m@stervision archives 2002b

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない

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少林サッカー(チャウ・シンチー)

監督補:リー・リクチー 脚本:チャウ・シンチー&ツァン・カンション(曽謹昌)
武術指導:チン・シウトン 音楽:レイモンド・ウォン SFX:セントロ・デジタル・ピクチャーズ
バッカだねえ。もうほんと惚れ惚れするぐらいバカだねえ。あー面白かった。あんまり面白いんで映画館を出たあと歌舞伎町の広場に何をするでもなくたむろしてる若いやつらを片っぱしからつかまえて「そんなとこでフラフラしてないで『少林サッカー』を観ろ! そこの映画館でやってるから今から観ろ!」と勧めたくなったほど面白かった。まあ、おれごときが宣伝しなくとも映画はヒットしてるみたいで、新宿東急会館では劇場をミラノ座に入れ替えて上映中。初日の夜9時の回でも1,288席の大劇場はほぼ埋まっていた。チャウ・シンチーがついに日本でも認知されたわけだ。嬉しいなあ。ほんとに嬉しいなあ。なにが嬉しいって映画が終わったあと自然に拍手が湧き起こったのだよ。舞台挨拶付き試写会とか先行オールナイトとか初日の1回目じゃないぜ。チャウ・シンチーのファンでも香港電影迷でもない普通のお客さんが、ただ面白い映画が観たくて映画館にやって来て、誰に強制されたわけでもないのにあまりの面白さに感動して拍手したんだぜ。こんな幸せな光景があるかよ。帰りにパンフを買ってたら、隣りでいい年したニイチャンが「少林サッカー」のまっ黄色のTシャツ買おうとしてカノジョから「そんなのいつ着んのよ。アタシ一緒に歩かないわよ」とか言われて、それでも毅然と「いいよ歩かなくて」と答えて買ってんの。偉い。それでこそ男だ。そこのアナタ。そうアナタ。パソコンの前にぼぅっと座ってる場合じゃないよ。今すぐ「少林サッカー」を観に出掛けなさい。

…と、まあ言いたいことはそれだけなんだが、これで終わってしまうとレビュウどころか「映画の感想」にすらなってないので、もう少し書く。 ● 「固い絆で結ばれた義兄弟」が「ゲームの概念を根底から覆すような独自の必殺技」を用いて団体球技を戦うが、そもそも「チームの人数が11人いないんですけど…」という・・・つまりこれは「アストロ球団」のサッカー版である。あなたもそう思ったか。おれもそう思った。そしてチャウ・シンチーもそう思ったはず。日本マンガの大ファンの星爺のことだ。間違いなく元ネタは「アストロ球団」だろう(ギャグに意識的なとこは島本和彦「炎の転校生」入ってるか) ● 香港では2001年の夏休み映画として公開され香港映画の歴代1位(ハリウッド映画を除く)のヒットを記録した。今回はじめて単独で「導演」としてクレジットされたチャウ・シンチーはかなり本気で「万人受けする娯楽映画」を目指している。おそらく(「チャイニーズ・オデッセイ(西遊記)」2部作を別にすれば)かけた金も桁違いだろうし、いつもは3ヶ月ぐらいでチョロチョロっと作っちゃうのに今回は2年という時間をかけて取り組み、そのために2000年には公開作が無かったほど。だが、そこはそれチャウ・シンチーの映画だ。「立派な大作」には成りようもない。とことんクダラなくて、可笑しくて、むろん香港映画だからゲロも吐く。香港がどんどん近代化されて無味無臭の大都会に変貌しても「チャウ・シンチーの香港」はいつだって臭くて汚くて脂でベタベタしてる香港のままだ。ランニングシャツにステテコのハゲオヤジがゴキブリの這いまわる屋台でラーメン食ってるような下町。ババアはうるさくて、可愛い娘っ子も中身はすでにババア化してる。ずうずうしくてチャッカリしてて小ずるくて、でも悪賢くはない、そんな香港庶民の出てくる映画だ。香港人がかれの映画を愛するのがよくわかる。そして日本のOLとかに受けが良くないのも。 ● おれ? おれはもう星組レギュラーのン・マンタ(呉孟達)のオヤジが、屈辱にまみれて もはや「失意」の意味すら忘れてしまった卑屈な元スター選手の役で──「アンディ・ラウの 逃避行(天若有情)」(1990)を彷彿とさせる役で──登場した瞬間から「OK!この映画ぜんぶ許す」モードに突入してしまったのだった。パンフに載ってたチャウ・シンチーがン・マンタについて語るエピソード>[テレビ局で初めて会ったとき(ン・マンタは)廊下に座りこんで3行しかない自分の台詞を読んでいた。食事をして戻ってきたら、まだその台詞について考えている。「台詞は3行しかないのに何故?」と訊いたら、「その3行をどう言えば自分らしくなるかを考えている」と言われた]…ええ話や。 ● チームメイトその他の役にはプロ・アマ・製作スタッフとりまぜてオヤジ・ハゲ・デブ・オタク・奇人・変人などなど(チャウ・シンチーが自分の二枚目ぶりを際立たせるための陰謀かと勘ぐりたくなるような)女受けしないオールスター・キャストが総出演。 敵役「魔鬼隊」のオーナーに往年の大スター(てゆーか、いまやニコラス・ツェーのパパと言ったほうが通りが良い)パトリック・ツェー(謝賢) チャウ・シンチーの大好きな「ヒロイン苛め」は今回も健在で、中国本土のスーパー・アイドルである「決戦・紫禁城」の可愛い可愛いヴィッキー・チャオ(趙薇)をキャスティングしておきながら、「食神」でカレン・モクがやらされた〈醜女メイク〉と「喜劇王」でセリシア・チャンにやらせた〈下品メイク〉をダブル・チャレンジ。さらに終盤でやっと可愛い素顔を出してくれたと思ったら…!? ちなみにそのカレン姐さんとセシリア嬢もヘンテコなヒゲ(!)を付けて特別出演している。 ● 最後に配給のクロックワークスとギャガを褒めておく。ともかくも本作をヒットさせた功績がいちばんだが、日本語吹替版まで作って全国拡大一斉公開で勝負を賭けるのに際して「香港のトム・クルーズ=スティーブン・チョウ主演!」なんてことはせず、また安易に英語版にもせずオリジナルの広東語+北京語バージョンで公開した。偉い! クロックワークスの編集によるパンフレットも、キャストがきちんと漢字名まで表記された至れり尽せりの丁寧なもの(600円) …って、アンタまだそこにいるのか! 早く映画館に行けって。


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穴(ニック・ハム)

イギリスの名門パブリック・スクールの高校生=赤毛のソーラ・バーチと金髪のウィノナ・ライダートム・クルーズマシュー・リラード(一部 仮名)が失踪。18日後に少女ひとりだけが血まみれの姿で帰還する…。ネタバレになるからあまり詳しくは書かんけど出来の悪い「藪の中」ものである。このジャンルを成功させるための鉄則は2つ。1つは「同じ設定の話を複数回くり返すわけだから ひとつひとつのバリエーションが魅力的で、観客を惹きつけるものでなくてはならない」ってこと。もう1つは「プレゼンテーションの方法を工夫する。複数の挿話が順番待ちをしているような印象を与えてはいけない」という2点である。本作の場合、第1点については壊滅的。どの「告白」にも切実なドラマや予想外の展開が欠けていて、観客にとってどーでもいい話になってしまっている。第2点については多少の工夫の痕が見られるが、肝心の「最後の告白」をその人物がする意図がまったく判らないし、そもそもそうまでしてそのことを実行する動機に説得力がない。だって密室で「原因不明の感染症らしき症状」で隣の人間が死んだら「ヤバい。ここから逃げなきゃ」と思うだろフツー? あと、コラ!事件現場になんでバイオ汚染の黄テープとが張られてビニールカバー密閉されてんのか誰か説明しろよ! ● ソーラ・バーチはミスキャスト。この女優ではラストが活きない。この人、巨乳は巨乳なんだけど撮影時まだ10代なのにバスト・トップの位置がすでに40代なんだよな…。 金髪ウィノナに「スター・ウォーズ エピソード1」で(たぶん)アミダラ姫の侍従の1人を演っていたキーラ・ナイトレー。「ノーブラ・セーターのパッとめくり技」あり。 事件を聴取する精神医にエンベス・デイビッツ。 監督は(やはり出来の悪い「藪の中」ものだった)「マーサ・ミーツ・ボーイズ」のニック・ハム。

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u n L O V E D(万田邦敏)

黒沢清・塩田明彦らと共に立教大学の映画サークル「パロディアス・ユニティ」の中心メンバーだった〈遅れて来た新人〉万田邦敏の「宇宙貨物船レムナント6」(1996)以来となる新作。「レムナント」は中篇だったので本作が初長篇となる。 ● ヒロインは市役所勤めの三十路女(森口瑤子 1966生) 受ければ受かるはずの昇進試験も受けず事務職に留まり「自分の居場所」を守って静かに暮らしている。ある日、業務システムを納品に来たベンチャー企業の若社長(仲村トオル 1965生)に見初められて付き合い始めるが、上昇志向の男と世界が噛みあわず自分から別れる。今度はアパートの下の部屋に住んでる年下の貧乏バイト君(松岡俊介 1972生)と半同棲を始めるが、かれにだってやっぱり野心はあるわけで…。「unLOVED」というタイトルはこの、自分の世界を守ることに固執するヒロインを指している。日本語にすれば「愛されない性質(たち)」といったところか。 ● ヒロインの性格同様、たいへんに明解な映画である。作者が伝えたいことは台詞と画によって誤解の余地なく示される。観客は1度として「スクリーンに映し出されたもの」の解釈に迷うことはない。普通の映画にはある「雰囲気ショット」というものが一切なく、すべてのカットが何ごとかを伝えるためにそこに在る。物語の展開は常に前もって伏線で示され、観客の意表を付くことを意図されない。じつに近来まれに見る律儀な脚本なのである(万田邦敏と奥さんの万田珠実の共同脚本) ● ただこれは愛の物語では無いよな。これは人間関係における「政治力学」の話だ。ファスビンダー=オゾンの「焼け石に水」によく似てる。観客が聞き漏らすことのないよう台詞の一語一語が明瞭に発音される演出は、映画というより舞台のよう。愛するもの同士の喧嘩がディベートのように聞こえる台本はこのまま板に乗せられそうなほど。仲村トオルのキャラなんかあまりにステロタイプでギャグに転ぶ寸前。日本映画の風土とは異質な土壌から生まれた能率的で論理的な映画なのである(まあ敢えて言うなら「引っ越してきた男」の顔をはっきりと写さないほうが、後でヒロインと鉢合わせするシーンが効果的になると思ったのと、男2人が待つアパートへ帰るヒロインが「アパート前に停まっているクルマに気付く」インサートカットがあったほうが、帰宅したヒロインが「ただいま」と言わないことに観客が違和感を感じずに済むんじゃないか…というぐらい) ● ヒロインのかたくなな考え方/生き方は(unLOVED な おれにとっては)とてもよく理解できるもので、じっさい途中から「おれが喋ってるんじゃないか」という気さえしてきたが、このヒロイン像に共感できる日本人は非常に限られて…てゆーか、ほとんど居ないんじゃないか? どっちかっつーと不快を感じる観客のほうが多い気がする。それはたぶん「養う/養ってもらう」という意識/無意識による同意が男女の間にあるうちは永遠に理解されないものだ。まあ、おれは「属する世界があまりにも違う」なら違うまんまで共存すればいいじゃないかと思うけれども。 ● 昨2001年のカンヌ映画祭でレイル・ドール賞(って何?)と、エキュメニック新人賞(って何さ?)をダブル受賞したそうだが、なるほどフランス人なら このヒロインに共感できるかも(ちょっと待ってくださいよてえことはおれはフランス人と感性が似てるってことですか!?) 撮影は「みすゞ」の芦澤明子。極端に照明を減らした「いかにも仙頭武則」「いかにもサンセント」な画面は、明晰な内容とスタイルが合っていない。もっと素直に撮ったほうがずっと良くなるのに。 音楽は川井憲次。今回、量的には控えめなんだけど開巻1発目、最初のワンフレーズ鳴っただけで「あ、川井憲次だ」って判っちゃった自分がちょっと厭。


溺れる人(一尾直樹)

妻がバスタブで溺死した。夫は救急車を呼ぶことができず、妻の死体をソファに寝かせたまま夜を明かす。すると翌朝、死んだ妻が目を覚ます。どうやら妻には死んだという自覚がないらしく、2人の日常は何事も無かったように続いていく・・・という予告篇を観て、おおおお!これは「ゾンビ・コップ」ならぬ「ゾンビ・ワイフ」かあ!? やっぱ「ゾンビ・コップ」みたく「狼男アメリカン」みたくだんだんと腐るのか!? 腐っていくのか!?…と期待に胸ふくらませて観に行ったのだが・・・なんだ、違うんじゃん。そーゆー映画じゃないじゃん(…は? なにか?) ● 名古屋の自主映画作家・一尾直樹の初16ミリ長篇。ある日、突然、ふとしたきっかけで夫婦の間が以前とは違ったものになり、部屋には死臭が漂いはじめる…という、監督の離婚体験に基づくのだそうだ。純文学誌に載ってるシュールな短篇を思わせる。長回し中心の静かな静かーな映画。眠たくなった(てゆーか、ちょっと寝た) もっと普通に商業映画っぽく撮ったほうが絶対に面白いのになあ。夫は塚本晋也。妻は片岡礼子。てゆーか、コラ!風呂で溺れてなんで服着てんだよ! いやマジで、あとで夫に「死んだきみはキレイだった。…今まででいちばんキレイだった」と言わせるのなら、絶対に「美しい全裸の溺死体」を見せる必要があるでしょーが。 ● 後ろの席に座ってた女性2人連れが、ごく最近(ひょっとして当日の昼?)に「模倣犯」を観てきたばかりらしく、誘ったほうがもう片方にさかんに謝ってて「ほんとゴメンあんな映画誘っちゃって。てゆーか、あたしあんな不快な映画観たの初めて」とかプンプン怒ってて、おれはフッフッフと思ってたんだけど、いざ「溺れる人」のレイトショーが終わると、どうやらもう怒る気力もないらしく無言のまま帰っていったのだった。ご愁傷さま。てゆーか、なんでこの2本をハシゴする!?

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アザーズ(アレハンドロ・アメナーバル)

脚本&音楽:アレハンドロ・アメナーバル
アメナーバルという人はまだ29歳(!)という年齢のせいもあるんだろうが、たいへんにヤマっ気の強い演出家で、多分に鬼面人を驚かす傾向が強い。そういうところはデビッド・フィンチャーにとてもよく似ている。冒頭いきなり「霧に包まれた広大な屋敷に母子3人だけ」とか「突然 消えた召使たち」とか「子どもたちは光アレルギー」とか「入ったドアを閉めないかぎり次の間のドアを開けてはいけない」とか不自然きわまりない設定が釣瓶打ちされるので、アメナーバルの仕掛けた趣向も見当がついてしまうのだが、ネタが割れてもなお本作が楽しめるのは、戦争に愛する夫を奪われた銃後の妻の「哀しい女のドラマ」がきちんと描かれているからだ。「テシス 次に私が殺される」は才気煥発な23歳の若者が撮った自主映画だった。25歳で撮った「オープン・ユア・アイズ」も比重はドラマよりサプライズにあった。アメナーバルはこの「アザーズ」でようやく大人の演出家としての1歩を踏み出した。現代劇では足枷となりかねないニコール・キッドマンのクラシックな美しさも物語に合致して強く印象に残る。

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メメント(クリストファー・ノーラン)

脚本:クリストファー・ノーラン
新文芸坐でようやく落穂拾い。じつを言うとおれも近ごろ、記憶が消える。昨日のことが思い出せない。だから明日しなきゃいけない仕事をペタペタとPC画面に貼り付けてから帰る。月曜の朝なんか酷いもんで、記憶がすっかり戻ったときにはもう夕方だったりするのだ(いやマジ、マジ) こないだ「お、あそこのコンビニでお茶 買おう」って思ってポケットから147円ちょっきり出して用意してたのに信号 渡ったらもう忘れて、映画館の前まで来て切符 買おうとして「おれはなんで掌に147円 持ってるんだろう?」って思ったときにはサスガに自分に愛想が尽きた(いやマジだって) ● だからこの映画を観て「んなバカな!」と思ったあなたは間違ってる。記憶が15歩しか持たないおれだって、なんとか社会人生活を続けていられるのだ。記憶が10分しか続かなくたって、自分の妻をレイプして殺した男を探し出して復讐することぐらい可能に決まってる。ただ、主人公の行動様式が どー見ても一介の保険調査員じゃないので、おれは「保険調査員という記憶そのものが嘘なんじゃねえの?」と疑ってたんだが、よーするにあれはかなり長期にわたって「探偵の真似事」を続けてるってことなんだな。 ● ラストシーンから始まって時間がだんだん遡っていく…という韓国映画「ペパーミント・キャンディー」と同じ構成(公開はあちらのほうが少し早い) とは言っても、あちらは直接には連続しないシークエンスを逆順に描いたものだが、本作は2時間の映画を10分ごとにカットして逆順に繋いだようなスタイル。つまり「シークエンスの尻」が「ひとつ前に観たシークエンスの頭」に繋がったところで、また巻き戻るのである。よくミステリ/サスペンス映画のラストシーンで「物語の発端となった事件」がフラッシュバックされますわなあ。あれを細かくやってるわけである。登場人物が今のシークエンスで言った言葉が、次の(物語時間的には「前」の)シークエンスで嘘と知れる、とか。もちろんそうした仕掛けは映画全体にも仕組まれている。監督・脚本のクリストファー・ノーランは31歳の新人。言ってみればコロンブスの卵で、そのネタがこの程度の話でいいのか?という疑問も無きにしも非ずだが、まあ、やったもん勝ちですな。感心した。だけど、これをやるなら絶対にラストシーンは主人公がそれと知らず[インシュリンの過剰注射で奥さんを殺して]しまう場面だろ(そーゆー話だよね?) 同じペーパーバックを繰り返し繰り返し読んでいたのは[主人公自身]でしたって場面もあったほうが。 ● なお、クリストファー・ノーランのデビュー作「フォロウイング」は観には行ったのだが(寝不足だった所為で)ぐっすり寝てしまったのでレビュウは無し。ちなみに、ジョー・パントリアーノってヒゲ生やしてると(最近の)マイケル・ビーンと区別がつかないのはおれだけ?

