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 祝 『エピソード2』予告編公開
 『エピソード2』のための、『ファントム・メナス』見直し講座
 

 『エピソード2』の公開が、刻一刻と迫ってきている。 『エピソード2』を楽しむために最も重要なのは、『エピソード1 ファントム・メナス』正しい認識で捉えておくということ、すなわち『ファントム・メナス』をきちんと見直しておくということが、必要になる。そのために、『ファントム・メナス』の重要な部分に関して、「見直し講座」と題して、改めて考え直してみる。

第1章 トリックスターとしての
   ジャー・ジャー・ビンクス
 ジャー・ジャー・ビンクスに対する激しい批判。それをいまさら説明するまでもないが、『ファントム・メナス』批判論者の攻撃の矛先は、ジャー・ジャーの存在そのものに向かう。『ファントム・メナス』のジャー・ジャーが全く登場しないバージョンのビデオが作られ、流通するくらいであるから、ジャー・ジャーに対する嫌悪は、すさまじいものがある。
 ジャー・ジャーが批判される理由は、ジャー・ジャーの存在理由がわからない、あるいはわかりにくいという点にある。したがって、ジャー・ジャーなど存在する意味がないので、ジャー・ジャーが全く登場しないバージョンのビデオを見ようという動きが現れる。

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嫌われ者ジャー・ジャー

 しかし、『ファントム・メナス』において、ジャー・ジャーは極めて重要な役割を担っている。 『ファントム・メナス』におけるジャー・ジャーの存在価値、それは主に二つあるだろう。ひとつは、ピース・ロール(平和を担う役)としての意味。もう一つは、トリックスターとしての意味である。

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平和を心から喜ぶ
ジャー・ジャー

 「共生」そして、その延長である「平和(ピ―ス)」は、『ファントム・メナス』における中心的なテーマである。ミデイ=クロリアンによる共生は、「平和」の重要性に対する比喩に過ぎない。ラスト・シーンは、全員が一列に並んで、「ピース」と唱和するところで終わる。その「ピース」のテーマの担い手が、ジャー・ジャー・ビンクスである。彼の信条は「みんな仲良し」である。「ヘイドゥー、ミー・ジャー・ジャー・ビンクス。」誰にでもあいさつし、誰とでも仲良くしようとするジャー・ジャー。グンガン族と対立関係にあるナブー人であるパドメに、何のわだかまりもなくあいさつする(ロイヤル・スターシップの中で)。そして最後には、グンガン族とナブー人の和平の仲介者となる。 hido.jpg (13772 バイト)
 敵対するナブー人パドメに挨拶するジャー・ジャー
 もう一つの存在意味、「トリックスター」としてのジャー・ジャーについてはし、少し詳しく説明する必要があるだろう。「トリックスター」とは、「いたずら者」「詐欺師」「悪漢」といった意味である。ユングは「元型論」(紀伊国屋書店、林道義訳)の中で、「トリックスター元型」という言葉を使い、神話や物語にしばしば登場する、典型的な役柄の一つとして規定している。 ルーカスが、ユングの「元型論」に強い影響を受けていることは、彼自身がインタビューで語っている。ルーカスは「元型論」を十分理解しているし、「元型論」はルーカスのスター・ウォーズ創作の参行資料といえるだろう。したがって、「元型論」に従って、スター・ウォーズを読み解くことは、非常に理にかなった行為といえる。
「元型論」自体はやや難解である。同書の最後に、訳者による解説が書かれている。そこに、トリックスターの四つの特徴まとめられている。
 トリックスターの特徴
 1 「反秩序」
 2  「狡猾なトリックを使って騙し、それによって自分の
  欲するものを手に入れようとする性質」
 3  「愚鈍」
 4  「セックスと飢え」
 まず、ジャー・ジャーは、「愚鈍」な存在として描かれている。ジャー・ジャーはクワイ=ガンと出会ってすぐ、「お前は脳なしか?」と言われる。クワイ=ガンたちをグンガン・シティに案内して、自分が捕らわれの身になってしまう。また、ボンゴでの案内役が必要だと言っておきながら、次の瞬間自分の発した言葉に公開する。観客を苛立たせるジャー・ジャーの愚かさは、「トリックスター」の特徴として意図的に描かれていた。
「セックスと飢え」、すなわちトリックイターの行動はすべて露骨な性欲と食欲を動機として折本能的、生物的次元に生きる存在である。スター・ウォーズにおいて「セックス」描写は意図的に排除されているので、「飢え」の描写しか存在しない。ジャー・ジャーの食いしん坊ぶりは、いくつかのシーンで明らか。ゴーグ売りの屋台からゴーグ(かえるのような生き物)をつまみ食いしようとして、結果としてセブルバにからまれる。あるいはアナキンの家で、舌をのばして、テーブルの果樹(?)をとろうとしてクワイ=ガンに怒られるなどのシーンで、ジャー・ジャーの旺盛な食欲は描かれる。ジャー・ジャーが良く言う言葉、「ムーイ・ムーイ」が、「おいしい」「おいしそう」という意味であることは、既に証明した。

