スイッチ |
まだ半開きの眼が徐々に腕の時計に標準を合わせて行く。3時半。もちろん昼だ。部屋の中は静かだ。カチカチという小気味いいリズムだけが耳に入ってくる。久しぶりの酒はやはり抜けていない。体がだるい。しかし、いつもの二日酔いのような頭痛はなかった。不幸中の幸いである。本当に些細な幸いであるが。 ようやく8割ほど開いた目をこすりながらも体は起き上がろうとはしない。いくら仕事に行かなくていいからといってもさすがに昨日は飲みすぎた。後悔の念が頭を多少襲う。あくまで、多少だ。気分的にはまだ飲みたりない。 半年前、5年付き合った女にふられた。別に男が出来たという実にありきたりな理由だった。それはまあ仕方ない。いい加減飽きも出てきていた頃だった。 その2日後、今度は10年務めた会社をクビになった。最近のはやりかどうか知らないがいわゆるリストラと呼ばれるやつだ。確かに自分の業績はよくなかった。しかし、こうもあっさりとクビになるほど会社がやばかったとは知らなかった。今となっては関係ない話しだが。 そしてその翌日、俺は交通事故を起こした。前日までのことが少なからず心にダメージを与えていたのだろう。脇見運転が原因だった。人殺しにこそならずに済んだが、大きな衝撃が体を包んだ瞬間、ハンドルが俺の胸に、そして自分の車のボンネットが見知らぬ車の後部にめり込んでいた。俺の車は廃車になり、俺も重傷を負った。一時は生命の危険もあったそうだ。そういう意味では重傷を負ったというよりも重体になったといった方が正しいかもしれない。その後、俺は何時間にも及ぶ大手術を経て生還した。 その病院から退院をしたのは昨日だ。再び普通の生活に戻れたのはいい気分に違いないが、女と職を失い代わりに多額の借金を手に入れた現実は決していい気分ではない。この状況で酒を飲まずにいられる男に俺は会ってみたい。特別に下戸は除いてやる。 本来なら職探しを始めなければいけない。しかしこの不況下で30過ぎの特技も持たない男があっさりと仕事につけるほど世の中は甘くないだろう。ほら、ますます酒を飲まずにはいられないではないか。 俺は何気なく傍らに転がっているテレビのリモコンを手に取り電源スイッチを押した。が、テレビのブラウン管は漆黒の闇を映すのみ。間違えてチャンネルボタンでも押したのだろうか。頭痛はなくてもまだ体は思い通りに動いてくれてはいないらしい。今度はきっちりと目で確認してスイッチを押す。しかし、相変わらずブラウン管に光は宿らない。仕方なく俺は重い体を起こし、布団から這い出る。リモコンの電池が切れたのだろうか。俺は直接テレビのスイッチを押してみた。スイッチを押した手応えは確かにあるのだがテレビはつかない。コンセントはささっている。入院中は電気代を気にしてもいなかったが昨日の時点では電気はついていた。電気を止めるなどといった手紙も来ていない。電気を止められてることもないだろう。腕を組んで考える俺の耳にチーンという音が飛び込んできた。確かあの音は電子レンジの音のはず。俺は気付かない間に何かを暖めていたのだろうか。 まだぼんやりと靄のかかった頭を叩きながら台所に向かう。流し台には食器が溜まっている。半年前と何も変わっていない。ふと食器を洗う彼女の後ろ姿を思い出し、今更ながら寂しさが募ってきた。いや、これからは家事を自分でしなければいけないという辛さなのかもしれない。蛇口をひねってコップに水を注ぐ。それを一気に飲み干し、冷蔵庫の上の電子レンジへと目を移した。しかし、音がしたと思った電子レンジには何も入ってはいなかった。緑色のデジタルランプがただ点滅しているのが変にまぶしかった。冷蔵庫を開ける。中にはあるのはソースやケチャップといったものぐらいだ。こんなときは普段の酒を飲まない生活が疎ましく感じる。あとで酒を買いに行くことを決めて冷蔵庫を閉めた。 再び居間に戻った俺はテレビの前で腕を組む。購入してもうすぐ3年が経つが、まさかもう寿命が来たということはあるまい。今までおかしな挙動を見せたこともなかった優等生が突然、反抗期を迎えたというのだろうか。はたまた半年前からの不幸の延長なのか。ただ気になるのはテレビのスイッチを入れるたびに台所の方からチーンという音がすることだ。俺にはどうしても電子レンジの音にしか聞こえないのだが、別にスイッチを入れたわけでもないのだから気のせいであろう。 とりあえず俺はテレビをあきらめ、携帯電話を手にした。昨日の酒は一人酒だったが、今日は友人とでも飲みたい気分だ。愚痴でもこぼさせてもらえれば気も紛れるだろう。 発信ボタンを押し、耳に当てる。が、耳には何の音も入ってこない。何度押してみても 結果は同じだった。くそっ!こいつもか!と俺は携帯を床に投げ付ける。携帯電話はくぐもった音を出して畳の上で跳ねた。大きなため息を吐いた瞬間、体に寒気が走った。それも2度、3度と。体調でも悪くなったのだろうか。おでこを触ってみる。熱はない、と思う。背中が寒い。おかしい、背中だけが寒い。振り返る俺の顔に冷たい風が襲ってくる。それはクーラーの風であった。春になり徐々に暖かくなったとはいえ、クーラーを使うにはまだ早い。俺は急いでクーラーのスイッチに手を伸ばす。しかし、クーラーの電源も切ることが出来なかった。かわりに部屋の明りがついた。
どういう原理かは皆目見当もつかないが、どうやら部屋中のありとあらゆる物のスイッチが入れ代わっているようだ。 |