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うつつ U T U T U(当摩寿史)

連城三紀彦の短篇ミステリ「夜の右側」(集英社文庫「美女」所収)の映画化。深夜の駅前。生憎の俄雨に立ち往生していると妙齢の和服美女が赤い傘をさし出して 良かったら御一緒に? 同じマンションの住人かしら これ幸いと相合傘。ところが女は男の家に上がりこみ「わたしの夫とあなたの奥さまが浮気をしてるのです」と言いだす…。「C(コンビニエンス)・ジャック」(おれは未見)以来10年ぶりの公開作となる監督・脚本の当摩寿史は「レベッカ」や「断崖」に連なる夫婦間の疑心暗鬼サスペンスを丁寧に紡いでいくが、一方で下品なカメラワークは目障りだし、煩わしい音楽は耳障り。もっと普通に撮れないものか。天井から壁に血が漏れてくる(という幻想を視る)なんて安っぽいホラー映画のような演出はかえって逆効果だと思うが。それとチラシに曰く「当摩寿史監督がさらにひと捻りある結末を用意した」って、定番の結末が済んだ後の10分は蛇足もいいとこ。なに考えてんだろ。ケツの10分をカットして、代わりに「不倫が犯罪へと飛躍する」ところをもっときちんとやっとけば ★ ★ ★ ★ 付けたのに。ヒロインに宮沢りえ。翻弄される主人公に佐藤浩市。他に大塚寧々・小島聖らの出演(ヌードはありません)

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アリ(マイケル・マン)

退屈。オープニングで流れるサム・クックの歌が終わる頃にはもう飽きてしまった。まあ、おれはボクシングにはまったく興味のない人間で、年齢的には見ててもおかしくないのだが、モハメッド・アリの(ボクシングの)試合は一遍も見たことがない。評判の高かったドキュメンタリー「モハメド・アリ かけがえのない日々」も観てない。だから物語の節目節目に描かれるアリの試合シーンにもエキサイトすることなく「ああ、ボクシングの試合だなあ」とマヌケな感想を抱くだけなので、マイケル・マンの演出に乗り損ねたってだけかもしれないけど。 ● 今回、撮影監督が「刑事グラハム 凍りついた欲望(レッド・ドラゴン レクター博士の沈黙)」「ラスト・オブ・モヒカン」「ヒート」「インサイダー」と、ずっとコンビを組んできた鬼才ダンテ・スピノッティから、「スリーピー・ホロウ」「大いなる遺産」「雲の中で散歩」のエマニュエル・ルベッキに替わっていて、ルベッキというカメラマンは「緊張みなぎる映像」というより「幻想的なマジック・リアリズム」の人なので、ちょっと肌合いが合わなかったか。加うるに、今回は試合シーンなどにHDビデオカメラを多用していて、その汚い画面が出てくるたびに「ちっ」と舌打ちして、気持ちがスッと醒めてしまうのだ。だいたい(最もビデオで再現するのが難しい肌色を持つ)黒人映画をビデオで撮るなんて馬鹿げてる。 ● 以上2つの理由で おれは感情移入を阻害されていて、だからこの映画を正しく受け止めていない可能性が高いのだが、そんな おれの目にはマイケル・マンは2時間40分の長尺に対するグリップを失っているように写ったし、ウィル・スミスが何を考えているのかはまったく伝わってこなかった。「チャンピオンベルトの不当なる搾取とその奪回」を話の中心に据えたのならば、ブラックモスリムとかマルコムXの件りを削って、代わりにもっと「アリの苦境」を描くべきだったんじゃないかと思う。 ● 唯一「お、いいな」と思ったのが、誰よりアリに対して辛口でいながら、人一倍アリの味方であった(カツラ疑惑の)スポーツ・キャスターで、いい役者さんだなあ、どっかで見たことあるなあ、誰だっけなあ…と思ってエンドロールで確かめたらジョン・ヴォイトだったので唖然とした。この人は「ヒート」で劇的な復活を遂げたわけだからマイケル・マンの新作に出ててもおかしくはないが、それにしても顔ぜんぜん違わねえか!? よほどヘヴィなメイクアップをしてるのか。「パール・ハーバー」の「総統、歩けます!」といい、だんだんピーター・セラーズ路線になってきたなあ。<違うって。

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ブレイド2(ギレルモ・デル・トロ)

製作:ウェズリー・スナイプス 武術指導:ドニー・イェン
1作目は おれはちっとも面白いと感じられなかったのだが、いや、今度のは素晴らしい。もはやストーリーなんかどーでもよくて、ただひたすらカッコいいアクションを魅せることだけに──より正確に言えば、ただひたすらカッコいいおれ様を魅せることだけに全精力を注力したウェズリー・スナイプスの「おれ様」映画。ひとつアクション決めるたんびに歌舞伎役者のように見得を切る。バカだねえ(←褒めてる) 強さも尋常ではなく、観客は一瞬たりとも「ブレイドが負ける」という心配をする必要がない。 ● 筋は有って無きが如し。冒頭でアニキが「常識は捨てろ、ヴァンパイアは実在する」と言い切ってるんだから細かいことをツッコンんではいけない。今回の敵はヴァンパイアを餌にするノスフェラトゥに近い人外=リーパーズ(死神族) ブレイドは成り行きから、ヴァンパイア族との戦いを一時休戦してヴァンパイア族武闘派の選抜部隊(ブラット・パックならぬ)ブラッド・パックと共闘することになる…ってダジャレかい! いや、だから「そんなの勝手にヴァンパイアを喰い尽くしてくれるんだから放っときゃいいじゃん」というツッコミは禁止だってば。 ● 監督は「ミミック」のギレルモ・デル・トロ。チェコのプラハ・ロケによるおどろおどろしいヴィジュアル・センスの統一には多大な貢献を果たしているが、現場での立場は香港映画でいう執行導演で、実際の全権監督はウェズリー・スナイプスその人だった模様。また、武術指導に香港からドニー・イェンを招いただけあって前作以上の日本刀アクションを堪能できる。中盤の、ブレイドのアジトを襲ってくる「謎のニンジャ&くノ一」との戦いは全篇の白眉。だけどクライマックスのアクションが(ドニー・イェンの振り付けかどうか不明だが)突然、プロレス技のオンパレードになっちゃうのは何故!? ブレーンバスターから始まってトップロープからのエルボー・ドロップや、はてはジャイアント・スウィングまで! でもゾンビに関節技は効かないと思うぞ。 ● ヴァンパイア族の美しき戦う王女に「テイラー・オブ・パナマ」の半顔火傷の美しき女闘士 レオノラ・ヴァレラ。本作でもやはり顔に火傷を負うのはファン・サービスなのか?(どんなサービスだよ!) ブレイドに敵意を燃やすブラッド・パックのリーダーにロン・パールマン。 ブレイド兄貴の「人間のパシリ」に「処刑人」のノーマン・リーダス。 前作で死んだはずの「ブレイドの後見人」クリス・クリストファーソンもちゃっかり復活している。 唯一、おれがどうしても不満なのは…なぜトレーシー・ローズが出てないのだ!?

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ミミック II(ジャン・ド・スゴンザク)

「人間に擬態(ミミック)する巨大ゴキブリ」という基本アイディアが良かったのだろう、ギレルモ・デル・トロの1作目は「都市の闇」を描いて、B級モンスター映画としてはたいそう面白かった。それで続篇製作を決定したはいいけれど、1作目のヒロイン=ミラ・ソルヴィーノにすげなく断られて、仕方がないので前作で「ヒロインの助手」を演ってた女優をメインにして製作された、スピンオフと言ってもいいような「続篇」である。一応「ミラマックス作品」なのだが、B級よりはC級に近いプロダクション(=撮影照明セット美術その他)から察するに、アメリカではゴーサインの時点で「ビデオ・ストレート」と決まっていたのだろう。 ● 内容は、まあ前作の縮小再生産みたいなもので、連邦衛生局を辞めて今は小学校の先生をしてる独身ヒロインに、前作で駆除されず1匹だけ生き残った巨大ゴキブリ「ユダの血統」が最後まで観客には明かされない何らかの理由で影のごとく付きまとい、言い寄る男どもを次から次へと抹殺する。で、最後まで観客には明かされない何らかの理由でユダの血統の絶滅を目論むアメリカ陸軍がいきなり登場して、巨大ゴキブリを小学校に閉じ込め、バルサンを焚きました…という話。いやマジだって。 ● ヒロインを演じるアリックス・コロムゼイは、ロコツに地味な脇役顔なので主役を演じるのはおそらく後にも先にもこれ1本きりだと思われるが「予算がないなら智恵を使え」とばかり一風 変わったキャラクター造形が成されている。すなわち、昆虫ヲタクで、部屋の中は虫や爬虫類だらけ。男とデートしても昆虫の生態の話しかしないから、寄って来る男たちも自然ちょっと変わり者ばかりで、でも本人には「なんで自分にはヘンな男しか寄って来ないのか」という自覚がなくて、だからいっつも「Oh God, I'm a wacko magnet!(んもう、あたしって変態磁石なワケ?)」と嘆いてる。そんなカノジョを物陰から見守る「白馬の騎士」が巨大ゴキブリって…哀しすぎる(シ立) いつもポラロイド・カメラを持ち歩いてて、男にフラれた日の「自分の顔」を撮って洋服ダンスの扉の裏に貼ってて、その写真がもうほとんどドア裏を埋め尽くしてる。で、じつはこのポラロイド・カメラのフラッシュが後で、光を嫌う巨大ゴキブリから身を守る武器となるのである(!) な? 智恵はこういう風に使うものなのだよ。こうしたものを好き好んでみる観客にはそれなりの満足が得られる仕上がり。監督はテレビのカメラマン出身のジャン・ド・スゴンサク。


DOG STAR(瀬々敬久)

ピンク映画の鬼才・瀬々敬久の新作。交通事故で死んだ盲導犬が「善行のご褒美」として「仔犬の頃の幸せな想い出」とともに在る当時の飼い主(現在は保育園の保母さん)と人間の姿で再会することを許される、という「天国から来たチャンピオン」を思わせるファンタスティックなラブ・ストーリー・・・から想像される平易なエンタテインメントになっていないのだ これが。出来上がったものは「生きろ」といいつつ、死の臭いが濃厚な瀬々敬久 独特の輪廻転生ファンタジーなのである。瀬々は「作家の誠実さ」というものを勘違いしてないか? 「トヨエツ&井川遥 主演」で「新宿テアトル・タイムズスクエアの柿落とし番組」というパッケージをどう考えているのか。なぜこんなにも沈んだトーンにしなきゃならんのだ。なぜもっと「普通の映画」として撮れない? 信じられないことに本作はコメディですらないのだ! なに、コメディとして撮ったつもりはない? バカ言ってんじゃないこの話でコメディ以外の撮り方があるものか。この100年なにを観てきたのだ!? ● プログラム・ピクチャーとしてのピンク映画の枠内ならば、多少の冒険は大目に見られるかも知れないが、1本1本が勝負の一般映画ではそれは許されない。まず「商品」としてしっかりしたものを作ってから、作家性を出せよ。「DOG STAR」は「作家としての自分」には誠実だとしても、商業映画監督としては映画に対する背信行為である。よって星1つ。最低評価。チャウ・シンチーかアダム・サンドラーでリメイク希望。 ● 監督・脚本とも瀬々敬久。原作はないようだ。まず前提として「犬の飼い主に対する愛」と「男女の愛」はまったく別のものだと思うが、この映画ではそこが最初から最後まで曖昧なまま。トヨエツとヒロインが結ばれたらそれはすなわち「獣姦」なわけだが、そこのところもボカしたまま。つまりこの脚本を書くとしたら最初に解決すべき重要な問題から逃げてるわけだ。プロの脚本としては失格だろう。 ● おれ「動いてる井川遥」を初めて観たんだけど、そんなにいいかい、この人?(男性週刊誌の中吊りじゃ大人気だけど) あと、この女優さん変な声だよな。豊川悦司も独特の声なので、ラブ・ストーリーで主役2人が変な声なの。変なの。

ということで本作でオープンしたテアトル・タイムズスクエアについて。といっても此処にあった東京アイマックス・シアターの客席とスクリーンはそのまま使用。アイマックス専用の70ミリ映写機を通常の35ミリ映写機に入れ替えただけ。だから(70ミリ→35ミリの比率分だけ縮小されるものの)スクリーンがとてつもなく巨大。新宿でいえばプラザ劇場やピカデリー1クラスのサイズだと思う。客席の傾斜も新宿東映パラス2並みにキツいのでスクリーンが目の前。(スクリーン裏の)スピーカーの音もダイレクトに迫ってくる。うわー。洋画をやれよ洋画を!(「DOG STAR」はテアトル新宿で充分) 日劇チェーンは新宿プラザで観られるからいいけど、日比谷スカラ座チェーンの作品をやりなさいよ是非。絶対に歌舞伎町や新宿文化より客が入るぞ。 ● なお、改装に伴って従来の広いロビー部分に美容院がテナントとして入ったので「映画館のロビースペース」はゼロ。アイマックス時代のように、新宿御苑の大パノラマを観ながら座って待ってたり出来ないのでご用心。


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ハムナプトラ外伝
ロック様の 激闘!蠍王の伝説(チャック・ラッセル)

製作&ストーリー&脚本:スティーブン・ソマーズ
クールな邦題のとおり「ハムナプトラ」シリーズからのスピンオフである。「ハムナプトラ2 黄金のピラミッド」のプロローグで語られた〈蠍王〉が王位に就くまでの物語。すごいなあ。サブキャラをメインにしたスピンオフがハリウッドで作られるのって「レッドソニア」(1985)以来? テレビでは「女戦士ジーナ」(1995-2001)って例があるけど。…って、あれ? なんでふんどしファンタジー(ヒロイック・ファンタジーとも言う)ばっかなんだ!?(そういやアシュレイ・ジャッドの「キャットウーマン」てのはどうなっちゃったのかね?) ● エジプトの砂漠の風景を予測していると、意表をついて雪山から始まる(脚本家がパラマウント映画と勘違いしてたとか?) サモア系アッカド人の生き残り ロック様は兄の山拓と組んで「雇われ暗殺者」として糊口をしのいでいたのだが、愛する兄の山拓を、憎っくきゴモラの町の王に殺されて復讐を誓う…。 ● 「SFXアドベンチャー」と形容したほうがよかった「ハムナプトラ」2作と違って、人気プロレスラーを主演に迎えた本作はあくまで肉弾アクション中心。もちろんCGも使われているが「SFXで驚かす」というのではなく、肉弾アクションをバラエティ豊かに魅せるための彩りとして。なにせこの映画のヒーローは主たる移動手段が「屋根を突き破って落ちてくる」だったりするのだ。「剣と魔法」の世界から「魔法」の要素をほとんど抜いて胸筋と腹筋と二頭筋をたっぷりとブチこんで、ついでに女性キャストから衣裳をほとんど剥ぎ取ったらこうなる。ヒロインの「中国系ハワイアンの預言者」を演じる(サモ・ハン大哥と「L.A.大捜査線 マーシャル・ロー」で共演してた空手黒帯の)ケリー・フーなど、衣裳は「大胆ふんどしビキニ」か「サイド全露出の薄布1枚」か「全裸(乳首非露出)」という徹底ぶり。両面テープ大活躍って感じ? もちろんふんどしファンタジーには必須の水浴み場面もある。いや素晴らしい。無名の新人でもないのに よくOKしたなあ>ケリー・フー。よくよく考えてみると──いや、考えちゃいけない映画だってのは承知してるんだけどさ──この話って結局「処女性ゆえに未来が視える女預言者」が自由におまんこを謳歌したいがために多くの血が流れたんじゃないの?(彼女自身の破瓜の血も) だって映画の始まったときとラストで彼女の境遇はまったく同じなんだよ・・・隣りにいるのが精力絶倫のサモア人だってことを除けば。 ● 蠍王を助太刀する「ヌビアの族長」にマイケル・クラーク・ダンカン。ポスターに載ってるコビトの黒人って誰だろ?見たことあるなあ…と思ってたら、このおっさんだったか。あれだけの大男がコビトに見えるってのはポスターのレイアウトに問題ある気がするぞ>UIP宣伝部。てゆーかリメイク版「サイコ」に続いてまたもポスターのコピー(WARRIOR. LEGEND. KING.)を訳さないのは何か理由があるのか? それと今回なぜかケリー・フーを「ケリー・ヒュー」表記してるんだけど、中国系で「ヒュー」ってどんな苗字だよ!?(女武星の先輩 シベール・フーと同じ「胡さん」じゃないのか?) ● 今回、シリーズのオリジネーターのスティーブン・ソマーズは製作&脚本のみ。監督は「エルム街の悪夢3 惨劇の館」「ブロブ 宇宙からの不明物体」「マスク」「イレイザー」「ブレス・ザ・チャイルド」のチャック・ラッセル。ロック様の生みの親 WWF のオーナー(※こないだパンダの団体に裁判で負けて WWE と改称)ビンス・マクマホンJr.が(たぶん名目だけの)製作総指揮。太鼓指導にショー・コスギ、第2班撮影にヒロ・ナリタの名前があった。 ● 言うまでもなく知的レベルは最低。本作を観てもあなたの人生にこれっぽっちも寄与しないし、じつのところ「肉弾アクション」としてもそれほどの出来じゃあないのだが、1時間半の時間つぶしとしては充分でしょう。ほんとはこれで「卑劣な悪役」が狂乱の貴公子 リック・フレアーだったらサイコーだったんだがなあ。ともあれ年内にも公開されるという続篇「呪われし者の女王」(アリーヤ主演)が楽しみだ(←ビミョーに間違ってます)

