大のロボット嫌いだったスプーナー刑事(ウィル・スミス)が、短時間にロボットのサニーと友情関係をきずくのはおかしい。ご都合主義だ。「アイ、ロボット」を見てこんなことを、思った人はいないだろうか?
ロボットはいつか重大な犯罪を起こすのではないかと、ロボットに対して強い不信感を抱いていたスプーナー。
映画のクライマックス。
反乱を起こしたロボット軍団と戦うスプーナーとカルヴィン博士。
そこに、マザーコンピューターVIKIの支配を受けないサニーが協力する。最後には、サニーの重要な協力があって、VIKIの破壊に成功する。そしてラストでは、スプーナーとサニーの友情のような感情すら感じさせるのだ。
緊急事態とはいえ、ロボットの助けを借りて、友情まで芽生えるというのは、彼のロボット嫌いは一体何だったのか?
この映画の根幹をなしていた、スプーナーのロボット嫌いはどこに行ってしまったのか?
そんな疑問を持った人もいるかもしれない。
「あなたの疑問に、重要な秘密がある」
これを突き詰めれば、映画の重要な部分に到達できる。
なぜ、ロボット嫌いのスプナーが、急速にサニーと結びついたのか?
これは映画の矛盾点ではない。
結論から言ってしまおう。
スプーナーは、ロボットなど嫌悪していなかった。
「彼が責めていたのは、ロボットではなく自分自身」だったのだから。
スプーナーは、ロボットに対して強い不信感を抱いていた(ように見える)。それは、彼の過去に関係があった。
毎日のように悪夢にうなされる。その悪夢に秘密が隠されていた。
少女とスプーナーは、車で水中に転落した。ロボットがすぐに救出に向かう。しかし、ロボットが救出できるのは、状況からみて一人だけ。ロボットが救出したのは、少女ではなくスプーナーの方だった。
その理由は、体力もあるスプーナーの方を助けた方が生存確率が高かったから。確率と計算だけで、人命を左右できるのか?
この経験のために、スプーナーは極端なロボット嫌いになった、ということである。彼にとって、トラウマのようなもの。
トラウマとは、個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。心的外傷。心の傷。
精神医学的には無意識化のもの、すなわち言語化できないもの、自分で意識できないものを指すことが多い。
例えば「私のトラウマは、子供の頃に両親に虐待されたことです」と、きちんと言葉で説明出来るような場合、その出来事は本当のトラウマとは言いにくい。
スプーナーの場合も、「夢」の意味についてもある程度理解しているので、専門家の目で見て狭義の「トラウマ」と言えるかは微妙なので、とりあえず「トラウマのようなもの」と書いた。
それもわかりずらいので、とりあえずここでは「トラウマ」として理解しよう。
彼は少女を見殺しにしたロボットを責めている。
彼は、ロボットは確率が低くても少女を救出すべきだった、と考えているようだが、それは彼の本心とは思えない。
なぜなら、ロボットが少女の方を救出したのなら、スプーナーは死んでいただろう。
ロボットが自分を救出してくれたことに対する恩義というものは、ゼロではないはずだ。
しかし結果として、少女を殺して、その替わりに自分が生きている。いうなれば、「ロボットが少女を殺した」というが、「少女を殺したのは自分(スプーナー)である」ともいえる。
車の中に閉じ込められたまま、海の底に沈んでいく少女。
それを見つめる無力なスプーナー。
「自分には少女を救えなかった」という無念さ。その思いが、強く存在している。
その「自責の念」が、ロボットを責める、「ロボットに対する他責の念」に置き換えられている。
これは自我防衛機制の一つで、「投射」という。
投射とは、「自分の中にある好ましくない欲求や欠点等を他人にうつしかえて、まるでそれをその人がもっているかのようにその人を非難し、それによって安定をえようとすること」である。
「投射」というのは、誰にでも、そして日常的に見られる。
自分の失敗や不注意を、部下や妻の責任にして怒鳴り散らす(実は、私もやっているかも・・・)。
これも、これも投射の一つだ。
彼の心の中にある、「少女を見殺しにしてしまった」という思いを、「ロボットの不合理な判断」「ロボットが少女を見殺しにした」という考えに置き換えることによって、自分に納得した説明を与えようとしている。
後半、スプーナーの腕がサイボーグ化されていたということが判明する。これは、極めて重要な事実である。
スプーナーはロボット化されていた、ということ。
スプーナーはロボットを責めていた。しかし、ロボットは自分だっということ。
スプーナーがロボットを責めるということは、自分を責めるということと同じだったわけだ。
さてスプーナーは、自らのトラウマと同じ場面に遭遇する。
ロボット軍団の攻撃を受けて、スプナーとカルヴィン博士は危機一髪の状態に陥る。サニーはどちらを、救うのか?
二者択一である。
サニーは、スプーナーのに元にむかおうとする。
しかし、スプーナーは「カルヴィン博士を救え」と命令する。
サニーは、スプーナーの命令どおり、危機に瀕したカルヴィン博士を救う。
カルヴィン博士は、救われた。
そして、スプーナーは高所から転落する。
そのとき、彼はサイボーグの腕を使って落下の危機を乗り切る。
つまり、彼の中のロボット性を用いて、命の危機を脱するのである。スプーナーは、サニー(ロボット)によって救われ、自分のサイボーグの腕(ロボット)によって、救われた。
スプーナーは、ロボットによって二重に救われている。
彼の昔のトラウマと同じ場面を乗り越えた。
そして、トラウマを超えた・・・。
彼のロボットに対する嫌悪感、不信感というものは、「自責の念」が「投射」されたものであって、本質的なものではない。だから、彼がロボットに対し友情に似た感情を急に抱いても、不思議はないのだ。
逆に、彼がサニー(ロボット)に対する友情を感じたということは、自分自身のロボット性を、容認したということを意味する。
つまり、自分の中のロボット性を責めていたスプーナーが、そのロボット性を容認したということ。自分を責める、自分を憎む気持ちから、「自分を愛せる」ような存在になった、ということが間接的に説明されている。
さて、タイトルの「アイ、ロボット (I, ROBOT)」。
多くの人は、「私(サニー)はロボット」という解釈で理解しているだろう。
しかし、いくつかの解釈も可能ではないか?
一つは、"I and a robot."という意味。
つまり、「スプナーとサニー」ということ。
これだと、二人に芽生える友情、連帯感が暗示される。
あるいは、こうした解釈も可能だ。
"I am the robot." "I and the robot."
「the robot」すなわち、唯一のロボット。すなわち、「ロボットの救世主」。ラストシーンの、サニーにロボットの救世主のイメージが重なねことをタイトルが暗示しているという。
しかし、私はさらな別な解釈をしたい。
「私(スプーナー)と私(スプーナー)の中のロボット性」という解釈である。つまり、スプーナーの中での、自らのロボット性に対する自責と嫌悪の克服というテーマが、実はタイトルに隠されていたのではないか、いうことだ。
「アイ、ロボット」は、SF映画として見ると納得いかない部分もあるが、このようにスプーナーが自らのトラウマを乗り越える物語と見ることによって、ディープな人間ドラマとして
楽しむことができる。
「シカゴ発 映画の精神医学」(第10号、2004年9月26日発行)に
一部加筆しています。 |