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「少年K」/kame


 「少年K:第一章」

 いつからだったろうか。それは定かには覚えていない。気がついた時には、そばにジョンがいた。紅い毛並みの彼女は、優しい眼差しで少年を見ていた。少年の名前は「K」としておこう。彼女はKが生まれる以前から、飼われていた。Kの生き物との最初の出会いは、赤犬から始まった。

 Kの顔には傷跡がある。それはまだ、彼が物心つく前に出来たものだった。その傷について、彼の母は語らなかった。彼女がなくなる前に、それは、事故だったと語ったことにKは、何もいまさらと思ったことだろう。そんなことは分かっていたからだ。でなければ、ジョンと暮らしたはずがないじゃないか。それは彼女への憎しみか、それとも愛だったのか。多分、愛だろう。

 日本がまだ占領されていた時代の最後の年に、Kは生まれた。生まれた家は、住みにくいものだった。彼は、なぜ、この家は傾いているのと聞いた。彼の祖父は、B29のせいだと言った。Kがはじめに覚えたアルファベットは「B」だった。憎いから「29」だと思っていた少年が、それが合衆国の爆撃機の型式番号だと知ったのは、それからかなり後のことだった。街の中にはあちこち、空き地があった。その一つ、ちょっとした丘があった。その丘には「宝」が埋まっているという噂は、Kを含めた少年達の冒険心をかきたてるには十分だった。なぜなら、ほかに刺激などなかったからだ。どこかのおじさんがジュラルミンを掘り出したという噂は、刺激的だった。「あか」よりも高く売れるからだ。

 Kの父は「あか」だった。父の書棚には「共産党宣言」があった。少年には、その本がなにを書いているのか解らなかった。読めるはずもないのだから。漢字だらけのその本は、しかし、少年の父への尊敬の源泉であったのは確かなことだった。Kの父はガラス工だった。板ガラスを作る工場で働いていた。Kの祖父は製鉄所を辞めて、山の畑で農業をしていた。その畑でとれたものをKの祖母がリヤカーに積んで売り歩いていた。勿論違法であった。Kは警官への見張りなどして、祖母から5円10円と小遣いをもらっていた。そうして稼いだ小銭をピースの缶にためては、デパートにいってブリキのおもちゃを買っていたのだ。大体600円くらいしたおもちゃを買うには3ヶ月はかかった。その3ヶ月がKの楽しみの時間でもあったのだ。働く喜びの前に「金」の大事さをしったのだろうか。そうではなかったということは、後にわかるのだが、小銭を100円札と両替しては、ほくそ笑むKの姿がそこにあったのは確かなことだ。

 Kの母は病弱だった。一生病院とは縁が切れなかった。それでも足りない生活費を補うために、内職をしていた。着物を縫ったり、洋服を作ったり、またなんだかわけのわからない金属の部品を組み立てていた。Kはよく母親の仕事場で遊んでいた。そう紫陽花の葉に”でんでん虫”を見つけては、その動きを眺めているのが好きな少年だった。Kの母親については、別に語ろう。

 Kには叔父が二人いた。下の叔父はKからみれば兄のようだった。実際、Kが小学校にあがる頃、叔父は中学生だったからだ。叔父の片方の耳は使えなかった。祖父の話では、例のB29にやられたとのことだった。防空壕に逃げたのだが、至近弾が爆発して、その音で耳をやられたのだった。「お宝」は、とても危険なやつだったのだ。Kには思いがある。それは、この二人の叔父を探し出すことだった。だか、もはや消息の手がかりさえない。どこで生きているのか、あちらへいってしまったものやら。上の叔父の結婚式は、Kが参加した始めての結婚式だった。K自身は結婚の意味は分かっていなかったが、それは今でもきっとそうなんだろうか。Kが独身なのは、病気のせいだけではない。それはこのときからはじまっている。まもなく叔父夫婦は離婚した。2人の従兄弟を残して叔父は消えた。従兄弟の一人は京都へ行くといったが、消息はわからない。Kが京都に行くのは、友に会うためだけじゃないのは確かなようだ。



 Kが学校というか毎日通わねばならないところに行かされるまでは、時間というものは朝日が昇ってから夕日が沈むまでのことだった。時間はたっぷりとあった。

 Kは、街歩きがすきだったが、よく祖父の畑にも遊びにいっていた。畑からみる街の景色は素敵などというものではなかったが、他に街を知らないのだから、これがK少年が知る世界の全てだったのだ。世界の隅々まで探検せずにはいられなかった。街の海岸には工場群が立ち並び、色とりどりの煙りを吐いていた。空は、その煙りが混ざりあい、不思議な雰囲気をかもしていた。その空気はよごれてひどいものだったが、山の畑に昇ってくれば、深呼吸だって「うまい」のだった。海の向こうにはなにがあるんだろうかと思った少年は、祖父に尋ねるのだった。

