。大友克洋の「メモリーズ」第1話を演出した人で、屈折した/ひょうひょうとした独特の世界観/演出リズムを持っている。挨拶に出てきた本人がまさしく作品の登場人物のようだった。さて、画質だが、アニメであっても白の抜けが悪いので、まるでキネコのような画質にしかならない。 ● 3本目もアニメで「ソル・ビアンカ 太陽の船」(越智博之) 。自己陶酔/演技過剰の閉じた世界。ある種のアニメ典型で、おれの一番キライなタイプ。これは途中退出(翌日のインド映画に備えておれはここでリタイア) ちなみに、これは従来型のビデオ・プロジェクターで上映されたのだが、鳴り物入りのDLPよりよほどコントラストがクッキリしていたのは、なんとも皮肉だった。

さて、ご存知のようにジョージ・ルーカス皇帝は、「スター・ウォーズ2」のオリジナル・フォーマットはデジタル・データで撮る。配給もデジタル配信で行う、と明言している。つまり、新システムを導入しない映画館では「SW2」は上映させないという脅迫である。今年の「SW1」でのドルビー・デジタルEXの例を見ても帝国全土の映画館と本邦主要館には強制的にDLP(あるいはその互換)システムが普及させられる事になるのだろう。まあ、画質に関してはその頃までに少しは向上してるだろうし、どうせ「SW2」はCGアニメに近い代物になるのだろうから良いとしても、問題はデジタル配信ってのが映画にとって本質的な問題を孕んでることだ。はたして映画というメディアからフィルムを無くしてしまって良いのか。映写機のカタカタという音。古くなれば褪色する。傷がつく。切れる。そうした事は映画にとってデメリットなのだろうか。光の明滅としてではなく、光の明暗として、褪色もなく、傷ひとつ付かず、永遠にオリジナルそのままの状態でスクリーンに写るものを我々は映画と呼びつづけるのだろうか。いや、これは単なるノスタルジーなのかもしらん。だが、光と影の芸術(エンタテインメント)であったスクリーンから影が消える事は、トーキーやシネスコ以上の、映画にとって劇的な変化であることは確かだろう。その時にゲームやテレビ/ビデオと映画を隔てるものは何なのか…。 [TokyoFanta]


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アンジャーム 復讐の女神(ラフル・ラウェイル)

おお、シャー・ルク・カーンなのに東映だ。それも「女囚701号 さそり」とか「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」とかの情念ギトギトの1970年代もの。シャー・ルクが演じるのはいつものキャラクター。すなわち、1人の女を全身全霊で愛しぬく男。ただし本作の場合、ヒロインがシャー・ルクの愛を受け入れない。彼女には愛するフィアンセがいるのだ。だが、シャー・ルクはご存知のように「あきらめる」という言葉を知らない男だ。すると、どうなるか。なんとこの映画ではシャー・ルク・カーンは史上最恐の歌って踊るストーカーと化すのだ。 ● シャー・ルク演じる金持ちのドラ息子はスチュワーデス(→人妻→母親)のヒロインにありとあらゆる極悪非道の限りを尽くす。だがレイプだけはしない。ヒロインは「こんな事なら一発ヤッて消えてくれ」ってほど酷い目に遭うのだが、なぜか躯だけは奪われないのだ。それがシャー・ルクのキャラクターゆえなのか、インド男子としての矜持なのか、はたまたかの国のモラル・コードのせいかは判らんが。そこまでしてシャー・ルクの望みはただひとつ「ただ一言でいい。愛してるといってくれ」・・・あくまでも愛に生きる男シャー・ルクであった。 ● さて、ストーカーものがどう「さそり」になるのか? 焦ってはいけない。東映ならヒロイン受難篇1時間、血の復讐篇30分で作るところだが、これはインド映画。受難が延々2時間で、復讐1時間弱という配分なのだ(おれなんか生理的に「お、ここでエンドマーク」と思ったら、まだインターミッションで思いきり腰がクダけた) ● 壮絶な人生を送るヒロイン、マードゥリ・ディクシトはアーリア人顔の美人。さすがインド映画、「さそり」でもちゃんと歌と踊りはある。そりゃこんな女に薄物1枚で腰くねくね踊られたら植物人間も動きだすっちゅうねん。ヒロインを苛める女刑務所長役の女優がダイアン・ソーン以来の由緒正しき頬骨顔でちょっとムラムラっと来た(火暴) 一連の千葉真一/志保美悦子ものが好きな方にもお勧め。2時間50分。 [TokyoFanta]

