m@stervision tokyo filmex 2004

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



★ ★ ★ ★
柔道龍虎榜(ジョニー・トー)

撮影:チェン・シウキョン(鄭兆強) 音楽:ピーター・カム(金倍達)

ジョニー・トーの2004年最新作。「柔道龍虎」の「榜」は木のお札(ふだ)の意。この場合は道場にかかってる名前札のこと(だと思う) エンドタイトルの監督名の前にどどーんと「敬愛する黒澤明監督に捧ぐ」と献辞が出る本作は、ジョニー・トーによる「姿三四郎」の(ストーリーではなく)スピリッツのリメイク。いわばジョニー・トー版「キル・ビル」である。なにしろクライマックスの、香港高層ビル街の谷間に出現した風、吹きすさぶ箱根仙石原の決闘シーンには、朗々と日本語の演歌が流れるのだ。 ● え? 黒澤の「姿三四郎」に主題歌なんてあったっけ?と思われたあなたは正しい。若い人はご存じないかもしらんが、かつて「姿三四郎」といえば男の子に大人気の演目で何度も何度もリメイクされている。ちょっと調べただけでも──
1943年版(東宝/藤田進/監督:黒澤明)
・1955年版(東映/波島進/監督:田中重雄)
・1963年版(フジテレビ/倉丘伸太郎/監督:渡辺邦男)
・1965年版(東宝/加山雄三/監督:内川清一郎 ※黒澤明 脚本による)
・1970年版(松竹/竹脇無我/監督:渡辺邦男)
1970年版(日本テレビ/竹脇無我/監督:渡辺邦男)
・1977年版(東宝/三浦友和/監督:岡本喜八)
・1978年版(日本テレビ/勝野洋)
──と、これだけあって、いわば「今日のすべての格闘技マンガの祖」といっても過言ではない人気タイトルなのである。じつは「柔道龍虎榜」で流れる日本語の演歌は1970年のテレビ版「姿三四郎」の主題歌で、これは香港でも吹替版が放映され大人気だったようだ。1955年生まれのジョニー・トー少年も夢中になってテレビにかじりついた1人。ここのページに主題歌を歌った姿憲子のインタビューが載っていて[ 聞き手「以前、僕の知り合いで中国の女の子がいたんですけど、日本の歌で知ってるのは『北国の春』と『姿三四郎』だって言ってました」 姿憲子「そうなんですよね。向こう(中国)ではドラマが何度も再放送されているので、知ってる方が多いみたいです。電車の運転手さんが早くドラマを見たいあまり、電車を一駅飛ばしたってエピソードもあったみたいですよ」 ]という記述がある。本作のエンドロールで使用されているのはポーラ・チョイ(徐小鳳)が美空ひばり並みの日本語とコブシを駆使して歌っているバージョンだが、これは当時、香港で放映された吹替版のオリジナル音源のようだ。てゆーか、そもそも「柔道龍虎榜」というタイトル自体がテレビシリーズの香港版タイトルらしい。 ● 話が逸れるけど、おれは1970年だったらもう小学生だから、この竹脇無我 版の「姿三四郎」を観ていてもおかしくないと思うんだけど、どうも記憶がはっきりしない。観てたような気もするし(放映時間が遅かったのかな?) 同時期に放映してた桜木健一の「柔道一直線」(1969-1971)は、吉沢京子が可憐だったこととか「車周作」を演じた高松英郎の眉毛とか必殺技の「地獄車」とかハッキリと憶えてるんだけど、三四郎の必殺技「山嵐」は、どんなワザだったか忘れてるし。本作でアーロン・クォクが使ってる「肩口からの投げ」がそうなのかな? ● さて、ここからレビュウとなるわけだが(ながっ!)──、ジョニー・トー版「柔道龍虎榜」は(「姿三四郎」を代表とする)格闘技ものの定型である「天才的な素質を持っているものの、技術的にも精神的にも未熟な主人公が、師の厳しい教えとライバルとの死闘を経て成長していく」というストーリーを採らない。ここで語られるのは「かつて香港柔道界の小金剛(ゴールデンボーイ)と期待されながら、周囲からの重圧に負けてふっつり姿を消し、ろくにロレツもまわらぬアル中のクズ野郎にまで落ちぶれ果てた主人公が、ふたたび柔道の世界に復帰するまで」の物語である。つまり「人生をドロップアウトした主人公が再起して人生を取り戻すまで」の話なのだ。だから主人公が闘う相手は己(おのれ)自身であって、この映画に悪役はいない。ラストには「強大なライバル」との決闘が設定されているものの、かれにとっての「勝利」は、かつて逃げ出した「決闘の場に出向くこと」だ。勝敗ではない。「闘うこと」こそが勝利なのだ。何度、投げられて地面に叩きつけられても、立ち上がって相手に向かっていく──ここでいう「柔道」とはまさに人生の謂いである。主題歌「姿三四郎」の歌詞はこうだ>「♪ やれば出来るさ 出来なけりゃ 男はもう一度やりなおす 口惜しかったら泣け 泣け 泣いてもいいから前を見ろ 三四郎 それが勝負というものさ」 ● ……などと書いていると、さぞや熱血な映画であろうと思われるかもしらんが、ジョニー・トーはこれを自作「ザ・ミッション 非情の掟」「PTU」に連なる夜の映画として撮る。スタイリッシュな撮影/照明で登場人物の顔が闇の中に浮かび上がる。