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食欲旺盛なジャー・ジャー

 「反秩序」、トリックスターは秩序を壊す者であり、文化的な約束ごとを無視する存在である。無秩序の精神、境界を無視する精神を持つ。 ジャー・ジャーは、秘密の都市であるグンガンシティに初対面のクワイ=ガンたちを案内してしまう。あるいは、映画の後半、ボス・ナスたちが避難したグンガン族の聖なる場所に、よりによってグンガン族と敵対関係にあるナブー人のアミダラ一行を案内してしまう。ジャー・ジャーのこれらの行動は、「グンガン族に対する裏切り」行為にも相当するバカな行為である。しかし、トリックスターの「境界を無視する精神」を非常によくあらわしている。 ジャー・ジャーにとってグンガン族とナブー人を区別、差別するという概念はない。だからこそ、初対面のパドメと仲良くしようとしたし、クワイ=ガンやアミダラをグンガン族の秘密の場所に案内することに、何の抵抗も感じないのである。

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 初対面のクワイ=ガンを秘密の都市グンガンシティへと案内するジャー・ジャー

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次々と引き起こすドジ
(秩序の破壊者ジャー・ジャー)

  ユングが引用しているポール・ラディンの「トリックスター物語集」のウィネバゴ物語に、次のようなエピソードが記載されている。
 冒頭にトリックスターが酋長として現れ、戦いに出る準備をしている。しかし、本来ウィネバゴ族では酋長は戦いに出ることはできない。しかも戦いに出る前に男たちは性交が禁じられているのに、彼はテントに入って女と寝ている。その後も彼はボートを壊したり、矢を捨ててしまったりする。こうして彼は一人前の男性としての特徴にいちいち反抗し、インディアンの神聖な戦いを冒涜することばかりしでかす。
 この物語の「酋長」を「将軍」に置き換えれば、バトルドロイドと戦うジャー・ジャー将軍の姿そのものになる。戦うべき存在であるはずの将軍が全く戦わない。他の戦士が真剣に戦う中、ジャー・ジャーはふざけているかのような行動。そして、包囲された時は率先して降伏してしまう。ジャー・ジャーの行為は戦いの冒涜であるが、それこそがトリックスターとしての役回りなのである。

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戦闘をしない
ジャー・ジャー将軍

 「無秩序さ」は、ジャー・ジャー自身の言葉で言い換えると、「不器用さ」である。あちこちでドジや失敗をやらかして、つねに秩序に波風を立てる。しかし結局、彼の「無秩序さ」と「境界の無視」が結果として功を奏し、グンガン族とナブーの和平を仲介するのである。
  それでは、二番目の「狡猾なトリックを使って騙し、されによって自分の欲するものを手に入れようとする性質」というのはどうか。トリックスターは、人を騙し、そして人から騙される性質を有する。しかし、『ファントム・メナス』のジャー・ジャーは、とを騙すことも、人から騙されることもない。
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不器用なジャー・ジャー
むしろ、非常に正直で、何でもすぐに口に出してしまうようなキャラクターなのだ。 スター・ウォーズはシリーズものである。ジャー・ジャーは『エピソードU』にも登場する。すなわち、ジャー・ジャーのトリックスターとしての描写は、新三部作の三作品をもって完結する。そして、『エピソードU』において、この「人を騙し騙される性質」が描かれる可能性が高い。この点を念頭において、是非『エピソードU』を見て欲しいと思う。
 以上のように、一見愚かしい、あるいは腹立たしいジャー・ジャーの行動の一つ一つが、「トリックスター」の性質に基づいていたことがわかる。「トリックスター」は、凝り固まった価値観をつきくずし、その状態をブレイクスルーするプラスの働きを持つ。 凝り固まった価値観とは、「勧善懲悪」であるとか「正義が勝つ」といった価値観である。スター・ウォーズが「勧善懲悪」映画だと思っている人が多いが、それは誤りである。善でも悪でもない「ひとつの調和」を理想点としている。それを表象するのが「共生」という言葉であり、それが実現される世界が「平和」なのである。 ジャー・ジャーの役柄は、嫌われる。なぜなら、我々の多くが当たり前の事実として認識している「勧善懲悪」という価値観を否定してしまっているのだから。
 具体例をあげよう。アメリカのテロ事件に関して、「正義のための報復」が平然とまかり通っていた。「アメリカ=正義」「ビン・ラーディン=悪」といった簡単なレッテル張りの図式を安易に許容する価値観が歴然として存在する。100%の正義も、100%の悪も存在しない、もっといろいろな要素が複雑にからみあっているのが現代社会だろう。どっちが正義で、どっちが悪かといった表面的なレッテル張りにまどわされることなく、アメリカの覇権主義やイスラムの原理主義の、それぞれの功罪をきちんと認識して初めて共生の道が探れる可能性が出てくるのではないか。
 スター・ウォーズは神話である。すなわち、そこには多くの教訓が含まれていることを意味する。しかし、「スター・ウォーズは神話」であることは、聞いたことがある人は多いだろうが、そこにあるメッセージがきちんと人々の心に届いていないのが残念である。 もし届いていれば、「ジャー・ジャーを排除せよ」という批判が飛び出すはずがない。
 「排除」は、スター・ウォーズのテーマ、「共生」と最も反対の概念であるのだから。