m@stervision archives 2004c

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



★ ★ ★ ★ ★
沈黙の聖戦(チン・シウトン)

まあ、これに満点つけるのは日本中で数人しかいないと思うが「(現在の)スティーブン・セガール主演でチン・シウトン監督・武術指導」という組合せに胸をワクワクさせて公開を待ち望んでいたおれが求めていたものはすべて得られたのだから、満足度100%。星5つ付けるよりほか無いではないか。 ● 製作はもちろんB級映画界の雄=アヴィ・ラーナー率いるミレニアム・フィルムズ。資金提供の関係でクレジット上は「カナダ=イギリス=香港合作」となっているが、ほぼ全篇、タイを舞台にしたタイ映画である。タイのジャングルにバカンス旅行に来ていたアメリカ人カップル2組がイスラム過激派に襲われる。男2人は(どうでもいいので)その場で殺されて、ビキニトップに短パンの若い女性2人が拉致監禁され「人質の命を助けたかったら、獄中の同志を釈放せよ」との要求とともにビデオが送られてくる。だが犯人たちは1つ、致命的な誤りを犯していた──人質の片方がセガールの娘だったのだ!!(藤谷文子ではありません) ● というわけでよくよく運のない犯人たちであるが、セガールが出張(でば)って来た以上、もはや陰謀も駆け引きも政治的決着もありえない。関係者全員ぐっちょんぐっちょんのちょん、タイの暗黒街はまたたくまに死屍累々である。今回、セガールの役どころは元CIA局員で、CIAが表向き手を出せない荒事(あらごと)やダーティワークを一手に引き受けてる男。10年前まではタイに居て、タイ語もペラペラの敬虔な仏教徒という設定。仏教徒は人殺しを正業にしないと思うが気にするな。アクション・シーンでも(とくに足技とかは)顔がぜんぜん映らないけど気にするな。これはセガール映画なのだ。タイの描写とか、マトモな映画だったら国際問題に発展しそうな部分も多々あるが、セガール映画を真に受ける奴ぁいないのでぜんぜんオッケーだ。 ● てゆーか、たしかにセガール自身が自分では仏教徒と思ってるだけあって(たとえ勘違いを含んだものであっても)東洋に対する親しみ/愛情は、同じ香港好きなアクション・スターであるジャン=クロード・ヴァン・ダムと較べても、はるかに深い。それはたしかに画面から伝わってくる。この映画が娯楽映画として素晴らしいのは「タイの映画好きの酒飲みのおっちゃん」とかが観ても快哉を叫べるように作ってある点で、今回ある意味、セガール以上の見せ場を与えられているセガールの「魂の戦友」が、かつてセガールの同僚のCIA局員だったが、10年前に誤って民間人を殺傷してしまって以来、仏教に帰依して僧侶となったタイ人という設定なのだ。「ストリートファイター」「クライング・フリーマン」の香港人アクション俳優 バイロン・マンが演じるかれは、もちろんセガールの窮地を知って俗世に戻ってくる!「老師、わたしには救わなければならぬ友がいます」「ゆけ。それがお前の道じゃ」くぅーっ。 ● 原題は「獣の腹(BELLY OF THE BEAST)」。驚くべきことに「沈黙の聖戦」という邦題のほうが内容に正確で、クライマックスには──セガールとラスボスの肉弾バトルとのカットバックで──「御仏に仕える者たち」と「地獄の邪神を祭る者」とのスピリチュアル・バトルまでが描かれる。もちろん御仏パワーが勝利すんのよ。ここ、タイの映画館じゃ拍手喝采だと思うね。 ● 自前のスタント・チームを率いてタイに乗り込んだチン・シウトンは、おそらく「マッハ!!!!!!!!」で名を上げた現地のスタントマンとも協力して素晴らしいアクション・シーンを次々と繰り広げる。たぶん最初は「セガール有り」で上半身主体のキメだけテキパキと撮ったら、親指立てて「ホウアー!さすが有段者。すべて一発OKですわ」「さよか? ほなお疲れさん」とセガールがトレーラーに帰ったのを見計らってから今度は「セガール抜き」でバンバン過激なアクションを撮っていったと思われる。いや、でも決してセガールをないがしろにしてるわけではなくて、ラスボスとの最後の決着はちゃんと合気道で決めさせるのだ。大人ですなあ>シウトン師。 ● いや、大人といえば本作には、過激派ゲリラのリーダーがセガールに「連絡員の若い娘」を遣わせるシーンがあって、この娘、セガールの前に思わせぶりに登場すると、無言のままセガールをレストランのトイレに誘導し、いきなり着ている服をはだけておっぱいを剥きだしにすると[手水盆の水で胸を濡らす。するとハダカの胸に暗号文が浮き上がる!]のだ。いや素晴らしい。これだけ正しいハダカの見せ方は久々に見たぜ。最後に、監禁されてる娘たちの会話からひとつ名台詞を。絶望して泣きじゃくる娘にセガールの娘が「パパがきっと助けに来てくれるわ」「どうやって!? そんなの無理よ!」「You don't know my dad.あなたはパパを知らないから)」

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Jホラーシアター 感染(落合正幸)

プロデューサー:一瀬隆重

もともと自らが製作した「リング」「らせん」の2本立てで始めた、東宝邦画番線 冬の恒例の「角川ホラー枠」を後から出てきた(角川映画 社長の)黒井和男に横取りされた一瀬隆重が「それなら結構。どっちが本家が実力で勝負しましょう」と始めた新シリーズの第一弾。「Jホラーシアター」という企画名に「Jホラーというブランドを作ってきたのは自分だ」という一瀬隆重の気概が伺えよう。来年以降も中田秀夫・黒沢清・清水祟・高橋洋(監督作)という錚々たる面々が登板待機中。 ● まずは「感染」。丘の上に建つその病院は疲弊していた。老化した設備。慢性的な人手不足。経営難から医療器具や薬品の購入にも支障が出はじめる。代わる者とてなく働き続けるのは、疲れ果てた熟練スタッフと、経験不足の未熟な新人看護婦のみ。その頃、世間では高熱を発する謎の発疹性感染症が蔓延し、感染者を乗せた救急車は引き受ける病院も見つからぬまま暮れゆく街を走り続けていた……。 ● キチガイ病院ものである。いや患者が、ではなくてキチガイばかりが働く病院もの。だってアンタなにしろ働いてる先生が佐藤浩市に佐野史郎にモロ師岡で、婦長が南果歩だ。そんな中に入って高嶋政伸まで自分勝手な本性を全開。「キングダム」とはちょっと毛色が違うが、次から次へとイヤ〜ンな出来事ばかりが起こって、解決の目処もなく解放される当てもない煮詰まった絶望感の充満する感じはラース・フォン・トリアーの映画に近い。まるで外の世界が壊滅してしまったような夜の静けさのなかで、孤立した病院内だけで展開する物語は まるで「デイ・ビフォー・オブ・ザ・デッド」とでも呼びたいような終末SF感にあふれている。このまま行ったらちょっとスゴいことになるぞと期待していたんだが、途中から──ま、タイトルが「感染」だから仕方ないんだけど──よくある侵略SFホラーの展開になっちゃって、ちょっと残念。最後まで不快ホラーで通してくれればよかったのに。 ● 監督・脚本は「催眠」「パラサイト・イヴ」の落合正幸。君塚良一が「原案」としてクレジットされていて、その他にも「脚本協力」とクレジットされているスタッフがいるあたり、いろいろと大人の事情がありそうだが……。キャストでは看護婦(星野真里・木村多江・真木よう子)がみんなぺっぴんさんで、それぞれからホラー映画としては必要十分な演技を引き出しているのにも好感を持った。ただ、これらの若手より芝居の下手な羽田美智子はどうかと思ったけど。撮影はソニーのシネアルタ。夜でしかも屋内シーンばかりなのでビデオ撮りでも画質は気にならず。 ● 細かい矛盾はおいといて、ひとつだけネタバレなツッコミをすると、疲労が重なって[医療ミス]が潜在的な恐怖としてあるのは判るけど[あの感染症の元ネタ]は何なんだ?(なにか根拠がないとあまりにも突飛じゃない?)


Jホラーシアター 予言(鶴田法男)

プロデューサー:一瀬隆重

この番組が2本立てなのは「リング」「らせん」で成功したゲンを担いだのだろうが、なにも映画の出来まで「リング」「らせん」に似せなくてもいいのなあ……というわけで「らせん」にあたるのが本作である(火暴) ● つのだじろうの漫画「恐怖新聞」の映画化。おれ、つのだじろうの絵が嫌いで「恐怖新聞」も(「うしろの百太郎」も)ちゃんと通して読んだことないのだ。だから本作に「恐怖新聞」研究家として登場する鬼形礼(きがた・れい)というのが漫画の主人公の名前だというくらいは判るけど、原作のストーリーとか結末とか知らないので、この映画版がどの程度、漫画に忠実なのかはわからない。……あ、ちなみに「恐怖新聞」ていうのは深夜に冥界から届く「未来の惨劇の記事が掲載された新聞」のことね。受け取ったものは、だからといって何も出来なくて、ただ実際に惨劇が起こるのを目撃するしかない。恐怖新聞を1日読めば百日、寿命が縮まり、そしてある夜 届いた「恐怖新聞」には自分の名前が載っている、と。なんだ、けっこうよく知ってんじゃん>おれ。 ● さて本篇。大学の研究員の酒井法子は「呪怨2」で産んだ伽椰子もスクスク育って、大学の同僚である夫・三上博史と親子3人しあわせに暮らしていた。だが実家からの帰り路、夫のもとに「娘の事故死」を予告する恐怖新聞が届いて……。じつは「恐怖新聞」はすでにハリウッドで映画化されている。それは「ファイナル・デスティネーション」というタイトルなのだが(もちろん偶然だろうが、本作にも「ファイナル・デスティネーション」そっくりのシーンがある)、よーするにこれは「いかにして〈死〉をたばかるか」という話である。特殊な能力を持った夫と、妻が別々に子どもを〈死〉から守るために奔走するという構成は(もちろんこれも偶然だろうが)「リング」にそっくり。 ● これさあ、致命的な計算ミスだと思うのは、この話だと(「ファイナル・デスティネーション」と違って)1人死んだら終わりだからホラーになんないんだよね。それじゃ見せ場がないので、夫婦の周辺の人物を何人か殺してるんだけど、それって別に(娘の命に較べたら)主人公たちにとってはどーでもいいことであって「娘を〈死〉から救うこと」と「恐怖新聞による連続殺人」が感情的にリンクして来ないのだ。「ほんとにあった怖い話」でJホラー演出の創始者の1人でもある鶴田法男だが、ここでは物語の周辺を飾り立てることに終始しているように見える。 ● それとなんだかギャグにしか見えない演出がいつくかあるんだけど、精神的に追いつめられた夫妻がヨリを戻してイッパツやった途端に三上博史が妻を腕枕しながらタバコを一服して「ま、何とかなるさ(ふ〜)」とか、とある人物の葬式で参列者の若い女性が「(故人の)顔を見せていただけますか?」と頼むと、母親がしずしずと歩み出て棺の覗き窓の蓋を開ける。覗き込んだ参列者が「ひえ〜っ」と悲鳴をあげる。母親、泣きくずれて「顔が……無うなってしもうて」 それと、三上博史の体が「恐怖新聞」の毒に侵されていることを酒井法子が知ってしまう悲しい場面があるんだけど、その前の「酒井法子からフォトフレームを受け取ったとき」にワイシャツのカフスのところから特殊メイクが見えちゃってるんですけど? ● 三上博史の教え子の女子高生に「怪談 新耳袋[劇場版]」にも出ていた新ホラー・クイーンの堀北真希。出番が少しで残念。 酒井法子の助手に「アコムのCM」の小野真弓……って最初に名前が出てなかったら絶対に気付かなかったであろうほど魅力なし。 電器屋の前で三上博史に話しかける男が異様に怖くて、きっとコイツが恐怖新聞の発行人に違いないと睨んでたら、それっきり出番がなくて、なんだったんだあの場面は?と思ったんだけど、エンドロールを見てたら なんと脚本家・高橋洋のカメオ出演だった(火暴) ● なお本作における「幼い娘の死」は物語上、絶対に必要なものであるし描写にも節度があるのだが、三上博史の見る「焼け爛れた娘」の悪夢が悪趣味きわまりないので星1つ減とする。 

ちなみに、この2本立てが公開された翌日のスポーツニッポンに次のような見出しが躍った>「感染」「予言」初回上映に空席。 つね日頃、毎週末に新作映画が公開されるたびに「配収100億は見えた」だの「『踊る大走査線2』を抜く勢い」だの「本年度の国家予算を上回る大ヒット」だのといった宣伝部の景気のいい談話が載るスポーツ新聞の記事としてはきわめて異例な記事である。じつは当サイトはこの記事を画策した張本人を知っている。犯人は新生・角川映画の社長=黒井和男そのひとである(……たぶん) こいつはかつて総会屋の社長の手先となってキネマ旬報から白井佳夫編集長と左翼編集者を追い出して同誌の編集長(のちに社長)となった頃から権力志向のカタマリで、ナベツネと同じ思考回路を持っているので、「着信アリ」でうまいこと東宝邦画番線の枠を横取りしたと思ったのも束の間、「生意気な若造がおれさまに歯向かいおって何様のつもりだ!?」と子飼いの記者に「感染」「予言」を妨害する記事を書かせたのだろう(当サイト推測) まあ見ててご覧よ。そのうちスポニチに「戦国自衛隊1549」か「妖怪大戦争」がらみの独占スクープが載るから。

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跋扈妖怪伝 牙吉 第二部(服部大二)

企画・原作:原口智生 脚本:神尾麦 音楽:川井憲次 殺陣:加藤正記

[DVD観賞] 残念ながら劇場未公開のままDVD発売となった第二部。原口智生は製作にまわり、第一部で助監督をつとめた服部大二が監督デビューしている。80分。物語の基本設定は前作のレビュウを参照のこと。 ● 寄る辺なき旅を続ける人狼(ひとおおかみ)の生き残り=牙吉(きばきち)が通りかかった宿場町では、町で疎まれて育った野人の如き ならず者の桜丸が町外れに陣取り、当たるをさいわい旅人を片っ端からなで斬りにし、大挙してきた捕方も皆殺しにされて、いまや奉行所も手をこまねいている有様。なにしろ基本キャラは「木枯し紋次郎」であるので「あっしにゃ関わりの無いこって」と通り過ぎようとした牙吉だったが、行く先々で疎まれる自分に親切にしてくれた盲目の町娘のために桜丸を斬りに行く。そこへ牙吉を「一族の仇」と追ってきた人狼の女=安寿があらわれ、三つ巴に。だが今度は桜丸が、その小さな体躯からは想像もつかぬ安寿のパワーと負けん気の強さに惚れてしまって……。 ● 以上、話のネタとしてはこれで充分。本来ならばこの第二部では、第一部でもずうっと登場して牙吉に決闘を挑みながら決着が付かなかった安寿との「2人の話」にフォーカスすべきなのだ。ところが作者は、この上さらに牙吉たちを狙う「謎の第三勢力」まで登場させてしまうものだから(そりゃ話は賑やかになったかもしれないが)肝心の「牙吉と安寿の関係(=2人の気持ち)」すらはっきりと描かぬまま、またもや決着はあいまいなまま終わってしまう。製作サイドとしては「あわよくばパート3」と思ってるのかもしれないが、ドラマツルギーからしたら少なくとも安寿は(誰に殺されるのかは別として)ここで死ぬべきだろう。それで最後に牙吉と桜丸の死力を尽くした闘いがあって、桜丸が(安寿の後を追うように)死んで、牙吉は瀕死の重症で川流れ──といったところが定石だろう。いやそれだとクライマックスに(着ぐるみの)妖怪同士の対決が作れないからマズい──そもそもそれが眼目の企画なので──と作者は言うかもしれないが、それなら桜丸を[舶来の妖怪バラモン]が人間の女を犯して産まれし呪われた子ってことにすりゃいいじゃんか。 ● 役者では桜丸を演じた船木誠勝が圧倒的にすばらしい。乞食のような身なりをして、化物のように強くて、だが二心なく餓鬼のように純粋という〈プロレスラー 船木誠勝〉のイメージとはかけ離れたキャラクターをしごく魅力的に演じて、まだ短い俳優としてのキャリアのベストを出した。 安寿に扮した田中美紀(1977年生)は「闘うヒロイン」としてはなかなか魅力的なんだけど、いかんせん殺陣がなあ(まあ使ってる武器も1m×1mぐらいのブーメラン刀という、えらく扱いにくそうな代物なんたけど) 盲目の町娘に中村愛美ってのは完全なミスキャスト。「時代劇の可憐な悲劇のヒロイン」の役なんだから、もっと若くて可愛いティーンアイドルを使いなさいよ(演技は出来なくても可) 荒寺の和尚に芦屋小雁。あれ、遺作?……あ、死んだのは兄貴のほうだったか。失礼。 この映画、町娘が牙吉に持たせる握り飯が白飯じゃないとかリアリティに気を遣ってるほうなのに、小雁と中村愛美だけが大阪弁で喋ってて、あとの町民はなぜかイメージ東北弁ってのが笑っちゃう。松竹京都の大部屋さんとかは、舞台が江戸でも大坂でもない「田舎の宿場町」ってだけで無意識に「〜すりゃええだ」とか言っちゃうんでしょうな:)

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インファナル・アフェア(アンドリュー・ラウ&アラン・マック)

「 無 間 道 」 脚本:アラン・マック+フェリックス・チョン(荘文強)