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スパイダーマン(サム・ライミ)

まるで明朗青春コメディと形容しても差し支えないような、明るく、健全な、スーパー・ヒーローもの。他の映画化作品でいうと2以降の「スーパーマン」シリーズにいちばん近い印象。ティム・バートンの「バットマン」以来の「屈折して、苦悩してないとヒーローではない」みたいな風潮を、元来の、誰もが楽しめる、観ていて楽しい、万人向けのエンタテインメントに戻した…という意味では、夏休み映画の先陣を切って「スター・ウォーズ エピソード2」公開までのボックスオフィスを征するに相応しいまっとうな娯楽大作である。 ● じゃあなんで星が5個 並んでないのかというと、おれが原作コミックスも昔のTVシリーズもまったく見たことが無く、スパイダーマンというキャラに何の思い入れも無いってのもあるけど、まあこれは「ダークマン」や「XYZマーダーズ」の監督がついにアメコミの看板作を映画化するってことに間違った期待を抱いてた…っちゅう、よーするに、今まで自分だけの親友だと思ってたコが急に人当たりが良くなってクラスの人気者になっちゃったことに対するひねくれオタクのひがみ心ですな。てゆーか“マッチョマン”ランディ・サベージはすぐ分かったくせに、リングアナがブルース・キャンベルだって気が付かなかったおれにゃ、そんなこと言う資格自体ないのかも(泣) ● SFXはジョン・ダイクストラ率いるソニー・ピクチャーズ・イメージワークス。ま、所詮は「スチュワート・リトル」の会社なので、NYの摩天楼を再現した背景画像は素晴らしいが、肝心のスパイダーマンがCGとスーツ実写部分の差があり過ぎて興醒め(スウィング・シーンのドライブ感はなかなかのものだけど) そのスパイダーマンに、謎めいた存在感を得意技とするトビー・マグワイアはまさにハマリ役。 赤毛のガール・ネクストドア=キルステン・ダンストは(おれはこの女優さんとっても好きなんだけど)肝心のラストの芝居どころとかえらいブスに写ってませんか? 悪役のウィレム・デフォーは「バットマン」のジャック・ニコルソンのレベルまでは行ってないものの、鏡の前での一人二役芝居(鏡に写った凶悪な人格と、振り向いた時の気弱な人格を合成を使わずにその場で演じ分ける)とか笑かしてくれるし、ギャラの分の仕事はしてるでしょう。感謝祭のディナーに遅れた理由を問われて「Eh, work is a murder.(仕事が殺人的に忙しくてね)」

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パニック・ルーム(デビッド・フィンチャー)

だってデビッド・フィンチャーだぜ。絶対なんかあるって思うじゃん? おれなんか最後の最後まで、絶対に「ヒロインの別れた夫」が黒幕で、じつは経営する会社が倒産寸前なので、ジョディに慰謝料を払わなくていいように&前の住人の隠し財産を奪うために、すべてを仕組んだんだと思い込んでたぞ。でもって最後、ジョディが隠し金庫を開けると、中に入っていたのはジョディ自身の生首。自分の首を手に呆然とするジョディの周囲で、パニック・ルームの堅牢なはずの外壁(=それまで「現実」と思っていたもの)が音を立てて崩れていく。 ● …と、まあ、おれの妄想はさておき、実際の映画は拍子抜けするほどヒネリのないストレートなサスペンスなのだった。つまんなくはない。だけど「パニック・ルーム」と題してるわりには、そのパニック・ルームにゾクゾクするよな「秘密基地っぽさ」ちゅうか「メカッぽさ」が無いのが物足りないし、後半の脚本がぐすぐず。起承転結の「転」と「結」がしっかりしてないから締まらないのだ。反撃に転じたヒロインの「機転」に悪者が「(あの作戦は)おれたちがやっとくべきだった」…って、アンタがそれを言うかね!? ポスターにはデビッド・フィンチャーと同格で表示されてる脚本のデビッド・コープは小学生のときの理科の授業をサボってたみたいだから教えちゃるけど、プロパン・ガスは空気より重いから部屋の「下」に溜まるんだよ。あんな状況で点火したら間違いなく大火傷で爆死だぞ。あと序盤に「外からパニック・ルーム室内に話しかけることは出来ない」って設定で延々と引っ張っといて、終盤になったら突如としてインターホンで通話してるじゃねえか! てゆーか「部屋の設計者」がその事をなんで知らんのだよ? てゆーか、撮影中に誰か気づけよ矛盾に。 ● この話は「弱そうに見えたヒロインが必死の反撃をする」から面白いはずなのに、ジョディ・フォスターではイメージが最初っから強すぎて意外性がない。「悪者3人」より「ヒロイン1人」のほうが強そうなんだもん。 どうせフォレスト・ウィテカーを使うんなら「トレーニング・デイ」のデンゼル・ワシントンのような使い方もあったはずなのに、ここでもイメージどおりの「じつはイイ人」で面白くもなんともない。あと、この2人のラス前のカットの「思わせぶりな表情」はいったい何だったの? ● 唯一、文句なく素晴らしいのがオープニング・クレジット。ニューヨークの街の中空に巨大な3D-CGのクレジットが飛行船のように浮かんでいて、ビルのガラス窓にもちゃんと映り込んでたり、それがさまざまな景色をバックに、さまざまなパースで出てくる。いつも「読めないクレジット」ばっかり出してるフィンチャーとも思えない明快さ、…って、そうか何から何までいつもと違うデビッド・フィンチャーなのだった。

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KT(阪本順治)

熊井啓や山本薩夫の左翼社会派サスペンスを別にすればひょっとすると日本映画初かもしれないコスタ=カブラスばりのポリティカル・サスペンスの力作。韓国の現職大統領が実名で登場し、陸上自衛隊の関与が明示されるという映画を、とにもかくにも(韓国ロケまでして)作り上げて公開したプロデューサー 李鳳宇(シネカノン)と阪本順治に、まずは敬意を表したい。金を出した毎日放送も偉い。これを突破口として日本映画に骨太の作品が続くことを願ってエールを★1つ贈っておく。 ● 結果を知っていてもなお、大統領候補 拉致のサスペンスには見応えがあり、男たちのぶつかり合いのドラマも熱い。笠松則通カメラマンによる(ネガ銀残しの)色を落とした画面にも力がみなぎっている。本作最大の欠点は主人公の、佐藤浩市 演ずる陸上自衛隊 陸幕2部 別班(つまり私服のスパイだ)の人物像に説得力が無いこと。自衛隊員にもかかわらず職務の範囲を踏み越えてKCIAに手を貸すようになる軍人であることを誰からも求められない軍人のジレンマ。予告篇にもあるが「これはおれの戦争なんだ!」って、ふがいない自衛隊上層部と国と国民に絶望したからって、いきなり「他国のスパイの手先」になるのはちょっと飛躍が過ぎる。アクション映画の悪役ならば──たとえば「ザ・ロック」のエド・ハリスとか「プローン・アウェイ」のトミー・リー・ジョーンズなら──これで充分だが、佐藤浩市は本篇の主人公なのである。観客の共感、少なくとも理解…が得られなくては娯楽映画の主役たり得ない。 ● 脚本は荒井晴彦。じつは本作の公開に合わせて、荒井が編集長を務める借金雑誌「映画芸術」が通常号をひとつ休止して「KT特集」別冊を出しているのだが、A4判136頁の全誌面を費やして言ってることは、ただひとつ。「阪本のクソガキが現場で勝手に脚本を改悪して名作を台無しにしやがった!」 そのために原脚本を掲載して、さまざまな執筆者に脚本と映画版との比較を依頼。丸山昇一・高田宏治・荒井晴彦という「過去に阪本順治と組んだ脚本家による座談会」なんてものまである(!) もう、じつに恐るべき負のエネルギーである。実生活では絶対に付き合いたくないタイプというか、そんな暇があったら新作 書けっちゅうか、私怨の産物に1,500円の値札を付けて売るなよ、というか…。 ● まあ、でも荒井晴彦の言ってることは大すじ間違ってなくて、掲載された原脚本を読むと、主人公の動機も納得できるように設定されているし、唐突な展開しかも中抜けに思えた主人公とワケアリ韓国女とのロマンス(←言うまでもなく荒井晴彦いちばんの得意分野である)も全篇を通じてきちんとフォローされている。だが、阪本順治はそうした構成をほとんどすっ飛ばして「現場の生理」に忠実に演出してしまう(故・相米慎二と似た資質かも) たとえば阪本の前作「新・仁義なき戦い」のレビュウで、おれは「いちばん面白くなりそうな芽のあるキャラクターは(「愚か者」の真木蔵人の転生ともいえる)情けねえチンピラ・村上淳だったではないか」と書いた。これについて同作の脚本家・高田宏治が先述の座談会で明言している。曰く>『新・仁義〜』で言えば、私はチンピラの村上淳と女の話を最初から最後までずっと書いていた。借金取りに行ったとき、挨拶したら九官鳥だったとか。私の中では九官鳥を下げて女が歩いているところがラストだった。そのくらいチンピラと女の話で通してたのに、映画ができたらワンシーン半くらいになってた…と。なに自分の慧眼を自慢してるの? もちろんじゃん。自慢してんだよ。 だから、「どついたるねん」や「顔」の例を挙げるまでもなく阪本順治の映画は役者との出会い次第なのだ(べつにそういう演出家を否定する気はないけど) ● 「新・仁義なき戦い」との明らかな違いとして明記しておくが、今回、台詞は一語一語に至るまでハッキリと聞き取れたし、布袋寅泰の音楽を「煩い」とはまったく感じなかった。サスガは橋本文雄、録音技師の神様ですな。 ちなみに在日青年役の筒井道隆が国士舘にカラまれる場面で上映されていたのが和製テロリスト映画の最高傑作「仁義なき戦い 広島死闘篇」で、ロケに使われた汚ねえ映画館が旧・中野ヒカリ座である。


模倣犯(森田芳光)

モウホーハン」って言うからてっきりホモが犯人の映画かと思ったら違うのね。では何の映画?…と聞かれるとちょっと答えに困る。これいったい何の映画なんだろう? ミステリではない。中居正広が犯人であることは宣伝段階から明らかにされているし、劇中で かれは最初から「犯人」として登場する(といっても登場するのは開幕30分以上も経ってからなのだが) さりとて倒叙ミステリとも呼べないし、そもそも森田芳光は「犯人がいつどのように捕まるのか」というサスペンスを最初から放棄している。 ● では犯人の人間性を描いた作品なのだろうか。「選民思想の傲慢な処刑者」といって真っ先に思い浮かぶのは「野獣死すべし」の伊達邦彦だが、1959年版の仲代達矢や1980年版の松田優作と較べると、中居正広の演じる「ピース」には観客を惹きつける力が致命的なまでに欠けている。「人間性の感じられない薄っぺらなテレビタレント」に見えることを意図したキャスティングなのだろうが(これはおれだけの特殊事情なんだが)テレビを観ない観客には意味がない。 ● おそらくはそうした「底の浅さ」や「薄っぺらさ」あるいは「動機となる感情の欠如」に象徴される現代日本を描いた作品…ということになるのだろうが、森田芳光はいたずらに「表層的な情報」や「意味ありげな記号」を羅列するばかりで、結局のところ何も成し遂げていない。連続ドラマの冒頭の「あらすじ紹介」のようなスピードと密度で映画は進み、ブッ飛んだクライマックスに至っては、あまりにエキセントリックな描写なので それがはたして現実として描かれたことなのか判断に迷うほど。い、い、いまのは何だったの? それでスパッと終えてしまえば、それはそれで潔かった気もするが、みずから脚本を書いた森田芳光はさらに突拍子もない結末をつけて、観客を唖然とさせたまま悠然とクレーンアップしていくのである。これ、たぶん監督の脳内では「パーフェクトな傑作」と写っているんだろうが、そう思ってるのは あなただけ。「なぜボクのレベルまで来てくれないんだ」…って、そんなん だぁれも行けませんて。 ● だいたい、画や見せ方の演出に凝る間があったら、もっとちゃんと演技をつけろと言いたい。あの木村佳乃の「物語における自分の役割の変化」にまったく無自覚なヘンテコな一本調子のエセ「昔の日本映画」演技はなんなんだ? それと「孫娘の秘密」とか「ピースの咳」とか、自分で張った伏線なんだから責任持って回収しろよ。 ● ソニーのHD1080/24Pビデオカメラ/フィルムレコーディングによる画質は、ほとんどの場面を加工しまくってるので気にならず。ただ、東宝はこれからも「ビデオ作品」の公開を続けるつもりなら冒頭の「自社ロゴ」ぐらい ちゃんとデジタルで作り直したらどうだね みっともない。

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少年の誘惑(ヤン・シン)

「不実の愛、かくも燃え」のムービーテレビジョン製作の中国映画。老人が美しい少年誘惑される話かなんか…かと思ったら、少年友だちの姉ちゃんに誘惑を感じる話だった。てゆーか、やっぱ変だよなあ?>この会社の命名センス。 ● 舞台となるのは北京の下町。文化大革命の下放政策で大人がかたっぱしから田舎に送られちゃったので、町に年寄りと子どもしかいなくなってしまった1973年の夏休み。ランニングシャツに半ズボンの やや悪ガキ小学6年生(推測)が、近所の仲良しの小4(推測)といっつもツルんで遊んでるうち、もう小6だから色気づいてきて、そいつの高校生(推測)のキレイな姉ちゃんの胸元とかシミチョロとか昼寝してる太腿とかが気になって仕方がない…という、いわば中国版「マレーナ」あるいは北京下町版「岸和田少年愚連隊」なんだけど、この映画が凄いのは(中国映画にもかかわらず)構成要素がエロだけで成立してる点である。1時間12分のあいだマセガキが友だちの姉ちゃんのブラチラや太腿を盗み見て小っちゃいちんちん勃ててるだけ。行水を覗くシーンがクライマックスなのである。変な映画。途中で小4のほうが鏡に向かって姉ちゃんのブラウス着てスキンクリーム塗ってうっとりするシーン(=チラシの絵柄)があるので「おいおい、そっちにも行くか!?」とタマげたら、これはその場かぎりの悪戯心だったようで安心した。小6と小4の男の子同士のベッドシーンとか見せられても困るもんなあ。もちろん脚本は無審査。中国国内での上映不可。 ● 監督・脚本は1963年生まれの新人 ヤン・シン(楊[日斤]) 姉ちゃん役の、撮影時24歳 タオ・ロン(陶蓉)は着替えシーンでの乳出しあり。 あとエンドクレジットによると「主人公(成人時)」と「親友(成人時)」という配役があるんだが、そんなシーン無かったぞ。日本向け編集版か? それと政治性を省きたかったのか知らんが、字幕で「父ちゃんは出張で田舎に」って、出張じゃねえだろ出張じゃ。


愛の世紀(ジャン=リュック・ゴダール)

今ごろ。シアター・イメージフォーラムにて。観たかったのはその後のレイトショーの「少年の誘惑」なんだが、せっかくの巡りあわせだし、たとえハズレても1時間38分と短めなので食わず嫌い克服にチャレンジしてみた。 ● で、観たのだ。いや1時間38分の長かったこと。感想を一言でいうなら──なぁに言ってんだか>ゴダール。 「映像によるエッセイ」といえば聞こえは良いが、よーするに「年寄りの繰言」じゃんか。なにやらワケのわからぬことをブツブツと呟く道端のホームレスや終電の酔っ払いと同類。ゴダールはインテリだから言ってることが高尚そうに聞こえるので、それと気が付かないだけ。こーゆーものを有り難がる観客がいて、それで商売になるのなら結構なことだが、おれはこれからもゴダールを観る時間があったら露悪的で搾取的なハリウッド映画1万本観るほうを選ぶ。ま、音楽の付け方がとても美しかったことは認める。10年ぐらいしたらまた挑戦してみようっと。

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ノット・ア・ガール(タムラ・デイビス)

は? なにか? いや、言っとくけど今さらおれの人格を非難するのは止めていただきたい。二十歳のピッチピチの可愛い可愛いタヌキ顔の女のコが、お腹を冷やすんじゃないかと心配になるような格好で1時間半のあいだ歌ったり踊ったり恋に悩んだりしてくれるのだぞ。もうオープニングから いきなりピンクのブラに男もののビキニブリーフでマドンナの「オープン・ユア・ハート」を歌いながらベッドの上でキャメロン・ディアス ダンスをキメてくれるのだ。いったい何の不満があるというのだ!? この場で あまり政治的な発言はしたくないのだが、やはり法律ですべての映画に1回は義務づけるべきではないか?>キャメD・ダンス。 ● ミニスカ制服をヒラヒラさせてデビューを飾り、サウナの中で汗まみれになって「♪あなたに会ったその日からはぁん 恋の奴隷になりました〜」と指ヒラヒラさせて歌っときながら、しゃあしゃあと「まだ処女よん」発言をカマすアメリカの〈ザ・ゲーノーカイ〉ブリトニー・スピアーズ嬢の映画デビュー作だけあって「卒業生総代に選ばれるほどのガリ勉 優等生(とーぜん処女)」という設定なのに、腹筋バリバリで胸の谷間まで日焼けしてるし、カレシに作ってもらった曲は楽譜初見でスラスラ歌えちゃうし、友だちのオーディションに付いていったはずなのにクライマックスじゃいつの間にかソロで歌ってるし、見て見ぬフリをしなきゃいけない見どころがいっぱい。それでいて人生最大の悩みは「親の愛」だったりするところはあくまで健全な良い子。定期的にパパに電話を入れる家出旅行があるかっての。おれが寺脇研だったら「文部科学省 特薦」にしてるね。 ● プロムナイトにブリトニーと童貞&処女の初体験を約束してベッドにまで入ったのに あっさりフラれちゃう可哀想なおたく少年におれ ジャスティン・ロング。 頑固親父に見えてそのじつ「娘可愛や」のいいなりパパに(最近そんな役ばっかり演ってる)ダン・エイクロイド。 監督はドリュー・バリモアのポン友=タムラ・デイビス。「ガンクレイジー」「リスキーブライド 狼たちの絆」と、この人って いつも同じ映画を撮ってる気がするなあ。

