プッチーニ オペラ 「トゥーランドット」 初演100周年に寄せて
〜浜松のピアノ産業繁栄の源流は師弟愛によって築かれた〜 三浦広彦 2026年4月26日
*静岡大学
「ピアノとウェルビーイング研究」の原稿ですが、内容が素晴らしいので、当siteでも掲載することにしました(各関係者了承済み)。
今年の正月、NHKニューイヤーオペラコンサートでは「トゥーランドット」の初演から100年を記念した企画が放映された。また2月に行われたミラノ・コルティナ五輪をはじめ、近年のフィギュアスケートの競技では「トゥーランドット」で歌われるアリア《誰も寝てはならぬ》が度々使用されている。特に日本人の脳裏に強く残るのは2006年トリノ五輪での荒川静香の演技に使用されたものではないだろうか。トリノはプッチーニの名作「ラ・ボエーム」が1896年に初演された地であり、ミラノは「トゥーランドット」が1926年に初演された地である。こういうこともあり、一般にも大変お馴染みとなった《誰も寝てはならぬ》の旋律であるが、寝てはならないのは一体誰なのか、またこれは誰の発言なのか、といった意味はあまり理解されないままよく流されているように感じる。しかし名曲を楽しむときにそのようなことはどうでも良いことのようにも思うが、ここで簡単に説明しておくと、歌っているテノール役から求婚された残酷な心を持つトゥーランドット姫が民衆に対して発したお触れが「誰も寝てはならぬ」であり、テノール歌手演じる他国の王子の名前を突き止めるまで民衆は不眠で調査しなさいと命じているわけである。しかし、それに動じない勇敢な王子は愛による勝利を信じて歌の最後に〽ヴィンチェーロー(私は勝つ)と高らかに歌うため、金メダルソングとして相応しく、度々使用されているものだと筆者は推測する。従って、正確な歌詞のニュアンスは「誰も寝てはならぬ....とか、皆言ってるけどね」といった感じである。この曲の最高音はシ(ドイツ語でH、英語でB、ピアノの鍵盤なら下から51番目の496Hzくらい)でテノール歌手としては大変勇気のいる難度の高い高音の発声である。因みにトリノ五輪では開会式において名テノール歌手、パヴァロッティ(1935-2007)がこの曲を歌ったため、きっと荒川選手陣営ではこの選曲に大きな追い風を感じたのではないだろうか。さらに、これは余計な情報かもしれないが、この時パヴァロッティは立っているのも難しいくらいの体調であり、若い頃には難なく出せた最高音も安全策をとってシではなくシ♭(ドイツ語でB、英語でB♭、同様に50番目の468Hzくらい)になるよう、半音低く移調して演奏されていたのである。ただし、テノールの大家によるコンサートにおいては、これはよく取られる方法である。
さてこのオペラはプッチーニ(1858-1924)最後の作品となったものだが、完全に書き終えることなくマエストロは1924年11月29日に咽頭がんで生涯を閉じた。初演に向けては楽譜出版のリコルディ社と指揮者のトスカニーニ(1867-1957)、そしてプッチーニの息子アントニオ(1886-1946)が協議を重ねたものの、それぞれの思惑は一致せず、遺族代表の推薦による作曲家アルファーノ(1875-1954)によって補筆されプッチーニの死から1年半後にスカラ座でトスカニーニの指揮によって初演されることになった。ちなみにミラノ・コルティナ五輪の競技で流れていた音楽にはプッチーニ作曲の、というよりアルファーノ編曲部分と言った方が正確ではないかと思われるものもあった。そういう意味においてはトリノで荒川静香が使用した音楽はプッチーニが作曲した『トゥーランドット』が比較的正確に(歌唱はなくして)ハイライトのように流れていたことがオペラファンの一人としても安心できるものであった。
そしてイタリアでプッチーニの大作が初演されようとしていた大正時代末期、日本経済の状況は深刻で、その流れを受けて日本各地で労働運動が盛んになり、浜松では日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の工場で労働争議がはじまり、後に過激派によって重役の邸宅に爆弾が投げ込まれるなど浜松の街が大荒れになっていくのは1926年4月26日(月)からのことである。再びミラノでの『トゥーランドット』初演のことに話を戻すと、プッチーニが書き残した後の部分を補筆する作曲家はトスカニーニが推薦したサンドナイ(1883-1944)ではなく、遺族の意思によってアルファーノという作曲家に決まり1926年4月25日(日)に初演の初日を迎えることになった。そしてこの日の演奏では王子の命を守るために自害する悲劇のヒロイン、リューが歌う《氷のような姫君の心も》が終わると演奏は突然中断され、初演までのゴタゴタでいろんな想いが募っていた指揮者は「マエストロ・プッチーニはここで筆を断った」と聴衆に告げて上演を打ち切ったのである。そして翌26日(月)二日目の公演から、今日のようにアルファーノの補筆部分も演奏されることになっている。初日の開演時刻について筆者は調べられていないが、日伊の時差を考えると初日の終演から数時間後に浜松では日本楽器の労働争議が始まったということになる。