2000年代の香港映画に金字塔を打ち立てたシリーズの記念すべき1作目。2作目の公開を前にして歌舞伎町のシネマスクエアとうきゅうで1週間だけリバイバル上映されたので、再見して星1つ増やした。 ● この1本だけで2002年の香港映画の年間売上げの2割近くを稼いでしまったという話題の超大作。いや、それはもちろん相対的に「他の香港映画に力がなくなってる」ってことでもあるんだけど。それまでは自国の映画が圧倒的な強さを誇っていた香港の映画興行においても「ジュラシック・パーク」の爆発的ヒットあたりからハリウッド映画が好調を続ける一方、香港映画にどんどん客が入らなくなり──海賊盤VCD/DVDの問題も、もちろんある──香港人は現金だから一旦「儲からない」となると映画に出資する実業家/起業家/黒社会がガクっと減って、結果として金のかかるアクション大作とかスター映画が作りにくくなって、だから「インファナル・アフェア」のヒットは香港人が見応えのあるスター大作に飢えてたってことの裏返しでもある。まあ、考えてみれば自国映画における1本の大当たりと99本の討ち死にって状況は我が国でも同様なわけだが。 ● 製作はメディア・アジア。制作プロダクションは「基本映画 BASIC PICTURES」という(たぶん)アンドリュー・ラウの新会社。アンドリュー・ラウといえば言うまでもなく「欲望の街(古惑仔)」シリーズで1990年代後半の香港映画界を支えた監督/カメラマンである。だから、かれが作るのなら本来なら「欲望の街(古惑仔)」の主役コンビである、イーキン・チェンとチャン・シウチョン(陳小春)──とも1967年生まれで本作撮影時点で35歳──を主役に起用するのが自然というものだろう。それを敢えて「二十代後半」という役柄の設定年齢からはひとまわり以上も年上であるアンディ・ラウ(1961年生まれの当時41歳)とトニー・レオン(1962生/40歳)という、自他ともに認める香港映画界のツー・トップ──もちろんギャラだってツー・トップだ──を起用したところに製作者側の覚悟のほどがうかがえる。背水の陣。これがコケたら、もう後がない──これ1本の話じゃないぞ。香港映画の後がないという覚悟である。 ● ストーリーは御存知のとおり。いままでにも「潜入捜査官/スパイもの」はいくらもあったが、これを二乗したのがコロンブスの卵。主役の2人はスタート地点で一瞬、交錯するだけで幼馴染でも親友でもないのだが、じつはこのストーリーの基調をなすのは、やくざ映画でおなじみの「幼馴染が長じて刑事とやくざになる」というパターンである。ただそれを裏返しに適用したのが目新しい。2人の男は互いが互いの鏡像であって、全篇を通じて必死で相手の正体を探りあい、互いの存在を求めあう。偽りの人生を生きる2人。偽の刑事はやくざの人生を夢想し、偽のやくざは警察官の人生を夢想する。昼間の太陽の下でも鈍い光しか差さぬ世界の、緑色の夜の底に棲息する男たち。有り得たかもしれない「もうひとつの人生」を夢想しながら、最後に2人は陽光まぶしい屋上であいまみえ、ひとりは命を落とし、ひとりは無間道へと堕ちていく──。 ● 本作の原題でもある「無間道(むげんどう/広東語だとモウカントウ)」とは仏教用語で無間地獄──八大地獄の最下層に位置する地獄のなかの地獄のこと。そこに堕ちた者は絶えい地獄の責め苦に(輪廻の輪に戻ることなく)未来永劫、苦しみ続ける運命にある。ラストにもう一度、プロローグの「警察訓練学校を放校され、門を出ていくトニー・レオン」の姿がリフレインされる。[それを見送るアンディ・ラウ。教官が「お前らも、ああなりたいか! やつと替わりたいか!」と怒鳴る。アンディは「……替わりたい」と呟く。]だがかれはもう二度とその門から出て行くことは許されないのだ。 ● 脚本を担当した新鋭監督のアラン・マック(麥兆輝)が「完成度の高い脚本を作り上げることに集中してリサーチと執筆に3年かけた」と豪語するだけあって、従来の香港映画のレベルをはるかに超えた完成度の高い脚本。張り巡らされた伏線。息つく間もなくラストまで持続するスリリングなサスペンス。香港映画につきものの「ベタなギャグ」と「ゲロ」と「アンディ・ラウの鼻血」を封印して臨んだストイックな演出。チープさ感じぬ香港映画ばなれした音楽&サウンド・プロダクション。そしてもちろん豪華出演陣が火花散らす演技。これは、香港映画がついに持ちえた「ゴッドファーザー」である。 ● 黒社会のスパイとして警察に就職してエリートコースを歩む劉健明(ラウ・キンミン)にアンディ・ラウ。潜入捜査官として黒社会に身を投じる陳永仁(チャン・ウィンヤン)にトニー・レオン。二大スターの激突は(当サイトの判定では)アンディの勝利とみる。いやもちろんトニーも魅力的であって、特に中盤の例の「衝撃的な場面」に遭遇したときの眼差しなんざ、決して他の俳優には真似できるもんじゃないのだが、結局のところ「潜入捜査官に身をやつし切ない眼差しでやさぐれる無精ヒゲのトニー・レオン」というのは、つまり「いつものトニー」であって、その点、同じ汚職エリート警官の役でも、かつての「リー・ロック伝 大いなる野望」二部作で見せた野心ギラギラの姿とは一変して(得意ワザの)赤く充血した目など見せないクールな野望家として新たな魅力をみせてくれたアンディに軍配を上げたい(まあ、脚本自体がアンディのほうに美味しく書かれてるんだけどね) ● 香港警察内部におけるアンディ・ラウのポジションがパンフを作ってる人も理解してないみたいなので、いちおう おれの理解した範囲で記すと>若手俳優による冒頭10分のプロローグが終わって「無間道」とタイトルが出、アンディ・ラウ本人が登場した時点でのかれの地位は「CIB(=Criminal Intelligence Bureau/刑事情報課)」の主任刑事である。で、序盤の見せ場が終わって、屋上でゴルフの打ちっ放しをする署長の登用で、汚職警官の摘発を任務とする「内務調査課(=Internal Affairs)」の警部に出世。黒社会の送り込んだ内鬼(スパイ)を特定するために「OCTB(=Organized Crime & Triad Bureau/組織犯罪および三合会 調査課/日本でいうマル暴)」こと通称、O記(オーケイ)に配属される。つまり当のスパイ自身がスパイ捜査の担当者に任命されるという皮肉。ちなみに本作ではO記と「重案組(CID=Criminal Investigation Department)」がイコールであるような描かれ方をされてるけど、重案組ってのは日本でいう警視庁特捜部のことだからイコールでは無いと思うんだけどなあ。<お前もわかってないんじゃん。 ● えーと、閑話休題。そして「助演」と呼んでは失礼なほど主役の2人に劣らぬ圧倒的な存在感を魅せるのが、OCTBを率いるウォン警視ことアンソニー・ウォン(じつは主役2人と同世代の1961年生まれ)と、黒社会の大ボス=韓探[*正しくは王偏](ホン・サム)を演じるエリック・ツァン。 トニーの「ちょっと頭の弱い弟分」という川谷拓三の役まわりにチャップマン・トウ(杜[シ文]澤) アンディのフィアンセに「Needing You」「痩身男女」に続いて3度目の恋人役となるサミー・チェン(鄭秀文) 一方、トニーの女関係にはケリー・チャン(陳慧琳)と台湾人歌手 エルヴァ・シャオ(蕭亞軒)がチョイ役出演。 ● 撮影は監督のアンドリュー・ラウ自身とライ・イウファイ(黎耀輝)の2人。但し「視覚効果顧問」としてクリストファー・ドイルがクレジットされていて、メイキング映像を観るとドイルもカメラを回しているようだ。彩度を落とした銀残し調の画面が香港映画で使われるのはめずらしいが(ひょっとして初めて?)これはおそらく2001年に公開されて香港でもヒットした韓国産やくざ映画「友へ チング」からパクッた 刺激を受けたのだと思う。あと、何箇所か場面の切り替えの際に「ストップモーションになってからのフェイドアウト」というのがあって、ちょっと違和感をおぼえた(それって普通はラストカットに使う手で、通常の場面切替では画面を動かしたままフェイドアウトするよね?) ● ひとつ疑問なんだけど、トニー・レオンっていったい何歳の設定なの? ラストに写る[墓石]には「1966年10月25日生まれ」とあるから劇中時間の2002年11月の時点では36歳ってことになるけど、18歳で警察訓練学校に入学して(あの感じだとその年の内に)放校になったとすると「潜入捜査官になって10年」という台詞があるから28,9歳のはずだよねえ。じつはさらにウォン警部のパソコンに隠されていた警察のデータファイルの画面では「1970年11月23日生まれで、1992年に22歳で警察訓練学校に入学」となってるのだ。ところがウォン警部は腕時計のプレゼントを渡すときに「25日はお前の誕生日だろ?」と言ってる。3年もかけてそれかい!>アラン・マック。あと「ギャグがない」と書いたけど、序盤でアンディ・ラウが最初にオトした容疑者の、ケータイの通話先=犯罪者の潜伏先に「Bob Filmと出るのは内輪受けギャグだよね?(BOBというのは「欲望の街(古惑仔)」シリーズの制作会社) ● なお(現在は撤廃されているのだが)2002年当時は香港映画は中国本土では「外国映画」扱いで、大陸で公開するには「年間20本の外国映画枠」に選ばれる必要があった。その際に本作の[善人が死んで、悪人が生き残る]という内容にクレームがついて、なんと中国本土では別エンディングの[勧善懲悪]バージョンが公開された。具体的に説明すると[エレベーターの前でトニーが撃たれ、アンディが部下のBと一緒にエレベータに乗る。降下するエレベーターに銃声が重なる]ところまでは同じだが、そのあと[エレベーターが開いてアンディが出てきたところを重案組が待ち構えていて、アンディに手錠をかけて連行する]ところでフェイドアウしてエンドロール。つまり[トニーの葬式]のシーンはカット……って、それじゃ続篇に繋がんないじゃんか! ● 周知のように本作はワーナー・ブラザーズがブラッド・ピット主演という前提でリメイク権を獲得したわけだが、結局、ブラッド・ピットは製作にまわって、アンディ・ラウ⇒レオナルド・ディカプリオ、トニー・レオン⇒マット・デイモンというところで決着したらしい。監督はなんとマーティン・スコセッシ(!)だとか。そーすんと自動的に「ニコニコしてるのがかえって怖いマフィアの首領」はロバート・デ・ニーロか? 対する「FBI副長官」はモーガン・フリーマンとか? でもってマット・デイモンの「人の好い弟分」にはセス・グリーンジョバンニ・リビージ。ラストシーンに絡む「ディカプリオの後輩エージェント」はバリー・ペッパーあたり? もちろんマフィアの構成員にマイケル・マドセンは必須だ。てゆーか、おれの本当の希望を言うと、アンディ×トニーをジョン・トラボルタ×ニコラス・ケイジで、監督ジョン・ウーなんだが(火暴)

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インファナル・アフェア 無間序曲(アンドリュー・ラウ&アラン・マック)

「 無 間 道 II

おー、新宿東急でやってるぞ。嬉しー!(「テイキング・ライブス」がコケてるからだけどさ) 2作目はプリクエルだってゆーから、てっきり主役2人の若き日を描くのかと思ったら、出来上がったものはアンソニー・ウォンとエリック・ツァン主演の「県警 対 組織暴力」なのだった(火暴) きっと監督たちは「おいオッサン、今度はおれが主役だよな?」とかアンソニー・ウォンに脅されたんでしょうな:) ● 1997年の香港返還にいたるやくざ社会の興亡を描く。メディア・アジア製作。シンガポールのビッグネーム=レインツリー・ピクチャーズ/星霖電影と、(社名表記が簡体字なので中国系の会社と思われる)東方神龍影業/イースタン・ドラゴン・フィルムが共同製作として名を連ねている。 ● 1991年、日本でいえば西新宿と新宿と歌舞伎町を併せたみたいな盛り場である、九龍半島の尖沙咀(チムサッチョイ)を牛耳る黒社会のボスが暗殺された。跡目をめぐって色めきたつ5人の地区組長たち。だが、堅気から転じて二代目を襲名した次男のハウがまたたくまに掌握してしまう。九龍西署のマル暴担当・ウォン警部は、5人の地区組長のうち、馴染みのサムの目に賭ける決心をするが……。今回の強大な悪役であるハウを演じるのは、出たーっ! 香港の萩原流行こと、ン・ジャンユー(呉鎮宇。1961年生まれ)だ。その片腕に「ザ・ミッション 非情の掟」のロイ・チョン(張耀揚)。そしてサムの女房にカリーナ・ラウ姐さん。前述のアンソニー・ウォン&エリック・ツァンと合わせて、もはや完全にVシネマ状態である。これでアンソニー・ウォンと同期の警視がサイモン・ヤム兄さんだったら完璧だったのに。撮影からもクリストファー・ドイルが外れていつものアンドリュー・ラウ調。「無間道」の続篇ってより「古惑仔 外伝」というほうが相応しい内容。やくざ映画ファンにお勧めする。 ● リサーチと脚本執筆に3年かけた前作がヒットすると半年後には本作の撮影が開始され、1年後には続篇が2本連続して公開されるのが香港映画の身上。そのせいで前作には見られなかった脚本の穴がボコボコ開いている。まずトニー(の若き日)に新たに付加した血縁関係の設定により前作と繋がらなくなってしまった。本作でのトニー(若)はまずジャンユーの部下として黒社会に入り、最後にエリック・ツァンの配下に加わるのだが、この設定だったらエリック・ツァンがトニー(若)を部下にすることは絶対にない。てゆーか、必ずトニー(若)を殺すはずである。ジャンユー親分との関係も「ジャンユーがみずからの命を顧みずトニー(若)の危機を救う」エピソードかなんかが必要で、それによって初めてトニー(若)はジャンユーに心を開き「やくざも100%の悪人ではないのだ」と悟るという展開にすべき。その後に「2人で並んでサウナに入る」かなんかゆーエピソードも必要で、そうした場面があって初めてジャンユーの最期のアレが効いてくるのではないか。それと前作で短いシーンながら印象的だったエルヴァ・シャオ(の若い頃)との恋愛のエピソードは、たったあれだけかよ! ● 対してアンディ(若)のほうはキャラ設定を間違っている。本作では(ただでさえ強力なオヤジどもに囲まれて影が薄いのに)2人の若手俳優がどちらもクールvsクールで行ってしまうので、よけい区別がつかんのだ。アンディ(若)のほうはもっと──そう、まさしく若き日のアンディ・ラウがそうだったように──熱血型のチンピラとして造形すべきだった。一途に任侠に燃えるチンピラ。そして愛に燃える若者。横恋慕した姐さんへの愛にがむしゃらに突っ走って、それで愛を拒絶されたときに初めて、それまでの熱い情熱が氷の炎と化すのだ。 ● そしてカリーナ・ラウには〈愛人〉とのラブシーンが絶対に必要だった。いや別に脱がなくてもいいのだ。熱烈なキスとかでいい。だって彼女の燃え上がる恋の炎こそが、そもそも この無間地獄の劫火に火を点したのだから。 ● [追記]この映画に欠けているエピローグ。

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インファナル・アフェア 終極無間(アンドリュー・ラウ&アラン・マック)

「 無 間 道 III 終 極 無 間 」

映画館で公開される映画はできるかぎり映画館で観る主義の当サイトではあるが、こればっかりは(配給の)コムストックが悪い。だって香港では連続公開されたシリーズものの完結篇を(すでに出来上がってるのに)DVD発売の都合でワザと半年遅れにしたりして。来年のGWまでなんて待てねーよ! というわけで以下、[輸入DVD観賞]でのレビュウである(但し、こればっかりは書きようが無いので1作目の結末のネタバレを含みます) ● 独立した作品としての観賞も可能な「2」と違って、本作は1作目の予習必須。1作目を観てないとなんのことやらサッパリわからない1作目の派生物といってよい。ほら、よくアーティストが本アルバムを出したあとにリミックス・アルバムを出したりするじゃない。ああいった感じのものである。1作目の半年前──2002年5月頃のトニー・レオンの姿と、1作目のラストから10ヵ月後──2003年10月以降のアンディ・ラウの「その後」が並行して描かれる。 ● 査問会も無事 切り抜け、短期の庶務課勤務を経て、内務調査課の部長として華々しく前線復帰したアンディの前にあらわれた1人の男──公安部の切れ者として署内でも一目置かれる楊錦榮 警視(演じるのは1966年生まれのレオン・ライ) 目的のためには手段を選ばぬと評判で、先日も元・部下が目の前で自殺したばかり。アンディは、黒社会のボスとの繋がりや、中国本土の謎の武器商人・沈澄──「HERO 英雄」のチェン・ダオミン 陳道明!──との黒いコネクションも噂される楊警視の調査を始めるが、国家機密に関わる事件を扱う「公安」の厚い壁に阻まれる。楊警視のオフィスに密かにセットした監視カメラで寝ずの監視を続けるアンディは、だんだんと幻想を見るようになってくる。聞こえるはずのない声が かれの耳に囁きかけ、現実と妄想の境界線がぼやけ始める……。 ● これはつまり鏡像を殺してしまった男が自己を崩壊させていく話である。よく言えばヨーロッパ映画のように内省的な、悪く言えばぐちゃぐちゃな話が1作目をなぞるように展開する(レオン・ライとチェン・ダオミンは過去・現在 両方のシーンに登場するので余計、ややこしい) この3作目に至って、製作も香港のメディア・アジアと中国の天津電影製片廠の合作になった。この結末を中国政府におもねった勧善懲悪]の甘いラストととるか、それとも[香港人は善人も悪人も死に絶えて、生き残るのは中国政府の人間のみ]という苦い現状認識の産物と取るかは意見の分かれるところだろう。てゆーか、そこで[死んじゃっ]たら無間地獄になんないじゃんか!と思ったのはおれだけ? あと、エピローグ長すぎ。サミーとカリーナの場面は不要だよな。あと、サミーと言えば、1作目ではまだ「結婚間近の婚約者」だったはずだが、本作では既にアンディと結婚していて、離婚協議中という設定になっている。離婚の理由はアンディの正体を知ってしまったからだと思われるが、それならなぜそもそも結婚したんだ!? ● 対してトニー・レオンのパートでは女医ケリー・チャンとのラブコメが描かれる。……え? ここへ来て、いきなりラブコメ。もちろんコッコテのギャグあり。問答無用である。やっぱ香港人の性として3本も続けて辛気臭い映画を撮るということに我慢がならなかったんでしょうな。まあ、誰もゲロ吐かなかっただけでも「良し」とすべきか。しかしケリー・チャンって酷い女だよな。子供の頃に大の男の人生を破滅させといて「大きくなって友だちに話したらスッキリしたわ」って、そーゆー問題じゃねーだろ! ● 過去のパートには当然、アンソニー・ウォン/エリック・ツァン/チャップマン・トーも出演。ここでまた辻褄が合わないのが、本作でのエリック・ツァン親分は、やたらとトニーに冷たく当たって、かれを危険な目にばかり遭わせるのである。そりゃ2作目から続けて観たらそれで筋が通るけど、それだと1作目の描写と矛盾するでしょう。時系列順に3作目⇒1作目の順で観たらエリック・ツァンの行動は精神分裂病としか思えんぞ。それと(2作目の最後と)本作ではトニー・レオンはチャップマン・トーの子分ってことになってるのだ。だって1作目の描写では明らかにトニーが兄貴分だったじゃんか。あれだけ緻密な脚本を組んでいて、なんでこんな単純な辻褄あわせが出来ないかなあ。謎だ。 ● 本作は1作目のラストの「エレベーターが下っていく真っ暗なエレベーター・シャフト」の映像がタイトルバックになっていて、その暗闇に(1作目のタイトルバックで使われた)仏像が浮かび上がる。まるで地獄の底の無間地獄へと降りていくエレベーターのように見えて非常に秀逸。また本作で頻繁に使用される「監視カメラの映像」がまるで神の視点(=お天道さまは見てるぞ)のようにも思わせて効果的だった。あと、主題歌はぜひアンディ&トニー&レオン・ライの三重唱にしてほしかったなあ。 ● [劇場公開時に再見しての追記] ★ ★ ★ ★ あ。ちぇっ。ミラノ座と入れ替えてるかと思って初日に行ったのに新宿東急のままだった。基本的な感想はDVDで観たときといっしょなんだけど、やっぱり大スクリーンで日本語字幕付きで観ると印象が2割も3割もアップしますな。香港の(ジャッキー・チュンと並ぶ)男性トップ歌手 ハッケン・リーの歌うエンディング主題歌にも字幕が入ってるし。だからと言って星が2つも増えてるのはレビュアーの信頼度としてどうなのよ?って話だが、まあ、気にするな。ちなみに日本で上映されているのは、香港盤DVDに「終極加長版」として収録されている香港公開版より11分長い118分のディレクターズ・カットである。エンディングとか尺が伸びて冗長になってるきらいもあるのだが、何よりレオン・ライが初登場する「ナイトクラブで台湾の売人をボコる」シーンがあるのはこの終極加長版だけなので(香港公開版だといきなり部下の自殺シーンになっちゃうのだ)こちらで公開されたことを喜びたい。えらいぞ!>コムストック。ちなみに前作「無間序曲」には「II」って付いてなかったのに、本作の邦題に「III」と入ってるのは、サスガに一見のお客さんが観たらワケわかんないってクレーム来るかも?という配給元の大人の配慮だろうか。せこいぞ!>コムストック。