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クィーン&ウォリアー(ダニエル・モンソン)

蛮人コナンそっくりのヒーローが、Tバック・レザー水着の(ソニアって名の)半裸ネーチャンとコンビを組んで、暗黒大魔王をやっつける…という、スペイン産ふんどしファンタジー(ヒロイック・ファンタジーとも言う)かと思いきや、ヒーローが目覚めるとそこは現代のマドリッドの町で、かれはファンタジーRPGおたくのボンクラ高校生だった!…というわけで、以下、2つの世界がデミ・ムーア「薔薇の眠り」よろしく交互に描かれるのだが、だんだんと現代の話にファンタジーの世界が混入してきて、ソニアそっくりの街娼がいたりして、はたしてかれはソニアを覚醒させて、現代に紛れ込んでいる暗黒大魔王、すなわち石原新党の党首を滅ぼすことが出来るのか!?…という「デッドゾーン」な展開になるのだった。アイディアは面白い。主人公のボンクラ仲間「X-ファイル」ヲタでイイ女を見ると必ず「スカリーみたいだ!」と言う親友もイイ味だしてる。はたしてこの奇想天外なストーリーをどのように収束させるのか、と新人監督&脚本家ダニエル・モンソンの手並みをワクワクしながら眺めていると、なんと最後は「未来世紀ブラジル」もビックリのダークな結末が待っているのだった。いいのかそれで!?>スペインの中高生諸君。 ● 原題は「戦士のハート」。半裸ネーチャンがあんまりイイ女じゃないのがイタいな。

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愛しのローズマリー(ファレリー兄弟)

あれれ? なんか勝手が違うぞ!? 自分のルックス省みずイケイケネーチャンばかりを追いかける底のあさ〜い男 ハル(=原題)が、お節介な心理セラピストに「心の美しさが外見(そとみ)にあらわれる」という暗示をかけられ、ボランティア好きの心優しい百貫でぶを絶世の美女と思い込んで一目惚れ…というストーリーから「メリーに首ったけ」のような下品で差別ネタ満載なラブコメを予想してたら、なんと直球勝負のスウィートなラブストーリーなのだった。信じられないだろうが本作にはウンコ精液動物虐待も登場しないのだ。おれのイチ押しコメディアン=ジャック・ブラックもエキセントリック演技を封印、見た目はああだけど中味はスウィートで誠実な二枚目なのである。かれだけでなく今回よーするに「見た目はいろいろアレだけどそーゆー人に限って中味はスウィート」という話なので、構造上、コメディに不可欠な「脇の奇人変人キャラ」を出せないのだよ。ファレリー兄弟のコメディを期待した向きにはちょっと期待はずれだが、いっぷう替わったラブストーリーをお求めの方にお勧めする。 ● というわけで、初の主役ジャック・ブラックは次回作に期待。 グウィネス・パルトロウは前よりはちょっとふっくらしていい感じ。 ジャックの組んでるコミック・デュオ「テネイシャスD」の相棒カイル・ガスも同僚役でちょびっと出てくる。 劇中でジャックが「完璧な美女」の例として「レベッカ・ローミン=ステイモスの微笑み」を挙げるんだけど、「X−メン」「ローラーボール」のオネーチャンて向こうじゃそんなに有名なんだ? あと関係ないけど「隣の部屋のネーチャン」より「タクシーで乗り合わせた美女…の本当の姿」のほうに好感を持った、おれの美的感覚って変だよなあ やっぱり…。

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しあわせ色のルビー(ボアーズ・イェーキン)

レニー・ゼルウィガーが「ブリジット・ジョーンズの日記」に先立って自由に生きるキャリアウーマンを演じた女性ドラマ。あ、ちなみに この稿では「自由」という語にはすべて「ルーズ」とルビを振って読んでくれたまえ。 ● 原題は「ルビーよりも高価いもの」。ユダヤ人の宝石商の家に生まれたユダヤ娘が、NYのユダヤ人社会に暮らす敬虔なユダヤ教学者のもとに嫁に来るが、生来の自由な性格が「男どもが全員ヒゲ面で黒い服を着てる」ようなガチガチのユダヤ人社会に馴染めるはずもなく、義兄に誘われて始めた宝石商のアルバイトをきっかけに自由な女として羽ばたきました…というお話。彼女の夫はセックスに快感を感じるのを罪だと思ってるような典型的「堅物のユダヤ教原理主義者」で、それで彼女は(ちょっと下半身も自由なので)義兄にも躯を許しちゃう。こっちの男はベニスの金貸しのごとき典型的「世慣れたユダヤ商人(あきんど)」で、でもどちらもセックスの時は前戯なしでイキナリ挿入なのだった。ユダヤ人てのは濡れやすい体質なのか?(だからそーゆー映画じゃないって) ● あと(これは1998年の旧作なので偶然の一致なのだが)レニー・ゼルウィガーの目にはいつも「幼いころに溺れ死んだ大好きだったお兄ちゃん」や「リリスの使い女(?)の女ホームレス」が見えるという「ビューティフル・マインド」なヒロインなのだった。 ● 監督・脚本はこのあと「タイタンズを忘れない」を撮るボアーズ・イェーキン。義兄にクリストファー・エクルトン。イマドキ「保守的な夫と別れて自立しました」が結論という変な映画。ユダヤ人社会で窮屈な思いをしているユダヤ人若妻の皆さんにお勧めする。

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キューティ・ブロンド(ロバート・ルケティック)

全身まっピンクのファッション(要所要所にキティちゃんのイラスト入り)に身を包んだ浪花のイケイケ短大生(ファッション・マーチャンダイジング専攻)が、自分をフッた政治家志望のカレシを追いかけて東大法学部に入学。だけどカレシには学習院のハイソ(死語?)お嬢さまのフィアンセがいて…という話。バカ(と世間から思われてる)女が世間を見返す痛快コメデイ。つまり「エリン・ブロコビッチ」の「クルーレス」版である。観ててともかくスカッとする。 ● これはリーズ・ウィザースプーンの魅力に尽きるでしょう。世の中であれほど「うそ笑い」の似合う女は ないな。なにしろ、あの濱田マリ似しゃくれ顔で「みんなの人気者のブロンド美人」に扮して違和感が無いってんだから、いかに映画が良く出来てるかという(…あれ?) ただ、カレシにフラれて落ち込んで「このままじゃヴィクトリア・シークレットのカタログ・モデルにでもなるしかないわ」って、あなたじゃ金髪下着モデルにはなれません(きっぱり) ● ヒロインを暖かく見守る若手弁護士にルーク・ウィルソン。好感のもてるデクノボーぶり。 恋のライバルの「ハイソお嬢さま」にセルマ・ブレア。「クルーエル・インテンションズ」でヒロインのウィザースプーンを喰ったお返しに、本作ではすっかり喰われまくってる。 あと、おお!大阪時代のブロンド級友を演じてるゴールディ・ホーンのパチもんみたいなノータリン声は「ルール2」でリーズ・ウィザースプーンのパロ・キャラを演ってたジェシカ・コフィエルではないか! ● 脚本のカレン・マックラー・ラッツとカーステン・スミスは「恋のからさわぎ」のコンビ。カレンのほうは、実際に大学で「ファッション・マーチャンダイジング専攻」で「女子学生クラブ」に所属してて「男子学生クラブ」のボーイフレンドと結婚した「ブロンド娘」だったんだそうだ。 監督はオーストラリア出身の新人。 ● 東大の教室でまわりの学生がみんなIBM漆黒のThink Padを使ってるのに、ヒロインだけが白とオレンジのツートーンのiMACなのが笑っちゃった。原題は「合法的金髪娘」

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スパイダー(リー・タマホリ)

DCPD(ワシントン市警)の犯罪心理分析官アレックス・クロスを探偵役とするミステリ・シリーズから2本目の映画化作品。「コレクター」に続いてモーガン・フリーマンが主演を務め、前作のFBI捜査官ジェイ・O・サンダースもチラッと顔を出す。話は、VIPの子弟をターゲットにした誘拐事件をめぐる「探偵vs犯人」の対決もの。ただ「対決」とは言っても、探偵と犯人が取っ組み合いの喧嘩をするわけではないので、剥き出しのバイオレンス「ワンス・ウォリアーズ」や、厳しい大自然のサバイバル「ザ・ワイルド」のような作品で本領を発揮するタイプのリー・タマホリには不向きな素材なのだが、多少の辻褄を思い切りよく無視した「展開の妙」で最後まで飽きずに魅せる。 ● 本作の感情的なバックボーンとなっているのは「取り返しのつかない失敗をした者の、失地を回復しようとする必死の思い」である。アレックス・クロス警部は、本作のプロローグにおいて潜入捜査中の女性捜査官をむざむざと死なせてしまい、自宅に引きこもり悔悟の念から逃がれられずにいる(その後、誘拐犯の「指名」によりカムバックするわけだが) そして今回、警部とコンビを組むのは、犯人に目の前で誘拐を許してしまった警護担当の女性シークレット・サービス。これは「しくじった2人」の物語なのである。 ● そこで活きてくるのがモーガン・フリーマンの演技力だ。おそらくは警察を休職して日がな、家で「ガラス瓶に入った帆船模型」なんぞを作ってる亭主に、妻が見かねて「いいかげん自分を赦してあげたら?」と声をかける。顔をあげた初老の男は答える「人を赦すことが出来るのは神だけだ」 たった1つの台詞で男の背負っているものの重さが伝わる。脚本家が千の言葉を費やすより、モーガン・フリーマンの表情のほうが雄弁にキャラクターを物語る。得難い役者である。いや、たしかに東宝が「モーガン・フリーマン祭り」を編成するだけのことはありますな(←しつこいよアンタ) ● 女性シークレット・サービスに、複雑な役柄を好演するモニカ・ポッター。 今回の事件を担当するFBI捜査官にディラン・ベイカー。 誘拐される上院議員の娘に(「サンキュー、ボーイズ」ではドリューの子ども時代を演じていた)ミカ・ブーレムちゃん。コワいおじさんに誘拐されたってのにムチャクチャ勇敢で聡明なんだけど、母親役がペネロープ・アン・ミラーなのでなんとなく納得できちゃったり。 ● 音楽:ジェリー・ゴールドスミス。オープニング・タイトルはイマジナリー・フォーシズ。原題は「蜘蛛が来たりて」。マザーグースからの引用だっちゅうんで「見立て殺人もの」かとワクワクしてたら、劇中ではぜんぜん活かされないのだった。ちぇっ。 最後にお約束のツッコミだが、あれだけ綿密な計画を仕組んだ犯人が どうして「犯罪の証拠」となるデータをハードディスクにパスワードかけただけで無造作に保存しとくかね? あと、プロローグの「クルマの落下」場面の「サウスパーク」の切り貼りアニメのような安っぽいCGは、おれのMACでもあれよりゃマシなのが作れると思ったぜ。 

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アトランティスのこころ(スコット・ヒックス)

スティーブン・キングの小説の舞台となる〈架空の町〉の名を社名に冠したキャッスルロック・エンタテインメントは、キングの膨大な作品群のなかでも「スタンド・バイ・ミー」「ミザリー」「ニードフル・シングス」「ショーシャンクの空に」「黙秘」「グリーンマイル」といった〈超自然ホラー〉以外の作品を好んで映画化してきた映画会社である。1999年の近作を映画化した本作もまたその路線で、中年となった主人公が少年時代の大切な想い出を回想する…という構成はもちろん「スタンド・バイ・ミー」、町に得体の知れない力を持った老人が越してくる…というのは「ニードフル・シングス」、少年と老人の関係は「ゴールデンボーイ」と、過去のキング作品のパッチワークのような話なんだが、フランク・ダラボンなら3時間越え確実な分厚い上下巻の原作から「前半」と「エピローグ」だけを抜き出して1時間41分に再構成した名脚本家 ウィリアム・ゴールドマンの筆の冴えが、われわれを1960年代初頭の自転車1台買うのも容易じゃなかった時代に引き戻してくれる。「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」のような〈あまり幸せじゃなかった少年時代〉ものが好きな人は必見。 ● 「謎の老人」に扮したアンソニー・ホプキンスが上手いのは、まあ当たり前なんだが、だけどこの役はホプキンスとかイアン・マッケランみたいな「曲者役者」じゃなくて、クリストファー・プラマーとかジェームズ・コバーン、あるいはカーク・ダグラスなんかのほうが効果的だったんじゃないかなあ。 主人公の「縮れっ毛の男の子」にアントン・イェルチン君。 幼なじみの「さらさらブロンドのキラッキラ輝いてるソバカスの女の子」におお!またも売れっ子 ミカ・ブーレムちゃん(撮影時13歳) 撮影順としては「スパイダー」→本作→「サンキュー、ボーイズ」の順番。 てゆーか、あれ? この2人の子役って「スパイダー」でも仲良しの役だったじゃないの。本作ではキスシーンまであるし。くそぉやっぱ付き合ったりしてんのかなあ口惜しいなあ(←小学生に嫉妬すんのは よしなさいって) ● 撮影監督のピョートル・ソボチンスキー(「トリコロール 赤の愛」)は本作の撮影中(?)に急逝。「わが心のボルチモア」「太陽の帝国」「E.T.」などで幻想的な絵作りを魅せた名匠 アレン・ダヴィオーと、「スリーピー・ホロウ」「大いなる遺産」「雲の中で散歩」の魔術的カメラマン エマニュエル・ルベッキが代役を務めた(エンドロールには「スペシャル・サンクス」としてクレジットされている) 印象深い「観覧車の場面」とか「天使の羽をつけた少女」とか、このうちの誰が撮ったと言われても納得できる超豪華な代打ちだよなあ。 ● ちなみに同題の原作(新潮文庫)は映画の公開に合わせて出たばっかりで、おれもいま読み始めたとこなんだけど、何気ない描写にいちいちアントン君とミカちゃんの姿がダブっちゃって、そのたんびに涙腺が…(←バカ

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冷戦(ジングル・マ)

イーキン・チェン主演の人情やくざ映画。ムショ帰りの大物やくざが足を洗ってカタギになろうとするが、周りが過剰反応して過去の因縁を蒸し返し…というおなじみの話。これに昔の女との間に生まれた男の子が絡む。「冷戦」という邦題は中味をまったく反映しない。原題の「九龍冰室」とはイーキンが草鞋を脱ぐ、昔のダチのやってる食堂の名。食事と喫茶と甘味という日本でいえば甘味喫茶ですな。 ● ベテラン・カメラマン出身のジングル・マ(馬楚成)監督の「ヴァーチャル・シャドー 幻影特攻」「星願 あなたにもういちど」「東京攻略」などに続く5作目。本作では監督のほかに撮影と原案でクレジットされている。なんでも自伝的ストーリーだそうで、──え? てえことはジングル・マって・・・元 極道!? もっとも、極道あがりのくせにアクション・シーンの演出・撮影・編集はあいかわらず下手で、まったくテンションが上がらない。だが、話がメロドラマ的要素や、父と子の人情調になると途端に画面がイキイキとして潤いを帯びてくるのだ。いいかげん自分の資質に気付きなさいよ>ジングル・マ。 てゆーか、最新作のセシリア・チャンがオール日本ロケでパラパラを踊りまくるという「パラパラ桜の花」ってスンゲー観たいんだけど、どっかで公開してくんないかしら。 ● イーキン・チェンは堂々たる主演スターの風格。もちろん必殺!涙目もあります。役名の「九紋龍」ってたしか「わすれな草」にも出てきたけど、香港やくざの名前としては「唐獅子の秀」とかそんな感じのポピュラーな名前なのかね? じつは本作は「話を転がす外道やくざ」が出てこない…という珍しいパターンのやくざ映画で、その代わりに女の浅知恵で全員を不幸に陥れるファム・ファタルの役まわり=イーキンの昔の女のイケイケ極妻ガールにムッチャ綺麗に撮られてるカレン・モク姐さん。はぁ…(溜息) イーキンに恋心を抱く石田ひかり似の小学校の先生に、売れっ子CMモデル出身で本作が映画デビューのレイン・リー(李彩樺) 食堂の店主に「ザ・ミッション 非情の掟」の「肥」ことラム・シュー(林雪) ふむ、やっぱわけわからんSFアクションよりは、こういう生身の香港映画をもっと観たいぞ。

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GUN CRAZY 復讐の荒野(室賀厚)

奥山和由が渋谷駅前のバブル・ビルを騙くらかして企画した「Qフロント・ムービー」の(「ダンボールハウスガール」「玩具修理者」に続く)第3弾。今度のネタは「ダンボールハウスガール」で縁の出来た芸能プロ大手のオスカー・プロモーションに喰らいついて、所属タレントの米倉涼子と菊川怜を格安のギャラ(当サイト推定)で主演させて、それぞれ1本ずつ65分のガン・アクション映画を撮って同時公開…というもの。監督は、かつて「SCORE」でデビューさせてやった子飼いの室賀厚。さすがは商売上手だねえ>和由クン(←マジで褒めてる) ● つまり言うなればMAX主演の「麗霆゙子(レディース)!!! MAX」と同じ立ち位置の作品なのだが、これが意外や傑作だった。おれはパクリが芸になってないSCORE」をまったく評価しないが、今回は(あいかわらずパクリだらけではあっても)オリジナリティのあるアレンジが施されている。演出的&技術的にはまだまだ自主映画のレベルだが、これはじつによく出来た自主映画である。ちゃんとフィルム撮りなのも気に入った。 ● 冒頭に出るテロップ「THE FABLE OF A LADY WITH GUNS(銃を持った女の作り話)」は、もちろんウォルター・ヒル「ストリート・オブ・ファイヤー」の「A ROCK'N'ROLL FABLE」から。どこがどう作り話なのかというと、なんとこれマカロニ・ウェスタンなのである。オープニング・タイトルとともに鳴りわたるテーマ曲(音楽:安川午朗)の最初の数小節が「これから始まるのはマカロニですよ」と宣言する。舞台となるのはオキナワによく似た何処とも知れぬ米軍基地の町。町は暗黒街のボスが牛耳っているが、アジトがベースの敷地内にあるので町にただ1人残った酔いどれ警官も手が出せない。ボスの首には関東のヤクザから賞金が賭けられており、糞にたかる蝿のように全国から群がって来る賞金稼ぎは、武装したMPによって容赦なく射殺される。そんな現実感の薄い架空の町に、全身を皮スーツに包んでハーレー・ダビッドソンに跨った、ひとりの跛(びっこ)の女がやって来る…。 ● よくあるVシネとは一線を画するフィクショナルな物語で、少なくともロバート・ロドリゲスの「エル・マリアッチ」よりは出来が上。 おれ今まで米倉涼子のことを、グラビアで見てもテレビで見ても「この三白眼女のどこが美人なワケ?」と疑問視してたんだけど、この映画で初めてキレイだと思った。 ヒロインの復讐の対象である「ウィレム・デフォーの役」に鶴見辰吾。 成りゆきから助太刀する「流れ者のガンマン」に大和武士。 落魄の「酔いどれ保安官」に菅田俊。 東北訛りの「バーのマダム」が…誰かと思ったらなんと愛染恭子!(脱がないほうがいいね、この人) ヒロインの回想シーンに、まあまあ似てる子役を見つけてきたのも偉い。


