体珠 「コラッ! 独田、大事な会議中にどこへ行くんだ!」  退屈な営業報告の途中で部長の罵声が飛ぶ。 「あ、あのト、トイレへ…」 「またトイレかよぉ。お前一回病院でも行った方がいいんじゃないか?」  独田の隣に座る同僚の屈山が顔に嫌らしい笑みを浮かべながら言う。  背中に突き刺さるたくさんの視線を振り切って独田はトイレへと走った。  独田がこの田部流名食品株式会社に勤務してもうすぐ3年になる。営業職を任されているが、お世辞にも成績はよくない。同期入社の中でもおちこぼれの部類に入るほうだ。もしかしたら全社的に見てもおちこぼれなのかもしれない。  そもそも、彼は人と面と向かって話をするのが苦手であった。中学校時代にクラスメートの冷やかしで生徒会長に立候補させられたときの演説はいまだにトラウマとして心の奥底で彼に人の目線を恐怖の対象へと変えさせている。だから彼はいつも一人になると、こんな僕が営業でうまくいくわけがないじゃないか、と愚痴る事が多かった。また会議のように、大勢が顔を突き合わせているような場所も苦手としていた。少々自意識過剰気味ではあるが、まるで全員が彼を見ているかのような強迫観念に襲われるのだ。  そんな彼にとってトイレの個室は会社の中で唯一落ち着けるオアシスのような場所だった。  洋式便器が置かれている個室に入るとズボンを履いたまま便座に座る。別に用をたしに来たわけじゃない彼には至って普通の行動だ。  独田は大きく深呼吸をすると、ひざの上にひじを立てた状態の手のひらで顔を覆う。ここはいつも騒々しいオフィスや会議室と違って静かだ。こうやって暗闇の世界を見つめながら、頭の中を空っぽにするのはとても気持ちがよかった。そして、そのまま彼は不覚にも、といってもいつものことなのだが、居眠りをしてしまった。  夢の中の独田も現実の彼のように洋式便器にズボンを履いたまま座っていた。そろそろ仕事に戻ろうか思ったらしく、座ったまま水を流そうとレバーに手を伸ばす。そしてレバーを引いた瞬間、ドアの隙間から天井から床の隙間からありとあらゆる場所からものすごい量の水が流れ出してきた。彼はあっという間に水に飲み込まれ、何が何だかわからないまま便座の中へと流されていった。 「ハッ」  慌てて目を覚ました独田は思わず大きな声を出してしまった事に気づき、軽く咳払いをしてごまかす。  独田が居眠りはするのは割とよくあることなのだが、夢を見たのは初めてだった。それも、あんなにリアルな夢は普通の睡眠時にも見た記憶がない。ただ、忘れてしまっているだけのなかもしれないが。  夢の中ではあっという間の出来事であったが、腕時計を見ると5分ほども寝ていたようだった。  そろそろ会議に戻らなくてはと思い、夢の中の自分がやったように水を流すレバーへと手を伸ばす。が、先ほどの夢がみるみる蘇ってきて、嫌な汗が彼の頬を伝う。あの夢はもともと泳ぎが得意ではない独田に変な恐怖感を植えつけた。もし、また夢のように水が襲ってきたら……思わず身震いする。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。とここで、彼は何か違和感を感じた。何かがおかしい気がする。答えは程なくして見つかった。個室の外が妙に騒々しいのだ。まだ昼前だというのに、個室の外では色々な会話が飛び交っている。まるでここで会議が行われているかのようだ。  ともかく、ここを出よう。彼は意を決し、勢いよく水を流した。水は当然のことだが流れてはこない。ホッと胸をなでおろし個室のドアを開ける。するとそこには大勢の人がいた。上司に同僚、後輩もいる。その不自然な光景を尻目に独田はゆっくりとトイレから出て行こうとした。 「コラッ! お前どこに行くんだ!」  突然怒鳴ってきたのは、あの口やかましい部長だ。一体いつの間に来たのだろう。しかし、よくよく見まわすと、先ほどまで会議をしていた連中全ての姿があった。本当にここで会議をしているかのように。 「何をボーっとしておる。どこに行くつもりかと聞いているのだ!」  部長はなおもキツイ口調で詰め寄ってくる。 「あ、あ、いや。会議室に戻ろうかと…」 「また会議室かよぉ。お前一回病院でも行った方がいいんじゃないか?」  いつのまにか独田の隣にいる屈山が顔に嫌らしい笑みを浮かべながら言う。  何だ、この感覚は。まるで、前にもこんなことがあったような感覚。  独田は何だか気味が悪くなり、背中に突き刺さるたくさんの視線と共にすべてを振り切って会議室へと走った。  会議室はもぬけの殻だった。そりゃそうだ。会議に参加している人間は今全てトイレにいるのだから。ちょうどトイレ休憩でも取ったのかもしれない。ただでさえ、この会社の会議は無駄に長い。休憩でも取らなきゃとてもやってられないのは独田に限ったことではない。他の皆ももう少し待っていれば戻ってくるはずだ……った。あれから15分は過ぎたというのに誰も戻ってこない。もしかしたら会議は既に終わったのだろうか。いや、確か予定ではまだ2時間以上は時間が残っているはずだ。そんな急に取りやめになるなんてことは考えられない。独田はもう少し待ってみることにした。  おかしい。いくらなんでもこれはおかしい。独田は一向に戻ってくる気配のない会議室の天井を見上げながら、首をかしげる。もうあれから30分以上たっている。やはり何か特別なことが起きて会議は中止になったのだろうか。独田はついに痺れを切らし、仕方なく自分のオフィスへと戻ろうと席を立った。彼の机があるオフィスは会議室のあるフロアの一つ下だ。が、彼はたった1フロアの移動でもついエレベーターを使ってしまう。下向きに取り付けられた三角のボタンを押し、エレベーターがこのフロアに向かってくるのをランプで確認する。とそこへ、さっきの同僚、屈山がやってきた。 「お前、何やってんだよ」 「何って、オフィスに戻ろうかと…。そうだ! 会議はどうしたの?」 「はぁ? お前何言ってんの? 今もやってるよ。途中で勝手に出ていっといて、訳わかんねぇやつだな。ともかく、課長が新しいやつの紹介するから早く戻ってこいよ」 「戻って来いって、どこに? 会議室にもう皆集まってるの?」 「お前やっぱり病院行った方がいいんじゃないのか? さっきから全員揃ってるだろうが。お前を除いて」 「でも、さっきまで誰もいなかったよ」 「そりゃ、会議室にいるわけねえだろうが! どこの世界に会議室で会議するやつがいるんだよ! ああ、埒があかねぇ。とっとと来い! お前のせいで俺まで説教食らうのはゴメンだからな!」  そう言うと屈山は独田の腕を取り、無理やり引っ張っていく。  誰もいなくなったエレベーターフロアにエレベーターの到着ベルが寂しく響いた。  屈山が連れてきた場所はトイレだった。さっき独田が居眠りをしていたあのトイレだ。  ドアを開けると狭いトイレの中に20人ほどの人間がいる。全員の視線が独田に集まり、まるで全員に針で突かれているかのように顔が痛かった。 「部長、独田をつれてきました」  独田の姿を見た部長の表情は怒りを通り越してあきれているといったものだ。 「ともかく、独田。頭岳課長が新しい製品を完成させたから見てみろ」  独田は最初は冗談かと思った。しかし、部長をはじめとする全員の顔は至って真面目だ。彼は困惑の表情を強めて部長にたずねる。 「見てみろと言われましても、こんなところで何を見ろと…」 「ええい! グダグダ言わないで、とっとと見ろよ!」  さっきからイライラしっぱなしの屈山は、独田の首根っこを捕まえると一番手前の個室へと引っ張っていく。 「な、何をするんだよ。個室に連れ込んで何をするつもりなんだ」  独田は精一杯の抵抗を試みる。というのも、訳も分からずトイレに連れ込まれるなんて冗談じゃないというのはもちろんだが、それ以上に小学校のときによくいじめられた場所というイメージが強いため、一人ならともかく、二人以上で入ると嫌な想い出が蘇るような錯覚に陥るのだ。 「もう、うるさいな! いいから見ろよ」  そう言うと独田は僕の首から手を離し、便器を指差す。 「便器なんか見てどうすんだよ」 「便器だけ見ても仕方ないだろ! 中だよ、中! 便器の中!」 「べ、便器の中!? ふ、ふざけるなよ!」  便器の中にあるものといったアレしかないではないか。屈山は一体何を考えているんだ。そもそも僕にそんな趣味はないし、興味も全くない。僕の趣向はいたってノーマルなのだ。もう、独田の頭の中は大パニックだ。 「ふざけてるのはお前だろ! いい加減にしろよ。じゃないとさすがの俺もキレるぞ」  明らかにキレた口調で屈山は独田を睨む。彼がここまで感情を露にするのは非常に珍しい。かと言って、ハイそうですか、なんて簡単に見ることなんてできるわけがない。トイレの個室での戦いは膠着状態に陥った。 「お前ら、誰が漫才をしろと言った。大事な仕事をお前らはなめてるのか?」  そこへ横から怒声を飛ばしてきたのは愚汁係長だ。この人は非常に短気だ。オマケに嫌な性格をしている。人の弱みをネチネチと痛めるのが好きなのだ。おかげでどうも人間関係を築いていくのが得意ではないらしく、40が見えてきていると言うのにまだ係長に甘んじている。とても不惑とは言えない人だ。  独田は具汁係長を苦手としていた。何せこの人は嫌な性格に加えて、油断すると簡単に手が出てくるという危ない一面も持っている。社会人になってまでそんな目にあうとは想像していなかった独田は、いきなり頬を叩かれたときには痛み以上のショックがあったのを覚えている。確か、入社して間もない頃だ。当時、係長に昇進したばかりの愚汁は、ここぞとばかりに平社員をいじめていた。簡単な書類のミスから、お茶汲みのお茶の入れ方に至るまでほんの些細なことをさも大失態を犯したかのように誇張して説教をする。独田が頬を叩かれたのはつい叱られた事に対し口答えをしたためだった。だいたい、何で書類にはんこをもらいに行っただけなのに、そのもらい方がおかしいと説教を受けねばいけないんだ。いくらおちこぼれとは言え、こっちにだって仕事がある。毎回はんこをもらうたびに説教を受けていてはさすがの彼もたまらなかった。そこでつい「仕事があるんですが」などと言ってしまったのだ。それは頭で考えるよりも先に出た言葉だった。愚汁はその声を聞いた途端、みるみる顔を赤らめ、椅子から思い切り立ち上がったと思ったら、そのまま平手打ちを食らわしたのだ。それまで、色々な会話が飛び交い騒然としていたオフィスがその乾いた音に一気に静まり返った。他の皆も愚汁の短気振りはよく知っていたし、酒の場などでは部下に暴力を振るうこともよくあった。しかし、さすがに社内で手が出るとは夢にも思っていなかったのだろう。オフィス全員の目が二人の方へと一斉に向けられたまま、時間が止まった。その視線の痛さに、まるで独田が非難を浴びているように思えて、頬の痛みが増していく。「何、ボーっとしている! 仕事をしろ!」という、普段の倍に近い音量で愚汁が怒鳴ったことで、オフィスは再び何事もなかったかのようにいつもの喧騒に戻った。そう、この愚汁という男は自分が失態をしたなどとは露にも思ってはいない。再び怒りの形相を独田に向けた後、具汁は更に1時間にも渡り説教を続けるという伝説を残した。その事件以来、社内で具汁に頬を叩かれた人間は現れていないが、「触らぬバカに祟りなし」という格言が社内に広まったためだ。それは独田も同じこと。それ以来、彼は愚汁に決して文句を言わないことを決めた。下手に文句を言ってまた叩かれてはたまらない。でも、それ以前にこんな暴力係長を雇い続けている会社に疑問があったが、そう簡単にリストラを出来ない事情もあったようだ。難しいことはよく分からないのだが。  そんなわけで、愚汁の罵声に後押しをされるかのように独田は渋々便器の中を覗いて見る事にした。それは恐る恐ると言うよりも明らかに嫌々という動きだった。こうやって自分の感情を隠せないのも、営業にむいてない理由の一つのようである。  しかし、その便器の中に僕の想像するものはなかった。  代わりに、と言っては何だが、何とも便器とミスマッチな可愛らしい物体が水に浮いていた。  それはピンク色をした立方体。一辺の長さは5センチと言ったところだろう。だいたいサイコロキャラメルと同じくらいだと言えば、大体の大きさは伝わるだろうか。  それにしても、なぜこんなところにこんなものが入っているのであろう。何か意図でもあるのだろうか。周りの社員は真面目な表情で黙って僕の様子をうかがっている。が、ただ一人。頭岳課長だけは違った。明らかに笑みを浮かべて独田の様子を眺めていた。  この時独山は悟った。やはり自分はだまされている。普段、パッとしない自分を会議に参加していた全員でだましてからかっているのだ。きっと課長以外の面子も心の中では大笑いしているに違いない。ここまで考えて独田の胸には沸沸と悔しさと怒りががこみ上げてくる。いくら、仕事が出来ないからといって、たまにトイレでサボっているからと言って、いやこれはまずいのだが、ともかく、人をハメようとするなんて酷いやつらだ。普段は大人しい彼もさすがにこれにはキレてしまった。キレた後どうなるとか、そんなことは一切考えられなかった。大体、生まれて初めてキレたのだから。 「どういうことですか!」  明らかに怒りを孕んだ僕の言葉に全員が息を飲む。 「どういうことなんですか!」  突然怒り出した独田に屈山が驚きの声をあげた。 「おいおい。独田、何怒ってるんだよ。今はそんな場じゃないのは分かってるんだろうが」  屈山はこの期に及んで、まだ白を切るつもりらしい。他の社員が何も言ってこない辺りを見ると、全員が同じ考えのようだ。独田の怒りはますますヒートアップしていく。 「だから、何でこんなものをこんなところで見せられなきゃいけないんだよ! 人をバカにするのもいい加減にしてくれ!」  その言葉に誰よりも早く反応したのは他ならぬ課長だった。  さっきまで浮かべていた笑みはどこへいってしまったのか、鬼気迫る表情で独山に近づいてくる。 「こんなものとはどういうことだ」  頭岳課長は怒りを押さえ、あくまで冷静に、しかし語尾は強く、一語一語を静かに話す。 「課長、落ちついてください。ほら、こいつはちょっと今日おかしいんですよ。こんなにも素晴らしいのに…」  屈山は必死の様相で課長をなだめている。予想していない展開に、怒りを抱えたまま独田の頭が混乱し始める。 「うるさい! 私は独田に言っているんだ」  独田の方を見つめたまま屈山を一括する。そして、軽く息を吸いこむと、もう一度静かに、しかし先ほどよりも語尾はキツく話し出す。 「改めて聞く。こんなものとはどういうことだ」 「ど、どういうことだと言われましても…」  課長の真剣なまなざしに先ほどまでの怒りの感情が吹き飛んでしまった。課長をよく見ると、瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるようにも見えた。独田の頭はパニックで大混乱で大騒ぎだ。 「私がこの作品を作り上げるまでに一体どれだけの時間と労力がかかったと思っているのだ! こんな屈辱は初めてだ! 失礼する」  課長はそれだけ言うと足早にトイレを立ち去った。最後の辺りは涙のせいか言葉になっていなかったように聞こえた。  課長が出て行くのを見送った部長は軽く咳払いをした。それがきっかけとなり、他の社員も静かにトイレから出て行き始める。  後に残されたのは独田と便器に浮かぶピンク色の物体だけだった。  全員が出て行き、誰もいなくなったトイレで独田は便器に浮かぶ立方体を眺めていた。  ピンク色の蛍光色で彩られたそれは、サイコロのように数字を出すわけでもなく、ただゆらゆらと水面で踊っている。  頭岳課長はとても仕事熱心な人だ。独田は噂で聞いただけだが、一昔前は企画課に頭岳ありと社外にも有名であったと言われる。  独田は過去に一度だけ頭岳と仕事の後に飲みに行ったことがあった。そのときに受けた印象は、ただひたすらに真面目で、仕事に対する情熱にあふれている人であった。管理職となった今もバリバリに開発を続けている彼の作品を、社内では時代遅れだと悪く言うものも少なくなかったが、独田はその仕事振りも作品も尊敬していた人間の一人である。  そんな課長が、悪ふざけをしているだなんてよくよく考えればありえない話なのだ。  涙で声を詰まらせた課長の最後の言葉を思い出しながら、ひどい事をしたと独田は後悔するのであった。  しかし、ここまでの思いをもって作り上げられたこの物体は一体何なのであろう。ある場所がある場所だけに、それを手にとることには抵抗があったが、キラキラと水に反射する物体を独田は素直にきれいだと思った。  とにかく訳が分からなかった独田は会社を早退した。  屈山は一応体の心配をしてくれたが、独田からすると何か腫れ物に触るかのような印象を受け、あまり気分のいいものではなかった。  外は春とは思えない熱気で包まれていた。  時間は3時。まだ、涼しくなるまでには時間がかかりそうだ。  視線を1メートル前方の地面へと置き、トボトボ歩く男。時期が時期だけに、まるで会社にリストラされたかのようだ。背中から漂わせている哀愁もとても20代のそれではなかった。想像以上に課長の涙は彼に強い衝撃を与えていたのだ。  独田はとりあえず自宅へ帰ることにした。  どこかで時間をつぶしたり、何かをしにいこうという気分にはなれなかった。  家に帰り、布団に横になって、テレビでもボーっと見る。そうすれば、このおかしな気分も何とかなるだろう。  こうなった理由を考えるのも彼には今は苦痛以外の何者でもなかった。  焦点のはっきりと定まらない視線では、今までと街並みの様子が違うことに気づくことはなかった。  5分ほど歩いたところにある駅から自宅までは1本の電車でたどり着くことができる。  約30分の電車の旅だが、乗換えがないことと、始発駅なので早く行けば座席の確保も可能なため、通勤自体はそれほど苦ではない。逆に同僚からうらやましがられるぐらいだから、余程ほかの人間は苦労しているのだなぁと漠然と考えるぐらいだ。  定期券を使い、慣れた手つきで自動改札を通り抜ける。  さすがに平日の昼間ともなれば、朝夕のような人の数を見ることはない。  いつもは人の流れに流されるまま上り下りをする階段を一歩一歩上る。いつもは気にならなかったが、想像よりも急な階段であったことに気づく。  次の電車が2分後にくるというホームでは、駅構内で見た以上には人が待っている。ただ、ラッシュ時のような理路整然さはなく、思い思いの場所で、思い思いの方法で電車の到着を待っていた。  独田はいつも乗り降りする前方から三両目の一番前のドアが停車する場所へとゆっくりと歩いていく。  別に今日は急ぐあてもないのだから、帰りの駅の階段のことなど考える必要もないのだが、ついつい日々行っていることは無意識に出てしまうものだ。  ちょうどそこには3人組の女子高生が大声で会話をしていた。  いつもの独田ならば、カバンから文庫本を取り出して読むところであったが、今はそんな気分にもなれない。ただ何も考えず、ボーっとしていたいのだが、女子高生のうるさい会話は嫌でも耳に飛び込んでくる。 「なんか、最近便秘気味でぇ、金なくてチョー大変だよ」  話の筋がまったく見えない。まあ、最近の女子高生の会話なんてこんなものだ。これでも独田と彼女たちでは10歳も年が離れているわけではない。しかし、今の時代、3歳も年が違えば十分ジェネレーションギャップを感じることができる。寂しい世の中になったものだと独田は思う。別に女子高生と仲良くなりたいわけじゃないが、自分よりも若い世代との間にどんどん溝や壁が生まれていくのを黙って見過ごしていると、想像以上の速さで老けていくようで、やはり気分のいいものではない。 「そうそう、これ見てよ」  そう言って別の女子高生がポケットから取り出したのは黄色い水晶のような物だった。大きさは今日トイレで見たピンク色の物体よりはかなり小さく、高さは2センチもないだろう。また、形は立方体ではなく三角錐だった。小さいくせに太陽光に反射した光はまぶしかった。 「わあ、何? 今日の?」  ほかの2人の方が目を輝かせて覗き込む。 「うん。先週ナンパしてきたヤツがいてぇ、そいつに教えてもらったんだぁ。」 「え、どうやんの? どうやんの?」 「沙織たちじゃダメだよぉ。あたしだからできたんだもん」 「うわっ、ムカツク言い方ぁ」 「でも、これなら高く売れるんじゃない?」 「でしょ? 私も期待してるんだぁ。でも、これで安かったら先週の男見つけて、ぶっ殺しとかないと」  最後の一言で、3人は高らかに声をあげて笑い出す。ぶっ殺すだなんて物騒な台詞で笑える神経が独田には理解できなかった。  それはともかく、どうやらあの水晶のようなものは高校生の1人が作ったものらしい。それにしても、あんなものどうやって作るのだろう。そういえば、課長が作ったというあのピンク色の物体だってどうやって作り出したのだろうか。それ以前にあれをどうするのだろう。まさか、さっきの女子高生みたいに売ってお金にするわけではないはずだ。何せ、独田が勤めている会社は食品会社なのだ。課長だって食べ物を開発していたはずなのに、なぜあれを開発する必要があったのだ。疑問は一向につきないが、女子高生の能天気な会話のせいか、多少は気分が落ち着いた独田はやがてやって来た電車に乗り込みながら、改めて色々と考えをめぐらせることにした。  その後、その謎の物体はいろいろなアクセサリー、例えばキーホルダー、ピアス、指輪、ネックレス、携帯ストラップ、といったものにつけている人がたくさんいることが分かった。何せ、ざっと電車の車内を見回すだけで簡単に見つけることができるのだから。  ただ、色のついているものはほとんどなく、形は様々、その割に二つとして同じものはなかった。わずかに見受けられた色のついているものの色はすべて蛍光色であり、原色のような鮮やかな色をもつものはなかった。だからこそ、それが宝石とは違うのは一目瞭然だった。どちらかといえばプラスチックでできたおもちゃの宝石といった印象が強いものなのだが、なぜか心を惹かれるものをその物体は持っていた。それに魅せられたのか、独田もその謎の物体を欲しいと感じ始めていた。  ちょうど次の駅は若者に人気のあるショップが建ち並ぶスポットに近い。そこで、独田は途中で電車を降りることにした。  ただ問題はどこに行けば手に入るのかということだ。  ホームの女子高生は自分で作ったと言っていた。となると実物ではなく、材料が売っているということだろうか。とりあえず、いくら必要になるかも分からない独田は真っ先に駅前にある銀行へと入った。キャッシュディスペンサーに銀行のキャッシュカードを差し込み、タッチパネルを操作する。  独田は趣味の少ない男だった。これでも学生時代はテニスなんかをしていたりはしたのだが、最近はめっきり運動することもなくなった。普段の休みの日は一日中ゴロゴロとテレビを見ているか、外出するといってもせいぜいパチンコ止まり。そのパチンコもいくらでも金をつぎ込むようなことはしない。彼にとってはあくまで暇つぶしであって三千円以上使うことは滅多にない。タバコは吸わないし、衝動買いもしない。酒は屈山などに誘われてよく飲みに行ったりするが、自宅でまで飲むようなことはしない。結果、必然的に彼には同年代の人間に比べれば明らかに蓄えが多くあった。  独田はひとまず十万円を口座から下ろすよう機械を操作する。やがて出てきた金を受け取ろうとすると、見慣れぬ投入口が付いているのに気づいた。そこには「体珠」と書かれていた。 「たいじゅ…?」  ひとまず現金を財布の中へとしまうと、CD機のスタート画面に目を凝らし、メニューに並ぶ項目を目で追う。 「お預入れ」「お引出し」「お振込み」 「通帳記帳」「ご 融 資」「体珠換金」  そこに並ぶ見たことのない「体珠換金」の項目。 「そうか。