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樺沢紫苑の超映画分析


AI  完全解読編 前編
      後編はこちらです 2001年7月7日更新



オフィシャル・ホームページ(日本語)
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 スティーブン・スピルバーグ監督の『AI』であるが、そのプロット、基本的アイデアは、スタンリー・キューブリック監督のものである。キューブリックといえば、『2001年宇宙の旅』に代表されるように、難解という印象を持つ人が多い。そして、『AI』についても「難しい」という感想が多いようであるし、内容の解釈をめぐって、ネット上の掲示板で盛り上がりが見られている。難解映画といえば、樺沢の本領発揮である。難しい映画など存在しない。観客にテーマが伝わらなければ、映画としての意味がなくなるのだから。
 先入観を捨てて、素直に映画を見ていけば、そこに答えは明らかに存在しているはずだ。『AI』に関する重要な論点と思える問題を三つ取り上げて、それについて徹底考察する。


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スタンリー・キューブリック
君はキューブリックが仕掛けた謎を解読できたか?

ラスト・シーンは何を意味するのか?
 デイビッドは夢の世界に入っていった。そんな、ナレーションで映画は終わる。このラストは一体何を意味しているのか。すなわち、デイビッドは人間になったということか。あるいは、ただ目をつぶっただけで、ロボットはやはりロボットのままなのか。
 まず、このエンディングに関して、若干の予備的知識を提示しておこう。「ロボットは夢を見るのか?」 この問題を提起しているのが、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(フィリップ・K・ディツク、ブレードランナーの原作タイトル)である。『AI』の繁華街の映像、あるいはヘリコプターのデザインを見ても、『ブレードランナー』の影響が色濃く現れていることは明らかである。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」これをもっと簡単に言い換えれば、「ロボットは夢を見るのか」ということになる。それに対する答えは、『AI』の前半部で説明される。ロボットは寝る必要がないので、眠らないのだと。すなわち、「眠らないのがロボット」という定義を映画の中で提出している。逆に言えば、「眠るのが人間」ということになる。
 「デイビッドは夢の世界に入っていった。」 眠らないと夢は見ない。眠るのは人間、すなわち「デイビッドは人間になった。」と、理解していいだろう。
 ロボットだったデイビッドが、どうして人間になるというのか? そこまで考えるあなたは頭が固い。「ピノキオ」をベースにしたファンタジーしとてとらえれば、妖精の魔法で人間なったっていいじゃないの。 「人間になる」とか「ならない」というのは、純粋に定義の問題である。  「人を愛することができる存在」を人間の定義とすれば、このラスト・シーンで「人間になった」と言っていいのではないか。

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 繁華街やヘリコプターのデザインは、『ブレードランナー』
そのもの

 逆に言うと、「人間は愛のある存在」って、本当? ということに、なりかねない。『AI』に登場する大部分の人間たちは、「愛のある存在」とは言えない。むしろ。愛なき人々、あるいは偏執的なゆがんだ愛の持ち主(息子を失いその再現としてデイビッドを作り続けるホビー博士、あるいは実の息子とデイビッドを天秤にかけるモニカ)である。
 『AI』のラスト・シーンは、「デイビッドは人間になった。」と理解して言いと思うが、「人間とは一体何なのか?」という問いを同時に発していることを、見逃してはいけない。
 ロボットを単なる便利屋としてしか利用せず、不用になったらスクラップにする。「そんな人間は、ロボット以下じゃないの。そんな、指摘が聞こえてきそうだ。
 