GUN CRAZY 裏切りの挽歌(室賀厚)

2本目は「ニキータ」とか「レオン」を元ネタにした女殺し屋 誕生篇(追記:マカロニ・ウエスタン「怒りの荒野」のストーリーを借用しているようだ) 舞台となるのは、ヨコハマとは似て非なる港町(町の実景部分にNYの実景を使用している) 正義感に燃えて弁護士になったインテリ女が、現実の法制度の限界と法曹界の薄汚さに絶望して、プロの犯罪者に弟子入りする…。 ● これ、ヒロインの動機に無理があるんだよ。法制度の限界に絶望して「必殺仕置人」になるのはいいとして、弟子入りする相手の永澤俊矢が「自分を裏切った仲間への復讐に燃える犯罪者」でしかないんだもん。たまたま殺す相手が「人でなしの悪党」ばかりだからヒロインもなんか「正義を執行」してるような気になっちゃってるけど、復讐を終えた男が元の「社会の脅威」に戻るのはべつに東大 出てなくたってわかりそうなもんだろ。金持ちになった永澤俊矢がヨコハマにカジノを建てるために、ヒロインのお世話になった山西道広(!)のケーキ屋さんを地上げしようとして、板挟みになったヒロインがうじうじ悩むんだけど、そんなのテメーの乗ってる外車を売ってケーキ屋の1軒ぐらい買ってやれよ。悪党ブチ殺して金はたんまり持ってんじゃんか。アタマ悪すぎ>菊川怜(いやべつに彼女の所為では…)「ダブル・デセプション 共犯者」に続いていまだ初日 出ず。 ● とはいえ、じつを言えば1時間のアクション映画としては ★ ★ ★ ぐらいの面白さは充分にある作品なのだ。だが、さしたる理由もなく幼い子どもを撃ち殺すようなものを当サイトは決して「娯楽映画」と認めないので最低評価とする。 あと終盤に「ヒロインの親友が空港のカフェテリアのウェイトレスをしてる」というシーンがあるんだけど、いくらロケで時間が無いからって、画面にデカデカと写ってる「お客様へ:セルフサービスにご理解をお願いします」なんて看板は隠せよせめて。 ちなみにエンドタイトルでは「007」よろしくシリーズの続篇を宣言してたぞ。

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およう(関本郁夫)

SM小説の巨匠・団鬼六が大正時代の責め絵師・伊藤晴雨を描いた「外道の群れ」を原作として、高島礼子版「極道の妻たち」シリーズなどの婦人科アクション監督であり、また にっかつロマンポルノに「団鬼六 縄責め」「団鬼六 緊縛卍責め」といったフィルモグラフィを刻んだこともある関本郁夫が演出。ドラマSMもの専門のAVメーカー シネマジックが制作のイニシアチブを取り、「S&Mスナイパー」他いくつかのSM誌の版元であり、数々のSM写真集を発行する大洋図書が出資社に名を連ねるというのに・・・なぜ誰も脱がんのだ!(←魂の叫び) 主演の渋谷亜希はもちろんのこと、洞口依子・上原さくら・国分佐智子・小沢真珠には各々 脱がなければいけない物語上の必然があるというのに!(渡辺えり子だけは必然性があっても脱いじゃいけません) ● たとえば、手塚治虫なかりせば今の日本の「マンガ」の隆盛は無かった…というのと同じ意味において、団鬼六なかりせばSMという性愛の1ジャンルのみに特化した雑誌・写真集・映画・ビデオが地下に潜ることもなく堂々と売られている…という日本の「SM文化」は存在しなかったわけだが、同様にSMの「絵」の分野においては、伊藤晴雨なかりせば椋陽児、林月光、前田寿安といった昭和のSM絵師たちも存在し得なかったのである、と申せば この伊藤晴雨という画家の重要性がご理解いただけよう。…え、ちっとも解からん? えー、つまり端的に言うと「日本髪を結った赤い長襦袢1枚の女が胸元を大きくはだけられて後ろ手に緊縛されている」というような絵柄を「子連れ狼」みたいなタッチで筆で描いたタイプのイラストがありますわなあ いやあるんだよあるんですあなたが知らないだけ。そうした「和風SMイラスト」と、江戸時代の浮世絵の技法で描かれた「責め絵」の間を繋ぐのが伊藤晴雨なのである。そうなのか? ● 過去に伊藤晴雨を描いた映画としては、1977年の日活ロマンポルノ発禁本『美人乱舞』より 責める!」がある。監督:田中登、脚本:いどあきお、撮影:森勝、そして主演に宮下順子という「実録阿部定」(1975)のチームが再結集した同作は(画家ではなくカメラマンとして設定された)「伊藤晴雨」役に山谷初男を迎え、一連の谷ナオミの「娯楽SM映画」の系譜とはまったく異なる、女を責めることでしか愛せない類の愛情をギリギリまで追求した戦慄の一作だった。 ● さて、ということで長い長い前説はこれぐらいにして、本作「およう」である。大正浪漫を代表する叙情画家・竹久夢二が愛した、儚げな風情のモデル「およう」は、SM絵師・伊藤晴雨の緊縛画のモデルでもあった!…という実話に基づく。団鬼六の原作は完全に伊藤晴雨の話なのだが、おそらく「変態絵描きの話じゃ客は来ん」という興行的な要請から、竹久夢二のパートを大幅に増やして(鈴木清順の映画では沢田研二が演じた)夢二の役に元ロイヤル・バレエシアターのバレエダンサーをキャスティングしている。とはいえ、要約すれば「変態三文絵描きが やっと見つけた緊縛OKのモデルを、当代一の売れっ子イラストレーターに横取りされて、女と名声に対する嫉妬に身悶えするが、その売れっ子イラストレーターとて権威と伝統に固執する日本画壇から見れば、基本テクニックすら欠いた〈外道〉に過ぎないのであった」という話なので、どうしたって主役は竹中直人 演じる 伊藤晴雨になる。関本郁夫は あきらかに晴雨により思い入れて演出しているし、竹中直人は縦横無尽&硬軟自在の熱演でそれに応えている。劇中の山場に演歌が流れたりしちゃう、堂々たる「東映調 娯楽映画」である。撮影:佐々木原保志。これで「SMとは何か?」みたいな凄みが感じられるともっと良かったんだけど。 ● 対して、夢二役の熊川哲也は──もともと演技に期待されての起用ではないにせよ──これがもうじつに驚くべき大根で、なにしろ演技パターンが「カッコつけて喋る」と「大声を出す」の2通りしかないのだ。なんか「熱演」すればするほど「きみはいいから早く次ぎ行って」って感じ。だから夢二が話の中心となる中盤はじつに退屈。カリスマを欠いた天才はただの厭な奴にしか感じられない。そもそも夢二と およう の間に「愛」が成立していないのでドラマにならんのだ。労咳の恋人を看取る場面で「ベッドに横たわる恋人を凝っと見つめて、手をさし伸べながら後ずさりしていく」姿には、いまにも「ボレロ」とか踊りだすんじゃないかとハラハラしたよ。「およう」を観た全員が同意してくれると思うが、加藤雅也+竹中直人の「荒ぶる魂たち」コンビで観たかったぜ。もちろん「R-18指定」でな。 ● タイトルロールの「およう」を演じるのは昨年、北区つかこうへい劇団「ストリッパー物語」のヒロインに抜擢された新人・渋谷亜希。戸川京子を高島礼子 寄りにしたみたいな美人で、着物が似合うのが何より。少女の「あどけなさ」と、男をたぶらかす「妖艶さ」をうまく出していると思う(脱がないけど) 日本画壇の巨匠・藤島武二に23年ぶりの映画出演となる里見浩太朗。 保養地のホテル支配人にピンク/AV男優&監督の山本竜二が出てんのはシネマジックの推薦か? ちなみに、終盤に登場する「伊藤晴雨の長屋の襖絵」はなんと関本監督の実の娘さん(東京芸大卒)の手になるものだそうだ。

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ザ・ワン(ジェームズ・ウォン)

人は常に選択を迫られながら生きている。Aを選ぶかBを選ぶかによって人生は変わる。人生が変われば世界も変わる。もし、それらの「有り得べき世界」が別々の次元に併行して存在するとしたら、あなたには∞人の「あなたであってあなたでないあなた」がいることになる・・・というのが〈パラレル・ワールド〉の考え方だとおれは理解しているのだが、この映画で描かれる(ユニバースならぬ)マルチバース(多元宇宙)においてはリー・リンチェイ師父は125人しか存在していないらしい。ずいぶん選択の少ない人生やなあ。いやそうじゃなくて。劇中で師父が香港映画仕込みの特殊メイク演技(日本語では百面相とも言う)で演じてみせる何人かのリー・リンチェイは、名前・性格・職業だけでなく、どうやら人種・国籍まで違うようなのだ。輪廻転生スケールのパラレル・ワールドかい! まあ、でも実際に映画で描くには限界があるわけだから「125人」という中途半端な数には見て見ぬふりをして、宣伝で謳ってる「125人のリー・リンチェイのバトルロイヤル」を楽しみにして行ったら、すでに映画が始まった時点で残り3人なのだった(火暴) そりはサギと言うのでわ?>東宝東和。 ● 監督・脚本はTV「X-ファイル」や映画「ファイナル・デスティネーション」のジェームズ・ウォン。もっと頭の良い人かと思ったけどぜんぜん買いかぶりだったようだ。だってあなた、せっかく「世界の至宝」リー・リンチェイ師父をスターに迎えながら(ヒーローと悪役の一人二役だから当然なんだけど)アクションがすべてCG加工されてるのだ。あほか。見どころはラスト1分のエピローグ。あの続きで続篇希望だ(その場合、タイトルは「ザ・ワン・ツー」?) 師父の妻(こちらも二役)に「スネーク・アイズ」の赤毛ネエチャン→「スパイキッズ」ママの、カーラ・グジーノ。 時空警察の捜査官に、強豪ひしめく「黒人俳優おっかない顔コンテスト」でも余裕で決勝進出は確実な、デルロイ・リンド。 武術指導はユン・ケイ。

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拳神 KENSHIN(アンドリュー・ラウ&ユン・ケイ)

この日の歌舞伎町映画街では3本の「香港映画」が同時に初日を迎えたのであった。まるで尖沙咀にいるようやな。それを初日に全部ハシゴする奴もいたり(おれじゃおれじゃ) ● バリー・ウォン製作のBOB作品。ユン・ケイは武術指導も兼ねる。脚本は、BOBのマンフレッド・ウォンではなく陳十三(英語名はなんとサーティーン・チャン!) ゲーム「鉄拳」のパクリネタらしいが、おれは「鉄拳」やったことないので、それにはノーコメント。話はどっちかっつーと「X-メン」のパクリのような気がしたが。 ● 舞台となるのは2050年の未来都市・香港。どこがSFやねん!という「なんちゃって近未来SF」の多い香港映画にあって「林立する超高層ビル群の間をエアカーが飛び回る」という「ブレードランナー」や「フィフス・エレメント」そのまんまのビジュアルをCGできちんと作っている点は評価する。もともと「ブレードランナー」の「猥雑な未来世界のイメージ」ってのは香港の夜景をイメージしてたはずで、それを「これが香港の未来で御座い」と提示されてしまうのってなんか倒錯してるよーな。もっとも未来的なのはそこまでで、劇中の「未来のクラブ」のセット装飾なんてダサダサで2050年というよりは「1980年代の香港」にしか見えなかったり。てゆーか、そもそもチン・カーロウが「未来のパンク・キッズ」というキャスティングからして無理があるのだが、ま、そこはそれ「バリー・ウォンの映画」ってことで。 ● 話の中心となるのは「パワーグローブ」という兵器。腕に装着することにより脳の使われていない90%の部分「神の領域(上帝禁区)」を目覚めさせることが出来る。だがそれには恐ろしい副作用があった…。かつての同僚の息子である主人公に、パワーグローブの副作用の恐ろしさを説明したサモ・ハン・キンポー警部、主人公から「でも、あなたには副作用がないじゃないですか?」とツッコまれて「いや、副作用はある。…昔はもっと痩せていた」<おい。 そこでサモ・ハンの回想が始まるのだが、回想の中で「大哥の若い頃」を演じているのはイーキン・チェンなのだった…。おまけに大哥、10年ぶりにあいまみえた仇敵にも「太ったな」とか言われてるし。コメディかい! ま、そこはそれ「バリー・ウォンの映画」ってことで。 ● 主役を務めるのはNY生まれの台湾で歌手デビュー、ジャッキー・チュンを馬面にしたみたいなワン・リーホン(王力宏)と、スティーブン・フォン(馮徳倫) ヒロインにクリスティ・ヤン(楊恭如)とジジ・リョン(梁詠[王其]) 主人公の父にユン・ピョウ。母にセシリア・イップ。悪役はロイ・チョン。 ● 例によってアクション・シーンはすべてCG加工されており、「風雲 ストーム・ライダーズ」「中華英雄」よりさらに俳優のアクションが存在しない、つまりアクションそのものをCGで作っている作品なので、観ていてまったく興奮しない。たとえCGを使うんでも「元の素材」となるアクションをきっちり撮っておかないとダメなのだ。はっきり言って出来の悪い映画なんだが香港映画ファン限定でお勧めしておく。

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突入せよ! あさま山荘事件(原田眞人)

素晴らしかった。感動した。そのことにショックを受けた。──いや、ドラマじゃなくてビデオ撮りの画質が。撮影監督の阪本善尚がアドバイザリー・スタッフとして開発に参加したパナソニックの新しいHDビデオカメラで撮影したものを、フィルム・レコーディングしてフィルムに変換している。(ビデオでは再現の難しい)雪景色メインと判っていて、それでも敢えて採用に踏み切ったのは、阪本善尚の自信の表れだろうが、それだけのことはある素晴らしい仕上がり。冒頭場面では「雪」の多少の「浮き」が気になったものの、あとは(素人目には)まったくフィルムと同等。特に人間の肌の色味など、ビデオ撮影作品では初めてまともに表現できたと言えるのではないか(少なくともDLPシネマで観た「ミッション・トゥ・マーズ」よりも数段 優れていた) 画質に関しては ★ ★ ★ ★ ★ を献上してもいい。ううむ。口惜しいがこのクォリティでプレゼン出来るのであれば、一概にビデオ撮影を否定できないかも。 ● 不思議なのは、なぜこれが今までのソニーのHDカメラより画面がキレイなのか、ということ。ソニーのシネアルタはHD1080P。本作で初めて使用されたパナソニックのバリカムはHD720P。つまり走査線(タテ方向のピクセル数?)がソニーの3分の2なのに!? バリカムは35ミリ・フィルムカメラ用のレンズをそのまま使えるらしいから、それも理由のひとつか(ちなみに「スター・ウォーズ EP2」で使ってるソニー製はパナビジョン社が自社のレンズをマウントしたカスタムモデル) もうひとつ。今までのソニー撮影作品でいちばん色がキレイなのが「仮面ライダー アギト」だったことを考え合わせると、カラー調整を手掛けた東映化工の技術者がよほど優秀だってことかも。

さて肝心の中身のほうだが・・・面白かった。てゆーか、あの「あさま山荘事件」をこんなにオモシロクしちゃって大丈夫なのか!? 原田眞人はゴールデン街とかで長谷川和彦と鉢合わせしないよう せいぜい気をつけるよーに(会ったら絶対ブン殴られるぞ) なにしろこれは未曾有の大事件を前にして、縄張り意識のカタマリの田舎者の集団と、歴戦の勇士かと思いきや意外と使えない味方の軍勢と、てめえだけ安全な暖かいとこにいて好き勝手ホザいてる上層部の、板ばさみになった1人のエリート警察官の奮闘ぶりを描いたどたばたコメディなのである。原田眞人が大好きなハリウッド映画なら絶対に、終盤で「それまでバカだバカだと思っていた長野方の警官たちが一命を賭して〈プロの凄み〉を見せ、それにより警視庁=長野県警が心をひとつにして事件を鮮やかに解決する」って、感動的な展開にするとこだと思うんだが、長野県警の役回りは最後まで「愚鈍な道化者」のまま。警視庁が誇る機動隊も あまりに不甲斐ないので「ええいまだるっこしい! 米軍に電話してデルタフォース連れて来い!」とか思ってしまう(←こらこら) なに「史実に忠実に描いた」だけ? 史実ったって、しょせん「サッサの主張する史実」じゃんか。まあ、たぶん原田眞人の中には最初っから「社会派映画」なんぞ作る気はなくて、前作「金融腐食列島 呪縛」に続く「日本の組織」シリーズ第2弾のつもりなんだろう。 ● 「金融…」同様、男、男、男…の映画である。役所広司・矢島健一・椎名桔平・高橋和也らの原田組に加えて、自由劇場の串田和美・大森博、大人計画の松尾スズキ(←サイコー!)、グローブ座カンパニーの山崎清介、花組芝居の篠井英介、新宿梁山泊の黒沼弘巳といった小劇場勢、そして山路和弘・螢雪次朗・田中要次らピンク映画出身勢がメインキャストとして大挙出演、さらには機動隊員の役なのに1人だけシャブ喰らったみたいな演技の三池組・遠藤憲一らが「男騒ぎ」を繰り広げる。宇崎竜童も「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」の100倍イイ。後藤田正晴に藤田まこと というのも正解。これでテメエの息子へのエコ贔屓さえ無ければ100点満点のキャスティングだったんだが。