ここでさっきの物体、体珠を換金することができるのか」  そうであるなら銀行で手に入れることができるかもしれない。と独田は声には出さずつぶやく。そして、「体珠」がここまで社会に浸透しているものだとは知らず、テレビを見ている割には流行に疎い自分を恥ずかしく思った。  ひとまず、独田は銀行を出た。  手に入れられるものならばここで手に入れたかったが、あいにく営業時間は過ぎている。  銀行で扱うほどのものであるから、どこでも手に入るとは言い難いだろうが、幸いにも物体の名前もわかったことだ。どこかに専門店は必ずあるはずだ。独田はスーツに鞄のビジネスマンの格好のまま若者が多くたむろしてる広場へと歩き始めた。  こんな格好では場違いな感もあるかと思ったが、意外とスーツ姿のサラリーマンが多く歩いているのが見えた。  通りをすれ違うサラリーマンは自分のように会社をサボっているのだろうかと想像する。  しかし、そんな人間はそんなにはいないのではないだろうかという結論に達し、妙な罪悪感に襲われた。  というのも、彼がこうして早退ではあるが会社を休んだのは初めてのことだったからだ。  突然どこからか同僚が現れて、早退したことを責められるのではないか、そんな大したことでもないことにビクついている自分に気づき、慌てて胸を張って歩き始めたりする。そんな明らかに挙動不審な彼の動きも、若者で溢れかえるこの街ではあまり目立つものではなかった。  目的のショップは程なくして発見することができた。  「体珠買取専門店 B.B.」  黄色い看板に赤いゴシック文字で力強く書かれたその店は、外見は金券ショップのような感じだ。  狭い店内にショーケースを並べている金券ショップに比べれば幾分広い店内に入ると、こじんまりとしたカウンターと椅子だけがあるシンプルなものだった。壁には色々な体珠の写真が貼られ、その横には買い取り金額が掲示されている。ここだけを見ると中古を扱うゲームショップのようだ。カウンターには顔のいたるところにピアスを開けた、いかにもな若い男が店員とあーでもないこーでもないと口論をしている。買い取り金額の折り合いがついていないようだ。どうにも埒があかなくなったのか、ピアス店員は奥にいるのであろう店長に助けを求めた。 「だ・か・ら! こっちはなんとしても10万いるんだよ!」 「そうは言ってもねぇ、これじゃせいぜい2万どまりだよ。それを5千円割増してあげてんだから、あまり無理言わないでよ」  口髭を蓄えた30前後の店長らしき人物は軽い言葉ながら、これ以上は妥協できないという強い姿勢を見せて応対をしている。 「買い取りですか?」  その様子を眺めていた独田を待っている客と判断したピアス店員が声をかけた。 「あ、買い取りじゃないないんですけど…」  独田はあまりにもピアスとアンバランスな営業スマイルをたたえたまだ20代前半であろう店員に近づく。 「ここでは体珠の販売はしてないんですか?」 「はぁ?」  思いっきりな尻上がりの口調で店員は眉をひそめる。 「販売っすか?」  あまりに驚いたのか口調がいつのまにかタメ口だ。  独田はその店員のあまりの豹変振りにこういうところで買うものではなかったのかと失言を悔いた。 「店長ぉ〜」  店員はやたらと間延びした口調で横にいる店長を呼ぶ。店長はようやく若者を納得させたようで、若者にお金を渡すところであった。  簡単にありがとうと若者を見送り、店長が独田の前にやってくる。 「どうした?」 「いや、この人が体珠が欲しいって言うんすよ」 「バカか。世の中にはそういう趣味の人もいるんだよ! そんな怪しげなものを見るかのような視線はお客さんに失礼だろうが!」  それ以前に客の前でそんな説教をすること自体失礼なような気もするなと独田は思う。 「いやぁ、すいませんねぇ、お客さん。こいつバイトに入ったばかりで、何も分かってないんですよ。でも、うちで販売してるってどこで聞いたんです? 上の目もありますからあまり口外しないでくださいよ」  店長は口元にいやらしい笑みを浮かべてペコリと頭を下げた。どうも、体珠は普通に買うには御法度なものらしい。もしかしたら麻薬や拳銃などと同類のものなのだろうか。独田は悪い世界に足を踏み入れた気分になったが、それ以上に体珠の放つ怪しい光に心を奪われていたので、後のことなど何も考えられなかった。だいたい、そんな危ないものなら、普通の人が普通に身につけていたり、銀行で取引されていることの方がおかしくなる。独田は勝手な自己弁護の意味をこめてそう自分に言い聞かせる。 「で、今日はどういったものをご所望で?」  急に店長の口調と表情が一転する。ビジネスには真面目な男らしい。堂々と売れるものでもないなら当然なのかもしれないが。  ここで独田はいかにも買い慣れていそうな振りをすることにした。何せ体珠を買うという行為はちょっと変わった趣味らしい。それを知りもせず言ってしまったことに、今更実は何も知らなくてとは言いづらくなってしまったのだ。 「今日はどんなものが在庫としてあるの?」  背中に軽く汗をかきながら、平然とした振りをして独田が店長に尋ねる。 「実はさっき回収があったものでそんなにはないんですよ。今さっき相手していた客がいたでしょ。それから買い取ったやつと、あと数個あるだけですね。とりあえず、全部持ってきますから待っててください」  独田に軽く手を上げ、店長は事務所の方へと入っていった。  バイトの方は、もう私に興味はないらしく外の通りを歩く人の流れをボーっと口を開けるまま眺めている。  3分としないうちに店長は小さな箱を持って戻ってきた。  箱といっても宝石を入れるようなかっこいいものではない。辛うじて蓋はついているが、単なる紙箱だ。  独田の前で箱を開けると中には5個の体珠が入っていた。  無色透明のものばかりの中にひときわ鮮やかなライトブルーの体珠に目が奪われた。六角柱の形をしたそれはかなり小さいがキーホルダーのアクセントにはちょうどいいぐらいだ。何よりも、鮮やかな色が大きさを感じさせない力を持っていた。 「やっぱり、それに目がいっちゃいますよね」  箱の中の一点から目をそらさない独田を見て、店長は笑いながら言う。 「もう少し早く来てもらえれば、他にも何色かはあったんですけど。まあ、この色はかなり珍しいですし、形もはっきりしてますから、これはこれでラッキーですけどね、お客さん」 「これっていくら?」 「は? ああ、この青いヤツですね。えっと、これは………150万ですね」 「ひ、ひゃくごじゅうまん!?」  思わず大声を出してしまった独田を見て、店長は意外という表情をする。 「そりゃ、これだけはっきりとした色と形ですからこれぐらいの値は当然ですよ。ちなみにうちではこれを100万で買い取ったんですけど、はっきり言って回収業者に渡すよりも安い値段で売ると言ってるんですから大特価ですよ。だいたい、普通こんなもの人に売らないのは分かってるんでしょ?」 「150万…」  独田はまだショックから立ち直れてはいない。 「あ、もしかしてお客さん、色つき買うの初めてなんじゃないです?」 「あ、ああ、そうなんですよ」  慌てて独田は答えた。 「それじゃあ、知らないか。いやね、透明のものだったら、知ってると思いますけど余程珍しい形状のもので10万です。いわゆる、普通のやつなら2、3万ってところですからねぇ。だから、そういうのと比べればびっくりするほど高いもんですよ。なかなかできるものじゃないしねぇ」 「そんなものですか」 「もう、大いにそんなものですよ。だいたい、こういう色付きのヤツは作り方が分かっていても100%できるような代物じゃないですから。お客さん作ってみたことあります? あ、ないの。そりゃ、大変ですよ。私もかつて何度か挑戦してみたことがあるんですが、あれは大変ですよ、ほんとに。半年がんばって、薄い、それも本当に薄いグリーンのヤツを1個作るのが限界でした。まあそれは記念として持ってるんですけどね。それ以来色付きを作るのはやめちゃいました。やっぱし、無理をするのは体にもよくないし……」  よほど、聞いて欲しかったのか、はたまた単なる話好きなのか、店長は聞いてもいないことをベラベラと話し続ける。  ともかく、色付きを作るというのは大変なのは分かった。じゃあ、さっき駅のホームで話していた女子高生は余程がんばったのか、運が良かったのかなのだろう。他の女子高生たちが目を見張るわけだ。と、ここで独田は課長が作り上げたピンク色の体珠の存在を思い出した。  長々と話しつづける店長の話の腰を見つけて、会話に割り込む。 「それじゃあ、もしピンク色のヤツなんかはいくらぐらいで取引されるんでしょうか?」 「え? ピンクですか?」  突然話の腰を折られ、店長は目を丸くする。 「ピンクはまだ見たことないですから、たぶん流通してないはずですよ。だから、もし出てきたら最初のうちは軽く500万ぐらいの値がつくんじゃないですかねぇ。あ、もしかしてお客さん、何か知ってるの? 知ってるんだったら教えてくださいよぉ」  店長はにやけた表情で独田にしだれかかってくる振りをする。独田は大袈裟に避ける振りをして、こう言った。 「ひとまず今日のところはこれをもらいます」  独田が指差したのは透明なものの中でもとりわけ小ぶりな球体の体珠だった。 「え? これでいいんですか? こんなありふれたものならお客さんでも何とかなるんじゃないです?」 「あ、どうも僕はこういう丸いのが苦手でして。ハハハ」  とっさに嘘をつき独田は頭を掻く。 「まあ、皆それぞれ体つきが違うのといっしょで、出来上がるものに違いが出てくるのは当然かもしれないですけどね。あ、でも言われてみれば私は二十面体のは出たことがないですよ」 「いくらですか?」 「ああ、ハイハイ。これなら1万円でいいですよ」 「安くないですか?」  店長はさっき2、3万はするといっていたことを覚えていた独田は意外そうな声を出す。 「いや、こうやって話ができたのも何かの縁ですし、今後もうちを利用してくれるならという意味を込めてのサービスですよ」  この店長、歯に衣を着せないいい男なのかもしれない。独田は財布からまだ折り目のついていない一万円札を取り出すと店長へと渡した。 「じゃあ、これ。あ、くれぐれもここで買ったとは言わないでくださいよ。今度来られる時のために面白いのがあれば置いておきますから」  店長はそう言うととびっきりの笑顔で独田に透明な体珠を手渡した。  店を出た独田は、公園の隅に人影の少ない場所を見つけると近くにあったベンチに腰掛け、ポケットに入れておいた体珠を取り出した。  青い空に体珠を掲げると太陽光が反射してまるで水晶のような輝きを放っている。これは下手な宝石よりも全然いいものに違いないと感じていた独田はしばらくの間それを笑顔で見つめていた。たまたまそこを通りかかった女性がそんな独田を見て失笑を漏らした。それに気づいた独田は慌てて上げていた手を下ろし、何事もなかったかのように、周囲を見回す。そして、軽く咳払いをすると、再び体珠をポケットへとすべり込ませた。  両腕を枕にベンチに横になると、鮮やかな青が目に飛び込んできて思わず目を閉じた。そして、今日会社であったことが思い出された。  課長の涙のシーンが頭で再生されると胸が痛んだ。  あのピンクの体珠はものすごい開発だったんだ。そんなことも知らずに僕は……  今は自分が泣いてしまいたい気分だった。ものすごい自己嫌悪が襲ってくる。しかし、これは自分が蒔いた種。そのまま野放しにして雑草だらけにするわけにはいかない。明日はっきりと課長に謝ろう。芽が出て取り返しのつかなくなる前に、種は掘り出してしまわなければいけないはずだ。独田はゆっくりとベンチから起き上がるとそのまま公園を出た。  公園で色々と考えているうちに時間が過ぎてしまい、自宅についたのは6時を回ったころだった。  喉が渇いたので冷蔵庫を開けると、お気に入りの野菜ジュースはほとんど残っていなかった。せっかく戻ってきたのに、また外出するのは癪だったが、食糧までない以上、買出しに行かないわけにはいかなかった。  独田の家の近くには2軒のコンビニエンスストアと1軒のスーパーマーケットがある。普段から自炊をほとんどしない独田には、もっぱらコンビニの方に買い物に出かけることが多い。それでも、たまには料理でも作ろうかという気分になることもあり、スーパーに買出しに出かけることもある。独田は料理を作ることは決して嫌いではない。ただ、後始末が嫌いなので、翌日に食器や鍋が山のように詰まれた流し台を見ると、せっかくの料理を作りたいという想いも萎えてしまう。そして結果的に買った野菜を腐らせてします。そんなわけで今日も独田にはコンビニの何弁当を買うかという選択肢しかなかった。  自宅から一番近いコンビニは歩いて5分ほどのところにある、Tシャツに短パン、サンダルという少々時期的には早い服装で外へと出たが、さほど寒さは感じない。間違いなく、夏は近づいていると感じずにはいられない。かといって、別に夏が待ち遠しいわけでもない。確かに冬よりは好きだが、泳ぎが得意なわけでもないし、暑さに強いわけでもない。でも、皆が開放的になる、あのなんともいえない気分は嫌いじゃなかった。今年は海でも行ってみようか? 海になんて、何年も行ってないが、なんとなくそんな気分になった。こういう気分になるのも悪くない。それもこれも体珠のおかげだと思う。今もポケットの中にある体珠が心の中の靄を吸い取ってくれるような、そんな気分がした。  コンビニに行く途中には小さい書店がある。店の外に求人誌や住宅情報誌が並べられたラックが置かれていて、2人立ち読みをしていた。普段は雑誌しか読まない独田はこの店には入ったことがなかった。読みたい雑誌は全てコンビニに置いてあるし、立ち読みも自由だからだ。そんな独田が初めてこの店を利用することにしたのは、体珠のことをもっと知りたいという気持ちが強かったため、あれだけ流通しているものだが、ガイドブックぐらいならきっとあるだろう、そういう考えからだった。  店内は外観から想像されるほどの広さでしかなかった。高さ2メートルほどの本棚が壁沿いにずらっと並べられ、そこに文庫やコミック、実用書などが漠然と並べられている。多分、ちゃんとした理由を持って並べているのであろうが、パッと見て何を規準に並べられているのか分からなかった。まだ古本屋の方がきちんと並べられていると思う。その本棚に取り囲まれるように4本の雑誌ラックがちょうど店内の通路部分で「目」という字を作り上げるように並んでいる。狭い店内に無理やり3本の通路を作ったせいか、それぞれの通路はかなり狭い。人がすれ違うのもぎりぎりだ。もしそれぞれの通路に立ち読み客でもいようものなら、脱出不可能な要塞になってしまうかもしれない。さすがに要塞は言いすぎだ。せめて脱出不可能な小部屋程度か。  しかし、その心配は全くの杞憂であった。店内には自分を除いて客の姿は見えない。入り口の横にあるカウンターでばあさんが文庫本を読んでいるだけだ。店内には有線も何もかかっていないため、たまにばあさんが文庫本のページをめくる音が妙に大きく聞こえる。そして、たまに前の道をとおる車の通り過ぎる音。それ以外は一切の静寂。独田は自分が偉く場違いなところに来たような錯覚に陥った。こんなところで立ち読みをするのは少々気が引けたが、近所に他の書店がない以上文句は言っていられない。この不況の最中、店が潰れずに存在しているだけでも、ここは十分立派な書店なのだ。外見や雰囲気で気が引けているようではダメだ。独田は意を決し、実用者が並べられている棚へと向かった。  そこには結構な数の体珠関連本がある。そのほとんどは作り方、いわゆるハウ・トゥー本で、あとはカタログ本となっていた。  独田はまず表紙に鮮やかな蛍光レモン色の体珠が輝いているカタログ本を手にとる。50ページほどの薄い本だが、全てカラーページのため値段は決して安くない。パラパラとページをめくってみるが、掲載されているもののほとんどは無色透明の、一番ポピュラーなものだった。ただ、その分ありとあらゆる形のものがあるというのがよく見て取れた。今日見かけた球体や直方体、三角錐や六角柱などもある。ほかに珍しいものでは、星型やクロス型、雪だるま型、扇形、ドーナツ型などがあった。また、言葉では形容できないような幾何学的なものも多くあったが、こういうのは意外と安いものらしい。それよりもはっきりとした立体になっているものの方が高価になるようだ。この本で一番高い、無色透明の体珠は何と正100面体で、実に精巧な作りだった。これなら高価なのもうなずける一品だった。わずかに載っている色つきのものは、表紙にあったレモン色、独田が手に入れたブルー、グリーンなどがあった。  一通り目を通した後、独田は一度チラリとカウンターに座るばあさんを見る。  ばあさんは客に興味がないのか、相変わらず文庫本を読みふけっている。  もしかしたら、隙をうかがいながら独田の様子をチェックしているのかもしれないが、独田はこれ幸いとばかりにカタログ本を元の棚に戻すと、隣にあるハウトゥー本の1冊を手に取った。そして、『あなたにも作れる立方体珠』というその本の表紙をめくる。 ――私たちの生活と切っても切れない関係にある体珠。それは私たちの生活を潤すためだけではなく、心までも豊かにしてくれるすばらしい物です。お金のためという割り切ったつきあい方もいいですが、きれいな立体を作り上げることによって、あなた自身が産み出した物だという認識を強めていただければ幸いです。  「はじめに」と書かれた前文を読みながら、独田は自分が知らない間に他の人々との生活とは切っても切れない関係になっていた体珠という存在を思い返していた。そして、この本を読むことによって、独田自身も体珠と深くつきあっていけると考えていた。その驚愕の事実を知るまでは。  一通り本を読み終えた独田の手は震えていた。わずかに開いた唇からは「そんなバカな」という言葉がかすれるように出てくる。  独田は勢いよく本を閉じると、その本をカウンターへと叩きつけた。その音にびっくりしたばあさんは叫びながらいすから転げ落ちる。どうやら、本気で文庫本に熱中していたようだ。 「この本をくれ!」  独田は本を買うと、当初の目的も忘れて家へと走る。 「どういうことなんだ。これは一体どういうことなんだ」  小さな街頭の灯りが瞬く闇の中を独田は叫んだ。  よく知っている道が家が電信柱が、そしてすべての風景が嘘のように見える。  しかし、この世界自体は嘘ではない。  この世界に紛れてしまった独田自身が嘘の存在。  それに独田は気づいてしまった。  そう、ここはパラレルワールド。  ある1点を除き、今までの世界とはなにも変わらない世界。  そのある1点こそ『体珠』。  独田は何が理由かは謎だが『体珠』のない世界から『体珠』のある世界へとやってきたのだった。  一方、独田が『体珠』のある世界へと旅だった瞬間、逆に『体珠』のない世界へとやってきた者もあった。『体珠』のある世界からやってきた独田、その人である。    ◇ ◆ ◇ 「ハッ」  慌てて目を覚ました独田は思わず大きな声を出してしまった事に気づき、軽く咳払いをしてごまかす。  独田が居眠りはするのは割とよくあることなのだが、夢を見たのは初めてだった。それも、あんなにリアルな夢は普通の睡眠時にも見た記憶がない。ただ、忘れてしまっているだけのなかもしれないが。  夢の中ではあっという間の出来事であったが、腕時計を見ると5分ほども寝ていたようだった。  そろそろ会議に戻らなくてはと思い、夢の中の自分がやったように会議室の扉へと手を伸ばす。が、先ほどの夢がみるみる蘇ってきて、嫌な汗が彼の頬を伝う。あの夢はもともと泳ぎが得意ではない独田に変な恐怖感を植えつけた。もし、また夢のように水が襲ってきたら……思わず身震いする。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。とここで、彼は何か違和感を感じた。何かがおかしい気がする。答えは程なくして見つかった。会議室にいるはずのない面々が顔を揃えているのだ。まるでここで会議が行われているかのように。  ともかく、ここを出よう。彼は意を決し、勢いよくドアを開けた。水は当然のことだが流れてはこない。ホッと胸をなでおろす独田を他の面々は無言で見つめている。その不自然な光景を尻目に独田はゆっくりと会議室から出て行こうとした。 「コラッ! お前どこに行くんだ!」  突然怒鳴ってきたのは、あの口やかましい部長だ。一体いつの間に来たのだろう。しかし、よくよく見まわすと、先ほどまで会議をしていた連中全ての姿があった。本当にここで会議をしているかのようだ。 「何をボーっとしておる。どこに行くつもりかと聞いているのだ!」  部長はなおもキツイ口調で詰め寄ってくる。 「あ、あ、いや。トイレに戻ろうかと…」 「またトイレかよぉ。お前一回病院でも行った方がいいんじゃないか?」  いつのまにか独田の隣にいる屈山が顔に嫌らしい笑みを浮かべながら言う。  何だ、この感覚は。まるで、前にもこんなことがあったような感覚。  独田は何だか気味が悪くなり、背中に突き刺さるたくさんの視線と共にすべてを振り切ってトイレへと走った。  トイレはもぬけの殻だった。そりゃそうだ。会議に参加している人間は今全て会議室にいるのだから。ちょうど休憩でも取ったのかもしれない。ただでさえ、この会社の会議は無駄に長い。休憩でも取らなきゃとてもやってられないのは独田に限ったことではない。他の皆ももう少し待っていれば戻ってくるはずだ……った。あれから15分は過ぎたというのに誰も戻ってこない。もしかしたら会議は既に終わったのだろうか。いや、確か予定ではまだ2時間以上は時間が残っているはずだ。そんな急に取りやめになるなんてことは考えられない。独田はもう少し待ってみることにした。  おかしい。いくらなんでもこれはおかしい。独田は一向に誰も戻ってくる気配のないトイレの天井を見上げながら、首をかしげる。もうあれから30分以上たっている。やはり何か特別なことが起きて会議は中止になったのだろうか。独田はついに痺れを切らし、仕方なく自分のオフィスへと戻ろうとトイレを出た。席を立った。彼の机があるオフィスはトイレのあるフロアの一つ下だ。が、彼はたった1フロアの移動でもついエレベーターを使ってしまう。下向きに取り付けられた三角のボタンを押し、エレベーターがこのフロアに向かってくるのをランプで確認する。とそこへ、さっきの同僚、屈山がやってきた。 「お前、何やってんだよ」 「何って、オフィスに戻ろうかと…。そうだ! 会議はどうしたの?」 「はぁ? お前何言ってんの? 今もやってるよ。途中で勝手に出ていっといて、訳わかんねぇやつだな。ともかく、課長が新しいやつの紹介するから早く戻ってこいよ」 「戻って来いって、どこに? もう皆集まってるの?」 「お前やっぱり病院行った方がいいんじゃないのか? さっきから全員揃ってるだろうが。お前を除いて」 「でも、さっきまで誰もいなかったよ」 「そりゃ、トイレにいるわけねえだろうが! どこの世界にトイレで会議するやつがいるんだよ! ああ、埒があかねぇ。とっとと来い! お前のせいで俺まで説教食らうのはゴメンだからな!」  そう言うと屈山は独田の腕を取り、無理やり引っ張っていく。  誰もいなくなったエレベーターフロアにエレベーターの到着ベルが寂しく響いた。  屈山が連れてきた場所は会議室だった。さっき独田が居眠りをしていたあの会議室だ。  ドアを開けると広い会議室の中に20人ほどの人間がいる。全員の視線が独田に集まり、まるで全員に針で突かれているかのように顔が痛かった。 「部長、独田をつれてきました」  独田の姿を見た部長の表情は怒りを通り越してあきれているといったものだ。 「独田、お前の勤勉さはよく分かったから会議ぐらいしっかり参加しろ」  独田は最初は冗談かと思った。しかし、部長をはじめとする全員の顔は至って真面目だ。彼は困惑の表情を強めて部長にたずねる。 