さてイタリア発祥で現代においては“楽器の王様”と呼ばれる万能な西洋音楽のための楽器ピアノがなぜ日本で最もたくさん作られ、ヤマハ、カワイといった日本のブランドが、そしてほぼ静岡県西部地域のみで生産されてきた日本製のピアノが世界中で信頼されるようになったのかということについて整理してみたい。天竜川河口付近に広がる遠州地方は晴天の日が多く風も強いことから、木材の乾燥には比較的適している気候ではあるものの、特にピアノ生産に必要な種々の材料が集積する土地というわけではなく、特段に地理的な優位性はない。しかし徳川時代から築かれた優れた工業都市という土壌があった上に、すべては山羽寅楠(後に山葉寅楠1851和歌山-1916)の粘り強い奮闘とそれを応援する人たちの情熱の結集によって楽器産業の街としてのスタートが明治20年1887年に切られた。以下は浜松ではよく知られる話である。当時浜松尋常小学校にアメリカ製の高価なオルガンがあったが、これがある日突然、音が出ない箇所があり校長は困惑し、その対処について浜松の名士たちに相談してみた。その中には浜松病院の院長福島豊策(1838佐賀-1903)がいた。すると福島は「うちで働いている寅楠さんなら何とかしてくれるかも」と紹介し、医療機器のメンテナンスの仕事で浜松病院に勤務していた寅楠には人生の大きな転機が訪れるのである。このとき寅楠は既に36歳。紀州藩名門の武家に生まれたものの、実家を出て各地を転々としてうだつの上がらない人生を送っていたが、ここで一気に人生最後の勝負に出ようとしたのが、オルガンの製造であった。預かった学校のオルガンを分解し、直ちにコピーオルガンを試作し、楽器製造の事業を開始するまでの時間はわずか数カ月。これが成功していく要因は寅楠の人間力はもちろんのこと、日本の時代転換の絶好のタイミングであったこと、またよそ者によるとてつもない新規事業を応援した浜松の人たちのおおらかさ、そして快く寅楠の転身を物心両面から応援してくれた同じよそ者の福島院長の支援であった。
幾多の困難を乗り越えながらも寅楠の事業は急成長し、その下には後に寅楠の姪の婿となる山葉直吉(1881-1938)や河合小市(1886-1955)といった飛び切り優秀な弟子たちが育ち、オルガンに続きピアノの製造も開始されていく。また本格的な国産初の山葉ピアノが完成したという1900年1月にはプッチーニのオペラ『トスカ』がローマで初演されている。そして寅楠亡き後も河合小市等が中心となって国産ピアノの製造は軌道に乗っていくのである。ところが、前述のように大正末期から昭和初期にかけての労働運動の波が浜松に及び、日本楽器の工場はその標的となってしまったのである。この間、寅楠の死後日本楽器は二代目の社長として天野千代丸が就任し、寅楠路線を継承して小市等も引き続き重宝されていた。それが『トゥーランドット』初演直後から浜松の街は労働争議で大混乱となり、とてもピアノの製造どころではなくなっていた。どちらかといえば政治的な闘争には関心が薄く、質の良いピアノ作りに命を捧げたい小市にとって、この状況は大変苦痛なものてあった。そして数か月間に及んだこの騒動は、警察上がりの天野の強引な対処によって経営側勝利という形で終息を迎えたものの、社内外から批判の的となった天野は引責辞任し、天野から強く慰留された小市であったが、寅楠、天野のいない会社に残ることより、師匠寅楠と作り上げた自分たちのピアノ作りを自由に継承するために、苦悩の末独立の道を選択したというのが、カワイブランド誕生の真実ではないだろうか。
そして浜松の政財界から乞われて住友電線重役の職を辞して地元企業の再生のために、日本楽器の第三代社長に就任したのが川上嘉市(1885-1964)である。経営の刷新と近代化を謳い嘉市が社長に着任した直後の1927年8月9日(火)に小市自宅近くの龍禅寺の夏祭りに合わせて旗揚げしたのが河合楽器研究所である。またもや歴史のいたずらと言える情報であるが、この日は毎日新聞社が主催する全国都市対抗野球大会第一回大会の決勝戦が明治神宮野球場で行われた日でもある。さらにはこの年の1月にポーランドでショパン国際ピアノコンクールの第一回も開催されオボーリン(1907-1974)が優勝している。ここからかなりの年月を経てからのことではあるが、日本楽器、河合楽器両社が社会人野球とピアノコンクールという違った場でしのぎを削る大会がいずれもベートーヴェン(1770-1827)の没後100年にあたる1927年にスタートしているところも何とも言えぬ因縁である。
このように大正末期から昭和初期に起きた騒動から100年を迎える現在、いやもう既に60年以上もの間、イタリア発祥の万能楽器ピアノの世界最大の、しかもダントツで一番の生産地が何と日本の浜松ならびにその近郊の地域で在り続けていることは我が国の産業史においても特筆すべき事実ではないだろうか。この奇跡のような事実にはいろんな偶然が重なっていることもあるが、やはりそこに命を懸けた人たちの情熱こそが最大の要因であることを強く確信する。最後にここまでに登場してきた人物たちのエピソードから二組の師弟愛に関するとっておきの話を紹介して結びとする。
山葉寅楠は人生最大の恩人として福島豊策を挙げていた。福島が没した翌年の1904年、福島の墓と自分の墓をセットで建立し、一生離れないことを誓っている。そして寅楠が愛情を込めて育てた河合小市は晩年の1953年5月11日に藍綬褒章を授与され、授与式が行われた皇居から翌12日に浜松に汽車で戻ると、社員が待つ浜松駅南の自社に戻るのではなく、真っ先に駅北の寅楠の墓へ直行し父のような存在であった師匠への報告を最優先させたのである。
山葉寅楠の墓
自身によって建立されたのはミラノでオペラ「蝶々夫人」が初演された翌月のこと。
向いには同意匠の福島豊策の墓が建っている。
なお1953年に河合小市が藍綬褒章受章の報告をした当時と現在では場所が異なる。
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