ナイトクラブでの乱闘などまるで日活ムードアクションのよう。「再起」を描きながら、そのじつ主人公が再起にいたる心理は明らかに描写不足で「感動」にはほど遠く、それまでの底辺でもがいている主人公(たち)のじたばたのほうが、はるかに魅力的に描かれているのだ。じつになんとも異様でいびつな映画であって「本来、描くべきテーマが描けているか」という観点からみると星3つが相応なのだが、それでもこの映画の放つ、夜にまたたくネオンのような奇妙な魅力には効しがたいものを感じるし、いまや世界最高のエンタテインメントの作り手が黒澤明に敬意を捧げて、日本語の歌まで流してくれるのには、やはり感動せずにいられないので、感謝も含めて星1つ増やしておく。 ● 場末のナイトクラブの雇われマネージャーとして糊口をしのいでいる主人公=司徒寶(シト・ポウ)にルイス・クー(古天楽) とつぜん押しかけてきて、かれに執拗に柔道の勝負を挑むトニーに、アーロン・クォク(最初はこっちが主人公かと思ったよ) ナイトクラブに雇われる売れない歌手・小夢(シウモン)に、ついこないだドラッグ所持で現行犯逮捕されちゃったチェリー・イン(應采兒)21歳。 ● 主人公と小夢のあいだには、黒澤版「姿三四郎」の有名な「そぼ降る雨の中で、三四郎が彼女の下駄の鼻緒を挿げ替えてあげる」シーンに対応する「走って逃げてるときに脱げた靴を拾ってきてあげる」という美しいシーンがあるのだが、じつは主人公のお相手はトニーのほうである。ルイス・クーとアーロン・クォクはどちらも典型的な さぶ顔俳優で──さぶ顔ってのがどんなんかというと、ホモ雑誌「さぶ」(<もちろん山本周五郎の「さぶ」から来てる)の表紙イラストのような「角刈りの精悍な顔つきで、浅黒い肌に真っ白な歯と六尺褌が似合うタイプ」のこと──再起して無精ヒゲも剃りサッパリしたルイス・クーと、角刈りのアーロン・クォクが素肌に白い柔道着1枚で、「嬉しくて仕方がない」という笑顔でじゃれ合うように畳の上をごろんごろんするさまは「見てはいけないものを見てしまった」感がぷんぷん。もう完全にラブシーンである。なにしろ、主人公の夢を最後まで見届けるのは(小夢ではなく)トニーのほうなのだから。 ● 共演陣は、強大なライバル=岡道場の岡(でも中国人らしい)にレオン・カーファイ。 かつての柔道ブームはいまいずこ──雑居ビルの2階にすっかり寂れた道場を構える主人公のかつての「師」にベテラン喜劇役者 ロー・ホイパン(盧海鵬) その息子(もう中年)で「姿三四郎」の世界に生きていて、初対面の相手には「ぼくが姿三四郎で、キミが檜垣ね」が口癖で、気持ちが高まるとテレビ主題歌を歌いだすうすら馬鹿のチン坊に、かつての大人気アイドル・グループ「グラスホッパー」のカルバン・チョイ(蔡一知) ゲーセン気狂いのやくざの親分(にして柔道家)にチョン・シウファイ(張兆輝) ● って、ちょっと待てなんでそんなに香港に柔道家がいるんだ!?と思ってるでしょうけど、居るんだから仕方がない。1970年代にテレビで「姿三四郎」が放映されて大人気だったってことは、当時はそれなりの柔道ブームがあったんだろうし、まあ、たまたま本篇では主人公の周りに柔道家/元柔道家ばかりが集まってしまった──ってことにしといてくれないか。誰に頼んでるんだ。 なにしろこの映画の中ではカンフーなどの中国武術はまったく使われず、やくざの三下までが柔道で投げ合いをくりひろげるのだ。香港人柔道家の武術指導のもと、俳優たちは服の下に薄いパッドを入れただけで、コンクリートの地面の上に敷いた極薄のマットに上に何度も何度も投げ落とされる。これって(ワイヤーで吊られてダンボールの壁に投げ飛ばされる)いつものカンフー・アクションよりキツいんじゃないだろうか? レオン・カーファイはご愛嬌ていどだが、ルイス・クーとアーロン・クォクはそうとう絞られたらしく、かなりサマになっていた。 ● 最後にもうひとつ指摘しておくと、本作はジョニー・トーのコンビの相方=ワイ・カーファイ(韋家輝)が撮った「Mr. BOO ! 鬼馬狂想曲」(あ、こっちにもルイス・クー出てるぞ)に続く秘密結社イエスタデイ・ワンスモアの香港侵略 第2弾でもある。つまり「昔は良かった。香港全体が活気にあふれていた。もう一度あの元気を取り戻そうよ」という映画なのである。 ● ジョニー・トーの基本アイディアを形にしたのは、いつものヤウ・ナイホイ(游乃海)+イップ・ティンシン(葉天成)+オウ・キンイー(歐健兒)の脚本家チーム。従来からジョニー・トー/ワイ・カーファイ組で執行導演(≒監督補)を努めてきたラウ・ウォンチョン(羅永昌)が本作に到って「導演:ジョニー・トー 執行導演:ラウ・ウォンチョン」と2人並びでクレジットされている。 ● [追記]「龍虎榜」の意味について「BJ38」氏よりBBSにて[「榜」についてですが、意味としてはリストのことです。「龍虎榜」で一つの固有名詞で、元来、科挙試験の合格者公布リストのことを言っていたのが、転じて才能ある人間のリストになりました。現代でも使われます。べたに訳すと「柔道達人伝」みたいなニュアンスでしょうか。]とご教示いただいた。 [Filmex]