隣のヒットマンズ 全弾発射(ハワード・ドゥイッチ)

3年前に公開された「隣のヒットマン(THE WHOLE NINE YARDS)」の、ほぼ全キャストが残留して、監督&脚本を入れ替えての続篇。9の次は10ということで今度のタイトルは「THE WHOLE TEN YARDS」。それを「隣のヒットマンズ 全弾発射」とは付けも付けたり、じつにニュー東宝シネマ1的な邦題である<褒めてます。出来のほうは、はっきり言って問題だらけの作品なのだが、なかでも大きな問題が2つ。1つは、登場人物の因果関係や行動原理がすべて前作で生じた因縁を基にしているので、前作を観ていないと面白くもなんともないということ。もう1つは、前作を観ている観客にとっては(前作の記憶が残ってる分だけ)つまらなさ百倍に感じられるという点である。 ● これだけすべてが空回りしているコメディというのも珍しい。漫才における「ボケとツッコミ」じゃないけど、こういうコメディにはそれぞれ〈役まわり〉というものがあって、たとえばそれが「隣のヒットマン」だったら「おっかない殺し屋」とか「鈍感な歯医者」とか「マヌケなマフィアのボス」とかで、それらが(脚本上で)巧く噛みあったときに笑いが生まれるわけだが、本作においてはすべての俳優がワレもワレもと前に出て総ツッコミ状態。まるでエディ・マーフィーとスティーブ・マーティンとロビン・ウィリアムズとウーピー・ゴールドバーグが共演した個人コメディ合戦のようになっていて、しかもギャグ(と本人が思っていること)をやるたんびに客席に「な?な?な?」としつこくウィンクするのである。もう、そんなの想像しただけでもゲンナリして来るが、さらに悪いことに実際に出演してるのはエディ・マーフィーでもスティーブ・マーティンでもなく、ブルース・ウィリスとマシュー・ペリーとケビン・ポラックとアマンダ・ピート(今回は脱ぎません)なのである。唯一、すばらしいのはナターシャ・ヘンストリッジなのだが、その主たる要因は今回、彼女は誘拐されて人質になってるという設定でほとんど何もしないからである。ハワード・ドゥイッチは近年まったく冴えたところのない監督だが、それでも「おかしな二人2」(1998)なんかはもうちょっとマシだったと思うのだが……。


アイ,ロボット(アレックス・プロヤス)

いや、ウィル・スミスが主演するおれさま映画で、最後までシラを切り通せばいいのに自分から手を出してついでに尻尾も出しちゃうアタマの悪い悪役が出てくる〈バカSFアクション〉なのだと思えば ★ ★ ★ ぐらい付けたって構わんのだ。だが──いくら「Based upon〜」じゃなくて「Suggested by〜」というクレジットだとしても──アイザック・アシモフの名を出す以上、こんなムチャクチャをやられては黙認できない。 ● アシモフの短篇集「われはロボット」は〈ロボット工学三原則〉をモチーフにした論理ミステリ集である。ロボットが「三原則」に外れるがごとき振る舞いをした。それはなぜか?という謎を探偵役のロボット心理学者=スーザン・キャルヴィン博士が論理的に解き明かしていくという構造をとっている。本作「アイ,ロボット」もまたそのフォーマットに則っているように見える。だが、許し難いのは本作においては結局、大前提であるべき「三原則」を「書き換えることが出来るもの」として逃げてしまっている点である。それはルール違反だろ。おそらく本作の解釈としては「新世代ロボットは(マザー・コンピュータが管理する)製造過程ですでに〈三原則〉をバイパス出来るように設計・製造されていた」ってことだと思うが、オーバーライドやバイパスが出来ないから「三原則」なんだよ。それじゃまるで密室殺人事件のトリックを「死体を作ってから家を建てました」と種明かしされてるようなもんだぜ。まともに付き合ってきた観客はバカみたいだ。てゆーか「三原則」を定義したアシモフに対する冒シ賣だろ。論理的な解決を見出せないなら最初っから〈ロボット工学三原則〉なんか持ち出さなきゃいいのだ。そんな代物に「アイ,ロボット」のタイトルを冠する資格はないので星1つとする。 ● さて、ここからネタバレをするので観てない人は次の黄色い ● 印までトバしてくれ給えへ──だいたい〈ロボット工学三原則〉の行き着く先がなんで「革命」になるのか誰かおれに判りやすく(論理的に)説明してくれ。[「ターミネーター」のスカイネット]の論理はそれなりに筋の通ったものだと思うが、どこをどうしたら〈ロボット工学三原則〉と〈スカイネットの論理〉が両立するのだ!? それに、そもそもあの老博士は[軟禁されて監視されてる状態で規格外のロボットを作ったり]出来るものなのか? てゆーか、それだけの自由があるんなら最初っから[(マザー・コンピュータの支配下にない)サニーを使ってマザー・コンピュータを停止させれば]よいではないか!  本作の探偵役は2人。ひとりはもちろんウィル・スミス。おれおれ主義のナルちゃん全開で、女性ファン向けのシャワー・シーンも完備。「ロボット嫌いのアナクロ主義者の刑事」という設定で、2035年の現代に2004年の大昔の「JVCのCDプレーヤー」やら「コンバース・オールスターの復刻モデル」やらを愛用してるというタイアップ上手でもある。こいつはハードボイルド探偵の例に倣って、捜査対象の金持ちに対しては気の利いた憎まれ口を叩く。本来なら観客が快哉を叫ぶべき場面なんだが、ウィル・スミスの場合、あまりの自信過剰のおれさまぶりに「アンタ何さま?」と観客が容疑者に感情移入してしまうというワケワカラン事態が生じている。あと、こいつのとある設定は「ブレードランナー ディレクターズ・カット最終版」の引用ですかね? ● 対照的にすばらしいのが、ブリジット・モイナハン演じるUSロボット社のロボット心理学者=スーザン・キャルヴィン博士のキャラクターで、冷静で理知的な性格の下にロボットに対する隠しきれない愛情があり、これはアシモフの原作に描かれたキャルヴィン博士そのものと言ってもいい。 ● あと細かいツッコミをすると、あのストリート小僧の役は必要なのか!? 「マトリックス リローデッド」の小僧以上に必要ないって気がするんだが。 それと全身金属の汎用ロボットは泳げないと思うぞ。 ● 例によっておれは新宿プラザの先行オールナイト(当日1200円)で観たんだけど、たまたまこの日は新宿オデヲン座でも「アイ,ロボット」をやってて、そっちは「先行オールナイト特別興行につき」当日1800円。デカくて設備の良いほうが安い料金なんて変なの(いやだからといって新宿プラザの先行オールナイトを1800円に戻せなどと主張してるわけではありませんので東宝関係者におかれましては勘違いなされませぬよう)

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ヴィレッジ(M.ナイト・シャマラン)

撮影:ロジャー・ディーキンズ 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

結論から書く。おれは町山智浩のネタバレWEB日記を目にしてから観たのだが十二分に面白かった。チープなジャンル映画のストーリーをリアルなファミリー・ドラマとして語り直すというM.ナイト・シャマランのスタンスは本作でも一貫していて、たとえ元ネタを知っていようと、その語り口を楽しむ分には何の支障もない。じっさい町山氏の記事を読まずともレイ・ブラッドベリの短篇──てゆーか、少女が主人公だから萩尾望都のコミック版のほうか──との相似はすぐに気づいたと思うのだが、ファンタジー/フェアリーテイルとグロテスクの絶妙な配合はブラッドベリ・ファンをも満足させるに違いない仕上がりである。てゆーか、マジでシャマラン、次はきちんと(権利をとって)「何かが道をやってくる」でもやったらいいんじゃないか? 父子ものだし。 ● だから、そのような作品を「○○○と同じ話じゃん」といって否定的に揶揄するのは、ヒッチコックの追っかけサスペンスに「マクガフィンに意味がない」と文句をつけるのと同じじゃないかと思うのだ(誤解のないように書き添えると「ヴィレッジ」の話と知って、ネタバレの危険を承知して、なお先を読んだのはおれの能動的な判断であって、プロのライターである町山氏がWEB上でジャーナリスティックな文章を公開する行為自体は非難してないからね) ……ま、とはいえ、白紙の状態で臨めるならそれに越したことはないわけで、未見の方は、以下、観賞後に読まれることをお勧めする。 ● 最初に予告篇を観て思ったのは──「シックス・センス」と「アンブレイカブル」が似た構造を持っていたように──今度は「サイン」の逆をやろうとしてるんじゃないかってこと。つまり、侵略者SFを〈侵略者〉の視点から描こうとしてるんじゃないかと思ったのだ。だから一見「19世紀のアメリカ東部」に見えるあそこは〈異星〉で、森の向こうには〈地元の人たち=異星人〉が棲んでるんじゃないか。「村」の長老たちが後生大事に仕舞ってる「箱」の中には[宇宙服]が入っているに違いない。あとシガーニー・ウイーバーがビリングに名前が載ってるのに予告篇に出てこないのは彼女が[エイリアン]の役だからだ!と睨んだのだが・・・大ハズレでした。<バカ。 当たってたのはこれ、タイトルがネタバレしてるんだよね。タイトルが「THE WOODS」じゃなくて「THE VILLAGE」なのは、つまり「森の恐怖」を描いた映画じゃなくて秘密は村のほうにあるってことでしょ? ● 「サイン」の逆がもうひとつ。たぶん欧米人なら容易に気付くところだと思うけれど、この村の人たちは「刑事ジョン・ブック 目撃者」で描かれたアーミッシュのような、すなわち敬虔なクリスチャンそのものの暮らしをしていながら、村のどこにもキリスト教のしるしがないのだ。教会はあるがカメラはその入口しか写さず祭壇の様子はわからない。村の集会所にも十字架はなく、結婚の宴は描かれるが「結婚式」の場面はない。かれらは「pray(祈りなさい)」とは言うが「pray for God」とは口にしない。これは主には「見た目の違和感」を狙った演出効果だと思うけど、ある意味では、この村に入植したのはもはや神の存在を信じていない人たちであるという証拠でもあるだろう。 ● しかしあの村ってウィリアム・ハートやシガーニー・ウィーバーたち10人ぐらいが最初の入植者なわけでしょ。それからせいぜい2、30年であの人数に増えたってこと? ネズミじゃないんだからいくらなんでも精力強すぎだろ。 あと、電気・ガスは無いとして、灯油は使ってる気がするんだが、どうやって手に入れてるんだろ? ● ビリング・トップはホアキン・フェニックス(初めて?) 蔭のある役なので合ってるといえば合ってるんだが、ビリング・トップの立役としては、まだまだ存在感(オーラ)が弱い。 その代わりに中盤以降の主役の座を奪ってしまうのが盲目のヒロイン=ブライス・ダラス・ハワード。1981年生まれの23歳。意志の強そうな赤毛のソバカス美人(…てことはメアリー・エリザベス・マストラントニオ系?) 実写版「赤頭巾ちゃん」のシーンは本篇中の白眉。この人、ご存知のようにロン・ハワードの娘さんで、可笑しいのはネットとか見てて(おれも含めて)なんだかみんな彼女に対して親戚の娘さんのような親近感を抱いてることで、日本ですらそうなんだから、アメリカじゃアカデミー助演女優賞ぐらい行っちゃうんじゃないか? あとあれだ。なんと言っても注目は「ハード・キャンディ」「ハート・オブ・ウーマン」「ウェディング・プランナー」の当サイト一押しコメディエンヌ=ジュディ・グリアだ。ヒロインのお姉さん役の女優さんね。好きな男に「結婚しまショ」と言いに行くシーンは陰気な映画の中で(<おい)一服の清涼剤と言えましょう。お父さんに結婚の許可を得て、嬉しくてピョンと抱きついちゃって膝をハネあげてるのが可愛いぞ(……ま、飛びつかれたウィリアム・ハートのほうはギックリ腰になったんじゃないかと思うけど) てゆーか、もっと彼女をアップで撮れよ!>カメラマン。 ● おれの後ろで観てたバカップル、観終わって一言>「えー、わかんなーい。あの人たち、なんで田舎に住んでんの?」「えー、わかんね」 あのねキミたち。それはね── おまーらみたいなバカと一緒に居るのが厭になったからじゃー!

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LOVERS(チャン・イーモウ)

「ねえイーたぁん、次はあたし主演で撮るって約束よね。もう婆ァの引き立て役は厭よ」「もちろんだよツィツィ。今度は男性主役2人から惚れられちゃうモテモテの役だからね」「わぁー嬉しい! だからイーたんて好き(チュッ)」……と、おおむねそういった事情で(当サイト推測)製作された「英雄 HERO」に続くチャン・イーモウの武侠片、第2弾。 ● 「LOVERS」は日本(と韓国)だけの公開タイトルで、原題は「十面埋伏」。これは「四方八方にて待ち伏せる」という意味の兵法用語で、英語タイトルの「HOUSE OF FLYING DAGGERS」とは、劇中でチャン・ツィイーが属する唐末期の義賊集団「飛刀門」の直訳。これに「LOVERS」とタイトルをつけたワーナー映画宣伝部(…なのかな?)はたいしたものだと思う。じっさい本作は「十面埋伏」についての映画でも「飛刀門」についての映画でもなくて(組織/体制への)義理を棄て、愛に賭ける「恋人たち」についての映画なのだ。 ● 「愛」と来りゃあ、これはチャン・イーモウの得意分野である。「英雄 HERO」での空回り(当サイト評価)が嘘のように快調。お気に入り女優のチャン・ツィイーを全面的にフィーチャーして──背中露出の濡れ場に、水浴みシーンまであるのだ──ワダエミの豪奢な衣裳と「さらば、わが愛 覇王別姫」「始皇帝暗殺」「哀戀花火」のフォ・ティンシャオ(霍延霄)の絢爛たる美術で、美しい時代絵巻を堪能させてくれる。「英雄 HERO」では あまりに過ぎた絵空事に映った武術指導のチン・シウトンも、今回はぐっと(香港映画的)リアルな振り付けでこれぞチン・シウトン節というものを──思う存分、とは言わないが──そこそこ魅せる。 ● 相手役の金城武は序盤の「女ったらし」ぶりがどうにも似合わないんだけど、この人には いい歳して夢みたいなことを口にして、それで観客を「ああ、この人はそんな夢みたいなことを本気で信じてるんだ」と感動させてしまうという得難い特質があって、終盤の泣かせになるとその個性が存分に発揮されている。ただチャン・イーモウ本来の世界からすれば、また[年齢]的にも、金城武とアンディ・ラウは役を取り替えたほうが正解じゃないかと思うんだが。それと現状だと「チャン・ツィイーがなんで最初っから舞の最中に金城武を殺そうとしないのか?」という疑問が解けない。いや、だって[朝廷軍を誘き出す]ためなら、遊郭で金城武を殺して単独で逃げたっていいわけでしょ?(アンディ・ラウが後を追うのは一緒なんだからさ) これを解決するためには金城武とアンディ・ラウの「役の設定」を入れ替えて、遊郭では金城武の出番をカット、最初からアンディ・ラウ×チャン・ツィイーのシーンにして、自信家で艶色家のアンディが「自分を殺そうとしためくら女に惚れる」ってことにしたほうが劇的なんじゃないかな。で、ツィイーのほうも今まで負けたことなんてなかったのに「初めて自分を負かした男」に内心、グラッと来てると。だから当然、2人の道行きは疑心暗鬼のケンカ道中になる。スクリューボール・コメディの定石に則って、ケンカしながらも協力して追っ手と戦ううちいい雰囲気になって、そんな2人の様子を木陰から金城武がせつない顔して見てる、と。 ● えー、妄想はこのへんにして話を現実の映画のほうに戻すと、金城武と逃げる途中でチャン・ツィイーが飛刀の収納袋をどっかで落としちゃって、金城武が捜しに戻ったあいだに追っ手に襲われるという場面があるんだけど、そのいくつか前のシーンで、肩からしっかりたすき掛けにしたはずの袋を「失くす」ってことは、そして「失くした」袋が木の枝にかけてあったってことは、アレですか、そこでいっぺん服を脱いだってことですか!? 金城クンの内功の強さにコーフンして、あのままあそこでヤッちゃったってことですか!? じゃあアレかよ。その後のシーンの、水浴みしてるのを覗くの覗かないのって、アレは2人でイチャついてるだけかよ! その後のキスするのしないの のシーンは「アタシってそんなに何度もヤらせる軽い女じゃないのよ」「なんだよさっきはヤらせたじゃねーかよ」ってこと?<違います。 ● 三角関係の話なのでとうぜん最後は1人の女をめぐっての男2人の(愛のための)闘いとなる。ただ本来ならばここは「飛刀門 vs. 朝廷の討伐軍」の総力戦が──「義」のために命を捧げた者たちの死屍累々がカットバックで描かれて、映画の悲壮なクライマックスを構成したはずなのだが──そうでなくてはチャン・ツィイーの行動の辻褄が合わない──都合により、そこはすっぽりカットされた。その「都合」というのが、終盤まで正体を明かされない「飛刀門の新 頭目」に予定されていたアニタ・ムイの死である。彼女のカムバックを信じて撮影が進められていたので、いまさら役をカットするわけにもいかない。チャン・イーモウが慌てて香港のミシェール・キングに電話かけようとしたところで横からチャン・ツィイーが「ねえイーたぁん、あたし考えたんだけど新頭目の役は無くてもいいと思うの。あたしを取り巻く三角関係にフォーカスしたほうが映画として すっきりまとまるんじゃないかしら」「そ…そうかい? でもツィツィがそう言うなら、そうしよっかな」「ほんと? 嬉しい! だからイーたんて好きよ。ついてはラストの大合戦シーンを撮らずに浮いたお金の使い途なんだけど……」といったようなことで(当サイト推測)アニタ・ムイのパートは必要最低限だけ中国の人気テレビ女優で手当てして(パンフによると[主演のTVドラマを撮っている最中に監督から「ちょっと来て助けてほしい」と急遽頼まれての登板となった])あとはごっそり(合戦シーンごと)カットされてしまったようなのだ。本作の現在の(中港台の)キャスティング比率からすると、アニタ・ムイと敵対する役として姜文(チアン・ウエン)あたりが「討伐軍の将軍」に予定されていたような気もするのだが。 ● パンフからもうひとつ、金城武とチャン・ツィイーの性格をよくあらわすコメントを>[金城武もツィイーのプロ根性に「彼女は本当に努力家。僕はどちらかというと監督がオーケーを出したら納得するほうだけど、彼女は何度も自分からやり直しを監督に要求していた」と賛辞を惜しまない]って、それは「プロ根性」とは別のもののような気が……。 あと関係ないけど、エンドロールに「按摩治療」ってのがあって笑ってしまった。香港映画にも無いよねえ?>そんなクレジット。 おれは新宿ミラノ座で観たんだけど、さすがは歌舞伎町、パンフの隣りで、こないだ出たばっかりの「英雄 HERO」の20分長いディレクターズ・カット版の中国版DVDを2,000円で売っていた(中国版といっても海賊盤ではなく正規盤/簡体・繁体・英文字幕/スクイーズ収録)

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華氏911(マイケル・ムーア)