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バブーを探せ!(グナシェーカル)

おっと、こいつは豪快さんだぜ。北のヒンディー語=東宝映画に君臨するシャー・ルク・カーン、南のタミル語=東映映画を仕切るスーパースター、ラジニカーント兄貴に続いての本邦初登場は、テグル語映画(※インド言語地図 JPEG 260K)のメガスター、チランジーヴィである。ストーリーが「ギターを持ったバックパッカーがふらりと都会にやって来て、都会で虐げられている故郷の人たちをヤクザの横暴から救って去っていく」と来れば、そうこれは日活アクションだ!「明朗快活なヒーローと、いつもケンカばかりしているキュートなヒロイン」って組み合わせは日活青春映画も入ってるか。 ● とてもタミル語映画に近い印象を受けた。泥臭い演出加減が似通っているし、自分たちを田舎者と認識していて、田舎者であることに誇りを持っているという精神構造も一緒。ヒーロー役のチランジーヴィはラジニ兄貴同様、恰幅のよいヒゲ面だし(キャラ年齢的にはラジニ兄貴より少し下か)、ヒロインは「アルナーチャラム 踊るスーパースター」のサウンダリヤー。浅丘ルリ子か芦川いずみかという可愛さであった。2時間28分。 [TokyoFanta]

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イエス・ボス(アジズ・ミルザー)

「ラジュー出世する」に続き、シャー・ルク・カーン&ジャヒー・チャウラーをヒーロー&ヒロインに迎えて贈るアジズ・ミルザー監督の第2作。「出世亡者のC調ゴマすり社員が、ボスの浮気を奥さんから誤魔化すために、ボスの女と新婚夫婦のふりをするうち…」という、ビリー・ワイルダーが撮ってたようなシチュエーション・コメディ。途中で劇的な転回があるわけでもなく、歌と踊りを入れてもせいぜい100分に収めるべきジャンルなのだが、インド映画にそれを言うのは無粋というものか。で、2時間43分。…疲れた。1日にインド映画3本(計8時間)てのは適正服用量を超えてる気がするぞ。 [TokyoFanta]

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真夜中まで(和田誠)

和田誠の第4作。本人が舞台挨拶で「もうアマチュアとは言えなくなりましたが…」と言っていたが、プロと呼ぶには下手過ぎる。 ● 「ジャズ・トランペッターがライブハウスの出演時間の合間に、殺人を目撃してしまった中国人ホステスと夜の銀座(?)を逃げまわる羽目になる」という話。だが、映画が始まって20分後にようやく殺人が起きるまで、観客は真田博之のトランペットを延々と聞かされる(←そんな描写はタイトルバックで簡潔に処理すべき) ゆらゆらと移動を続けるカメラは労多くして効果なし。ミシェル・リーの登場場面(=観客にヒロインの顔を刻み込むべき大切なショット)の処理もあまりにも平凡かつ無神経。監督の人脈によると思われる大竹しのぶや唐沢敏明のカメオ出演はサスペンスたるべき物語から緊迫感を削ぐだけ。ようやく逃亡劇が始まっても演出/編集のリズムが弛緩しきっていてイライラ。コンバーチブルのスポーツカーでの撮影は「香港のトロリーバスか!」ってほど視線が高くて、トラックの荷台にクルマを乗せての撮影だとバレバレ。どれも皆、和田誠が愛してやまない娯楽映画の、疎かにしてはいけない基本的な作法である。始まってわずか30分でこれだけ思いつくのだから、後は推して知るべしであろう。途中退出。 [Competition]

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古鏡幽魂(ソン・ツンショウ)