「参加しろと言われましても、こんなところで何を話しているのでしょう?」 「ええい! グダグダ言わないで、そこでおとなしくしてろよ!」  さっきからイライラしっぱなしの屈山は、独田の首根っこを捕まえると椅子に無理矢理着席させた。  その後会議は今までの遅れを取りもどすようなこともなく、ダラダラと3時間かけて終了した。その間、独田の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんだままだった。 「いつのまに会議の内容が変わったんだろう?」  自分の机に戻ってきても、独田の疑問は尽きない。  屈山をはじめとした同僚たちは特別おかしな様子もなかった。部長らや上司も真面目な表情で新しい食品に関してディスカッションをしていた。ただ、旨さと安さを売りにしただけの食品を。  元々、自分の勤めている会社は特殊体珠を作り上げる食品で名をあげた会社のはずだ。それなのに、今回の会議では体珠の「た」の字もでてきやしない。そもそも、会議室でいつから会議をするようになったのだ。もしかして、自分が5分しか寝ていないというのは嘘で、もっと長い間眠り続けていたのか? いや、それよりも今見ているこの風景が夢だと考えた方が理解しやすい。  そこで、独田は軽く頬をつねってみた。当然のように、頬には痛みが走る。 「独田さん、何してるんですかぁ?」  我が営業部の新人で早くもアイドルとなりつつある間(はざま)さん、本人は名前が明戸(あきこ)なので人魚ちゃんと呼べと言っている(間明戸(マーメイド))、つまりそんなキャラクターの子、が横から顔を出す。 「あ、いや、なんでもないよ」  独田は頬をつねったまま答える。どう見ても変なやつだ。 「なら、いいんですけどぉ」  と、彼女は明らかにおかしい独田を気にもせず、自分の机と歩いていく。そんな子なのだ。  頬にくっついていた手を離すと、独田は軽く伸びをしてから立ち上がった。いくら頭の中が混乱していても仕事は決してなくならない。壁に掛かっている時計の針は4時半を回っている。独田はこれ以上オフィスにいてもボーっと過ごしてしまいそうだったので、営業に出かけてそのまま直帰する旨をホワイトボードに書き、鞄と背広を片手にオフィスを出た。  太陽が空よりも地に近づいているこの時間にしては外は暑かった。普段ならすぐに袖を通す背広を鞄と一緒に片手に持ったまま、独田はどこへ行こうかと頭を巡らせていた。  独田は営業をするときに、目的地を特に決めない。漠然とこの辺りがいいかなという勘だけで営業を行う。計画性とは実に縁遠いところにいる男、それが独田だった。彼の営業成績が悪い理由も自ずと分かるというものだ。  ここで独田は銀行へ行くことを思いだした。というのも実は今日、独田は財布を家に忘れてきていた。まあ、財布はなくとも通勤は定期で、昼食は屈山のおごりで、決して屈山はおごりだと言ってはいなかったが、何とかなっていた。しかし、これから自宅に帰るまでにお金が必要になる可能性は十分にある。何せこのままでは自動販売機で缶コーヒーすら買えないのだから。  どうせあてのない営業まわり。多少の寄り道は日常茶飯事のことだ。しかし、さすがに会社に一番近い夕陽銀行に入るのは同じ会社の人間の目があるかもしれないので気が引ける。そこでいつも行く交差点を2つばかり過ぎたところにある日座銀行を目指す。営業時間はとっくに過ぎているが、キャッシュディスペンサーは9時頃まで開いているから、問題ない。  独田の勤めている田部流名食品株式会社はいわゆるオフィス街にある。周りを見渡しても似たようなビルばかり建ち並び、スーツを着込んだサラリーマンか制服に身を包んだOLぐらいしか出会わない。それはまるで簡単に作られた模型の中を歩いているかのようだ。  そんなジオラマの街も会社の終業時刻に近づいた今頃は徐々に人の数が増え始める。営業から帰社する者、独田のように直帰名目で逆に出社する者、明らかにアフター5を意識した身なりに着替えるOLたち。そんな人たちを横目に独田はゆっくりとした歩みで通りを歩いていく。  毎日変わらない景色と人々に囲まれた日常に飽き飽きしながらも、同じ日常というぬるま湯に浸かっていられる安心感。心の中では映画の様なサスペンスに満ちあふれた時を過ごしてみたいと願っていながらも、映画の中の役者のようには立ち振る舞えない自分を知っている絶望感。そんな葛藤だけが日々を過ごしていく糧のように感じる錯覚。かといって何かを糧にして生きているのかどうかは分からない怠惰な想い。きっと誰もが感じているそんな想いを独田も持っていた。それは昨日も今日も、きっと明日だって変わらない、そう感じていた。平凡な日常ほど幸せな生活はないのだとも。しかし、非凡な世界はすぐ目の前に広がっている。  今日は運悪く二つとも赤信号に引っかかった。今までの経験からこんな日は良くないことが起きるような気がする。いわゆるジンクスのようなものだ。かといって、今日は既に3分の2が終わっている。変なことでくよくよしても仕方がない。独田は軽く息を吐き出すと、日座銀行の中へと入っていった。  3台並ぶキャッシュディスペンサーには先客が一人いるだけだ。その人は左端の機械を操作していたので、独田は右端の機械へと足を進める。機械の前に立つと真っ黒だった液晶表示がポンという音と共に銀行業務のメニューに変わる。鞄をそのまま床へと置き、背広の内ポケットを探る。目当ての物は黄色い巾着袋。片手に乗るほどの小さいものだ。そして背広を鞄の上にそっと置くと、巾着袋を開ける。中には透明な水晶のような物体が3つ入っている。どれも親指の頭ほどの大きさだが、形はまちまちだ。 「もう、3個しか残ってなかったか。まだ日もあるし、大事に使わないとな」  独田はそのうちの1個を取り出し、改めてキャッシュディスペンサーの液晶画面に目を移す。しかし、そこに目当ての項目は存在しなかった。 「あれ?」  独田は首を傾げたままその場に固まる。  先ほどまでいた先客により、自動ドアが閉まり、銀行内には一気に静寂が訪れた。  そのほんの数秒後に静寂を打ち消したのは、独田の鞄の中にあった携帯電話の着信音だった。  2コールほどしてようやく音に気づいた独田は慌てて鞄の中からメタリックシルバーの携帯電話を取りだした。携帯電話の液晶ディスプレイには「屈山」と表示されている。それを確認してから、独田は着信ボタンを押し、電話を耳に当てた。 「もしもし」 『おう、独田か』 「何かあった?」 『いや、そういうわけじゃないんだが、お前今どこだ?』 「会社の近くの日座銀行だけど」 『じゃあ、まだ会社出たばっかりだったんだな』 「まあね」 『もう仕事も終わるし、飲みにでも行かないか? いつものところでさ』 「それは全然かまわないんだけど…」 『どうした?』 「俺、今日財布忘れてるのお前知ってるだろ?」 『え? マジか!?』 「何驚いてるんだよ。だから今日お前に昼飯おごってもらったじゃないか」 『え? そうだったっけ?』 「そうだよ。たかだか数時間前のことを忘れるなよな」 『仮にそうだとして、お前おごってもらった人間に大して偉そうな口振りだな』 「まあ、それはそれだよ」 『あ、でもお前銀行にいるんだろ? なら、金の都合はつくと言うことだよな』 「それなんだけどさ、日座銀行っていつから体珠の換金しなくなったんだ?」 『は? 何だって? よく聞こえないよ』 「だから、日座銀行じゃ換金してないのか?」 『換金? いや、俺は日座銀行使わないから、よくわかんねぇけど』 「そうかぁ、いやまいったなぁ」 『何だよ。金の工面がつかないのか?』 「いや、他の銀行に行けば何とかなるとは思うけど…」 『じゃあ、最悪俺が貸してやるから。えっと、そうだな、5時半にあの店で会おう』  独田も時計を確認すると、ちょうど5時になったところだ。 「分かった。5時半だな。とりあえず、金は何とかしてみるよ」 『OK。じゃ、あとでな』  話を終え、携帯を再び鞄に戻そうと腰を下ろす。と、目線に誰かの足が入った。そろそろと見上げると見知らぬ男が独田の方を眉をつり上げながら見ている。 「あの、何か?」  おそるおそる独田が訪ねると、その男は無言で右手を親指だけ立てて握り、ゆっくりと肩口から後ろを指さした。独田はそろそろと立ち上がり、男の肩越しに後ろを見るとそこにはおよそ20人ほどの行列ができあがっている。どうやら、独田が電話をしている内に訪れたらしい。それもそうだ、仕事が終わったばかりのこの時間はキャッシュディスぺンサーが昼時に次いで混む時間だ。独田は慌てて右手で機械の上に置いていた体珠を、左手で背広と鞄を掴むと、一目散に銀行を飛び出した。  独田は銀行を出た後もしばらく走り続けていた。会議の件といい、銀行で換金できなかった件といい、最後にはあんな恥までかいて、やはり今日はついてない。せっかく屈山が誘ってくれたことだし、今日は思う存分飲んでやろう。そうでもしなければやってられない気分だ。結局、独田は別の銀行に寄ることもせず、そのまま屈山の待つ居酒屋へと走っていた。  居酒屋「呑兵衛」は会社から歩いて15分ほどの距離にある。駅が近いことと値段の安さもあって、オフィス街に勤めるサラリーマンがよく利用している。店内は15人ほどが座れるカウンター席と8人ほど座れる座敷が2つ、あとは4人がけのテーブルが8つあるので、結構な人数が入れるのだが、いつも店内は混雑している。しかし、今はまだ仕事が終わって間もないせいか、さほど客の姿は見えない。一足先に店に着いた屈山はカウンターの中で焼き鳥をせっせと焼いている男の目の前へと座った。 「お! 今日は一人?」  屈山に気づいた居酒屋の店主である酒田は(通称サケさん)カウンター越しに話しかける。 「いや、独田がもうすぐ来るよ」 「そうかい。じゃあ、ビールはどうする?」 「あいつが来てからでいいよ」 「あいよ」  そこに、おしぼりを手に一人の女性がやってきた。この店の看板娘、純子だ。紺色のハッピに身を包み、茶髪がかった淡い色のショートヘアーがよく似合っている。背はお世辞にも高くないのでかわいらしいといった印象がピッタリだ。 「いらっしゃーい」 「お、ジュンちゃん、今日も可愛いね」  屈山はおしぼりを受取りながら言う。今日の天気を気遣ってか、おしぼりはキンキンに冷やされている。 「誉めてくれるのはうれしいんだけど、たまには違う台詞も言ってほしいもんだわ」 「そう? 可愛いから可愛いって言ってるんだけどな。ウホー!」  屈山は答えながらおしぼりで顔を拭いたが、そのあまりの冷たさに声を上げた。  ガラガラッ 「あ、独田さん、いらっしゃーい」 「はぁはぁ、あ、ジュンちゃん、今日も可愛いね」  独田は片手をあげて答える。 「もう、独田さんまで同じ台詞なのぉ?」 「いつものことじゃんか」  屈山がおしぼりを畳みながら笑う。 「まあいいわ、ビールでいいのよね」  すかさず独田が言う。 「ガンガンに冷えたやつね」 「はいよー」  独田は鞄と背広をカウンターの上にドサリと乗せると屈山の隣の席へと腰を下ろした。 「お前、何息切らしてるんだよ。そんなに急ぐこともなかったのに」 「はぁ、いや、はぁ、そういうわけじゃ、ないんだけど」  独田はこの店まで走ってやろうと思っていた。しかし、日頃の運動不足がたたり、途中で見事にばててしまったのだった。 「はい、ビール!」  純子が中ジョッキになみなみと注がれたビールを運んできた。独田は我先にとばかりにジョッキを受け取ると、口から迎えに行ってビールを飲み始めた。 「何だよ、乾杯もなしかよ」  屈山は苦笑しながら、もう一つのジョッキを受け取る。 「ジュンちゃん、ありがとう。で、サケさん、今日は何かうまいのある?」 「いい魚が入ってるから、刺身にでもしようか?」 「じゃあ、それ頼むよ」  とここまで話しただけで、既に独田のジョッキは空になっていた。 「ジュンちゃん、おかわり!」  純子にジョッキを渡すと、ようやく独田は一息ついた気分になった。 「で、どうした?」  屈山がジョッキの中程まで飲み干し、カーッと一声あげてから、独田に聞く。 「いや、それがさ…」  独田は銀行での恥ずかしい出来事を屈山へと話した。  屈山はカウンター越しに運ばれた刺身を受け取りながら、独田の話に耳を傾けている。  屈山は一見、軽そうな印象を与える男だ。仕事は良くできるが、職場では長い物には巻かれろといったような態度を取ることも多い。だから、社内では仕事こそできるが、軽薄な男として名が知れているようだ。しかし、これは大きな間違いだ。独田と屈山は同じ大学のテニスサークルの仲間だった。独田は女の子と知り合えるかもしれないぐらいの軽い気持ちで入ったのだが、屈山は中学、高校とテニスを続けており、高校時代にはインターハイにも出場した実力を持っている。他にも男はたくさんいたのだが、不思議と独田は屈山と気が合った。決して、好みや趣味などが似ているわけでも、性格なんかもまるで違う。ただ、そりがあったといった感じだ。そんなつきあいだったから、独田は屈山のことをよく知っている。仕事場で上司の機嫌を取るのは、ただ単に面倒を起こしたくないだけのことだし、軽そうな印象を与えるのもその人辺りのいい性格のせいだ。その反面、自分がこうだと決めた信念は絶対に曲げない男なので、もし上司と意見が食い違うようなことがあれば、その時はきっちりと意見は言うだろうし、もしかしたら論争になるかも知れない。ただ、今までそのような機会がなかっただけのことなのだ。だから、今日の会議でのようにバカにされた口調で話されても、その場の空気を損なわないように気を遣った結果なのだから、独田は別に腹を立てるようなこともなかった。逆に、大事なときに叱ってくれる彼を独田はとても大事な親友だと思っていた。  屈山は口を挟まずに独田の話を一通り聞くと怪訝そうな表情で尋ねた。 「お前さぁ、やっぱ今日おかしいぞ」 「何がだよ」  独田は口元に運んでいたジョッキを止めて、屈山の意外な返答に戸惑った。 「そもそも、さっきから言ってる『換金』って何を換金しようとしたんだよ。今までそんな話したこともないじゃないか。いつのまにか、株だとか金だとかでも始めたって言うのか? あと、よくよく思い返してみたんだけど、やっぱり俺はお前に昼飯なんか奢ってないぞ。お前、会議中に居眠りでもして夢でも見てたんじゃないか?」 「何で知ってんだよ」 「マジか? お前、会議中に寝てたのか?」 「あ、いや、そうじゃなくて。それはまあいいじゃないか。で、お前も今日はちょっとおかしいんじゃないのか。だいたい、何で今日に限って会議室で会議をしてるんだよ。明らかにおかしいじゃないか。それなのに、お前はそれが正しいかのように振る舞ってさ。それじゃ、上司のご機嫌取りをしていると思われてもしょうがないぞ!」 「だから、ちょっと待てって。会議は会議室でやるもんだろうが。だからこそ、会議室って名前がついてるんじゃないか。んじゃ、何か? 今日のお前の行動を見ている限り、お前はトイレで会議室をするって言うのか?」 「当たり前じゃないか」 「やっぱり、お前どっかおかしいな。どうした、何か頭にでもぶつけたのか?」 「茶化すなよ!」 「茶化してるのはお前だろう!」  遂に2人は口論を始めてしまった。いつもは楽しく酒を飲む2人を知っている酒田と純子は何事かと2人の様子をうかがっている。そんな周りを尻目に、2人の口論は激しくなっていく一方だ。さすがに、まずいと感じた純子は慌てて2人の間に割って入った。 「ハイハイハイハイ、落ち着きましょうねぇ、2人とも」  その声に2人の声がピタリと止まる。突然、論争にストップをかけられた2人は気まずそうに純子の顔をチラリと見た後、それぞれビールを飲んだり、刺身に箸を伸ばし始めた。  純子はカウンター越しに酒田に軽く頷くと、ちょっと落ち込み気味の2人に話しかけた。 「それにしても、2人が喧嘩するなんて珍しいわね。一体どうしたのよ」  話しかけれても、2人とも口をもごもごするだけで話し出そうとはしない。どうやら、お互いに何をどう話し始めればいいのか、考えあぐねているようだ。 「じゃあ、独田さんが話してよ。何が原因なの?」  純子に促された独田は箸を置くと、ゆっくりと話し始めた。 「いや、店の中で騒いでごめん。原因は大したことじゃないんだけど……そうだ、ジュンちゃんは体珠って分かるよねぇ?」  これほど世の中に普及している体珠を屈山は知らないなどと言っていた。もしかしたら、今日の自分はおかしなことを言っていたかもしれないが、だからといって自分の言うことを全て否定することはないではないか。  独田は純子が携帯のストラップにイエローの体珠をつけているのを知っている。だから、屈山を攻撃する意味も込めて、純子に尋ねる。しかし、答えは独田の想像もしない物だった。 「何それ?」  その返事に独田は口をポッカリと開けた。まるでアメリカンアニメのようにそのまま顎が床にまで落ちそうな勢いだ。 「え? ほら、だって、携帯に、つけてるじゃない?」  かろうじて、言葉を返す。 「携帯? 今携帯につけてるのはケティちゃんだよ。知ってるでしょ、私がケティーちゃん好きなのは」  いつの間にか頼んでいた煮込みをパクつきながら、隣で屈山が頷く。  独田はがくりとうなだれるとそのままカウンターへと崩れ落ちた。おでこがカウンターにぶつかり、ゴンと鈍い音がした。 「な? 体珠なんてのは聞いたこともないって言ったろ。ねぇ、ジュンちゃん、何かこいつ、今日変なんだよ」 「確かに変ねぇ。ねぇねぇ、独田さん。そのタイジュって何なの?」  独田はおでこをカウンターにつけながら、こいつらは自分をバカにして楽しんでいるんだという結論に達していた。ふざけるな! と、大声で怒鳴りたくなる衝動を抑えて、ゆっくりと頭を上げると、背広の内ポケットから巾着袋を取りだした。そして、その口を開けるとカウンターの上で逆さにした。カタンコトン、と乾いた音を立てながら3つの体珠がカウンターに転がる。透明なそれは店内の灯りを浴びて、キラキラと輝いていた。  それを見た純子がまるで少女のように声を上げる。 「わぁ〜、きれいねぇ。ねぇ、これがタイジュなの?」  純子はそう尋ねながら3つの内の1個を手に取り、額の上へとかざしてみる。水晶のようなそれは形がきちんと整っているわけではないので、蛍光灯の光を乱反射してまぶしかった。  それを見ていた屈山も珍しそうな視線で、1つを手に取っていた。 「こんなの、いつの間に手に入れたんだ? 水晶のようにも見えるし、プラスティックにも見えるなぁ。でも、結構な重さがあるから、プラスティックってことはないか」  あくまで2人は体珠を知らないという演技をしているんだと考えている独田は2人のあまりの演技のうまさに驚いた。まるで本当に知らないかのように、2人はしげしげと体珠を見つめている。 「ねぇねぇ、サケさん、これ知ってる?」  屈山が体珠の一つを酒田の前へと差し出して見せた。 「何だいこりゃ? 宝石か何かかい? わたしゃ、こういうのはさっぱり分からないからねぇ」  そう言って、酒田は笑う。  その様子を見て、独田に衝撃が走った。  酒田は人をだますようなことは決してしない。純子や屈山にからかわれることがあっても、酒田だけは人をバカにするようなことは絶対に口に出さない。それだけ人が出来ているのだ。その酒田でさえ、体珠を知らないという。  ということは、2人の行動も演技ではないということなのか。どういうことだ。やはり、自分は長い夢を未だに見続けているのだろうか。  独田の頬をやたら冷たい汗が一筋流れ落ちた。 「どうした? 顔色が悪いぞ」  屈山が心配そうに独田の顔を覗き込んだ。 「本当に、体珠を知らないのか?」 「だから、何度も言わせるなって。そんな言葉を聞いたのは今日がはじめてだし、これが実物だとしたら、見るのも初めてだよ」  屈山の答えに、独田は虚空を見上げ、誰かに向かって言うわけでもなくつぶやく。 「だとしたら、ここはどこなんだ?」 「はぁ?」 「ここは一体どこなんだぁ!」  独田は大声で叫んでいた。  その声に、ざわついていた店内が水を張ったように静かになった。  しかし、体珠に気を取られていた純子はそんな気配に気づかない。 「ねぇねぇ、独田さん、よかったらコレ一つちょうだいよ。私これ気にいっちゃった」  店内を覆い始めていたシリアスなムードはその一言で簡単にぶち壊れた。    ◇ ◆ ◇  一方、体珠のない世界から体珠のある世界にやってきた独田は、本屋で買ってきた本を自宅でもう一度読み返していた。  第一章 体珠とは?  体珠は皆さんも知っているとおり、私たちの体内で精製されます。  一つの体珠が出来るまでに、個人差はありますが約一ヶ月かかります。  体珠はその一ヶ月の間に摂取した食事の種類や摂取した時間帯はもとより、一ヶ月内の運動量、またその種類、ストレスの有無、睡眠時間、まわりの環境などにより、色や形が変わるため、全く同じ体珠が存在する割合は約2億分の1とも言われています。  中でも、立方体などのきれいな形を精製するのは、心身共にリラックスした状態でないと難しいと言われています。また、色の付いたものは主に食事の種類によって左右されますが、これも精神状態が大きく作用するので、なかなかお目にかかることが出来ないものです。つまり、体珠の形や色はそのままあなたの精神状態を表しているのです。  本書では、精神のリラックス方法を中心として、簡単に立方体などのきれいな体珠を作成する方法を明記してあります。きれいな体珠は、高く買い取ってもらえるだけではなく、あなたの日常生活もきれいなものへと変えてくれることでしょう。  この文章で、今までの謎の一部が解けた。  会社で会議をトイレで行っていたのは頭岳課長が作り出した食品から、ピンク色の体珠を作り出すことが出来るということを発表するためだ。  立方体の体珠を作り出す方法は実にシンプルながら、面倒くさいものだった。何せ心をリラックス状態に置くことが一番の方法だという。そもそも、人間は日常でどれだけリラックスした状態でいられるだろう。少なくとも、独田は寝ているときしか、リラックスできていないのではないかと思う。だいたい仕事場でリラックスできる人間など存在するのだろうか。もし、存在しているとするならば、きっとその人間は仕事がまるで出来ないか、常人では考えられないほど仕事の出来る人間かのどちらかだ。さらにそれに色を付けるとなると、さらに面倒な話らしい。体珠の買い取り屋の店長がぼやいていたのも頷ける話だ。  しかし、課長は見事に作り上げていた。企画課の人間として、プレッシャーがあったにもかかわらずだ。それは賞賛されこそすれ、バカにされるようなものではなかったのだ。独田は自分の失言を改めて悔いていた。ここは独田が住んでいた世界とは違うが、少なくとも存在する人々は独田の知っている人間と何ら変わりはないのだから。体珠を作ることが出来るのを除いて。  しかし、その一点は、独田とこの世界の住人を線引きするにはとてつもなく高い壁であり、とてつもなく深い崖なのである。独田が買った本に、体珠の出来る体内での流れは記されてはいなかったが、体内は独田のものとは違うであろうということは容易に想像できた。まあ、幸いにもこの世界で体珠が作れない体だからと言って、生活が出来ないということはない。一般に世間に流通しているものは、今までいた世界と同じ貨幣だ。あくまで、体珠は人類から産み出される副産物であり、それ以上でもそれ以下でもないようであるから。  にしても、独田にはどうしても理解できないことがあった。それは、なぜ体珠を換金することができるのか、ということだ。今日会った店長の話では、他人の体珠を買うという行為は違法なのかどうかは分からないが、決して誉められた行動ではないらしい。となると、体珠はこの社会を流通しているようではない。一体誰が、どんな目的で体珠を集めているのか。  しかしそれ以前に、独田はこの世界から元の世界へと戻らなければいけないのだ。