★ ★ ★
明日が来なくても(ニキル・アドヴァーニー)

製作:ヤーシュ・ジョハール 製作・脚本:カラン・ジョハール

東京国際映画祭でも追悼上映がなされたインド映画界の名プロデューサー、ヤーシュ・ジョハールの遺作となった2003年作品。前2作を監督した息子のカラン・ジョハールが製作と脚本を担当し、それまでずっと助監督を務めてきたニキル・アドヴァーニーが本作で監督デビューした。全篇、ニューヨークが舞台となっており、よくある「B班が風景を撮って来ただけ」のレベルを大きく超えて、全キャストが参加しての大々的なニューヨーク・ロケを敢行している。 ● 本作の語り部となるのはメガネっ娘のヒロイン。母の経営するカフェ・レストランを手伝いながら、ニューヨーク大学の夜間MBAクラスに通う頑張り屋さんだが、このところレストランは閑古鳥で借金ばかりが嵩んで差し押さえ寸前。父のいない家庭では「進歩的な母」と「インドから来た旧弊な祖母」の諍いが絶えず、祖母は弟ばかりを猫可愛がりし、養女である妹に冷たくあたる。ほんとうは明るい娘なのに、恋をする暇もなくて眉間に皺ばかりが増える。そんな時だった──「ペイルライダー」で少女の祈りに応えてクリント・イーストウッドが現れたように──まるで家族の祈りに応えるかのように1人のずうずうしい隣人が現れたのは。インドから叔父さんを訪ねてきたというかれは、少しばかりハンサムなのを鼻に掛け、自信満々のお調子者で、相手の返事も聞かずにずかずかとこちらの懐へ入り込んできて、またたく間に皆の人気者になってしまう。ヒロインはそんなの男が軽薄さが大キライだった。 ● ……と、ここまで30分近く経過しても、不可解なことにこの映画の主旋律(メインテーマ)が聞こえてこない。ヒロインと隣人が恋に落ちるだけじゃ3時間の映画にはならない。インド映画の「文法」からいけば、そこには何かとてつもなく大きな障害があってしかるべきなのだが、それが見えてこないのだ。双方とも「強力な恋のライバル」もいないし「店を乗っ取ろうとするマフィア」も出てこない。まあ、勘の良い観客なら1時間ほどで「はは〜ん」と気付くかもしれないが、登場人物の口からはっきりと「この物語の目指すところ」が語られるのは、なんと開映から1時間半を経過した前半のラストにおいてなのである。うーむ。畏るべしインド映画。1時間半の前フリ! ● ヒロインを演じるのは、天下御免の片エクボにド迫力ボディ──笑えば敵なしのプリティー・ジンター。今回は前半と終盤は泣いてばかりなので、チャームポイントの笑顔が堪能できるのが ほんのちょっと。悲しい。 「ずうずうしい隣人」の形をとって現れるヒロインの守護天使には もちろんこの人>シャー・ルク・カーン。今回はほとんど全篇、口八丁の冗談ヤローなので、シャー・ルクはラスト15分しか「仕事」をしないのだが、その15分でかっちり場をさらい、それまでの3時間を「シャー・ルク・カーンの映画」に変えてしまうのは、さすがスターの底力。 そしてヒロインの母に前作「時に喜び、時に悲しみ」に続いて出演のジャヤー・バッチャン。プリティーと顔の輪郭が似てるので本物の母娘に見える。 ● 星3つの評価だが、じつは事前の期待度からいくと「期待はずれ」と言ってもよい出来。全篇NYロケで頑張ってるのは伝わってくるのだが「西欧の若者風俗」はインド映画の最も不得手とするところ。ミュージカル・シーンでも〈「プリティ・ウーマン」のサビとギター・リフを活かしたインド歌謡〉などという力ワザで無理やりねじ伏せようと努力はしてるのだが、やっぱ基本的に、この人たちのアメリカの音楽シーンに対する理解が「サタデー・ナイト・フィーバー」とジョルジオ・モロダー止まりなんだよね。レトロやキッチュを狙ったわけじゃなく、真面目にやってディスコ・サウンドになっちゃうのだ。酔っ払ってデカい黒人に「モハメド・アリ?」と訊いたりするギャグ・センスも、インドでやってる分には笑えるけど、それをNYでやられちゃうと……。結局、全篇中でもズバ抜けて素晴らしいシーン/ナンバーは、本拠地ボリウッドのスタジオで撮影した純粋インド歌曲/衣裳による群舞シーンなのだ。ラニ・ムカールジカージョルまでカメオ出演するこのダンスシーンはひとときの至福。 [Filmex]


