新しい自分 |
『新しい自分を手に入れてみませんか?』 そんな言葉が踊るチラシを握り締め、僕はとある病院の前に立っていた。 「ここでまちがいないな……」 どこにでもありそうな小さな個人病院。 その外観にわずかに不安を感じたが、意を決して僕は扉を明けた。 中はやけに静かだった。 待合室に置かれたストーブの上でヤカンが白い息を吐いている。 「予約していたものですが…」 僕は受付にたたずむ看護婦さんに静かに声をかけた。 何やら書類に記入をしていた看護婦は手をとめて、冷たい目で僕の顔を見た。 「あちらの診察室へとどうぞ」 看護婦はぶっきらぼうにそう言い放つと再び手元の書類へと視線を落とす。 腹の中で暴れそうになるイラツキを抑えて僕は診察室へと歩いていった。 ともかく僕は新しい自分を手に入れたくて仕方がなかった。 それは子供みたいな理由だと思われるかもしれない。 でも、僕にはあの人が全てだったんだ。 それなのにあの人は簡単な一言であっさりと僕を捨てた。 あの人を見返してやりたい。 そして、もう一度…… 「なるほど、それで新しい自分を手に入れて、彼女を見返してやりたいわけですね」 口髭を蓄えた医者は温和な表情で私の話に耳を傾けた後、ゆっくりと僕に問いかける。 「まあ、平たく言えばそんなものです」 「分かりました。では、早速はじめようと思いますが、構わないでしょうか?」 「え?もうですか?」 「当然です。思い立ったが吉日とも言いますでしょう」 「はあ」 「さて、新しい自分を作り出す方法なのですが、過去の嫌な思い出や記憶などを消去して脳へとコピーするという方法になります」 「ちょ、ちょっと待って下さい。手術をするのですか?」 「そうですよ」 「僕はカウンセリングかと思ってたんですけど」 「カウンセリングをお求めならその筋の専門の方のところへ行けばよろしいではないですか。うちは病院です。精神のケアも重要ですがそれ以上に体のケアの方に重心を置きます。間違っていますかな?」 「い、いえ」 「過去の嫌な想い出がなくなるんですよ。前向きな生き方ができるとは思いませんか」 「な、なるほど」 「治療をしてもよろしいでしょうか」 「お、お願いします」 僕は手術用の衣服へと着替え、手術台へと運ばれる。 不安はあったが、生まれ変わった後に再びあの人と街を歩く姿を想像しているうちに気持ちも落ち着いていった。 そして、麻酔が効き始め、薄暗い意識の闇へと落ちていった。 どれぐらいの時間が経ったのだろうか。目は覚めたのだが、異常にまぶたが重い。頭痛も少しあるようだ。 ふと自分が横たわるベッドの横にもうひとつベッドが並べられていることに気づいた。 まだ半開きの目に、見たことのある顔が入る。 徐々に意識がはっきりしてきた僕はその顔に驚愕した。 「ぼ、僕?」 「お目覚めになりましたか。じつはまだ治療自体は終了していなくのですが、早く麻酔が切れたようですね」 「そ、そんなのはどうでもいい。よ、横にいるのは何ですか」 「分かりませんか?あなたのクローンですよ」 「ク、クローンですって!?人間のクローンを作り出すことは禁じられているじゃないですか!」 「ええ、法律上ではそうなっていますね」 「そ、それなのに…」 「あなたは勘違いをされている。確かにクローンを作ることは禁じられてはいますが、それは人権を無視したことにつながるからです。しかし、このクローンはあなたのためだけに生み出されたものであり、あなたの治療がすんだら速やかに消滅させます」 「ど、どういうことです」 「人間の脳の記憶を操作するのは非常に難しいものです。ですから、一度脳の中の記憶をバックアップ、つまり仮に保存しておく必要があるのです。しかし、脳の内部は人によって中身が異なるため、コンピューターのようにどんなディスクにでも保存できるというものではないのです。その人の脳の中身を保存するには、その人の脳が必要なのです」 「じゃあ、つまりこのクローンは僕の記憶を保存するためのただの箱ということですか」 「そうです。まあ確かにこのような扱いが人権を無視したものだと言われる様なことなのかもしれませんが、これもすべては治療のためなのです。お分かりいただけましたかな?」 「そういうことならいいんです。あの僕のクローンが治療後に悪用されたりすることはないんですよね」 「絶対にありません。神に誓って」 「それならいいんです。治療の続きをお願いします」 「かしこまりました」 そして、僕は再び眠りの世界へと落ちていった。 目が覚めたらベッドの上だった。妙に頭の中がすっきりしている。 「気分はいかがですか」 突然声をかけられて、僕は驚いた。 「ええ、悪くはないです」 「それはよかった。いきなり道端で倒れられたというので心配しましたよ」 「ご迷惑をおかけしてすいませんでした」 「いえいえ、元気になられてよかったですよ」 「本当にありがとうございました。いい病院で見てもらえて、僕は幸せものですよ」 「それだけ口がお上手ならもう大丈夫ですね」 病室に明るい笑い声が響いた。 医者は僕を笑顔で見送るとそうっと胸をなでおろした。 「いきなり、麻酔が切れたからびっくりしたよ。さて、売り物を捌きに行くか」 医者は手術室へと向かう。 「ともかく、今回の患者の臓器も高く売れることだろう。どうしても養殖ものは安くたたかれて儲かりゃしないからな。私のところのような小さな病院が生き残るのも大変だよ」 医者の手によって光が飛び込んだ手術室には、一生目覚めることのない僕の体が静かに横たわっていた。決して養殖(クローン)ものなどではない、天然の僕の体が。 |