『AI』は、ロボットとは何かという問題を通して、「人間とは何か?」を問うているのである。その問いを象徴しているのが、このラスト・シーンのナレーションである。

「永遠の愛」は存在するのか?
 「永遠の愛」をインプットされたロボット、デイビッドの物語。したがって、「永遠の愛」は存在するのかしないのか、それが『AI』が抱えるテーマの一つであることは間違いない。したがって、『AI』において「永遠の愛」が、肯定的に描かれているのか、否定的描かれているのか、その点について明らかにしておく必要がある。
 デイビッドは2000年後の世界においても、母モニカへの愛を持ち続けていた。母の再生を希望し、母と幸福な1日を過ごし、至福の眠りへと落ちていく。このデイビットが持ち続けていた感情だけに着目すると、『AI』は「永遠の愛」について肯定的に描いているように思える。しかし、本当にそうだろうか。
 逆に、デイビッドの母から、デイビッドへの愛情を見てみよう。モニカはデイビッドに「7つのパスワード」を登録し、「永遠の愛」のプログラムを発動させることに関し、かなりのとまどいを持っていた。いろいろと悩んだ結果、彼女は「永遠の愛」のプログラムを発動させるのだ。しかし、実の息子が戻ってきてから、彼女のデイビッドに対する感情は変化する。息子や自分に対して危害を加えることに不信感を抱き、結局はデイビッドを捨ててしまう。もちろん、そこに至る彼女の苦悩はわかるが、母親からロボットのデイビッドに対する愛は永遠ではなかった。 pic5.jpg (11684 バイト)
 「永遠の愛」をプログラムされたロボット デイビッド
 2000年後の世界において、宇宙人のテクノロジーによって、モニカの肉体は再生する。それは、1日(眠りににつくまで)という時間制限のあるものであった。デイビッドと母親の至福の時間。それは、デイビッドにとって真に幸福な時間であった。モニカもデイビッドに対して、やさしさを見せる。
 しかし、なぜここで1日というタイムリミットがついていたのか。それが重要である。クローンで復活した母親と一緒に、デイビッドは幸せに暮らしました、めでたしめでたし。そんなハッピーエンドも良いはずである。観客を感動させるために、お涙頂戴するために、母親を死なせる必要があったのか
 その答えこそ、この映画のテーマである。すなわち、モニカとデイビッドが幸せにくらしたということになると、そこに描かれるものは明らかな「永遠の愛」の肯定である。
 母親の愛は、わずか1日限定なのである。永遠ではなかった。そこに、注意しなくてはいけない。『AI』において、「永遠の愛」を持っていたのは、ロボットのデイビッドだけである。母親から、デイビッドの愛は永遠ではなかったのである。言い換えると、「永遠の愛」を実現できるのはロボットくらいのもので、人間には無理。『AI』における人間は、ロボットを都合よく利用しいらなくなると迫害するわがままな存在として描き、結果滅亡してしまうわけで、かなりネガティブなイメージで描いている。その辺の描写も含めて考えると、「人間には永遠の愛など持てない」ということが、テーマとして描かれていることは間違いないと思われる。
 デイビッドの母親への愛情は偏執的でストーカーのようだという指摘が、ヤフー掲示板にあった。この感想は正しいと思う。すなわち、デイビッドの母親への愛、すなわち「永遠の愛」に対して、スピルバーグはネガティブなイメージを持って描いているので、このように「ストーカー」というネガティブ・イメージを観客が感じることは、全く正しいのである。