シネマ・プリズム枠に設けられたソン・ツンショウ(宋存壽)特集。日本では なかなか観る機会のない1970年代 台湾娯楽映画の監督である。 ● 1本目は1974年製の怪談噺。古鏡と掛軸の絵の違いはあるものの、「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」とのあまりの類似にびっくりする。いや、もちろんこっちが先なんだが。てゆーか、荒れ果てた古寺(古屋敷)と女幽霊という組み合わせは怪談としてはスタンダードなものなのだろう。もちろんこの映画にはツイ・ハークの映画にあったようなスピーディな演出もアクションもSFXもないが、その代わり、まことに手馴れたメロドラマ演出を堪能できる。そして何より目の至福は、娘時代の愛らしい事この上ないブリジット・リンをたっぷりと拝めること。日本の観客の前には初めから「香港国際警察 ポリス・ストーリー」のクールなギャングの情婦として、あるいは「北京オペラブルース(刀馬旦)」の男装の麗人として颯爽と登場したブリジット・リンの、デビュー3年目、まだふくふくとした頬に恥じらいの赤みさす可憐さと言ったら! おれはこの娘に憑かれるのなら死んでも悔いはないね。 [ CinemaPrism]

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窓の外(ソン・ツンショウ)

続いては1972年製の学園メロドラマ。「家庭の不幸を抱えた(聡明だけれど陰気で思い込みの激しい)女子高生が、教師と恋に落ちてドロドロの人生を歩む」という、つまり大映テレビの「赤い」シリーズであるな。山口百恵にこれが主演デビューとなるバリバリのティーン・アイドル ブリジット・リン。宇津井健に東映時代の小林稔侍(偽物) 悪役の三浦友和に小倉一郎(偽物) 今の視点で観るとパロディかコメディとしか思えぬほどの大仰かつ支離滅裂な世界だが、ソン・ツンショウのプログラムピクチャーのツボを熟知した演出と、ブリジット・リンのミニスカで最後まで飽きることなく楽しめる。 [CinemaPrism]

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母親三十歳(ソン・ツンショウ)

そして3本目は1973年製の母子ものメロドラマ。この作品だけ やけに場内が空いてるぞと思ったらブリジット・リンが出演してないのであった。 ● ケバい化粧の女がチャリンコ人力車に揺られて行く。その後から自転車に乗った小学生ぐらいの男の子がこっそりと付いて行く。女が、とある一軒の家に入る。男の子は塀を乗り越えて、窓から室内を覗く。裸で抱きあう女と男。見つめる子供の目。女が門から出てくる。家の前では子供が、憎しみに満ちた目で女を待っている。驚く女、子供の名を呼ぶ。男の子、自転車で走り去る。追おうとして、言葉をなくす女のアップ。大仰な音楽と共にタイトル「母親三十歳」・・・これぞ娯楽映画の呼吸というやつだ。 ● メインの物語は、この子供が叔父夫婦に引き取られて大学4年生になった時点から。病床の父と幼い妹を見殺しにした母親を憎みつづけ会おうともしない息子と、四十歳になっても自堕落な母親が恩讐を乗り越えて和解するまで。映画の出来としては「窓の外」と遜色ないのだが、役者が篠田三郎(偽物)と李麗仙(偽物)なので星2つ。 ● 「窓の外」もそうだが、これ、日本語吹替で観せられたら、ほんとに何の疑問もなく1970年代の日本映画だと思ってしまうこと確実である。それほど似ている。いや、「かつて日本が占領していたから日本式の家屋が多い」とか、そんな事じゃなくて、時代風俗、ファッション、街の様子、人々の考え方・・・異常なほどのシンクロ率の高さなのだ。中国映画を観ても、香港映画を観ても「やはりこの人たちは逞しい中国人だな」としか思わんのに、人種としてはより近しいはずの韓国映画を観ても「日本人はこんなにジトッとしてねえぞ」としか思わんのに、なぜ台湾映画にこれほどの親近感を覚えるのか?(チュウ・イェンピンを除く) 不思議だ。 [CinemaPrism]


オーディション(三池崇史)