トロピカル・マラディ(アビチャッポン・ウィーラセクタン)

「マラディ」とは病気・疾患の意。つまり「熱帯的疾患」ですな。 ● うー、騙された。チラシの紹介文を書き写すが>[カンヌ映画祭に賛否両論の渦を巻き起こし、結果、タイ映画史上初の受賞を果たした作品。愛し合う2人の青年の日常を淡々と描写する前半と、予想もつかない奇怪な物語が展開する後半とが明確な対照をなす。] ね? ファンタスティック系のインディーズ映画かと思うじゃない。ビデオ撮りかと思ってたから、始まって「おっ。フィルムじゃん」と喜んだのも束の間、最初の1時間は「森林警備隊の兵士」と「氷屋の兄(あん)ちゃん」の、劇的なことが何も起こらない日常を、設定や状況に関する説明も、BGMもなしで描く、観客に不親切な台湾映画なのだった。いや、演出が。 ● 死ぬほど退屈しながらも「後半はトンデモ映画だ。がんばれがんばれ」と自分を励ましながら1時間 耐えていると、まるで「収拾」という言葉を知らぬかのように突如として前半の話は打ち切り。画面が暗転し「魂の通り道」と題された後半がクレジット・タイトルと共に始まる。さあ、トンデモトンデモ!と思っていると、さきほどの兵士が「呪術師の魂を喰らった」と噂される一匹の虎を求めてジャングルに分け入っていく。話はそれだけで、昼まだ暗きジャングルを彷徨う兵士の描写がBGMもなしで延々と続くのみ。さすがにここで途中退出しようかと思ったが、上映前にパンフを読んで「衝撃のラスト」という言葉を目にしてしまったのが運の尽き。死ぬほど退屈しながら最後まで我慢してると、なんのこたあない「虎は己(おのれ)だった」という「闇の奥」でちゃんちゃん。どこが「衝撃のラスト」やねん! あー、2時間 損した。 ……と思ったら、なんとこれがコンペの「最優秀作品賞(グランプリ)」でやんの。受賞理由が「斬新な構成、大胆な映像詩のミステリー。未来の巨匠の誕生を予感させる強力なインパクトを与える作品である」って、これのどこがミステリーやねんっ! ばがやろ。ドナルド・リチーはじめ審査員一同はもう一度、ジャンルの定義から勉強して来い。 ● BBSでの「CHAPT」氏の指摘によると後段の虎の話は中島敦「山月記」だったらしい。そういえばなんか最後に引用分が出てた気が。 [Filmex]

★ ★
特集上映:ガイ・マディン

カナダのアングラ映画作家ガイ・マディンの小特集。「臆病者はひざまずく」(2003)、「世界で一番悲しい音楽」(2003)、クロージングの「ドラキュラ 乙女の日記より」(2002)と3本とも観に行って3本とも途中から寝てしまった。なにやってんだか>おれ。そういえば「ギムリ・ホスピタル」(1988)も寝ちゃったんだっけ。サイレント映画フェチな作風は好きなんだけど、長篇映画としては30分ぐらいで飽きちゃうんだよなあ……。 [Filmex]