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ハロウィンH20(スティーブ・マイナー)

アメリカ公開は1998年の8月。翌1999年の秋に東京ファンタのオールナイトで上映されたときは松竹配給だったが、いつのまにやらパイオニアLDCに配給権が移り、5月24日のDVD&ビデオ発売に合わせて露骨にも発売日の2週間前から1週間だけ御馴染みシネマメディアージュの13番スクリーンで劇場公開された。ま、何にせよ上映してくれるだけ良心的なんだけどさ。 ● ジェイミー・リー・カーティスが復帰しての20年ぶり、正統的な続編。ゴリゴリのストロング・スタイル・ホラー。ドナルド・プレザンスが還らぬ人となってしまったので、今回はジェイミー・リー・カーティスとマイケル・マイヤーズのタイマン勝負。文字どおり骨肉の争い。「ハロウィン」よりは「エイリアン2」に近いかも。監督は本作の後に「UMA レイク・プラシッド」を撮るスティーブ・マイナー。ジェイミー・リー・カーティスの息子を演じたジョシュ・ハートネットは、なんとこれがデビュー作。

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ビューティフル・マインド(ロン・ハワード)

これほんとにアカデミーとゴールデン・グローブの作品賞 獲ったの? いやたしかに「苦難の人生を歩んだ偉人の感動の実話」には違いないのだが、脚本のアキバ・ゴールズマン(「ロスト・イン・スペース」「プラクティカル・マジック」「バットマン&ロビン」「評決のとき」「バットマン・フォーエヴァー」「依頼人」)は、その枠組みを逆手に取ってかなりトリッキーなことを試みている。一歩まちがえばトンデモ映画と呼ばれてもおかしくないような話なのである。それでいて、これは「ロン・ハワードの映画」なので、もちろん最後は感動させて、泣かせて、爽やかな後味を残すんだから畏れいる。 ● ウェルメイドな本作の、おそらく唯一最大の欠点は「インサイダー」モードのラッセル・クロウが、ちっとも「天才的な数学者」にも「繊細な神経の持ち主」にも見えないことなんだが「いや、あれでモデルとなった本人とそっくりなのだ」と主張されてしまっては何も言えないな(言ってるって) おれはジェニファー・コネリーのファンなので──必ずしもその魅力を十全に活かしているとは言えないフラットなキャラではあっても──彼女に数々のご褒美をもたらした本作が作られたことを素直に喜びたい。 主人公に秘密任務を授ける政府(ビッグブラザー)のエージェントに…出たあ!「他人の人生を操る男」エド・ハリス。 クセのあるルームメイトにROCK YOU!」でのチョーサー役の好演も記憶に新しいポール・ベタニー。 ジェームズ・ホーナーの音楽もひさびさにイイ感じだし、さまざまな光を柔軟に使い分けるロジャー・ディーキンズの撮影もすばらしい。 ● ということで以下はネタバレだが──、例のアレは、かれの[潜在意識が生み出した願望の表れ]だと思うのだが「自分のことを理解してくれる親友」と「重要な任務を与えてくれ、挫けそうなときには鼓舞してくれる師」は解かるとして、3人目の「決して成長しない小学生の可愛い女の子」ってのはいったい…(木亥火暴) ● この映画を観てあらためて思ったけど、やっぱ町内や学校に1人はキチガイが居たほうがいいな(凶暴性があるキチガイはちょっと困るけどさ) 寅さんみたいで楽しいじゃん。不謹慎だって? いやマジでそう思ってるんだけど。キチガイだってカタワだってガイジンだっていろいろ居たほうがいいんだよ。だから(これが実話ならば)いちばん偉いのはキチガイを大学の図書館に居候として受け容れたプリンストン大学だ。 ● 最後に、おれはサイゾーや週刊文春が何と言おうと戸田奈津子の翻訳を支持する立場の者ではあるのだが、本作のクライマックスにおける、今までの人生を数式を解くことや論理を確立することに一生を費やしてきた数学者が言うからこそ感動的な「きみがぼくの reason だ」というスピーチを「君がいて 僕がいる」と一般的に訳してしまうのは、やはり間違ってると思う。

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ケイブマン(ケイシー・レモンズ)

某作品に先行して製作・公開された精神分裂症患者の妄想映画の大傑作。サミュエル・L・ジャクソン演じる「精神分裂症のホームレス」という型破りな探偵の登場するミステリである。 ● ジュリアード音楽院の将来を嘱望された天才ピアニストが、今じゃセントラル・パークの森にある洞穴(ケイブ)に勝手に住み着いているレゲエ・アタマのホームレス。だけど他人から「ホームレス」と言われると「ホームレスじゃない。公園の洞穴に住んでる」と律儀に訂正したり。かれの頭の中には蛾の羽を持った小さな黒人が沢山 住んでいて、かれの目に映るニューヨークは「クライスラー・ビルの最上階に巣食う魔王が(エックス線ならぬ)黄色い光の「Y光線」や、グリーンの「Z光線」を発して人々を邪悪に操っている」世界だ。かれの耳には絶えず ざわざわとした囁き声が聞こえている。だからかれは日々を怯えながら暮らしてる。 ● そんなかれが庭先で若者の凍死 死体を発見する。「邪悪なる魔王の仕業に違いない」と直感したかれは、NY市警に勤める娘(別れた妻と暮らしている)にそのことを告げるが、名物ホームレスのデンパな妄想なんぞを警察がマトモに取り合うはずもない…。 ● 哀しい映画である。じつは男は、自分のアタマがおかしいことは自覚してる。だから妻と娘を残して自分から家を出たのだ。だけど「妄想」と自覚して消える妄想ならこんなに苦しみはしない。かれが無謀にも独自に捜査を開始する理由はひとつだけ──少しでもマトモな人間だと愛する娘に認めてもらいたいからだ。そう、これは「離婚 父さん奮闘記もの」のバリエーションでもあるのだ。かれの必死の捜査はたびたび妄想に邪魔される。いちどは協力の意思を示した者とて、かれが空を見上げて誰かに怒鳴ってる姿を見れば、態度は変わる。だが、やがて妄想と真相が交錯するスリリングな展開。みずから企画を持ち込んだというサミュエル・ジャクソン入魂の名演とともに、あなたに真にオリジナルな物語を見たという感動を味あわせてくれるはず。まあ、ネタがネタだけに公開に二の足を踏むのも判らんではないが(某作品が「感動の名作」として2ヶ月のロングランしてるのに)この傑作がお馴染みシネマメディアージュ13番スクリーンで2週間だけ(それも昼2回のみ)の上映とはもったいない。 ● 原作・脚本はジョージ・ダウズ・グリーン(「ケイヴマン」早川文庫) 製作はダニー・デヴィートのジャージー・ショア・フィルムズ(←名前が変わったね。どこかと合併したのかな?) 監督はケイシー・レモンズ。この人、「キャンディマン」や「羊たちの沈黙」でヒロインのパートナーを演じていた黒人女優さんだそうだ。(おれは未見だが)前作の やはりサミュエル・L・ジャクソン主演による「プレイヤー 死の祈り」(1997/日本ではビデオ・ストレート)が高い評価を受けた由。 サミュエル・ジャクソンはホームレスであると同時に「鍵盤を捨てた天才ピアニスト」でもあって、頭の中ではかれの心境をあらわすピアノが鳴り響いているわけだが、本作の音楽担当を手掛けるテレンス・ブランチャードの弾くジャズ・ピアノには、それだけの説得力があった。 かれを助ける「気まぐれな金持ち」の役で、すっかりグレー・ヘアになっちゃったアンソニー・マイケル・ホールが出演。

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コラテラル・ダメージ(アンドリュー・デイビス)

まあ、感想は皆さんと同じですな。駅のホームの立ち食いスタンドでカレーライスにソースぶっかけて喰おうと思って注文したら、本格的な印度式カレーが出てきてビックリ。これはこれで上手いけど着色料で真っ赤な福神漬けとラッキョウで喰いたかった気もするなあ…って感じ? なにしろ、反米テロリストがLAの爆弾テロで殺した人数より、CIAがコロンビアに(内政干渉して乗り込んでいって)殺した数のほうが明らかに多い(ように描かれている)し、テロリストはどちらかというと「方法は間違っていても信ずることに命をかける戦士」として設定され、劇中1番の悪役は、南米の民のことはおろか国益すら二の次の(どっかの国の外務省の役人のような)腐ったCIAの連中なのだ。逆におれのほうが、ハリウッドのアクション映画でそこまで「政治的に正しい」必要はないんじゃないの?とか思ってしまったよ。耳慣れないタイトルは「目的遂行に伴う副次的な被害」、すなわち「やむを得ぬ犠牲」のこと。 ● シュワルツェネッガーは「妻子を失った悲しみに打ちひしがれる」姿など過去もっとも人間的な貌を見せるのだが、「ターミネーター3」を控えてそんな弱気で大丈夫なのか!? やはり本作最大の収穫は、美しく優しく聡明で、でもイザとなったら牙を剥く「テロリストの妻」を演じたフランチェスカ・ネリでしょう。「ハンニバル」でジャンカルロ・ジャンニーニの若妻を演ってた女優さんですな。次はぜひクリスティン・スコット・トーマス、ジュリアン・ムーア路線の「不倫愛もの」を ひとつ。


ローラーボール(ジョン・マクティアナン)

げっ。いつのまにか日劇3(=日劇プラザ)は「ローラーボール」を昼2回だけで打ち切って、夜は「スパイダーマン」になってるぞ。日劇で1週間 打ち切りってのは2年前の「マン・オン・ザ・ムーン」以来じゃないか? あ、どっちも東宝東和だ(火暴) ● しかし、たしかにこりゃひでえわ・・・客の入り映画の出来も。銀座シネパトスとか新宿東映パラス3とか新橋文化で公開した映画なら、まだ擁護の余地があるけど、日劇3チェーンで全国公開するシャシンとしては酷すぎるでしょう。見のほど知らず度では去年の「沈黙のテロリスト」といい勝負。てことはアレか。いまやジョン・マクティアナンはアルバート・ピュンと同レベルってことか(シ立) ● 人気絶頂のベビーフェイスビンス・マクマホンJr.をやっつける話。実際、息子のシェーン・マクマホンが「視聴率至上主義のスポンサー」の役で特別出演している。てゆーか、現実の WWF(※こないだパンダの団体に裁判で負けて WWE と改称)のほうがよほどエゲツないことしてるじゃんか。「近未来SFアクション」が現実に負けててどーするよ!? 四半世紀前のノーマン・ジュイスン監督版のほうが──おれは小6だったからあんまりよく覚えてないけど──まだずっとバイオレントで社会派SFだったように思うぞ。ゲームに「勝利」したはずのジェームズ・カーンが、誰もいなくなったリンクを独り走るシーンのなんとも言えん「虚しさ」の感じは今も覚えてるもん。 ● クリス・クラインはこの映画の主役を張るには「野獣性」をかけらも持ち合わせないのが致命的で(おそらく製作者サイドが意図したと思われる)キアヌ・リーブスの代替にすらなっていない。 ビンス・マクマホンJr.役のジャン・レノは「WASABI」に続く手抜きの関西仕事。 「X-メン」の青ウロコ女こと、レベッカ・ローミン=ステイモス嬢が素顔と素肌を晒してくれるのが唯一の見どころか(←次回作はブライアン・デ・パルマの「ファム・ファタル」のヒロイン!) ● あまりにトホホなんでいちいちツッコむ気にもなれんが、最後の主人公の行動は「撃つ気のない相手の不意をついてショットガンで撃ち殺す」んだから立派な殺人罪だと思うぞ。てゆーか、それは薄汚い犯罪者のやることだ。ヒーローがそゆことしちゃイカンだろ(娯楽映画の第1法則だと思うが?)

★ ★ ★ ★ ★
害虫(塩田明彦)

打ちのめされた。「月光の囁き」「どこまでもいこう」「ギプス」に続く塩田明彦の第4作。…いや「害虫」なんてタイトルだから、またぞろ「リリイ・シュシュのすべて」や「まぶだち」みたいな〈学校イジメもの〉なんだろうなあ、厭だなあ…と思ってたのだ。大きな間違いだった。これは(「どこまでもいこう」が小学5年生の男の子を主人公にしたハードボイルドであったように)辛い浮世を独りっきりで生きていく「不登校の中学1年生」をヒロインにしたハードボイルド・ドラマだったのだ。塩田明彦は一切の甘えを許さず、冷徹に「彼女の生き方」を見つめる。ヒロインを演じる宮崎あおい(撮影時15歳)もまた、周囲に甘えもせず振り回されもせず「彼女の人生」を生きる。──そう「夜よ さようなら」のミウミウのように。「ブルックリン最終出口」のジェニファー・ジェイソン・リーのように。あるいは「甘い汗」の京マチ子のように。おれは、13歳の少女がそのような「諦観」を身に纏ってしまっている心のありように、打ちのめされた。 ● このような「常識はずれの娯楽映画」をいとも容易く撮ってしまう塩田明彦はやはり「天才」と呼ぶべき才能だろう。映画が始まって30分以上 経つまでヒロインには台詞が無く、その代わりにSEが不自然なまでに強調される。脚本は、塩田明彦が講師を務める「映画美学校」の生徒さん(清野弥生) 懇切丁寧なテレビドラマに慣れた観客にはおそらく付いて行けないだろう鮮やかな省略話法は、脚本に拠るものか演出の結果か。 ● ヒロインが事あるごとに鼻歌で「亜麻色の髪の乙女」を口ずんでるなあ…と思ったら、なんと「劇中歌作曲:草野正宗(スピッツ)」だって。似過ぎだぜ。てゆーか、権利がクリア出来なかったとかで、ほんとは「亜麻色の髪の乙女」を口ずさんでたんじゃないの?>あおいちゃん。 ● ヒロインの友だちになる浮浪者に「たま」のランニングシャツ・ドラマー 石川浩司。ちょっとオツムが弱そうなのは、脚本がそうなのか、本人の地か? 無視を決め込むクラスメイトの中で唯一ヒロインを心配してる良い子に「リリイ・シュシュのすべて」の(たぶんおれが帰っちゃった後に出てた)蒼井優@普通に可愛い。 クラスメイトの1人として三輪姉妹からの3人目の刺客・三輪恵未(めぐみ)が出てるらしいが、見分けがつかなかった(どの娘?) なお今回は映画の出来に免じて「そんな中1いねーよ!」って老けたエキストラが混じってるのは不問とする。

★ ★ ★
翼をください(レア・プール)

韓国映画「少女たちの遺言」のリメイク…といってもいいほどよく似た話。3年前にお母さんが死んで、後妻に丸め込まれたお父さんに寄宿制の女子高に放り込まれた(精神的にはまだコドモの)女子高生が、ルームメイトとなったレズ・カップルの悲劇的な愛の顛末を目撃する…。 ● 原題は「LOST AND DELIRIOUS」 たぶん成句で「我を忘れてワヤクチャになって」というような意味。寄宿舎に少女を迎えたルームメイトが言う「わたしたちはピーター・パンの Lost Boys よ。Lost and Delirious よ」という台詞から採られている。ネバーランドへ連れてこられた〈ウェンディ〉の役回りに「キャメロット・ガーデンの少女」「シックス・センス」「パップス」のミーシャ・バートン(撮影時14歳) みんなに「飛び方」を教える〈ピーター・パン〉…現実世界では、若さゆえの激情のおもむくまま愛に突っ走る不良少女に「コヨーテ・アグリー」のパイパー・ペラーボ(撮影時23歳)←このコ、よく見ると「スティーブン・タイラー的な口元」とかがヒラリー・スワンクそっくりなんだけど、アメリカじゃこの手の顔は「レズ顔」って認識されてるのかね? ピーターに愛の魔法をかける残酷な〈恋の妖精ティンカー・ベル〉であるリヴ・タイラー似の巨乳少女に、モントリオール出身の新人ジェシカ・パレ(撮影時19歳) レズ・カップルの2人にはヌード&ラブシーンあり。 ●  男性監督・脚本コンビによる「少女たちの遺言」と違って、本作は原作者・脚本家・監督とも女性なのだが「女子高に対するイメージ」がほとんど一緒なのが面白い。まあ、それは本篇の作者たちが「翼をください」を〈時代や場所を特定しないファンタジー〉として撮っている…ということの証明かもしれないが。舞台となる女子高以外の「世間」はいっさい描かれず、劇中の授業の教材や台詞としてシェイクスピアが頻繁に引用され、パイパー・ペラーボが「森で見つけた翼の折れた隼」を保護&治療しているといった挿話も、作品から時代性を剥奪している。結末はまさにシェイクスピア的と言えるものだが(観た人にしか解かんないけど)全員が空を見上げてるってのは甘過ぎじゃないの?