 では『AI』は、「永遠の愛」を否定するテーマを持った映画なのかというと、それも正確ではない。 「永遠の愛」とは、理想であって現実には存在しないことを、我々はみんな知っているはずである。「永遠の愛」は存在してほしい。しかし、実際には存在しないのも、また現実なのである。
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 デイビッドの母モニカに対する愛は永遠だったのか?
 そもそも、愛が永遠である必要などあるのか? そんなことを言うと、ロマンチックな女性からお叱りを受けるかもしれないが、いつ壊れるかもしれないはかなさや危うさを抱えているからこそ、愛し合う瞬間というのは貴重な時間になるのではないだろうか。
 貴重な時間ということで、1日限定のクローンで復活したモニカの解釈に戻る。母モニカとの愛に満ちた貴重な時間が、そこには明らかに存在した。しかし、モニカは再びデイビッドの前から去っていった。
 「永遠の愛などない。だから、今この大切な人と一緒にいる時間を大切にしよう。」 
 これが、『AI』のテーマではないだろうか。
宇宙人かロボットか?
 2000年後の世界で、デイビッドを救出する、謎の生命体。この謎の生命体が、進化ロボットなのか、あるいは宇宙人(地球外生命体)なのかということに関して、ネット上で議論が生じている。ロボット説が多く出回っているようであるが、樺沢の見解は宇宙人説である。
 キューブリックが残した『AI』のプロットには、2000年後の世界は、人類が滅び残されたロボットが、独自に進化した世界を作っていると書かれているが、謎の生命体ロボット説の大きな根拠であるようだが、この初期のプロットと映画版はいくつかの点で大きく異なっているようであるから、全く参考にはならないだろう。
 この生命体が初めて登場するシーンを見てみよう。箱型の乗り物が、バラバラになって、中から生命体だけが出てくる。この映像の意味は何か? すなわち、地球のテクノロジーとの連続性がこのバラバラになる乗り物に存在しているかということである。私はコノテクノロジーに、地球的なセンスを全く感じになかったので、フィーリング的に宇宙人と直感した。
 デザインはストーリーを語るのである。この生命体のデザインは有機体と無機体の中庸を行く。ある種のロボット的な雰囲気もないことはないが、地球的なデザインを極力排除したデザインというのはこうなるのか、と私は感じた。
 もし、この生命体がロボットだとすると、上述の映画のテーマが根底から覆される。この生命体が地球人が作ったロボットであるとすれば、人間はこれほどのテクノロジーを生み出すほどに進化したということになる。ロボットが独自に進化したとしても、独自に進化するロボットというのは、デイビッドのロボット・テクノロジーと比べても、相当の進化である。ジャンク・ショーに参加していたバカな群集たちが、こんな極めて高いテクノロジーを生み出すほど成長、進化するのだろうか。人類はデビッドの時代以上の文化的、精神的成長がなかったから、滅んだのではないだろうか。
 デイビッドの時代は、ロボット受難の時代だった。ロボットは便利な道具として重宝されるが、不用になったロボットは容赦なくスクラップにされる。ロボットに対する愛情というものは、ほとんどない。
 ジゴロ・ジョーが冤罪事件に巻き込まれる。これも、ロボット迫害描写の一環である。ロロボットなら、人間を殺しそう。当時の人間はみんなそう思っているのだろう。「ロボット三原則」のかけらも、『AI』には存在しないのだ。
 デビッドを開発したホビー博士は、なぜ水没都市マンハッタンのロックフェラーセンターに隠れてロボットを作っていたのだろうか。それは、彼の作る人間的なロボットが、当時の多くの人間たちに受け入れられなかった証拠である。ホビー教授