その方法もまだ分からない。多分、向こうの世界のトイレで見た夢が元の世界へと帰るカギになるのだろうが…  独田は空腹も睡眠も忘れて、謎を解く鍵はないかと考えた。しかし、体は都合良く欲求を忘れてくれるものではなく、独田はいつの間にやら眠りこけてしまった。  翌日、いつものように出勤した独田は真っ先に企画課のドアを叩いた。企画課のオフィスには営業課のような騒々しさはないが、ピンと糸を張ったような緊張感が張りつめている。この時間には珍しい他部署の客に真っ先に気づいたのは、独田の目的の人、頭岳だった。 「どうしたんだ、こんな朝早くから」  頭岳は昨日のことなど何もなかったかのように笑顔で独田を迎えた。その意外なリアクションに独田の方が戸惑ってしまう。しかし、昨日寝る直前まで考え決めていたことを実行しなくてはならない。独田はゆっくりと頭岳のデスクの前まで近づくと、勢いよく頭を下げた。 「昨日はすいませんでした!」  その声の大きさに、オフィス中全員の視線が一点に集まる。独田が一番嫌悪すべき瞬間であったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。 「おいおい、何だよいきなり」  頭岳は困ったような口調でつぶやくと頭をかく。 「昨日の私はちょっとどうかしてまして、あのようなすばらしい作品をバカにするようなことを言ってしまい……」 「その通りだよ! お前、どの面下げてここに来てるんだ!」  昨日の会議に参加していたのだろう、別の社員が怒りを露わにして独田の背中から声を遮る。それをきっかけにオフィス内がざわめき始めた。しかし、頭岳の「朽木! お前は黙ってろ!」の一喝にオフィスの中は再び静寂に戻る。独田も含めて。  軽く咳払いをすると、頭岳は穏やかな口調で独田に話し始めた。 「いや、昨日は私も大人げなかったと反省しているんだよ。企画の仕事というものは、製品が完成した時点で我々の手から離れるものなんだ。なのに、ついついできあがった製品に固執してしまって、恥ずかしい話だ」 「あ、いや、いえ、そんな…」 「昨日の独田君の言葉で少々頭に来てしまったが、よくよく考えてみれば実にもっともな意見なんだよ、君の言葉は。ついつい賞賛の言葉ばかりを浴びて、私もいい気になっていたようだ。ありがとう、おかげで次の製品に取り組む意欲が沸いたよ。そして、次こそ君を驚かせるものを作り上げてみたいものだ」  そして、頭岳は静まりかえるオフィスの中で豪快に笑った。  独田は改めてこの人物の器の大きさを知り、自分の器の小ささを感じた。いつか自分のもこの人のようになりたいものだとも。  独田は改めて、礼を述べ、企画課を後にした。  後は、元の世界に戻る方法を探すだけだ。  しかし、手がかりは今のところあのトイレしかない。独田は仕事の合間を見つけてはトイレへ向かい、あの夢を見た個室へと入るようにした。しかし、元の世界に帰りたいという思いが強すぎるせいか、なかなか眠りにつくことは出来ず、その日は暮れていった。  慌てることはない、そう自分に言い聞かせながら帰宅準備をしていると、屈山がニヤニヤしながら近寄ってきた。 「なぁ、久しぶりに酒でも飲みに行かないか?お前の奢りで」 「何で、俺が奢らなきゃいけないんだよ」 「うわっ、ひでぇ。昨日昼飯奢ってやったのにその言い草はないんじゃないか」 「昼飯? 俺が?」 「そうやって、忘れたふりをするわけか。決定! 絶対、今日はお前の奢り」 「おいおい、俺はまだ行くだなんて言ってないじゃないか」 「何だよ、行かないのかよ」 「あ、そうだ、今日はちょっと用事があるんだよ。悪いけど明日にしてくれよ、な?」 「明日? まあいいけど、絶対お前の奢りだからな」 「分かった分かった」  いつもなら喜んで誘いに乗っているところだが、さすがにまだそんな気分にはなれなかった。納得のいかない表情を浮かべたままの屈山を適当にあしらって独田はオフィスを出た。  独田は1階へと向かうエレベーターの中で、ふと元々こっちの世界にいた自分のことを考えた。  そういえば、こっちの世界に元々いた自分はどこへ行ったのだろう? あの屈山の話しぶりじゃ、昨日の昼までは間違いなくこちらの世界にいたはずだ。しかし、自宅で鉢合わせになることもなかったし、会社にも出社してはいない。もしかしたら、新たな自分がやってきてしまったために、この世界から追い出されてしまったのだろうか?  独田は色々と考えを張り巡らそうとしたが、悪い考えに陥りそうになり、慌てて考えるのをやめた。世界こそ違えど、自分の哀れな末路など想像したくはなかったからだ。  自動ドアを抜けると、ビルの間を強烈な寒風が吹き荒れていた。世界は灰色に染まる空のせいか薄暗く、昨日とはうって変わって肌寒い。確か天気予報では、夜には雨が降り出すと言っていた。それでも、明日にはまた天気は回復し、暑い陽気になるという。天気はいい。不快な天気でも、きっといつかは晴れ間がやってくるし、それを予測することも出来る。ただ、自分の心ではそうはいかない。今の独田に出来るのは、心の中に広がる黒い靄が早く晴れることを祈ることだけだった。  駅のホームにたどり着いた独田はホームに貼られたポスターを何気なく見た。『悩んでいるなら山へ行こう』と大きな文字がポスターの中央に並んでいる。 「山か…しばらく行ってないな…」  しばらくそのポスターを見つめていた独田は、何を思い立ったか携帯電話を取りだした。電話に出たのはちょうど残業中の臼井課長だった。  営業課の課長である臼井は実に勤勉な男だ。ほぼ毎日のように残業をしているため、まわりの社員も気を遣って残業をするという風景がよく見られた。しかし、やがて残業が臼井にとっての趣味のようなものだと噂で流れ始めた頃には残業をする人数もめっきり減ってしまった。そんなまわりの様子に気づいているのかいないのか、臼井は今日も黙々と残業をこなしている。臼井は優しい人間である。何よりも人を注意することが苦手であり、いつも人間関係に気を配っている。だからこそ、部下には慕われているが、その反面あまり威厳はないと言える。既に40歳を越え、妻子もいるが、人間関係に気をつかうのは、自宅でも同じようで、だからこそ残業を口実にしてなかなか家に帰ろうとはしないのだなどという噂もまことしやかに流れている。まあ、本人に聞いたところでそんなことはないとやんわりと否定するのだが。  独田は簡単に明日会社を休むと言うことを伝えた。一応、臼井は理由を尋ねてくるが、そんなのは社交辞令のようなもので、臼井に話をした時点でほぼ100%休みは取れたも同然。独田は病院に行くなどと適当な理由を作り、明日の休みを手に入れたのだった。その時、明日飲みに行く約束をした屈山の顔が浮かんだが、気にすることもないかと用事を忘れたことにした。    ◇ ◆ ◇  頭が爆発しそうだった。  頭の中ではありとあらゆる国から集められた太鼓が乱打される中、音痴の大合唱が行われている。 「おい、生きてるか?」  屈山の声はほんのささやき声だったが、独田の頭の中には何百倍にも増幅されて送られている。 「う、うぅ」  独田はただ呻くだけ。指一本動かすのも辛そうだ。 「だから、いい加減にしろって言ったのによぉ。もう、今日は仕事無理だろ? 会社には適当に話つけといてやるから、今日は寝とけ!」  既にワイシャツ、ネクタイというサラリーマンの制服に着替え終わっていた屈山は、そのまま外へと出ていった。後ろ手に閉められたドアの音と、鍵を掛ける音が頭の中で響き、やがて外は静かになった。しかし、頭の中の合唱コンクールはまだ終わりそうもなかった。  昨晩、あのまま独田は気が狂ったかのように酒を飲み続けた。屈山はもちろん、純子や酒田も止めるのを一向に聞かない。最後には酒田の判断で酒が出てこなくなったが、それでも気が静まらない独田はそのまま、文句を言う屈山を引き連れて3軒の飲み屋をはしごしたのであった。  多分ここは屈山の住むアパートだろう。いつ、ここに来たのか全く覚えていない。というよりも、昨日の夜の記憶はほとんど残っていなかった。全身に気だるさをまとった独田は、動かない体を引きずりながらトイレへと向かう。押し寄せる波のように正確に襲ってくる吐き気と頭痛は昼過ぎになるまで治まることはなかった。  目が覚めると既に6時を回っていた。ようやく気分が落ち着いたところで、そのまま眠ってしまったようだ。まだ屈山は戻ってきていないらしい。まだ体のあちこちが重いが、動けないほどではなかった。ゆっくりと起きあがり、流しの水道に直接口をつけて水を飲む。水分が抜けきっていた体の全身に水が巡っていくようだ。そして、そのまま水を頭からかぶると、一気に目が覚めた。  濡れた髪をタオルで乾かしながら、屈山の携帯に電話をした。 「ようやくお目覚めか」 「スマン。今どこだ?」 「ちょうど、残業の仕事が終わったところだ。で、今からどうするんだ?」 「とりあえず、家に帰ろうと思う」 「そうか。なら、部屋の鍵はポストの中に入れてあるから、鍵締めて出ていってくれよ」 「分かった。本当に世話かけて申し訳ない」 「いや、毎度のことで慣れてるよ。じゃあな」  独田が「毎度のこととはどういう意味だよ」と言いかけたときには既に電話は切れていた。携帯電話の電源を切ると、独田はいまだに首にしめられたままだったネクタイをはずし、乱暴にズボンのポケットへとしまう。濡れたタオルを洗濯機の中へと放り込み、鞄を抱いて、玄関で乱雑に転がる靴を履く。 「あ、そうだ。体珠は…」  昨日の晩に居酒屋で出した体珠のことをすっかり忘れていた独田はジャケットの内ポケットを探り、巾着袋を取り出すが、袋の口は開いたままで中身は空っぽだった。多分、昨日居酒屋で純子と屈山に渡したままなのだろうと思い出した独田は後で改めて連絡を入れることにして、部屋を出た。屈山に言われたとおりに鍵をして、アパートを出ると雨が降っていた。  独田は軽く空を見上げると、そのまま自宅へと向かって歩き始めた。独田の部屋と屈山の部屋は電車の2駅分ほどしか離れてはいない。まあ、路線によっては2駅分でもものすごい長距離にはなるが、ここではせいぜい歩いても15分といった距離である。疲れているときなどは、屈山のアパートのすぐ近くにある駅から電車を使うのだが、今日はそのまま歩いて帰ることにした。酒が完全に抜けたわけでもないから、まだ多少疲れが残っていたが、アスファルトを叩く音もしない小さな雨粒は、まだ体が暖かい独田にはちょうどいいシャワーだった。  雨雲のせいですっかり暗くなった道を街灯の明かりを頼りに一歩一歩歩いていく。独田は一生懸命、昨日のことを思い出そうとしていたが、頭の中にも雨雲がたたずんでいるようで、街灯の灯りがのない暗闇では何も見えはしなかった。  やがてたどり着いた自分の部屋のベッドに倒れ込んだ独田はそのまま、また眠ってしまった。    ◇ ◆ ◇  天気予報が見事に当たった翌日、独田は鷹居山の麓にある駅で電車を降りた。  鷹居山はK県の内陸部にある標高700mほどの山だ。山の中腹ほど迄はケーブルカーが走っており、頂上までのハイキングコースもきちんと整備されていることから、親子連れやカップル、老夫婦などで休日には賑わう。しかし、今日は金曜日ということもあってか、ケーブルカーの発着場も人はまばらだ。  独田はブルーのポロシャツにジーンズ、スニーカーというラフな格好をしている。一応背中には小さいながらもリュックも背負っている。中には行きにコンビニで買ったおにぎりやお茶などが入っていた。  最初はケーブルカーなど使わずに上まで登ろうかとも考えていたが、せっかく会社に休みまで取ってやってきたのだから、多少は観光気分を味わうのもいいだろうと考えを変えていた。  独田が鷹居山に登るのは実は初めてではない。大学時代にテニスサークル内の数人でハイキングに出かける機会があり、その時以来だ。しかし、友人と来るのと一人で来るのではかなり心境が違う。友人と行くときは登山に対しての面倒くささを感じながらも、ちょっとした高揚感を感じたものだ。変わって今回は自主的に来たこともあり、登山に対する嫌な思いはない。しかし、これからまるで自殺でもしに行くかのような殺伐とした感傷も感じ得ずにはいられない。  斜面に停車しているケーブルカーの車内は階段状に座席が設置されている。その最後部に独田が座ると、あとから2組の年輩の夫婦らしき人が乗り込んできて、前方の座席に左右に分かれるように座った。やがて、ケーブルカーはガタンゴトンと派手な音を立てながらゆっくりと動き始める。  最後部の窓から下を眺めると、ついさっきまでいた発着場の建物がみるみる小さくなっていき、まるで自分が空へと吸い上げられていくかのような錯覚を覚えた。  車内では鷹居山の歴史がテープで流れているが、かなり使い込んでいるのだろう、途中で雑音が入ったりして聞き取りにくいものだった。  それにしても、なぜ自分は山へ登ろうと思ったのだろう。山へ行くことで、今の問題が解決するわけではないのに。もしかしたら、自分はこの世界を客観的に眺めてみたいのかもしれない。山という高台から。そしてそのまま、自分も客観的に見つめ直すことが出来れば……独田は窓を流れる緑色の波をただぼんやりと眺めていた。  ケーブルカーは10分ほど登ったところで山の中腹へと到着した。そのまま山頂に向かうのであろう2組の老夫婦を横目に独田はケーブルカーを降りた。やがて、再びケーブルカーは動きだし、山頂へと登っていった。ケーブルカーを見送った独田は軽く伸びをすると、深呼吸をした。 「ああ、やっぱり山の空気はおいしい」  ここでもし誰か知り合いがいたら、そんな台詞を言うのだろうな、などと考えたら妙におかしかった。  発着場の目の前はちょっと開けた広場のようになっていて、数軒のみやげ物屋が営業をしている。太陽の日差しが容赦なく照りつけてきていることもあってか、アイスやラムネを口にしている人が見受けられた。  ここから山頂までは3通りのハイキングコースを使って行くことが出来る。それぞれ「ハイキングコース」、「アスレチックコース」、「フォレストコース」と名づけられている。  「ハイキングコース」はその名の通り、最もハイキングに適した緩やかな道となっている。途中に何カ所か休憩できるポイントや景色を楽しめるポイントもあり、一番人気のあるコースだ。  「アスレチックコース」はハイキングコースに比べて登りの斜度が急になっている。そして、名前の通り途中には丸太やロープで作られたアスレチックが用意されている。ここは子供が一番喜ぶコースなので、休日は結構賑やかだ。  最後の「フォレストコース」は、これまた名前通り森の中を歩くコースになっている。鷹居山は大変自然に恵まれており、四季折々の花や草木、鳥などを見かけることが出来る。それを一番楽しめるように作られたこのコースは、他の二つに比べて非常に道幅が狭く、ほとんど道も整備されてはいない。道の傾斜なども自然のままだ。そのせいもあってか、3本の中では一番人気のないコースである。裏を返せばそれだけ人の入りも少ないので、自然をそのままの状態で維持でき、一番素晴らしいコースとも言えるのだが。  独田はルートマップが書かれている大きな看板の前でしばらく考えていたが、やがて1本のコースを選び歩き始めた。足元の舗装がアスファルトから土へと変わるところに小さな看板が立っている。そこには 『フォレストコース →』 とだけ書かれていた。  フォレストコースを歩き始めてまもなく2時間が経とうとしていた。  看板では山頂まで約2時間の道のりだと書いてあったから、普通ならもうラストスパートの位置にいるのだろう。しかし、独田は最近の運動不足がたたって、最初の15分こそ軽快な足取りで歩みながら、まわりの自然を楽しむ余裕もあったが、やがて息が切れ始め、足があがらないようになっていった。途中でちょうどいい切り株などを見つけてはしゃがみ込んで、コンビニで買ってきたお茶を飲む。そんなことの繰り返しだ。それでも本人は全体の8割ぐらいは進んだだろうと考えていた。実はようやく半分を超えたといったところなのに。  本当なら山頂で取ろうと思っていた昼食だったが、無性にお腹がすいた独田は耐えられず途中で昼食を食べることにした。獣道のような、山頂へのルートをちょっと離れ、ちょうどいい大きさの岩に腰掛けると、背中のリュックから買ったままの状態で入れてあったコンビニの袋を取りだした。時計は1時を指していた。  あれほど強い日差しもこの森の中ではさほど届かない。空を見上げると、見えるのは青い空ではなく深緑の葉っぱで覆われた空だ。それでも葉と葉の僅かな隙間から差し込む日差しは、まぶしく、暗い森の中を穏やかな光で包んでくれる。どこからかいつも小鳥のさえずりが響き、気の早い蝉の声も遠くに聞こえた。  独田はおにぎりを頬張りながら、どこというわけでもなく遠くに目をやる。木の幹と幹の間を視線ですり抜け、広く開けた山頂へと思いをはせた。いつもは目まぐるしく流れている時間も、ここではゆっくりと流れているかのように感じる。毎日仕事に追われる日々が馬鹿らしく感じる瞬間だ。  おにぎり2個と唐揚げという簡単な食事を終えた独田は念のためにと持ってきたビニールシートを取り出すと、岩の前のちょっとしたスペースに敷いた。全身を伸ばせるだけの幅はなかったが、膝を曲げれば十分横になれる。独田はそのままシートの上に横になると、陽光によってまぶしく輝く緑色の空を見上げながら昼寝を始めた。    ◇ ◆ ◇ 「体珠返してくれよ」  翌日、いつも通りの時間に出社した独田は先にオフィスでくつろいでいた屈山に向かって手を出した。 「お、来たな、って何だよ。おとといからの礼もなしかよ」 「あ、そうか。たいへんお世話になりました。で、体珠は?」  変に芝居がかった口調で礼を述べると屈山はしょうがないなぁという顔で肩をすくめる。 「体珠って、あの呑兵衛で見せてたやつか」 「そうだよ。昨日見たら、3つともなくなってたから、屈山かジュンちゃんが持ってるんだろうと思って」 「そういえば、どこに行ったかなぁ?確かに一つは俺が持ってたと思うけど……おっと、あったあった。これだろ」  屈山はジャケットのポケットから一つの体珠を取り出す。 「でも、そんなに大事ならしっかりと自分で管理しとけよ。勝手に飲んだくれて、忘れてるんだから、誰にも文句言えないぞ」 「悪い悪い。ということはあと2個はジュンちゃんかな?帰りにでも寄って聞いてみようかな」 「おいおい、残りはジュンちゃんが多分持ってるだろうけどさぁ、お前取り返すつもり?」 「え?」 「あ、そうか、覚えてないのか。あのな、彼女、この、体珠だっけ?、を頻りに欲しがってたんだよ。最初こそ、お前も無視してたけど、最後には根負けしたのかあげるって言ってたぜ」 「あげる?俺が?」 「ああ」 「2つとも?」 「いや、そこまでは覚えてないけど…」 「そうかぁ、あげるって言ったんなら返せとも言いづらいなぁ。でも、2つとも持ってるなら、1個くらい返してもらってもいいよな?」 「俺に聞くなよ」  そこにタイミング良く始業のベルが鳴り、屈山はそそくさと自分のデスクへと戻っていった。  ここまで独田が体珠に固執したのには理由がある。独田の今の思いは元の世界へと帰ることだ。しかしそれよりも先に、体珠を取り戻してから、元の世界に帰ることを考えていた。自分の体から作り出される体珠はいわば自分の分身のようなもの。それを他人に渡すというのはやはり気分がいいものではないのだ。最悪、一つを純子に渡すことになっても、残る一つは自分の手元に戻したかった。決してお金だけのためではない。純粋に、自分のものを取りもどしたいだけだった。そう、自分の子供のように。  独田はそれからしばらくの間、一つだけ戻ってきた体珠を眺めて過ごしていた。もちろん、口うるさい愚汁係長の目を盗みながらだ。が、見つめれば見つめるほど、漠然とした違和感が腹の底からわき上がってくるのを感じた。それは、そのあと営業のため外出したときも続いた。  独田が今いる世界は、今までいた世界とは別の世界である。だから、そんな違和感はある意味当たり前のことであるのに、どうも腑に落ちない。まるで、夢ではっきりと見たのに、全く思い出せないあの悔しさというか寂しさに似たような感覚。  よく思い出して見ろ!お前は何かを見ていたはずだ! 何かに気づいたはずだ!心の中のもう一人の自分が、自分に向かって叫んでいる。俺は何を見たんだ? 俺は何に気づいたんだ? 心の中の自分に向かって、自分が叫んでいる。  自分と自分の板挟みに耐えられなくなった独田はいつの間にやら「呑兵衛」の前に立っていた。  「呑兵衛」は夜は居酒屋だが、昼は定食屋として営業している。実際に独田も、週に1回ぐらいのペースでここを利用している。  12時半を回り、既にピークは過ぎていたが、店内にはまだ結構な量の客が食事をしていた。  独田が店の中へはいると、威勢のいい「いらっしゃいませぇ」の声が迎えてくれた。 「あら?独田さんじゃない。いらっしゃい。今日は遅めなのね」  そう言って店の奥から純子が現れる。 「あ、ジュンちゃん、ちょっといいかな?」 「あら、何かしら?」  ひとまず、独田は近くのテーブル席に腰掛ける。純子はちょうど独田の向かいに座った。 「お、いらっしゃい、何食べるの?」  料理の方も一段落付いているのか、酒田が声を掛ける。 「あ、いやちょっと、今日はジュンちゃんに用事があって」 「何だい、デートのお誘いかい? うちの看板娘にあまり手を出して欲しくはないんだけどなぁ」  酒田はそう笑顔で言う。 「あら、そうなの? 連れて行ってくれる場所にもよるけどなぁ」  酒田の言葉に純子もまんざらではなさそうだ。  しかし、独田は酒田の気遣いや、純子の表情に気づかず、せっかくの流れを止めてしまう。 「いや、違うんだ。ほら、おとといに見せた体珠って覚えてる?」 「たいじゅ?」  肩すかしを食らった格好で純子は眉をひそめる。  数秒間考えた後、体珠のことを思いだしたのか、純子は明るい声で話し始めた。 「ああ、あのきれいな石ね。そうそう、あのとき独田さん酔っぱらっちゃったから、お礼も満足に言えなくてごめんなさい。でも、あそこまで酔っぱらった独田さんも悪いんですからね」  独田は話の流れから思い出したくない話題に振ってしまったことを後悔しながら、頭をかく。 「あの時は迷惑を掛けてゴメン。あ、そうだ、サケさんにも迷惑かけちゃったんじゃないかなぁ」 「え? いや、こっちは大丈夫だよ。気にすることはないさ。そんなときもあるよ」  酒田は穏やかな笑顔で答える。  多分、気を使って言ってくれているのだろうと分かっていても、独田には酒田の言葉はありがたかった。 「ところで、やっぱり俺、ジュンちゃんにあげるって言った?」 「やっぱり覚えてないんだ。そんなことだろうとは思ったけどね」  そう言うと、純子はハッピのポケットから小さな小箱を取りだした。 「宝物にしようと思ってたんだけどなぁ」  純子は心底残念そうに箱を開け、一つの体珠を取り出す。それは純子に持たれているのがうれしいのかキラキラと輝いていた。 「あれ? 1個だけ?」 「そうよ。だって、独田さん、1個しかダメって言ったじゃない」 「じゃあ、あと1個はどこに…」 「え? 1個無くしちゃったの?!うわぁ、もったいない」 「じゃあジュンちゃん、ひとまずコレ返してもらっていいかな?どうしても今必要なもんで…あ、この埋め合わせはきっと近いうちにするからさ!」 「しょうがないなぁ、それ約束だからね」  純子はそう言って、独田に体珠を返す。別に渋々と言った様子でもないところを見ると、埋め合わせに期待しているのだろうか。 「じゃあ、この店に残りの1個は落ちてなかったのかなぁ?」 「少なくとも、掃除をしたときに出てくれば私は気づいてると思うけど…」  ということは、店にはないと考えた方がいいだろう。少なくとも、酒田が隠し持っている可能性はないだろう。