 「じいちゃん、あん海ん先に、なんがある」
 「朝鮮、満州、支那、ロシア」とトウキビ(とうもろこし)をもぎる手を休めて、祖父は答えた。
 「それなん?。アメリカはどこ?」と少年はさらに聞いた。
 「アメリカはこっからじゃ、見えん」「くうか?」といって、トマトをもいで、少年に渡した。
 「うりもん、くうたら、ばあちゃんにおこられっど」と言いつつも、急いで口に運ぶ。目の前にはもぐらがつくったトンネルが盛り上がっていた。もぐらを追い掛けるのは面白いものだった。祖父はホースを持ってきて、トンネルの穴から水を流す。Kは水の流れを見ながら、もぐらを追い掛けまわすのだった。
 「おらっ、ぶっ殺した」とKは、棒切れを思いきりトンネルの盛り上がったところに叩き付けた。うきうきして掘り返してみると、それは薩摩藷(さつまいも)だった。
 「なん、芋か」とがっかりして、汗を拭っていると、祖母が山羊の乳を持ってきていた。
 「乳、飲め」「汗、引いたら、下いって、茗荷ぬいてき。トマト代、働かんと。」トマト泥棒はばれていたのだった。
 「だあけ、かたしておけ、いうたじゃろ」と祖父が少年の足下のトマトのヘタを見ながら、笑っていた。

 茗荷は畑を下っていった沢にある小さな泉の岸辺に植わっていた。そこは夏でも涼しいので、少年には憩いの場所だった。泉には色々な生き物が群がってくる。それらを見ているのも、いじくるのも好きだった。祖母がつくる素麺は、この泉の茗荷がたっぷりと入っているのであった。でもKは、『茗荷は味噌汁が一番』と思っていた。
 『まだ、水瓜は熟れてないだろうなあ』などと考えているうちに昼寝をしてしまうのが、少年には最高の贅沢のように思われた。足を泉にひたして、ぴちゃぴちゃさせるのも気持ちがよかった。

 「あ、飛行機っ」

 Kは、突然、嬌声をあげた。父から聞いていた、そいつの正体は、進駐軍のジェット機だった。街にはカーキ色の兵隊が沢山いた。少年は知っていた。あれのすべてが香椎(*)に帰ってこないだろうことを。銀色に光る、それは三角翼で、どんどん空の高みに昇っていき、やがてキラリと光って消えた。『明日は、街のおねいさんところに遊びにいこう』そうKは思った。



 K少年の家は崖地にへばりつくように建っていた。家の上の道が国道になっていたので、崖崩れはしばしばあった。ある年の梅雨のころ、大雨が降って、崖が家を半壊させた。祖母は、あいにく壊れた台所にいた。家中でがらくたをかたずけたが、祖母は見当たらなかった。諦めかけていた時、祖母は風呂桶のふたを開けて這い出てきた。あの『トマト代を体で払わせる』ような祖母が簡単にくたばるはずはなかった。

 崖には何軒も家が建っていた。坂を下っていくと、そこは日本ではなかった。いや、正確には日本的ではなかったといったほうがいい。坂の正面には被差別部落民が住んでいた。そこの子供とK少年は仲が良かったが、少年の姉は、喧嘩ばかりしていた。「よつ」といっては、手で『4』を作って見せるのだった。それが差別だとは知らなかった。父は、被差別部落民の親分を知っていて、その親分の家はまるで御殿だといっていた。その通りには、朝鮮人が沢山住んでいた。中国人もいた。いつも匂いがたちこめていて、それはうまそうな肉の匂いだったが、中国人が日本人であるK少年を見つけては、「勝った方ね、そちら負けた。」といわれるのが面倒だった。そんな中に船乗りの家があった。いつも父がいないといって、そこの子供は淋しいおもいをしていた。Kは、彼から異国の話を聞いたり、珍しいお土産を見せてもらうのが楽しみだった。通りの外れがまた坂になって下っていく。その坂を見下ろすように立派な石組みの土台にのった家があった。近所でも評判の金持ちの家だった。その家の子供は病弱で、Kはいつもかばってやっていたので、家の前を降りていく時、家人から声をかけられることが多かった。辞退なんどという言葉は子供の辞書にはない。あがっていけという。