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ジゴロ・ジョーが冤罪にされた理由は?

がウィストン夫妻にデイビッドを提供したくだりが詳しく説明されないのだが、一般的な販売経路ではなく、怪しげな治験(実験的提供)という雰囲気は醸し出されている。つまり、愛をインプットされたロボットなど、当時は販売されていなかった。その理由は、多くの人には、受け入れられないからだ。ジャンク・ショーでデイビッドを発見した係員の男が、デイビッドの精巧さに驚嘆するシーンが、デイビッドのような超リアルな超高度なロボットがも当時の一般的なロボット・レベルではなかったことを象徴している。
 ホビー博士がマンハッタンで人目を忍びながらロボットを作っていたのは、結局「愛をインプットするロボット」なる当時のニーズに逆行するロボットを開発しようとする博士が、ロボット会社をクビになったからではないのか。ロボットだけではなく、ロボットの開発者も迫害される自体だったわけだ。
 なぞの生命体がロボットだったとすると、このロボット迫害をしていた人間たちが、突然方向転換して、2000年の間にロボット開発に相当の勢力を注ぎ込んだことになる。少なくとも、最後に登場する金属のような超進化ロボットのプロトタイプ的なロボットは人間が作ったということになるから。そんなことがありえるだろうか? もし謎の生命体がロボットだとすると、ジョーやデビットに対する迫害シーンが映画的に全く生きてきこないことになる。なぜなら、その後の人間たちは、ロボットに対する態度を悔い改めたことになるからだ。
 注意すべきシーンは、生命体がデイビッドのことを心配するところである。最新テクノロジーによって、身体の一部からモニカを蘇らせることができる。しかし、その命がわずか一日しかないので、それでもデイビッドは母モニカとの再会を望むのかどうか、デイビッドの気持ちになって考えるのである。この、生命体には「思いやり」という感情がある。だからこそ、デイビッドと母モニカの心理的交流を、大きな好奇心を持って観察するのである。もし、この生命体がロボットだったとすれば、デイビッドが人間になる以前に、思いやりを獲得しているこのロボットは、既に人間になっていることになる(上述のテーマ的な意味あいにおいて)。
 この生命体は、ロボットは人間が生んだ芸術品だ、といったことを口にする。それは、デイビッドに対する賛辞であるわけだが、もし彼らが人間が作ったロボットだとすると、自我自賛のようになって、非常に奇妙に聞こえる。
 あと、クローン人間が1日しか生きないことの説明として、「宇宙時間」がどうこうということを言っている。これも、彼らが宇宙人であることの大きな根拠である。
 何より、人類の作ったロボットが、デイビッド以外にもたくさんこの地球に残っているとしたら、デイビッドの存在価値、ある種の無謬性が希釈されるのだ。「永遠の愛」をブログラムされ、それを実際に獲得した唯一無二のロボット、それがデイビッドであるからこそ、彼が夢に入るシーンが非常に感動的なものとなるのだ。それがデイビッドが目覚めたときに、「思いやり」「対他的配慮」がインプットされたロボットたちで地球はあふれている。では、デイビッドが今更、本物の「愛」を獲得したところで、何の目新しさも、特殊性もそこにはない。
 『AI』のテーマから考えて、この謎の生命体が、人間が作ったロボットであるということはありえない。
 とは書いみたが、この謎の生命体をロボットだと思っている人が本当に多い。
 スピルバーグは『AI』を、やはり他の彼の映画のように子供たちにも見て欲しいと思って、この映画を作ってるだろう。大の大人がこれほどもめているのだから、これがロボットなのか、宇宙人なのか子供たちには、もっとわからないだろう
 「我々はM78星雲からきた地球外生命体です」とか「我々は4021年型A-31型ロボットです」とか、未来人の出自をはっきりさせるセリフを一つ入れれば済むのに、それをやっていない。ここには、不作為の作為が存在する。
 観客にストレートに何かを伝えたいのなら、こうしたわかりやすいセリフを入れるべきであり、入っていないの明らかにおかしい。すなわち、わざわざ議論を喚起するために、映画に奥行きを持たせるために、入れなかったということだろう。すなわち、多重解釈を許すようなゆるやかな構造を意図して作っているということである。すなわち、ディテールにこだわって、宇宙人なのかロボットなのかを論争すること自体は不毛である。どちらにも解釈できるのであるから。
 『AI』には、わざと議論がわれるような描写、観客にはっきりとした説明をしないことで問題を提起するような箇所が多々見られる。例えば、ホビー博士の出自と目的である(これに関しては、後編で詳しく解説)。
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 スピルバーグは結構考えて、『AI』を作っている
 すなわち、こうして宇宙人/ロボット問題を議論している(あるいはその記事を興味を持って読んでいる読者)我々は、まんまとスピルバーグの思惑にのせられているということだ。スピルバーグは結構考えて、『AI』を作っている。 

 

 映画では、一つの明確なテーマを掲げてトップダウン的に示す場合がある。
 例えばスピルバーグの『プライベート・ライアン』であれば、「戦争とは単なる殺し合いである。こんなことを続けていていいのか?」という戦争反対のメッセージてあ゛り、これに対して疑義を唱える人はまずいないだろう。
 一方、観客に考える余地を残すように作り、観客自らに考えて欲しいという問題提起型の映画もある。『AI』がそうであり、例えば大島渚監督の『御法度』などもそうである。『AI』では、いつくかの問題提起されている。
 「ロボットとは何か?」という問題を通して、「人間とは何か?」を問い掛けている。
 そして、「永遠の愛は存在するのか?」あるいは「愛とは永遠のものか?」
 これらの問いかけに関して、映画なりの回答は明らかに用意されている。しかし、それを読み解くことよりも重要なのは、我々観客一人一人が、その問題について考え、自分なりの回答を導くということではないのか?
 『AI』についてもっと知りたいと思い、このホームページにたどり着いたあたなは、この課題を既にクリアーしているのだろうが。