いやはやスンゲーものを観ちまったぜ。話としては「男やもめのプロデューサーが、主演女優のオーディションで恋に落ちた相手は、とんでもないキチガイ女だった」というサイコホラーで、意図的に論理を破綻させたストーリー/演出を受け入れられるかどうかで賛否はあろうが、見応えのある映画であることは確か。画面が痙攣したような“コマ抜き編集”とでも呼ぶような不思議な繋ぎ方も効果的。問題は、だ。これクライマックスで「悪魔のいけにえ」も裸足で逃げだす殺伐とした残酷ホラーになってしまうのだ。その手のものが好きな人にはタマラんだろうが、おれ個人の許容枠から外れてしまったので星1つ。いずれにしても規格外の映画には間違いない。 ● 主演は石橋凌。フツーの人の役なのだが、こいつが演るとエキセントリックな色が付いてしまい逆効果。役所広司とか佐野史郎あたりの方が良かったのでは。恐怖のヒロインには椎名英姫(しいな・えいひ) 真行寺君枝系の細目美人でなかなかの好演だが、立ち姿が異様に悪いのも演技なのか? [TokyoFanta]

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DEAD OR ALIVE 犯罪者(三池崇史)

いやはやスンゲーものを観ちまったぜ。監督個人のエネルギー量が日本映画総体のそれを凌駕している驚異の〈1人プログラムピクチャー〉三池崇史の面目躍如。とんでもないエネルギーに満ちた快作である。 ● ウリは何と言っても哀川翔と竹内力の初共演。1999年の日本で誰よりも主演作品の多い、誰よりもビデオを売りまくる、誰よりもベルトの位置が高いビッグ2である。バックアップする製作陣も、プロデューサーが大映の土川勉(「新宿黒社会 チャイナマフィア戦争」)と東映の黒澤満(「共犯者」)そして監督が三池崇史という超強力な面子。 ● 話はアル・パチーノvsロバート・デ・ニーロの「ヒート」。哀川翔が新宿署のマル暴刑事、竹内力が中国残留孤児2世ギャング団のリーダーとなって対峙する。映画は短いカットを無数に繋ぎ合わせた、大音量のロックが鳴り響く、台詞の一切ない10分間のモンタージュから幕を開ける。そこは歌舞伎町であって歌舞伎町ではない。街中にセックスとバイオレンスが満ち満ち、カオスが秩序を駆逐した〈架空の街〉…そう「新宿黒社会 チャイナマフィア戦争」の歌舞伎町である。三池崇史はエネルギッシュなオープニングでこの映画の世界観を提示した後、驚愕のラストまで105分、一気に突っ走る。フィクションとしてのエンタテインメントを極限まで高めた傑作。必見。 ● 本作を「シベリア超特急」や「幻の湖」あたりと比較する向きもあるようだが、それは断じて違う。作り手の未熟さ/勘違いから生まれた無意識な怪作と、意図的に枠組をぶち壊して〈超虚構〉へと突き抜けてしまった確信犯・三池崇史は、到底くらべられるものではない。 ● やけにヤンキーっぽいネエちゃんが多いと思ったら全員、竹内力のファンだった。舞台挨拶で黄色い声援を送られて低い声で一言「ういーっす」…うーん、虚構が現実を侵食してるぞ。竹内力は、ドラマ的な部分を哀川翔と他の共演者にまかせて、自分は何もせず格好つけてるだけ。だが最後の最後で「この役がなぜ竹内力でなくてはならなかったのか」がはっきりする。つまり「信じられない事を信じさせるのがスターの力」なのだ。それがイーストウッドだから、それがシュワルツェネッガーだから、どんな虚構も受け入れられるのである。 ● 哀川翔はチンピラのイメージを払拭して大人の男の顔になった。他にも石橋蓮司、小沢仁志、鶴見辰吾、本田博太郎、田口トモロヲといったVシネ・オールスターズが期待される通りの怪演を見せている。吃驚したのはヤクザの組長に扮した(おそらくは背の低さでキャスティングされたのであろう)映画評論家の塩田時敏で、今まで数々のピンク映画などにチョイ役出演して演技のエの字も出来ないことを示してきた素人役者が、ここでは並いるプロを向こうに回して堂々の存在感を示すのである。つくづく役者というものは演出家と使い方次第なのだなあ。そして誰より賞賛さるべきはこれが映画デビューとなる元モデルの甲賀瑞穂。ギャング団のメンバーでもあるストリッパーの役で、まだ台詞もないうちから胸出しまくり。徹頭徹尾の汚れ役で、情感もヘッタクレもない、これ以上ないというほどヒサンな最期を遂げる。「あたしのモデルとしてのキャリアは何だったの!?」てな役なのに、当日の舞台挨拶では「この映画でデビューできてシアワセ」と大喜びしておった。見上げた役者根性だ。「両親が会場に来てる」とも言ってたが、親は泣くと思うぞ、娘の姿 見て。 ● なお、蛇足ながら本作のテーマを解説すると「日中友好クソ食らえ! 朱鷺はブッ殺せ!」ということである。 [NipponCinemaNow]