★ ★ ★
マルティナは海(ビガス・ルナ)

「ルルの時代」「ハモンハモン」「おっぱいとお月さま」「ゴールデン・ボールズ」のビガス・ルナの新作。「ノーパン下宿 処女の誘惑」「若妻SEX狂い もっと欲しい!」「若後家22才 芯の疼き」「淫乱有閑マダム 男を飼う」…の4部構成で、新星レオノル・ワトリング@美乳の別嬪さん の魅力を余すところなく見せてくれる。普通に撮ったら3時間級の内容に、テレビの2時間サスペンスな展開も盛り込んで、上映時間は〆て1時間40分。まことソフトポルノとしては ★ ★ ★ ★ ★ の出来である。 ● ヒロインは地中海に面した小さな町の、賄いつき下宿の一人娘。それが都会から来た「文学とクラシックの好きなハンサムな高校教師」とデキちゃって…というお約束な展開。この2人の出会いが凄くて、先生が下宿の中庭で朝飯を食っていると、2階の物干し場に体のラインもあらわな薄っぺらなサマードレス1枚のヒロインが出てきて、濡れたパンティを1枚だけ洗濯紐に吊るしてニッコリ微笑むんだねこれが。あまりにベタな描写におもわず心の中で「うっほほーい!」とか叫んじゃったよ。なにせ無学な田舎娘だからインテリに弱いらしくて、先生が読む愛のポエムを聞くと濡れてきちゃう。あぁん、もっと読んでぇ」だって。美味しすぎ。 ● 美味しいといえば──産地なんだろうね──ヒロインの好物で、あごにしずくを垂らしながら丸かじりするバレンシア・オレンジが美味しそうだった。


ピアニスト(ミヒャエル・ハネケ)

「ファニーゲーム」のミヒャエル・ハネケのフランス語による新作。サディストの変態中年ピアノ女教師がフケ専の青年を弄ぶ話。人間の不快な部分だけをこれでもかと描く作品。それで何が達成されるというのだろう? 去年のカンヌのグランプリ。なんでこれが? あまりに不快なので1時間ちょっとで退出。

★ ★ ★ ★
荒ぶる魂たち(三池崇史)

いま「やくざものVシネマ界」にはひとつの巨大な山がそびえている。名台詞脚本家・武知鎮典(たけちしげのり)という名の山である。名脚本家じゃないぞ、名台詞 脚本家だ。1970年代の東映やくざ映画をいまに蘇えらせる男。当時の俳優もスタジオ技術も製作費もすべて絶えたなかで、無謀にも絶滅した価値観にもとづく男と男のロマン(いっそラブ・ストーリーと言ってもいい)を謳い続ける脚本家。つまり高倉健や鶴田浩二が口にして初めてサマになる気恥ずかしい台詞で全篇を埋めつくしてしまうのだ。 ● こいつの脚本から「2002年の映画」としてのリアリティとアクチュアリティを生み出すのは至難のワザである。だから和泉聖治や梶間俊一 程度の「才能」や、的場浩司や木村一八 程度の「スター」では、いとも簡単に武知鎮典の巨大なナルシシズムに呑みこまれてしまう。その山に今回、決死の登頂を試みたのが、われらが「1人プログラム・ピクチャー監督」三池崇史だ。「今夜はとことん飲み明かそうぜ…はらわたが溶けるまでよぉ」とか「人生 たかが流れ星。ギラーッと光って終わったらええやないですか」とか、下手な演出家/役者の手にかかったら失笑ものの「名台詞」が満載の手ごわい脚本。しかも本作では武知が企画・原案まで務めてるから(いつもの調子で)現場で勝手に台詞を書き換えるわけにもいかない。いままでなら「脇キャラを戯画化してディテイルに凝る」という「極道戦国志 不動」から「殺し屋1」にいたる方法論で乗り切ったかもしれない。だが三池崇史は武知鎮典に真っ向勝負を挑んだ。 ● 親の恩よりテメエの保身か大同団結よらば大樹の蔭だと?…フザけんな! やくざが仲良しクラブやってられっかよ! 主要登場人物が敵味方ともほぼ全員 死に絶えるという、〈荒ぶる魂たち〉の爆竹渡世の弾きあいを、三池崇史は正攻法の演出で描ききる。上映時間2時間30分。おそらくは──「極道の妻たち」の何本かが惜しいところまで行ったのを除けば──本家・東映ですらこの四半世紀 成し得なかった「集団抗争劇」の傑作である。新人カメラマン・伊藤潔の、撮影用照明を極力 廃した濃密な画面も素晴らしい。三池作品では、とりわけ「日本黒社会 LEY LINES」が好きだという方にお勧めする。 ● 製作は大映の土川勉。 俳優陣に関しても、まだまだ智恵を絞って任に合ったキャスティングをすればこれだけの厚みが出せるのだという嬉しい驚きであった(じつは竹中直人だけは「任ではない」のだが、渾身の演技で充分にカバーしてると思う) 当たり前の話だがキャスティングだって「金じゃなくて智恵」なのだなあ。 三池組レギュラーの遠藤憲一も、後半ちゃんと「遠藤憲一」になるので安心してくれ。 ピンク映画界からは冒頭、ケツにマイク突っ込まれるのが ゆき、曽根晴美の若い愛人が中川真緒、秋野太作に足をペロペロされるのが佐倉萌。 みずから鉄砲玉に扮して派手に散っていく(新人俳優・三池モバこと)三池崇史の本音台詞>「楽しいっスか? サラリーマン楽しいっスか?」
※「映画秘宝」28号 所載分に(映画館にて再見後)加筆。

★ ★ ★ ★
光の旅人 K-PAX(イアン・ソフトリー)

ケビン・スペイシーは様々な役柄をカメレオンのように演じ分けることで有名だが、それはまた「ケビン・スペイシーがやりそうな役」というひとつのタイプキャストであり、じっさい今、かれは「俳優として難しいところ」に来ていると思う。かつてロバート・デ・ニーロやメリル・ストリープもそういう時期を経験した。ボブ・デ・ニーロは「いつでもデ・ニーロ」になる道を選び、メリルはメリルであることにこだわって出演作を減らした。ケビン・スペイシーがどちらを選択するつもりかはわからないが、とりあえずジョエル・シルバーかブラッカイマー映画の薄っぺらい悪役あたりから始めてみてはどうか。 ● さて本作。住所不定で保護されて精神病院に送られてきた「K-PAX星人」を名乗る男。まさしくケビン・スペイシーがやりそうな役である(しかも半分以上の場面でサングラスをかけて目の演技を封印するというチャレンジを、自らに課している) われわれには既に「光の国=M-78星雲からやって来て人間に憑依した精神エネルギー体が、驚異の力で地球の人々を救う」物語を持っているわけだが、じつを言うとK-PAX星人の正体もまあ そんなようなもんである。…いや、この「まあ」とか「ような」とかのファジーな部分こそがファンタジー映画の肝であって、どちらともハッキリと結論を出さない、観ようによってはどうとでも取れる絶妙な匙加減である。それ自体が辛い現実と折り合いをつけるための自己防衛行為である「妄想」を、「妄想である」と患者に告げることによって無理やりに「現実」と向かい合わせることの残酷さについても上手いこと逃げている。脚本は「マイ・フレンド・メモリー」「心の指紋」 のチャールズ・リーヴィット。監督は「鳩の翼」のイアン・ソフトリー。自分がかつて「スターマン」であったことをすっかり忘れてK-PAX星人の「治療」にあたる物忘れの激しい精神科医にジェフ・ブリッジス。


シッピング・ニュース(ラッセ・ハルストレム)

悪い映画ではない──ミラマックスのアカデミー賞対策用作品ならではの「臭み」さえ気にしなければ。だが、根本のところでこの映画が耐え難い悪臭を放つのは、物語を「感動」に持っていく「仕組み」にある。ケビン・スペイシーがいつものように名演する本篇の愚直な主人公は、家族や愛する人が今まで必死で隠しとおしてきた秘密を嗅ぎ付けると、わざわざ本人の前にその事実を突きつけて「聞いたよ。苦しかったんだね。ぼくには理解できるよ」とでも言わんばかりの慈愛に満ちた視線を送るのだ。相手はたまらずどぅわ〜んと泣き崩れて、思わず観客も貰い泣き。…あほか。他人の古傷つついて何が面白いか。人にゃそれぞれ「触れられたくないこと」や「忘れてしまったほうが良いこと」ってのがあるんだよ野暮天が。 ● 寒風 吹きすさぶ大地に、屋根から伸びる4本のワイヤーで繋ぎ留められた家がある。それはかつて別の島から皆でわっせわっせ凍りついた洋上を牽いて来た家だ・・・というファンタスティックなビジュアルの設定ひとつ取っても、あるいは終盤に用意された法螺噺のようなオチから逆算しても、これはもっと軽いタッチで演出すべき映画なのは明らか。ラッセ・ハルストレムは「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」のときの軽やかな手綱さばきをすっかり忘れてしまったかのようだ。 ● 共演陣にはスコット・グレン、ピート・ポスルスウェイト、リス・エヴァンス、そしてジュディ・デンチといった磐石な(しかし面白みのない)キャスティング。 ただ、ヒロイン格のジュリアン・ムーアはローカル・ガールには見えんぞ(「都会から嫁に来た女」なのかと思ったよ) あとエンドロールを見てビックリしたのは、主人公の小学生の娘は9才の三つ子(アリッサ&ケイトリン&ローレン・ゲイナーちゃん)が変わりばんこに演じてるのだそうだ。ぜんぜん気が付かんかったよ。すくすくと成長した暁には是非3人で PLAYBOY のセンターフォールドを飾っていただきたいものである(火暴)


アート・オブ・エロス 監督たちの晩餐

ホテル・パラダイス(ニコラス・ローグ)★ ★ ★
氷の愛撫(フリドリック・トール・フリドリクソン)
狂熱の白日夢(ミカ・カウリスマキ)★ ★
マリッジブルーの愉しみ(スーザン・シーデルマン)★ ★
カーシュ夫人の欲望(ケン・ラッセル)★ ★
悪魔のレッスン(ヤヌシュ・マイェフスキ)★ ★ ★ ★
アンジェイ・ワイダの「コルチャック先生」「鷲の指輪」やマルガレーテ・フォン・トロッタの「ローザ・ルクセンブルク」などを手掛けた女性プロデューサーのレジーナ・ツィグラーが、世界の有名監督に発注して、1993年から現在にいたるまで十数本を製作している30分弱のエロティック短篇シリーズから6篇を選んで(3本ずつAプロ/Bプロに分けて)公開された。フィルム撮り。この他にもまだハル・ハートリー、ボブ・ラフェルソン、メルビン・ヴァン・ピープルズ、ヨス・ステリングといった面々の監督作があるようなので、そっちもよろしく。 ● 「ホテル・パラダイス」はニコラス・ローグの1995年作品。いちおう現時点での最新作ということになるようだ。結婚式の朝。全裸にウェディングベールだけという格好で、片手を手錠でペッドに繋がれて目覚めた花嫁。隣りには全裸の見知らぬ男…。おはようダーリン。アンタなんか知らないわ。昨夜は熱く愛を誓い合ったじゃないか。よしてよ。結婚前夜にちょっとハメを外し過ぎただけよ・・・という「マリリンとアインシュタイン」や「トラック29」の匂いがする、登場人物2人だけの一幕一場のラブ・ストーリー。ヒロインの花嫁にはニコラス・ローグのかあちゃん=テレサ・ラッセル(おお今さら!ヘアヌード有り) 男はヴィンセント・ドノフリオ。 ● 「マリッジブルーの愉しみ」は「マドンナの スーザンを探して」の女流監督スーザン・シーデルマンの1995年作品。ニューヨークの歯科助手がレンブラント(?)の絵の中の男に恋して美術館に通いつめるうち…。山なしオチなしの凡作。主演はミラ・ソルヴィーノ。1995年だからアカデミー助演女優賞を獲った「誘惑のアフロディーテ」の前後だ。エロティック短篇を謳ってるのに透け下着どまりで脱がないの。ちぇっ。 ● 「カーシュ夫人の欲望」はケン・ラッセルの1993年作品。つまり「チャタレイ夫人の恋人」の直後。保養地のホテルで同宿の美しい年増女にあらぬ妄想を抱いて付けまわす小説家の、英国風艶笑譚。これは落穂拾い以上の意義はなかった。 ● 6本中いちばんの傑作は日本初登場のポーランド人監督ヤヌシュ・マイェフスキの「悪魔のレッスン」(1995) 天国のように美しい牧場に暮らす(「テス」の時のナスターシャ・キンスキーのような)純真な乙女の前に、黒い服に全身を包んだアンソニー・ホプキンスみたいな男があらわれ、淫らな歓びや邪な欲望を教えていくが…というカトリック的寓話。全裸の水浴から始まって、このレナタ・ダンツェヴィッチという女優さんのピチピチとした裸体をたっぷりと魅せてくれて、欲望のエスカレート、母親への発覚、神父の介在、そして…というアイロニカルなオチも鮮やかに決まって、うーん、この話だけで90分でも良かったな。

★ ★
白い犬とワルツを(月野木隆)

長年 連れ添った妻を亡くした老人の前に、かれにだけ見える白い犬が現れる。日本映画が最も苦手とする類のファンタジーだが、あくまでリアリティを基調とした演出はワザとらしくなく「白い犬」の扱いも適切・・・だとは思うのだが、いかんせん──こんなことを言ってしまってはレビュウにならんことは承知で言うが──おれはこの話にとことん興味が持てないのだ。まあ、仲代達矢という俳優をあまり好きではない…ということもあろうが。そもそもこれって何を描こうとしてるの? 夫婦愛を描くにしては夫婦の来し方がほとんど描かれないし、娘2人の暮らしも通り一遍にしか触れられない。夫婦の心にずっと重くしこっていた罪悪感を描くなら、その発端となったエピソードをもっときちんと描かないと。森崎東の脚本ということで観に来たのだが、釈然としないまま終わってしまった。残念。ただ、出演場面は多くないが藤村志保は素晴らしかった。 ● 原作はアメリカの小説。1993年にヒューム・クローニン&ジェシカ・タンディの実夫婦主演でテレビ映画になっている由。今度ビデオを借りてこようっと。

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スリープレス(ダリオ・アルジェント)

この道一筋30余年、われらがマエストロの「オペラ座の怪人」以来3年ぶりとなる新作。今回なんとゴブリンが──クラウディオ・シモネッティのソロではなくゴブリン名義ではなんと「フェノミナ」以来の──復活を果たして、音楽に復帰。そのせいか嬉しやまるで昔に戻ったようなミステリ風スラッシャーである。ストーリーとか話の辻褄とかはどーでも良くて、映画の眼目はポリティカル・コレクトネスどこ吹く風でイイ女をサディスティックにいたぶるさまを思う存分に魅せることにある。血糊から内臓はては脳漿までハデにぶちまける特殊メイクはもちろんセルジオ・スティバレッティ。昔に較べると生贄の美人度がだいぶ落ちてるのが残念だけど、あとはぎこちない英語台詞まですべて昔日のまま。何の文句もありません。好きな人だけ観てくれ。 ● 探偵役を務める、不眠症(スリープレス)の元刑事にマックス・フォン・シドー。主人公に「カストラート」の主役ステファノ・ディオニジ。ヒロインにキアラ・カゼッリ(脱ぎません)

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パコダテ人(前田哲)

函館に住む女子高生のお尻にある朝とつぜん、キツネみたいなふさふさした尻尾が生えてきた!・・・という日本映画が最も苦手とする類のファンタジー。どうしてもう少し自然に演出&演技(てゆーか、キャスティング)できないかねえ。二手目にはすぐ「ウルウル…家族愛って素晴らしい!」に持ってこうとする脚本&演出は野暮の極み。そーゆーのはさりげなく感じさせるもんでしょう。でまた、宮崎あおいが撮影時15歳だけど立派な「女優」さんなので野暮天のカルい演出と合わないのよ。ま、おれ的にはあおいちゃんなら尻尾が付いてても耳がトンがってても全然オーケーだけど(火暴) ● タイトルは「余分な尻尾が増えたので、函館にも余計な○を付けてコダテ人」ということらしい。 監督は「SWING MAN」「GLOW 僕らはここに…。」「かわいいひと」の前田哲。脚本は新人・今井雅子。 あと、いつもながら低予算 日本映画のエキストラの酷さには絶望的なものがあるな。


陽だまりのグラウンド(ブライアン・ロビンス)

ふざけるな。この映画で子どもを殺さなきゃならん必然性がどこにある?