もしかしたら、純子がまだ1個隠し持っている可能性はあるが、そこまでして欲しいものならそれはそれであげてしまってもいいだろう。店内で誰か別の客が拾った可能性の方が高いし、と独田は考えていた。  ともかく、3個のうちの2個は手元に帰ってきた。あとは元の世界へ帰るだけだ。この世界の純子に埋め合わせをしてあげることは出来ないかもしれないのが少し残念に感じる。しかし、今の時点では元の世界に戻る方法は分からない。多分、あの会議室が元の世界へと帰るカギになることは間違いないであろう。  独田は色々と考えを巡らそうとしたが、特に注文をするわけでもないので、いつまでも店にいるのも迷惑な話だ。独田は酒田と純子に改めて詫びてから、店を出た。  するとそこには数人の男が待ちかまえていた。自分には関係ない集団だと感じた独田はその隙間を抜けていこうとする。しかし、すかさずそこに1人の男が立ちはだかった。  身長が180センチ以上はあるであろう大男は、オールバックの髪型にサングラス、この暑い最中に黒の上下のスーツで決めている。金色のネクタイに赤色のワイシャツという明らかに一般人とは違うオーラを放つその男は独田の目の前にポケットから意外な物体を取りだした。 「あ、それは!」 「やっぱり、あんたの持ち物か」  低く通る声で男はつぶやく。ようやく出会えたといった安堵の表情が口元に浮かんだが、それも一瞬のことであり、独田は気づかなかった。  そして、男は再びその物体をポケットへとしまう。 「ちょ、ちょっと、それは僕のものなんですが…」  慌てて声を出すが、心なしかその声は震えていた。 「ああ、分かっている。質問に答えてもらえればすぐにでも返す」  男は冷ややかな笑顔を浮かべたまま、言葉を続けた。 「これは一体どこで手に入れたんだ?」 「え?」  男の狙いは体珠だった。独田の全身を悪寒が走り、冷や汗がにじむ。  この男は体珠がどこかに落ちているものだと考えている。しかし、実際は違う。自分の体から生まれ出るものなのだ。かといって、こっちの世界の人間には通じないだろう。それぐらいの知識は独田もこっちの世界で得ていた。 「あ、え、えーと、あれは人にもらったものでして…」  とっさに口から言葉が出る。なぜ、そんなことを言ったのかは分からない。自然に口から漏れたのだ。しかし、誰かにもらったわけではない。自分自身が作ったのだから。 「誰にだ?」  男の口調には暖かみの欠片もない。冷徹な刃のように独田の体を切り刻もうとするだけだ。  答えに窮した独田は男の顔から目をそらす。誰が見ても一目瞭然、明らかに動揺が走っているその姿に、男の顎が動いた。  その動きに今まで回りを固めていた他の男たちが俊敏な動きで独田の両腕を押さえる。何が何だか分からない独田は、慌てた表情で両脇の男たちを見やる。  そしてその独田の腹部に強烈な一撃が加えられると、独田の体からみるみる力が失われていく。 「よし、連れて行け」  その男の言葉を聞き終わる前に、独田は意識を失った。    ◇ ◆ ◇  独田は夢を見ていた。  それは子供の頃の夢だった。  そしてそれは独田のある過去の記憶を呼び戻した。  やがて独田は目を覚ました。  そして、ゆっくりと起きあがると、眼をこする。  ビニールシートがあったとはいえ固い地面の上で寝たせいか、背中が痛い。  独田はそのままシートに座ったまま、夢のことを思い出していた。  こっちの世界に来てから、何度も夢を見ている気がするが、目が覚めると全て忘れてしまっていた。しかし、今回は妙にはっきりとその夢を覚えていた。  てっきり独田はこの鷹居山に登るのが2度目だと思っていた。しかし、実は小学校の遠足でもこの山を登っていたのだ。ただそれだけなら、単なる思い出話なのだがそれには続きがあった。  小学校時代の独田は山頂での昼食のあと、トイレに行きたくなりみんなのいた広場から一人離れた。実は近くにトイレがあったのだが、それを知らなかった彼は広場から多少離れた森の中へと入っていった。そこで彼はある人物と出会った。その人物がなぜそこにいたのかは分からないが、その人物はとてもきれいな石をたくさん持っていて、たまたまそこにやってきた彼に3つの石をプレゼントしてくれた。そして、その人物は確かにこう言った。 「この石はものすごいパワー持っているんだ。だから、大事に持っていなさい。もし、危ない目にあったら3つのうちの2つの石を地面でぶつけるんだ。するとものすごい光が出るから、それを目くらましにするといい。でも、本当に危なくなったときにだけ使うんだよ、いいね?」  小さな独田は大きくうなずくと、気になっていたことをその人物に聞いた。 「おじさんはどうしてここにいるの?」 「あのね、おじさんは悪い人に追われているから、ここに隠れてるんだ」 「悪い人?」 「そう。悪い人…」  そうつぶやきながらその人物は何かを思い出しているようだった。  やがて、その人物はゆっくりと立ち上がると「じゃあね」とだけ言い残して森の多くへと走り去った。  その姿を独田はずっと見つめていた。やがて、心配して探しにやってきた先生に連れられて森を出るまで、ずーっと。  それから、あの人物には会ってない。 「そうだよ! あの石だよ!」  独田は慌てて立ち上がると、ズボンのポケットを探った。  そして黄色い巾着袋を取り出すと、中身を出す。  手のひらに転がり出てきたのは、透明な3つの体珠。  いつも無意識のうちに肌身離さず持ってきた独田の宝物だ。  あまりに身近すぎて、今の今まで存在を忘れていたのだ。  夢で見たあの石と体珠がピッタリと一致する。  小学生の時に既に独田は体珠と出会っていたのだ。  独田はまるでこの展開をあの人物が予知していたのではないかと思えて、寒気が走った。と、同時に下腹部に鈍い痛みを感じた。簡単にいうと便意を感じたのだ。既にこっちの世界にやってきて3日が経とうとしているが、実はこの間、小便こそすれど、もう片方のは一度もしてなかった。独田は便秘になどなったことがなかったが、この環境の変化で体の調子もおかしくなっていたのかもしれない。  独田は回りを見渡すが、トイレらしきものは全く見当たらない。ついでに人影も全く見当たらないことに気づいた独田は、意を決してコースをさらに離れて森の奥へと足を進めた。 「こんな年にもなってこんなことすることになるとは思わなかったよ」  独田は誰に話すでもなくつぶやいて苦笑する。  かなり奥深くまで入った辺りで、独田はズボンとパンツを下ろししゃがみ込んだ。やがて、今まで溜まったモノが一気に吐き出される快感が全身を突き抜ける。その快感は生まれて初めてではないかと思うほどの凄まじさだった。そして、ゆっくりと立ち上がると放心状態のまま実に自然にパンツとズボンをあげる。とここで慌てて我に返った独田はあげたパンツなどを下ろし、ティッシュペーパーを準備した。 「ああ、もう何やってんだよ、俺は」  自分の行動に呆れてしまい、ため息が出る。と一瞬、なにげに動かした視界に意外な物体が飛び込んできた。 「!!」  快感を起こした物体がある場所に転がっていたのは、あの汚い、森の肥やしになるものではなかった。  そこには淡い紫色の光を放つ体珠が転がっていたのである。    ◇ ◆ ◇  独田は夢を見ていた。  それは何気なく聞いていた大学での講義の夢だった。  そしてそれは独田のある記憶を呼び戻した。  講堂の最前部で教授がマイク片手に話をしていた。話の内容は体珠について。  200人は入れる広い講堂内には20数人の学生がいる。そのほとんどは教授の講義になど耳を貸してはおらず、居眠りをする者、雑談をする者、なにやら他ごとをしている者など様々だ。  単位が足りなくて顔を出した独田はというとただぼんやりと黒板を見つめていた。  教授はしゃがれた声で普段はあまり話題にも上らない体珠についてこう喋っていた。 「体珠には莫大なエネルギーが凝縮されておる。そのエネルギー力は凄まじく、通常の原子力発電所が1週間に作ることの出来る電力をたった2つの体珠で作り出すことが出来るほどだ。実際に我が国でも体珠によって全体の9割近いエネルギーを作り出しておる。そのため国が高い金を出して、我々の体珠を買い取ってくれるわけだ。」  そんなことは常識中の常識だ。なんでこの教授はいつも分かり切ったことを、こんなにも堂々と話せるのだろう。 「さて、その体珠からエネルギーを取り出す方法だが、それには体珠同士をぶつけ合わせればいい。体珠単体では非常に固い構造をしておるから、ちょっとやそっとの力では壊すことは到底出来ない。よくある幾何学的な形をした物でも約5トン。球体など、さらに壊れにくい構造をしているものは約15トンもの力に耐えうることが出来ると言われておる」  5トンだか、15トンだかは知らないが、体珠が固いことなんて子供でも知ってる。何せ子供のいい遊び道具になっているんだからな。そういや、俺もボールの代わりにしたことがあったっけ。 「ところが、体珠同士をぶつける場合には話が違う。5トンと言わずに、約100キログラム程度の力で壊れてしまう。しかし、この程度の力でぶつけた場合には、放出されるエネルギーも非常に少ないから、大きな事故になるなどということはない。現在の体珠発電所で使われておる装置は体珠同士を時速約800キロでぶつけておるが、装置は今も速度を上げるための開発が続けられておるから、毎日のように体珠からエネルギーをより多く得られるようになっておる」  そういえば子供の頃、よく親の目を盗んでは友達の体珠とぶつけ合って遊んだなぁ。体珠が弾けるときの光が花火みたいにとてもキレイで……母さんにばれたときはものすごい大目玉くらったっけ。  そういえば一度、大爆発までは行かなくても、結構な爆発を体験したことがあったな。確か、中学生の頃に体珠がどれほど固いのか調べようっていうことになって、友達と持ち寄った体珠を走っている車にひかせてみようと道路に200メートルぐらいずつの間隔を置いて2、3個置いたんだ。やがて1台の車がやってきて、ちょうど3個目の体珠の上を走っていった。すると、タイヤに踏まれた体珠がタイヤの回転に乗って、一気に後ろへとはじき飛ばされて、後ろに置いてあった体珠と見事にぶつかったんだ。  ドカーン、なんて音はしなかったけど、ものすごくまぶしい光が辺りを包んだんだ。その光はしばらく僕たちの目を見えなくしてしまうほどのまぶしさだった。一体何分ぐらい、真っ白な世界を眺めたことだろう。やがて、元の視力を戻した僕らは、約15センチほどもえぐれたアスファルトを見つけて、慌ててその場所を逃げ出したんだ。結構離れた場所にいたから怪我こそしなかったけど、もし間近で爆発が起きていたらどうなっていたかと考えると今でも正直ゾッとする。  あれからだ、体珠同士をぶつけて遊ぶのをやめるようになったのは。  そして夢は覚め、現実の世界へ引き戻される。  目が覚めると、そこはどこかの室内だった。黒光りする革張りの豪華なソファに腰掛けた状態で眠っていたらしい。徐々に意識がはっきりしてくると、部屋の内装もやたら豪華だということが分かった。床には足を踏み込むとそのまま沈んでいきそうなほどフカフカの絨毯が広がり、目の前の低い机は大理石で出来ている。誰かの書斎か何かであろうか、すぐ近くには大きなテーブルが置かれており、本がぎっしり詰まった大きな本棚もある。壁には1メートル以上はある柱時計が置かれ、その近くには今までテレビでしか見たことがない、鹿の頭の剥製まで飾ってある。  誰もが簡単に想像できるお金持ちの部屋。そういった印象であふれかえっている部屋であった。「ようやく、お目覚めですかな?」  突然、かけられた声に独田は心臓が口から飛び出そうになった。一体どこから声がしたのだろう。  すると、ひときわ大きな机の向こう側に置かれていた黒い椅子がクルリとこちら側を向いた。 「少々手荒なまねをしてしまって申し訳ないと思っています」  少し高音の声の主はスーツを身にまとった40歳ぐらいの男だ。あの大男のように髪の毛をオールバックで固めているが、柔和な笑顔を浮かべているせいか、印象は全く違う。ちなみにワイシャツは淡いブルーでネクタイは赤いペイズリー柄だ。  あの大男からは圧倒的な威圧感を感じたが、この男からはそういったものは一切感じられない。しかし、何かしら別のオーラをまとっているような気がする。  さっきのような大男が相手では、独田は萎縮するしかなかったが、この男が相手なら何とかなるかもしれないと感じた。独田はゆっくりとソファから立ち上がると、男の座るテーブルへと向かった。そして相手を真っ正面から見つめ、語気も荒く話し出した。 「あんたは誰だ? それに、ここはどこだ?」  本来独田は人と面を向かって話すのが苦手な男であった。しかし、ここ数日の異世界の生活でそんなことも言ってられない状態になっていた。人間、切羽詰まれば自分でも気づかなかった本性が現れるものである。 「まあまあ、そう怒らないで」  男は両手を胸の前に出して大袈裟に答える。 「そんなに慌てずともそのうち分かりますよ」  男はゆっくりと立ち上がると、独田の横を通りソファーへと腰掛けた。そして、独田に向かいに座るよう左手を差し出した。  ひとまず、この場は独田も素直にそれに従い、ソファーへと腰掛けた。 「しかし、そうですね。最初は質疑応答でもいいでしょう。では先ほどの質問に答えましょう。私の名前は痣向(あざむかい)といいます。そして、ここは私の事務所です。他に質問は?」  痣向と答えた男は両手を腹の前で組み、独田の次の言葉を待っていた。 「さっき、俺をここに連れてきた男たちとの関係は?」 「私はあいつらが所属する組の弁護士をしています」 「べ、弁護士なのか、あんたは?」  痣向の意外な正体に独田は驚く。 「先ほども言いましたとおり、私には痣向というちゃんとした名前があります。その『あんた』というのはやめていただけますか、独田さん」  依然穏やかな口調だが、さすが弁護士ということか、その言葉には決して翻ることがないという強さが感じられた。 「もう、俺のことは調べてるってことか、痣向さん」 「結構」  痣向は名前を呼んだ独田に嬉しそうに目を細める。 「当然です。私に弁護を求める方なども全て調べ上げていますし」 「別に俺は、弁護をしてもらいたい訳じゃない」 「分かっていますよ。私はあなたに協力をして欲しいのです。協力を求める相手を調べるのも当然のことでしょう」 「協力?」 「もう分かっているでしょう?HCのことですよ」 「HC?」 「その名前をご存じない?つまりはこれのことですよ」  そう言って痣向はポケットからハンカチを取りだした。独田の前でたたまれていたハンカチの角を一つずつ外側へと開いていく。やがて、ハンカチの上に現れたのは透明な体珠だった。 「体珠か…」 「ほう、あなたはこれのことを体珠を呼んでいるのですか。うん、なかなかいいネーミングだ。これからは私もそれを使わせていただくことにしましょう」 「HCというのは?」 「それは私が名付けた名前です。初めてこれを手に入れたときに、色々と調べましてね。これの一番の特徴から『Human Cyrestal』と名付けたのです。HCはその頭文字です」 「手に入れたっていつ?」 「そうですねぇ、かれこれ15年は経つでしょうか。あのころは私も弁護士に成り立ての頃だったのですが、とあることからある人物を助ける機会がありまして、その人物に弁護報酬として頂いたのが初めてのことです。彼には大変世話になりました。彼のおかげで私の今の立場と財力があるのですから」 「財力?」 「そうです。HC、いや体珠は私にすばらしい富を与えてくれました」 「体珠が?」  こっちの世界でも体珠が流通しているのだろうか。しかし、体珠からはエネルギーを作り出すぐらいしかできないはず。そのための装置を準備するだけでも莫大なるお金が必要だというのに、一体この男はどれだけの体珠を手にしていたのだろうか?独田は色々と考えるが、どう考えても個人が体珠で莫大な富を得る方法が思いつかなかった。  そんな独田の姿を見た痣向は怪訝そうな表情をした。 「おや? 独田さんは体珠の効能をご存じないのかな?」 「こ、効能?」 「これは私の知り合いの大学教授に調べていただいたことですが、体珠には人間のDNAが含まれていることはご存知ですよね」  痣向は唇の片方をつりあげて、意地悪そうな笑みを浮かべる。独田には全くの初耳だったことを知っているかのように。 「さきほど、ある人物から体珠を頂いたと言いましたよね。どういうわけかその体珠にはその人物のDNAが含まれていたのです。このことを軸にさらに体珠について調べた結果、思いもよらない力を持っていることが分かったのです」  痣向は明らかにもったいぶった言い方をしていた。それが分かるだけに独田は無性に苛立ちを覚えた。しかし、その続きが気になるのも事実だ。痣向の機嫌を損なわないよう、苛立ちを極力表に出さないよう注意した。 「それはその体珠を飲むことによって、その人物のDNAを自分のものとして取り込むことができるのです」 「の、飲むだって!?」 「おや、何をそんなに驚かれているのですか?ということは、独田さんはまだ体珠をお飲みになったことがないのですね?」 「あ、当たり前じゃないか!」  そもそも他人の体珠を手に入れるということは法律上禁止されている。まあ、しかしそれを気にせずに個人的には体珠の交換などは普通にされているが。ともかく、他人の対珠を手に入れるならまだしも、それを飲むだなんて常人の考えることではない。いくら、体珠の正体を知らないとは言え、何ということを考えるのだ。 「まあ効能を知らないのでは、驚かれるのも無理はないのかもしれませんね。いいですか、他人のDNAを取り込むということがどういうことかお分かりですか?簡単に言えば、自分の能力が2倍になるということなのです」  痣向の予想もつかない言葉の連続に独田の驚きはまだまだ続くのであった。    ◇ ◆ ◇  独田は依然、その紫色の体珠に目を奪われていた。ズボンもあげずに。  いくら体珠が体内で精製されるとはいえ、まさかアレと同じようにして出てくるのだとは夢にも思わなかったのだ。この世界ではあまりにも当たり前のことだったので本にも載っていなかったのだろう。  体珠はかなりの熱を持っているらしく、周りの草からブスブスと煙が上がり始めていた。さすがに火がつくまでには至りそうもないが、とても触ることはできない。別の意味も込めて。  ちなみに、こっちの世界のトイレに水が張られているのは、下水へ流すためではなく、体珠の熱を冷ますためなのである。当然、洗うという意味も込められてはいるのだろうが。  森の中、ズボンを下げた状態で立ち尽くす男。  そのおかしな状態にようやく気づいた独田は慌てて周りをきょろきょろしながらズボンをあげた。そして、荷物の置いていた場所まで戻ると、ペットボトルに少し残っているお茶を確認してから、それを現場まで持っていく。そして、おもむろにペットボトルの蓋をあけると、紫の体珠にお茶を注ぎ始めた。お茶は体珠に触れた途端に白い蒸気へと姿を変えていく。  やがて空になったぺットボトルを地面へと置き、ズボンのポケットからハンカチを取り出す。そして、刑事ドラマで刑事が証拠品に指紋をつけないように取り上げる方法で体珠をハンカチでくるんだ。体珠はまだ熱を持ってはいたが、とても熱くて持てないということはない。使い終わりが近いカイロぐらいのものだ。  それをポケットに入れながら、これなら他人の体珠が欲しくないわけだよ、と笑ってみる。そういえば、紫色なんて見たことがなかったな。もしかしたら、予想もしない高値で買い取ってくれるだろうか。  荷物のある場所まで戻ってきた独田は、荷物をまとめて再び山頂へと歩き始めた。  その道すがら、独田はある大きな一つの疑問へと想いを寄せていた。  その疑問は考えれば考えるほど、考えもしなかったある結論へと収束していく。  やがて、森の木々で包まれた山道は終わり、広く開けた広場へと出た。  ここは山頂の手前にある広場だったはずだ。  ここまで来れば、山頂までは目と鼻の先だ。  この広場こそ、夢で思い出したあの遠足で食事をした広場だ。  自分に体珠をくれた男が潜んでいた森の方を見つめる。  あれから10年以上が経った。  もうさすがにあの男もいないだろう。  しかし、なぜかどうしても男のことが気になった独田はゆっくりとあの森に向かって歩き始めていた。  そして改めてあのことについて考えてみる。  なぜ自分は体珠を作り出すことができたのか?  少なくとも、元いた世界ではそんな特技は持ち合わせてはいなかった。  こちらの世界へとやってきて、体が突然変異を起こしたというのだろうか。  そんな、馬鹿な。  となると、答えはただ一つ。  ――自分は元々この世界にいた住人だった  下を見つめたまま、結局同じ結論に至った独田は突然、何者かに腕を引っ張られ、そのまま森の中へと姿を消した。    ◇ ◆ ◇  痣向は話を続ける。 「人間には限界というものが存在します。それは脳の限界といってもいいでしょう。しかし、現実に生きている我々はその限界どころか、ほんの一部の能力しか発揮させることができません。まあ、こればかりはどうしようもないことなのです。しかし、H、いや体珠を服用することに得られる第2のDNAはほんの一部しか発揮することのできない能力を更に引き出すことができるのです。箱の中にある飴を取り出すには片手よりも両手の方がたくさん取り出せる。それだけのことです」 「そんなことが言えるのは、誰かが実際に試したってことなのか?」 「当たり前ではないですか。憶測で物事を言っているようでは弁護士なんか出来るわけありませんからね。あ、ちょっと失礼」  痣向はテーブルの上に置かれていたシガレットケースから1本煙草を取り出し、慣れた手つきで煙草の先に火をつける。その流れが実に自然で独田はそれに目を奪われてしまった。 「おや、独田さんもお一つどうです?」 「いや、俺は煙草は吸わないから」 「そうですか。ですが、健康のためにはその方がいいですよ。私も何度か禁煙を試みてみたのですが、こればかりはなかなかねぇ」  親指と人差し指ではさんだ煙草を見つめながら、痣向はピエロのような笑顔を作る。そう、ピエロのように作られた笑顔を。 「おっと、話が途中でしたね。誰かが、体珠を飲んだのかということですが、独田さんもよくご存知の方々なんですよ。ええっと、確かファイルがここにあったはずです」  痣向はゆっくりと立ち上がると、机の引出しを探り出した。やがて1冊のファイルを取り出し、再びソファーへと腰掛けた。 「このファイルに体珠を服用した方々の記事をスクラップしているんですよ。さすがに最近は薬が残り少ないので新しい人材へと薬が流れることはありませんが、十分現役で活躍している方ばかりのはずです」  そう言って手渡されたファイルを開いた独田はそこに錚々たる顔ぶれが並んでいることに驚いた。  史上初で全タイトルを制覇した棋士。アメリカメジャーリーグへ進出した野球選手。世界ランキング上位に名を連ねたテニスプレイヤー。イタリアで活躍するサッカープレイヤー。世界を中心に活躍する作曲家、等々…… 「こ、ここに載っている人たちは全員、体珠を飲んだっていうのか!?」 「ええ、そうですよ。俄かには信じられないかもしれませんが、体珠に素晴らしい力があるのだとすれば納得できる人選ではないかと思うのですが」  痣向は口元を嫌らしく吊り上げながら、ファイルを食い入るように見つめている独田を眺めている。 「体珠は定期的に飲み続けないと効果が薄れていくものでね。現に昔ほどの力が出せなくなったも者も多くいます。そのファイルに載っている者で今でも薬を飲んでいるのは本当に数少ない。それもいつまで飲み続けることができるか…」  痣向は2本目の煙草に火をつけると、いよいよ本題だとばかりに真剣な表情へと変える。 「もう皆まで言わずともお分かりでしょう。この日本中に体珠を必要としているものは五万といるのです」 「言いたいことは分かる。