まるでレスリー・ニールセンがズッコケ大統領を演じるパロディ映画をみにきたようなノリで新宿ジョイシネマ1のロビーに並んでる若いカップルとかグループを眺めていてハタと気付いた。そうか! マイケル・ムーアのプロパガンダ・エンタテインメントは日本のバカな若者にも有効なのだ。 ● ムーアは自分の伝えたいことを1人でも多くの人に伝えるためには躊躇わず、なりふりかまわず「事実の一部を抽出して物事を単純化した判り易くて面白いドキュメンタリー」を作って、自分から進んで騒動を起こし、世の保守良識派やリベラルなインテリからのヒステリックな反応をニンマリと受け流す。論争の的になりゃこっちのもの話題になりゃ勝ちだ。1人でも多くのノンシャランな若者や、好奇心旺盛なオバチャンが「華氏911」を観てくれればいいと願ってる。 ● そこでアメリカ国民が見せられるのは、自分たちの住んでいる国は「国民に何も知らせず〈恐怖〉で支配する」という、サダム・フセインがのさばっていた頃のイラクや、キム・ジョンイルの個人国家・北朝鮮となんら代わりのない国に成り果てているという衝撃的な「事実」である。違うのは優秀な広告代理店を多く抱えるアメリカのほうが、やり方がスマートで誰にも見えないということ。おれは「劣化ウラン弾によるアメリカ軍兵士の被曝と、それに対する国の非対応」の問題はちょろっと入れても良かったんじゃないかと思ったが、それ以外は「お笑いアメリカ帝国」として完璧な仕上がり。すべてのアメリカ国民にお勧めしたい。 ● 早くも「2作連続アカデミー賞は確実」との声も出ているようだが「国民が銃を持つ権利」が憲法で認められている国で、大統領をおちょくり保守層の神経を逆なでする映画を作って、自分自身の写真を宣伝用ポスターにするという生命の危険を冒してまでアメリカの現状を憂うほどの「愛国者」に与えられるべきはアカデミー賞ではなく大統領自由勲章だろう。 ● さて、そのようなアメリカ人向けの映画がバカな日本人にも有効か?──という冒頭の問いに戻るわけだが、これはギャガ宣伝部の秀逸なテレビCMのおかげで、選挙に一度も行ったことのない若い人たちや、話題になりさえすればマツケンサンバでもヨンさまでも何でも手を出すオバチャンたちが大挙して映画館に押しかけてくれそうで大いに期待したい。「華氏911」を観れば、大笑いして愉しむうちにも、自衛隊は何のためにイラクに行ってるのか?とか、小泉純一郎がキャンキャン尻尾を振ってるのはどんな男なのか?ということが、万の言葉を費やすよりも明白に赤裸々に了解されるからだ。そして永田町の連中が日本をどんな国にしようとしてるのかが手に取るようにわかるだろう。 ● 笑ってばかりはいられない。此処に描かれているのはおれたちの未来の姿である。政府やマスコミが日本の社会に「脅威」をおよぼす隣国の存在をことさらに強調してはいないか? 近ごろ国民の自由・権利を剥奪するような法律が成立してはいないか? 身近で大企業の合併が相次いだりはしてないか? 銀行から出版社、レコードメーカーまで、あらゆる業界で「上の3つか4つの大企業がすべての富を独占する」ような事態にはなってないか? (マイケル・ムーアの故郷ミシガン州フリントのように)生産がどんどん賃金の安い中国とかへ流れて、仕事が減ってはいないか? 金さえあれば誰でも大学へ行けるけど卒業しても仕事がないなんてことにはなってないか? いちばん安心確実な「就職先」は自衛隊なんて時代が来ないと誰が言える? そして、独裁政治に虐げられている人民を「解放」するためアメリカ軍+韓国軍の「多国籍」軍が北朝鮮に出兵するときに「拉致家族の救出」という名目で自衛隊が参戦しないと誰が言える? それをおれの妄想とあなたは笑えるか。 ● 必見……と書きたいところだが、マトモな神経を持った人なら観ていて怒りで体が打ち震えることは必定なので、デートや楽しい食事の前とかにはお勧めしない。映画なら笑いも涙もストレス解消。ひとばん寝れば翌日には忘れられるが、残念ながらこれは現実にいま起こっていることなのである。 ● ちなみに大川興業(前)総裁の大川豊なら日本版「華氏911」を作れるんじゃないかと思うけど、どなたか真剣に日本の未来を憂うる右翼のお金持ちとかスポンサーになりませんかねえ。大丈夫、配給は「儲かればなんでもOK」が社是の東映が引き受けるからさ。


MASK DE 41(村本天志)

タイトルは「マスク・ド・フォーワン」と読む。本作の主な登場人物は主人公の「家族」と「プロレス仲間」である。したがって物語の8割がたは主人公の「家庭」と「プロレス酒場」を舞台として進行する。まあ「家庭」はわかるとして「プロレス酒場」がどのような場所かというと、よーするに「タイガース酒場」みたいなもんで、毎夜のように同じ顔ぶれのプロレス・ファンが集い、壁には興行のポスター、モニターからは試合のVTRが流れ、酒や料理を注文するのに「マスター、おれ、ノーザン体固め」とか「越の神取。16文で」といった言葉が飛び交うことを誰も疑問に思わぬ場所。つまりアレだ、負け犬どもの現実逃避の穴ぐらだ。おれはプロレスは好きだけど、こーゆー輩とは死んでもお友だちになりたくないと思ってるので、そのコミュニティの主要な一員である主人公=田口トモロヲには1%も共感できなかった。 ● だってコイツ本当にサイテーな奴なんだぜ。主人公は今年、41の厄年。大学時代にプロレス研究会に所属しながらプロになる夢をアッサリ諦め建設会社に就職したものの、上司からCの評価しかされないような仕事しかしてこないで、それが原因でイの一番にリストラされて、なにを血迷ったか退職金と早期退職特別金あわせて一千万円を家族になんの相談もせず、いい年していまだに謎の悪役マネージャーなんぞをやってる同級生の興したプロレス新団体に突っ込んで、言わんこっちゃない話がポシャって一千万円はパー。スポーツ新聞の記事で初めてそのことを知った怒り心頭の妻に「退職金あといくら残ってるんですか」と問い詰められると、開き直って踏ん反り返って「ありませ〜ん」。まるで「こっちの窮状を何も言わずとも察してくれなかったお前が悪い」とでも言いたげな風情。家計の破綻が原因で家族が崩壊すると──てゆーか、いままで誤魔化してきたツケが一気に表面化しただけなんだが──勘違いの被害者ヅラで「おれたちの10年ってなんだったんだよ!?」って、それは一から十までアンタの責任だろ! 困ったときに相談できないような夫婦にしたのはいったい誰だよ!? 「プロレスへの夢」なんてゆー現実逃避で責任逃がれすんじゃねーよ。あー、ムカつく。おまけにこのヤロー、真似事シロート時代から20年もリングに上がってないにもかかわらず、たかだかひと月かそこら練習しただけで、プロのリングに──客から金取ってる興行の(いくら代役とはいえ)メーンイベンターとしてしゃしゃり出てくるんである。フザけんな! ● エンドロールの最後に出るコピーライト表記は「(c)2001/2004」となっている。じつは本作は2001年には完成していて、それが製作会社の関係で公開が3年もズレ込んだ由(プロデューサーが仙頭武則なのでサンセントシネマワークス清算の余波をモロに被ったのだろう) 公開が3年も遅れるとどういうことになるかというと、主人公の娘を演じる伊藤歩と蒼井優ちゃんがまだコドモっぽくて新鮮……とかゆー以外にも「FMW」と大書きされたリングの上に立つ冬木弘道の姿や、ハヤブサがリングを軽やかに駆け巡る姿がフィルムに納められていて、すでにFMWは倒産、社長は自殺、冬木は壮絶な癌死、ハヤブサは半身不随で車椅子という「現在」を知る者にとっては別の意味で見るのがキツい。コーナーポストのスポンサーが倒産したマイカルだったりするし。 ● 撮影当時すでに43歳になっていたのにアニマル浜口ジムに通ってプロレスの特訓を受け、1年がかりで13.5キロも増量した田口トモロヲの頑張りには星1つぐらい増やしてあげたい気もするが、結局は脚本を読めなかったトモロヲ自身の責任だからなあ。 あ、ただ、主人公の「妻」に扮した筒井真理子にとっては「男ともだち」(1994)以来の堂々たるヒロイン作なので第三舞台からのファンにはお勧め。 ほかに松尾スズキ、小日向文世、中川五郎らの出演。

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テイキング・ライブス(D.J.カルーソー)

「ボーン・コレクター2」と呼んでも差し支えないような〈FBI心理分析官〉アンジェリーナ・ジョリー主演のサイコ・スリラー。アンジーをとり巻く男たちにイーサン・ホーク、キーファー・サザーランド、オリヴィエ・マルティネス、ジャン=ユーグ・アングラード、そしてチェッキー・カリョ。れっきとしたアメリカ映画なのにフランス人俳優が多いのはカナダのモントリオールが舞台だから。市警のチェッキー・カリョ警部が以前 FBIに研修留学してたときの同期生ってことで、アンジーが呼ばれて来る。だから、現場の刑事たちが反発するのは彼女がFBIだからじゃなくて、アメリカの捜査官だから。「デカ長! なんでおれらの事件をアメ女(すけ)なんぞに手伝ったもらわにゃならんのですか!?」ってことですね。 ● 意表を突いて、映画は20年ほど前の犯人の描写から始まる。この構成は面白い。一人称カメラではなく犯人の(若き日の)姿もカメラに映る。そこでは かれは所在なさげに たたずむ気の弱そうな家出少年だ。ミュージシャンを目指す若者と意気投合して2人でレンタカーを借りた かれは、そこで初めての殺人を犯す。そして殺した若者のアイデンティティを──名前と、財布と、ギターケースと……人生を乗っ取る。そうしてかれはシリアルキラーとなり、今日までまるで やどかりのように殺した相手の人生を次から次へと乗っ取ってきた(=テイキング・ライブス) はたして現在の「かれ」はどのような顔をして、どのような職業に就いているのか──!? ● てっきり本篇では「居並ぶクセ者 男優陣の誰が真犯人か?」というフーダニットになるのかと思ってると、途中からこの映画が「シー・オブ・ラブ」や「氷の微笑」などと同様の「あからさまに怪しい容疑者と恋に落ちた刑事のラブ・サスペンス」であることがわかってくる。選択肢の少ない「白か黒か?」のサスペンスにしてしまっては、せっかく犯人を「やどかり殺人鬼」に設定した意味がないとは思うんだが、ともあれアンジェリーナ・ジョリーという人は、不安に苛まれる被虐顔が最高にエロい女優なので、その意味ではこの展開で正解なのかも。恐怖に半開きでぶるぶるする あのクチピルがもうタマりません。しかもこの期に及んでいまだ脱ぎも濡れ場もアリアリだ。偉いなあ。 それに較べて相手役のイーサン・ホークは小芝居が鼻について興醒め。おまえ「アメリカの永瀬正敏」に認定。あと、いまさっきチラシを読み返すまで刑事役の片方がジャン=ユーグ・アングラードだと気付かなかったのは内緒だ。

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イエスタデイ 沈黙の刻印(チョン・ユンス)

政府の極秘研究プロジェクトにより〈人間ならざるもの〉へと改造されてしまった子どもが、脱走して、大人になってから当時の関係者に復讐を始める。── SFアクションの世界では、よく見かける設定である。「AKIRA」や「スキャナーズ」のようなエスパー系もこの変形といえるだろう。本作の場合は代わりに遺伝子改造がモチーフとして使われている。それだけのことだ。それをこの監督はなんでこんなにもややこしく語るのか。しかも本作は多大な製作費をかけて、2020年の南北が統一された大朝鮮国を舞台にした〈近未来SFアクション〉として仕立てているのだが、物語に近未来である必然性が──ガジェットやCG背景で画面を賑やかす以外には──ひとつもないときてる。話の展開で観客を驚かせたいならば、その前にまず、ひとつひとつの設定や背景をきちんと観客に理解させなくては意味がない。説話能力の欠如にもほどがある。演出だけの問題じゃなく編集も「1台のクルマを2台で追う」といった、ごくシンプルなカーチェイスひとつマトモに繋げない体たらく。本作が監督デビューのチョン・ユンスは真性ガンヲタらしいので韓国のアルバート・ピュンに認定。ちなみに復讐鬼と化した改造人間には「ゴリアト」という名(コードネーム)が与えられているのだが、あのー、それフツー日本語では「ゴリアテ」と表記するんですけど……。 ● そのゴリアテには「ソウル」「ユリョン」「リベラ・メ」のチェ・ミンス(崔民秀) それと対決するダビデこと特捜班の隊長にTV「ホテリアー」のキム・スンウ(金勝友) もう1人、事件の鍵をにぎるヒロインにキム・ユンジン(金允珍) 「アメリカ帰りの犯罪心理分析官」という役柄なので英語で講演したりするシーンがあるのだが、英語がネイティブ並に達者。それもそのはず、この人の家は10歳の時アメリカに移民して、26歳で韓国に帰国デビューするまで、アメリカの大学の演劇科を卒業してブロードウェーにいたのだそうだ。ちなみに現在は(チャン・ツィイーと同じく)ハリウッドの名門エージェント=ウィリアム・モリス・エージェンシーと契約して、「MI:3」の監督に決定したJ.J.エイブラムズが製作・監督する米ABCのミニ・シリーズ「LOST」に主役陣の1人として出演中。

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I Z O(三池崇史)

企画・原案・脚本:武知鎮典

ほら、よくパロディ漫画とかで「○○○が×××を撮ったら?」みたいなのがありますわなあ。あれと同じで、まるで冗談としか思えない「武知鎮典と三池崇史が『マトリックス』を撮ったら?」って思いつきを大真面目にやってしまったのが本作なのである。主人公はネオならぬ、幕末の「人斬り以蔵」こと岡田以蔵(の怨念) なぜ「マトリックス」で以蔵なのか? 本作では権力の作り上げた虚構=マトリックスのことを「位相」と呼び慣わしているのだが、その「位相(いそう)」に付着した異物(ゴミ)が「以蔵(いぞう)」なのだ。「どこへ行く?」「統治する者たちの、その温々たる牙城へ」「行って何をする?」「・・・天誅!」 ● というわけで以下、ストーリーはなく、次から次へと目の前に現れ、あるいは立ち塞がり、ときにたまたま居合わせた相手を、以蔵(の怨念)が ただひたすらに斬って斬って斬りまくる一大殺戮チャンバラ活劇が続く。終わることなき堂々めぐりの地獄めぐり。撮影は東映太秦撮影所で行われており、東映京撮の持てる技術をすべて駆使した撮影照明技術総覧の趣きすらある(ただ床山だけは、地毛の色と合ってなかったり、ちょっと雑な部分が見えるが) 場面と場面のあいだに論理的な繋がりはなく、台詞はすべて観念的な禅問答もどき。「田園に死す」で三上寛が吼えていたように、本作の折々には〈魂のフォークシンガー〉友川かずきが登場して叫びをスクリーンにぶつける。もう、ATGもビックリのアバンギャルドな実験映画である。まさに三池崇史でなくては絶対に成立し得なかった刺激的な作品。ただ一本調子の単調さに途中で飽きが来ることも事実。同種のテーマでは宮坂武志「人斬り銀次」のほうを推す。 ● 本作でゆいいつ手放しで褒められるのは、このオールスター日替りキャストのスケジュールを組んだ助監督(制作部?) よくぞまあ、調整がついたもんだ。誰かが書いてたけど(←もう、どこで読んだか忘れてる)おれも「宰相」はビートたけしじゃなくて丹波哲郎だと思う。それと松田龍平の役はやっぱ中村七之助でしょ(火暴)

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マーダー・ライド・ショー(ロブ・ゾンビ)

うーん。これがあんまり面白くなかったってのはホラー・ファン失格ですかね? まあその前にキチガイ一家のキチガイ母ちゃんを演じてるカレン・ブラックのことを最後まで(「キューティ・ブロンド」やクリストファー・ゲスト組の)ジェニファー・クーリッジだと思ってたという時点で「映画ファン落第」って話なんだが(火暴) ● ヘビメタ界の売れっ子ロブ・ゾンビが脚本・監督したおれホラー。こんなタイトルだから「地獄の見世物小屋」の話かと期待してたら、件の殺人秘宝館が出てくんのは最初だけで、これは──冒頭に「1977年10月30日」と日付がスーパーインポーズされて、実写風の荒れた映像のオープニング・クレジットという導入部から明らかなように──セーターの似合う東部の学生4人がキチガイ一家にとっ捕まり惨殺される……という「悪魔のいけにえ」のおれリメイクなのだった。全篇が悪い冗談(シック・ジョーク)のようなトーンで統一されてるのは「悪魔のいけにえ2」のほうに近いか。そういえば おれ「悪魔のいけにえ2」もどこか面白いんだかサッパリ判らなかったんだよ。同じ悪ノリ・ホラーでも「バタリアン」とか「死霊のはらわた」とか「ゾンバイオ 死霊のしたたり」とかは大好きなんだがなあ。うーん。 ● どーでもいいけど>公式HP、タイトル欄が「マダー・ライド・ショー」になってんぞ。

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カーサ・エスペランサ 赤ちゃんたちの家(ジョン・セイルズ)

脚本:ジョン・セイルズ

1996年に「フィオナの海」(1994)が岩波ホールで公開されて以来、日本では「真実の囁き」(1996)、 「最果ての地」(1999)、「サンシャイン・ステイト」(2002)と3本つづけてDVD発売となってしまったので、これが8年ぶりの劇場公開作となるジョン・セイルズ 14本目の監督作品。[追記:メールでご指摘いただいたが、1999年に「パッション・フィッシュ」(1992)がひっそり公開されたので正確には「5年ぶり」の劇場公開作]アメリカでは2003年9月公開。もう今年(2004年)の9月には15本目の公開も決まっていて、ジョン・セイルズのような映画作家が20年以上にも渡って、それなりに順調に作品を発表しつづけて来られたこと自体が、いまのアメリカではひとつの奇蹟のように思われる。 ● ジョン・セイルズを規定するのはただ「インディペンデント映画の父」という形容ではなく、キャラクターに向き合うときの誠実さにある。ジョン・セイルズは(少なくとも自分のために書く脚本では)物語進行のための捨てキャラを作らない。善悪をハッキリと塗り分けない。すべての登場人物が(程度の差はあれ)奥行きと多様さをもって描かれるので、いきおい物語は群像劇の様相を呈することが多くなる。テーマは設定しても、観客が安心できる「結論」は用意しない。ストーリーテラーとして抜群の腕を持ちながら、最後に「悪が滅びてメデタシメデタシ」というカタルシスを滅多に作らないので娯楽映画としては物足りないということになる。いっそケン・ローチのように左翼/リベラルのプロパガンダに徹したほうが映画が力強くなるのに、それを潔しとしない。それがジョン・セイルズの考える「誠実さ」であり「映画の豊かさ」なのだろう。このような映画作家がジェリー・ブラッカイマーと同時代に存在していることの不思議がお判りいただけようか。 ● さて本作。「カーサ・エスペランサ」とはスペイン語で「希望の家」の意。良いタイトルだが、じつは「赤ちゃんたちの家」のほうが原題直訳。舞台はメキシコ。ホテルに滞在して海外養子の縁組を待つアメリカ人女性6人と、メキシコ人の女将・ホテルメイド・失業者・浮浪児たち。バカンスにでも来たような風情のアメリカ人と、生きることで手一杯なメキシコ人が交互にスケッチされる。そう、まさに「スケッチ」であって基本的にこの映画には(Aの行いがBの人生を変え それがCの人生に影響をおよぼし……といったような有機的な意味での)ストーリーが無いのだ。いつ降りるともわからない政府の許可をひたすら待ち続けるという、まるで「ゴドーを待ちながら」のような停滞した時間の中で(主に登場人物の独白による)キャラクター紹介が並列して進行し、それがひとわたり終わったところで、何人かの女性に養子縁組許可の報せがもたらされて、95分の上映時間は尽きてしまう。群像劇の最初の30分だけで構成したような不思議な映画。 ● 見どころは言うまでもなく女優陣であって、ジョン・セイルズの前作「サンシャイン・ステイト」に続いての出演となるメアリー・スティンバージェン(50歳)から始まって、マーシャ・ゲイ・ハーデン(44歳)、ダリル・ハンナ(43歳)、リリ・テイラー(36歳)、「フィオナの海」のスーザン・リンチ(32歳)といった米英のベテラン勢に、新鋭 マギー・ジレンホール(26歳)、ホテルの女将で大女優リタ・モレノまでが登場して、人生の一断面を魅せる。ジャンルとしては「彼女を見ればわかること」と一緒ですな。 あと、ホテルメイドに扮したヴァネッサ・マルチネス(24歳)が可愛い。「真実の囁き」「最果ての地」と連投ってことはセイルズのお気に入りなのかな。 押しの強い典型的なイヤな女=マーシャ・ゲイ・ハーデンを評してリリ・テイラーとメアリー・スティンバージェンが「悪口を言うつもりはないけど……彼女、ソシオパス(社会病質者)よね」「それってサイコパスみたいなもの?」「ただ殺す数がちょっと少ないけどね」 ● 劇中で「妻がクローン化する映画があったわよね」という台詞(=字幕)が出て来て、それはたぶんキャサリン・ロスの「ステップフォードの妻たち」のことを指してると思われるが、ありゃ「生体クローン」じゃなくて[アンドロイド]だから、字幕は「妻がクローン化する映画」じゃなくて「妻のクローンを作る映画」とすべき。