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サティヤ(ラム・ゴバル・ヴァルマ)

「ムンバイ(ボンベイ)…そこには(天を突く高層ビルの)華やかで恵まれた生活があり、(地に張りついたスラムの)暗く絶望的な暮らしがある。そして何かのきっかけで人間界に地獄が作られた。それがムンバイの暗黒街だ」というナレーションで幕を開ける“インド映画らしからぬ”ダークなリアリズム・エンタテインメントの傑作。 ● インド版「スカーフェイス」という触れこみだったが、実際は「ゴッドファーザー」や「仁義なき戦い」あるいはそこから派生した香港ノワールに近い。スラム育ちの孤児が暗黒街でのし上がって、やがて破滅するまでを2時間50分という長尺を使ってじっくり描く。いちおう歌も5曲入っているが、従来型の、時間と場所を超越したダンス付きのものは1曲のみ。あとは結婚式とか釈放祝いといった設定を利用して、ドラマの流れを阻害しない配慮がなされている。 ● 主役のサティヤはマイケル・コルレオーネを思わせる若者。刑務所で知り合った、ソニー・コルレオーネのように陽気で子煩悩で、癇癪持ちのギャングのボスに気に入られて、その片腕となる。スラムで生まれ育った境遇が否応なしに彼にもたらした冷酷ぶりと聡明さを武器に裏社会でずんずん頭角をあらわす。その一方で彼はアパートの向かいの部屋に住む歌手志望の娘に恋をする。人を疑うことを知らない純真な娘…「なにを笑ってるの?」「君が些細なことで喜ぶからさ」「些細なこと?」「足元の小石とか、この海とか、小さな事だ」「それが人生だもの」「…初めてそう感じた」初めて感じた生きている喜び。だが、組織内での醜い権力抗争と、警察の非道な取締りが、だんだんとサティヤを逃げ場のない袋小路へと追いこんでいく…。 ● 演出・脚本・撮影のみならず俳優のアンサンブルが素晴らしい。主役のサティヤは(欧米の基準に照らしても)細身でハンサムなチャクラヴァーティ(←人名) ヒロインのウルミラ・マートンドカルは超絶美人でも巨乳でもないが、ドラマに説得力を持たせるには十分過ぎる美しさ。他のギャング・メンバーも無愛想な大男とか、冗談好きの小男とか、ベテランのハゲのデブなど、配役の妙を心得たキャスティング。 ● おれはしかし、この傑作に胸ふるわせながらも一抹の不安を覚える。この映画はインドでは今年最大のヒットを記録したということだが、これをきっかけとしてリアリズム映画が流行となり「ムトゥ 踊るマハラジャ」に代表される歌と踊りの一大エンタテインメントが下火になりはしないか。かつてハリウッド映画も、日本映画も辿った道である。インド映画界と映画観客が、世界に誇るべき かけがえのない愉しいインド映画を守り続けてくれる事を切に願う。 [CinemaPrism]

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シュリ(カン・ジェギュ)