ところで、最初にあんた、いや痣向さんに体珠を渡した男っていうのはどうなったんだ」 「ああ、彼ですね。本当に彼はついていなかった。体珠のおかげで巨万の富を手に入れたというのに、くだらない交通事故でその一生を終えてしまいました。しかし、そのせいで体珠の供給も止まってしまった。今考えても悔やまれる事故ですよ」  痣向の妙に芝居がかった話し方を聞いていると何もかもが嘘臭く聞こえてくる。一体どこまでが本当なのか。 「しかしもう2度と手に入らないと思っていた体珠を再び独田さんが用意してくれた。私はこの素晴らしい巡り合わせに神に感謝したい気分ですよ」  独田は両手を顔の前で組み、何かを必死に考えているようだ。その姿を見た痣向の右眉が軽く上がる。 「何をお悩みなのですかな。金銭的なことなら何も心配することはありませんよ。今の会社などやめても一生遊んで暮らせるだけの金を手に入れることも可能です。ついでにあの野蛮な奴らのことも気にすることはありません。奴らは所詮私の手駒に過ぎません。私の大事なビジネスパートナーである独田さんに手を出させるわけがないではないですか」 「勝手に話を進めないでくれ! 俺は何も言ってないし、何も答えてない!」  大声を張り上げ立ち上がる独田に対して、決して驚いた素振りも見せずに痣向は冷たく言い放つ。 「私に協力できないと言うのですか?」  先ほどまでの穏やかな口調から変わったあまりに冷たい刃のような声は独田の体を凍りつかせる。なんとも言えない恐怖と共に。 「いいですか、独田さん。私はあなたのためでも私自身のために協力を求めているわけではありません。体珠はこの日本から素晴らしい人材を産み出すため、つまりこの日本にもっと活気を与えるために必要なのです。それをあなたは持っている。そして私はそれを世間に送り出すためのパイプを持っている。これができるのは我々だけなのですよ」  再び穏やかな口調に戻した痣向は静かに独田に諭すように言葉をつないでいく。  直立不動のままそれを聞いていた独田は、ゆっくりと痣向の方へと振り向くと搾り出すように一言だけ答えた。 「少し時間をくれないか」  痣向はわずかに鼻で笑うと静かに答えた。 「いいでしょう。3日後、私の方から迎えを出します。それまでに考えておいてください。いい返事を期待していますよ」  しかしその言葉に「いいえ」の答えはないのだよ、と痣向は声には出さずにつぶやくのだった。    ◇ ◆ ◇  何者かに勢いよく引っ張られた独田はそのまま体勢を崩し、顔面から草むらへと飛び込んだ。 「ありゃりゃ、大丈夫かい?」 「大丈夫なわけないだろ! 誰だ、お前は!」  思いきり地面にぶつけた鼻をさすりながら、独田は起き上がり、相手の方へと怒鳴りつけた。 「いやぁ、申し訳ない」  そう言って頭を掻く男の顔に独田は見覚えがあった。十数年の歳月のため、顔にはいくつかの皺が刻まれ、多少丸みも帯びていたが、そう簡単には忘れない顔だ。何せ、ついさっき夢で見たばかりの体珠を独田に渡したあの男の顔だったのだから。  そんな独田の驚きの表情を見て、男は心底安心した様子で話し始めた。 「いやぁ、15年も経っているから忘れているだろうと思って、こんな森の中に引きずり込んだりしたけど、余計だったみたいだね。いやぁ、君たちに託して正解だったよ」 「え? 託す?」 「ともかく、僕を覚えているのならこんなところに長居は無用だ。ゆっくり話ができるところに場所を移そう」  と言って、そそくさと立ちあがり歩き出した男を独田も体中についた泥を払い落としながら慌てて追う。と、ここで独田にある疑問が湧き上がった。そこで、それを男に聞こうかと思ったが、意外と男の歩く速度は速く、知らぬ間に少々差がついてしまっていた。独田は質問を後回しにして、小走りで男の後を追うことに専念することにした。  広場からはさほど離れていないところに結構な大きさのロッジ風の建物がある。確か昔は小さな土産物屋しかなかったからなかったはずだから、ここ数年のうちに建てられたものだろう。カランコロンというドアに付いた鐘に迎えられながら、男に続いて独田も中に入る。中は土産物屋であったが、左手奥にはどうやら喫茶スペースがあるらしい。男は店員に「コーヒー2つ」とだけ告げると窓際の席へと腰を下ろした。  自分ら以外に客のいない建物の中はとても静かで、物音一つたてるのもまずいような気分になる。  独田は男の向かいの椅子に腰掛けると、店員の持ってきたおしぼりでまだ泥のついている顔をぬぐった。 「いやぁ、さっきは本当に申し訳ない。怪我とかはしてない?」  男は人懐っこそうな笑顔で独田に語り掛ける。 「ええ、まあ大丈夫です」  本当はまだ鼻の頭がヒリヒリと痛むのだが、子供でもあるまいし、大げさに痛がるほどのことでもない。独田はこんな時、変に気を使う癖がある。  やがて、運ばれてきたコーヒーを1口飲むと、男は膝をパンと叩いて、大きく1回息を吐く。 「さて、何から話したものか……」 「あ、その前に。一つ気になったことが」  独田は先ほど湧き上がった疑問をまずぶつけることにした。 「なにかな?」 「あなたは本当に僕が小学生のころに出会ったあの人なんですか?」 「どうしてだい?」 「だって、僕があなたと出会ったのは向こうの世界の話です。こっちの世界のあなたとは初対面のはずでは?」 「なかなか鋭いね。その通り。君が出会った僕は向こうの世界、つまり体珠のない世界の僕だ。だから君と僕は初対面ということになる。まあ実際のところ、僕が君と会うのは初めてではないんだけどね」 「一体全体どういうことなんですか!?」 「まあまあ慌てないで。今回の一件は全て僕たちが関与していることだけど、順を追って説明していくから」  男は両手を大げさにふりながら、独田をなだめる。  男の態度にこの場はあせっても仕方がないと気づいた独田は、聞き手にまわることを決め、コーヒーカップにゆっくりと手を伸ばした。 「最初に自己紹介をしておこう。僕の名前は葉貝(はがい)と言って、警備会社で勤めている。実はここだけの話、僕も君と同じ世界の出身なんだ」 「!!」  独田は口に含んだコーヒーを噴き出しそうになった。しかし、これもよく考えればあり得る話だということに気づいた。そうでなければ、元の世界で体珠をもらうことができないのだから。 「そもそもの話は18年前にまで遡る。当時、まだ警備会社に入社したてだった僕は、あの日初めて車を使っての輸送をしていたんだ。生まれて初めての現金輸送だったこともあって僕は助手席で結構な緊張感に襲われていた。そして、あの瞬間だ」  そこまで言って葉貝はコーヒーを一口飲む。 「夕方だっただろうか。もう少しで目的地に到着というところで、運転をしていた先輩が突然トイレに行きたいと言い出して、慌ててパチンコ屋へと車を停めたんだ。仕方がないんで、僕は助手席で煙草でも吸いながら外を見ていたんだ。すると突然、ものすごいめまいが襲ってきて、何もかもが分からなくなって、その場に気を失ってしまったんだ」  と、ここでまたコーヒーへと手を伸ばす。変にもったいぶった言い方に独田は少々イラツキながらも、葉貝の次の言葉を待った。 「で、目が覚めたらこっちの世界さ。おまけにどうやら車ごと来ちゃったらしくて、体珠が現金に変わっていると大問題になったんだよ。どうやら、元々こっちの世界に住んでいた僕は体珠を輸送中だったらしいんだ。あっちの世界に行ってしまった僕の方が後始末が大変だったかもしれない。何せ大金が見た事もない石ころに変わってしまったんだから」 「じゃあ、なぜこの世界に来てしまったかは分からないんですか?」 「ああ、そうなんだよ。何かしらヒントでもあれば元の世界に帰ることもできたかもしれないけど。まあ、それ以前に僕はもう元の世界には戻れなくなってしまっているし」 「どういうことですか」 「これも後々話すことだけど、実は向こうの世界に行ってしまった僕は死んでしまったんだ」 「死……あ、でもなぜそんなことが分かるんですか」 「だから、それも話すから。まあ、続きを聞いてよ」 「あ、はい…」 「それからは大変だよ。いきなり見たことも聞いたこともない体珠っていうやつが存在する世界に来ちゃったわけだから、この世界に慣れるまでは苦労したね。まあ、幸いなことに体珠を作ることができない体でも生活に不自由することはあまりなかったから、うまく回りの目を誤魔化しながら生活はできているよ」 「てことは、やっぱり葉貝さんは体珠を作ることができないんですか?」 「そりゃそうだよ。こっちの世界に来たからって、体の作りまで変わるということはないよ」  と、そこまで言って葉貝はあることに気づいたのか大きな声をあげる。 「あ! そうか。君は体珠を作ることができるんだね。まあ、薄々感づいているかもしれないけど、君の体は元々こっちの世界にいたからね」  やっぱり……独田は声には出さずにつぶやく。となると、今の自分の意識はどこからやって来たというのか。間違いなく自分の意識は体珠のない世界のものだ。  うつむいたまま動かない独田の姿を見て、葉貝は慌てて言葉をつなげる。 「頭がパニックになってしまったようだね。誠に申し訳ない話なんだけど、今回君たちを巻き込んだのは、僕たちだ。ちゃんと今回の件についても説明をするから、もう少し僕の話を聞いてもらえないだろうか」  独田は葉貝の言葉に再び衝撃を受ける。  自分がこんな目にあったのは、この男のせい? 一体、なぜ? どうして?  葉貝は独田の狼狽に気づきつつも、話を続けた。 「ともかく、元の世界へと戻る手段が見つからなかった僕は仕方なくこの世界で一生を送る決心をしたんだ。ところが、こっちの世界にやってきた2年後。突然僕の頭にもう1人の僕の声が響きはじめたんだ」 「もう1人の僕…?」 「そう、僕と入れ違いで体珠のない世界へと行ってしまった僕だ。その僕が言うには、とある教授の協力を得て、2つの世界をテレパシーでつなぐことができたと言うんだ。最初は僕の頭がおかしくなってしまったんだと思ったよ。ところがそんな僕の思いも知らずに、頭へと響くもう一人の僕の声は次々と色々なことを話し出してくる。それは驚くべき内容だったんだ」  そして、葉貝は今回の真相についてゆっくりと話し始めた。  ――いきなり頭の中で話を始められても訳がわからないかもしれないが聞いてくれ。これはお互いに大事なことだ。いや、それ以前にこっちの世界にとっては僕達個人だけでは済まされない大問題になり始めている。ともかく、始めから話すから、しっかりと聞いて協力をして欲しい。  まず、突然こっちの世界に来た僕は輸送失敗の責任を取らされてクビになった。ちなみに運転をしていた先輩もだ。あの先輩には洒落にならないほど怒られたが、それは今回のことには関係ない話だ。ともかく、首が決まった時、僕は何かの役に立つかもしれないということで、体珠はもらってきた。まあ、こっちの世界の人間から見れば、確かに綺麗だけど宝石でもなんでもないただの石ころでしかないから、それはすんなりもらえた。  で、しばらくは何もすることがなくて途方に暮れていた。おまけに元の世界に戻る方法も分からない。仕方がなく、僕は手元に唯一残った体珠のいくつかを売ることにした。これが意外と好評で、そこそこの金になった。運良く体珠はアタッシュケースで3個分もあったから、大事に少しずつ売って生計を立てていくことにしたんだ。いつか元の世界に戻れる日まで。  そんなある日、ある男と出会った。その男の名は痣向といって弁護士をしているという。痣向は体珠を大層気に入ったようで、いくつかを買っていった。そしてそれから1ヶ月後、僕は痣向の事務所へと招かれた。そこで、僕は今まで知らなかった体珠の効能を聞かされた。  それは、体珠を飲むとその人間の能力の限界がアップするということだ。これは元々そっちの世界に住んでいた僕でも知らなかったことだ。大体、体珠を食べるなんて発想はそっちの世界に住んでいたら生まれるはずがない。あれはものすごく巨大なエネルギーを持っているんだ。それを食べたらなんて……  しかし、こっちの世界はそんなことなんて知りもしない。痣向は知り合い、とそのときは言っていたが実際のところは違うんだ。まあそれは後でするとして、その知り合いという教授に体珠のことを調べさせていたらしい。そして、その効能を発見したそうだ。そして実際にその教授は体珠を飲んでいる。おかげでその教授は今まで見たこともないような発明を次々にしている。僕もそんな話は最初信じられなかったが、その後実際にその教授と会わせてもらって、その効能を信じた。余談だが、今僕も体珠を飲んでいる。  ともかく、その効能をもって体珠を全国的に売り出そうと痣向は言い出してきた。流通経路は痣向の方で準備するというし、その価格も今まで僕1人で売ってきたものとは比較にならないほどの高値に設定する。最初は冗談だと思った。しかし、試しに渡した体珠10個が何千万という大金となって手元に戻ってきたとき、僕は恥ずかしい話だがその金に目がくらんでしまった。痣向は体珠を将来世界で活躍できるような若者にしか売らないと言っていた事もあり、僕はその金儲けの片棒を担ぐことになった。  事業を始めて1ヶ月。僕の手元には莫大な金があった。そこで僕はそれを手に体珠の効能を発見した教授の元を訪れた。今や時の人となっていた教授の頭脳で僕を元の世界に戻せないか、力を借りに行ったんだ。最初は僕の話など信じてくれないだろうと思っていた。その時は必死に説得するつもりだった。手元にある金を全部使ってでもね。しかし、教授はすんなりと僕の話を信じてくれた。その前に体珠という不思議な物体があったせいだと教授は笑っていたよ。教授は僕も無茶な申し出を快く引き受けてくれた。そしてその日から、2人で僕が元いた世界へと戻る方法の研究が始まった。しかし、なかなか思うようには進展しなかった。それもそうだ。何せ手がかりになるものは全くないのだ。しかし、そこは体珠の力。全く手がかりがない状態からも、わずかな光を見つけ出して、匍匐前進よりも遅いスピードだが確実に前進をしている、そんな手応えは感じられた。それこそ、資金は湯水のごとく無くなっていったが、そんなことは気にならなかった。痣向の力で僕の手元には次々と大金が流れ込んできたこともあったが、何より教授との研究は今まで得たことの無い充実感にあふれた日々を送ることができたことが大きかった。  やがて教授は僕の元から無限にあふれ出てくる資金が気になったらしく、僕に聞いてきた。僕は別に隠すこともないと思い、痣向とのビジネスのことを話した。それを聞いた途端、教授の顔が険しくなった。そしてそのビジネスから早急に手を引けと言ってきたのだ。詳しいことは話してくれなかったが、昔教授は痣向にはめられ弱みを握られているのだという。未知の物体であった体珠の分析を無償でしたのもそのせいだったそうだ。教授はしきりに痣向という男は裏で何を企んでいるか分からないから、油断をするなと忠告をしてくれた。しかし、当面の資金が必要だった僕はしばらく様子を見てみるとだけ答えると、再び研究の日々へと没頭していった。  しかし、僕の考えは甘かった。教授の想像はものの見事に的中していたのだ。偶然、僕は聞いてしまったのだ。痣向の事務所での密談を。痣向は日本国内でも有数の暴力団との癒着があったのだ。それだけではない。その後の調べで痣向は日本だけにはとどまらず、中国のマフィアともつながっていたのだ。そしてそのつながりを使った恐るべき陰謀を企てていた。それは体珠を使ってスーパー兵士を作り上げるというものだったのだ。  怖くなった僕は手元にあった体珠を全て抱えて逃げることを決めた。教授との研究は完成していなかったが、僕が姿を消す後も教授は1人で研究を続けてくれるという。僕は手元に残っていた資金のほとんどを手渡すと海外へと飛び出した。  それから数ヶ月後。海外へ逃亡後も教授とは電話を使ってこまめに連絡を取っていた。そして元の世界に戻ることはまだだが、今回のように次元を超えて想いを送ることができるようになったのだ。それを聞いた僕は慌てて帰国して、今までのことをもう一人の僕に伝えている。ただ、残念なことにこの伝達は一方通行でしかない。つまり、もう一人の僕の想いは僕には届かない。でも、もう少し待っててくれ。いつか必ず元の世界に戻れるようになる。それまでの辛抱だ。もしかしたら、改めてそっちの僕にお願いをすることがあるかもしれない。その時は協力をよろしく頼む。とりあえず今日はここまでにしておく。何かあればまた伝える。 「それがあっちの世界へと言った僕からの最初の伝言だった」  沈痛な面持ちで淡々と語り続けた葉貝はそこまで一気に話すと、残っていたコーヒーを一気に飲み干し、店員にコーヒーのお代わりを頼んだ。 「ここまではあくまで序章なんだ。君たちにとっても重要なのはこれからだ。心して聞いてくれよ」  テーブルに届けられた2杯目のコーヒーに軽く口をつけると葉貝は再びもう1人の葉貝の話を続けた。 「それから数日後。夜中に再び頭の中へと伝言が届いた」  ――こんな夜中に済まない。しかし、僕にはもう時間が無い。今から伝えることを決して忘れないでくれ。最初にもう僕たちは元の世界に戻ることはできない。いや、正確に言えば元に戻ることは可能なんだが、今更もう1人の僕を危険に晒すわけにはいかない。そこまで僕は追い詰められているんだ。あれから、ずーっと日本で隠れていたのだが、ついに奴らに見つかってしまった。僕は体珠を山の奥深くに隠したのだが、奴らは再び教授を使い、自らの手で体珠を作り出そうとしている。教授の頭脳を持ってすればそれも時間の問題だろう。痣向はそれを使い、恐るべき兵士を作り上げ日本でクーデターを起こそうとしているのだ。そんな恐ろしい野望は何としても打ち砕かなければならない。しかし、僕にはそれができそうにない。そこで、教授とこっそり話をして、未来の人間に託そうと思う。しかし、僕の存在を奴らに忘れさせるためには少し時間が必要だ。教授には体珠の完成を何とか遅らせてくれると約束してくれた。そこで、今日鷹居山に遠足に来ていた小学生、名前は独田君と言うのだが、彼に3個の体珠を渡した。そして15年後、教授の作り出した機械によってこっちとそっちの世界に住む独田君の意識を入れかえる。それと同時に君の元へ、この相手の意識に語り掛けることのできる機械を送る。それを使って、そっちの世界にやってきた独田君に事の真相を伝えて、奴らの野望を打ち砕いて欲しいんだ。 「それがもう一人の僕からの最後の伝言だ。あれから15年後。ついこの間の話だけど、この機械と共に1部の新聞がどこからともなく僕の元へと現れたんだ。新聞には僕が事故により亡くなった記事が載っていた。その横に、多分話に出ていた教授の文字だろうけど、『彼は奴らによって殺された』と書かれていたよ」  葉貝はどこから取り出したのか、トランシーバーのようなものをテーブルの上に置く。 「いいかい。君はこれからこれを使って向こうの世界に行ったもう1人の君に向かって、今回のことを説明するんだ」 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」 「いいかい。断れば君の意識は一生この世界にとどまることになる。それでもいいのかい」 「きょ、脅迫ですか!?」 「君の住んでいた日本がクーデターに巻き込まれてもいいというのか! それでも、そんな世界を君が望むというなら君を元の世界に戻してもかまわないよ。ただ、僕は一生君を恨みつづける」  葉貝の目に先ほどまでの人懐っこそうな笑顔はない。 「い、いや、断るだなんて言ってません。ただ、もう少し説明が欲しいんですよ。なぜ、こんな回りくどいことをする必要があったんです? 向こうの世界に行った葉貝さんは何もできなかったのですか?」 「それは実は僕にもはっきり分からないんだ。教授と話でもできれば真相はわかるのだろうけど……」 「分かりました。ともかく、話をしてみましょう」  独田には既に道が一つしかないことが分かっていた。真相はその道の終着点まで行けば自ずと分かることなのだろう。独田はトランシーバーのようなものを手に取ると、ゆっくりと話し始めた。    ◇ ◆ ◇  痣向の事務所のあるビルが視界から見えなくなり独田は人っ子1人いない公園へとたどり着いていた。  ここまで来てようやく落ち着いた独田はふらついた足取りでベンチへと倒れこんだ。  何せ相手は暴力団の力を使ってまで自分の身柄を確保しようとした男だ。こうもすんなりと事務所の外へと出されたことが今考えると不思議なくらいだ。誰かにつけられている可能性も考えたが、この公園に来るまでにはそんな感じも受けなかった。だからといって完全に身の安全を確保したわけではない。何せ相手は弁護士だ。こっちの素性は完璧に把握されていると考えた方がいいだろう。どこか遠くにでも逃げない限り、期限の日には素直に痣向の前に出た方が無難だろう。妙に乾く喉から荒い息を吐きながら独田は改めて痣向の恐ろしさを感じ始めていた。  そんな時、突然独田の頭に別の人物の声が響き渡った。 『あーあー。聞こえるかな。といっても確認のしようはないんですよね』  普通なら「驚愕」や「恐怖」などといった感情に襲われるべき状況。なぜか不思議とそういったものには襲われなかった。ただ、さっきまでのあまりの緊張に一瞬頭がおかしくなったのかとは感じたが。 『信じられないかもしれないけど、僕は君だ。ああ! そんなこと言ったら訳わからないか。えーと、つまり、元々そっちの世界に住んでいた僕なんだけど、分かってもらえるかな?』  もう1人の自分(?)の慌てふためく声におかしさがこみ上げてくる。余程パニックに陥っているのかもしれない。本当ならこっちがそういう態度を取るはずなのに、なんて考えるとおかしさは更に増してくる。 『なんかよくわかんないんだけど、僕たちがこういう目に遭ったのには訳があるらしいんだ。その謎を追求するためにとある人物を探して会って欲しいんだ。彼なら全ての謎を解き明かしてくれるそうなんだ。あと、そっちの僕にはものすごく重要な任務があるみたいなんだ。痣向とかいう弁護士が悪巧みを働いているらしいから、それを防ぐのが任務らしい。ともかく、そのある人物さえ見つけることが出来れば今回のことも含めて全部分かると思うから、何とか彼を探してみてよ』  今回の謎の全てが解き明かされる……しかし、そのある人物って、一体……?  独田はゆっくりとベンチを立ち上がるとあてもなく歩き始めた。 『あ、忘れてたけど、その人物って余脇大学の雲富(くもとみ)教授だから』  独田はそのまま回れ右をすると、余脇大学へと向かい歩き始めた。  余脇大学は今や日本でも指折りの人気大学である。その人気を支えているのが独田が会おうとしている雲富教授その人だ。12、3年ほど前から色々な発明や新たな理論の発見などを立て続けに発表し、ついにはノーベル物理学賞まで受賞した大学どころか日本を代表する教授様なのである。しかし、本人はそんな名誉を受けてもけっして鼻にかけるようなことはせず、その温厚な人柄は人望も厚い。  なんて事を独田が知ったのはこっちの世界に来てからの話だ。少なくとも向こうの世界ではそこまで名の売れている教授なんていなかったはず。基本的には向こうの世界とあまり大差がないと感じたこの世界でここまで違う人物がいるということはやはり体珠が関係しているということなのだろうか。  門をくぐり目の前に広がるキャンパスにはたくさんの学生たちが歩き、走り、談笑している。この年になるとさすがに場違いな気分がしてくるが、ほんの数年前には自分もこんな感じで毎日を過ごしていたのかななんて考えると妙に恥ずかしい。  さて、目当ての教授だが独田もさすがに素直に会えるとは考えていなかった。よほどの人気教授だというのは既に周知の事実。何とか痣向にあう3日後までにアポイントが取れればいいといったところが本音だ。ひとまず事務所へと向かい、教授の事をたずねることにした。 