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ドリーマーズ(ベルナルド・ベルトルッチ)

[輸入DVD観賞] すったもんだのすえノーカットで公開されたアメリカでのレイティングが「NC-17(=昔でいうX-RATED)」だったにもかかわらず、日本での公開は「R-15」だと知って──ということは、つまり配給の日本ヘラルド映画が「R-18」で構わないから日本の法律の範囲内で出来うる限り修正を行わずオリジナルに近い形で公開するよりも、高校生の観客を獲得したいがため(?)にボカシを多めに入れて「R-15」で公開するほうを選んだ、ということである──ダメだこりゃ、と思って「Original Uncut NC-17 Version」のDVDを輸入鑑賞。 ● ぼくは二十歳でパリのまだ寒い春だった──というわけで、アンリ・ラングロワがシネマテーク・フランセーズの館長を解雇された1968年2月から5月革命までの4ヶ月を背景に、ベトナム戦争の徴兵逃れでパリに留学しに来たアメリカ人の若者が、その年で人生のすべてを理解してるかのような(振りをしてる)双子の姉弟──奔放なプリンセスと反体制的な批判者──と出会ってアパルトマンに同居するようになり、3人だけの甘い蜜月のような蛹の日々を経て大人になる……という一種のイニシエーションものである。 ● 当時のヌーベルバーグの映画(と、連中が持て囃した名作)が劇中の身振りとして引用されるだけでなく実際の該当シーンまでが挿入されてしまう。そして内容にシンクロした「時代のロック」がBGMとして流れる。つまりこれはお年寄りの映画作家が「あの頃は良かった」というノスタルジーで作った青春映画である。ただ、おれは1968年にはまだ5歳で、アンリ・ラングロワにも五月革命にもなんの思い入れもないし、ヌーベルバーグは大嫌いと来てるので、残念ながら本作の「1968年への想い」は共有できず。てゆーか、これにドンピシャ(死語)なのって、いま50代の人と60代の前半まででしょう(現にベルトルッチは63歳) また、言うまでもなく本作は「政治的なステートメント」ではない。ベルトルッチは「だらけた現状へのプロテストを籠めた」みたいなことを言ってるが、これを観て「よし、おれも社会を変えよう」とは思わないよね。「ああ、おれもあんな女とヤリたいなあ」と思うだけだ。もちろんそれは、この映画の価値を少しも減じるものではないけれど。 ● ベルトルッチがサスガだと思うのは、そうした時代背景を差し引いて「純真な異邦人の若者が、近親相姦的な匂いのするマセた姉弟と出会って大人になる」という単なる青春映画として観ても描写が枯れてないことだ。へんに哲学的にコムズカシクなることなく、かといって私小説的なちんまりした世界に収まるでなく、フランスの現役世代の映画作家が作る映画などより、ずっと瑞々しい魅力を湛えている。実際これはベルトルッチが〈小さな映画〉に回帰して以来、いちばんの出来だと思う。爺さん婆さん評論家の昔話に惑わされることなく、普遍的な青春映画としてお勧めする。映画ファンには大きなお世話だ!な名台詞をひとつ>主人公たちは連日シネマテークに通っては最前列でスクリーンを見上げていたのだが、久しぶりにカノジョと2人で映画を観に来た主人公、いつものように最前列に座ろうとするカノジョを引きとめ、後列に誘(いざな)いながら「最前列はデート相手のいない人の席だ」 ● メイン3人のキャスティングは完璧。姉の「右肩」と弟の「左肩」に まるでそこで繋がっていたかのような「赤い痣」を持つ親密な姉弟。姉=イザベルに1980年パリ生まれの新人 エヴァ・グリーン。もちろん脱ぎまくり。Fカップぐらいありそうな美乳が素晴らしい。世間をナメきったような視線が微笑ましい弟=テオにフィリップ・ガレルの息子、ルイ・ガレル(1983年生まれ) 本作のフランスでの公開題は「Les Innocents」だったのだが、まさしく顔にインセントと書いてあるアメリカ人の若者に、「太陽と月に背いて」の頃のレオナルド・ディカプリオの面影があるマイケル・ピット(1981年生まれ) 「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」のデビッド・ボウイ役から一転してナイーブな役だが、本作の白眉たる かれのせっかくの勇気ある場面が日本ではボカシの向こう側に隠れてしまってる(と推測される)ので──これはたとえR-18指定でもNGだと思う──ここで特別に皆さんに国内法に違反しない最小限のモザイクにてご披露しよう(ネタバレにつきクリックは観賞後に) ● ついでにベルトルッチと映倫の話で思い出すのは、畢生の大作「1900年」(日本公開は1982年)のなかで、少年時代の主人公2人が納屋かなんかの中で、早く大人になりたくてちんちんの皮を剥くシーンがあったんだけど、それまで子どものちんちんにはボカシがかかってなかったのに、皮を剥いた途端にボカシがかかって「おおっ、の有無が分かれ目であったのか!」と妙に感心したことを覚えてる。マイケル・ピット君も仮性包茎だったらボカされなかったのにネ。<そういう問題ぢゃありません。

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赤線(奥秀太郎)[ビデオ上映]

おれは「壊音」も「日雇い刑事」も「日本の裸族」も未見なので奥秀太郎はこれが初見。戦後の新宿二丁目の赤線を舞台にしたビデオ撮りのナンチャッテ時代劇だが、それなりに美術・衣裳に金と手間暇をかけたプロダクションである。つまり見た目は一応「安もんのVシネ」ではなく「映画」になっている。ただ如何せん「それらしき雰囲気」と「それらしい会話」を繋ぎ合わせただけでは「劇映画」としては成立しないし、特に主役たる「人斬り以蔵」にドラマがないのが致命的(脚本:小柳奈穂子) ただ、そもそも奥秀太郎に旧来の意味での「ドラマ」を作る意思があるのか測りかねるけど。そういうものは初手から目指してないのかもしれないし。どっちかつうと椎名林檎やら浜崎あゆみの撮る長めのミュージック・ビデオなんかに近いのかもしらんし。 ● だから半分は架空世界みたいなものと判ってはいても、永井荷風を副主人公に据えていながら舞台が「玉の井」でなく「新宿二丁目」という不自然さが気になった。たしかに断腸亭から新宿二丁目までは歩いても20分ほどの距離だが、この人は新宿にはほとんど足を向けていないはず。どうせナンチャッテ時代劇の(たぶん)ゴールデン街ロケなんだから「玉の井」って設定にしときゃいいのに。あと、荷風が惚れた女郎とヤろうとしてヤれずに、ただ2人で添寝するシーンがあるんだけど、2人とも服のまま寝るのにはビックリした。とりあえず女郎はシミーズ。荷風はズボンを脱いでステテコ姿。基本だろ。 ● 人斬りは人斬りでも女千人斬りの以蔵に、中村獅童。まあ、カッコつけてるだけの雰囲気主役なので。「とりあえずぼぼ出せや」って、九州人って設定? 永井荷風に小劇団「サモ・アリナンズ」主宰の小松和重。 特飲店のおやじに(じつは天然ぼけキャラより「厭な奴」を演らせたら絶品の)荒川良々。 店の娼婦に、つぐみ(脱ぎなし) 以蔵が強姦して無理やり自分の女にする家出娘に、片山佳(脱ぎアリ) 怪しげな薬屋のおやじで(なぜか映画に出ると本人が思ってるほど面白くない)野田秀樹。

本作はシネマライズが地下のバーの跡に作った新館「ライズX(エックス)こけら落とし作品。ここは渋谷シネ・ラ・セット、アップリンクXと、なぜかこのところ渋谷にポコポコと出現している50席規模のビデオシアターのひとつ。天井の高いコンクリート打ちっ放しのスペースに天井桟敷のような2階席まで設えてあって、椅子は全席ともドリンクホルダー付の映画館用のもの。プロジェクターは2階席の櫓下に取り付けてあるので映写距離がとても近く、画像も比較的鮮明(ただ1階席でプロジェクターの真下に座っちゃうとファンの騒音が気になるかも) なんでも奥秀太郎みずから映写・音響設備の選定・設置・土木工事まで手掛けたとのことで「5.1chサラウンド音響完備」だそうだがフロントの音しか聞こえなかったぞ。あとビデオプロジェクター上映の音って、なんでどこもあんなにキンキンしてんのかね? ● 此処ってバーの前はなんだったっけ? なんか昔この地下に降りたことあるような記憶があんだけどあれははたして百年昔のことだったか二百年前のことだったかこのところとんと記憶が曖昧になりましてなあ……。

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スパイダーマン2(サム・ライミ)

人より優れた才能を持つことはその人の「特権」ではなく天からの「授かりもの」である。だから人にはその才能を正しく使う責任があり「大いなる力」には「大いなる責任」が伴う。そしてサム・ライミは「スパイダーマン2」で その大いなる責任を十二分に果たした。「スパイダーマン」も悪くはないんだけどさァ、やっぱ「ダークマン」のほうが上っしょ……などというひがみオタクぐうの音も出させぬヒーロー・アクションの大傑作を(ティム・バートンの「バットマン」シリーズのような搦み手に逃げることなく)堂々と正攻法のアプローチで完成させたのだ。 ● 撮影監督が前作の(ゼメキス組の)ドン・バージェスから、「ダークマン」「キャプテン・スーパーマーケット」のライミ組……というか今や「マトリックス」3部作で名をあげたビル・ポープに交替。それに伴ってスクリーンサイズも前作の不可解なビスタから、スペクタクルなシネマスコープ・サイズへとぐわんと拡大。前作クライマックスの腰砕けとは打って変わって迫力満点のアクション・シークエンスからは、観客がヒーローの痛み……と言って大袈裟ならば十二分に衝撃(インパクト)の強さを感じられる。またそこで聞かれる数々の悲鳴には単なる「物語上の記号」を超えて、きちんと恐怖の感情が込められている。実際、ハリウッドのブロックバスター映画でこれほどのいい悲鳴を聞けることは稀ではないか。 ● そしてドラマ! 週7日24時間休みなしでプライベートを犠牲にして働くヒーローの苦しみ。かれはなぜそこまでしてヒーローで在り続けるのか。ミュータント蜘蛛に刺されて特殊能力を身に付けたから? だがそれは特殊な能力を身に付けた「因縁」であって、ピーター・パーカーが「スパイダーマン」として生きることを選んだ「動機」じゃない。本作では、今までの「変身ヒーローもの」が(仮面ライダーやバットマンのような復讐型を別にすれば)単に「宇宙人に選ばれたから」とか「変身アイテムが手に入ったから」として片付けてきた「ヒーローたるべき動機」……言い換えれば「ヒーローとは何なのか?」というテーマを、ごくシンプルに、説得力を持って、エンタテインメントとして描き出す。上映時間が2時間7分だからエンドロールを除いて正味2時間弱の映画で、ピーター・パーカーがスパイダーマンのコスチュームを棄てるまでが1時間、翻意して復活するまでに30分──機械で測ったように かっちり構成されているのは決して偶然ではない。脚本はなんと「ペーパー・ムーン」「ジュリア」「普通の人々」etc.のアルビン・サージェント(!) 1980年代以降、目立った活躍の無かった人が「運命の女」に続いて本作と、完全復活か。 ● じつはスパイダーマンにとって、グリーン・ゴブリンだのドクター・オクトパスといった派手な怪人との対決は言ってみればハレの日のお祭りみたいなもんで、そうそう滅多にあるもんじゃない。NY市民の親愛なる隣人の日常は、トラックに轢かれそうになった子どもを助けたり、コンビニ強盗を捕まえたり、火事に閉じ込められた幼子を救い出したりしてるのだ。「スパイダーマン2」はそのことを殊更に強調する。そう、つまるところ本作は「世界征服を狙う怪人を倒すスーパーヒーローの活躍」を描いた映画ではなくて、街角のお巡りさんや消防士などのエヴリデイ・ヒーローへのエールの謂なのだ。必ず前作を復習したうえで──必見。 ● 俳優陣は前作出演者が──物語上では亡くなった人も含めて──全員出演! キルステン・ダンストは前作よりキレイに撮られているが、なんだか顔が将来の義姉さん(=マギー・ジレンホール)に似てきた気が…。 新登場の怪人ドクター・オクトパスにはアルフレッド・モリーナ。ただのマッド・サイエンティストではなく、序盤の「温かみにあふれた人間的な愛妻家の科学者」との対比が必要な役なので、この起用は正解。でも欲をいえば(「バットマン5」とバッティングさえしてなければ)リーアム・ニーソンとフランシス・マクドーマンドの「ダークマン」カップルに演ってもらえたら最高だったのに。 メカニカル触手のSFXはスティーブ・ジョンソン。触手の1本1本が知能と意思を持っていて装着者の人格を支配してしまうという設定で、不気味で かつ愛嬌のある、茎の伸び縮みするオードリー@「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」といったキャラづけが秀逸。 ● 「正攻法」といってもそこはサム・ライミのこと、ギャグにも命かけてるし、意地悪キャラでレギュラー出演のブルース・キャンベルをはじめ、たぶんアメコミ・マニアならニヤリと出来るのであろう特殊な有名人の特別出演や、将来への含みを持たせた新キャラクターと思しきチョイ役も多数。ピーターに優しくしてくれる下宿屋の娘さんなんて「スパイダーマン3」ではメリー・ジェーンに嫉妬してキャット・ウーマンみたいなストーカー怪人と化しそうだもんな:)

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ハリー・ポッターとアズカバンの囚人(アルフォンソ・キュアロン)

気がつけばハリー・ポッター君も13歳。親に隠れてシーツの下でオナニーをするようなお年頃である。知らず知らずに魔法の力を持つことの驕りも芽生えて、親に怒られるとすぐキレる、口応えをする、面白くないと家出する……と順調に反抗期に突入の御様子──てな導入部に「おお、今回はダーク・ポッター篇か!?」と期待したのも束の間、本篇が始まるといつものお子ちゃまモードに戻ってしまうのだった。というのは、演じてる子たちが実際はもう14、5歳なので、かれらが2つくらい精神年齢が下の考え方/行動原理をしてるように見えて、観ててバカらしくなってしまうのだ。終盤のSF的趣向を用いた「解決篇」のクソつまらなさなど酷いものである。他愛ないファンタジーの枠組みを超えて、本格的なドラマを観せたいのなら、それなりに脚本を膨らませてくれなくては通用しない。ゲイリー・オールドマン、デビッド・シューリス、アラン・リックマン、ティモシー・スポールというイギリスを代表する名優が1つの場面に会するという贅沢も、それを支える「友情と裏切りのドラマ」が書き込まれていなくては単なる金の無駄遣いでしかない。 ● リチャード・ハリスが亡くなってしまったので校長先生は本作からマイケル・ガンボンが演じる。あのヒゲと服装のせいで見た目はかなりソックリに見えるのだが、悪役専科のマイケル・ガンボンでは、リチャード・ハリスのヒゲだらけの顔の眼の奥にあった陽気さ──悪戯っ子のようなキラメキというか、英国英語でいうjollyな感じ?──が出るはずもなく、それが映画全体のトーンにまで影響しているように感じられる。「ハリー・ポッター」という映画にとってそれだけリチャード・ハリス校長先生の存在は大きかったということだ。 ● また本作には他にもエマ・トンプソンにジュリー・クリスティーまで出ていて、だんだんと英国俳優の新春隠し芸大会の様相を呈してきてる気が……。てゆーか、ちょと待てコラ! なんでジョン・クリーズが出てないんだよ! ほかのキャラが死んでも退場しても、ホグワーツ魔法学校が舞台であるかぎりジョン・クリーズの役だけは出さないとイカンだろ。 あとジェイソン・アイザックスをなぜ出さん! そりゃシリーズを通しての「悪役」はなんとかゆー魔法使いか知らんけど、「血統」という本シリーズのテーマを象徴する敵役である純血エリート主義者の存在は不可欠だろ。 ● 監督に抜擢された「天国の口、終りの楽園。」「大いなる遺産」「リトル・プリンセス」のアルフォンソ・キュアロンはアクション演出(というか編集?)がド下手なことを露呈してしまった。この演出家は見得の切り方がまったく判ってない。それと今回(3作目でいきなり始めるなよという気もするが)ハーマイオニーがどの授業でも気が付くと必ずクラスに居て「はい、はい、はい!」と手を挙げてて、ロン君がハリーに「てゆーか、アイツ いつから居たんだよ!?」と驚く……というギャグが繰り返されるんだけど、その笑いの間合いも全然なってない。SFXについては、CG鷲馬は良かったけど、CG狼男のデザインのダサさはなんとかならんのか。

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リディック(デビッド・トゥーヒー)