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サンキュー、ボーイズ(ペニー・マーシャル)

ドリュー・バリモアが10代で酒とドラッグと男に溺れ、更生してB級 脱ぎ女優としてカムバックして、ひょんなことからトントン拍子に栄光の階段を登ったと思ったらミミズ喰いのコメディアンと恋に落ちて結婚、そしてほどなく離婚…という自身の半生に較べたらとてもじゃないがドラマチックなんて呼べない実在の一女性の15歳から35歳までを演じる女 生きてます一代記。こーゆー役にはやっぱ多少の演技力というものは必要なわけで、ドリュー・バリモアでは ちょとキツい。だって藤山直美のほうがまだキュートってのはマズいでしょそれは。だいたい冒頭から「えらい二の腕がたっぷんたっぷんしてるおばはんが出とるなあ」と思ったら、それで「15歳の中学生」って、ナメとんのんかおどりゃあ! それで中学生だったらトレーシー・ローズは幼稚園児じゃわい! さらにスゴいのが「35歳」のほうで、ドリューって1975年 生まれだから撮影時はまだ実年令25歳くらいのはずなのに、どっからどー見ても35歳とゆーより43歳だぞ(←演技力の所為ではありません) ● 原題は「RIDING IN CARS WITH BOYS(男の子と一緒にクルマに乗って)」 ボーイと複数形なのがミソで、それはお父さんだったり、ボーイフレンドだったり、亭主だったり、息子だったりするわけで、てことはアレか、彼女の人生はつねに男と共に在るってことなのか? ずいぶんと保守的な思想だな。そういう意味では、邦題はうまくニュアンスを汲み取っていると思う。で、肝心のドラマだけど、レディース・デーに郊外シネコンに観に来てるヤンママならボロ泣きかもしらんが、おれにはさして感情移入できず。ヤンママ奮戦記としては「あなたのために」と同ジャンルだが、だんだんと人生を学んで聡明になっていくナタリー・ポートマンと違って、ドリューは最初から最後まで愚かなまま。「天使の贈りもの」以来だからなんと5年ぶりとなるペニー・マーシャルの演出は、のっぺりしてて20年の歳月を感じられない。だいたいあの終わり方はなんだよ。七十八十の婆さんじゃあるまいし、まだ35だぞ。彼女の人生はこれからじゃないか!…ってそれは自分に言い聞かせてるのか?>おれ。 ● でも、いいのだ。予告篇を観た時点では(なんか辛気臭そうなので)リストから消えていた本作を観に来たのは「17歳のカルテ」「わたしが美しくなった100の秘密」「フェニックス」「ゴッド・アーミー 復讐の天使」「クルーレス」の当サイトイチオシ注目株のブリタニー・マーフィーが出てると知ったからなのだ。いやあ素晴らしい。いつもは(このあとの「サウンド・オブ・サイレンス」の I never tell...も含めて)エキセントリックな役ばっかり演ってる女優さんだけど、今回はヒロインを支える無二の親友の役でドリューより数段上の演技力をたっぷり披露。正統的アヒル顔ビューティを堪能させてもらいました。 頭の5分だけ出てくる「ドリューの小学生時代」に扮した子役のミカ・ブーレムちゃんも溌剌として可愛かったなあ(やはりこのあとの「アトランティスのこころ」で主役級で出て来ますな)

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アメリ(ジャン=ピエール・ジュネ)

ヒネクレ者なので今ごろやっと観た。それも「アザーズ」が映画サービスデーで満員だったので「じゃあどうしようかなあ」と思って歩いてたら新宿文化の大きいほう(シネマ1)でやっていたので。 ● これはひとことで言えば、史上最強の「不思議ちゃん」礼讃映画である。まあ、最終的には「書を捨てよ、町へ出よう」というメッセージが示されはするのだが、要は「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」と同じことで、悔い改める前のほうがずっと面白いのだ。不思議ちゃん=アメリのデンパな妄想は「乙女チックな夢」として、ストーカーまがいの犯罪行為は「オチャメな悪戯」として描かれるので、女性観客全員が「んもぅ、アメリったら可愛いんだからっ!」と勘違いしてしまう仕組みになっている。きっと「あゝ、あたしの不思議ちゃん人生は間違ってなかったんだ」(註:ここで彼女の脳内では天から光が差す)とか思っちゃうに違いないのだ。こんな映画が大ヒットしちゃって世の中にアメリ女が増殖したらどーすんのよ。てゆーか、すでにホラ、あなたの後ろにもアメリ女が物陰から様子を窺ってませんか? ● アメリ役のオドレイ・トトゥが唯一無二のハマリ役だということに異論はない。チャーミングだとも思う(カノジョにしたくはないが) しかし最初はエミリー・ワトソンの予定だったってのは悪い冗談じゃないの? 怖すぎるでしょそれは。 ● 「エイリアン4」以来、3年ぶりの監督作となるジャン=ピエール・ジュネは──かつての相棒マルク・キャロが参加した「ヴィドック」のように、あるいは同じくモンマルトルを舞台とする「ムーラン・ルージュ」のように──画面に写るものを100%人工的にコントロールする。全体を古い絵ハガキのような風合いに染め上げて、自然の風景はひとつも残さない。果ては地下鉄構内の看板まで描き換える凝り性には感心した。

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楽園追放(ヴェラ・ヒティロヴァー)[ビデオ上映]

「映画秘宝」のロッテルダム映画祭レポートで紹介されていた「たぶん、映画史上もっとも裸がよく出てくる映画(c)柳下毅一郎 が、新宿西口のパークタワーホールで地味ぃに開催中の「イメージフォーラム・フェスティバル2002」のプログラムの1本としてひっそりと上映された。ピアスちんぽも伸び放題の陰毛もおばんの三段腹も巨大などてっ尻もすべて無修正での上映だが、うがった見方をするならこれは正規に税関を通さずビデオテープをこっそりカバン輸入しちゃったもんだから、あんまりおおっぴらに宣伝できなかった…って、あたりが真相かも(チクッたりしちゃダメよ) ● 「ひなぎく」の女流監督、チェコのヴェラ・ヒロティヴァー72歳の新作。かつてはアグレッシブな芸術派でブイブイ言わしてたが、最近は腕も名声も衰え気味のエゴイスト・・・つまりアンジェイ・ズラウスキーみたいな映画監督が、「アダムとイヴの楽園追放」の挿話をヌーディスト・ビーチを舞台にして撮ろうとするが、周囲と一から十まで軋轢しまくり、しまいにゃソフィー・マルソーまで子連れでやって来て隣りでぐだくだ愚痴を言う・・・という「狂気の撮影現場」もの。撮影されている映画がこないだのマイク・フィッギスの「セクシュアル・イノセンス」みたいな失笑ものの陳腐な代物なので、主人公であるズラウスキーにちっとも感情移入できない。ま、結論としちゃ「どんな最低な映画でも現場は祭り」ってことですな。

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ミモラ 心のままに(サンジャイ・リーラー・パンサーリー)

目印国交樹立50周年記念作品だそうだ。メジルシ?…ああ、目じゃなくて日か。つまり日本とインドね。インドかよ!<それはミモラじゃなくてミムラ。…とかクダらんこと考えてる間に映画は始まり・・・(5分経過)・・・あああっ! おれ、これ前に観てるぞ。 あとで家に帰って調べたら2000年の東京ファンタのインド映画オールナイトで上映した「心のままに」って作品だった。…ってサブタイトルにちゃんとそう書いてあるじゃんか。いや、そうなんだけど。うーん、ギャガが作ったストーリーも台詞も劇中歌も一切使わないイメージビデオ予告篇にすっかり騙されちまったぜ。まあ、結局は3時間7分 最後まで観ちゃったんだけどね。ちなみにタイトルの「ミモラ」とはどうやら「レモン」の意味らしい。劇中でヒロインが愛しい男を想って♪ミモラミモラミモラ〜と歌う場面もある。てゆーか、おれには♪ミムラミムラミムラ〜って聞こえたけどなあ。<オチつけてどーする! ● …というわけで以下、当時のレビュウをコピペしておく。>「ジーンズ」のアイシュワリヤ・ライ主演のラブストーリー。彼女の役はハウステンボスみたいな大邸宅にお住まいのお嬢さま。サモ・ハン・キンポーみたいな厳格な父は有名なインド歌謡の歌手。で、その父親のところにはるばるイタリアから弟子入りにやって来たのが、ジョージ・クルーニーの外見と(お調子者モードの)ニコラス・ケイジみたいな性格を持ったハーフの色男「名前はサミール。サムって呼んでくれ」 最初は反発しあってた2人だが、すぐに愛し合うようになるのはお約束。ところが親父に黙ってこそこそ付き合ってたもんだから、親父は親父で娘の嫁ぎ先を決めてしまうわ、いまさら親父に本当のことは言えないわ…で、若い2人は進退きわまる。結局、親父にバレて色男は弟子を破門されイタリアへ帰国。ヒロインはむりやり結婚させられてしまう…と、ここまででまだ前半。ヒロインのお母さんの名台詞「あなたは過去を握りしめてるだけよ。忘れてしまいなさい。あとで拳を開いても何もないから」 ● で、ヒロインが結婚させられた相手というのが弁護士一家の後継ぎ息子で、ニコラス・ケイジの風貌とジョージ・クルーニーの誠実さを持った、歌のひとつも上手に歌えない朴念仁。でもヒロインを愛してるという点では誰にも負けないから、毎日を泣き暮らす妻の「涙のわけ」を知ると、なんとヒロインを連れてイタリアへ「女房の恋人」捜しに出掛ける。ということで後半はイタリア・ロケのロードムービーとなる。で、その過程でだんだんと頑なだったヒロインの心がほどけてくるわけだ。(ネタバレだけど)ヒロインが再会したかつての恋人に言う台詞「あなたは愛をくれた。その力でわたしは七つの海を渡ってきたわ。でも今はあなたとの間の七歩の距離が越えられない。あなたは愛を教えてくれた。でも主人は愛を育むことを教えてくれたの」 ● ま、なんというか結局は保守的な結論にたどりつくわけだが、それを説教や教訓と感じさせないのが娯楽映画の腕の見せどころ。なにせ3時間7分だし途中がそーとーダレるのだが終わり良ければすべて良しということで ★ ★ ★ とする。ダンスシーンは豪華なのだが、歌にいまひとつ大衆性が薄い気がするのは、絶世の美女なれどいまひとつソソられないアイシュワリヤ・ライが歌ってるから?(歌声は吹替だけど) だいたい下腹ペタンコのインド女優に何の価値が?(←暴論) 前半主役の色男に「カランとアルジュン」のサルマン・カーン。後半主役の旦那さんにアジャイ・デーウガン。はっきり言って演技力ではこの人が群を抜いていて、最初のうちは「ヒロインを横から娶った憎まれ役」のはずなのに、かれが一言しゃべった途端に観客は「奥さんに愛されない可哀想なご主人」の味方になってしまう。実生活では「DDLJ」のヒロイン、カージョルの旦那さんだそうだ。ヒンディー語映画で、原題は「わたしの心は愛しいあなたのもの」。 ● 関係ないけど、隣にインド映画初体験らしきカップルが座っていて、どうやら男のほうがラストに感動して涙ぐんでたらしく、そしたら横から女が「ダサいじゃん、こんなの。アンタ何で泣いてんの?」だって。それはカレー喰って辛いって文句言うようなもんだぞ。てゆーか、別れろ別れろそんなバカ女。

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SPY リー・チョルジン 北朝鮮から来た男(チャン・ジン)

[ビデオ観賞]ものものしいタイトルだが、話としては「田舎者上京コメディ」である。つまり上野駅で始まり上野駅で終わる類の映画ね。これは絶滅寸前のジャンルであって、それはもちろん世界中から田舎が消えてしまったからに他ならず、昔は「青森と東京」で充分に落差が出たものだが、コカ・コーラとマクドナルドとインターネットの普及で今じゃ全世界どこでも同じ。ちっとやそっとの落差じゃ映画にならなくて、しまいにゃオーストラリアのワニ猟師がニューヨークへ出て来たり、アフリカの土…あいやニカウさんが香港へ迷い込んだり、辺境の宇宙人が地球のSFコンに珍入したり、南洋の孤島の巨大猿が摩天楼によじ登ったりしちゃうわけである(←それはジャンルが違います) ● そこで登場するのが地球最後の秘境=北朝鮮である。人々がどんな暮らしをしてるのか誰も知らない神秘の国! 主人公は北朝鮮の秘密工作員。人民の飢えを満たす「スーパー豚」の遺伝子をゲットすべく極秘裏に韓国に入国したはいいが、しょっぱなから狡猾なタクシー強盗に遭い、スパイ七つ道具から拳銃、工作金まで奪われてカラッケツ。任務決行までの1週間、あきれはてる韓国駐在スパイの一家に世話になる。「駐在」ったってもちろん非合法行為なんだが、この一家がなんとも「普通」なのが可笑しい。美大生の娘(定石どおり主人公と淡いロマンス関係になる)と不良高校生の息子がいて、妻は生活費が足りないとブーブー言ってるし、亭主も潜入スパイってより転勤が長引いてるくたびれたサラリーマンみたいなのだ。はたしてこんな調子で任務が決行できるんだろうか…。 ● 主人公を演じるのは「友へ チング」でヤクザの息子をやってた「韓国の松田優作」ことユ・オソン。ふだん食ってない米の飯をたらふく食える嬉し悲しの定番演技がいい味。 ● 言わずもがなだが「田舎者上京コメディ」は作り手の田舎者に対する基本的な愛情が存在しないと成立しないジャンルである。つまり、この場合は韓国から北朝鮮への。にもかかわらず本作がハッピーエンドで終われていない「苦さ」が南北朝鮮に横たわる現実の深刻さを示している。
※「映画秘宝」30号 所載分に加筆。

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エンジェル(ミゲル・クルトワ)

[ビデオ観賞]愛する弟の罪をかぶって1年半の服役を終え、出所したギャングの元・愛人。突然の妻の家出に、乳飲み子を抱えたまま麻薬ルートを追う中年刑事。刑事は捜査中に女の弟を射殺するはめになり、それを知らぬ女は刑事の赤児を誘拐して「弟を殺した犯人を教えろ」と迫る。なりゆきから行動を共にすることになった、もう若くはない2人の間にやがて芽生えてはならない感情が芽生える…。 ● 主演は「愛しきは、女/ラ・バランス」の、人生の苦汁をまるで鶴田浩二のように噛みしめるリシャール・ベリと、「ミナ」のエルザ・ジルベルスタイン。フランス映画なのでもちろんヌードあり。途中まではフランス映画お得意のムーディーなハードボイルドかと思ってたら──いや、なにせフランス映画だから脚本と登場人物の性格が破綻してるので「本来あるべき姿」がつかみにくいんだが──よーするにこれはアメリカ的B級アクションなのだった。ラストは囚われたヒロインと赤ん坊を助けに、刑事がギャングのボスの家に単身乗り込んでの銃撃戦だし。ハリウッドでリメイクするならデミ・ムーアとアンディ・ガルシア主演ってとこか。だったらもっと明快に作ってくれなきゃダメでしょーが。ヒロインにぞっこんストーカー・ラブなギャングのボスを、スキンヘッドで怪演する「王妃マルゴ」のパスカル・グレゴリーが(演技も含めて)最近の悪役ミッキー・ロークに瓜二つ。まるでフランス人の従弟のようで笑える。
※「映画秘宝」30号 所載分に加筆。

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ダウンズ・フィールド(TJ・スコット)

[ビデオ観賞]フィリピンのケーブル・ニュース・チャンネルが、アジアでも大人気の「ベイウォッチ」の主演男優を招いて、オール・フィリピン・ロケで製作した「アメリカ映画」 この邦題とジャケ写からすると、やっぱ「キリング・フィールド」や「サルバドル 遥かなる日々」のセンを狙ってるんでしょうな(それはいいけど、そもそも〈ダウンズ・フィールド〉って何よ?) ● 実際の内容は「社会派戦争ドラマ」でもなんでもなくて、「危険な年」「ハバナ」などのエキゾチック・ロマンスの系譜に連なるべき一作(クライマックスにはちゃんと「地元の祭り」が配される) 「失踪した父を捜したい」といういたいけな若い娘にほだされた探偵が「暴いてはいけない秘密」を暴いてしまい。暗黒街のボスに命を狙われる…という典型的なフィルム・ノワールのプロット。意外としっかりしたミステリー・サスペンスとして観られるのは「コンドル」のジェームズ・グラディのオリジナル脚本ゆえの功績か。演出はTVムービー版のほうの「ジョン・ウー 狼たちの絆」シリーズのTJ・スコット。 ● 「探偵」役をつとめる、息抜きに立ち寄ったはずのマニラで事件に巻き込まれる歴戦のフォト・ジャーナリストに「ナイトライダー」のデビッド・ハッセルホフ(カー・チェイスならぬジプニー・チェイスのサービスあり) アメリカ軍人とフィリピン女の娘であるヒロインに、MTVアジアの人気ナンバーワンVJである(「狼たちの絆」のサンドリーヌ・ホルトにちょい似のエキゾチック美女)ドニータ・ローズ。残念ながら脱ぎはなし。 「暗黒街のボス」には、御大ロッド・スタイガーが出演している。
※「映画秘宝」29号 所載分に加筆。

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オールモスト・ブルー(アレックス・インファセリ)

[ビデオ観賞]イタリア産のサイコ・スリラー。某アルバトロスのドイツものと違って、ちゃんと(英語吹替ではない)イタリア語原版を使用しており、邦題も原題のままというとてもビデオ・ストレートとは思えぬ芸のな…あ、いや、良心的なパッケージではある。劇中ではエルビス・コステロの同名曲「オールモスト・プルー」が頻繁に流れるのだが、それがちゃんとワンコーラスとか流れず、妙にブツ切りなのは使用料の問題なのか?(1分いくらとかゆー料金体系なのかね?) ● 舞台はボローニャ。イタリア警察の凶悪犯罪分析官(略してUAVC)の若い女性警部が、特殊な能力を持つ民間人の手を借りて異常犯罪者を追う…という、またもや「羊たちの沈黙」のバリエーションである。捜査の過程や論理的推理の快感よりも、犯人/犯行の異常さをスタイリッシュな映像で見せることを眼目とするのは「セブン」の流れ。ま、こーゆーいわゆる「七羊もの」(すいません いまジャンル作りました)は有史以来いままで数千万本の亜流作品がさまざまなギミックを凝らして製作されてきたわけだが、当然のこと元祖のレベルに到達できる確率はとても低い。 ● 本作の場合は、犯人が「殺した相手の衣服や所持品はてはピアスを身に着けることによって他人のアイデンティティを奪い取ってしまうシリアル・キラー(禿頭&常時ヘッドフォン着用)」という、いかようにも面白くできそうな設定なのだが、肝心の犯行シーンは描かれず、犯人の異常性も「明滅する蛍光灯の洗面台でウガーッとか言ってる後ろ姿」のイメージショットでごまかされる。「変装する犯人」という主題にいたってはストーリーにまったく反映されない。ダメじゃんそれじゃ。一方、「特殊な能力を持つ民間人」は本作の場合、パソコンのチャットで偶然、犯人と被害者の会話を聞いてしまった(=唯一、犯人を特定できる)めくらのパソコンおたくヒッキー君なのだが、まともな脚本家なら「犯人にそのことを知られてしまい目の見えない青年に背後から迫る連続殺人犯!」とゆーよーな場面を作ると思うんだが。てゆーか、チャットで声は聞こえないと思うんですけど…。 ● 実際にデビッド・フィンチャーの下でミュージック・クリップの仕事をしたこともあるという、このアメリカ帰りの新人監督の演出は一事が万事すべてその調子で、スローモーションを多用したハンパにMTVスタイリッシュな映像は「ストーリーを効果的に物語る」という目的とは関係のない「演出のための演出」でしかない。映像派の皆さんにお勧めする。
※「映画秘宝」29号 所載分に加筆。

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