「あのー、すいません」 「はい、何でしょう」  眼鏡をかけた30代らしき女性が応対へとやってくるが、セールスマンか何かと感じたのか少々怪訝な表情を浮かべているような気がする。 「えっと、く、雲富教授と会いたいのですが…」  その声に女性の顔はまたかといったような雰囲気を漂わせる。よほど、会いたい人が多いのだろう。 「お約束の方は?」 「それが、してないんです。ですから、明日かあさってにでも会えないか聞いて頂けないでしょうか?」 「まあ、今でしたら研究室にいらっしゃるようですし、直接お聞きになればいかがですか?」 「え? そ、そんなの大丈夫なんですか」 「はい? 大丈夫ですよ。2つ先の棟の3階にありますから、どうぞ」 「はぁ、ありがとうございます」  案内された場所までは意外と距離があった。そもそも棟と棟の間がやたらと離れているのだ。その道中こんなに簡単に会えてしまっていいものかと少し考えた。何せあれほどの売れっ子だ、てっきりマネージャーか何かがついていて、そう簡単には会えない人だと思っていた。ノーベル賞まで受賞しているということは、言い返れば国の宝とも言える筈だ。そんな人がそんなことでいいのか! 独田はおかげですんなり会えるにもかかわらず、変な怒りを感じていた。  息切れがするほどの距離を歩き、ようやく目当ての研究室へと着いた独田は一度大きく深呼吸をすると、緊張した面持ちでドアをゆっくりと2度ノックした。 「どうぞぉ」  変に間延びした返事が室内から聞こえてくる。  独田は静かにドアを開けた。  たくさんのコンピューターが設置された室内には数人の白衣に身を包んだ男がいた。男たちはそれぞれコンピューターのディスプレイを見つめたままキーボードを叩き続けている。独田が入ってきたことに全く気づいていないかのように。その中で一番の最高齢であろう人物が独田を笑顔で見つめていた。 「えっと、何か用かな?」 「あ、あの、わたくし独田と言うのですが…」  独田の名を聞いた途端、男の顔は驚きに変わっていく。 「き、君が独田君か……」 「あのぉ、あなたが雲富教授でいらっしゃいますか?」 「あ、自己紹介が遅れたね。いかにも私が雲富だ。そうかぁ、あれから15年も経つのか。いや、本当に待ってたよ。ここじゃなんだからちょっといいかな」  早口で雲富は話すと、独田に手招きをして研究室の奥へと消えていった。独田は依然コンピューターから目を離さない男たちを不気味に思いながら、早足で雲富の消えた部屋へと入った。  部屋は雲富のものらしく、大きな机と壁に並ぶ巨大な本棚が印象的であった。机の上には大量の書類が積み上げられているが、さほど煩雑さは感じられない。本棚に並ぶ書物の量も尋常ではないのだが、一目見ただけでそれがジャンル別に綺麗に整頓されているのがわかる。 「えっと、コーヒーでいいかな」 「あ、はい」  キョロキョロと室内を見まわす独田を笑顔で見つめながら雲富は机の上においてあったコーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ。 「ここにはコーヒーカップなんていうしゃれたものはないから、紙コップで失礼」 「いえ、どうも」  と、独田は立ったまま差し出された紙コップを受け取る。 「立ったまま飲むのかい?」  笑いながら言う雲富の声に慌てて独田はすぐそばにあるソファへと腰掛ける。そして、コーヒーを一口運ぶが、あまりの熱さにカップを落としそうになった。 「アチッ!」 「ハハハ、何を慌ててるのかね。それにしても、15年か。長いようで短かった。まあ、それなりに私にとってはキツイ15年だったがな」  雲富はちょっとくぐもった笑い声をあげた後、軽い咳払いをして、少し緩んだ表情を引き締めた。 「しかし、私にも君にも実はあまり時間がない。本当ならこうやって思い出話を色々としたいところなのだが、そうもいかない。君にはこれから色々と私の手伝いをしてもらわねばならない。早速で恐縮だが、まずは」 「ちょ、ちょっと待ってください!」  独田は次々と話を進めようとする雲富の話を慌ててさえぎると、ずっと手に持っていたコーヒーの入った紙コップをテーブルへと置き、雲富に負けないぐらいの早口で捲くし立てた。 「確かに僕はここへきて雲富教授に会えと向こうの世界の僕に言われましたけど、何が一体どうなっているのかも、僕がなぜこの世界にいるのかも、だいたい何で僕の頭に向こうの僕の声が響いたのかも、全く何もわからないんですよ!」  独田にさえぎられた言葉を発する格好のまま口をあけた雲富は独田の言葉を聞いて口と共に目まで大きく開く。 「何だって! 何も知らないのかね?」  雲富は腕を組みながら「むぅ」と唸ると、鼻から大きく息を出す。 「まあ、時間がないのは今に始まったことではない。ともかく、今回の事件をきちんと説明するか」  雲富は紙コップの中のコーヒーを一気に飲み干すと、コーヒーメーカーへと歩き、2杯目を注ぎながらゆっくりと話しはじめた。 「そもそもの事件の始まりは葉貝君が単なる事件のような偶然か、はたまた神のいたずらによる必然かは分からないが、こっちとあっち、つまり体珠のある世界とない世界の次元の歪を越えてしまったことだ。まあ、それだけならば街の小さな事件の一つとして闇に消え去っていたことだろう。だいたい、そんな話を信じてくれるようなところはないからな。しかし、それだけで済まなかったのは、葉貝君が体珠というこっちの世界には存在しない特殊な物体も一緒にこっちの世界へと持ってきたからだ。そして、もう一つ。今回の悪の根源とも言える痣向と出会ってしまったことも発端の一つといえるだろう。ここまでの話はわかるかね?」 「ええ、何となく。その葉貝さん、ですか? その人が体珠をこの世界に持ちこんだ人なんですね」 「そうだ。話を続けるぞ。当時、私はこの大学の教授になったばかりだった。その私と葉貝君を会わせるきっかけを作ったのも痣向だった。恥ずかしい話なのだが、痣向と私は学生時代の同級生でな、卒業後は私は教授に、痣向は弁護士になり、何かあるとお互いに色々と相談する仲だったんだ。まあ、親友と呼んでもよかっただろう。奴の悪事に気づくまではな」  立ったまま話を続けていた雲富はそこで一旦言葉を止めると静かに椅子に腰掛けた。 「だから最初、奴が私の元へ体珠を持ってきたときは実に面白いものを持ってきてくれたという感謝の気持ちが強かった。それほど体珠という物体は興味をひかれるものだったんだ。しかし、全く未知の物体の正体を探り出すことは想像以上に難しいものだった。しかし、私はある偶然からそんな体珠にすごい力があることを知ってしまった。それは私の趣向というか癖のようなものがきっかけだ」  雲富は一息入れるようにゆっくりと紙コップの中のコーヒーをすする。 「このように私は本当にこのコーヒーという飲み物が大好きなんだ。私がコーヒーを手放すのは、風呂に入るときと、トイレに行くときと、寝るときぐらいだ。大袈裟に聞こえるだろうが、本当に好きなんだよ。だからその日も色々な実験を重ねて体珠の正体を探っていた私は、いつものようにテーブルに置いていた紙コップを手に取りコーヒーを飲んでいた。それこそ、後で分かったことだが、この紙コップに何かの拍子で体珠が入っていたようなんだ。かなり小さいやつだったんだろう。私は全く気づかずに飲み干してしまった。じゃあ、なぜ体珠が入っていたことに気づくことが出来たかということだ。それから2、3日が経って突然、頭の中に様々な思いというか、何と言えばいいかな、要するに他人の思考が頭に飛び込んできたような感じといえば伝わるかな。まあ、こればかりは実際に飲んでもらった方が早いんだが、ともかく頭の中に今まで考えたこともないようなアイディアが次々と浮かんでいったんだ。突然冴え始めた頭脳に最初こそ戸惑いを覚えたが、そんなのはほんの数分のことだった。後は次々と湧き上がるアイディアに興奮したよ。その時に分かったんだよ。この効能は体珠によるものだってね。どうしてそういう結論に至るのかはうまく説明できないが、私はその結論に確信を抱かずにはいられなかった。ともかくそれが分かれば後の研究は早かった。それから数週間後には体珠のほぼ全ての謎が解明でき、痣向に自信満々の表情で成果を伝えたよ。しかし、それが間違いだったんだな。まさか奴があそこまで悪事に手を染めているとは知らなかった。とはいえ、奴の悪い噂を聞いたことがなかったわけじゃないんだ。そういう噂なんかは一緒に過ごした日々の記憶が簡単に吹き飛ばしてしまうものだったんだよ」  雲富は昔を懐かしむように視線を少し上げると、ハンカチをポケットから取り出し額を拭いた。汗を拭いているようだったが、独田には目に光るものが見えた気がした。 「ところで、独田君は痣向にはもう会ったかい?」 「はい。偶然、僕が体珠を持っているのが分かったらしく、チンピラを使って事務所まで連れて行かれました」 「奴らしいやり方だな。じゃあ、既に奴がどこと手を組んでいるかは薄々感づいているだろう。奴はこの日本国内でも有数の暴力団、渥見組の顧問弁護士をしている。どういう流れからそうなったかまでは知らないが、奴の素振りを見る限り、満更でもないのは事実だ。現に独田君を捕まえるのに暴力団の力を借りているわけだし」 「痣向って弁護士は体珠を使って一体、何をしようとしているんですか?」 「殺戮兵士を売るんだよ」 「え?」 「体珠の力で殺人の能力を極限まで高めた人間を作りだし、それを全世界に売るんだよ」 「ど、どういうことですか?」 「まだ分からないかい? 実は渥見組は香港マフィアと繋がっている。香港から全世界へと物を動かすのは容易なことだ。痣向はそのルートを使って人間を売りさばこうとしているんだ。そして、奴のことだ、ゆくゆくは裏社会のトップも狙っていることだろう」 「そ、そんな非現実的な……」 「その考えは甘いよ、独田君。確かに今の日本は平和だが、国というものが生まれて数千年、戦争のなかった時代はないんだよ。現に今でも中東や南米など至るところで戦争は起きている。超人的な兵士を欲しがるところはそれこそいくらでもあるということだ。まあしかし、私も最初は葉貝君が教えてくれたこの計画を信じられなかった。やはり友人が悪の道を進んでいるということを信じたくなかったんだ。しかし、葉貝君に押し切られるような形で行った盗聴で真実を知ると、さすがの私も信じないわけにはいかなかったよ」  独田は雲富の話に言葉を失いうつむく。 「いいかい、独田君。私たちはどんなことがあっても、今回の陰謀を防がねばならない。君はそのために選ばれた勇者なんだよ。君がその手でこの陰謀を打ち砕くんだ!」  雲富は右手に握り拳を作り、強い語気で独田に向かって言葉を吐く。当然独田もそれに答えてくれることだろうと思いながら。  しかし、独田の口から飛び出したのは雲富の想像していたのとは全く逆の言葉だった。 「冗談じゃねぇ! なんで俺なんだよ! 俺に何が出来るっていうんだ! いきなりそんなふざけた話聞かされて、はいそうですか、なんて簡単に納得できるわけないだろうが! 俺はゲームに出てくるようなプログラムされたキャラクターじゃないんだよ!!」  雲富の顔に一瞬、驚きの表情が浮かぶが、どうやらこの独田の言動も予想済みだったらしく、顔には軽い笑みさえ浮かんでいる。 「まあまあ落ち着きたまえ。君の言い分はもっともだし、気持ちはよく分かる。しかし、私たちも適当に君を選んだわけではないんだ。ところで、独田君。なんか体調とか変わりはないかい?」 「え?」  まだ少し紅潮している頬に汗を流しながら、独田は明らかに口調の変えられた雲富の最後の言葉に戸惑う。 「そろそろ効きはじめる時間だと思うのだが……」  独田はその言葉を聞き終える前に静かに横に倒れていった。 「さて。これからが忙しいぞ」  雲富はソファで静かな寝息をたてている独田を見つめながら、これからのことを考え始めていた。    ◇ ◆ ◇  鷹居山の山頂手前にある喫茶室はわずかに聞こえるテレビの音を含めても、静寂な雰囲気で包まれていた。  葉貝は既にここにはいない。  葉貝は去りぎわに力強く独田の手を握り「もう1人の僕の無念を晴らしてくれ」とだけ言うと、足早に店を出ていった。彼は仕事を抜け出して来ていたようだ。ではなぜ、独田が今日ここにくることを知っていたのだろうか。まさか、毎日ここに来てたわけでもないだろうし。  それはともかく。独田はテーブルの上に残されたトランシーバーと新聞紙をじっと見つめながら、コーヒーカップにわずかに残ったコーヒーを一気に飲み干した。 「すいません、コーヒーをもう一杯」  カウンターの奥でテレビを見ていた店員は何も言わず、空になったコーヒーカップにそのままポットに入ったコーヒーを注ぎ入れた。  徐々に黒い液体で満たされていくカップを見つめながら、独田は胸の奥に湧き上がる不快感を感じ始めていた。それは違和感といってもいいだろう。既に御伽噺のような展開で話は進んでいる。しかし、それ以上に感じる疑問。  店員がテーブルを去った後も、独田はカップを見つめ続けている。  葉貝の話に不審に思う点はなかった。何より、自分よりも先に御伽噺の世界に迷い込み、十数年過ごしてきたことに    という念を抱かずにはいられない。  だから、彼にとやかく問うても仕方がないのは分かっていた。だから、彼の「無念を晴らしてくれ」という言葉に何も返すことは出来なかった。そもそも、こっちの世界にやってきた自分の意思ではどうにもできないではないか。事件が起きているのは向こうの世界の話だ。そこが独田の心の中に大きな疑問を抱かせたきっかけだった。  葉貝の話を聞きながら、独田はその疑問が確実に形となって胸の奥で大きくなっているのを感じていた。  そうなのだ。事件が起きているのは向こうの世界での話なのだ。こっちでは体珠にまつわる事件など全く起きていない平和な世の中である。  こっちの自分にできることなど本当に限られている。正直、手元に残されたこのトランシーバーだけでは向こうの世界に行ったもう1人の自分の意識を手助けできるかどうかも疑わしい。  しかし、それよりも大きな疑問は、なぜ自分の意識がこっちの世界の自分と入れ返られたのかということだ。よく考えてみれば、向こうの世界で葉貝に体珠を手渡されたのはこの自分だ。ならば、葉貝の思いを伝えられたのも自分ということではないか。それなのに、自分は何もできない場所にいる。普通ならそのことに対して歯がゆさというか、悔しさのようなものを感じるのかもしれない。しかし、自分の心にあるのは明らかな不快感だ。  なぜか?  それは、今まで考えもしなかったこと。  しかし、今の自分にその考えが正しいかどうか答えを出すことはできない。  ただ、向こうの世界からの連絡を待つだけ。  今ごろ、向こうに行った自分は雲富とかいう男から色々なことを聞いているのだろうか。  独田はカップに満たされたコーヒーに手をつけず、ゆっくりと席から立ち上がると、テーブルの上にコーヒー代を残し、店から出て行く。  外に出ると、太陽は既に西の方角へと傾いていた。  ここに来る当初は、山頂まで行こうと考えていたが、今はそんな気持ちにはなれなかった。  かと言って、自分の足で下山する気もなかった。  山を下るケーブルカーが到着するまでは少し時間があった。  独田は近くにあったベンチに腰掛けると両手で顔を覆った。  そんなことをしている内に、独田の中ではさっきまで考えていたことが確信に近づいていく。  間違いない。  自分は意図的に向こうの世界から離れさせられたのだ。  でも、一体なぜ?  しかし、当然答えはやってこない。  やってくるのは独田を乗せるためのケーブルカーだけだった。    ◇ ◆ ◇  フラッシュの嵐。  そして、暗転。  エレベーターを降りた俺は見覚えのある廊下を軽い足取りで歩いている。  数えて3つ目のドアで立ち止まると、軽く2回ノックする。  中からの返事が聞こえる前に素早くドアを開けると、頭だけ室内に突っ込む。  8畳ほどのスペースに大きな机が置かれており、そこには見慣れた女性の顔がある。  俺がいきなり顔を出したため、少々驚いた表情をしていたが、俺の顔を確認するとまるで子供を見るような優しい笑顔になる。 「今日はえらくご機嫌ね」 「まあね」  廊下に出したままの体を室内へと滑り込ませ、俺はウィンクをして答える。 「いる?」 「いることはいるけど、別のお客様のお相手をしているわ」 「別のお客様?」 「割とここには顔を出す方なんだけどね」 「入っちゃまずいかな?」 「待って、聞いてみるわ」  受付の女性は電話の受話器をあげると、静かに丁寧な口調で話をし始める。  こういう姿を見るとさすがに秘書なんだなと改めて感じる。  彼女が電話をしている間、俺は軽く部屋を見回す。  部屋のほぼ中央に小さな応接セットが置かれているが、俺はそこに誰かが座っているのを見たことは一度もない。多分、秘書の机1つではあまりに味気ないから置かれているだけなのだろう。 「入ってもいいみたいよ」 「ありがと」  俺はそれだけ言うと、そのままドアのほうへと向かい、ノックもせずにドアを開けた。といっても、俺がこのドアをノックしたことは一度もない。 「こんちは」  少しだけ開けたドアの隙間から顔だけのぞかせる。  真正面にある大きな机、その後ろにはさらに大きな窓があり、その窓際に痣向は立っていた。背中でやや隠れていたが、右手にはコーヒーカップを持っているようだ。  部屋の向かって左奥には、黒い革張りのソファーがいくつか置かれており、そこに見知らぬ男の顔があった。俺は男と目線が合わないようにチラチラと様子をうかがう。 「かなりご機嫌なようですね」  痣向はゆっくりとこっちを振り向くと、唇の片方だけを吊り上げる。俺はいちいち演技臭い痣向の態度が好きになれなかったが、最近は昔ほど腹が立たなくなっていた。人というものはこんな些細なものでも慣れてしまえるものだ。まあ、俺がこちらの世界の生活に慣れるよりは、かなり楽だったのも事実だが。 「当たり前じゃないか。先生はオリンピックを見てないのか?」  一応、俺は痣向のことを先生と呼んでいる。しかし、ただ回りの連中がそう言っているから合わせているだけであって、俺自身が痣向のことを先生だと思っているわけではない。まあ、俺に裕福な生活を与えてくれるという意味では、大先生と呼んでもいいぐらいの相手なのだろうが。 「新聞では拝見してますよ。さすがにテレビまでは無理ですが」 「そりゃ、もったいない話だよ。ここまで日本人選手が活躍しているオリンピックなんてないぜ。まあ、仕事で忙しいんだろうけど、たまにはそういう感動的な場面を見て、休むのも大事だと思うけどね」  ソファに座っている男は、俺たちの話に興味がないのか、黙ってコーヒーを飲んでいる。サングラスをかけていたので顔色はうかがえないが、何となく日本人ではないようだ。中国人か、それとも……。 「ところで、いつまでそんな状態でいるつもりですか? 私はともかく、真田君はいい気分ではないと思いますよ」  確かに言われてみればそうだ。痣向には顔を見せていても、真田さんには、ようはさっきの秘書のことだが、尻を突き出した状態でいるのだから。  そんな俺の心を読んだのか、背中からクスクスと小さな声が聞こえた。  俺は恥ずかしさを極力表に出さないように注意しながら、外に出たままの体を部屋の中へと滑り込ませる。  サングラスの男は相変わらずこちらを向くことすらしない。 「そうそう、ちょうど葉貝君に紹介したい人がいらっしゃるんですよ。本当ならこちらから連絡するつもりだったのですが、ちょうどよかった」  痣向は確かナルシストではなかったと思ったが、今のは明らかに自分の台詞に酔っている。まるでここが帝国劇場か何かの大舞台だとでも思っているのだろうか。 「あの人?」  俺はソファの男を顎で指しながら聞く。誰が見ても、俺の顔には疑念の表情が浮かんでいただろう。  痣向はゆっくりとうなずくと、ソファのほうへと歩き始めた。  歩きながらも俺を見つめる痣向の瞳からは「あなたも来なさい」という念が飛んでくる。「目は口ほどにものを言う」とはよく言ったものだ。  一方、俺に顎で差された張本人は、俺たちの言葉がわからないのか、相変わらず静かにコーヒーを味わっていた。 「で、この人は誰なの?」  真田さんが運んできたコーヒーをふうふうと冷ましながら、俺は尋ねる。  痣向は煙草に火をつけ、一度大きく煙を吐き出してから話をはじめた。 「この人は陳さんといって、私の大切なビジネスパートナーです」  陳と紹介された男は日本語が分かるのか、わずかにだが頭を下げた。しかし、もしかしたら居眠りをしているだけなのかもしれない。 「そこで相談なのですが、この陳さんに体珠をいくらか都合してはいただけないでしょうか?」 「え? この人に?」  陳に動きは依然ない。 「今まで日本国内だけで体珠を売り出していましたけれど、これだけのものですから海外からの申し込みもものすごいのです。しかし、私は海外へと送り出す流通経路を持っていないので、陳さんの力を借りることになったんです。しかも、陳さんはその際に3倍もの値段をつけてくださると約束してくれました。いい話でしょう?」 「別に構わないけど、そんなにたくさんの量は残ってないぜ」  俺の言葉に痣向の片方の眉がかすかに上がる。 「そうなのですか」 「まあな」  俺の言っていることは、もったいぶった気持ちもある分、多少誇張してはいたが、底が見え始めていたのは事実だ。でも、俺が一生遊んで暮らす金を作るのには十分事足りる量でもある。 「50は無理ですか?」 「いや、たくさん残ってないっていうだけだから、それぐらいは問題ない」  痣向は囁くような声で隣に座る陳へ話し掛ける。何を言っているか、はっきりと聞き取ることは出来ないが、言葉の感じから中国人なのだろう。まあ、名前から薄々感づいてはいたが。  やがて陳は、ほんの少しだけうなづいた。 「では、とりあえず50だけ準備してもらえませんか」 「ああ、分かったよ」  俺はそれだけ答えると、用事があると適当な理由をつけ部屋を出た。  真田さんは電話をしていたので、手を軽く振って廊下へと出た。  エレベーターへと向かう足取りは、あの陳という男の出す不気味な影にまとわりつかれたかのように重かった。  暗転。 「体珠を作ることになったってどういうことだよ!」  俺は教授の胸座を両手で思いっきりつかんで叫ぶ。  教授は抵抗をするでもなく、ただ悲しそうな光を瞳にたたえて俺を見つめている。 「くそっ!」  俺は乱暴に教授から手を離すと、近くに置いてあった机を蹴飛ばした。  あの陳とかいう男の差し金に違いない。  あの男に出会ってから、明らかに痣向の様子が変わった。  今まで要求したことのない量の体珠を欲しがったり……前以上に金の亡者になったようだ。  教授の力を持ってすれば、体珠を作ることは可能かもしれない。  もし、そうなってしまったら……  暗転。  恐れていたことがついに起こってしまった。  体珠がついに底をついてしまったのだ。  幸いにも教授の研究は完成していないようだが、体珠の謎を知っている俺は奴らにとって邪魔者でしかない。  俺は今までに手に入れた金を使って世界中へ逃げた。  しかし、奴はありとあらゆる手段を使って俺の居場所を突き止めてきた。  逃げ場を完全に失った俺は日本へと戻っていた。  もう俺もここまでだ。  しかし、このまま犬死するつもりはない。  俺は追っ手を振り切って、鷹井山へと登ると、そこにいた一人の子供にポケットに残っていた最後の体珠を託すことにした。  これが何の役に立つのかは分からない。  しかし、教授ならきっと何かしてくれるに違いない。  クソッ。  ついにここまで追っ手が来たか。  畜生! こんな目に会うんだったら……  激しい光の渦。  そして……暗転。 「ハァハァ」  全身を気持ち悪い汗が流れていく。  蛍光灯の光を直視してしまった独田は、慌てて目をつぶり、荒い息を吐き続けた。 「目が覚めたかな?」  