思うにデビッド・トゥーヒーは〈リディック〉というキャラクターの理解を間違えてるんじゃないか。「ピッチブラック」だけでなく「ワイルド・スピード」でも「トリプルX」でもそうだったが、アクション・スターとしてのヴィン・ディーゼルの「基本キャラクター」というのは、悪はすれども非道はせず。偉そうにふんぞり返ってる奴らが大嫌いな反骨のスキンヘッド野郎。悪に強けりゃ善にも強い──つまり河内山宗俊なのだ(そ、そ、そうかあ?) だから最初にリディックを主人公に据えたスピンアウトの話が出たときは「リディックが如何にして名前を聞いただけで震え上がる銀河のお尋ね者となりしか」を描く(「ピッチブラック」の前日譚としての)アンチ・ヒーロー3部作として構想されていたと記憶するのだが、出来上がってみたらなぜか「ピッチブラック」の続篇にあたるストレートな英雄譚になっていた。低予算SFホラーだった「ピッチブラック」と違って、「リディック」はSFアクション超大作なので映画の中身はまったく別もの。なにしろまだ正式に「3部作」のGOサインが出てもいないのに原題は「リディック年代記」ときた。年代記とはまた大きく出ましたなあ。おれの感覚的には最低でも二世代以上の話じゃないと年代記とは名乗ってほしくないんだけど、本作の場合どうみても1週間足らずの話。それはクロニクルじゃなくてウィークリィなのでわ。 ● でまた、話を壮大にしようとするのは判るんだけど、それが──「スター・ウォーズ」がルーク・スカイウォーカーの物語であるようには──リディックの物語になっていなくて、どっちかっつうと本篇でのリディックはハン・ソロの役まわりである(かといってこの物語にルーク・スカイウォーカーは存在しない) 基本的に銀河無宿のお尋ね者であり、惑星が滅亡しようが民族が殲滅されようが「あっしにゃ関わり合いの無いこって」であるリディックにとって、闘う理由が無いのが致命的なのだ。宣伝コピーに曰く「これが宿命なら、戦うしかない」ってんなら、その「避けられ得ぬ宿命」とやらをもっと掘り下げてもらわないことには話にならない。本作のリディックときたら(前作を観た方ならおわかりのように)「テメエが生き延びるための闘い」の結果としてたまたま一緒に助かっただけの少女に、まるで自分の娘かなんかのように矢鱈と感情移入してて、本筋である「宿命」をほったらかして少女を救いに行ったりするのだ。そのうえクールな鬼畜犯罪者のはずなのに、本作では表情もあらわに、相手の言葉に傷つくセンシティブな一面を見せたり……って、それキャラ変わってるだろがよ!>リディック。なんかもう、ものすごい勢いで捨て犬とか拾ってきそうな感じだもの。 んで、主役不在の間にメイン会場では、敵方の暗黒十字軍内部の「マクベス」もどきの権力抗争が描かれ、最後にリディックがまるで「女の股から生まれなかった者」のように登場して……って、だーから「マクベス」の主役はマクダフじゃないっての! ● また、時系列的には「ピッチブラック」の後日譚であっても工夫次第で「独立した作品」として、いくらでも作りようはあるはずなのに、前述の少女との関係など、たいしてヒットしたわけではない「ピッチブラック」を観てないと、話がいまひとつ理解しにくいという愚かなことになっている。鈴木敏夫じゃないが、ナメるなよトゥーヒー。今度はB級SFじゃないんだろ? 前作の何十倍もの観客を見込んでるんだろ? 1億ドル超のヒットを狙うんなら、本作だけを観てバカなアメリカ人でも理解できる内容にしなきゃダメじゃんか。 ● でまた、そのバカのレベルに合わせたのか、リディックの種族が怒りんぼ族(フューリアン)だとか、少女の囚われている灼熱の星が火葬場惑星(クリマトリア)とか、バカ丸出しのネーミングはなんとかならんか。てゆーか英語圏かよ!>全宇宙。あと、ひょっとして主人公のRiddickって名も、英仏圏の人にはridiculous(=滑稽な)とかridicule(=お笑い種)を連想するんじゃないだろうか? リディックの決めワザがラリアットとかブレーンバスターとかシュミット式バックブリーカーとか、ことごとくプロレス技なのも笑っちゃう。お前はザ・ロックかよ! ● 娯楽映画として致命的なのは、暗黒十字軍の総大将コルム・フィオーレがちっとも強そうじゃないこと。東映特撮ものの世界だったら3話目で殺されちゃう下っば幹部って感じなのだ。あんなんじゃ、やっつけても主人公の強さが際立たないじゃんか。 下克上を狙うマクベスには「ロード・オブ・ザ・リング」のローハンの騎士エオメルことカール・アーバン。 マクベス夫人にサンディ・ニュートン。 「ピッチブラック」からすっかり成長した少女にTV「バフィー 恋する十字架」のスピンアウト・シリーズ「ANGEL エンジェル」で、グウェン・ライデンというキャラを演じて人気が出たアレクサ・ダヴァロス。 もう1人の「ピッチブラック」の生き残りで、それまでリディックを「おれたちを見捨てて逃げるのか」とかエラそーに批難しといて、いざとなったら自分たちの家族だけシェルターに避難しようとする卑小な聖職者にキース・デビッド。 ● ここでもう一度、デビッド・トゥーヒーの経歴をおさらいすると、この人は「ピッチブラック」以外には「ビロウ」「アライバル 侵略者」「グランド・ツアー」の監督/脚本家であり、「クローン」「ウォーターワールド」「ターミナル・ベロシティ」「逃亡者」「ワーロック」「クリッター2」の脚本家である。つまり基本的にはB級映画の脚本家として才能を発揮する人なのだ。「リディック」最大の敗因は、智恵を使わせるべき相手にゼニを与えてしまったことにある。やっぱ、人それぞれの分というものがあるのだよ。美術デザインが「スターゲイト」「ユニバーサル・ソルジャー」のホルガー・グロスなので「スターゲイト」や「ユニバーサル・ソルジャー」を観る程度の期待感で映画館に行けばそれほど失望せずに済むだろう。 ● なお「アニマトリックス」の韓国人アニメーター、ピーター・チョンによる短篇アニメ版が発売されていて、これは「ピッチブラック」のラストシーンから始まり「リディック」に登場する賞金稼ぎも出てくるのだが、「リディック」のストーリーと直接つながりは無く、観ていなくとも「リディック」の理解にはなんの差し障りもないので無理して観る必要なし。


サンダーバード(ジョナサン・フレイクス)

おれの子どもの頃の夢は「億万長者になったら無人島を買って秘密基地を建設する」というものだった。秘密基地を作って何をするのかは二の次で「秘密基地に住む」というのがポイントね。まあ、残念ながら「億万長者になったら」という部分が達成されていないので秘密基地の建設には(いまのところまだ)到ってないのだが。さて、そんなおれが今回の実写映画版「サンダーバード」を観て、どうしても許せなかった点は「操縦席に乗り込む過程を描いてない」ということに尽きる。いや、だって「サンダーバード」でいちばんカッコいいのってそこじゃん! 等身大写真パネルが裏返って逆さまにシューターを滑り降りたり、ソファがぐぉんって沈んだりするのが、おおお!ってなるんじゃん。子どもが消防士に憧れるのは車庫までスライディング・ポールで滑り降りるからで、二段ベッドだったら無条件で上の段を選ぶのはハシゴを使って乗り込むからだ。てゆーか、おれなんかいまだにロフトのある部屋とか、折り畳み式の階段が降りてくる天井裏収納とか、ラブホのベッドの枕元に並んでるボタンとかワクワクしちゃうもんな。童心つうの? ところが、本作の監督を引き受けるまで「サンダーバード」を観たことがなかったという(「スタトレ」組の)ジョナサン・フレイクスにはそんな気持ちなど判ろうはずもなく、なんとこの実写映画版では写真パネルの裏側はエレベーターになってて、扉が閉まると次のカットではもう操縦席に座っているのだ。おいこらっ!いちばん大事なとこを省略してどーするよ! しかもその省略を何度も何度も繰りかえしやがって。おれなんかそのたんびにツッコんでて座席でじたばたしちゃったよ。 ● CGでリメイクされたサンダーバード各機は(4号は論外として)1号・2号・3号・5号に関しては──オリジナル版のエレガントなデザインには及ぶべくもないが──まあ、実際に動いてるとこを観ると事前に危惧してたほどには悪くない。3号の着陸シーンとかメカ・フェチがぐぐっと来るような描写もあるにはあるのだ。だけどさあ、信じられないことにサンダーバード2号の胴体が着脱コンテナ式になってないんだぜ(!) あれは脚を上げた2号の機体の下をコンベアに乗って通し番号を振られたコンテナが次から次へと移動して「え、なになに? その搭載されなかったコンテナには何のメカが入ってるの!? 気になる気になるぅ!」ってところに良さがあるんじゃないか。もーほんとに何にも判ってないんだから。判ってないといえば、ペネロープ嬢の愛車がニーリング・レディのマスコットを鼻先に抱く特製ロールスロイスじゃなくて、なんと(タイアップしてる)フォード製だってのも判ってなさすぎ。そりゃサンダーバード違いだろバカ! なにが哀しゅうて大英帝国の大富豪が田舎者のスポーツカーなんぞに乗らにゃならんのよ。あ、でも「ペネロープの邸宅のティーポッドの蓋がエマージェンシー・コールのスイッチになってる」って設定を生かしてたのは偉いけど。 ● それもこれもすべては馬鹿なアメリカ人のせい。アメリカでは「サンダーバード」の知名度が極端に低いので、そのため本作は、オリジナルTVシリーズの製作国イギリスのみならず日本も含めた全世界のファンを無視して(米ユニバーサル映画の猿知恵で)ただアメリカ市場向けに「スパイ・キッズ」の二番煎じのキッズ・ピクチャーとして作られてしまったのだ。その結果がどうだったか?──アメリカでは7月30日に封切られ、M.ナイト・シャマランの「ヴィレッジ」が週末3日間で5,000万ドル超という驚異的勢いでトップをゲットするのを横目に、3日間でわずか280万ドル弱でベスト10圏外の11位という惨憺たる成績だった。桁を間違えてるのではないぞ。「サンダーバード」は「ヴィレッジ」の20分の1ほどの数字しか上げられなかったのだ。いまごろユニバーサルじゃ、だれがこんな出来損ないの「スパイ・キッズ」にしちまったんだ!?と責任のなすりあいの真っ最中だとおもうが、だーから最初っからオリジナルTVシリーズのコンセプトを尊重した映画化にしとけば良かったんだよ。そうすれば(たとえアメリカでコケても)ワールドワイドの中年観客が支持してくれて商売になったに違いないのに。 ● はて、では「サンダーバード」オリジナル版のコンセプトとはいったい何か? それは俳優たちが常に体を小刻みに揺らすこと……ではなくて、ひとことで言えば「ミニチュア・ワークの精緻ともいえるカッコいいメカが活躍する迫真の救出活動」である。つまりメカや設定がファンテスティックであっても、その活動の描写はあくまでリアルで手に汗にぎるサスペンスであるところに、この作品がいつまでも古びない秘訣があるのだ。本作でも冒頭5分だけ「救助活動」の描写があるけど、そうやって見かけだけカッコよくサンダーバード号を飛ばすのもいいけど、それと同じぐらいに大事なのが「雨風に揺れる救出リグをどうやって油田の建物に近づけるか」とか「作業服にフックした命綱が外れて落ちそうになる」といった息詰まるサスペンスの描写であるはずなのに、本作の作り手たちはそうした側面には目を向けようとしない。颯爽と登場した国際救助隊は華麗なる救助活動を行って悠々と引き上げてゆく。こいつらが「サンダーバード」の精神をカケラも判っちゃいないのは、匿名の善行者であるはずの面々が市民の前で平気で素顔をさらしてることからも明らか。曲芸飛行をして劇中でペネロープから指摘されるように、まさに showing off(ええカッコしい)なやつらなのである。この実写映画版で使用されている「IR」の文字に羽根が付いた国際救助隊のバッジをよくみてご覧。オリジナル版のユニフォームのタスキにあったロゴとどう違うか?──今度のロゴには差し伸べる手が付いて無いんだよ。 ● 申し訳程度の「救助活動」を終え、本筋に入って描かれるのは、♂♀♂のガキども3人組の「わっ、パパやおにいちゃんたちがいないあいだにわるものどもがひみつきちにせめてきた。どーしよー!?」という「ホーム・アローン」ごっこである。悪役を演じるベン・キングズレーもまた「ホーム・アローン」のコソ泥と同じくらいマヌケなやつとして描かれる。で、まだガキなのでサンダーバードの隊員にしてもらえないトレーシー兄弟の末っ子アランがみごとにこのマヌケを退治して、晴れてサンダーバードの仲間入りメデタシメデタシってオチなんだが、こいつ、事件の解決に何も寄与してないじゃんか!(活躍したのはほとんどペネロープとパーカーじゃん) このような選民意識のカタマリで自信過剰で周囲への思いやりに欠け、物事がうまくいかないとすぐキレて大切な道具を投げ棄てるような未熟なキャラクターを、ただ、やれば出来る!的なクソ度胸を持ってるというだけで「ヒーロー」として称揚するのは教育上の観点からもいかがなものか。それと食べ盛り/伸び盛りの年頃の子どもたちに、あたかも「チーズバーガーの摂取を戒める」かのような台詞を主人公に言わせるのは間違ってる。そりゃマクドナルドのチーズバーガーは体に悪いかもしれんが、家庭で愛情を持って作られた栄養満点のチーズバーガーに何の問題があるというのだ!? ● キャスティングについて。大活躍のペネロープ嬢だけど、普通にテレビ版のキャラを実写化したらエリザベス・ハーレーあたりが適役かと思うんだが、本作のソフィア・マイルズも(画面上で見るかぎりは)まあ、悪くはない。だけどこの人、こないだ来日したときの写真、どれもヒドかったね。服装のせいもあるかもしれないけど、見た目 ただのおばさんなんだもん。詐欺だと思ったぜ。ちなみにこの方、ユナイテッド・シネマの幕間CMでは「ハーイ。アイム、ソファイア・マイルズ」と名乗ってました。 サイコーなのはパーカー役のロン・クック。顔もキャラも人形そっくり! やれば出来るんじゃん。なんで全キャラその線でキャスティングしないのよ!? その伝でいけば、さしづめブレインズの役など「ミクロキッズ」のリック・モラニスしかないと思うんだが……。 トレーシー・パパ&トレーシー・ボーイズは感想が書けるほど出番がないのでノー・コメント。 そして主役のガキ3人組の中ではティンティン(テレビ版のミンミン)役のヴァネッサ・アン・ハジェンスちゃん(プロフィール不詳)が可愛くてタマらんぞ! ● というわけで往年のテレビ版を楽しんだ諸兄には到底お勧めできぬ代物である。でもいいのだ。こんな腐れCG映画なんぞさっさと忘れちまえ。おれたちにはまだ「チーム・アメリカ」がある:)

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丹下左膳 百万両の壺(津田豊滋)

撮影・編集:津田豊滋 企画・プロデュース・脚色・配給:江戸木純

映画評論家にして配給会社エデン社長・江戸木純の「王様の漢方」に続くプロデュース第2弾。なにしろ山中貞雄「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」のリメイクである。勝ち目の無さにおいては「七人の侍」をリメイクするってのと五十歩百歩。ただ黒澤明の代表作という圧倒的なネームバリューと、日本映画ベストワン(級)という評価が確立しており、比較的 観る機会の多い「七人の侍」と違って、若い人たちにとっては知名度が皆無に等しく、トーキーとはいえ戦前の作品でフィルムの状態も悪く、一般の目に触れる機会の少ない「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」を、作品に惚れこんだ江戸木純がその素晴らしさを現代の映画ファンに伝えるために、いまのキャストで、カラーで、オリジナルを出来うる限り尊重して再現した──というスタンスと見るべきなのだろう。まあ、その気持ちは認めるよ。しかし、であるならばそれこそガス・ヴァン・サント版「サイコ」のように、下手なアレンジなど加えずに演出からテンポから美術セットからカット割りまで原典そのままに再現したらよかったのに。ずっと宣伝畑で映画製作には素人の江戸木純と、「'hood」(1998)、「センチメンタルシティマラソン」(2000)「冷静と情熱のあいだ」(2001)のカメラマンで、監督としてはVシネマ「平成維新伝 群狼がゆく」(2000)「テロリストEmi」(2003)の実績しかない新人監督・津田豊滋(つだ・とよし)にとっては、そのぐらいが分相応の仕事だったのではないか? いや、馬鹿にして言うのではなく、それだってキャストが変わってカラーになって画格がスタンダードからビスタサイズになるのだから、いまよりずっと立派な「新作」になったと思うのだ。 ● 特に、江戸木純みずからの手になる脚本の小賢しい改変はまったく余計なことだった。江戸時代のスクリューボール・コメディといってもおかしくない原典の洒落たセンスを落として、変わりに泥臭い泣かせを延々と入れるのには閉口した。だからその意味では登場人物がほぼ現代語で喋るのはなんの問題もないし、回収屋の夫婦をかつみ・さゆりに演じさせるのは正しいアダプテーションなのである。しかし言うにことかいて「回収屋」たあなんだよ「回収屋」たあ。それを言うなら「くずや」だろうが根性なしが>江戸木純。 あと「床の間のちっこい達磨」を活かすんなら「達磨をもらう」シーンをカットしちゃダメじゃん。 ● さて、本作のリメイクでいちばん厄介で、しかし避けて通ることが出来ないのがチャンバラである。スタンダードサイズの画面の中をぴょんぴょん飛び回る大河内左膳独特の動きは、長身の豊川悦司ではビスタサイズの天井に頭がつかえてしまうので無理だし、さりとて広々とした場所で引きのカメラで殺陣を繰り広げるほどの技倆は豊悦にはない。たぶん「座頭市」での北野武の誤魔化し方がいちばん無難だと思うのだが、津田豊滋は無謀にも豊川悦司と豊原功補あたりにマトモにチャンバラさせて醜態を晒している。しかもなんだか闘う場所がぽんぽん飛ぶし。お前ら「仮面ライダー」かよ。 ● 豊川左膳は健闘してると思うが、いかんせん怖くないんだよね。なんだか「近所の優しいおじさん」みたいで(この話の場合は)普段はオチャラケでいいんだけど、いざ刀を持ったときの凄みが出ないと「丹下左膳」とは呼べんだろ。 和久井映見はまったくミスキャスト。水っ気も何にも無くて、あれじゃ単なる「癇癪持ちの武家の女房」で、どうひっくり返したって「芸者あがりの矢場の女将」には見えない。意外と江角マキコなんか豊悦と長身コンビで悪くなかったと思うんだけど……。 逆に、まるでアテ書きのようにハマったのが「女房から壺探しを命じられるお気楽 婿養子」の野村宏伸。妻役の麻生久美子にも味があって、オリジナル版の沢村国太郎&花井蘭子にも負けない面白さだったと思う。 ● あと、最後にこれだけは言っとかないと。あの著作権フリー音楽集みたいな安っぽいBGMはなんじゃ!>大谷幸。

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69 sixty nine(李相日)