おお、これは傑作だ。なるほど韓国はいまや世界で唯一、スパイ・アクションにリアリティのある国なのだ。「ダイ・ハード」クラスの銃撃アクションと爆発シーン、手に汗握るサスペンスと切ないラブストーリー。じつによく出来たハリウッド流エンタテインメントである。まあ、ミステリーとしてはちょっとヒントを出し過ぎなのだが、そんな事は「シュリ」の圧倒的な面白さの前では瑕瑾に過ぎぬ。 ● 主人公は韓国諜報部の2人組。彼らが追っているのは北朝鮮の女テロリスト、イ・バンヒ。正確無比な史上最強のスナイパーだ。イ・バンヒは主人公たちをあざ笑うように要人暗殺を繰り返す。そんな時、2002年ワールドカップへ向けての南北朝鮮親善サッカーの試合を目前に控えて、北朝鮮の特殊部隊の精鋭が韓国に潜入する。…というサスペンスと並行して、主人公の彼女、元アル中の 心に傷を抱えたヒロインとのラブストーリーが描かれる。この映画が優れているのは、このラブストーリー部分がアクション映画によくある“単なる彩り”としてではなく、メインのストーリーにしっかりと絡んでくるところだ。 ● 監督・脚本は、まだこれが2作目のカン・ジェギュ(姜帝圭)「韓国映画」と聞いて想像される、私小説的なジトッとした湿度の高さとは無縁の、スケールの大きな娯楽映画を構築した手腕、特に何を成すべきかをきちんと把握した構成の優れた脚本を評価する。そうした土壌のない国でそれを成し遂げるのが如何に困難なことであるかは、本邦において黒澤明 以降「娯楽アクション」と呼べるものが「新幹線大爆破」(1975)「太陽を盗んだ男」(1979)「踊る大捜査線」(1998)の、わずか3本しかない事からも明らかであろう。てゆーか、他にもあったら教えてくれよ。てゆーか、頑張れよ>「ホワイトアウト」関係者。 ● 主役の韓国諜報部コンビにハン・ソッキュ(韓石圭)と、ソン・ガンホ(宋康昊) この2人どちらも細目&えら張りの大仏顔で(見なれてないおれには)最初のうちどっちがどっちか区別がつかないのが困りもの。ハン・ソッキュは「八月のクリスマス」で見せた小松沢陽一のような気持ち悪い微笑をしなかったのでホッとした。これが映画デビューで堂々 映画を背負って立つヒロインには、名取裕子を丸顔にしたみたいなキム・ユンジン(金允珍) 美人で演技も巧いのだが、巧すぎて「療養所の少女」が二役だということに最後まで気付かなかったぞ(この原稿を書くために冷静に考えてみてそう結論したのだが、そうだよなあ?>観た方) そして北朝鮮の特殊部隊の隊長にチェ・ミンシク(崔岷植) テロリストのリーダーであるから立場としては悪役なのだが「南のバカ学生が酔っぱらってゲロを吐いてる時にも、北の人民は飢えて死んでるのだ」という主張が圧倒的に正しくて、完全に主役の座を奪ってしまう。じっさい韓国の各種映画賞で「主演男優賞」を軒並みさらったのはハン・ソッキュではなく、この人だった。 ● そう、「シュリ」は娯楽映画だが、その背景には南北朝鮮の問題が横たわっている。北も南も、共に「祖国統一」を唱えながら対立を続けている悲劇。パラレル・ワールドにおいては日本も、東京の人間と関西人は別の国の人間かもしれんではないか(それでもいいけど) 「ワンス・アポン・ア・タイム 天地大乱」にも通じる、熱い想いに裏打ちされたアクション映画。必見。 ● じつはこの映画、映画祭最終日である日曜の夜に追加上映が組まれたので観ることが出来た。おれは「サティヤ」を観に行って会場の貼紙で知った。上映前のお詫びアナウンスによると、昨夜の上映会があふれたために急遽、決まったことらしく2,000人以上入る渋谷公会堂で観客はわずか100人ほど。なんだかなあ。まあいいけど。おかげで観られたから。 [SpecialScreening]

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