温かみのある声が耳に届く。  しかし、独田は脳裏から消そうとしても消えない映像を、暗闇の中で見つめている。 『アレハナンダッタンダ?』  自分の口から出ているのに、まるで他人のような声。 「少し刺激が強すぎたかもしれないね」  声は徐々に近づいてきている。 『オマエハダレダ?』  自分が本当にしゃべっているのだろうか。 「興奮状態が落ち着きそうもないね」  声の主は何かを取り上げたようだ。 『オレハダレダ?』  腕に何かが刺さった。  そして、意識は暗転した。  再び目が覚めたのは、あれから15分ほど後のことだったようだ。  独田は光を恐れるようにゆっくりと瞼を開く。  白く眩しい光が襲ってくるが、独田は静かにそれを受け入れようとした。  先ほど見たのと同じ蛍光灯の光。  独田は体の各部分を確かめるように静かに動かしたあと、ゆっくりと起き上がった。  上半身を起こしただけで、ものすごい眩暈がした。  両手で頭を抑えながら、起こした体をそのまま前の方へと倒す。  あれは一体なんだったのだろう?  夢の中で夢を見ていたかのような錯覚。  そして、今自分がいる世界も夢なのか?  ぼんやりと思考をさまよう独田を現実の世界へと引き戻してくれたのは、「今度は落ち着いているようだね」という言葉どおり落ち着いた声だった。  やがて、ゆっくりと焦点が合い始め、目の前にいる人物が雲富であることが分かる。そして、ようやく自分が現実の世界に戻ってきたことに気づいた。 「ここは…」 「ここはさっき、独田君が倒れた部屋の隣の部屋だ。どこか、気分が悪いとかいうことはないかい?」  雲富はゆっくりと湯気の立ち上る紙コップを独田へと差し出す。  静かに独田はそれを受け取り、紙コップの中の黒い液体をすすった。 「独田君には、こういう目にあわせて申し訳なかったと思うよ。しかし、今までの流れを説明するにはこれが一番だと思ったんだ」 「なぜ、睡眠薬なんかを使ったんです」  独田の声は静かだったが、語尾の裏には明らかな怒りが見て取れた。 「では、独田君は私が言えば素直にこのような装置を身につけてくれたのかな?」  独田は雲富の両手の動きに合わせるように部屋の様子を見回した。  そこはまるで昔のアニメに出てきた研究所のように無数のコンピューターと得体の知れない機械に覆われていた。そして、雲富が独田の頭からゆっくりとはずしたヘルメットは洗脳装置としか思えないような代物である。 「どうかな? いい印象は受けなかっただろう。不思議なもので、本格的に巨大なシステムを作ろうとすると、どうしても昔の悪の研究所のような代物が出来てしまうんだ。そこで、本意ではなかったが睡眠薬を使わせてもらったということだ」  雲富は軽く笑った。  あんなにも覚えた怒りは、睡眠薬と雲富の柔らかい言葉でかき消されてしまった。自分が見せられたのは実際に亡くなった葉貝さんの脳から得た映像だという。最後の部分が映っていなかったのはそれだけ衝撃的な出来事であったのだろうとのことだ。  そして何よりもあんな夢を見せられたおかげで、妙な正義感まで溢れているのが分かる。まるであのヘルメットは本当の洗脳装置だったようだ。  そんな独田はまず研究室でもう一人の独田へ通信をかけた。それは雲富の指示によるものだった。そして、夢で見た内容をそのままそっくり伝えた。しかし、確か向こうの世界の独田もこのトランシーバーのようなものを持っていたはずだが、一向に返事は返ってこなかった。ちゃんと伝わったかどうか確認する術もなく、雲富とは日を改めて会うことになった。アポイントを取って雲富に会いに来た人々が長蛇の列を連ねていたからだ。  独田が余脇大学の門を出たときには辺りは暗くなっていた。  大学に来るまでは痣向の恐ろしさに震えていた独田だったが、今は明らかに態度が違った。瞳に迷いはなく、ピンと伸ばした背筋からは自信がみなぎっているように見える。雲富という大きな味方の存在が、そんな態度を取らせているのだろう。だから独田は気づいていなかった。ある矛盾に。    ◇ ◆ ◇  行きにあれだけ時間のかかった山道をあっという間に下りてきた独田は、駅への道を煙草をくゆらせながらゆっくりと歩いていた。  自分はこれから何をすればいいのか。ただそれだけを考えながら。  夕闇に赤く染まる駅のホームに人影はほとんどない。  フィルターだけになっていた煙草をホームの吸殻入れに捨てると、左手に握られているトランシーバーのようなものに目を向ける。  そして、さっき喫茶店で向こうの世界の自分に向けて言った言葉を思い出す。  やがてホームに滑り込んできた電車に乗り込むため、ゆっくりとベンチから立ち上がった独田は、明日の予定を決めてから、電車に乗り込んだ。  昨日の晴れ渡った空から一転、今日は冷たい雨が町を濡らしていた。  黒い傘を右手に持った独田は、その大きな門構えをしばらく見つめていた。  その横には大きく「余脇大学」と書かれたプレートがはめこんである。  今日は土曜日ということもあって、学生の姿もまばらだ。  独田は軽く深呼吸をしてから、その敷地に足を踏み入れた。  大学のキャンパスに足を踏み入れるのも久しぶりだ。もう少し賑わいがあれば、忘れていた学生時代の思い出も思い出せたかもしれない。あと、この大学を訪れた理由もなければ。  昨日鷹居山から戻ってきた独田は、その足で自宅から2駅離れたところにある大型書店へと向い、雲富教授に関することを調べた。  余脇大学教授の雲富史継は今年55歳。体珠研究の第一人者であり、最近は体珠が人間の精神に与える影響を中心に研究を進めている。また、その研究結果の一つで4年前にノーベル生理学賞を受賞している。その温厚な人柄から人気も高く、テレビ出演や講演などで大忙しの日々を送っていたが、最近はメディアへの露出を控えて、新たな研究に没頭しているらしい。  普段からニュースとあまり接していない独田は、雲富教授がノーベル賞受賞者だということを知って正直驚いていた。そして、そんな大それた人が自分の話を信じてもらえるのか、それ以前に聞いてもらえるのか不安になった。しかし、緊張しながらかけた電話に出た雲富教授は、喜んで時間を取ると話してくれた。その温和な声に緊張も多少和らいだのだが、こうして改めてその場に向かっていることを思うと再び緊張感がよみがえってくる。  目当ての研究室は程なくして見つかった。人影のほとんどない建物内には静寂だけがたたずみ、中には教授がいるはずの研究室からも人の気配は感じられなかった。 「失礼します」  独田は研究室のドアをゆっくりと開ける。自分ではそこそこの声を出したつもりだったが、実際に喉の奥からは出た言葉は声になっていなかった。  何台ものパソコンが並べられた室内に人影はない。ゆっくりと室内に踏み入れると床のきしむ音が静かに響く。 「すいません……」  今度は自分の耳にも聞こえる程度の声が出せた。しかし、返事はない。結構な広さのある室内を見回すと、奥に別のドアが見えた。ドアについた擦りガラスには、わずかだが電灯がもれているようだ。  独田はなぜか忍び足でそのドアへと向かう。ドアの前に立つと、擦りガラスから中を覗き込むように目線を動かす。その瞬間、思い切りよくドアが手前に開かれ、目標をなくした目線は、頭もろとも室内へと転がり込んだ。 「何をこそこそしているのかな?」  ドアを開けた男は床に座り込んだ格好になった独田を見下ろしながら言う。その口調は穏やかであったが、一本筋の通った凄みも感じられた。 「あ、あ、あの、き、昨日、電話した、ど、独田ですが……」  男を見上げた格好のまま、独田は冷や汗を背中に感じながら、しどろもどろで自己紹介をする。その言葉に、男の顔には笑顔が浮かんだ。 「君がそうか。いや、待っていたよ。アポを取っているんだから、もっと堂々と来て貰わなきゃ。悪者だと疑われても、文句は言えないよ」 「あ、はぁ。スイマセン」 「ともかく、そんなところにいつまでも座りこんでないで」  独田は差し伸べられた手を握り、ゆっくりと立ち上がる。 「しかし久しぶりだよ。君のような人に会うのも」  一通り独田の話を聞いた雲富は紙コップのコーヒーを飲みながら答える。つまり、雲富は以前にも同じことを経験した人間に出会ったことがあるということだ。これは独田にとって衝撃的なことであった。 「いやね、私が体珠と人間の精神の研究を始めたきっかけも、君みたいな人に出会ったことからだったんだよ。そして、研究の結果分かったんだが、体珠には次元を超えて持ち主の思念を送る力があるんだ。このことはご存知かな?」  独田は大きく首を振る。体珠にそんな力があるなんて想いもよらなかったことだ。ここで、独田はあることに気づき、急いで持ってきた鞄の中身を探る。そして、鞄から取り出したもの、それはあのトランシーバーのような物体であった。 「何かな、それは」  雲富は独田の手に握られた物体に興味を持ったようだ。独田が事情を説明すると、雲富はそれを貸してくれるよう頼んできた。雲富は大事そうにその物体を受け取ると、部屋の奥に鎮座する大きな机のほうへと歩き出した。机の上には大量の本や書類が積み上げられ、机の裏に回った雲富は簡単にその山に隠れてしまった。  再び独田の前に現れた雲富の手には物体と共に1本のプラスドライバーが握られていた。 「ちょっと分解させてもらうよ」  雲富は独田の回答を待たずに、物体の四隅についている螺子を外し始めた。  独田はそのすばやい行動に、なぜ自分は分解しようと考えなかったのか疑問に思った。普通に考えれば原理を知りたくなるものであるはずなのに、この物体に関してはなぜかそういう気分にならなかったからだ。しかし、その疑問の答えが出る前に、物体の正体は判明した。 「やっぱりそうか」  雲富は既にこの物体の正体に気づいていたようだ。独田は差し出された物体の中身をおそるおそる覗き込んだ。中にはたったの2つのものしか入っていなかった。1つは大きな鉛の塊。そしてもう1つは蛍光灯の光に反射する体珠であった。 「原理は至って簡単なんだ。先ほども言ったことだけど、体珠には次元を超えて、自分の思念を相手に送る力がある。受け取ることができるのはほとんどの場合、異次元に住む自分自身であるようだ。まあ、こればっかりはサンプルが少ないから、はっきりとしたことは言えないんだけどね」 「ということは、既に実験済みなんですか」 「まあね。言っただろ? 君みたいな人に会ったことがあるって。その人たちに協力してもらったんだ」 「さっきから言ってる、僕みたいな人って、もしかして次元を超えて心が入れ替わった人たちのことなんですか」 「そういう人もいたし、体ごと入れ替わった人もいたな」 「もしかして、その中に葉貝さんって人はいましたか?」 「葉貝? えーっと、どうだったかなぁ。ちょっと待ってよ、資料調べてみるから」  雲富は大量にあるファイルの中から、迷うことなく1冊の青いファイルを取り出し、パラパラとページをめくっている。どうやら、この教授の頭にはこの膨大な量のファイルの場所がすべて入っているようだ。ノーベル賞を取るほどの人物ともなると、さすが違うなと妙なところで独田は感心していた。 「いや、葉貝という人には会ったことがないねぇ」  これは予想外の答えだった。 「え? 本当ですか?」 「ああ、この資料に抜けは絶対にないから、間違いないね。その葉貝っていう人も君と同じように、心が入れ替わってしまった人なのかい?」 「いえ、葉貝さんは体ごと入れ替わってしまった人です」 「本当かい? いやぁ、それはぜひ会いたいなぁ。いやね、体まで入れ替わってしまった人と会ったことは1回しかなくてね。正直、資料が不足しているんだ。連絡とかつかないかな」  ここで初めて独田は自分が葉貝との連絡方法を知らないことに気づいた。そのことを話すと雲富は残念そうな表情を浮かべたが、「でも、こちらの世界で生活ができるのであれば、余計な心配かもしれないね」と頷きながら言った。まるで自分に言い聞かせるように。 「生活ができる?」  独田は雲富にその一言に気がついた。じゃあ、生活ができなければどうなるというのだろう。  雲富の答えはいたって簡単なものだった。 「元の世界に戻ればいいんだ」 「戻れるんですかぁ!!」  いきなり立ち上がって叫ぶ。 「あ、ああ。戻れるよ」  独田のいきなりの行動に驚いたのか、雲富はちょっと口篭もりながら答える。 「こういった現象が起きる理由はほぼ解明されているんだ。その理由さえ分かれば元の世界に戻すことはたやすいよ。なに、同じ現象をもう一度起こせばいいだけなんだから」  雲富は3杯目のコーヒーを紙コップに注ぎながら解説をしてくれた。  このような現象は本来ならありえないことらしい。それはそうであろう、あまりに非現実的な話だ。しかしそんな非現実的なことを引き起こす引き金こそ、非現実的な存在である体珠であった。体珠は持っている人間の思念を次元を越えて運んでいく。普段であればそれを受け取った人間は単なる自分の思いつきの1つとして片付けていることだろう。しかし、もし受け取った側も同じタイミングで体珠を使って思念を飛ばしていたとしたら? 思念と思念が次元の狭間で衝突したとき、そこに歪が生まれる。そしてその歪が引き起こす力に思念もろとも意識が吸い込まれていくのだという。これが次元を越えて意識が入れ替わってしまうという現象の原因なのだそうだ。これに加えて体まで入れ替わってしまうのは、その時の力が強大であったからであろうと想像されているということだ。  つまり、今回独田が巻き込まれたこの事件の元凶は幼稚園時代に受け取った3個の体珠だったというわけだ。  と、解説を終えた雲富の表情が一瞬曇った。そしてポツリとつぶやいた。 「まずいなぁ……」  その表情を黙って見ていた独田の頭にもある思いが飛び込んできた。しかしそれは雲富のとは違って悪いものではないように感じた。何せ、向こうの世界の自分も雲富教授の仲間になっていたのだから。  曇った表情のまましばらく考えていた雲富は、意を決したかのように独田に向かってこう言った。 「今すぐ、元の世界に戻るんだ」 「なぜ、すぐ戻るなんて言うんですか?まだ僕には…」 「君の言いたいことは分かっている。だからこそ早く元の世界に戻るべきなんだ」 「でも……」  雲富はしばらく無言で独田を見つめていたが、やがてため息にも似た空気を吐き出し、あきらめるかのような口調で言った。 「もういいだろう。今回の黒幕は私なんだ」  衝撃的な告白に偶然か故意か室内は静寂に包まれた。    ◇ ◆ ◇  あれから1ヶ月が経った。  あの後の展開はまるでジェットコースターに乗っているかのようにあっという間のことだった。キーパーソンとなるかもしれないと考えた雲富教授との出会い。今回の事件の真相。そして黒幕。  予想外の告白を受けたその日に独田は元の世界へと戻る準備に入った。それは雲富の話した真相が理由だ。  真相はこうである。  原因は未だに謎だが何かの現象が起き、18年前2人の葉貝はそれぞれお互いの世界へと飛ばされてしまう。輸送中だった大量の体珠を売ることで生き長らえた葉貝に接触した男、それが雲富だった。雲富は体珠に大層興味を示し、その研究に明け暮れた。そして体珠には人間の思念に何かしらの影響を与える力を持っていることが分かった。この頃から雲富は次元を越えて、もう1人の自分とコンタクトを取れるようになったという。  やがて体珠のない世界の人間に体珠を服用させると、その人間の思念を増幅させ、結果的に運動能力の向上、思考力の向上などにつながることを発見した雲富は、体珠が大金になると葉貝に持ちかけたのだ。これにのった葉貝の体に異変が起こったのはこっちの世界にやってきて2年が過ぎたころだった。葉貝は体ごと世界を越えてきた人間だったので、こっちの世界に移ってからも体珠は定期的に生み出していた。しかし、こっちの世界の環境のせいか、やがて体珠を作れない体になってしまったのだ。それを知った雲富は慌てた。大量にあった体珠も雲富が葉貝と出会ったときには大幅に数が減っていた。しかも、今後は一切補充が出来ない。しかし、体珠は宣伝のせいもあって飛ぶように売れていた。最初は自分の手で作りだそうともした。しかし、それも失敗し悩みに悩んだ末、雲富はある1つの壮大な計画を思いつく。それは体珠を持っていない人間に体珠を渡すことで、葉貝の身に起こった事と同様のことを起こそうとし、そしてその人間を仲間に引き釣り込み、体珠の補充をしようとしたのだ。そして、葉貝は翌日から色々な人間に体珠を配り始めた。その中の1人が独田だったわけだ。余談であるが、この時に体珠の力を説明したのは、その力を教えておけば子供なら大事に持っているだろうという考えからだった。  この計画に賛同した葉貝はもう既に元の世界に戻るつもりはなかった。しかし、元の世界に戻りたいというもう1人の葉貝の思いは頭に飛び込んでくる。いい加減、嫌気が差した葉貝は整形手術を受け、痣向という別人になりすまし、雲富に頼んで葉貝が殺されたという嘘の情報をもう1人の葉貝に送る。こうして計画は万事うまく行くと思われた。  しかし、葉貝の元の世界に戻りたいという気持ちは、もう1人の葉貝が思う以上に強かったのだ。もう1人の自分の死に一度は元の世界へと戻ることを諦めた葉貝だったが、せめて元の世界に戻る術だけでも知りたいと個人的に調査を行うようになる。やがて、体珠と思考の関係でノーベル賞を受賞した雲富の存在を知り、偽名を使って会いに行く。なぜ偽名を使ったのかは分からないが、このときなぜか葉貝は痣向という名前を使っている。知らぬ内に、向こうの世界の葉貝の思念を受け取っていたのだろう。そしてこのとき初めて自分以外にも同じような体験をしている人が多くいることを知り、その人々を雲富が元の世界に戻しているということを聞かされる。  体珠のある世界に住んでいた雲富は、ない世界の雲富と定期的にコンタクトを取っていたため、向こうの状況は全て把握していた。だからこそ彼はノーベル賞を受賞できたのである。というわけだったから、葉貝が目の前に現れたとき、雲富は素直に驚いてしまった。まさか自分の元に彼が現れるとは思っていなかったためだ。  雲富の驚きを不審に思った葉貝は雲富に詰め寄った。隠し通すことは不可能だと考えた雲富は事実を話す。激怒した葉貝は元の世界に戻せと更に詰め寄るが、雲富はそれはできないと断る。しかしこれはやりたくないという意味ではなく、やりたくてもできないという意味でだ。  向こうの世界の葉貝は痣向になるときに雲富の力を借り、頭にあるチップを埋め込んでいた。それは次元を越えて飛んでくる思念を遮断させる力を持っていた。つまり葉貝にはもう元の世界に戻る術は残っていなかったのである。  しかし葉貝は諦めなかった。普通の人であれば決して味わえない、もう1人の自分にだまされた衝撃は並大抵のものではなかったのだろう。その日から葉貝はもう1人の葉貝への復讐へと心血を注ぐようになったのだ。  かといって、次元を越えて攻撃をすることなどは不可能である。やり場のない怒りだけが日々大きくなっていく。そんなある日、葉貝は夢を見た。それは15年前に自分が少年に体珠を手渡している場面だった。目覚めた葉貝はこれにかけてみることにした。そしてそれから毎日鷹居山に通う日々が続いた。そして1週間後。遂に葉貝は夢でであった少年、独田と出会うことに成功する。そしてあらかじめ作っておいたトランシーバーと偽の新聞を使って、独田に嘘の話を打ち明ける。この時、雲富を悪者に扱わなかったのは、以前出会ったときの印象が起因しているのかもしれない。後は独田に任せればいい。葉貝の復讐心は少し解消されたのだった。  ここまでの話でお分かりになっただろう。今回、独田は2人の葉貝によって生まれたトラブルに巻き込まれたのである。この話を聞いた独田は脱力してしまった。何とくだらないことに自分は巻き込まれてしまったのだろう、と。しかし、理由はどうあれ、自分に恨みを持つことになった葉貝に同情もした。そこで独田はトランシーバーを使い、もう1人の自分にメッセージを送り、ある作戦を実行することにした。そして独田は雲富の力を借り、お互いの元の世界へと戻ったのである。  元の体珠のない世界に戻ってきた翌日、独田は数年ぶりにテニスコートに現れ、黙々とサーブの練習をした。大学時代、テニスサークルに入った動機こそ不純ではあったが、月日が経つにつれ、テニスをうまくなりたいという気持ちが強くなった。ただ、どうしても動きの俊敏さに欠けていた独田はサーブに力を入れるようになる。そして、サークル内で一番速いサーブを打てるまでに上達したのである。またコントロールが抜群で、コートに置かれた空き缶にボールを当てるぐらいは朝飯前だったりする。そんな思い出を少しずつ思い出しながら独田はひたすらボールを打ちつづけた。借り物のラケットに最初こそ違和感を覚えたが、徐々に勘を取り戻してきているのが自分でもよく分かった。しかし、40本、50本とサーブを重ねていく内に肘に痛みが走り出すようになった。独田は強烈なスピンをかけたツイストサーブを得意としていたが、今はボールに回転をかけないようにするフラットサーブを打っている。フラットサーブはフォームが重要であり、間違ったフォームで打ち続けると肘を痛めてしまうのだ。独田は途中で肘を冷やしながら、黙々とフラットサーブを打ち続けた。ボールに回転がかからないように。狙ったポイントにボールが行くように。  そして翌日、独田はラケットを片手に痣向のビルに向かった。  応接室で初めて会った痣向は、腰を深く静めたソファに腰掛けながら、眉間に皺を寄せて独田の事を睨んでいた。そして口調はあくまで冷静に「元に戻ったそうで」と言う。 「おかげさまで」 「今日は何の御用で? 元に戻られた以上、私はあなたに用件はない」 「こっちがあるんだ」 「何ですか? 手短に頼みますよ。私も忙しいんでね」 「これを返そうと思ってね」  独田はポケットから体珠を1つ取り出すと、痣向に向かって放り投げた。  痣向はソファに座ったまま片手で受け取る。 「一応、あんたのものだからな」 「それはそれは。わざわざありがとうございます」  痣向はゆっくりとソファから立ち上がると、棚に置かれていた宝石箱を取り出し、その中にその体珠を入れる。 「へぇ、その中に体珠を入れてたんだ」  独田はポケットからテニスボールを取り出すと、ゆっくりとサーブの構えを取る。 「何をしているんだ」 「危ないから、宝石箱から離れたほうが身のためだよ」  その一言で痣向の顔色が変わる。 「何をするつもりだ!」  痣向が宝石箱を抱きかかえようとした一瞬、独田は全身全霊を込めて宝石箱に向かってテニスボールを打ち込んだ。テニスボールは全く回転せず、まっすぐに宝石箱に向かって飛んでいく。  瞬間、応接室は白い光に包まれた。独田が放ったテニスボールには接着剤でつけた体珠がくっついていたのである。 「!!!!!!」  ボロボロになった宝石箱が床に落ち、粉々に砕け散る。そして痣向が両目を押さえ声にならない絶叫を上げた。その絶叫を背中に聞きながら、独田は足早に応接室を後にした。  そして現在。  自分の住む世界と酷似した別の世界での数日の生活はまるで長い夢を見ていたかのように、今ではおぼろげで霞み始めている。しかし、胸ポケットにしまっている透明な石は、鼓動を打つかのように自分の存在をアピールしている。それは向こうの世界で自分が買った体珠だった。実は今でもこれを使ってもう1人の自分と次元を超えた交信をしている。向こうの自分は企画課にいるそうで、先日ついに紫色の体珠の製作に成功したそうだ。そう、鷹居山で偶然出来たアレである。今回の成功で次の辞令で一気に課長も夢ではないそうだ。  こっちの世界の自分は相変わらず営業課での日々が続いていた。それでも、昔よりは営業成績も上がってきて、ようやく何とかやれそうな気がしてきた。  そして今日も会社のトイレで目を閉じ、もう1人の自分に向かって思念を送る。もう1人の自分に負けないように、と。