村上龍の自伝小説の映画化。1952年、長崎県佐世保生まれの村上龍は、ほんとうに1969年に、佐世保北高校で、カノジョにモテたくてバリ封をしたんだそうだ。原作「69」はその痛快な自慢話である。だからいつもの村上龍の小説にあるような「毒」は無くて、代わりに若さゆえのナマの真情と傲慢がある(まあ、村上龍は若くなくっても傲慢だけど) ● さて、1969年にはまだ生まれていなかった宮藤官九郎は、それを(1969年の佐世保北高校を舞台にした)現代の青春映画として脚色した。ディランだのサイモンばガーファンクルだのバリケード封鎖だの全共闘だのといった当時の風俗用語が頻出するが、それらはあくまで「言葉」でしかなくて、それらの言葉があらわす「実体」は伴わない。ただ原作の「面白きゃいいじゃん。人生、面白く生きたモン勝ちだろ」というスピリットのみを抽出し、面白可笑しい青春映画に仕立てている。じっさい妻夫木聡・安藤政信・金井勇太らの好演もあって映画は面白い。でもそこからは「退屈なやつらにおれたちの笑い声を聞かせてやるンだ」という思想の元にある「おれを殻に嵌めようとするものへの反撥」がすっぽりと抜け落ちている(そのためには「管理するやつらの嫌らしさ/醜さ」をもう少し描くべきなんだろうが) ……いや「反体制」とかそんな大上段なもんじゃなくて、ごく生理的な反応なのだが、村上龍の中にあり、おれの中にもあるその「反撥」が、たぶん宮藤官九郎には理解できない。宮藤官九郎はもっと軽く生きて来た/いるのだろう。だから主人公の生き方がとても軽いものに見える。善し悪しじゃなく、そう見える。 ● 演出の李相日にしても──おれは「青 chong」を観なかったので、これが本来の資質なのか判断がつきかねるのだが──宮藤官九郎の脚本のトーンに合った軽いリズムでポンポンポーンと進めていく。痛快ではあるが井筒和幸「ガキ帝国」のようなガムシャラさは無いし、ウンコがらみの下ネタまであるが鈴木則文「パンツの穴」のような下品な活力も感じられない。また、ヤリたい盛りの童貞高校生なのにセックスや女体に対する執着も思いのほかアッサリ(プール更衣室の妄想シーンの健康さはなんなんだ!?) 全篇を佐世保にロケして佐世保弁(長崎弁?)で喋られる映画のわりには泥臭さとは無縁の映画なのだ。面白い映画ではあるが、いささかコクに欠ける……かな。 ● ちなみに李相日は「リ・サンイル」と読むんだけど、この人、在日朝鮮人だよねえ? イ・チャンドンやイ・ビョンホンと同じ「李」さんなのに、なんで「イ」じゃなくて「リ」なの?(アルファベット表記はどちらも「Lee」、つまり韓国人はアタマのLを発音しない) たしかシネカノンの李鳳宇も「リ・ボンウ」なんだよね。「イ」と読むか「リ」と読むかって、どこで区別すんのかなあ。教えて>在日の人。 ● キャストについて。ヒロイン役の太田莉菜ってそんなにイイか? ガリガリだし、なんか顔がサンショウウオみたいなんだけど。おれは友だち役の三津谷葉子のほうがいいなあ。<アンタ、なんでも乳のデカさで物事を計るのやめなさい。 妻夫木クンの親父を演じる柴田恭兵は儲け役。 あと在日つながりで友情出演の井川遥がエロ全開にイメージチェンジ(?)しててイイ感じ。 ● タイトルバックが日本映画にはめずらしいソウル・バス調(?)のイラストで洒落てるのと、製作委員会にテレビ朝日が名を連ねている作品で「乞食」を連呼してんのは偉い。最後に細かいツッコミ>冒頭の妻夫木クンの妄想シーンで、台詞で「全日航ホテル」って言ってんのにエントランスの看板が「ホテル・ヨーロッパ」のまんま。ハウステンボスなのがバレバレじゃん。 ● [追記]朝鮮での「李」の読み方に関してBBSにてご教示いただいたので転記する。まずはkookさんより[李、という名字は、韓国では、イ、北朝鮮では、リ、と読むんですよ。「スパイ・リー・チョルジン」という映画では、ユ・オソン扮する北朝鮮のスパイの主人公が、電話で自分の名を名乗る時、「リー」と言ってから「イ・チョルジン」と言いなおす場面があります。] 続いて、通りすがりさん[北と南の人の読み方の違いと聞いたことがある気が…。それ故、NHKのハングル語講座にはそのファミリー・ネームの人は登場しない、とも。] ヨン様志願(爆)さんからは詳細に[かの半島で話されている言葉は伝統的には語頭に(日本語でいう)ラ行はきません。だから、李という字が中国から入ってきてもr音が落ちて「イ」となりました。でも、新しい外来語でラジオなどでは、ラ行を使います。/ところで北の国ではそのように中国から入ってきたのに落としていた音を元に戻して発音するようにしたのです。それで北では「李」は「リ」です。/はて、南ではどうであるかというと、国内である限りは「イ」さんとなります。/ところがところが、なぜか英語・米語で表記するときには「Lee」を使うのが慣例となっています。「リ」という発音にこだわるのであれば Jet Li のようにするべきなのでしょうが、南北戦争当時の将軍にあこがれているのでしょう。] そしてえんどうさんが[私がある在日の方から聞いた限りでは、一概に北ならリ、南ならイというわけではなく、本貫(=祖先の出身地)によって読みが異なる、のだそうです。なので本人に聞いてみなきゃ分からないということでは。]と補足してくだすった。皆さん、どうもありがとう。

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スチームボーイ(大友克洋)

じつは今年の春に初めて長い予告篇を観たときに泣いてしまった。あの大友克洋が「手塚治虫」をやろうとしているのが画面からひしひしと伝わってきたから。その瞬間に、ああ、人間の手に負えない危険な力を託された「スチームボーイ」というのは(「鉄腕アトム」の英語題である)「アストロボーイ」に由来するのか!と了解されたから。野暮を承知で補足するならば〈漫画家〉手塚治虫が唯一、本気でその才能に嫉妬したのが大友克洋である。なぜなら手塚治虫が生み出し、以降のすべての漫画家がそのフォーマットに則って描いてきた我が国の誇る「漫画」という表現形態を、もう一度「発明」したのが大友克洋だから。1970年代に劇画/青年漫画がブームになり「手塚の少年漫画なんて古い」と言われたときにも、劇画の手法を自家薬籠中のものとして吸収してきた巨人・手塚が、しかし決して真似できなかったのが大友の画風である。同じく映画のカット割りから大きくヒントを得ながら「省略」と「凝縮」というまったく正反対のベクトルを持つ2人の天才漫画家。その出自から必然として映画(アニメーション)の製作へと向かいながらもクロスすることのなかった2人。その大友克洋が、手塚治虫 亡きいま、手塚の初期代表作を虫プロ生え抜きのりんたろうが映画化した「メトロポリス」の脚本に続いて、みずからのプライムタイムであるべき10年間を費やした大作で「鉄腕アトム」を継ごうというのだ。これが感慨せずにおらりょうか。 ● ……と、いささか過大な期待を持って臨んでしまったので、いざ「スチームボーイ」を観たときにはガッカリした。いや愕然とした。これ、ただ脚本に書かれたストーリーを順番に動画にしてるだけで「演出」がないじゃないか! 緩急が無いから追っかけアクションにもワクワクしないし、間がダメだからユーモアも楽しくない。たしかに(大友の漫画と同じく)画力は圧倒的かもしれないが、ここには──ストーリーなんてどーでもよくてただ絵が動くのを見てるだけで胸がときめくという──アニメーションの魅力が欠けらもない。いったいどういうことだ!? 「AKIRA」はアニメーションとしても魅力的だったと記憶してるんだが……。 ● 動画に輪をかけて酷いのが声優演出である。いや正確には「声優」はあまり出てなくて、スタジオ・ジブリ式に顔出しの俳優をメインで使っているのだが、台詞にまったくメリハリがなく、全篇ぼそぼそと低い声で、声を張らずに喋るんである。通夜の席じゃねえんだぞ! ヒロイン役の小西真奈美の評判が良いようだが、あの程度は「意外な健闘」というレベルであって「プロの仕事」と呼べる出来ではない。なぜ本職の声優を使わないのだ。もっとも必ずしも演じている側だけの責任でないことは「プロ」である津嘉山正種の台詞を聞けばわかる。津嘉山正種がこんなに下手なわけがない。明らかに演出家が抑制しているのだ。 ● 少年向けの空想科学活劇を目指したと大友克洋自身が公言しているにもかかわらず、タイトルが「STEAMBOY」と英語で出るのは間違ってるし、英語で出てくる地名に日本語字幕をつけないのも間違ってる。あとたとえば、爺ちゃんが脚を撃たれたとことか(アニメなんだからいかようにも撮れるはずなのに)明快さを欠くコンテが散見されるのも気になる。これ、おそらく、用意された素材は悪くないんだから、りんたろうに半年間、時間を与えて、追加作画と再編集とアフレコをやり直してもらったら見違えるほどの傑作に生まれ変わるんじゃないか!?>バンダイビジュアル。 ● さて、ここまで貶してきといてなんで星3つなのか?ということだが、スチーム城が○○だあとの最後の最後の大法螺で「おおうっ!……赦す。すべて赦す!」という気分になってしまったのだ。そうか当初の本作の公開延期は「スチームボーイ」のラッシュを観た東宝編成室の【これを「ハウルの動く城」より先に観せちゃマズい】という政治的判断だったのか(でも結局「ハウル…」が間に合わずこっちが先になっちゃったけど) あの場面にはアニメーションがアニメーションとしての輝きを放つ……萌芽が感じられた。──そう、萌芽なんだよ。これが意図されたとおりの細密かつ大胆な動画によって表現されていたなら、さぞや素晴らしい、脳裏に焼きついて離れない場面になったのに、と思うのだ。惜しい。そこで使えよ画力を! ● あと関係ないけど本作のヒロインは「オハラ財団のスカーレットお嬢さま」ってことは、名前はスカーレット・オハラ!?

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キング・アーサー(アントワン・フークア)

製作:ジェリー・ブラッカイマー

「トレーニング デイ」「リプレイスメント・キラー」のアントワン・フークワの新作。「キング・アーサー」っていうからてっきり伝説のアーサー王の話かと思ったら「ティアーズ・オブ・ザ・サン」に続いて、またもや「孤立した自陣営のVIPを救出するため敵地の奥深く侵入し、命令違反を承知の上で地元の無辜の民も一緒に救おうとする職業軍人の話」なのだった。てゆーか、こんな「日本武尊は中国朝廷から派遣された朝鮮人の将軍で、天照大神は身体中に絵の具を塗りまくった野蛮なアイヌの女戦士だった」みたいな珍説をピッツバーグ生まれのPV屋あがりの黒人監督なんぞに撮られて、イギリスの国粋主義者の皆さんは平気なのか!? おまけにアーサー王に扮するのが悪役顔のクライヴ・オーウェンだ。どう見たって伝説の〈建国の英雄〉を演じるにゃ貫目不足だろよ。脚本の浅さを補うだけのカリスマなど望むべくもない。ジェリー・ブラッカイマーともあろう人がブラッド・ピット分のギャラをケチッたせいで儲けそこなったな。 ● リアリズム史劇のはずなのにキーラ・ナイトレイは なんでかブルーのネグリジェとか着てるし、で、また、敵のサクソン人(=ドイツ人?)を率いるのがステラン・スカルスゲールドとティル・シュヴァイガーの最強親子だ。そりゃどー考えても向こうのほうが強いわ。おれ、じつは最後のほう寝ちゃって──キーラ・ナイトレイが弓矢を棄てて、ワーッと駆け出したあたりまでは憶えてるんだけど──どっちが勝ったか知らないんだけど、もちろんサクソン親子が勝ったんだよね?

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マッハ!!!!!!!!(プラッチャーヤー・ピンゲーオ)

新宿東急の場内に入ったら河内音頭がかかってて「ああ、もう盆踊りの季節か……」と思ったら、よくよく聞いたら本作のサントラ盤だった(火暴) ● これはスゴい。誰もがそう思うだろうけど「プロジェクトA」や「香港国際警察 ポリス・ストーリー」の頃のジャッキー・チェン映画そのものだ。いや、ある意味、超えてる。だって必殺の一撃が容赦なく後頭部/頭頂部に当たってますがな。コンピュータ・テクノロジーを手に入れて近代化してしまった香港映画ではもはや不可能な──生命の値段が安い(=スタントマンへの補償が安価で済む)国でしか成立しえない映画である。CGは使いません!とか言いつつ「喉から煙」と「目に炎」はCG使ってるけど固いこと言うな。アクションはモノホンだ。娯楽映画としてあまりに正しいラストシーンとエンドロールのNG集に星1つ追加して満点とする。男子小中学生は全員いますぐ観に行け(義務 ちなみにエンディング主題歌まで当時のジャッキー・チェンみたいだ。おれなんか「ポリス・ストーリー」の歌、いまでも歌えるぞ>♪タン塩〜 ● このような映画なのでストーリーはどうだっていいのだが、しかしこれはタイ映画であるので「盗まれた仏像の頭を取り戻す」という主筋のほかに「農村から都会に出て悪に染まった不肖の息子が仏さまの導きで改心する」というサブ・プロットが組み込まれていて、あくまで仏教訓話になってるのが興味深い。 ● 最後に業務連絡。前にBBSに書いたけど流れちゃってるのでもう一度書いとくけど──ソフト・オン・デマンドの高橋がなり社長は中野貴雄を監督に迎えて、ただちに全裸ムエタイ女闘美アクション「マッパ!!!!!!!!」の製作に取りかかるように。

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シュレック2
(アンドリュー・アダムソン+ケリー・アズベリー+コンラッド・バーノン)

製作総指揮:ジェフリー・カッツェンバーグ

もともとディズニー/ピクサー連合へのカウンター・プログラムとして企画されたはずなのに敵の本丸が自滅してしまいピクサーは他社へ寝返り中……ってことで、遮るものなき独走状態となった本作。アメリカじゃなんと「ファインディング・ニモ」の記録も抜いてしまった由。アンチ・ディズニーというシバリがなくなったことで、アニメーター/ストーリー担当者たちが自由な発想でやりたい放題。結果として前作より平易で万人向けの……つまり毒気の薄いエンタテインメントとなっている(今回は定石どおりにちゃんと白馬に乗った王子さまが助けに来るのだ) 万人にお勧め。 ● 今回新登場のキャラ「長靴を履いた猫」にアントニオ・バンデラス。まんまスペイン人の色男「怪傑ゾロ」──快傑?どっちが正しいの?──で笑っちゃう。予告篇でもさんざんやってる「ウルウル眼」作戦だけど、おれてっきりアレは相手に取り入る卑劣な作戦で、いいところで裏切るもんだとばっかり思ってたら、そうじゃなくて本当に仲間になっちゃってたのな。弱過ぎじゃん>バンデラス。 あと冒頭であれだけ延々と「ファー・ファー・アウェイ国がいかに遠くに遠くにあるか」でギャグを取っといて、助太刀軍団がわずか3時間ぐらいで着いちゃうってのはどうなのよ? ● 以下、小ネタをいくつか。「ゴージャスな偉丈夫」に変身したシュレックって、おれの目には川崎のぼるの漫画のキャラにしか見えないんだけど、ガイジンにはあれがハンサムに見えるのか? 妖精の女元締めは「いったいぜんたい!?(What in the God's name!?)」のことを「What in the Grimm's name!?」と言う。 彼女の工房がある通りの名が「ドルリー・レーン」っていうのは、やっぱりバーナビイ・ロス(=エラリー・クイーン)の創出した聾の名探偵ドルリー・レーンに因むのかな?(アメリカじゃそんなに有名なのか?) 惚れ薬の小壺に「IX」と書いてあるのは「ラブ・ポーションNo.9」ですね。  ● ファー・ファー・アウェイ国はハリウッドそっくりで、背後の山の斜面には「FAR FAR AWAY」という文字看板まで建ってるんだけど、これエンドクレジットにちゃんと例の「HOLLYWOOD」看板のコピーライト表記が出るのな。つまりあの看板を所有する何とかゆー不動産屋にドリームワークスは権利料を払ったわけだが、だけど「FAR FAR AWAY」だぜ? 「HOLLYWOOD」じゃないんだぜ。しかも実写じゃねえし。それで権利料が発生するってことは、京都の大文字焼きなんかも「山の斜面に文字というコンセプトが同一」とか言われて何とか不動産から訴えられる可能性があるので関係者は覚悟しといたほうがいいぞ。大文字焼きのほうが先だって? やつらそんなこと関係ねえもん。どうせ「先に商標登録しとかないのがイカン」とか言われてチョンよ。 ● 本作のアタマには漏れなくドリームワークス・アニメーション(株)独立第1作となる「シャーク・テイル」の予告篇が付いてるんだけど(「バグズ・ライフ」に対する「アンツ」のごとく)露骨に「ファインディング・ニモ」のバクリネタなのは、まあ置いといて、これが「どーせ顔出しの役者に高いギャラ払って声優を演らせるんなら(その役者のキャラだけじゃなく)肖像権を使わない手はない」ってことで、すべてのキャラ(=みんな魚)が、声を演ってる俳優そっくりの顔をしてるというコンセプトのCGアニメで「ロバート・デ・ニーロそっくりなサメのマフィア」とか「マーティン・スコセッシそっくりの眉毛の濃いハリセンボン」なんて笑い死ぬかと思ったぜ。てゆーか(デ・ニーロはわかるとして)なぜスコセッシ!?

THREE 臨死(企画&プロデュース ピーター・チャン)