 「わあ、機関車だ」Kは初めてみる鉄道模型に驚嘆していた。
 「父さんが、買ってくれた」と少年は明るく言った。

 暫く、鉄道模型で遊んでいると、少年の母親がカステラを持ってきてくれて、紅茶までふるまってくれる。Kは思った。『本家とえらい違いだ』と。Kの親戚については別に語ろう。Kははやく先にいきたかったので、カステラをいただくと、その家を出て、再び坂を降りていった。目的の一つがそこにあった。警官の姿にびくっとしながらもそこに入っていった。

 「よう、けんちゃん、散髪?散歩?」と床屋の親父。
 「散歩、のらくろ見ていい?」とK少年は待ち合いの棚を物色している。
 「ああ、いいよ、しるしつけんなあ」

 Kは前に読んだ『のらくろ』のマンガの続きをさがしだしてきて、読みはじめた。読むというより、見るが正解だろう。まだあまり文字は読めていない。そこには豚の中国兵を攻撃している勇ましい『のらくろ』上等兵の姿があった。おおかた読み終えると、床屋の親父に気付かれないように『しるし』をつけて、「また、くる」と出ていった。床屋を出ると、街並は、繁華街に入る。商店、市場、のみ屋、映画街、デパート、病院、電車通り。その先が工場群だった。K少年は、電車にのって小倉によく遊びにいっていた。幼児は只だから、ひょいとのっかってしまえば、おりる時、車掌から怪しまれないように、適当な家族の後に付いていけばいいだけだった。西鉄は小倉や黒崎までのびていた。黒崎には叔母が住んでいた。

 馴染みのカステラ屋の横を抜けると、色街だった。『青線』といった。父は賞与をもらうと、ここへ来ては遊んでいた。だから、少年にとってもここはよく知っていたのだった。そんな店の中に外人相手のバーがあった。『街のおねいさん』はその店で働いているのだった。昼間は暇だから、ぶらぶらしている彼女達だった。K少年は、にっこり笑った。おねいさんたちもタバコをふかしながら、笑顔で迎えてくれた。Kは、おねいさんたちの話が好きだった。アメリカの事やアメリカ人や戦争の話をしてくれた。米兵がくれたお菓子をわけてもらうのも楽しみの一つだった。香水やら化粧の匂いに混じって、女の甘い匂いに包まれていると、幸せな気分だった。彼女たちがどんな悲惨な過去をもっていたかなどということは、考えもしていなかった。Kを膝に乗せてくれるおねいさんがいた。Kは彼女が一番好きだった。あたたかいそれは、Kをやさしく包んだ。母はけっしてこんなことはしてくれなかった。なぜ、彼女たちがK少年をやさしくもてなしたのか、今以て不思議である。

 いつのまにか眠りこんでしまっていたK少年を目覚めさせたのは、黒人兵の声だった。「けんちゃん、またき」と言って、おねいさんたちはお店の中に消えていった。彼女達は母よりも年をとったものが多かった。少年は夢からさめて、また歩き出した。そこから近くの映画街の看板を見ていた。洋画と邦画がかかっている。封切りじゃないけど、そのけばけばしい看板に、わけの解らない文字。Kの親達は映画が好きで、よくつれていってくれた。たいていは、西部劇で、なぜインデアンが反抗的で、最後は皆殺しにされるのかが解らなかった。

 「う〜〜〜」とサイレンがなった。工場の終業を知らせるそれが、少年Kには、切なく聞こえてきた。少年は来た道を引き返していた。坂を登る途中で、海を見た。灰色の海の向こうは、かすんで何も見えなかった。闇米屋のおじさんが「けんちゃん、さんぽ?」と声をかけていくだけだった。(第一章終わり)


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* 香椎(かしい):香椎飛行場 旧帝国陸軍飛行場を、占領軍が接収、米軍の対朝鮮の前線基地になっていた。司令部は小倉(*)にあった。K少年の父には、小倉で米兵に時計を取られて、MPに訴え、取り戻したという武勇伝がある。父の後ろに見えたソビエトの影をK少年は、まだ知らず、「すごい」とおもっていたふしがある。
* 小倉(こくら):北九州の都市 現在は合併されて北九州市の一翼をになっている。K少年の父は、ここの生まれ育ちであった。昔から軍事的要点で、争奪が繰り広げられた。大東亜戦争終盤に、米軍は原爆投下目標にいれていた。当日、小倉上空は曇天だったため、予備予定地の長崎に変更された。


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*サロン「明子」会員以外の者は、このページの文書及び画像音声の転載使用を禁じます。(1999.6.11) kame's Home Page