[輸入DVD観賞] 香港版ユナイテッド・アーティスツこと〈UFO映画〉が崩壊して、ハリウッドに渡ってドリームワークスでスピルバーグの女房主演に「ラブ・レター」を撮るもののうまくいかず、2000年に香港に戻って〈アプローズ・ピクチャーズ〉を旗揚げしてアジアの連帯を旗印に「ジャンダラ」「春の日は過ぎゆく」「the EYE【アイ】」といった合作映画を送り出してきたピーター・チャン(陳可辛) そのかれが2002年にプロデュースした40分×3のホラー・オムニバスが本作である。実際の制作は各国それぞれのプロダクションで独立して行われ、台詞も現地語が使用されている。
★ ★MEMORIES 回憶」 まず第一話は韓国から「箪笥」のキム・ジウン(金知雲)監督作。舞台となるのはソウル郊外に誕生した、市民にニューライフとニュー・ドリームを約束するニュータウン(=高層団地) その一室で、妻が失踪して以来 精神的に憔悴しきってる夫の姿と、道端で倒れていて目を覚ました記憶喪失の女の自己捜索行が交互に描かれる。夫の見る悪夢や妄想がホラーを構成し、女の行動がサスペンス・ミステリを担当する。……まあ、お察しのとおりいつものネタだ。キム・ジウンは「箪笥」の監督といっても、その前が「反則王」と「クワイエット・ファミリー」だからホラー・プロパーの作家ではなく、よーするに立ち位置としては「面白そうなものにはなんでも手を出す流行監督」である。だからホラー描写もJホラーの猿真似を並べるだけで、もっぱら演出ではなく「音」でビックリさせるコケ脅しに終始。その裏側に潜むドラマには目を向けようとしない。凡作。
★ ★THE WHEEL 輪廻」 続いて第二話はタイのノンスィー・ニミブット監督による「欲が身を滅ぼす」という仏教訓話。たとえホラーでも、尺がわずか40分でも、かならず最後は仏教訓話としてまとめるのがタイ映画たる所以だ(ただしパン兄弟は香港人なのでこの限りにあらず) この監督の「ナンナーク」もそうだったが、タイの人の──特に女の人の──喋りかたと一緒で、演出もの〜んびりしたペースなので、ホラーとしてはちっとも盛り上がらないのだな。なお、前作「ジャンダラ」で目覚めたのか、若い女優さんのセックスシーンあり(ちょろっと乳首も写る) エンドクレジットで名前をチェックしようと思ったんだけど、タイ人の名前って(ローマ字の)綴り見てもさっぱり男か女かも判らんのな。しかも読みが例えば「NONZEE NIMIBUTR」と書いて「ノンスィー・ニミブット」と読むんだぜ。読めんよそんなの。
★ ★ ★ ★ ★GOING HOME 回家」 〆の第三話はピーター・チャンみずからが担当、圧倒的な演出力の違いを見せつける。これがバリー・ウォンとかだったら「自分の腕を良くみせるために他の2人にワザと才能のない監督を雇ったんじゃないの?」と邪推するとこだぜ。 ● 香港の街中をデッカいスーツケースをいくつもかかえた肥満の中年男(エリック・ツァン!)と、小学校一年生ぐらいの男の子がえっちらおっちら歩いてる。どうやら引越しらしい。ようやく2人が辿り着いたのは、8階建て2棟並びの古ぼけた共同アパート。エレベーターもなく便所は共同便所。1ヶ月後には取り壊される予定だそうで、すでにまわりはほとんど空き室状態。ただ、そこかしこにこびりついた生活の残滓がガランとした空間に木霊している。そんな中に居残っている数少ない一家が向かいの棟に住む漢方医の于(ユー)だ。なんでも下半身不随の妻の看病をしてるとのことで、ほとんど部屋に引きこもったまま。夫婦には、赤い服を着た3つぐらいの可愛いらしい女の子がいて人気(ひとけ)のない廊下で遊んでいる。 さて、中年男はじつは夜勤の刑事(なんだそれ?)なので、昼間は怖がりの息子が廃墟のようなアパートにひとりきり。ある日のこと、目覚めてみると息子がいない。外はもうすっかり夜だ。刑事はアパートの内外を探しまわった末、そうだ息子が話していた「赤い服の女の子」の家かもしれないと于の部屋を訪ねるが……。 ● いままでピーター・チャンのことを「映像派」だと意識したことはなかったけれど、出来のよくない2篇を観たあとだと、かれの映像センスが──「ラヴソング」に続いてファインダーを覗くクリストファー・ドイルの いつもの手持ちのゆ〜らゆら差っ引いても──圧倒的に優れていることがよくわかる。じつに「映画を観てる」という満足感を味あわせてくれるのだ。緑色にくすんだ世界にぽつんと存在する赤い服の女の子…といった映像的なことだけではなくて、次のカットをどこから撮るか、人物をどうやって出し入れするか、台詞をどう喋るか──ひとつひとつ効果的な語り口を突き詰めていけば(それがホラーなら)おのずから恐ろしい映画になる。当たり前のことだが要は「どうやって客を脅かすか」ではなく「いかにストーリーを語るか」なのだ。 ● 物語の中心となる漢方医・于を演じるのは、ピーター・チャン組には「ラヴソング」に続けての主演となるレオン・ライ。黒縁メガネをかけて いつも静かに喋る地味ぃなキャラを、何の小細工もせず穏やかに演じて圧倒的な演技を魅せる。えてしてこういう役は「静かな狂気」をエキセントリックに熱演しがちだが、レオン・ライはそうした華やかさ/カリスマ性をいっさい用いず、闇の中に溶けこむようにこの人物を生きる。それでみごとに映画を背負って哀しくも美しいラブ・ストーリーで観客に涙させるのだ。 ● 病床の妻に新人 ユージニア・ユン(原麗淇)<中国にも「原さん」なんて苗字あるんだねえ。てゆーか、じつはこの人、かつてのショウ・ブラザースの女侠スター チャン・ペイペイ(鄭佩佩)の実の娘さんである(「チャン・ペイペイの娘」ってより「ミシェール・キングの妹」みたいな顔してるけどな) 香港映画にはめずらしく浴槽ヌードあり。ただし、ちょっとした事情特殊な性的嗜好の人以外には愉しめないと思うが。……いやいや、でもこれがあの「大酔侠」の「香港ラプソディー」の、どんなアイドルより可憐だったペイペイの娘のハダカだと思えば決してヌケないことはない。<無理してヌカなくても。 彼女、アメリカ育ちでサモ・ハン大哥のTVシリーズ「LA大捜査線 マーシャル・ロー」にゲスト出演した縁で、お母さんと一緒にサモ・ハンの「ファイターズ・レガシー(龍騰虎躍)」に出演。言うまでもなくチャン・ペイペイは「グリーン・デスティニー(臥龍藏虎)」のジェイド・フォックス(碧眼狐狸)役を演ってたわけで、オリジナルの出演者が平気で二番煎じに主演してしまうあたりが香港映画の奥深さですな。ユージニアはこないだ香港で公開されたばかりのパン兄弟の新作「the EYE【アイ】2」(スー・チー主演)にも出演している。 ● ちなみにピーター・チャンはすでに第2弾企画「三更2」をほぼ完成。今度は韓国から「オールド・ボーイ」「JSA」のパク・チャヌク。香港からはフルーツ・チャン。そして日本からは三池祟史! 日本でも年内には観られるようだ。

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箪笥(キム・ジウン)

「クワイエット・ファミリー」「反則王」のキム・ジウン(金知雲)が「THREE 臨死」の一篇「MEMORIES」に続いて監督した韓国ホラー。原題は「薔花、紅蓮」。継母に苛め殺された美しい姉妹が幽霊となって復讐する……という韓国ではたいへんにポピュラーな怪談噺の古典「薔花紅蓮伝」──「四谷怪談」とか「番長皿屋敷」みたいなもんか──を換骨奪胎してモダンホラーに仕立てている。 ● 本作最大の問題はストーリーに論理性を欠く点にある。いや、もちろんこれは怪談だから「科学的に割り切れない不条理」があったり「物理的にありえない怪奇」が起きたりするのは一向に構わないんだけど、そうした不条理のあらわれる「目的」や、怪奇を目撃するその「視点の置き方」に一定のルールが無くては1本の「映画」として成立しない。「I see dead people.」な某作やアカデミー賞に輝く某作にあった「欠けていたピースが描かれた瞬間にすべてのピースがあるべき位置にピタリと嵌まる快感」は本作ではついに味わえない。だってこれがアリなら、なんでもアリじゃん。 ● ホラー演出も「MEMORIES」同様、Jホラーの猿真似と音響によるコケ脅しに終始して、みるべき点はない。根底にあるストーリー自体は哀しくて痛切で、とてもいい話なんだから、もっと普通に撮ればいいのに、キム・ジウンの下品であさはかな演出がすべてを台無しにしている。もったいない。ただ、撮影のために建設した洋館のセット美術&衣裳の色彩デザインは素晴らしく、また後述するが俳優陣も充実しており、少女映画としては愉しめるので相殺して星3つとする。 ● 優しい母を奪った継母に強烈な敵意を抱く気丈な姉=薔花ことスミ(秀薇)に高校生時代の前田亜季ちゃんという感じのイム・スジョン。1980年生まれだから撮影時23歳ぐらい? お姉ちゃんに頼りきってる妹=紅蓮ことスヨン(秀蓮)に「デビュー当時の池脇千鶴」系のムン・グニョン。1987年生まれの当時15歳ぐらい。 継母と娘たちの対立に何も言えない玉置浩二そっくりな父親に「KT」のキム・ガプス。 そして本作のベスト・キャスト>神経症的な「鬼継母」を演じるのが、秋野暢子に似てる「カル」「H」のヨム・ジョンア。はっきり言って彼女の演技のほうがキム・ジウンのホラー演出より100倍コワいぞ。

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夢幻彷徨(木村威夫)[ビデオ上映]

偉大なる映画美術家・木村威夫の85歳にして初めての監督作品。昨2003年に川崎市民ミュージアムで開催された「木村威夫展」の展示物を、撤去する前に撮影しとこうか、じゃどうせなら俳優を入れてドラマ仕立てに……ってことで製作されたビデオ作品。35分。台詞はなく音楽のみ。ビデオ合成を多用したイメージの連鎖。「劇映画」というよりビデオ・インスタレーション。美術監督だけあって木村威夫には「カット」の概念が無いらしく、幅3mの小舞台で繰り広げられる前衛舞踏を眺めてる趣き。映画としては大したもんじゃないが、木村威夫が美術を担当した「蒸発旅日記」に続いてヒロインを務める(藤繭ゑ改め)藤野羽衣子のパフォーマンス(着衣だけど)を映像に記録しておく、という程度の価値はあるか。

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花咲ける騎士道(ジェラール・クラヴジック)

製作・脚本:リュック・ベッソン

往年の二枚目スターの代表作のリメイク。もとのジェラール・フィリップ版からして能天気な明朗時代劇……ということはつまりバカコメと紙一重のジャンルであるので「TAXi (2)」「WASABI」「TAXi (3)」コンビの資質に合っていたのだろう。ともかくアホとマヌケがた〜くさん出てくる映画である。「カッコイイ二枚目の剣士」が「卑劣な裏切り者」を退治して「バカなお殿さま」の憶え目出度きを得て「じゃじゃ馬ヒロイン」の愛をゲットする話。ヴァンサン・ペレーズはちょっと「ストレートな二枚目」とは言いがたいのだが、フランス映画界には(たぶんアラン・ドロン以来)トム・クルーズにあたる俳優がいないので、まあ、現状ではベターな選択だろう。本来、スペイン語を母国語とするペネロペ・クルスの、コロコロと舌の上で跳ねまわるようなナマイキなフランス語がとてもイイ。アタマをカラッポにしてどうぞ。

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スパン(ジョナス・アカーランド)

スパンとは劇中での用例から察するに「ヤクでイキっ放しの奴」のこと。スピン spin の過去分詞がスパン spun だから日本語だとクルクルパーか。例文>「アイツはエクスタシーのヤリ過ぎでクルクルパーになっちゃったよ」 本作はそんな〈クルクルパーなやつら〉のサイアクな3日間を描いたヤク中コメディ。言ってみればチーチ&チョンのマリファナ・コメディなんかと同ジャンルである。もっとも、ルーズなやつらのルーズな時間を描いてることでは同じだが、本作が監督デビューとなる(例によって「PV界の鬼才」であるところの)ジョナス・アカーランドは、トリップ感覚を表現するのに「レクイエム・フォー・ドリーム」と同様、スプリット・スクリーンや早廻し/コマ落とし、アニメーションを駆使して、しかも本作の場合は「全員がイキっ放し」なわけだから全篇がPV映像という目まぐるしい事態になっている。 ● 舞台となるのはロス郊外の貧乏人地区(劇中人物たちは地元を「town」、ロス市街を「city」と称している) 映画の作りとしては、吹き溜まりのダメダメなやつらが、ダメダメな日常を這いずり回ってるさまを描いて、そのダメダメな切なさを観客が共有することを意図しているわけだが、出てくるのが(美化ならぬ)汚化されたキャラばかりなので、健全な常識人であるおれさまとしちゃあ、どうにも共感しにくいのだなこれが。だいたいセフレ女を丸2日もベッドに手錠で縛り付けたまんま(なにしろトビっ放しなので)すっかり忘れてて、しかもそのことに対して劇中でなんら倫理的制裁も受けないような人物が「主人公」だと言われても感情移入できない。いや、ピカレスク・ロマンならそれでもいいよ。でも本作の場合、作者はこのゲス男の──自分が原因以外の何ものでもない──「切なさ」だの「虚しさ」だのを観客に共有してもらおうと企んでるわけでしょ。だったら、どんなにサイテーな野郎であっても、その欠点を割り引いて愛せるようなエクスキューズを用意してくれなきゃ。 ● だいたい、どうも最近のハリウッドじゃシャーリーズ・セロンが醜女メイクでオスカー獲っちゃった「モンスター」みたいに「積極的にヨゴレるのがクール!」みたいな風潮があるようで、それはたぶん「メリーに首ったけ」のキャメロン・ディアスあたりが嚆矢かと思うが、彼女の場合はザーメン・ジェルで髪を立てててもそれがキュートに見えるというのが肝心な点で、本作で目の下・隈のヤク中女を演じるミーナ・スヴァーリなんて、カレシとおまんこしてる最中にお通じが来てトイレに駆けこみ便器に座って息む姿に(さすがに肛門までは写らないが)便器にぽちゃりと落ちるクソがカットバックされて、スカトロビデオじゃあるまいし「女優」の範囲を踏み越えてるだろそれは。せっかくキレイなものがワザとヨゴレる姿など見たかねえよおれは。 ● その点、素晴らしいのがブリタニー・マーフィーで「8 Mile」に続いてチープなホワイト・トラッシュをキュートに好演(まあ、これが「地」という話もあるが) どんなに安っぽい服を着てても、どんなに蓮っ葉なメイクをしていても「女優」としてのチャームを失わないってのが大事なのだ。役柄はストリップ・クラブのダンサー。編集で誤魔化しまくったダンスシーンもあるにはあるのだが、おいコラ、看板にちゃんと「トップレス・バー」と書いてあんのになぜ脱がない!? ● 主人公のダメダメ君に「天才マックスの世界」とは別人のように薄汚れたジェイソン・シュワルツマン。ほかに「あの頃ペニー・レインと」とは別人のように薄汚れたパトリック・フュジット君とか、いつものように薄汚れたジョン・レグイザモとかいつものようにしょぼ汚れたミッキー・ロークとかいつものようにわけわかんないピーター・ストーメアとかいつものように痛々しいエリック・ロバーツとかさすがに老けたデボラ・ハリーとかインディーズ映画にしちゃ豪華な面子。われらがロン・ジェレミー先生も「ストリップ・クラブのバーテン」という定番ポジションで御出演。あと、ラストにワンシーン出演の「元カノ」役のシャーロット・アヤナがエイミー・アーヴィング/バーバラ・バック系の なかなかのべっぴんさん。この人は「トレーニング デイ」でイーサン・ホークの奥さんを演ってて……おお、「ブルー・イグアナの夜」ではストリッパーの1人だった人口巨乳嬢ですな。 ● 本作はドラッグとセックスという二大厄ネタの宝庫であるので映倫が「R-18」指定するのも致しかたないこととは思うが、ボカシのかけ方がちょっと尋常じゃない。帰って来て(前に、公開されると知らずに買っちゃった)Uncensored Director's Cut輸入版DVDで確認したところ、例えば前述の「女を全裸で大の字に拘束」してるとこなんかは(ストリッパーなので陰毛をトリミングしてるから)生身が見えちゃってるのでボカシも仕方ないと思うけど、テレビゲーム画面の(イラストの)サルがセンズリこいてるとことか、ストリップを見てる主人公の妄想でおまんこに飲み込まれるイラスト場面──イラストだよイラスト。それも写実じゃなくて典型的なイラレ絵(昔でいうリキテックス調)──にまでボカシかけるってのは、ちょっと異常だろ>映倫(証拠写真) 映画館で観てて、踊り子の股間に突然ボカシがかかるので、いったいどんな卑猥なモノが映ってるのかと思ったじゃないか。だいたい「トーク・トゥ・ハー」の巨大造形物(おまんこ)が良くて、なんで本作のイラストがNGなワケ? それとかジョン・レグイザモがテレフォンセックス・サービスに電話する場面で、いきり勃ったちんぽを握りしめてるとこにボカシがかかるので「レグイザモ、漢やなあ。画面で勃起ちんぽ出しかい」と感心してたら、なんだよ毛布ごしに掴んでるだけじゃねえか。はっきり言ってこれらの場面ってボカシてるほうがかえって卑猥だと思うがなあ。 ● てゆーか、本質的な問題は、何度も言うけど本作は「R-18」指定なんだぜ。18歳未満はお断り。観客は全員れっきとした大人なんだよ。それになおボカシをかけるってことは、映倫がこれらの場面は大人にも見せられないほど猥褻だって判断したってことだ。……バカじゃねえの?>映倫。 あ、ちなみにリンクした場面キャプは(映倫の判断によれば)刑法175条に抵触するおそれがあるはずなので、当該画像の閲覧によってサイト訪問者に逮捕その他の不利益が生じても当サイトは一切責任を負えないので悪しからず了承されたい。

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恋愛小説(森淳一)[ビデオ上映]

製作・配給:WOWOW 制作プロダクション:ROBOT

WOWOWのオリジナル企画「ドラマW」の1本として製作されたテレビドラマだが、評判が良かったので劇場公開の運びとなった。まあ「劇場」といっても渋谷シネ・ラ・セットはDLPプロジェクターによるビデオシアターだが。もとがハイビジョン放送/原版だったとすれば(現行のDLPプロジェクターにはハイビジョン解像度はないので)ダウンコンバートしての上映ということになるが、前にBOX東中野で(やはりDLPプロジェクターで)ハイビジョンドラマを観たときは、もっと画像がクッキリしてたような印象があるんだけどなあ。それとブラウン管向けのカラー・チューニングのままなので赤などの原色がドギツいのと、白が青味がかってしまってる。せっかくの「劇場公開」なんだからカラーの再調整ぐらいすればいいのに>小宮山充@撮影。 ● 大学4年になっても進路もはっきり定まらぬ早稲田の法科のノンポリ大学生(死語)の池内博之は、カノジョの平山あやと別れたばかりでムシャクシャしてたところへ、同級生の玉木宏から声をかけられる。同級生…と言っても「ああ、そう言われれば前に同じクラスだったこともあったっけ」という程度の、存在感のない影の薄い男である。玉木は唐突に「バイトでぼくの遺言状を作ってくれないか」と池内に頼む。高額のバイト代に釣られて引き受けた池内は、玉木が独りで住む広大な屋敷に飾られている美術品の資産鑑定を手始めに何度か屋敷に通ううち、ふとしたきっかけで玉木の身の上話を聞くことになる──。 ● その少年は学校で「死神」と綽名されていた。11歳のわずか1か月の間に仲の良い友だち3人が立て続けに事故死してからというもの、クラスの誰もが「死神」と関わり合いになることを恐れた。少年も、両親までが事故死を遂げるにいたって自分の呪われた運命を悟り、世間の誰とも深く関わらず、静かに自分を殺して生きていこうと決心する。親戚を盥回しにされ、ようやく18歳となり信託基金が使えるようになってからは両親の遺した広大な屋敷にたった1人で暮らしてきた。誰とも話さず大学との往復の毎日。だが、そんな死神がある日、運命的な恋をした……。 ● えー、つまり〈ドラキュラの恋〉である。べつにスーパーナチュラルな描写があるわけではないのだが、現代において「純愛映画」を成立させるためのギミックとして主人公に「愛したものが皆、死んでしまう」という残酷な宿命を背負わせているわけである。愛しちゃダメだ。愛したらこの人は死んでしまう。そう理性が告げても、愛する気持ちは止められない。 まるで翼の折れた天使のように主人公の上に落ちて来たカノジョを演じる小西真奈美が素晴らしい。あるいはひょっとしたら……もしかしたらこの人との愛ならば「死神の呪い」に打ち克つことが出来るんじゃないだろうか?──そう、主人公に信じさせるだけのポジティブな力にあふれたヒロイン。「世界の中心で、愛をさけぶ」の長澤まさみがそうであったように、本作の小西真奈美もまた観客の目から涙を絞りとるだろう。しかし関係ないけど小西真奈美(25)と平山あや(20)ってそんなに歳 離れてないようだけど、小西真奈美の芝居をずーっと観たあとで平山あやの「声」を聞くと、いかにもイマドキのコの発声でちょっと萎える。日本語の発声/発音がまったく異なる。もっと腹筋つかって喋れって感じ。まあ、小西真奈美は北区つかこうへい劇団の出身だしな。 ● 原作は「GO」の金城一紀(講談社「対話篇」に収録) 制作プロダクションは「踊る大捜査線」「サトラレ」「海猿」のROBOT。監督はクボヅカ「Laundry」の森淳一。おれは「Laundry」を未見なのだが、本作での森淳一はヴィジュアルに際立った演出を魅せる。といってもMTV的なちゃかちゃかしたソレではなくて、風景の切り取り方が印象的な画作りをしている。小説では難しい映画ならではの視覚的なクライマックスの泣かせも見事。 ● 他の出演は、子ども時代の主人公を引き取ってくれる美しい叔母さんに奥貫薫。そして、じつは子ども時代の主人公を演じた神木隆之介クン(撮影時10歳)が最強。死神の綽名に相応しい色白の美少年で、頬に寂しい影がさしているのだけれど、笑うと可愛いんだこれが。いや男の子ですよ。男の子なんだけど胸がきゅんとしてしまったよ(木亥火暴) ググッてみたら「千と千尋の神隠し」の「坊」の声や「キリクと魔女」の主役キリクの声をアテてるジブリのお気に入りで、ほかにも「仮面ライダー アギト」の謎の少年役とか、テレビドラマでも超のつく売れっ子のご様子。最近ではサザンオールスターズ「彩〜Aja〜」のPVに出てた由。皆さんとっくにご存知でした?